2020年04月06日
日本人の食生活
渡辺実『日本食生活史』を読む。
類書が少ないせいか、随分前(1964年)に上梓された本だが、新装版が出ている。本書は、「我が国の食生活史の時代変遷」を、以下のように、「便宜上区分して」、
自然物雑食時代(日本文化発生-紀元前後) 先土器・縄文時代
主食・副食分離時代(紀元前後-七世紀) 弥生・古墳・飛鳥時代
唐風食模倣時代(八世紀-一二世紀) 奈良・平安朝時代
貴族食と庶民食の分離 奈良時代
型にはまった食生活 平安時代
和食発達時代(一三世紀-一六世紀) 鎌倉・室町時代
簡素な食生活 鎌倉時代
禅風食の普及 室町時代
和食完成時代(一七世紀-一八世紀) 安土・江戸時代
南蛮・シナ風の集成 安土・桃山時代
日本料理の完成 江戸時代
和洋食混同時代(一九世紀-現在) 明治・大正・昭和の時代
欧米食風の移入 明治・大正時代
現代の食事 昭和時代
ほぼ一万年にわたる日本の食生活史である。
まず、先土器・縄文時代は、
「何千年にもわたる時代であって、北方系・南方系の両文化がわが列島においてたくみに混合調和している。…この時代は狩猟生活が中心であり、漁撈も行われ、自然物採集」
の時代である。
「日本語と同系統のものは琉球語だけである…。そして日本語がアルタイ諸言語や朝鮮語と同系であるとしても、それと分離したのは六・七千年より古いことであって、そのような太古に日本人の祖先が国土に渡り来たり、この国土で独自の発達をとげたものであると考えられる…。(中略)このように日本民族は単一の人種系統に属するものではなく、石器時代において多くの種族が渡来し混血が行われ、そこに南北両系統の文化が混合し、その後の歴史時代に入っても異質文化をたえず摂取してこれと同化した」
という特質は、ある意味、これ以降の日本の文化すべてに言える、今日まで蜿蜒と続く特色となる。
弥生・古墳・飛鳥時代は、
「金属器と稲作農業の登場によって、農耕が主な生業となり、食生活が安定し、そこに富の蓄積が始まり貧富の差を生じ、貴族と農奴階級が分離して氏族制度が完成する。特に朝鮮半島から仏教・儒教とともに種々の文化が輸入され、食生活も半島のそれを上流階級が模倣し、輸入した時代」
である。特に、紀元前三世紀ごろの、稲作のもたらした衝撃は、
日本史上のいかなる変革にも劣らぬ深刻なもの、
であった。
まず北九州の海岸地帯にはじまり、紀元前一世紀には近畿地方に入り、紀元三世紀の終わりごろには関東地方にもおよび、やがて縄文文化は消滅した、
と。
奈良・平安時代は、
隋や唐と正式に国交がひらかれ、その影響がいよいよこの時代にわが国の文化の様相にいちじるしく洗われる時代、
である。
「貴族階級は奢侈的な唐様食を取り入れることに熱心であった。庶民階級は……貧窮生活者が多く、食生活も粗食であった」
とあるが、孝徳天皇のころ、牛乳が登場し、天智天皇の頃には、官営の牧場をおいて、牛を飼育し、管理する乳戸が置かれ、煮詰めた「酪」(ヨーグルトの類)や「蘇」(バターとチーズをまぜたようなもの)があり、奈良時代、
毎年全国から蘇が朝廷に貢として送られ、乳戸からは毎日新鮮な牛乳がおさめられた、
という。平安時代になると、九世紀末以降遣唐使が廃止され、模倣から独自の文化になっていくが、
「貴族の生活は先規洗例を尊重し、故実と称して旧慣を反復する形にはまった形態となった。彼等の食膳は調味や栄養よりも、盛り合わせの美を尊重する、いわゆる見る料理を育成することになった」
とある。この形式的なものが、
日本食の性格を後世まで規制する源泉、
となったらしい。
鎌倉時代は、
「武士階級…の活動の原動力となったのは、簡素な食風ではあるが、玄米食と獣肉を自由に摂取し、その上に精進料理を加えた食生活であり」
そこに、
和食の完成、
の第一歩を踏み出し、和食発達の素地をつくった、
とされる。
室町時代は、
「喫茶を中心とする食文化が日常化され、末期になると西欧食品・砂糖が移入される。中国からは饅頭・豆腐が輸入され、味噌・醤油の調味料もでき」、
日本風の食品や食生活が発生・発展する、
時代となる。この時期、農業技術の改善・農作物の改良などによって、生産が向上、米のみならず、雑穀、野菜類も豊富になり、この時期、牛蒡・蕗・名荷・芋・胡瓜・里芋・山いもの他、
西瓜、
まくわ瓜、
葡萄、
蜜柑、
なども地方の名産品として現れてきた。この時期の特質は、
食事作法、
について、伊勢流、小笠原流などの流儀ができ、たとえば、飯の食べ方にまで、
「左先を一箸、右を一箸、向を一箸、三箸を一口に入て食ふ也、我が所にて向左右と喰ふ也」
といった具合(今川大雙紙)である。宴席についても、
式三献、
七五三膳・五五三膳・五三三膳、
といった、今日の会席料理や三々九度、駆けつけ三杯に残る作法が形式化された。
安土・桃山時代は、
てんぷら、
蒸留酒、
コンペイトウ、
カステラ、
ビスケット、
等々
中国・朝鮮・東南アジアおよび南蛮から作物・食品・調理法が輸入され、これが集大成されて、
江戸時代の和食完成、
の実現に至ることになる。そして、圧巻は、江戸時代である。
「町人が経済的に勢力を得るに至ったので、武士と町人との両階級の嗜好を入れた食生活が形成される。さらに、新たにシナ風・西欧風のものがとりいれられたために、元禄・化政期には」、
和食、
が完成することになる。
「食事回数の三回は上下の階級に普及し、菜食を主とし、獣食をしりぞけ、魚肉が重視され、精細な味覚と美しい食膳や、精進料理が尊重される」、
日本式の食生活、
が完成する。
居酒屋、
飯屋、
をはじめとする飲食店が出現し、江戸では、
屋台店、
も繁盛、今日の、
鮨屋、
うどん屋、
蕎麦屋、
等々はこの時期から始まる。江戸時代に出来た食生活、飲食店は、ほとんど今日につながっているのを強く印象付けられる。
さて、明治以降洋風化が浸透するが、現代で面白いのは、
学校給食、
である。学校給食は、
明治二十二年十月に山形県鶴岡市の市立忠愛小学校で、仏教の慈善団体によって実施されたのが最初である。当時は貧困児童に対し就学奨励の意味から行われたものである、
それが全国に広まり、昭和七年には、國が直接学校給食を援助することをはじめ、
当時経済不況によって欠食児童が多くなり、これらの児童の体力低下を防ぎ就学を奨励するために実施された、
ものであり、十六年からは、
身体虚弱児・栄養不良児等に対して栄養を補給する目的から学校給食を開始した、
が、戦争で中断、戦後全校全生徒対象に改められ、今日に至っている。皮肉なことに、今日、その給食が唯一の栄養補給とする生徒が少なからずいる、という。日本は本当に豊かになったのであろうか。
参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年06月15日
したたる
「したたる」は、
滴る、瀝る、
等々と当てる。「しずく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475606337.html?1592072466)で触れたように、「滴」(漢音テキ、呉音チャク)は、
会意兼形声。啇は、啻(一つにまとまる)の変形した字。滴はもと「水+音符啇(テキ)」。しずくはひと所に水が集まり、たまったときぽとりと垂れる。ひと所にまとまる意を含んだ言葉である、
とある(漢字源)。「したたる」「ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる」意である。「瀝」(漢音レキ、呉音リャク)は、
会意兼形声。歴の上部はもと「厂(やね)+禾(いね)二つ」の会意文字で、稲をつらねて納屋にならべたさま。歴は、それに止(足)を加え、つぎつぎとつづいて各地を歩くこと。いずれもじゅずつなぎに続く意を含む。瀝は「水+音符歴」で、水のしずくがじゅずつなぎに続いて垂れること、
とある(仝上)。「したたる」「しずくが続いて垂れる」意である。同じく、「しずく」の意をもつ、「零」(漢音レイ、呉音リョウ)、「涓」(ケン)を当てないのは、原意をくみ取っていたと見ることが出来る。
「したたる」は、
下垂るの意、
とされる(広辞苑・大言海他)。
近世中期ごろまでシタダルと濁音、シタはシタム(湑・釃)のシタと同根、
とある(岩波古語辞典)。「したむ」は、
しずくをしたたらす、特に酒などを漉したり、一滴も残さず絞り出したりするのにいう、
とある(仝上)。
したみ酒、
という言葉があり、
枡やじょうごからしたたって溜まった酒、
の意で、
転じて、飲み残しや燗(かん)ざましの酒、
の意となる(精選版日本国語大辞典)、とあり、
したみ、
とも言う(仝上)。この「したむ」は、酒の例から見ても、確かに、
下(した)の活用、
とある(大言海)のが納得いくが、
シタ(下垂)ムの義(日本語源=賀茂百樹)、
液をシタ(下)に垂らす義(国語の語根とその分類=大島正健)、
と、「したたる」と絡ませる説がある。
「したたる」は、本来、
水などがしずくとなって垂れ落ちる、
意である。「したむ」は、それを、
酒に特化した用例、
とみられるのかもしれない。ただ、「しずく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/475606337.html?1592072466)で触れたように、「下枝」を、
シヅエ、
と呼ぶように、「下」を、
シヅ、
と呼ぶ可能性があり、とするなら、「しず(づ)く」の「しづ」は、垂れる意の、
しづ(垂)、
と関わるけれども、
しづ(垂)+垂る、
では重複するし、「しづ」を、
下の活用、
とするなら、「したたる」は、
しづ(下)+垂る、
となり、
「下がる」+「垂れる」
と、下垂る語源説だと、どこか重複感があるような気がしてならない。確かに、
下+垂る、
と考えるのが、無難なのだろうが。
ところで、「したたる」の意味に、
緑したたる候、
というように、
美しさやみずみずしさがあふれるほどである、
の意味に使われるが、さらに、それをメタファに、
水もしたたるいい男、
といった使い方をするのは、岩波古語辞典、大言海には載らず、結構最近になって使われる用例のようである。
(しずくが落ちる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%B4より)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2020年06月18日
今川焼
「今川焼」は、
銅板に銅の輪型をのせ、水で溶いた小麦粉を注ぎ、中に餡をいれて焼いた菓子、今は輪の代わりに多数の円形のくぼみをもつ銅の焼型を用いる、
もののことで、大言海には、
銅の版に、胡麻の油を延(こ)き、銅の輪を載せ、うどん粉を水に溶かしたるを注ぎ入れ、餡を包み、打ち返して炙(や)きたるもの、
と載る。この方が当時の作りの方がよくわかる。
江戸時代中期の安永年間(1772~1780)、江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋付近の店で、桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D)。あるいは、
神田の今川橋埋立地にあった露店が売り出した焼き菓子が由来ではないか、
とされている(https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D)のが正確かもしれない。他に、
駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説、
もあるらしいが、江戸時代の文献にはそのような記述は見受けられないらしい。今川橋は、
天和年間(1681年-1684年)に神田の名主であった今川善右衛門が竜閑川(神田堀)に掛けた橋で、今川橋埋立地は1869年(明治2年)に神田今川町、翌年に川を境にして神田西今川町・神田東今川町に分けられた。竜閑川は1950年(昭和25年)には全て埋立られてしまい、また西今川町は1935年(昭和10年)、東今川町は1965年(昭和40年)に消え、現在は鍛冶町一丁目、内神田三丁目(旧・鎌倉町)、岩本町一丁目のそれぞれ一部となってしまっているが、今川橋の名は交差点名として現在も残っている、
とある(仝上)。江戸語大辞典には、
はま千鳥禿(かむろ)があどなき噺合手も……今川焼の児僕(こぞう)とはなんなりぬ(天明四年・浮世の四時)
と載る。
後に、(大型の)小判状をした型を使用したものが全国各地に大判焼き(おおばんやき)として広がった。その名称は、「今川焼」という名称は全国各地に広がっているが、
二重焼き(広島県)、
大判焼き(東北や東海地方、ま四国地方など)、
小判焼き(西日本)、
巴焼き、
義士焼き、
太鼓饅(太鼓饅頭、太鼓焼き 西日本各地、)、
太閤焼き、
回転焼き(回転饅頭 大阪市、堺市、九州・山口地方など)、
文化焼き、
大正焼き、
復興焼き、
自由焼き、
夫婦まんじゅう(フーマン)、
御座候(兵庫県、大阪府など全国各地)、
おやき(北海道、青森県、茨城県西部など)、
等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D、語源由来辞典)、形状や地域、店により他にもさまざまな呼び名がつけられて普及した(仝上)。その他にも、
浅草焼(青森県)、あじまん(山形県ほか)、甘太郎焼(埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、群馬県)、画廊まんじゅう(静岡市清水区)、御紋焼(奈良県天理市)、しばらく(滋賀県長浜市)、じまんやき(富士アイス系列)、人工衛星饅頭(兵庫県神戸市)、ずぼら焼き(兵庫県神戸市)、太郎焼(埼玉県川口市・越谷市、福島県会津若松市ほか)、天輪焼(三重県松阪市)、七越焼き(三重県松阪市)、花見焼き(埼玉県蕨市)、日切焼(愛媛県松山市)、びっくり饅頭(広島県呉市)、ヒット焼き(愛媛県新居浜市)、武家まん(愛媛県新居浜市)、横綱まんじゅう(岡山県津山市)、蜂楽饅頭(熊本県熊本市、鹿児島県、福岡県)、あづま焼(静岡県浜松市・磐田市)、きんつば(千葉県・福島県・新潟県)、
等々という名のものもある(仝上)。日本の植民地支配の影響で、台湾では、
車輪餅(チャールンビン)、
韓国では、
オバントク/オバントック、
という名で食べられているらしい(仝上)。
地域・店舗によっては、
カスタード、抹茶あん、チョコレート、
などの中身があり、単純に言えば、「今川焼」は、
鯛焼きが鯛の形ではなく、丸く分厚くなったようなお菓子、
