2014年02月17日
役割
われわれが,
この社会で他人に出会うとき,彼/彼女が自分にとってなんであるかを問われれば,何らかの答えを返すことができる。その答えは,たとえば〈妻〉であったり,〈友人〉であったり,ときには見知らぬ「他人」であったりするだろう。社会的世界において私たちが他社に与えるこの規定を,「役割」
と呼ぶ。仮に,ある人を固有名詞で呼ぶとすると,
そこには固有名で呼ぶことを可能とする関係が前提にされているばかりでなく,私自身も自分がこの他者を固有名で呼ぶことのできる関係をもっていることを知っている。
ということは,われわれは,日常的に役割存在である。
行為者は,ある役割関係を前提に,すなわちすでに存在する相互作用過程のなかで,ある役割を担う他者を見出し,対応する役割を担う行為者として,他者に対する関係好意を行う,
要は,何らかの役割なしには,この世の中に存在しえない,ということらしい。
社会的世界は先ず役割を担う個人の集合として,役割世界として,
存在している。たとえば,
他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味において反照される。
相手を上司として認識することは,自分がその部下であると認識する。しかし,それは,確定したものなのか。たとえば,ストーカーが,
相手を私の恋人
と認識したとき,相手は私の恋人になるわけではない。その瞬間,相手が私をストーカーと認識した時,私の認識には関係なく,私はストーカーという役割に転ずる。
そこは,
コミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界,
を持ち合えなければ,妄想と現実(どちらが妄想かは,実はわからない)のすれ違いになり,どちらにとっても何も生まないことになる。なぜなら,
行為者は,役割関係のネットワークのなかで役割行為を遂行することによって,この関係のネットワークと自分自身とを生産・再生産する。この役割関係や役割行為のあり方は多種多様であり,それ自体が何らかの重層的・複合的な関係において構造化されている。その最も…基層にあるのは,人間は社会のなかでのみ個別化されうる存在である…普遍的な依存と貢献の関係である。私たちが役割関係のなかで行為し,自己実現するときの最終的な根拠は,行為者がそのなかで行為能力を備えた個人として生成するこの普遍的な相互連関にある,
からである。一方的では役割は生じない。
両者の相互作用の結果
としてしか共有されない。それは,上司(リーダーと置き換えてもいい)として君臨しても,上司として認知されないことはありうるということに他ならない。
主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。
相互作用があるときのみ,役割関係が相互で認識される,と言い換えてもいい。
相互作用を関係性と呼びかえると,その人のポジションに応じて,関係性が変わり,自分の役割が変わる。だからこそ,ポジショニングというのが,役割を考えるときに,大事になる。それについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11292391.html
でも触れた。役割関係というのは,その瞬間,相互に責務(責任と言い換えてもいい)が生まれてくる。それに伴って,
役割期待
が生まれる。期待はコントロールできないが,期待を自覚はできる。それに応えていくことが,信頼や評価につながる。
しかしである。この関係性自体が,自分とはかけ離れていくことが多い。つまり,
一度社会化された人間は,おそらくすべてが潜在的な〈自己自身への反逆者〉
となる可能性がある。しかしそれは相互関係のなかでは,多く許されない。
主観的に選ばれたアイデンティティは,個人の意識のなかでのみその〈真の自我〉として客観化されるにすぎない幻想的なアイデンティティとなる。人間は常にかなえられない目的達成の夢をもつ,
と。関係性が,桎梏になることもある。というより,関係性の向こうに(関係性を抜けた)自分自身のありようを探したがる。
自分探し,
はそれだが,結局別の関係性の中にまた結びつけられるしかない。蒸発が,そうであるように。
で思う。いま,ここでの関係性の中で,
自分のありようを示せないものに,
示せる場所はない。人は関係性の結節点そのものとしてし生きられない,社会的動物であり,逆に,そこでこそ,自分が発揮できるのだから。
参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
P・L・バーガー=T・ルックマン『日常世界の構成』(新曜社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm