2014年02月16日

書く


書くについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163427.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163560.html

等々,何度か,すでに書いた。今回は少し違う切り口で,僕の書くについて,書いてみたい。

僕にとっては,書くことは,まとめること,あるいは,編集することだ。したがって,思いをそのまま,つらつらと書き殴る,ということではない。

例えば,依頼されたテーマがあるとすると,

そのテーマについて,まず最初に,いくつかの断片が浮かび,断片がまたいくつかの断片を引っ張りだしてくる。これが出てくれば,なんとなく書ける予感がする。

それはもう少し具体的には,,頭の中に,いくつかのアイデアや,語彙,自分の過去に書いた文章の断片,それからとっさに浮かぶ参考文献や,そこから出てくるフレーズ等々が,雑多に頭を駆け巡り,その段階では,思いつくままに,メモを取る。

そのほとんど,フレーズだったり,ひとかたまりの考えの流れだったり,骨子のラフスケッチだったり,いろいろだ。そんなことをしているうちに,そのうちに,なんとなく全体像がかたちになり,流れになる。

口幅ったいが,それは,ちょうど,ヴァン・ファンジェの言う,

創造性とは,既存の要素の新しい組み合わせ,

という感じである。もう少し言うと,川喜多二郎氏の言う,

本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,

というか,結びついて,意味がひとつらなりになっていくときが,流れの感じである。だから,編集なのである。

頭のなかで(メモを取ることもあるが)本当にラフの流れができると,もう書きたくなる。

大体そんな段階で,いきなりパソコンに向かって,打ち始める。

そうすると,流れが固まりのようになって,次々と出てくるときと,ある程度で止まってしまうときと,ほとんど数行でとん挫するときと,いろいろあるが,うまくいくときは,大体終わりまでが,書き上がる。うまくいかないときは,流れの見込み違いなのである。だから,再度,メモへ戻す。仕事だと,何とか書き上げるが,仕事でなければ,没になることもままある。

推敲とか,構成とかは,その後にすることが多い。

だから,基本は,流れのまま書き流す,というスタイルになっている。

昔は(手書きの時代だが),表現や語句に結構こだわっていて,あれこれ考えあぐねたりしたが,ワープロになってから(正確には8ビットのパソコン→ワープロ→98という流れだが)は,あまり遂行せず,出てきたものをそのまま書いていくようになった。いいか悪いかはわからないが,表現に凝る,ということがなくなった。

それは最適な表現を探すという内的な葛藤がなくなったという言い方もできるが,ストレートに書いている流れのままに紡ぎ出す方が自然だという感じなのかもしれない。

ブログを書く時も,似たもので,

書くテーマが浮かぶときは,何かに憤っていたり,思いが募っていたりするが,そうでない場合は,

フレーズ,

テーマ,

語句,

読んだ文章,

がきっかけで,自分の中から反応する思いや言葉を書き連ね,何とかまとめきろうとする意志が働く。

自分の中に反応するのは,

それへの共鳴,共振れ,

過去に考えたこと,

それへの反発・同感,

いまの心境とのシンクロ,

過去に読んだものとの共振れ,

等々多岐にわたるが,僕のなかでは,書きはじめたら,何が何でもまとめきりたいという意志だけが強い。大体,目安は,400字詰めで,10枚を基準にして,帳尻をつける。

いまの理想は,

自然体の文章,

だ。思いの流れにまかせて,淡々と,流れる文章でありたい。

文は,人なり,

というが,そんなことはどうでもよく(それは結果だから),筆がスムーズに流れていくのがいい。どこかで,無理に凝ったり,練ったりするのは,邪魔になる。

それだけに,逆にこちらの力量・技量がもろに問われる,そんな文章なのではないか。

そして,どんなお題にも,何かを必ず書ききれる,(ブログレベルの話だが)そういう書き手になりたいと思っている。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年09月02日

書く


何度も書いたかもしれないが,時枝誠記は,日本語では,

「『桜の花が咲か』ない」

「『桜の花が咲い』た」

における,

「た」

「ない」

は,

「表現される事柄に対する話手の立場の表現」

つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし,「桜の花が咲く」の部分を,

「表現される事物,事柄の客体的概念的表現」

である「詞」とした。

要は,辞において初めて,そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち,

第一に,辞によって,話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか,それにどういう感慨をもっているのか,賛成なのか,否定なのか等々。

第二に,辞によって,語っている場所が示される。目の前にしてなのか,想い出か,どこで語っているのか等々が示される。それによって,いつ語っているのかという,語っているもののときと同時に,語られているもののときも示すことになる。

さらに第三に重要なことは,辞のときにある話者は,詞を語るとき,一旦詞のときところに観念的に移動して,それを現前化させ,それを入子として辞によって包みこんでいる,という点である。

これを,三浦つとむは,的確な指摘によれば,

「われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,想像によって,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し,あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を,われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり,現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかつたとすれば,現在の私は
        予想の否定 過去
  雨がふら  なくあっ    た
というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっているときと今朝のそれを否定する天候を確認したときとそれを語っているいま=引用者)と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」

という,アクロバチックな構造表現になる。

かつて,これを読んだときの興奮がいまも蘇る。ひとが,何かを語る時の,その構造の奥行を垣間見た気がするのだ。そして,それを書いていた,とすると,

昨日雨が降らなかった,

という一文に,


「昨日まだ雨が降らない」とき

「『(明日は)雨が降るだろう』と予想した雨のふっている(だろう明日の状態の想像の中にいる)」とき

「今朝のそれを否定する天候を確認した」とき

「それを語っている」とき

「それについて書いている」とき


とが多層に渡って埋め込まれている,ということができる。こういう日本語では,そのつど,語り手は,


「雨の降っていない」とき

「雨の降っている想像の未来」のとき

「雨が降っていない」翌日のとき

そう語っているとき

そう書いているとき

という多重の時間を,一瞬で飛んでいるのである。そのことを意識しないと,時制は使いこなせない。

ヴァインリヒは,語りの時制について次のように指摘している。

「われわれが語るときには,その発話の場から出て,別の世界,過去ないし虚構の世界へ移る。それが過去のことであれば,何時のことであるかを示すのが望ましく,そのため物語の時制と一緒に……正確な時の表示が見られる。」

と言う。日本語が論理的でないとかと言う人は,日本語をよく知らないのだ。我々はそれほど無意識で,時制を使いこなしている。つまり,

話者にとって,語っているいまからみた過去のときも,それを語っている瞬間には,そのときを現前化し,その上で,それを語っているいまに立ち戻っているということを意味している。

こうやって多層に入子になっているのは,語られている事態であると同時に,語っているときの中にある語られているときなのである。

僕は,かつてケースライティングを職務としていたことがある。そのとき,あくまでケースライティングの書き方だが,まとめたことがある。

因みに,ここでいう「ケース」と言うのは,職場のマネジメント課題を研修として利用するために,職場で起こるような問題事例を,物語風にまとめることを言う。

そのために,起こっている問題を構造化する。

「通常問題の構造化というと,『問題と原因の因果関係』といったことになります。しかし,それでは,問題が,自分の外のことにしかなりません。問題と感じるのも,それを問題にするのも自分である以上,主体側のパースペクティブ抜きに,問題の構造化はありえません。したがって,

 ①問題の空間化(ひろがり)
 ②問題の時間化(時系列)
 ③問題のパースペクティブ化(誰にとって,誰からの)

の3つなくして,構造化はありえません。」

と書いたとき,問題を構造化するのは,

問題を自分の問題とすること,

言い換えると,

その問題場面に,当事者として,登場することを想定して,問題を捉えること,

ということになる。わかりにくいが,時制と同様,自分がその問題の場面のときに,飛ばない限り,当事者として問題は捉えられないということを言っていたのである。だから,鍵になるのは,

パースペクティブ

となる。

物語の形で語られている以上,語り手が,かく語っているにすきない。つまり,

「その事実を描いている,あるいは目撃しているのが誰で,どこからそれを見ているのか,のパースペクティブが明確であることです。その位置に応じて,事実は違って見える(事実はひとつなどと子供のようなたわごとを言う人は,ケースライティングどころか,マネジメントの資格もありません)し,当然,問題も違って見えるのです。

語っている『私』が,その問題を見ていることなのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語っているのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語った人から聞いたことなのか
語っている『私』が,その問題の当事者なのか
語っている『私』が,その問題の当事者の同僚なのか

ひとつの問題でも,それぞれの立場によって,違ってきます。それは,意識しているかどうかは別にしても,その人にとって,見えている事実が異なっているからにほかなりません。」

これは,そのまま時制と場所

いつ,どこで

につながることになる。

起きた出来事の時と場所
それを見たときのときと場所
それを聞いたときのときと場所
それを語っているときと場所

等々,つまり,それに向き合う主体も,その時制を遡らなくては,全体は見えないということになる。

ケースも物語と同じなので,

既に終わったところで語られている

というか

語られ始めたところで止まっている。

その時間を遡ることが,その全体像を辿り直すことが,自分の問題として,語り直すことなのである。問題を主体化するとは,そこなのである。

時間軸を通すことで,初めて,未来像(どうなるか)が視界に見え,

どうしたらよかったのか
(どうしなかったらよかったのか)

