2014年02月05日

みっともない



日本国憲法前文は言う。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

安倍氏は,これを,みっともない,いじましいと言った。そして目指しているのが,どうやら戦前らしいが,しかも,秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)を制定し,教育勅語を復活しようとしているところから見ると,,大日本帝国憲法へと戻ろうとしているように見える。しかし今上天皇は,明確な意思として,現行憲法を尊んでおられる。だから,戦前には戻れないが,戦前のような強大武力の国家にしたいらしい。まるで,北朝鮮の目指す強盛国家のようだ。

しかしその陰で北朝鮮では,数万から十万の餓死者が出て,人肉食騒動まで起きている。同様に日本は貧困率二位で,六人に一人の子供が貧困にあえいでいる。所得が国民の「平均値」の半分に満たない人の割合が高い,つまり貧富の差が広がっている。

因みに,みっともない,とは,

外聞が悪い,体裁が悪い,見苦しい,

を意味する。語源的には,

「見たくもなし」

が音便化しいて「見とうもなし」となり,「見とうもない」「見っともない」と変わったとされる。本来は,見たくない,の意味であり,それが見たくもないほど見苦しい,と変じてきた,とされる。

見苦しさは,どこから来るか。

ひとつは,自分の価値に反するから,

いまひとつは,GHQの監督下で,(無理やり?)民主化されたことが気にいらない,

ということだろう。しかし,それが自分の価値に反していなければ,そうは言わないから,主要な理由は,自分の価値に反する,というところにあるのだろう。

僕には,

大人げない,

というか

女々しい

というか,

覚悟が足りない,

というか,要は,負けていやいや呑んだが,本当はこんな国家にも,こんな国のあり方にも不満でしょうがないと言っているようにしか聞こえない。忘れているらしいが,(仮にそれを押し付けられたのだとしても)それを呑んだ,ということは,その瞬間,「諾」だったということを表明したことだ。その自分を忘れている。だから,本気で,

国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する

国にしようと思ったこともないし,

恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい

とも願ったこともないのだということが,ようやく露骨になってきた。

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう

と決意したことなどないのだろう。

ほとんど戦後とともに生きてきた僕には,それこそが,

みっともない,

の一語に尽きる。というか,

女々しい,

と言ってはばからない。

もし,本気でそうしたくないなら,そのとき,徹頭徹尾論議し,GHQと戦えばよい。しかし,そんなことをしないで,ただ弱気をくじき強気にへつらう根性だったから,とりあえず,面従腹背したが,

そろそろ機が来た,

とこうべをもたげてくる,その根性こそが,

いやしく,

みっともない。

だから覚悟がないというのだ。一旦受け入れたとき,本当は嫌でしたが,強権が怖くてなどとどの面さげていうのか。その根性の下劣さにはへどが出る。

そのくせ,人には文武両道を言う。しかし,文武両道の本質は,横井小楠が,「文武一途の説」で,こう言い切っている。

徳性に基づき原理に従って正しく導くのが文の道であり、その心を治め、胆を練り、その清華を武伎や政で試して見るのが武である。伎芸に従って心を治めるのと、心が充実しているのを武伎で試すのとは正反対であるとわきまえねばならない。武伎なしで上手ぶるのは論外だけけれども、武士は武芸で体を強くするというのはよくない。躰を強くしたいのであれば、漁師、樵、農夫が勝っている。ただ躰をきたえるだけなら、漁をし狩をした方が道場の修業よりましだ。士道をわきまえぬなら、農夫より劣っている。侍に値しないのだ。士農工商といえども、いやしくも道を学ぶものは皆士である。士にして家職にあるものは士というべきだ。家職を卑しいとして勉めないのは、恥ずべきことだ,

と。士とは心映えをさす。士とは武ではない。まして軍ではない。士心を持たぬものが,やたらサムライを言い立て,ひとをけしかける。よく見ておくといい。そういう人は,ほとんど自分は矢面には立たない。

この手の猛虎馮河の類には,つける薬はない。

総じて,この手の人は,強者にはペコペコする。もしそういう気があるなら,断固としてアメリカとの間で地位協定を交渉する機会はいくらでもあっただろう。あれだけ中国に対して,韓国にたいて強気の連中が,対アメリカには弱腰になり,そのことを咎めもしない。よほど,

うちなーんちゅ

の方が男気があり,男伊達である。



今日のアイデア;
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#日本国憲法前文
#大日本帝国憲法
#横井小楠
#文武両道
#文武一途の説

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2014年02月19日

いま・ここ


ここでいう,

いま・ここ

は,カウンセリングやコーチングのセッションという閉ざされた場でのそれではない。おのれが生きている,この一瞬一瞬のいまであり,ここのことだ。

心理や内面のやり取りという抽象的な疑似空間は現実ではない。ともすると,内に向いてしまって,現実が見えなくなっていないか。そういう危惧がある。

純粋の会話は成り立たない。言葉は,その人の現実を反映し,価値を反映している。

マンガチックに言うなら,例えば,国が亡びんとしている風前のともしびの中,儒者が,最期の皇帝に,皇帝としていかにあるべきか,を講じている図に近いことはないか。

その意味で,会話自体が,時代という状況の文脈に依存している。そのことを忘れれば,温室の会話になる。

では,どれだけいまここに,生きているのだろう。毎日は,何もしなくても過ぎていく。自分が何もしないからといって,世の中が何もしないのではない。実感としては,日々,世の中が,息苦しく,閉塞感が強まっているように思えてならない。

それは,ひとりひとりがバラバラに,自己責任という名のもとに,個々に閉じ込められ,個々の感性・知性で測れるだけしか世の中の流れが汲み取れなくなっているからに違いない。

人は,ひとりで自己完結して情報を受け止めてはいけない,というのが,原則だ。

だが,そう言いながら,一体誰と,どう,ざっくばらんにキャッチボールできるだろう。そういう場が,失われつつあるように思えてならない。杞憂だろうか。

いま・ここは,過去からの時代の流れを背負い,いまがあり,ここがある。いま,ここでどうするかで,未来が決まる。

その意味で,いまの一瞬一瞬に注意を払い,集中力をもって見届けているだろうか。

なんとなく,惰性に流していないだろうか。

昨日と同じように,今日が過ぎてはいかない,過ごさせてはいけない,そんな僅かな違いに着目しているだろうか。些細だからと,そんなサインを見落としてはいないだろうか。

後から振り返って,ああ,あれが通過点だという,ティッピングポイント(それを過ぎたら後戻りの効かない時点)を見落としてしまっていないだろうか。

僕はまあ,老い先短いが,しかし,だから,責任があるのではないか。

あの時,あれを見逃したために,こうなったのか,という悔いは,後からくるものに,はコントロールできない不可抗力になる。しかし,いまを生きているわれわれには,まだわずかながら,何とか出来る,かすかな希望がある。それがたとえ,わずかでも,諦めたら,終りだ。

いまの一瞬一瞬の見落としが,妥協が,怠慢が,気の緩みが,未来を歪める。未来に影を落とす。そう考えて,一瞬の,いま・ここを生きなければ,後から来る人々に,未来を託せはしない。

未来に,自分が投企する。自分(たち)にある,わずかな可能性を開き,着地させ,実現していかなくてはならない。

投企とは,

自己の存在の可能性を未来に向かって投げ企てること,

を言うらしい。常に,自分の可能性が,未来に開かれている,という意味らしい。

ならば,まだまだ,諦めてなんかいられない,

投げ出してなんかいられない,

やけになるにはまだ早い。まだ時間が終わったわけではないのだ。未来は,まだ,少なくとも,いま・ここの一瞬先にも,開いているのだから。

自分にとっても,

友人にとっても,

仲間にとっても,

われわれ日本人にとっても,

すべての一人一人が,

死ぬまで可能性の中にある,

を少しもじれば,

自分の可能性を,未来へ投げることは,自分に関わる人の可能性も,一緒に未来へ投げることになるのではないか。自分を諦めないことが,結果として,未来を諦めないことにつながる,

少なくとも,そう信じることにしたい。

いま・ここでは。


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2014年09月07日

荒廃


國破れて 山河在り
城春にして 草木深し

という。本当にそうか。最近の広島の土石流は,ダムに頼って,間伐を怠った附けだと,ドイツから指摘されるありさまである。

不意に思い出す。鶴田浩二の「傷だらけの人生」(1970年)という歌を(ちょっと古い?)。

冒頭の科白の部分。。。。

「古い奴だとお思いでしょうが,古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題,今の世の中,右も左も真暗闇じゃござんせんか。」