である(https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D)。現に、「鯛焼き」は、
現在も麻布十番商店街にお店を構える浪花家総本店さんが「今川焼きが売れないから縁起のいい鯛の型にしてみよう」と閃き販売を開始、その後飛ぶように売れたことから広まっていった、
とある(https://uzurea.net/about-name-of-imagawayaki/)。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年06月24日
雲居
「雲居(くもゐ)」は、
雲井、
とも当てる。
「居」は居座る意、
なので、
「井」は当て字、
とある(広辞苑)。
「雲居」は、
雲が居るほど高いところ、
すなわち、
大空、
の意であり、「雲の居る」ところは、すなわち、
雲、
の意ともなり、たとえば、
雲居隠り、
雲居路、
の「雲居」は、ほぼ「雲」の意であるが、さらに、それが比喩的に、
遠くまたは高くてはるかに離れているところ、
の意となり、
雲の上、
の意で、
宮中、皇居、
を意味する。万葉集の、
神の御面(みおも)と継ぎ来る那珂の港ゆ船浮けて我が漕ぎ来れば時つ風雲居に吹くに沖見ればとゐ波立ち辺(へ)見れば……、
は、「空」の意である。同じ、
雲居なる海山越えてい行きなば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも
は、「はるかに離れた」という意になり、古事記の、
はしけやし我家(わぎへ)への方よ雲居立ち来も、
は、「雲」の意であり、「南殿の花を見てよみ侍りける」とある、
春ごとの花に心はそめ置きつ雲居の櫻我を忘るな(玉葉)、
は、「宮中」を指す。
大言海は、「雲居」を、
雲の集(ゐ)るところの義(仙覚抄)、即ち、中空(なかぞら)の意、万葉集、「三船の山に、居雲(ゐるくも)の」或は、雲揺(くもゆり)の約(地震を、なゐと云ふも、根揺(ねゆり)の約)、雲の漂うところの意、
と説く。「ゐ」は、
居、
坐、
と当て、
立ちの対、すわる意、類義語ヲル(居)は、居る動作を持続し続ける意で、自己の動作ならば卑下謙遜、他人の動作ならば蔑視の意が籠っている、
とある(岩波古語辞典)が、
琴頭(ことがみ)に來ゐる影姫珠ならばわが欲る珠のあはび白珠、
とある「ゐる」は、
(雲・霞・人・舟などが)動かずに同じ場所にじっとしている、
という意(岩波古語辞典)で、ニュートラルに思える。
集(ゐ)る(仙覚抄)、
雲揺(くもゆり)の約(大言海)、
とするまでもなく(日本語源大辞典)、
雲の居(ゐ)る場所、
でよさそうである。
なお「雲」については、「くもる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/459727462.html)で触れた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年01月18日
たま(魂・魄)
「たま」は、
魂、
魄、
霊、
と当てる。「たま(玉・珠)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462988075.html)で触れたように、「たま(玉・珠)」は、
タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、
とある(岩波古語辞典)。依り代の「たま(珠)」と依る「たま(魂)」というが同一視されたということであろうか。
未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内から脱け出て自由に動き回り、他人のタマとも逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、
ともある(仝上)。だから、いわゆる、
たましい、
の意であるが、
物の精霊(書紀「倉稲魂、此れをば宇介能美柂麿(うかのみたま)といふ」)、
↓
人を見守り助ける、人間の精霊(万葉集「天地の神あひうづなひ、皇神祖(すめろき)のみ助けて」)、
↓
人の体内から脱け出して行動する遊離靈(万葉集「たま合はば相寝むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも」)、
↓
死後もこの世にとどまって見守る精霊(源氏「うしろめたげにのみ思しおくめりし亡き御霊にさへ疵やつけ奉らんと」)、
と変化していくようである。そこで、
生活の原動力。生きてある時は、體中に宿りてあり、死ぬれば、肉體と離れて、不滅の生をつづくるもの。古くは、死者の魂は、人に災いするもの、又、生きてある閒にても、睡り、又は、思なやみたる時は、身より遊離して、思ふものの方へゆくと、思はれて居たり。生霊などと云ふ、是なり。故に鎮魂(みたままつり)を行ふ。又、魂のあくがれ出づることありと、
ということになる(大言海)。ちなみに、「たまふり(靈振)」とは、
人の霊魂(たま)が遊離しないように、憑代(よりしろ)を振り動かして活力をつける、
のを言う。憑代は、精霊が現れるときに宿ると考えられているもので、樹木・岩石・御幣(ごへい)等々。「鎮魂(みたままつり)」「みたましずめ」も同義である。万葉集に、
たましひは朝夕(あしたゆふべ)にたまふれど吾が胸痛し恋の繁きに、
という歌がある。
「たま」に当てられている「魂」(漢音コン、無呉音ゴン)の字は、
会意兼形声。「鬼+音符云(雲。もやもや)、
とあり、
たましい、
人の生命のもととなる、もやもやとして、決まった形のないもの、死ぬと、肉体から離れて天にのぼる、と考えられていた、
とある(漢字源)。
(小篆・「魂」(漢・説文) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%82より)
しかし、後述の「鬼」の意味からは、
会意兼形声文字です(云+鬼)。「雲が立ち上る」象形(「(雲が)めぐる」の意味)と「グロテスクな頭部を持つ人」の象形(「死者のたましい」の意味)から、休まずにめぐる「たましい」を意味する「魂」という漢字が成り立ちました、
とする説明もあり得る(https://okjiten.jp/kanji1545.html)。
(小篆・「魄」(漢・説文) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84より)
「魄」(漢音ハク、呉音ヒャク)の字は、
会意兼形声。「鬼+音符白(ほのじろい、外枠だけあって中味の色がない)」。人のからだを晒して残った肉体のわくのことから、形骸・形体の意となった、
とあり(仝上)、また別に、
会意形声。「鬼」+音符「白」、「白」は白骨とも、しゃれこうべとも、
とするものもある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84)。やはり、
たましい、
肉体をまとめてその活力のもととなるもの、
の意だが、「魂」と「魄」は陽と陰の一対、
「魂」は陽、「魄」は陰で、「魂」は精神の働き、「魄」は肉体的生命を司る活力人が死ねば魂は遊離して天上にのぼるが、なおしばらくは魄は地上に残ると考えられていた、
とあるのは、それは、
「魂」と対になり、「魂」が精神的活動で陽、「魄」が肉体的活動で陰とされ、魂魄は生きている間は一体であるが死後すぐに分離し、魂は天界に入るが、魄は地上をさまようとされた、
からである(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%AD%84)。
さらに、「靈(霊)」(漢音レイ、呉音リョウ)の字は、
会意兼形声。靈の上部の字(音レイ)は「雨+〇印三つ(水たま)」を合わせた会意文字で、連なった清らかな水たま。零と同じ。靈はそれを音符とし、巫(みこ)を加えた字で、神やたましいに接するきよらかなみこ。転じて、水たまのように冷たく清らかな神の力やたましいをいう。冷(レイ)とも縁が近い。霊はその略字、
とある(仝上)。やはり、
たましい、
の意だが、
形や質量をもたない、清らかな生気、
の意で、
形ある肉体とは別の、冷たく目に見えない精神、また死者のからだから抜け出たたましい、
とある(仝上)ので、「たま」に重なるのは、「霊」である。
で、和語で言う「たま」を指す。
ちなみに、「たま」とも訓ませる「鬼」(キ)の字は、和語「おに」とは別で、
象形。大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いたもの。『爾雅』(漢初の、最古の類語辞典・語釈辞典・訓詁学の書)に、「鬼とは帰」とあるがとらない、
とする(仝上)。別に、
会意兼形声文字です(霝+巫)。「雲から雨がしたたり落ちる」象形と「口」の象形と「神を祭るとばり(区切り)の中で人が両手で祭具をささげる」象形から、祈りの言葉を並べて雨ごいする巫女を意味し、そこから、「神の心」、「巫女」を意味する「霊」という漢字が成り立ちました、
という説もある(https://okjiten.jp/kanji1219.html)が、後述の「鬼」の意味から見れば、前者ではあるまいか。
中国では魂がからだを離れてさまようと考え、三国・六朝以降には泰山の地下に鬼の世界(冥界)があると信じられた、
とある(漢字源)。和語「たま」が、遊離靈とみなすようになるのは、この影響かと推測される。
なお、漢字源が採らない、「鬼は帰」とは、
鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う、
であり、
帰とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになる、
とある、とか(https://blog.tokyo-sotai.com/entry/2015/11/19/111406)、
人は、仮にこの世に身を寄せて生きているにすぎず、死ぬことは本来いた所に帰ることである、
とある(「淮南子(えなんじ)」 )ところからすると、「霊」の意味からは離れてしまうと思われる。
さて、「たま」の語源であるが、
靈と玉は前者が抽象的な超自然の不思議な力、霊力となり、後者は具体的に象徴するものという意味で、両者は同一語源、
と考えるなら(日本語源大辞典・岩波古語辞典)、
タマチハイ(賜幸)恵み守るものであるところから、また、造花神が賦与するものであるところから賜ふの義、あるいは円満の義、あるいは入魂は丸い玉のようであるところからともいう(日本語源=賀茂百樹)、
イタクマ(痛真)の義で、タマ(玉)と同義(日本語原学=林甕臣)、
タは直の意の接頭語、マはマル(丸)・マト(円)等の語幹(日本古語大辞典=松岡静雄)、
タは接頭語、マはミ(実)の転。草木が実から生ずるように、人も魂の働きによって生長すると考えたところから(神代史の新研究=白鳥庫吉)、
[tama]は[ta]と[ma]。[ta]は「て(手)[te]」のはたらきを表す。[ma]は「むすぶ(結ぶ)」行為の根拠を意味する。「たま」は「はたらいて実を結ぶ」こと(http://aozoragakuen.sakura.ne.jp/aozoran/teigi/jisyov1v2/jisyoI/node57.html)、
等々の諸説はひねくり回し過ぎではあるまいか。単純に、「タマ(玉)と同源」から、
「魂」の形を「マルイ」とする、
説(日本語源広辞典)だと、
タマ(魂)→マルイ→玉、
となる。形の丸については「まる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.html)で触れたように、「まる」「まどか」という言葉が別にあり、
中世期までは「丸」は一般に「まろ」と読んだが、中世後期以降、「まる」が一般化した。それでも『万葉-二〇・四四一六』の防人歌には「丸寝」の意で「麻流禰」とあり、『塵袋-二〇』には「下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ」とあるなど、方言や俗語としては「まる」が用いられていたようである。本来は、「球状のさま」という立体としての形状を指すことが多い、
とあり(日本語源大辞典)、更に、
平面としての「円形のさま」は、上代は「まと」、中古以降は加えて、「まどか」「まとか」が用いられた。「まと」「まどか」の使用が減る中世には、「丸」が平面の意をも表すことが多くなる、
と(仝上)、本来、
「まろ(丸)」は球状、
「まどか(円)」は平面の円形、
と使い分けていた。やがて、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。『岩波古語辞典』の「まろ」が球形であるのに対して、「まどか(まとか)」の項には、
ものの輪郭が真円であるさま。欠けた所なく円いさま、
とある。平面は、「円」であり、球形は、「丸」と表記していたということなのだろう。漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要であったが、「円」「丸」で表記するようになれば、区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。
とすると、本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、
丸い石、
を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。
「たま」は、
魂、
でもあり、
依代、
でもある。何やら、
神の居る山そのものがご神体、
となったのに似ているように思われる。
なお、「たましい」については、「魂魄」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456697359.html)で触れた。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年03月13日
のり
「のり」は、
海苔、
と当てる「のり」である。「海苔」は、
カイタイ、
と読む漢語である。
海の藻、
の意で、南越志に、
海藻、一名海苔、
とある(字源)。「のり」の漢名は、
紫菜(シサイ)、
といい、
水苔(スイタイ)、
海菜(カイサイ)、
石衣(セキイ)、
苔哺(タイホ)、
石髪(セキハツ)、
等々ともいう(たべもの語源辞典)、とある。日本では、古く、
紫菜、
神仙菜、
と呼ばれた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%8B%94)、とあるのは、漢名由来である。平安時代の字書『天治字鏡』には、
海糸藻、乃利、
とある(大言海)。「海苔」は、
nöri、
で、「糊」も、
nöri、
で、同源のようである(岩波古語辞典)。
海苔はすでに上代、縄文時代から食用にされていたが、文字として海苔が初めて登場したのは、『常陸風土記』で、
古老の曰(い)へらく、倭武の天皇 海辺に巡り幸(いでま)して乗浜(のりのはま)に行き至りましき。時に浜浦(はま)の上に多(さは)に海苔(俗(くにひと)、乃理(のり)と云ふ)を乾せりき、
とある(https://www.yamamoto-noriten.co.jp/knowledge/history.html)。「大宝律令」(701年制定)の賦役令(ぶやくりょう)では、大和朝廷への「調」(現在の税金)の一つに、
紫菜(むらさきのり)、
があるが、「紫菜」は「凝海藻(こもるは)」(=ところてん)やその他海藻類の2倍以上の価値があった、とある(仝上)。「出雲風土記」(733年)にも、
紫菜は、楯縫(たてぬひ)の郡(こほり)、尤(もつと)も優(まさ)れり、
とあり(仝上)、延喜式(平安中期)には、志摩・出雲・石見・隠岐・土佐などから算出したとある(たべもの語源辞典)。
粗朶(ソダ 海苔をつけるための樹の枝)を立てて海苔をとり始めたのは元禄年間(1688~1704)とされる(仝上)が、これには、
江戸の漁師は毎日将軍家に鮮魚を献上しなければならず、そのため浅瀬に枝のついた竹などで生簀を作り、常に魚を用意していました。冬になるとその枝にたくさんの海苔が生えることに着目したことが海苔養殖の始まりと言われています、
とある(https://www.yamamoto-noriten.co.jp/knowledge/history.html)。「武江年表(ぶこうねんぴょう)」には、
大森で海苔養殖が始まった、
と記されている(仝上)。享保二年(1718)に、
品川の海に初めて海苔養殖のための「ソダヒビ」が建てられました。ちなみに「ソダヒビ」とは、葉を落として枝を束ねて作った物です。しかし、この頃は海苔の胞子(種)のつき方が不明で、もっぱら経験則に基づいた養殖であったため、年によって収穫量が違い、豊作なら大金が入り、失敗すると借金が残るので、海苔は「運ぐさ」と呼ばれていた、
とある(仝上)。その後、海苔養殖は幕府の保護を受け、江戸の特産品となった。「紫海苔」を、
浅草海苔、
と呼ぶのは、品川大森辺でとった海苔を浅草で製造して売ったから、という(たべもの語源辞典)。昔は、隅田川からも海苔がとれたという(仝上)。
(海苔(広益国産考) 日本語源大辞典より)
和語「のり」の語源は、
糊と同じで、ねばったさま、ヌルヌルした状態から「のり」といった(たべもの語源辞典)
粘滑(ヌルスル)の義(大言海)、
ヌルリ、ヌリがノリに変化した(日本語源広辞典)、
「糊(のり)」と同源で、「ヌルヌル」や「ヌラヌラ」などが変化した語(語源由来辞典)、
というところだと思われる。
粘り気があるところから(国語の語根とその分類=大島正健)、
ヌル(濡)と同源の、ヌルヌルと辷る義の動詞ヌル(辷)の連用形名詞法ヌレが変化したもの(続上代特殊仮名音義=森重敏)
も同趣だと思うが、ただ「ぬる」(濡る)は、
ぬる(塗る)と同根、湯・水・涙など水分が物の表記につく意、
とあり(岩波古語辞典)、擬態語の「ぬるぬる」とは別由来と思われる。
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年10月06日
をとめ
「をとこ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409)で触れたように、「をとめ」は、古くは、
をとこの対、
である(岩波古語辞典)。
「おとめ」は、
少女、
乙女、
と当てる(広辞苑・大言海)。和名類聚鈔(平安中期)は、
少女、乎止米、
類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう 11~12世紀)は、
少女、ヲトメ、
と、それぞれしている。
「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」などと同様、「こ」「め」を男女の対立を示す形態素として、「をとこ」に対する語として成立した、
もので(精選版日本国語大辞典)、
ヲトは、ヲツ(変若)・ヲチ(復)と同根、若い生命力が活動すること。メは女。上代では結婚期にある少女。特に宮廷に奉仕する若い官女の意に使われ、平安時代以後は女性一般の名は「をんな(女)」に譲り、ヲトメは(五節の)舞姫の意、
とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。
風のむた寄せ來る波に漁(いさり)する海人(あま)のをとめが裳の裾濡れぬ(万葉集)、
と、
少女、
の意から、
藤原の大宮仕へ生れつがむをとめがともは羨(とも)しきろかも(万葉集)、
宮廷につかえる若い官女、
の意でも、
(五節の舞姫を見て詠める)あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばととどめむ(古今集)、
と、
舞姫、
の意でも使われる。
少女子、
とあてる、
をとめご、
も、
少女、
の意と、
天人の舞を舞う少女、舞姫、
の意がある(岩波古語辞典)。
「をとめ」の「をと」は、「をとこ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/483673592.html?1633030409)で触れたように、
をつの名詞形、
であり、「をつ」は、
変若つ、
復つ、
と当て、
変若(お)つること、
つまり、
もとへ戻ること、
初へ返ること、
で、
我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(大伴旅人)、
と、
若々しい活力が戻る、
生命が若返る、
意であり(仝上・大言海)、
若い、
未熟、
の含意である。となると、
小之女(ヲツメ)の転(大言海・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、
小姥(ヲトメ)の義(大言海)、
ヲノメ(少女)から(名言通)、
は採れまい。
古代では、「をとこ」―「をとめ」で対をなしていたが、「をとこ」が男性一般の意となって、女性一般の意の「をんな」と対をなすように変わり、それに伴って、平安時代には「をとめ」も「少女」と記され、天女や巫女を表すようになった、
とある(日本語源大辞典)。だから、
乙女、
は当て字で、
「おとうと」の「おと」と同じく年下の意であるが、「お」と「を」の区別が失われて用いられるようになった当て字、
とある(仝上)。そうなると、
ワ行の方が若く、ア行の方が老いた女をあらわします、
とある(日本語源広辞典)ように、古くは、
ヲ(袁)とオ(於)を以て老少を区別する(古事記伝)、
と、
老若の違い、
があったらしいのが、「お」と「を」の区別が失われ、
おみな(嫗)⇔をみな(女)
の区別がつかなくなった。
「乙」(漢音イツ、呉音オツ・オチ)は、
指示。つかえ曲がって止まることを示す。軋(アツ 車輪で上から下へ押さえる)や吃(キツ 息がつまる)などに音符として含まれる、
とある(漢字源)が、別に、
象形。草木が曲がりくねって芽生えるさまにかたどる。借りて、十干(じつかん)の第二位に用いる、
ともあり(角川新字源)、さらに、
指事。ものがつかえて進まないさま(藤堂)。象形:へらとして用いた獣の骨を象る(白川)。十干に用いられるうち、原義が忘れられた、
ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99)。
(「乙」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%99より)
さらに、
象形文字です。「ジグザグなもの」の象形から、物事がスムーズに進まないさま・種から出た芽が地上に出ようとして曲がりくねった状態を表し、そこから、「まがる」、「かがまる」、「きのと」を意味する「乙」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji1506.html)。つまり、「乙」を、象形文字とする説と指事文字(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字)とする説がある。形があるからそれを象れるが、形がないから、点画の組み合わせによって表して作ったということになるので、なぞる形の有無にすぎまい。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年11月30日
同母(いろ)
「色」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484590827.html?1638129665)で触れたように、
同母、
と当てる「いろ」は、
イラ(同母)の母音交替形(郎女(いらつめ)、郎子(いらつこ)のイラ)。母を同じくする(同腹である)ことを示す語。同母兄弟(いろせ)、同母弟(いろど)、同母姉妹(いろも)などと使う。崇神天皇の系統の人名に見えるイリビコ・イリビメのイリも、このイロと関係がある語であろう、
とある(岩波古語辞典)。この「いろ」が、
イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
色の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」で、兄を意味する「いろせ」、姉を意味 する「いろね」などの「いろ」である。のちに、男女の交遊や女性の美しさを称える言葉となった。さらに、美しいものの一般的名称となり、その美しさが色鮮やかさとなって、色彩そのものを表すようになった(語源由来辞典)、
と、色彩の「色」とつながるとする説もあるが、
其の兄(いろえ)神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖(はじめのおや)なり(書紀)、
と、
血族関係を表わす名詞の上に付いて、母親を同じくすること、母方の血のつながりがあることを表わす。のち、親愛の情を表わすのに用いられるようになった。「いろせ」「いろと」「いろも」「いろね」など、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
異腹の関係を表わす「まま」の対語で、「古事記」の用例をみる限り、同母の関係を表わすのに用いられているが、もとは「いりびこ」のイリ、「いらつめ」のイラとグループをなして近縁を表わしたものか。それを、中国の法制的な家族概念に翻訳語としてあてたと考えられる、
とされる(仝上)。「まま」は、
継、
と当て、
親子・兄弟の間柄で、血のつながりのない関係を表す。「まませ」「ままいも」は、同父異母(同母異父)の兄弟・姉妹、
である(岩波古語辞典)。また、
兄弟姉妹の、異腹なるものに被らせて云ふ語、嫡庶を論ぜず、
とある(大言海)。新撰字鏡(898~901)には、
庶兄、万々兄(まませ)、…(庶妹)、万々妹(ままいも)、継父、万々父(ままちち)、嫡母(ちゃくぼ)、万々波々(ままはは)、
とある。その語源は、
隔てあるところから、ママ(閒閒)の義(大言海・言元梯)、
マナの転で、間之の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
ママ(随)の義。実の父母の没後、それに従ってできた父母の意(松屋筆記)、
等々があるが、たぶん。「隔て」の含意からきているとみていいのではないか。
で、「いろ」は、
イラ(同母)の母音交替形(岩波古語辞典)、
イロ(色)と同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
など以外に、
イは、イツクシ、イトシなどのイ。ロは助辞(古事記伝・皇国辞解・国語の語根とその分類=大島正健)、
イロハと同語(東雅・日本民族の起源=岡正雄)、
イヘラ(家等・舎等)の転(万葉考)、
イヘ(家)の転(類聚名物考)、
蒙古語elは、腹・母方の親戚の意を持つが、語形と意味によって注意される(岩波古語辞典)、
「姻」の字音imの省略されたもの(日本語原考=与謝野寛)、
等々あるが、蒙古語el説以外、どれも、「同腹」の意を導き出せていない。といって蒙古語由来というのは、いかがなものか。
イロハと同語、
とある「いろは」は、
母、
と当て、類聚名義抄(11~12世紀)に、
母、イロハ、俗に云ふハハ、
とある。つまり、
イロは、本来同母、同腹を示す語であったが、後に、単に母の意とみられて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう(岩波古語辞典)、
ハは、ハハ(母)に同じ、生母(うみのはは)を云ひ、伊呂兄(え)、伊呂兄(せ)、伊呂姉(セ)、伊呂弟(ど)、伊呂妹(も)、同意。同胞(はらから)の兄弟姉妹を云ひしに起これる語なるべし(大言海)
とあるので、「いろ」があっての「いろは」なので、先後が逆であり、結局、
いら、
いり、
とも転訛する「いろ」の語源ははっきりしない。
因みに、「いらつめ」「いらつこ」は、
郎女、
郎子、
と当て、
いらつひめ、
いらつつみ、
ともいい、
「いら」は「いろも」「いろせ」「かぞいろ」など特別な親愛関係を示す「いろ」と関係があり、「つ」はもと、連体修飾の助詞。「いらつめ」と同様、何らかの身分について用いられた一種の敬称と思われるが、平安時代には衰えた、
とある(精選版日本国語大辞典)が、「いろ」の説明で、
母親を同じくすること、母方の血のつながりがあることを表わす。同母の。のち、親愛の情を表わすのに用いられるようになった、
としている(仝上)ので、
従来このイロの語を、親愛を表すと見る説が多かったが、それは根拠が薄い、
となり(岩波古語辞典)、この「いら」は、
イロ(同母)の母音交替形、
と見る見方になる(仝上)。当然、そうなれば、
イリビコ・イリビメのイリと同根、
ということになる(仝上)。さらに、
郎女、
という表記は中国にない。「郎子」と対にして、日本語のイラの音を表すためにラウの音の「郎」を使ったものとみられる、
とあり(仝上)、さらに「郎子」は、
イラツメに対して作られた語らしく、イラツメに比して用例が極めて少ない、
ともある(仝上)。因みに、「郎子」は、中国語では、
他人の息子の敬称、
である(字源)
「同」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音ズウ)は、
会意。「四角い板+口(あな)」で、板に穴をあけて付きとおすことを示す。突き抜ければ通じ、通じれば一つになる。同一・共同・共通の意となる、
とある(漢字源)。同趣旨で、
会意。上部「凡」(盤、四角い板)+「口」。「口」は「あな」の意で、貫き通してまとめること。「筒」「胴」「洞」と穴の開いたものの意味で同系(藤堂)。または、「口」は神器で、「同」は筒形の器を表し、会盟のため人が集まったことから(白川)、
ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%8C)が、
会意。口と、冃(ぼう)(おおう。𠔼は省略形)とから成り、多くの人を呼び集める、ひいて「ともに」、転じて「おなじ」などの意を表す、
との解釈もある(角川新字源)。
(「同」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%8Cより)
また、
象形文字です。「上下2つの同じ直径の筒の象形」から「あう・おなじ」を意味する「同」という漢字が成り立ちました、
との説もある(https://okjiten.jp/kanji378.html)。
「母」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音ム・モ)については「はは」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/480039226.html)で触れたように、
象形。乳首をつけた女性を描いたもので、子を産み育てる意味を含む、
とあり(漢字源)、
指事。女(象形。手を前に組み合わせてひざまずく人の形にかたどり、「おんな」の意を表す)に、乳房を示す点を二つ加えて、子供に授乳するははおやの意を表す、
ともある(角川新字源)。
(「母」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%8Dより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2021年12月04日
いらう(答・應)
「綺ふ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484547997.html?1637870959)で触れたように、「いらふ」に当てる漢字には、
綺ふ、
色ふ、
弄ふ、
借ふ、
等々があるが、ここでは、
答ふ(う)、
応ふ(う)、
とあてる「いらふ」である。
答える、
返答する、
意である。
いらへ(え)る(答へる・応へる)、
とも使う(広辞苑)。ただ、
(女の話に対して)二人の子は情けなくいらへてやみぬ(伊勢物語)、
煩わしくてまろぞといらふ(源氏物語)、
などは、
適当に返事する、
一応の返事をする、
意とある(岩波古語辞典)。だから、この語源は、
イ(唯)を語根として活用したもの(大言海)、
というよりは、
アシラフの転、アシの反イ(和訓考)、
イヘルアハセ(云合)の義(名言通)、
イヒカヘ(言反)の転(言元梯)、
イロフ(綺)と同じ意(和語私臆鈔)、
などと、何処かアイロニカルな含意を持つものの方に軍配が上がる。しかし、同じ意味で、
答ふ(う)、
応ふ(う)、
と当てる、
こたふ(う)、
もまた、
こたへ(え)る(答へる・答へる)、
とも使うが、この言葉は、
コト(言)アフ(合)の約(岩波古語辞典)、
言合(ことあ)ふるの約、傷思(いたおも)ふ、いとふ(厭)(大言海)、
とあるように、
たそかれと問はばこたへむ術(すべ)を無み(万葉集)、
と、
こと(言)を合わせる意、
になる(広辞苑)。それが転じて、
問はれて答ふの、ここなる事の、かしこに響くと、移りたるなり(大言海)、
となり、
打ちわびて呼ばらむ聲に山びこのこたへぬ山はあらじとぞ思ふ(古今集)
いなり山みつの玉垣うちたたき我がねぎごとを神もこたへよ(後拾遺)、
などと、
感じ、響く、通ず、應ず、反応す、
の意になる。この場合は、
応へる、
と当てる(大言海)。当然、そこから、
六魂へこたへてうづきまする(狂言記・あかがり)、
と、
刺激を受けて身に染みる、
とどく、
通る、
という意や、
われこの国の守となりてこのこたへせん(宇治拾遺)、
と、
報い、
返報、
の意でも使うに至る(岩波古語辞典)。
「こたふ」が、上代から用いられているのに対し、「いらふ」は、中古から例が見られるようになった。返事をする意の「こたふ」が単純素朴な返事であるのに対し、「いらふ」は自らの才覚で適宜判断しながら返事をする場合に多く用いられ、「こたふ」より自由なニュアンスがあったという。しかし、和歌ではもっぱら「こたふ」が用いられ、「いらふ」は用いられない。中古後期以降、散文では「こたふ」が勢力を回復し、「いらふ」よりも優勢となる、
とある(精選版日本国語大辞典)。「いらふ」と「こたふ」の微妙な含意の差は消えて、「こたふ」へと収斂していったということになる。当然、
答(いら)ふ、
と、
応(いら)ふ、
あるいは、
答(こた)ふ、
と
応(こた)ふ、
の当て分けの差異も薄れたとみていい。漢字では、
答は、當也、報也、先方の問に答ふるなり。
對は、人の問に、それは何々と、一々ことわけて答ふるなり。答よりは重し。
應は、あどうつ(人の話に調子を合わせて応答する)なり。孟子「沈同問、燕可伐與、吾應之曰、可」、
と使い分ける(字源)。
「応(應)」(漢音ヨウ、呉音オウ)は、
会意兼形声。雁は「广(おおい)+人+隹(とり)」からなり、人が胸に鳥を受け止めたさま。應はそれを音符とし、心を加えた字で、心でしっかり受け止めることで、先方からくるものを受け止める意を含む、
とあり(漢字源)、「応答」「応召」などと「答える」意で使い、「応募」「内応」などと、求めに応じる意、「応報」と報いの意もある。別に、
「應」の略体。 旧字体は、「心」+音符「䧹(説文解字では𤸰)」の会意形声文字、「䧹・𤸰」は「鷹」の原字で、人が大型の鳥をしっかりと抱きかかえる(擁)様で、しっかり受け止めるの意、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%9C)、
(「應」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji858.htmlより)
会意兼形声文字です(䧹+心)。「屋根と横から見た人と尾の短いずんぐりした小鳥の象形」(「鷹(たか)」の意味)と「心臓」の象形から、狩りに使う鷹を胸元に引き寄せておく事を意味し、そこから、「受ける」、「指名される」を意味する「応」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji858.html)。
「答」(トウ)は、
会意。「竹+合」で、竹の器にぴたりとふたをかぶせること。みとふたがあうことから、応答の意となった、
とある(漢字源)。別に、
形声。竹と、音符合(カフ)→(タフ)とから成る。もと、荅(タフ)の俗字で、意符の艸(そう)(くさ)がのちに竹に誤り変わったもの。「こたえる」意を表す、
とも(角川新字源)ある。
(「答」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji382.htmlより)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2022年01月08日
揖譲の礼
車馬門前に立ち連なって、出入(しゅつにゅう)身を側(そば)め、賓客堂上に群集して、揖譲(ゆうじよう)の礼を慎めり(太平記)、
とある、
揖譲、
は、
ゆうじょう(いふじゃう)
と訓むが、
いつじょう(いつじゃう)、
とも訓ませる(字源・大言海)。
揖は、一入(イツニフノ)切にて、音は、イフなり。されど、フは、入聲(ニッシャウ)の韻なれば、他の字の上に熟語となるときは、立(リフ)を立身(リッシン)、立禮(リツレイ)、入(ニフ)を入聲(ニッシャウ)とも云ふなり。六書故「揖、拱手上下左右(シテ)之以相禮也」(楚辞、大招、註「上手延登曰揖、壓手退避曰譲)、
とあり(大言海)、色葉字類抄(1177~81)には、
揖譲、イツジャウ、揖、イフス、
とある。「延登(えんとう)」は、
初めて官に拝するとき、天子がその人を延き入れて、殿に登らしめ、親(みずか)ら詔を下す、
とある(字源)。「退避」は、それとの対で、「引退する」意と思われる(仝上)。
「拱手上下左右」は、
へりくだって敬意を表す、
意と注記がある(兵藤裕己校注『太平記』)が、
手をこまねきて(両手の指を組み合わせて)、或は上下にし、或は左右にする礼法、
とある(仝上)。
論語(八佾篇)に、
子曰、君子無所争、必也射乎、揖譲而升下、而飲、其争也君子(子曰く、君子は争う所無し、必ず射(ゆみい)るときか、揖譲して升(のぼ)り下(くだ)り、而して飲ましむ、その争いや君子なり)、
とある。「升下」とは、
射礼の際、最初、主人が招待にこたえて堂、つまり殿にのぼるのが升であり、次に堂から庭におりて弓を射るのである、
とある(貝塚茂樹訳注『論語』)。
射礼、
は、
弓の競い合いのことである。孔子は、
礼の故事、つまり、作法の心得を解説したものらしい(仝上)。
「揖譲」は、
大古之時、聖人揖譲(「聖徳太子伝暦(917頃)」)
と、
両手を前で組み合わせて礼をし、へりくだること、
であり、
古く中国で客と主人とが会うときの礼式、
で(仝上)、
拱手の礼をなしてへりくだる、
意である(字源)。そこから、意味を広げ、
会釈してゆずる、
謙虚で温和なふるまい、
などにもいう、とある(精選版日本国語大辞典)。
(拱手する孔子像(呉道玄、8世紀頃) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8Bより)
つまり、「こまねく」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484220493.html)で触れた、
拱く、
拱手、
である。「こまねく」は、現存する中国最古の字書『説文解字(100年頃)』には、
拱、斂手(手をおさむる)也、
礼記・玉藻篇「垂拱」疏には、
沓(かさぬる)手也、身俯則宜手沓而下垂也、
とあり(大言海)、
拱の字の義(両手をそろえて組むこと)に因りて作れる訓語にて、組貫(くみぬ)くの音轉なるべしと云ふ(蹴(く)ゆ、こゆ。圍(かく)む、かこむ。隈床(くまど)、くみど。籠(かたま)、かたみ)、細取(こまどり)と云ふ語も、組取(くみとり)の転なるべく、木舞(こまひ)も、組結(くみゆひ)の約なるべし、
とする(大言海)ように、「こまねく」は、もともと、
子路拱而立(論語)、
と、
両手の指を組み合わせて敬礼する
意であり、
拱手、
と言えば、
遭先生于道、正立拱手(曲禮)、
と、
両手の指を合わせてこまぬく、人を敬う礼、
であり(字源)、
中国で敬礼の一つ。両手を組み合わせて胸元で上下する、
とあり(広辞苑)、
中国、朝鮮、ベトナム、日本の沖縄地方に残る伝統的な礼儀作法で、もとは「揖(ゆう)」とも呼ばれた。まず左右の人差し指、中指、薬指、小指の4本の指をそろえ、一方の掌をもう一方の手の甲にあてたり、手を折りたたむ。手のひらを自身の身体の内側に向け、左右の親指を合わせ、両手を合わせることで敬意を表す。一般的には、男性は左手で右手を包むようにするが、女性は逆の所作となる。葬儀のような凶事の場合は左右が逆になる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B1%E6%89%8B)。
「揖譲」には、「拱手」の意の他に、
禅譲、
の意で、
天子の位を譲ること。特に、その位を子孫であるなしにかかわらず、徳の高い者に譲ること、
の意でも使われる。この逆は、
征誅、
とあり(字源)、
放伐、
ともいう(広辞苑)。
堯の舜に授け、舜の禹に授くる如きは揖譲なり、湯の桀を放ち、武王の紂を伐ち、兵力を以て国を得たる如きは征誅なり、
とある(字源)。
「揖」(ユフ(イフ)、イツ)は、
会意。旁(シュウ)は「口+耳」からなり、口と耳をくっつけるさまを示す。揖はそれと手を合わせた字で、両手を胸の前でくっつけること、
とある(漢字源・字源)。
「譲(讓)」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)は、
会意兼形声。襄(ジョウ)は、中に割り込むの意を含む。讓は「言+音符襄」で、どうぞといって間に割り込ませること。転じて、間に挟んで両脇からせめる意ともなる、
とある(漢字源)、
三タビ天下を以て讓る(論語)、
と、譲る意である。別に、
会意兼形声文字です(言+襄)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「衣服に土などのおまじない物を入れて邪気を払う象形と手の象形」(「衣服にまじないの品を詰め込んで、邪気を払う」の意味)から、「言葉で悪い点を責める」を意味する「譲」という漢字が成り立ちました。また、たくさんの品を詰め込む事を許すさまから、「ゆずる」の意味も表すようになりました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1680.html)。
問い責める意を表す。転じて「ゆずる」意に用いる、
とある(角川新字源)ので、原義は、それのようである。
(「譲」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1680.htmlより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2022年01月10日
紅顔翠黛
その昔、紅顔翠黛の世に類ひなき有様を、ほのかに見染し玉簾の、ひまもあらばと三年(みとせ)余り恋慕しけるを、とかく方便(てだて)を廻らして盗みい出してぞ迎へける(太平記)、
とある、
紅顔翠黛(こうがんすいたい)、
は、
紅(くれない)の顔と翠(みどり)の眉墨、
で、
翠黛紅顔錦繍粧(翠黛紅顔錦繍(きんしゅう)の粧(よそお)ひ)、
泣尋沙塞出家郷(泣くなく沙塞(ささい)を尋ねて家郷を出づ)、
と(「和漢朗詠集(1018頃)」)、
容貌の美しい、
意である(兵藤裕己校注『太平記』)。
「紅顔」は、
朝有紅顔誇世路(朝(あした)には紅顔ありて世路(せろ)に誇れども)、
暮為白骨朽郊原(暮(ゆふべ)には白骨となりて郊原(かうげん 野辺)に朽(く)つ)、
と(「和漢朗詠集(1018頃)」)、
年若い頃の血色のつやつやした顔、
の意(広辞苑)で、
此翁白頭眞可憐、伊(これ)昔紅顔美少年、
と(劉廷芝)、
少年をいふ、
が(字源)、
嗟呼痛しきかも紅顔は三従(さんしょう)と長(とこしなえ)に逝き(万葉集)、
と、
婦人の麗しい容貌、
をもいう(広辞苑)。
漢字「紅」は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)によると、
赤糸と白糸からなる布の色、すなわち桃色、ピンク、
であり、中国ではその後、紅が赤を置き換えた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%85)、とある。
赤は、きらきらとあかきなり(字源)、火のあかく燃える色(漢字源)、
紅は、桃色なり、
丹は、丹沙の色なり、大赤なり、
緋は、深紅色なり(字源)、目の覚めるような赤色(漢字源)、
絳(コウ)は、深紅の色(漢字源)、大赤色なり(字源)、
茜(セン)は、夕焼け色の赤色(漢字源)、
殷(アン)は、赤黒色なり、血の古くなりて黒色を帯びたるをいふ、
と(字源・漢字源)、赤系統の色の区別があり、「紅」は、
桃色に近いあか色、
である。
少年の顔色、
に、似つかわしい。「紅」を
くれなゐ、
と訓むのは、
呉(くれ)の藍(あゐ)、
と、中国から来た染料の意(漢字源)、とある。
「翠黛」は、
燕姫翠黛愁(杜甫)
と、
みどりのまゆずみ、
の意、さらに、
そのまゆずみで描いた美しい眉、
を指し(精選版日本国語大辞典)、それをメタファに、
煙波山色翠黛横(彦周詩話)、
と、
青き山の形容(字源)、
緑にかすむ山のたとえ(精選版日本国語大辞典)、
にも使い、さらに、
翠黛開眉纔画出、金糸結繭未繰将(「菅家文草(900頃)」)、
と、
柳の葉、
にも喩える(精選版日本国語大辞典)。
「翠」(スイ)は、
会意兼形声。「羽+音符卒(シュツ 小さい、よけいな成分を去ってちいさくしめる)」。からだの小さな小鳥のこと。また汚れを去った純粋な色、
とある(漢字源)が、別に、
形声文字です(羽+卒)。「鳥の両翼」の象形(「羽」の意味)と「衣服のえりもとの象形に一を付した」文字(「神職に携わる人の死や天寿を全うした人の死の時に用いる衣服」の意味だが、ここでは、「粹(スイ)」に通じ(「粹」と同じ意味を持つようになって)、「混じり気がない」の意味)から、色に混じり気のない羽の鳥「かわせみ」を意味する「翠」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2662.html)。
(「翠」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2662.htmlより)
「黛」(漢音タイ、呉音ダイ)は、
形声。黒+音符代、
とあるのみだ(漢字源)が、
別に、
会意兼形声文字です(代+黒)。「横から見た人の象形と2本の木を交差させて作ったくいの象形」(人がたがいちがいになる、すなわち「かわる」の意味)と「煙出しにすすが詰まった象形と燃えあがる炎の象形」(すすの色が黒い事から、「黒い」の意味)から、「人の眉にとってかわる黒いすみ」を意味する「黛」という漢字が成り立ちました、
との解釈がある(https://okjiten.jp/kanji2542.html)。
(「黛」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji2542.htmlより)
「紅」(漢音コウ、呉音グ、慣用ク)は、
形声。糸+音符工(コウ)、
としかない(漢字源)が、
別に、
形声。「糸」+音符「工」、同義同音字「絳」。植物性原料による染料(「糸」を染めるもの)。説文解字によると、赤糸と白糸からなる布の色、すなわち桃色、ピンク。中国ではその後、紅が赤を置き換えた、
とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B4%85)、
形声文字です(糸+工)。「より糸」の象形と「工具(のみ又はさしがね)の象形」(「作る」意味だが、ここでは「烘(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「烘」と同じ意味を持つようになって)、「赤いかがり火」の意味)から、「あかい」、「べに」を意味する「紅」という漢字が成り立ちました、
とか(https://okjiten.jp/kanji927.html)の解釈がある。
(「紅」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji927.htmlより)
「顔(顏)」(漢音ガン、呉音ゲン)は、
会意兼形声。彥(ゲン)彦は「文(もよう)+彡(もよう)+音符厂(ガン 厂型にかどがたつ)」の会意兼形声文字で、ひたいがひいでた美男のこと。顏は「頁(あたま)+音符彥(ゲン)で、くっきりした美男のひたい、
とあり(漢字源)、
「厂(がけ)」は、岸(水辺のがけ)、雁(厂型に飛ぶ雁)と同系で、くっきりと角張っている意を含む、
とある(仝上)。
別に、
会意兼形声文字です(彦(彥)+頁)。「人の胸に入れ墨した」象形(模様、彩り」の意味)と「崖」の象形(「崖」の意味だが、ここでは、「鉱物性顔料」の意味)と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様、彩り」の意味)と「人の頭部を強調した」象形から「化粧をする部分、かお」を意味する「顔」という漢字が成り立ちました、
との説明もある(https://okjiten.jp/kanji20.html)。
(「顔」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji20.htmlより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2022年01月13日
涯分
不肖の身としてこの一大事を思ひ立ち候事、涯分を量(はか)らざるに似たりと云へども(太平記)、
の、
涯分、
は、
がいぶん、
と訓むが、
かいぶん、
とも訓ます(精選版日本国語大辞典)。
逍遥飲啄安涯分、何假扶揺九萬爲(蘆象詩)、
と、
身分に相応したこと、
身の程、
の意であり(字源)、そこから、
環視其中所有、頗識涯分(曾鞏文)、
と、
本分、
の意にもなる(仝上)が、「涯分」は、
かぎり、
の意である。さらに、
涯分武略を廻ぐらし、金闕無為なるやう成敗仕るべし(「平治物語(1220頃)」)、
と、
「身分相応に」の意から転じて、副詞的に、
自分の力の及ぶ限り、精一杯、
の意でも用いる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。
日本で中世以降に生じた用法である。本来名詞として用いられた漢語が、副詞としての用法に転じたという点は「随分」などと同様の変化をたどっている、
とある(仝上)。「随分」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463881312.html)については、触れた。
「涯分」を超えると、
報国の忠薄くして、超涯の賞を蒙らん事、これに過ぎたる国賊や候ふべき(太平記)、
と、
度を超えたること、
分限に過ぎたること、
の意、つまり、
過分、
の意で、
超涯、
といい(大言海・広辞苑)、
身分不相応の昇進、
異例の抜擢、
を、
労功ありとて、超涯不次の賞を行はれける(太平記)、
と、
超涯不次(ちょうがいふじ)、
と使う(デジタル大辞泉)。しかし、それを、
シカラバ イカナルセイカノツマトモナシ、chôgai(チョウガイ)ノガイタクニホコルベシ(「サントスの御作業(1591)」)、
と、
一生涯にわたっていること、
の意でも使う例がある(精選版日本国語大辞典)。「涯」を、
果て、
と見なせば、「涯分」を、
精一杯、
と見なしたのと同じかと見える。
「涯」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、
会意兼形声。厓(ガイ)は、「圭(土盛り)+音符厂(ガン・ガイ 切り立った姿)」の会意兼形声文字で、崖と同じく、切り立ったガケのこと。涯はそれを音符とし、水を加えた字で、水辺のがけ、つまり岸を表す、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(氵(水)+厓)。「流れる水」の象形と「削り取られた崖の象形と縦横線を重ねて幾何学的な製図」の象形(「傾いた崖」の意味)から、崖と水との接点「水際」を意味する「涯」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「果て」の意味も表すようになりました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1833.html)。
(「涯」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1833.htmlより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
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2022年01月27日
摩醯修羅
正成、元来(もとより)摩醯修羅(まけいしゅら)の所変(この世のものに姿を変える)にておはせしかば、今帰って欲界の六天に御座ありと云ふ(太平記)、
の、
摩醯修羅(まけいしゅら)、
とあるは当て字で、本来は、
摩醯首羅(まけいしゅら)、
と当てる(兵藤裕己校注『太平記』)。
宇宙(大三千界)を司る神、
であり、
大自在天(だいじざいてん)、
ともいい、
その像は、三目八臂(さんもくはっぴ)で、冠をいただき、白牛にまたがる、
とされる(仝上)が、
今帰って欲界の六天に御座ありと云ふ、
とあるように、しばしば、悪神の、
阿修羅、
第六天魔王、
と、混同・同一視される、とある(仝上)。阿修羅は、
古代インドの神の一族、インドラ神(帝釈天)など天上の神々に戦いを挑む悪神とされる。仏教では、天竜八部衆(天竜八部衆(天(天部)、竜(竜神・竜王)、夜叉(やしゃ 勇健暴悪で空中を飛行する)、乾闥婆(けんだつば 香(こう)を食い、音楽を奏す)、阿修羅、迦楼羅(かるら 金翅鳥で竜を食う)、緊那羅(きんなら 角のある歌神)など仏教を守護する異形の神々)とされる一方、六道(輪廻において、衆生(しゅじょう)がその業(ごう)に従って死後に赴くべき、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六つの世界)のひとつとして、人間以下の存在とされる。絶えず、闘争を好み、地下や海底に住む、
といい、
アスラ、
修羅、
非天、
無酒神、
ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。第六天魔王は、
欲望が支配する欲界(三界(欲界・色界(しきかい)・無色界の三種の迷いの世界)のひとつ。色欲・食欲など本能的な欲望の世界)に属する六種(四王天・忉利(とうり)天・夜摩(やま)天・兜率(とそつ)天・楽変化(らくへんげ)天・他化自在(たけじざい)天)の天のうち、第六の他化自在(たけじざい)天、
にすみ、
第六天魔王波旬(はじゅん)、
天魔、
天子魔(てんしま)、
他化自在天(たけじざいてん)、
ともいい、
仏道修行を妨げる悪魔、
とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%AD%94)。あきらかに、
摩醯修羅(まけいしゅら)の所変(この世のものに姿を変える)にておはせしかば、今帰って欲界の六天に御座ありと云ふ(太平記)、
では、
摩醯首羅
と
第六天魔王
を同一視している。
(大自在天 平安時代の仏像図集『図像抄』(十巻抄)「尊像三目八臂騎白牛」とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%87%AA%E5%9C%A8%E5%A4%A9より)
「摩醯首羅」は、
大自在天、
のほか、
摩醯首羅王、
摩醯首羅天、
摩醯首羅天王。
ともいい、
異名は千以上あるといわれる、
ヒンドゥー教の、世界を創造し支配する最高神シヴァの別名、イーシュヴァラで、万物創造の最高神、
とされ(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%87%AA%E5%9C%A8%E5%A4%A9)、
色究竟天(しきくきょうてん、しきくぎょうてん)、
に在す、とある(仝上)。「色究竟天」は、
阿迦尼吒天(あかにだてん)、
ともいい、
三界(無色界・色界・欲界の3つの世界)のうち、色界色界の最上位に位置する、
とされる(仝上)。『法華経』序品では、
無色界の最上位である非想非非想天ではなく、この色究竟天が有頂天であると位置づけられている、
ともある(仝上)ので、
天上界における最高の天、
とも見られる。ちなみに、「非想非非想天」(ひそうひひそうてん)とは、
三界の中で最上の場所である無色界の最高天、
をいい、
非想非非想天、
が、全ての世界の中で最上の場所にある(頂点に有る)ことから、
有頂天(うちょうてん)、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A0%82%E5%A4%A9)。
もっとも、上記の意味から、「有頂天」には、
色界(しきかい)の中で最も高い天である色究竟天(しきくきょうてん)、
とも、
色界の上にある無色界の中で、最上天である非想非非想天(ひそうひひそうてん)
の二説がある(広辞苑)。
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:摩醯修羅 摩醯修羅(まけいしゅら)
2022年01月30日
一翳眼にあれば
盛長(大森彦七盛長)これ程の不思議を見つれども、その心なほも動ぜず、一翳(いちえい)眼(まなこ)にあれば、空花(くうげ)乱墜(らんつい)すと云へり。千変百怪、何ぞ驚くに足らん(太平記)、
にある、
一翳眼にあれば空華乱墜す、
は、
目にひとつでも曇りがあると、実際にない花のようなものが見える、
つまり、
煩悩があると、種々の妄想が起き、心が乱れて正しい認識ができないことのたとえ