そこからまた別の解決物語が始まることになる。

これは,歴史を語るのも同じである。多様な物語,つまり多様なパースペクティブを捨てたとき,歴史物語はシンプルになるが,豊かさは失われ,虚構度が高まる。そんな歴史物語は使い物にならない。

参考文献;
時枝誠記『日本文法口語篇』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(講談社)
ハラルト・ヴァインリヒ『時制論』(紀伊國屋書店)



今日のアイデア;
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2014年09月13日

描く


自分の描きたいことを書いているのでは,プロではない,

という言い方をする。読者は何を求めているのか,読者をあっと驚かすにはどう書いたらいいのか,と言うところに,物書きの真骨頂があるのだ,と。

もっともだと思うが,その説を僕はとらない。というか,僕はそれほど器用ではないので,そういうことができない。むしろ,

自分の描きたいことを書かなくて,何を書くのか,

という思いがある。せっかく,好きな物書きをするなら,おのれの好きでもないことを書いてどうするのか,と思ってしまう。まあ,だから,素人にとどまるのだろうが,しかし,思う。

売れるとか,売れないとか,を初めに考えて,面白いアイデア,画期的な商品が出ることは,ほとんどない,と僕は思っている。世に出て初めて,

こういうものが欲しかった
とか
こういうのを待っていた

という声が出るのは,市場調査をいくらやってもつかめっこない。だって,いまだかって,世に出ていないものなのだから。そのカギは,甘いと言われるかもしれないが,あのウォークマンがそうであったように,

自分が心底ほしいもの
あるといいと思っているもの

でなくてはならない。それは,自分の中にしかない。だから,

自分が面白いと思わないようなものを描いて何が面白いのか,

と思う。

だから素人なのだ,という突っ込みの声が飛んできそうだが,世の中の流れや動きを見極めて出てくる商品にろくなものはない。そうではないのだ,自分が心底欲しいものを創りだすことで,世の中が動く。だから,

考えることも,
書くことも,

面白いのではないか。それは,別の言い方をするなら,

見たこともない視界を広げる新しいパースペクティブ

なのだと思う。そういう世界があるのか,というような。

それには,顰蹙を買うのを承知で,口幅ったいことを言わせてもらうなら,

おのれを掘り下げる

以外に,新しい視界が開けることはない気がしている。結局一生かけても,掘り下げきれないで終わるにしても,だ。別の言い方をすると,

おのれ以外には,決して見えないパースペクティブを見つけること,

といっていい。それは,大袈裟だが,

新しい世界の見え方

と,いっていい。それを見つけるために,他の人の好みやニーズはどうでもいいことになる。読んでほしい読者に見えるものでは,いまある世界の延長戦上でしかない。

どれだけニーズ調査をしても,欲しがっているものを見つけられないのは,いまないものは答えようはないのだ。

確かに,

イノベーションを起こすものはセレンディピティだ。恐らく例外はない。セレンディピティとは「偶然の幸運」。予め計画されたイノベーションなんて大したイノベーションじゃない。

と脳科学者の茂木健一郎博士が言う通りなのかもしれないが,それは,ただ居眠りしているという意味ではないはずだ。本当におのれの見たいものを捜す,ということ以外にはない。

因みに,書くの語源は,

掻く,ひっかく

だと言われる。その意味では,

絵を描く

文字を書く

文章を書く

も同根ということになる。漢字では,

聿(ふで)+曰(いわく)

とか。しかし,はじめは筆ではなかったのではないか。竹簡や木簡に竹で描いていたのではないか。

ついでに,画(畫)くは,また別で,

聿(ふでを手に持つさま)+田の周りを線で区切ってかこんださま

という。

ある面積を区切って筆で区画を記すことをあらわす,新字体「画」の字は,「聿」の部分を略したもの。

まあ,いずれにしても,「書」も「画」も,「聿(ふで)」からは逃げられないようだ。

僕は,書くは,

えがく(描く,画く)

なのだと思う。錯覚かもしれないが,

自分だけに見える世界

をかくのである。その世界は,自分の中からしか見えてこない。方法や技法は,世界を描くのに使うのであって,その前に,

自分にしか見えない世界

を見つけなくてはならない。それは,一生分に値する。ついに見つけられないことも当然ある。


今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:14| Comment(0) | 書く | 更新情報をチェックする