2014年03月30日

精神治療


中井久夫『[新版]精神治療の覚書』を読む。

あとがきで,精神科医の中里均氏が,

中井久夫氏はわが国の精神医療を変えてしまった。それまでは,精神医学に限らず内科学にせよ眼科学にせよ,すべての科目の教科書は,国内外を問わず疾患の成因病理の記述に厚く,治療については付け足しのように書かれているに過ぎなかった。
中井氏は常々それを嘆いておられた。だから氏の記述の最重要論点は常に治療論であり,成因論や精神病理的論考は,治療論を導くための助走に過ぎない。

と書いておられるように,実に,視野の広い,患者への治療姿勢が,細やかに書かれている。その一端は,中井氏と話をしながら,中里均氏が,

「精神治療とは美に入り細を穿って患者をサポートするものだ」と思い込んだ。幸せなインプリンティングだったかもしれない。氏の言行一致の態度が説得力を増幅した。中井氏以前の精神科治療の多くがもっと大雑把なものだと知ったのは,後になってからである。

そう中井氏の治療姿勢からの影響を,語っている。たとえば,その一端は,

一般に,患者は問題をいっぱいかかえており,急性精神病状態のおいては,問題に目を蔽うことができなくなっている。そのことは万々承知ではあるが,同時に急性精神病状態においては,一つ問題を解決している間に――解決できるとしての話だが――三つくらいはあたらしく問題が生まれている。「いま,あなたのかかえている問題を解決しようとすると,その間に問題がふえていないか。問題の中にはこちらが無理に解決しなくても問題のほうから消えてくれるものがあると思う。消えるものは消えてしまってよいのだし,それから残る問題を解決してもおそくないものが多いのではなかろうか。それに,よく休めた頭で考えることと,眠れない時の考えとは,ちがっているのを経験しないだろうか」という意味の助言はしてもよい…。患者と語ることばは,短い文章で,なるべく漢語が少なく,低声で,しかも平板でない音調のほうがよいと思う。ことばは途切れ途切れであってよい。錯乱状態でも,ちょうど台風が息をしているように,緩急はあるもので,この緩急のリズムをつかみ,それに合わせて語ると,意外に多くを語れるものである。時にはまったく押し黙っている患者の耳元で,「ほんとうは大丈夫なのだ。君はいまとうていそう思えないだろうけどね,ほんとうは大丈夫なのだ」とささやきつづけるよりほかにないこともある。この場合も決して馬の耳に念仏ではない。むしろ,患者は全身を耳にして聞いている,といっていいであろう。完全な緘黙不動不眠患者の隣室に泊まり込んで私は小さく壁をノックし続けたことがあったが,あとで患者は,私がずっと醒めていて,そのしるしを送りつづけていたことが判っていた,と話した。

と著者が語っている(「平板云々」は,後で触れる)が,前述の言行一致とは,これを指す。僕は,プロの覚悟と見た。中井は,これに続いて,

患者は決して堅い鎧をまとっているのではなくて,むしろ外部からの過剰な影響にさらされ続けている…。患者は粘土のごとく,無抵抗に相手の刻印を受け容れる…,

として,こんなことを書く。

精神科医の多くは思い当るふはしがあると思うが,再発を繰り返したり,長期に不安定な精神状態で治療を受けた歴史を持つ患者を新しく受け持つと,患者と話しているのか,過去に患者を診た精神科医たちのおぼろな影と対話しているのか分からなくなる。これは一種の,精神科医の憑依現象といってもよいかも知れない。…憑依しているものとされている人との仲は決してよいものではない。時には,自分の中に取り込まれてしまった精神科医と苦しい暗闘をつづけている人もある。(中略)患者と社会との接点は,ほとんと治療者一人に絞られていることを忘れてはならない。

と。この目配りは,具体的に治療行為になると,もっと広く,厚く,微細にわたり,なおかつ柔らかく優しい。

とにかく治療者は,“山頂”で患者と出会う。そうでないことは例外である。治療者は家族とともに下山の同行者である。(中略)重要なことは,本人と家族と治療者の三者の呼吸が合うかどうかである。この呼吸合わせのための労力はいくら払っても払い過ぎということはない。それが予後の最大決定要因であり,それを怠ると,最初の外泊時に両親がマラソンを強いたり,本人が職をさがしに出たりして,もっとわるいことに治療者がそれを知らないということが起こりうる。
この呼吸合わせに治療者はイニシャティヴをとらなければならない。本人も家族もあまりに深く病気という事態に巻き込まれているからである。(中略)医師はスペシャリストとして依頼をうけて事に当たるのであるが,必要なのは,絶対に加速してはならない過程と加速可能な過程とを見分けることである。加速してはならない過程を加速しようとして,本人を焦らせ,家族を焦らせ,そして医師当人が焦りの中に巻き込まれて,結局焦りの塊りが三つ渦を巻いて回っているだけという場合は皆無ではない。

で,必要なのは治療的合意であり,それには,

「本人と家族の呼吸が合わなければ治るものも治らない」という表裏のない事実を述べるべきだろう。実際この“呼吸合わせ”が成功し持続するかどうかで治療の九割は決まるといって差支えないだろう。「何か月で治りますか」と家族や本人がたずねても,医師はこの前提をくり返したのちに,もし見通しを述べるほうが望ましければ,述べるがよい。そして「この呼吸が合わない限り何回でも仕切り直しになりかねません」と告げるべきだろう。