である。小沢一郎が,かつて,これを何気なく口ずさんでいたと聞いたことがある。ここにある,

生まれた土地は荒れ放題

なのである。この歌ができて45年近くたったが,それがいま正鵠を射ていることが恐ろしい。

道路をつくり,新幹線を通し,ダムをつくり,堤防をつくり,防波堤をつくって,さてはて,結局土建屋は一時的に儲かったかもしれないが,失対事業と同じで,あらたな価値を生み出したとは思えない。その結果として,ますます都市部へ人が流れ,地方は,シャッター街と朽ちかけた家が並ぶ。地方の在来線に乗ればわかる。もはや,山河すら,ほったらかされて,荒れ果てようとしている。象徴的なのは,

里山の崩壊

である。それは,田畑と自然の共生する地域社会の象徴でもある。その崩壊は,必然的に社(やしろ)を荒廃させる。

社稷は国の概念より大きい,

といわれる。社稷とは,

社者,土地之主
稷者,五穀之長

という。

社は,

示(祭壇)+土

土は,

地上に土をもった姿,またその土地の代表的な木を,土地のかたしろとして立てたさま,

という。で,社は,

土地の生産力をまつる土地神の祭り,地中に充実した物を外に吐き出す土地の生産力を崇めること

という。

稷は,

禾(穀物)+田+人+夂(あし)

で,人が畑を足で踏んで耕すことを示す,

という,つまり,

土地の神とそこから収穫される穀物の神,あわせて国の守り神

であり,まあ,社稷は,

土地とそこから収穫される作物が国家の基礎

のはずの,その土地が,山河が,風土が,人心が,荒れて荒んでいる。国破れて,山河もないのである。

社(やしろ)の荒廃は,人心の荒廃である。人心の荒廃は,地域の荒廃である。地域の荒廃は,社会の消滅である。それは,社稷そのものの衰滅である。社稷が崩壊して,国が成り立つわけはない。

コンクリートで固め,囲い,ほじくりかえした山河は,到底,自然には太刀打ちできず,いたずらに,無駄なお金が山河に吸い込まれていっただけだ。

思い過ごしだろうか。地方都市へ行かなくても,都心でも,駅前はシャッター通り,真昼間,閑散として人気がない。ちょっと郊外に出ると,限界集落ではない,消滅集落が一杯点在する。そして,鉄道からも,朽ちかけた家屋と,ほったらかされ(村ごとに土地の神と五穀の神を祀っていたはずの),荒廃した社が見える。杜(やしろ)の荒廃は,その土地の人々の生活の荒廃であり,心の荒廃である。つまり,地域社会の崩壊である。

いまもじゃぶじゃぶと,土木工事に膨大なお金を投入しつづけている。一見お金が動き景気がよくなっているように見える。しかし何も付加価値を生まず,税金(借金)を投入しているだけだ。次への展望も希望もない投資になっている。膨らむのは,借金と絶望だけである。地方の人すらいう,

もう道路と橋はいい,

と。それでもまだ続ける。

考えれば,この手で,戦後一貫して,自民党政権は,この国を荒廃させてきたのではなかったか。ダムをつくり(その耐震性が問題らしい),堤防をつくり,防波堤をつくり,山を開削し,トンネルを穿ち,道を蜿蜒作り続け,それに群がるようにしてきた蟻の群れがいる。

いまもそうに違いないが,政治家の,あるいはその私設,公設議員秘書のところに,有象無象が陸続と群がりきたって,何かいい儲け話はないかとたむろしているはずだ。しかし,その政治家も,蟻どもも,この国の未来のありようにも,この国の子供たちの未来にも,向き合おうとはしていない。現実に向き合わない輩に,この荒廃が,人の荒廃,社会の荒廃,家族の荒廃,社(やしろ)の荒廃が見えるはずはない。目をつむったものに,責任をとるなどという発想があるはずはない。

だから,一転,

戦後は間違っていた,

と,その政治体制を戦前へ回帰させようとしている。では,自分たちのやってきた69年はなんだったのか。ただ国土と人心を荒廃させたこの政治はなんだったのか。

そんなことはしっちゃあいない。だって,責任を取った政治家も,要人も,官僚も,(東京裁判を除いて)一人だに見たことはない。

しかし,もはや,肝心の山河は荒廃し,社も朽ち,家も潰え,人も果て,われわれの未来に,帰るべき場所はない。

大袈裟だろうか。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)



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