2013年12月09日
絶望
絶望とは,望みの絶えることなのか,望みを絶つことなのか。
ある年齢以降,政治に対する姿勢が変わった,次の時代は次の時代を担う世代が考えるべきだ,その時代を生きていないものが,とやこういうべきではない,と考えるようになった(と,自分に言い訳するようになったというのが正しいか!)。
しかし,あまりにもひどい。
僕ははっきり言って,怒りと絶望感で,この国が嫌になっている。たぶん,僕の若い頃は,この国の未来について,もっと敏感で,もっと過激に反応したはずだ。それでも,梃子でも動かせない,巨大な壁に,無力感に打ちひしがれてきた。しかし,それでもあきらめなかった。しかしいま,その種の無力感ではない無力感,何もしないうちから,気分だけで無力感に陥っているムードが蔓延している。
それにしても,この鈍さはどうだろう。特に多くの若い人の反応が鈍い。むろん,あの日,神戸からわざわざ勤務終了後駆けつけ,結果を聞いてため息をついている人がいたことなど,ツイッターを見る限り,地方から駆け付けた若い人だっていなくはない。だからすべてではない,とは思う。
勇敢なものほど
よくあおざめることができる
隊伍のなかで
最初にあおざめるのは
つねに最前列の
数人だ
まっさおになることは
若いきみたちの
資格だということを
おぼえておくといい
きみたちにはまっさおになる
権利がある(石原吉郎「あおざめる」)
自分が敏感だとは思わない。歳とともに皮膚感覚が鈍磨する。ずいぶん危機感を懐くのが遅くなった。老耄した証だ。それでも,ふいに,やばいと感じた。心底やばいと,身震いするほど,危機を感じた。
ずいぶん遅い。人のことを言えた義理ではない。
しかしこういう問題に若い人が敏感ではないということは,この国の未来に何かを仮託する夢を失っている,もう少し突っ込めば,絶望してしまっている,という証かもしれない。その絶望とは,望みが絶えている,の謂いだ。そのことが,二重に絶望感を募らせる。
あの,かつて感じた,何といっていいのか,やむにやまれぬ衝迫感,いてもたってもいられない焦燥感が,どこにも感じられない。
それは皮膚感覚であり,本能的なものであり,理屈ではない。
引き籠りと,フリーターをふくめると,500万人という数値がある。
日々絶望の中を生きている。望みを絶ち,望みが絶えている若者が,それだけいることに,身震いする。明日という日に何の期待も夢も持てずに眠りにつく(と想像される)人間が,こんなにいる。
いま一世代200万人を切って180万くらいになっている。とすると,二世代半に当たる人口になる。それだけの人間が,おのれの人生を生きるのをやめている。
しかも,それを外から見れば,その多くは,社会保険料を払っていない。ひょっとすると,税も。それは社会の根幹が,根腐れを起こしているということだ。そのことに為政者もほとんど注意を払わない。
アンシャン・レジームもいいだろう。しかし,既に日本は,国としての足元が崩れかけている。そんな回顧趣味よりも優先すべきことはいっぱいある。福島もコントロールできていない。廃棄物も処理できていない。復興も遅れている。故郷も山も荒廃している。しかしそんなこと以上に重視するものがあるから,原発の新設も目指す,武器輸出も目指す,軍隊派遣も拡大する。当然それで利益をえるものに加担しているからに他ならない。
500万人なんぞは,歯牙にもかけない。そういう政治をしているし,そういう政治を国民は選んだ。
かつての戦争は誰かの責任ではなく,一人一人の国民の,わずかな油断と,妥協と,諦めと,黙認と,緘黙と,わずかに高をくくったことが積み重なった結果なのだという深刻な反省のないまま,戦後が蜃気楼のように築き上げられた。その付けをいま払わなければならない。
国の成り立ちという意味でも,次世代の成り立ちという意味でも,二重三重四重に,国の未来を暗くしている。もちろんそう思わない人もいるだろう。それはそちら側での受益者なのだ。
僕はもうそんなに先は長くない。したがって,この法律からどんなものが派生し,どんな不自由が生まれるのかを見届けるゆとりはない。しかし,もし自分に子供がいたら,必死で国会へ出かけただろう。自分の子供の未来について,この国の行末について,本気に心配したろう。しかし…!
本気で絶望し,本気で,嫌気がさしている。
治安維持法をいまさら言い出す気もしない。愛国者法でどれだけの人間が拘束されているか,それはいまも継続中なのだ。がそんなことも,もう今更言い出す気もしない。自由のないところに,本当の経済の活力は生まれない。発想の活力も生まれない。起業の活力も生まれない。しかし,そうではないという人もいるのだろう。お手並みを拝見しよう。
自由について,あまりに鈍感すぎる。
自分探しをしている間に,本当の自分づくりにうつつを抜かしているうちに,肝心の,その自分の生きる自由空間がなくなっていることに気づいても,もう遅い。一体,何を観ているのだろう。内向きで,自分の夢だけを投影した世界しか見えていないのではないかと危惧する。
それは,結果として,保守ということだ。保守ということは,現状になにがしかの既得権益を持っている,ということだ。
自由は,自由について真剣に語るものにその意味が分かっている,とは限らない。本当に何かをこの国でやろうとした時,十重二十重に縛りがかかっていることに初めて気づく。もう実は,十分不自由なのだ。十分情報は秘匿され,ひそかに遺棄されている。
元毎日新聞の西山記者は,一生を賭して戦った。戦わざるをえないように強いられた。日米の密約スクープを下ネタスキャンダルに貶められ,ようやくアメリカの公開された情報で,密約が明らかにされた。しかし,これからは,政治的スクープ自体が処罰の対象になる。すべての記者が,同じシチュエーションに置かれる。その真偽がわかるまでに,60年かかる。
それにしても,60年とはひどすぎる。しかも廃棄の権限もある。そのこともまた秘匿される。
使命や天命を語るなら,この国のあり方について,この国の社会について,きちんと考えないそれは,架空のそれでしかない。場所のない,生はない。その場所が抽象的だったり,心の中だったりというのは,架空の使命でしかない。
最近,コミュニケーションで社会が変わるということを言う人が増えてきた。
コミュニケーションが,通信も含めた幅広い意味ならまだしも,一対一を指しているなら,正直ありえない,と僕は思っている。それは幻想というか,まあ,願望に近い。
五・十五事件で,犬養首相が「まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか」と何度も言ったのに対して,反乱軍の若い将校は,「問答いらぬ。撃て。撃て」と言った。撃たれた直後,まだ犬養首相はしばらく息があり,駆け付けた者に「今の若い者をもう一度呼んで来い,よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言う。
仮に,コミュニケーションで,一対一で広げられたとしても,平面だ,二次元で,水平には広がるかもしれない。しかし,社会や組織と言ったときは,次元が違う。本気で,組織を,社会を変えようとしたことのない人には,それが見えていない。レベルを超えるのはコミュニケーションではない。なぜなら,そこには,アクションが地続きではないからだ。アクションがつながらないことは,現実化できない。
変えるのは,具体的な行動以外ない。
海は
断念において青く
空は
応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である(石原吉郎「耳を」)
いま絶望とは,望みを絶つことに近い。
しかし,だ。
絶望なんかしてられない。それは諦めることだからだ。
諦めてなんかいられない。それは自分を見捨てることだからだ。
自分を見捨ててたまるか,それは自分を殺すことだからだ。
まだまだしぶとく,生きる。生きるとは,抗うことだ,自分を縛るものと戦うことだからだ。
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