と付け加える。専門外なので,あまり深入りはできないが,「聴く」について,書かれたくだりが,結構面白い。いくつか拾ってみる。

医学の力で治せる病気はすくない。医学は依然きわめて限られた力なのだ。しかし,いかなる重病人でも看護できない病人はほとんどない。(中略)急性精神病状態においては,医師の行為の大部分も看護と同じ質のものであろう。患者の側にだまって30分すわることのほうが,患者の語りを三時間聴き取るよりも耐えることがむつかしいことは,経験した者は誰でも知っていよう。しかし,おそらく,このことは精神科医の基本的訓練の一つとなるべきものだろうと思う。

「聴く」ということは,聞くことと少し違う。病的な体験を聞き出すということに私は積極的ではない。聞き方次第では,医者と共同で妄想をつくりあげ,精密化してゆくことになりかねない。
「聴く」ということは,その訴えに関しては中立的な,というか「開かれた」態度を維持することである。「開かれた」ということはハムレットがホレイショにいうせりふ「天と地との間には……どんなことでもありうる」という態度といってよいであろう。

「分かる,分かる」という応対は,ただ安易なだけではない。(患者は)「分かってたまるか」という感じとともに「すべてが見通しであり,すでに分かられてしまっている」という感じを…抱いている。(中略)この「言い当て」は患者の不安を増大する。(中略)時には患者がいわんとして表現がみつからず,ほとんどもがくように苦しむこともあるもので,その時は「あなたのお話をずっときいていると,ひょっとしたら,こんな風に感じているのではないかという気がするのだが」という前置きで,あくまで,他人の心中を憶測する際の慎みを忘れない態度で話すことは,一般に患者を楽にし,「分かられた」という受け身感がなく,やはり通じるのだという疎通感を生む…。

なぜ患者のそばに沈黙して坐ることがむつかしいのだろう。むつかしいことは,やってみればすぐわかる。(中略)患者の側に坐っていると,名状しがたい焦りが伝わってくる。…この焦りは,何に対する焦りという,特定の対象がはっきりしない。いや,そもそもないのかも知れない。患者はしばしば自分を「あせりの塊り」であると表現する。(中略)焦りは患者から伝わるようにみえるが,むろん治療者自身の中に眠っているものが喚起されるといっても一般にいいだろう。この二つはほとんど同じことかもしれない。沈黙思念のそばで治療者は一方では患者に目に見えないリズムの波長を合わせつつ他方では自分の持っている(そう豊かでもない)余裕感が患者に伝わるのをかすかに期待しようとする。そのほかに方法はなく,しかもこの時点で,治療者は―とにもかくにも―患者と社会のほとんど唯一の接点であろうからである。

傍らにいて,治療者が焦りを感じなくなることは,急性期が終わりを告げた,かなり確かな証拠である。

もうひとつ面白いのは,声で,聞き分けようとする姿勢だ。これも,聴くにかかわる(ここに,前述の平板云々への答がある)。

アメリカの精神科医,H・S・サリヴァンは,

訓練(トレーニング)の声



希み(デザイア)の声

というのを分けていたという。

「訓練の声」とは,音域の狭い,平板な声だろう,私は,妄想を語る時,音調がそのように変わること,逆に,そのような音調は,妄想を語っていることを教えてくれる…。一般弁論になる時,人間の声はそうなりがちである。数学の証明を読み上げる時,上司に問われて答える時,等々。それは防衛の声であり,緊張の声である。これに対して,
「希みの声」は音域の幅のひろい,ふくらみのある声だろう。患者にせよ,患者でないにせよ,自分の心の動きを自然に表現する時はそうなるものであろう。

と著者は書いている。そして,作曲家の神津善行氏の書いていた,

音域の広い人と狭い人とでは,同じことを語っていても,相手に受容される程度が大幅に違う,

を紹介して,音域が狭い人は人に反発を受けやすいのだ,という。

精神病患者の声は,ふだん後者であることが多い。切り口上や紋切型に属する声である。

という。それが普段から,対人関係の妨げになっていたのではないか,と想像している。そして,

時に患者から,音域の深々とした,あるいはしみじみとした,感情の籠った声が聞かれうることを聞き逃してはならないだろう。…まさに,そのような声を聞く時が急性期が終末に近づいたか,少なくとも,急性期からの脱出可能性が高まった一つのしるしである。

という。こうした目配りの細やかさには,驚かされる。

たぶん,精神科医にとってバイブルに他ならないということが,門外漢の僕にも伝わる。著者も,

学会に行くと,精神科医になった時に最初に読んだ本だと私に挨拶する人が結構いた,

というのはよくわかる。

出発がウィルス研究にある中井にとって,

病気のはじまりとか回復というのはどういう順序を追っていくかという研究に興味があった,

のは当然ながら,家族や患者への目配りも,ただごとではない。

その謦咳は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/391584184.html

で触れた,最相葉月が『セラピスト』で詳しく書いているとおりだ。


参考文献;
中井久夫『[新版]精神治療の覚書』(日本評論社)
最相葉月『セラピスト』(新潮社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 04:23| Comment(2) | 精神科医 | 更新情報をチェックする