2023年03月20日
詠(なが)む
こぼれてにほふ花櫻かなと詠(なが)めれば、其の聲を院聞かせ給ひて(今昔物語)、
花を見る毎に、常にかく詠めけるなめりとぞ人疑ひける(仝上)、
などとある、
詠む、
は、
声を長くひく、また、声を長くひいて詩歌をうたう、
つまり、
真日中に、聲を挙げてながめけむ、まことに怖るべき事なりかし(仝上)、
と、
詩歌を吟詠する、
意で(広辞苑・大辞林)、そこから、転じて、
彼の在原のなにがしの、唐衣(からころも)きつつなれにしとながめけん三河の国八橋(やつはし)にもなりぬれば(平家物語)、
と、
詩歌をつくる、
詠ずる、
吟ずる、
つまり、
詠(よ)む、
意でも使う。
「詠む」は、
「長(なが)む」の意か(広辞苑・大辞林)、
「なが(長)」から派生した語か。「長む」とも書く(日本国語大辞典)、
とある。
長む、
は、
さしはなれたる谷の方より、いとうらわかき聲に、遥かにながめ鳴きたなり(蜻蛉日記)、
いとむつかしがれば、長やかにうちながめて、みそかにと思ひて云ふらめど(枕草子)、
と、
長くなす、
引き延ばす、
意で、
詠む、
と同義でも使う(大言海)。憶説だが、
長む、
が先で、
歌を詠う、
のと絡めて、
詠む、
と当てたのではあるまいか。漢字「詠」は、
聲を長くのばして、詩歌をうたう、
意と共に、
詩歌を作る、
意もある(漢字源)。
「詠」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、
会意兼形声。「言+音符永(ながい)」、
とあり(仝上)、
声を長く引いて「うたう」意を表す、
とある(角川新字源)。別に、
会意兼形声文字です(言+永)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「支流を引き込む長い流域を持つ川」の象形(「いつまでも長く続く・はるか」の意味)から、口から声を長く引いて「(詩歌を)うたう」を意味する「詠」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1238.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年09月23日
可能態としてのヒト
M・ハイデガー(熊野純彦訳)『存在と時間』を読む。
昔読んだとき、自分の中では、
人は死ぬまで可能性の中にある、
というフレーズが残った。しかし、そういうシンプルなフレーズを、ハイデガーは何処にも記していないので、僕のまったくの勝手読みで、記憶したもののようである。しかし、
死までの時間、
が人の生きる期間だとすると、その間をどう生きるか、が問われている。ハイデガーは、人間存在を、
現存在、
と呼ぶ。それは、存在について、
問う者、
でもある。そして、
自分という存在を自分のものとして存在させる、
ものである人間存在のあり方を、
実存(エクシステンツ)、
と呼ぶ。それは、
いつも、自分みずからを、自分みずからであるのか、あるいは自分みずからでないのかの、いずれかの、自分みずからの可能性から了解している、
のであり、このどちらかの可能性を、
みずから選んだのか、あるいは……その可能性のなかに這入りこんだのか、あるいはすでにそのなかで成長しているのか、
だという。それを自分で把握しているかどうかは別として、
そのつどの現存在自身によって決定、
している者でもある。これを勝手読みすれば、人は、
その可能性を拾うも捨てるも、おのが手の中に持つ、
ということになる。
現存在というものは、
自分があるということが分かっている、
一方、
自分の存在に関わりをもっている存在、
とはそういう意味になる。現存在とは、第一義的に、
可能存在、
であり、
自分の可能性そのもの、
であるともいう。それを、現存在は、
かれの存在において、そのつどすでにかれ自身に先立って在る、ということです。現存在はつねにすでに「自分を超えでて」在り、しかも……現存在自身である存在可能への存在として、自分を超えでて在るのです。
そして、この存在構造を、
現存在の自分に=先だって=存在すること、
ともいう。ただサルトル(『存在と無』)も確か批判していたと思うが、死を、
現存在の終り、
とするのはいいとして、
追い越すことのできない可能性、
というのは如何なものか。これは可能性と表現すべきものではない気がするのだが、
自分に先立つ、
存在という意味では、死は、
終わりへの存在、
となり、ちょうど
世界史と救済史、
ではない(O・クルマン『キリストと時』)が、終末から「今」をみるキリスト教的なものの見方の反映と見ると、ある意味、
可能性、
という表現を使っている意味が見えてくる気がする。この、
死のもつ有限性、
を、
自分の所まで[到来する]ということであって、……追い越し得ない可能性として実存しながら、自分へということなのです。