としていわれる(兵藤裕己校注『太平記』・精選版日本国語大辞典)。出典は、景徳元年(1004)北宋の道原撰の禅僧伝、
景徳伝燈禄、
にみえる、
福州芙蓉山靈訓禪師。初參歸宗問。如何是佛。宗曰。我向汝道汝還信否。師曰。和尚發誠實言何敢不信。宗曰。即汝便是。師曰。如何保任。宗曰。一翳在眼空華亂墜(福州芙蓉山霊訓禅師、初めて帰宗(きす)に参ず、問う、如何なるか是れ仏。宗(す)曰く、我汝に向って道(い)わん。汝、還(かえ)って信ずるや否や。師曰く、和尚、誠実の言を発せば、何ぞ敢えて信ぜざるや。宗曰く、汝に即すれば便(すなわ)ち是(ぜ)なり。師曰く、如何保任(ほにん)せん。宗曰く、一翳眼在れば空華乱墜す)、
の、
一翳在眼、空華乱墜、
による(故事ことわざの辞典)。「保任」は、
いまだまぬがれず保任しきたれるは、即心是仏のみなり(正法眼蔵)、
と、
「保」はたもつ、「任」は背おうの意、
で、
保持して失わないこと、保持してそのものになりきること、
の意である(精選版日本国語大辞典)
一翳在眼、空華乱墜、
は、
目に、なにかくもりがあると、実態のない花のようなものが乱れ落ちるさまが見えるところから、
とか(精選版日本国語大辞典)、
眼病のために、実際には花が無いのにも拘わらず、空中にいろいろな花があるかのごとく見えること、
とか(新版禅学大辞典)、
目に小さい埃が入っただけで、幻の華が宙を舞って乱れ落ちるということ、
とか(https://irakun0371.hatenablog.com/entry/2020/11/22/091034)、
小さい埃一つが眼に入ると眼がチラチラする、
とか(禅林句集)、
眼にちょっとでも病いがあるとまぼろしの花が空中をみだれ飛ぶ、
とか(禅語辞典)等々とある(https://zengo.sk46.com/data/ichieimana.html)ので、そうした目の症状を喩えとして、
心病に陥っている者が、その迷妄の心により、本心がくもりさえぎられ、ものの真相を正しく見ることができないで、虚偽の仮相を見て、それをそのものの実態であるかのように思い誤っていることをいう、
という意味で使ったもののようである(https://zengo.sk46.com/data/ichieimana.html)。
一翳眼にある時は、空花みだれをつ。一妄心にある時、恒沙生滅す(「梵舜本沙石集(1283)」)
である。「恒沙(ごうしゃ)」は、
恒河沙(ごうがしゃ)の略、
で、「恒河」(ごうが)は、
梵語でガンジス川、
の意、「恒河沙」は、
ガンジス川の砂、
の意。
数量が無数であることのたとえ、
としていう(広辞苑・デジタル大辞泉)。
「翳」(漢音エイ、呉音アイ)は、
会意兼形声。殹(エイ)は、矢を箱の中に隠すことをあらわす会意文字。翳はそれを音符とし、羽を添えた字、
とあり(漢字源)、
身分の高い人の姿を隠すために、侍者が持ってかざす羽のおうぎ、
鳥の羽でおおった車の屋根、
といった(仝上)、
かざしの羽、
の意(字源)で、
掩翳(エンエイ)、
というように、
かざして隠す、
という意味で、そこから、
ものに覆われてできた陰、
の意になったもののようである(漢字源)。
「眼」(漢音ガン、呉音ゲン)は、
会意兼形声。艮(コン)は「目+匕首(ヒシュ)の匕(小刀)」の会意文字で、小刀でくまどった目。または、小刀で彫ったような穴にはまった目。一定の座にはまって動かない意を含む。眼は「目+音符艮」で、艮の原義をあらわす、
とあり(漢字源)、「まなこ」、ひいて、目全体の意を表す(角川新字源)。別に、
会意形声。「目」+音符「艮」、「艮」は「匕」(小刀)で目の周りに入墨をする様で、そのように入墨を入れた目、または、小刀でくりぬいた眼窩(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%BC)、
会意兼形声文字です(目+艮)。「人の目」の象形と「人の目を強調した」象形から「眼」という漢字が成り立ちました。「人の目」の象形は、「め」の意味を明らかにする為、のちにつけられました(https://okjiten.jp/kanji12.html)、
などともある。
参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年03月02日
下火(あこ)
「下火」は、
したび、
と訓むと、
火勢の衰えること、
の意(広辞苑)だが、
等持寺の長老別源、葬礼を取り営みて、下火の仏事をし給ひける(太平記)、
とか、
近き里の僧、比丘尼、その数を知らず群集し給ひて、下火念誦して、荼毘の次第悉く取り行ひければ(仝上)、
とか、
中一日あつて、等持院に(足利尊氏を)葬り奉る。鎖龕(さがん 遺骸を納め棺の蓋を閉じる儀式)は、天龍寺の龍山和尚、起龕(きがん 棺を墓所へ送り出す儀式)は、南禅寺の平田和尚、奠茶(てんちゃ 霊前に茶を供える儀式)は、建仁寺の無徳和尚、奠湯(てんとう 霊前に湯を供える儀式)は、東福寺の監翁和尚、下火は、等持院の東陵和尚にてぞおはしける(仝上)、
とかの、
下火、
は、
あこ、
と訓ませ、
火葬の時に、導師が遺骸に点火する儀式、
あるいは、
禅宗で火葬の時に偈を唱える作法、
あるいは、
火葬の火を点ずる儀式、
などと注記される(兵藤裕己校注『太平記』)。「下火」は、
下炬、
とも当てる。
唐音(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
あるいは、
宋音(大言海)、
とある。
火を下す義、下三連(あさんれん)、火鈴(カリン)、行火(あんこ)、
とある(仝上)ところを見ると、
下(あ)火(こ)、
ともに唐音ということだろう。室町時代の辞書『下学集』に、
下火(あこ)、二字、共、唐音也、禅家葬儀之法事也、火字、或作炬字、
とある。また「下火」は、
秉炬(ひんこ・へいこ)、
ともいう(広辞苑)。
禅宗にて、火葬の時、火をつくる所作、導師の役目、
であるが、後には、
偈を唱へて、点火の態をなすのみ、麻幹を束ねて、炬(たいまつ)に擬し、圓相ヲ空に畫く、
とある(大言海)。つまり、形式化し、
偈 (げ) を唱えて火をつけるしぐさを示すだけになった、
ようである(精選版日本国語大辞典)。いわゆる、
引導の儀式、
である。インドでは、火葬をして身を清めるという考え方があり、ヒンドゥー教でも、魂が煙となって天に昇っていくという考え方があり、お釈迦様も火葬でしたので、仏教ではそれにならって、火葬が主流といわれるが、禅宗で、上記のように、
引導法語とよばれる法語、偈頌(げじゅ)などを唱え、「喝(かつ)」などと大声を発する、
のは、中国唐代中期の禅僧黄檗希運(おうばくきうん)が溺死した母のために法語を唱え、荼毘の火を投じたことに由来するといわれ(日本大百科全書)。それは、禅師が、
得悟するまで、情にひかれるのを避けるため、故郷の母に安否を知らせなかった。母はわが子希運の安否を何としても知りたい一心で、福清渡という河の渡しで旅籠を始め、旅人の足を洗うことにした。目の悪かった母は足を洗う時、希運の足にあった大きなこぶ(一説にはあざ)を手がかりに、わが子を見つけるつもりであった。百丈のもとで得悟した希運は故郷に至り、なつかしい母に会った。しかし、こぶのない片足を二度出して洗ってもらい、名も告げず旅籠をあとにした。後でその僧がわが子と知った母は希運を追いかけたが、目の悪かった母は誤って河に落ち溺死した。それを知った希運は船上から母を探し、「一子出家すれば九族天に生ず。もし天に生ぜずんば、諸仏の妄言なり」と唱え、炬火を擲げて燃やす。両岸の人々は皆、その母が火炎の中で男子の身となって大光明に乗じて夜魔天宮に上生するのを見た。後になって官司(役人)が福清渡を改めて大義渡となした、
という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8B%E7%82%AC)。この故事は『韻府群玉』(1307)にあるが、その出典は明らかではない、とある(仝上)。『百通切紙』(『浄土顕要鈔』。延宝九年(1681)成立)に、
黄檗禅師、母を引導してより禅家に引導す。禅家の引導を見て他宗も意を以て引導すと見えたり、
と記し、禅宗の作法に他宗が倣ならったようである(仝上)。
浄土宗でも、引導のことを、
引導下炬(いんどうあこ)、
といい、
僧侶が松明に見立てたものを2本とり、1本を捨てます。これは、煩悩のあるこの世を離れることを意味しています。そして、もう1本の松明で円を描きながら、法語を唱え、松明を捨てます。これは、浄土への思いを表しています、
とある(https://www.e-sogi.com/guide/1927/#i-2)。
「下」(漢音カ、呉音ゲ)は、
指事。おおいの下にものがあることを示す。した、したになる意を表す、上の字の反対の形、
とある(漢字源)が、
指事。高さの基準を示す横線の下に短い一線(のちに縦線となり、さらに縦線と点とを合わせた形となる)を書いて、ものの下方、また、「くだる」の意を表す、
ともある(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8B)。
(「下」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8Bより)
「火」(漢音呉音カ、唐音コ)は、
象形。火が燃えるさまを描いたもの、
である(漢字源)。
象形。燃え上がるほのおの形にかたどる、
も同じだ(角川新字源)が、
象形。燃える火の形を表した象形字。転じて「燃える」、「焼く」こと。更に転じて「火災」のこと、
ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%81%AB)。
(「火」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%81%ABより)
「炬」(漢音キョ、呉音ゴ、慣用コ)は、
会意兼形声。巨(キョ)は、工印のものさしにコ型の手て持つところのついた形を描いた象形文字。上の一線と下の一線とが隔たっている。距離の距(間がへだたる)と同系のことば。炬は「火+音符巨」で、長い束の先端に火をつけてもやし、ずっと隔たった下方を手に持つたいまつ、
とある(漢字源)。これだとわかりにくいが、「巨」(漢音キョ、呉音ゴ、慣用コ)は、
象形。I型の角定規に、手で持つための取手のついた姿を描いたもの。規矩の距(ク 角定規)の原字。のち両端が隔たった意味から、巨大の意に転用された(漢字源)、
とある。
(「巨」 成り立ち https://okjiten.jp/kanji1142.htmlより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年04月10日
禿筆
(細川清氏は)河内国に居たれども、その旧好を慕ひて尋ね来る人も稀なり。ただ秀(ち)びたる筆に喩へられし覇陵の旧将軍に異ならず(太平記)、
の、
秀(ち)び、
は「ちび」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464469440.html)で触れたように、
擦り減る、
意で、
古形ツビ(禿)の転、
とあり(岩波古語辞典)、「つび(禿)」は、
ツビ(粒)の動詞形(つぶ)、
で、
角が取れて丸くなる、
意であり
ちび下駄、
ちび鉛筆、
のそれである。これは、
ツブルと通ずる(和句解・和訓栞)、
キフル(髪斑)の義(言元梯)、
を語源とする「ちび(禿)る」に由来し、
粒、
から来ているとみていい。
「つぶ」は、「つぶら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/464485052.html)で触れたように、
つぶら(圓)の義、
とし(大言海)、
丸、
粒、
とあて(岩波古語辞典)、
ツブシ(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根(岩波古語辞典)、
ツブラ(円)義(東雅・夏山談義・松屋筆記・箋注和名抄・名言通・国語の語根とその分類=大島正健・大言海)、
などから見て、「粒」の意から出ているとみていい。なお、「ツブシ」が「粒」と関わるのは、「くるぶし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458644074.html)でも触れた。
禿びた筆、
は、
先のすり切れた筆、
の意で、
戯拈禿筆掃驊騮(カリュウ 名馬の名)歘(タチマチ)見麒麟出来壁(杜甫杜「壁上の韋偃(イエン)の画ける馬に題する歌」)、
と、
禿筆(とくひつ)、
と訓む漢語で、
禿毫冰硯竟無奇(范成大)、
と、
禿毫(とくごう)
ともいう(字源)。また、
敗筆、
ともいい(大言海)、
古くなった筆、
の意の外に、
即使是名家的书法、也不免偶有败笔、
と、
書道の大家であっても、たまの書き損ないは免れない、
弘法も筆のあやまり、
の意で、
(書画・文字・文章などの)できの悪いところ、書き損ない、
の意でも使う(https://ja.ichacha.net/mzh/%E6%95%97%E7%AD%86.html)。
「和語」としては、
擦り切れた筆、
の意の外に、
禿筆を呵す(とくひつをかす)、
というように、「呵す」は、
息を吹きかけること、
で、
穂先の擦り切れた筆に息を吹きかけて書く、
の意、転じて、
下手な文章を書く、
と、
自分の文章の謙遜語、
としても使う(デジタル大辞泉)。なお、「禿筆」は、和文脈では、
ちびふで、
かぶろふで、
とも訓ませる(精選版日本国語大辞典)。
また、冒頭引用の、
びたる筆に喩へられし覇陵の旧将軍に異ならず、
にある「覇陵の旧将軍」は、
漢の前将軍李広が、覇陵(陝西省(せんせいしょう)長安県)を通りかかって役人に通行を止められた。李広の従者が名乗ると、現職の将軍でさえ、夜間の通行は禁じられていると言われた(史記・李広将軍列伝)。この故事から、世に力を失った人を、「覇陵の旧将軍」といい、宋の詩人林通(字は達夫)は、李広を「禿筆」に喩えた、
とある(兵藤裕己校注『太平記』)。なお、李広は、司馬遷から、
桃李言わざれども下自ずから蹊(ミチ)を成す(桃や李の木は何も言わないが、その下には自然と人が集まって道ができる)、
とその人柄を評された、とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BA%83)。
「禿」(トク)は、
会意。「禾(粟が丸く穂を垂れるさま→まるい)+儿(人の足)」。まるぼうずの人をあらわす、
であり(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%BF)、「はげ」とか「筆のすりきれる」意である。
「筆」(漢音ヒツ、呉音ヒチ)は
会意文字。「竹+聿(手で筆を持つさま)」で、毛の束をぐっと引き締めて、竹の柄をつけたふで、
とある(漢字源)が、「聿」(漢音イツ、呉音イチ)は、
筆の原字。ふでを手にもつさまをあらわす。のち、ふでの意味の場合、竹印をそえて筆と書き、聿は、これ、ここなど、リズムを整える助詞をあらわすのに転用された、
とある(仝上)。「聿」は象形文字で、それのみで「ふで」を意味する。「筆」は、竹製であることを強調したものである。
(「聿」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%81%BFより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2022年05月12日
天狗
「伽縷羅煙」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486022291.html)で触れた、
伽縷羅(かるら)、
は、梵語Garuḍaで、
インド神話における巨鳥で、龍を常食にする、
とある(広辞苑)が、
インド神話において人々に恐れられる蛇・竜のたぐい(ナーガ族)と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。……単に鷲の姿で描かれたり、人間に翼が生えた姿で描かれたりもするが、基本的には、
人間の胴体と鷲の頭部・嘴・翼・爪を持つ、翼は赤く全身は黄金色に輝く巨大な鳥、
として描かれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80)、それが、仏教に入って、
天竜八部衆の一として、仏法の守護神、
とされ(広辞苑)、
翼は金色、頭には如意珠があり、つねに口から火焔を吐く、
が、日本の、
天狗、
は、この変形を伝えたもの(仝上)とされる。
確かに、曹洞宗 大雄山最乗寺にある、
道了尊・天狗化身像、
や、
大天狗、
小天狗、
を見ると、ガルダの像と似ていなくもない。道了尊は、
了庵慧明禅師の弟子だった道了尊者は、師匠の了庵慧明禅師が最乗寺を建立することを聞いて、近江の三井寺から天狗の姿になって飛んできて、神通力を使って谷を埋めたり、岩を持ち上げて砕いたりして寺の建設を手伝いました。そして了庵慧明禅師が75歳でこの世を去ると、寺を永久に護るために天狗の姿に化身して舞い上がり、山中深くに飛び去ったといわれ、以来、寺の守護神として祀られています、
とあり(https://daiyuuzan.or.jp/plan/tengu/)、特に、小天狗は、
インドの神話の巨鳥が烏天狗として表された。烏のような嘴をもった顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することができる、
とある(仝上)。
(道了尊 天狗化身像 五大誓願文を唱え、火炎を背負い、右手には拄状(しゅじょう)左手に縄を持ち、両手両足に幸運の使いの蛇を従え天狗に化身し、白狐の背に立ち、天地鳴動して山中に身を隠された、という伝説がある https://daiyuuzan.or.jp/plan/tengu/より)
(小天狗 別名烏天狗。 https://daiyuuzan.or.jp/plan/tengu/より)
「天狗(てんぐ)」は、古くは、
てんぐう、
とも訓んだらしいが、
(この山伏は)天狗にこそと思ふより、怖ろしきこと限りなし(古今著聞集)、
天狗・木魅などやうの物の、あざむき率(ゐ)てたてまつりたりけるにや(源氏物語)、
などと、
空を自由に飛び回る想像上の山獣。後には、深山で宗教的生活を営む行者、特に山伏に擬せられ、大男で顔赤く、鼻高く、翼あって神通力を持つものと考えられた。高慢な者、または、この世に恨みを残して死んだ人がなる(岩波古語辞典)、
とか、
山中に住むといわれる妖怪。日本では仏教を、当初は山岳仏教として受け入れ、在来の信仰と結び付いた修験道(しゅげんどう)を発達させたが、日本の天狗には修験道の修行者(=山伏)の姿が色濃く投影している。一般に考えられている天狗の姿は、赤ら顔で鼻が高く、眼光鋭く、鳥のような嘴をもっているか、あるいは山伏姿で羽根をつけていたり、羽団扇(はうちわ)を持っていて自由に空を飛べるといったりする。手足の爪が長く、金剛杖(づえ)や太刀(たち)を持っていて神通力があるともいう。これらの姿は、深山で修行する山伏に、ワシ、タカ、トビなど猛禽の印象を重ね合わせたものである(日本大百科全書)
とか、
天上や深山に住むという妖怪。山の神の霊威を母胎とし、怨霊、御霊など浮遊霊の信仰を合わせ、また、修験者に仮託して幻影を具体化したもの。山伏姿で、顔が赤く、鼻が高く、翼があって、手足の爪が長く、金剛杖・太刀・うちわをもち、神通力があり、飛行自在という。中国で、流星・山獣の一種と解し、仏教で夜叉・悪魔と解されたものが、日本にはいって修験道と結びついて想像されたもの。中世以降、通常、次の三種を考え、第一種は鞍馬山僧正坊、愛宕山太郎坊、秋葉山三尺坊のように勧善懲悪・仏法守護を行なう山神、第二種は増上慢の結果、堕落した僧侶などの変じたもの、第三種は現世に怨恨や憤怒を感じて堕落して変じたものという。大天狗、小天狗、烏天狗などの別がある。天狗を悪魔、いたずらものと解するときはこの第二・第三種のものである(精選版日本国語大辞典)、
とか、
深山に生息するという想像上の妖怪の一つ。一般に天空を飛び、通力をもって仏法の妨げをするといわれる。中国の古書『山海経』や『地蔵経』の夜叉天狗などの説が、日本古来の異霊、幽鬼、物怪(怨霊)などの信仰と習合したものと思われる。初期には異霊やコダマ(木霊)、変化、憑物の類なども天狗とされていたが、中世以後は山伏姿の赤ら顔で、鼻が高く、口は鳥のくちばしのようで、羽うちわをたずさえ、羽翼をたくわえて自由に空中を飛び回り、人に禍福を授ける霊神として祀られるようになった。天狗はまた、ぐひん、山の神、大人、山人とも呼ばれ、山に対する神秘観と信仰の現れでもある。大天狗、小天狗、からす天狗、木の葉天狗などの別があり、鞍馬、愛宕、比叡、大山、彦山、大峰、秋葉の各山々に住むとされ、武術の擁護者、讃岐金毘羅さんの使者ともされる(ブリタニカ国際大百科事典)、
等々と説明があるが、平安時代までは、
流星、
とび、
のように、人に憑いたり未来を予言する物の怪と考えられ、鎌倉時代以降、
山伏、
にたとえられるようになる(日本昔話事典)。今日の、
山伏姿で、顔が赤くて鼻が高く、背に翼があり、手には羽団扇はうちわ・太刀・金剛杖を持つ、
姿は、中世以降に確立した。「天狗」は、各地で、
狗賓(ぐひん)、
山人、
大人(おおひと)、
山の神、
とも呼ばれ(仝上・日本昔話事典)、
天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人山人ともいって、山男と同一視するところもある、
とし(柳田國男「山の人生」)、その性格、行状ともに、
山の神、
と密接に繋がっている(日本昔話事典)。柳田國男も、
自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵もなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨(みだ)りに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎ともに常人の意表に出でた故に、畏れ崇められていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった、
と指摘している(柳田國男・前掲書)。
(「天狗」(歌川国芳) 「競(くらぶ)れば、長し短し、むつかしや。我慢の鼻のを(置)き所なし」と記す https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97より)
大天狗、
は、顔が赤く鼻高く、
鞍馬山の僧正坊、愛宕山の太郎坊、比叡山の次郎坊、飯綱山(いづなさん)の三郎坊、大山の伯耆坊、彦山の豊前坊、白峯の相模坊、大峰の前鬼、
などが大天狗とされる(大言海)。
小天狗、
は、烏天狗ともいい、烏様の顔をしている(日本伝奇伝説大辞典)。ただ、小天狗の小さきを、
烏天狗、
木の葉天狗、
という(大言海)ともある。『沙石集(鎌倉時代中期)』で、無住は、
天狗ト云事ハ日本ニ申伝付タリ、聖教に慥ナル文証ナシ。先徳ノ釋ニ魔鬼ト云ヘルゾ是ニヤト覚エ侍ル。大旨ハ鬼類ニコソ。真実ノ智恵ナクテ、執心偏執、我相驕慢等アル者有相ノ行徳アルハ皆此道ニ入也、
として、
善天狗、
惡天狗、
があるとする(仝上)。
極楽に行くために修行を積んだため、法力はあるが、しかしながら、慢心や邪心などから悟ることができない。そんな人間が天狗道に落ち、天狗になると信じられるようになった、
ものらしい(https://hetappi.info/fantasy/zentengu.html)。「天狗道」とは、
怪しや我天狗道に落ちぬるか、落ちぬるか(太平記)、
と、
天狗の住む天界・鬼道、
を、仏教の六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)にならっていい、
増上慢や怨恨憤怒によって堕落した者の落ちる魔道、
をもいう(精選版日本国語大辞典)とある。
「天狗」は漢語で、
流星の聲を発するもの、
とされる(字源)。
落下の際、音響を発するもの、
の意で、大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球がしばしば空中で爆発、大音響を発する現象を言っていい、
天狗、状如犬、奔星有聲、其下止地類狗(史記)、
といい、
天狗星、
ともいう。転じて、
陰山有獣焉、其状如狸而白首、名曰天狗、其音如橊橊可以禦凶(山海経)、
と、
狸、
の如きものとされる(大言海・字源)。
(「天狗」(山海経) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97より)
日本でも天狗の初見は、日本書紀・欽明天皇九年(637)で、
雷に似た大音を発し、東西に流れた流星、
を指し、
あまつきつね(天狗)、
と呼んでおり、当初は、伝来そのままの呼称であったと思われ、
天狗流星、
は、
大乱ノ可起ヲ天予メ示サレケルカ(応仁紀)、
と、
大乱・兵乱の兆し、
と記している。柳田國男ではないが、
時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変わっている、
ような「天狗」については、
かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘く求めてみればみるほど輪廓は次第に茫漠となるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である、
と述べている(山の人生)のが正直、妥当なところなのかもしれない。たとえば、
山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚って、遁げようと思っているななどといいあてるので、怖しくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋とか杉の皮を剥く者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣ってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾かれたなどと語っている、
と(仝上)、同じ話題が、サトリにも、山爺にも、天狗にもなる。その区別はつかないのである。それが文字や絵の話ではなく、現実の里での話なのである。
さて、漢字「天」(テン)は、「天知る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/484881068.html)で触れたように、
指事。大の字に立った人間の頭の上部の高く平らな部分を一印で示したもの。もと、巓(テン 頂)と同じ。頭上高く広がる大空もテンという。高く平らに広がる意を含む、
とある(漢字源)。
別に、
象形。人間の頭を強調した形から(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A4%A9)、
指事文字。「人の頭部を大きく強調して示した文字」から「うえ・そら」を意味する「天」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji97.html)、
指事。大(人の正面の形)の頭部を強調して大きく書き、頭頂の意を表す。転じて、頭上に広がる空、自然の意に用いる(角川新字源)、
等々ともある。
「狗」(漢音コウ、呉音ク)は、「狡兎死して」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485426752.html)で触れたように、
会意兼形声。「犬+音符句(小さくかがむ)」
で、愛玩用の小犬を指すが、後世には、犬の総称となったが、
走狗、
のように、いやしいものの喩えとして用いることがある(漢字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2022年09月15日
業障
我々は、男身にはかに変じて女身になり候こと、あさましき進退、業障(ごうしょう)深重(じんじゅう)に候(奇異雑談集)、
にある、
業障、
は、
仏教で、悪業をつくって正道を邪魔する三障、または四障の一つ、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。因みに、「深重」(しんじゅう)は、
古くは「じんじゅう」、
とあり、
幾重にもつみ重なる、
意である(精選版日本国語大辞典)。
業障(ごうしょう)、
は、
ごっしょう、
とも訓み、
悪業のさわり、
の意で、
悪業(あくごう)によって生じた障害、
であり、
五逆、十悪などの悪業による罪、
とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。「五逆」(ごぎゃく)とは、
五逆罪、
ともいい、仏教で説く、
五種の重罪、
ともいい、この五つの重罪を犯すと、もっとも恐ろしい無間地獄(むけんじごく)に落ちるので、
五無間業(ごむけんごう)、
ともいう。その数え方に諸説あるが、代表的なものは、
母を殺すこと、
父を殺すこと、
悟りを開いた聖者(阿羅漢)を殺すこと、
仏の身体を傷つけて出血させること(仏身を傷つけること)、
仏教教団を破壊し分裂させること(僧の和合を破ること)、
とされる。前二者は、
恩田(おんでん 恩に報いなければならないもの)に背き、
後三者は、
福田(ふくでん 福徳を生み出すもの)に背く、
もので、仏法をそしる謗法罪(ぼうほうざい)とともに、もっとも重い罪とされる(日本大百科全書・広辞苑)。
「十悪」(じゅうあく)は、
離為十悪(南斉書・高逸伝論)、
とあるように、
身、口、意の三業(さんごう)が作る十種の罪悪、
の意で、
殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)、
の、
身三(しんさん)、
妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ)・悪口(あっく)・綺語(きご)、
の、
口四(くし)、
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じゃけん)、
の、
意三(いさん)、
をいい、
げに嘆けども人間の、身三・口四・意三の、十の道多かりき(謡曲・柏崎)、
と、
身三口四意三(しんさんくしいさん)、
という言い方をする(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。この逆が、
十善(じゅうぜん)、
で、
十悪を犯さないこと、
で、
不殺生・不偸盗(ちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不綺語(きご)・不悪口(あっく)・不両舌・不貪欲・不瞋恚(しんい)・不邪見、
といい、
十善業、
十善戒、
十善業道、
という(仝上)。
「三障」(さんしょう)は、
正道やその前段階である善根をさまたげる三つのさわり、
の意で、
煩悩障(ぼんのうしょう 貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)などの煩悩)、
業障(ごうしょう 五逆、十悪などの行為)、
報障(異熟障すなわち地獄、餓鬼、畜生の苦報など)、
をいい、「四障」(ししょう)は、
悟りを得るための四つの障害、
の意で、
仏法を信じない闡提(闡提障)、
我見に執着する外道(外道障)、
生死の苦を恐れる声聞(声聞障)、
利他の慈悲心がない独覚(独覚障)、
の四つを言う(「闡提」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/491461201.html?1663096126)については触れた)が、一説に、
惑障(物に迷うこと=煩悩)、
業障(悪業のさわり)、
報障(悪業のむくい)、
見障(邪見)、
ともある。ついでに「五障」というのもあり、
修道上の五つの障害、
を指し、
煩悩障(煩悩(ぼんのう)のさわり)、
業障(ごつしよう 悪業のさわり)、
生障(しようしよう 前業によって悪環境に生まれたさわり)、
法障(ほつしよう 前生の縁によって善き師にあえず、仏法を聞きえないさわり)、
所知障(しよちしよう 正法を聞いても諸因縁によって般若波羅蜜(はんにやはらみつ)の修行ができないさわり)、
をいう(仝上・世界大百科事典)。ただ、信、勤、念、定、慧の五善根にとってさわりとなる、
欺、怠、瞋、恨、怨、
を五障ということもある(仝上)。
こうみると、冒頭の、
仏教で、悪業をつくって正道を邪魔する三障、または四障の一つ、
という注記は少し訂正が必要である。「業障」は、
三障のひとつ、
ではあるが、
四障のひとつ、
とするには異説があるようだ。
「業」(漢音ギョウ、呉音ゴウ)は、「一業所感」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/485653172.html)で触れたように、
象形。ぎざぎざのとめ木のついた台を描いたもの。でこぼこがあってつかえる意を含み、すらりとはいかない仕事の意となる。厳(ガン いかつい)・岩(ごつごつしたいわ)などと縁が近い、
とある(漢字源)が、別に、
象形。楽器などをかけるぎざぎざのついた台を象る。苦労して仕事をするの意か、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%AD)、
象形。かざりを付けた、楽器を掛けるための大きな台の形にかたどる。ひいて、文字を書く板、転じて、学びのわざ、仕事の意に用いる、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板」の象形から「わざ・しごと・いた」を意味する「業」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://okjiten.jp/kanji474.html)、
ぎざぎざのとめ木のついた台、
が、
のこぎり状のぎざぎざの装飾を施した楽器を掛ける為の飾り板、
と特定されたものだということがわかる。
「障」(ショウ)は、
形声、「阜(壁や塀)+音符章」で、平面をあてて進行をさしとめること。章の原義(あきらか)には関係ない、
とある(漢字源)。遮るの「障害」、防ぐの「堤障」、進行を止めるの「故障」「障壁」、さわりの「罪障」等々と使う。別に、
形声文字です。「段のついた土山」の象形(「丘」の意味)と「墨だまりのついた大きな入れ墨ようの針」の象形(「しるし」の意味だが、ここでは「倉(ショウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、「かくしおおう」の意味)から、丘でかくし「へだてる」を意味する「障」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji989.html)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年01月02日
化生
いかさま化生(けしょう)の類ならんと、恐れてすすまず(新御伽婢子)、
化生、
は、
変化、幽霊の類、
と注記がある(高田衛編・校注『江戸怪談集』)。
化生、
は、
かせい、
と訓ませると、
汝天地の中に化生して(太平記)、
と、
形を変えて生まれること、
の意味で、
化身に同じ、
ともあり(広辞苑)、また、
変質形成、
の意で、
赤星病にかかったナシの葉での海綿組織から柵(サク)状組織への変化、
のように、
ある特定の器官に分化した生物の組織・細胞が再生や病理的変化に伴って著しく異なった形に変化する、
意で使う(大辞林)。また、
水面無風帆自前、徒弄化生求子戯(玩鴎先生詠物百首(1783)・泛偶)、
と、西域から中国に伝わった風俗の、
七夕の日に、女性が子を得るまじないとして水に浮かべる蝋作りの人形、
の意味もある(精選版日本国語大辞典)。
けしょう、
と訓ませると、
無而忽現、名化生(瑜加論)、
と、仏語の、
四生の一つ、
で、
湿生化生(ケシャウ)はいさ知らず体を受けて生るる者、人間も畜生も出世のかどは只一つ(浄瑠璃「釈迦如来誕生会(1714)」)、
と、
母胎や卵殻によらないで、忽然として生まれること、
をいい、
天界や地獄などの衆生の類、
を指す(精選版日本国語大辞典)。
「四生」(ししょう)は、「六道四生」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/486172596.html)で触れたように、生物をその生まれ方から、
胎生(たいしょう 梵: jarāyu-ja)母胎から生まれる人や獣など、
卵生(らんしょう 梵: aṇḍa-ja)卵から生まれる鳥類など、
湿生(しっしょう 梵: saṃsveda-ja)湿気から生まれる虫類など、
化生(けしょう upapādu-ka)他によって生まれるのでなく、みずからの業力によって忽然と生ずる、天・地獄・中有などの衆生、
の四種に分けた(岩波仏教語辞典)ひとつ。その意味から、
後時命終。悉生東方。宝威徳上王仏国。大蓮華中。結跏趺坐。忽然化生(「往生要集(984~85)」)、
と、
極楽浄土に往生する人の生まれ方の一つ、
として、
弥陀の浄土に直ちに往生すること、
の意、さらに、
其の柴の枝の皮の上に、忽然に彌勒菩薩の像を化生す(「異記(810~24)」)、
化身、
化人、
の意で、
仏・菩薩が衆生を救済するため、人の姿をかりて現れること、
の意として使うが、ついには、
まうふさが打ったる太刀もけしゃうのかねゐにて有間(幸若「つるき讚談(室町末‐近世初)」)、
と、
ばけること、
の意となり、
化生のもの、
へんげ、
妖怪、
の意で使われるに至る(精選版日本国語大辞典・広辞苑・大辞林)。で、
化生の者(もの)、
というと、
ばけもの、
へんげ、
妖怪、
の意の外に、それをメタファに、
美しく飾ったり、こびたりして男を迷わす女、
の意でも使う。
「化」(漢音カ、呉音ケ)は、
左は倒れた人、右は座った人、または、左は正常に立った人、右は妙なポーズに体位を変えた人、いずれも両者を合わせて、姿を変えることを示した会意文字、
とある(漢字源)が、別に、
会意。亻(人の立ち姿)+𠤎(体をかがめた姿、又は、死体)で、人の状態が変わることを意味する、
とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%96)、
会意形声。人と、𠤎(クワ 人がひっくり返ったさま)とから成り、人が形を変える、ひいて「かわる」意を表す。のちに𠤎(か)が独立して、の古字とされた、
とか(角川新字源)、
指事文字です。「横から見た人の象形」と「横から見た人を点対称(反転)させた人の象形」から「人の変化・死にさま」、「かわる」を意味する「化」という漢字が成り立ちました、
とか(https://okjiten.jp/kanji386.html)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年03月16日
打出の太刀
打出(うちで)の太刀をはきて、節黒の胡簶(やなぐい 矢を入れ、右腰につけて携帯する道具)の、雁股(かりまた)に幷(ならび)に征矢(そや 戦闘に用いる矢。狩矢・的矢などに対していう)四十ばかりをさしたるを負ひたり(今昔物語)、
の、
打出の太刀、
は、
金銀を延べて飾った太刀、
と注記があり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、
節黒、
は、
矢柄(がら)の節の下を黒く漆で塗った物、
とある(仝上)。
打出、
は、
うちいで、
うちだし、
とも訓み、
打出の太刀、
は、
金銀を打ち延ばした薄板で柄・鞘を包み飾った太刀、
をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。なお、「矢」については、「弓矢」、「矢の部位名」については、「はず」、「乙矢」、「矢の種類」については、「鏑矢」、「雁股」については「雁股の矢」で、それぞれ触れた。
「かたな」、「太刀」で触れたように、「太刀(たち)」は、
太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用(はいよう)するもの、
で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%80)、
腰に佩くもの、
を指す。腰に差すのは、
打刀(うちがたな)、
と言われ、打刀は、
主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀剣、
とされる(仝上)。馬上では薙刀などの長物より扱いやすいため、南北朝期~室町期(戦国期除く)には騎馬武者(打物騎兵)の主力武器としても利用されたらしいが、騎馬での戦いでは、
打撃効果、
が重視され、「斬る物」より「打つ物」であったという。そして、腰に佩く形式は地上での移動に邪魔なため、戦国時代には打刀にとって代わられた、
とある(仝上)。
(金無垢板打出葵紋散糸巻太刀拵え https://www.samurai-nippon.net/SHOP/V-1842.htmlより)
打刀(うちがたな)、
は、
反りは「京反り」といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%88%80)、やはり、これも、
太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣である、
という(仝上)。ちなみに、
「通常 30cmまでの刀を短刀、それ以上 60cmまでを脇差、60cm以上のものを打刀または太刀と呼ぶ。打刀は刃を上に向けて腰に差し、太刀は刃を下に向けて腰に吊る。室町時代中期以降、太刀は実戦に用いられることが少い、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「太刀」と「打刀」の区別は、例外があるが、「茎(なかご)」(刀剣の、柄つかの内部に入る部分)の銘の位置で見分ける。
(打刀の差し方(江戸時代の武士。左の武士は落とし差し。右の武士は閂差し(もしくは素早く刀を抜けよう左手で握り鐺(こじり)も上げている) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%88%80より)
「いかもの」で触れたように、
嚴物造(づく)り、
は、
嚴物作、
怒物作、
嗔物造、
等々と当てて、
鍬形打ったる甲の緒をしめ、いかものづくりの太刀を佩き(「平治物語(鎌倉初期)」)、
と、
見るからに厳めしく作った太刀、
を指し(岩波古語辞典)、
龍頭の兜の緒をしめ、四尺二寸ありけるいか物作りの太刀に、八尺余りの金(かな)さい棒脇に挟み(太平記)、
では、
金銀の装飾をしていかめしく作った太刀、
と注がある(兵藤裕己校注『太平記』)。
イカモノは、形が大きくて堂々としているもの、
とある(岩波古語辞典)だけでなく、
事々しく、大仰なさま、
をも言っているようである。
打出の太刀、
も、その一種、こけおどしに見える。
なお、刀については、「鎧通し」、「来国光」でも触れた。
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95