という言い方は、終末から今を見ている視点を感じ、キリスト教的と感じるのは、僻目だろうか。
時間性は、現存在の歴史性として露われます、
とはそういう意味に見えて仕方がない。誕生と死の、
「あいだ」に在る、
現存在の、
死はあくまで現存在の「終わり」にすぎず、形式的にいえば、現存在の全体性をとり囲んでいるひとつの終りにすぎません、
とは、ちょっと納得しがたい言い方である。
それにしても、個人的には、
良心、
という言葉が出てきた瞬間に、鼻白む。カント(『純粋理性批判』)が言っていた「良心」に比べると、ぼくには、唐突感が否めない。これも僻目だろうか。
参考文献;
M・ハイデガー(熊野純彦訳)『存在と時間』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年09月25日
普賢薩埵
法華経娑婆に弘むるは、普賢薩埵の力なり、讀む人其の文(もん)忘るれば、共に誦して覚(さと)るらん(梁塵秘抄)、
の、
普賢薩埵、
の、
薩埵、
は、「薩埵」で触れたように、
梵語sattvaの音訳、
で、
薩埵婆(さったば)の下略、
とあり(大言海)、
有情(うじょう)、衆生(しゅじょう)、およそ生命あるもののすべての称、
の意とある(広辞苑・ブリタニカ国際大百科)が、さらに、
梵語bodhisattvaの音訳、
で、
菩提薩埵(ぼだいさった)の略、
であり、仏教において、
菩提(bodhi、悟り)を求める衆生(薩埵 sattva)、
の意味とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9)、元来は、
仏教の創始者釈尊の成道(じょうどう 悟りを完成する)以前の修行の姿、
をさしている、とされる(日本大百科全書)。だから、釈迦の死後百年から数百年の間の仏教の原始教団が分裂した諸派仏教の時代、『ジャータカ』(本生譚 ほんじょうたん)は、釈尊の前世の修行の姿を、
菩薩、
の名で示し、釈尊は他者に対する慈悲(じひ)行(菩薩行)を繰り返し為したために今世で特別に仏陀になりえたことを強調した(仝上)。故に、この時代、
菩薩はつねに単数、
で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊だけを意味した(仝上)。だから、たとえば、「薩埵」も、
釈迦の前身と伝えられる薩埵王子、
を指し、
わが身は竹の林にあらねどもさたがころもをぬぎかける哉、
とある(宇治拾遺物語)「さた」は、
薩埵脱衣、長為虎食(「三教指帰(797頃)」)、
の意で、
釈迦の前生だった薩埵太子が竹林に身の衣装を脱ぎかけて餓虎を救うために身を捨てた、
という故事(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)で、法隆寺玉虫厨子の蜜陀絵にも見える(仝上)。しかし、西暦紀元前後におこった大乗仏教は、『ジャータカ』の慈悲行を行う釈尊(菩薩)を自らのモデルとし、
自らも「仏陀」になること、
を目ざした。で、
菩薩は複数、
となり、大乗仏教の修行者はすべて菩薩といわれるようになり(日本大百科全書)、大乗経典は、
観音、
弥勒、
普賢、
勢至、
文殊、
など多くの菩薩を立て、歴史的にも竜樹や世親らに菩薩を付すに至る(百科事典マイペディア)。で、仏陀を目ざして修行する菩薩が複数であれば、過去においてもすでに多くの仏陀が誕生しているとされ、薬師、阿弥陀、阿閦(あしゅく)などの、
多仏思想、
が生じ、大乗仏教は、
菩薩乗、
もいわれる(仝上)。宋代(1143年)の梵漢辞典『翻訳名義集』(ほんやくみょうぎしゅう)には、「薩埵」の項に、
薩埵、秦言大心衆生、有大心、入仏道、名菩提薩埵、……菩提名仏道、薩埵名成衆生、……薩埵此曰衆生以智上求菩提、用悲下救衆生、
とあり、もとの「薩埵」の意味を伝えている。で、
普賢薩埵、
は、
普賢菩薩、
の意である。無量寿経の「普賢菩薩」註に、
普賢者、梵邲輸跋陀、或三曼跋陀、此云普賢、
とあるように、梵語、
Samantabhadra、
の音訳、
三曼多跋陀羅、
あるいは、梵語、
Visvabhadra、
の音訳、
邲輸跋陀
なとされ、
普賢、
遍吉、
と意訳される(大言海・ブリタニカ国際大百科事典)、
徳利周徧(普)、仁慈惠悟(賢)の菩薩名、
と(仝上)、
あまねく一切処に現れて賢者の功徳を示す、
ことから、
普賢、
の名があり、
仏陀の実践的理性を司る菩薩、
で、
如来の悟りの理法や禅定、修行の面を顕わした菩薩、
であり、
一切菩薩の上首として常に仏の教化・済度を助ける、
とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
理知・慈悲をつかさどり、また延命の徳を備える、
とある(大辞泉)。
(普賢菩薩 精選版日本国語大辞典より)
(普賢菩薩像(東京国立博物館) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E8%8F%A9%E8%96%A9より)
普賢大士、
ともいい、智慧の文殊に対し、
慈悲の普賢、
という(デジタル大辞泉)。釈迦三尊の中では、
智慧を司る文殊菩薩と並んで、釈迦如来の右(向かって左)の脇士(脇侍 きょうじ)、
として知られ(仝上)、
恒受妙楽、終遇舎那之法莚、将普賢而宣遊、共文珠而展化(正倉院文書「東大寺献物帳」天平勝宝八年(756)六月二一日)、
とある。
『華厳経』「普賢行願品」にある、この菩薩の立てた十大願は、
一切の菩薩の行願の旗幟、
とされ(仝上)、
應修十種廣大行願。何等爲十。一者禮敬諸佛。二者稱讃如來。三者廣修供養。四者懺悔業障。五者隨喜功徳。六者請轉法輪。七者請佛住世。八者常隨佛學。九者恒順衆生。十者普皆迴向。
とあり、十種の広大の行願を、
一には、諸仏を礼敬す、
二には如来を称讃す、
三には広く供養を修す、
四には業障を懺悔す、
五には功徳に随喜す、
六には転法輪を請す、
七には仏住世を請う、
八には常に仏の学に随う、
九には衆生に恒に順ず、
十には普くみな廻向す、
とある(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E3%81%AE%E9%A1%98)。
その像容は、独尊として表されるときは、「法華経」普賢勧発品で、
六牙の白象に乗って法華経の信仰者を守護しにやってくる、
とあり、
蓮華座を乗せた六牙の白象の背に結跏趺坐し、合掌の姿、
をとり(精選版日本国語大辞典)、普賢は行(ぎよう)を象徴し、
白象に乗る、
のに対し、文殊は知を象徴し、
獅子に乘る、
とある(デジタル大辞泉)。釈迦如来の脇侍の場合は、
右手を如意、左手を与願の印に結ぶ(ブリタニカ国際大百科事典)、
合掌または独鈷をとる姿で白象に乗る(精選版日本国語大辞典)、
などとある。密教では、
金剛薩埵(さった)と同体と考えられ、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院の南東隅に置かれ、左手には剣を立てた蓮華を持ち、右手は三業妙善の印を結ぶ、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)が、
金剛薩埵と全く同じ左手に五鈷鈴、右手に五鈷杵を執る姿で表される他、如意や蓮華、経典を手に持つ作例も見られる、
ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E8%8F%A9%E8%96%A9)。
(釈迦三尊像(東大寺蔵)、脇侍は文殊菩薩(右)と普賢菩薩(左) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8Aより)
また、密教で、普賢菩薩に延命の徳があるところから、これを人格化して延命、増益を祈る本尊とした尊像を、
普賢延命菩薩、
といい、
寿命を延ばし、智慧敬愛を得ることを祈願する、
延命法、
の本尊として、
二臂または二十臂で、一身三頭あるいは四頭の白象に乗る、
像があり、
20臂像は真言系、
2臂像は天台系、
とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E5%BB%B6%E5%91%BD%E8%8F%A9%E8%96%A9)、
延命菩薩、
ともいう(広辞苑)。
二臂像、
の場合、
右手に金剛杵、左手に金剛鈴を執り、三象または一身三頭象に乗る、
とされ、両側に四天王を配する場合もある。
二十臂像、
の場合、
大安楽不空金剛三味真実菩薩と同じ持物を執り、四象に乗り、それぞれの頭上に四天王を配する、
とある(精選版日本国語大辞典)。「大安楽不空真実菩薩」は、
悟りを生み出す智慧を持つとされ、この菩薩が制定した禅定に入れば時の限界を超越した安楽な命が生成されるとされることから「普賢延命」と呼ばれるようになった、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E5%BB%B6%E5%91%BD%E8%8F%A9%E8%96%A9)。
普賢延命菩薩、
は、
一身四頭(三頭)の白象に騎乗、
する(仝上)。
(普賢延命菩薩像(ギメ美術館) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E8%8F%A9%E8%96%A9より)
(普賢延命菩薩像(奈良国立博物館蔵) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E5%BB%B6%E5%91%BD%E8%8F%A9%E8%96%A9より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95