2014年05月19日

次元


先日,江角健治さんの個展に伺ってきた。

http://gallery-st.net/

案内ハガキをいただいたときから,そこに載せられている絵の空間感覚が,気になっていた。今回は,ご自身の案内文にも,

街並み

をそろえられたということで,前回伺ったとき以上に,その印象が濃かった。会場で話をしているうちに,

押絵,

というように,僕の中であった空間感覚が言語化できた。

押絵というのは,

布細工の一種で,人物や花鳥の形を厚紙でつくり,裂(きれ)を押しつけて張り,その間に綿を入れて高低をつけて仕上げたもの。古く中国から渡来した細工技法で,正倉院の御物のなかにも祖型的なものが見られる。この細工は江戸時代に入って流行した。羽子板に応用したものを押絵羽子板といい,文化・文政ころから当時流行の押絵細工をとり入れて人気俳優の似顔などを写したものが登場した。そのほか手箱のふたや壁かけ,絵馬などにも用いられ,江戸時代には家庭婦人の手芸の一つとしておこなわれた。

と,ウィキペディアにあるように,いまだと,羽子板がイメージを浮かべやすいが,

押し絵により人気俳優などの有名人を模った羽子板

等々が描かれるのは,浅草の羽子板市でもおなじみだ。

面白いのは,ただの絵では立体感が出ないから,膨らませたのだと思う。

素人が言うのもおこがましいが,人間にとって立体に見えるものを,二次元平面に描くために,その制約を具象化する工夫として,たとえば,

遠近法(透視図法,透視法,線遠近法),

のような技法が考案され,何とか,絵に奥行きを出そうとした,と見えなくもない。

perspective

という言い方が,その意味をよく表しているように思う。それを前提にしないと,

キュビスム

の,一点透視図法へのアンチの意味がよく見えない。専門家ではないので,独断と偏見で言うと,これも,

二次元,

にいかにして,三次元,四次元を描こうか,という,二次元平面の枠を打ち破る工夫と見えなくもない。

で思うのだ。今回拝見して,

押絵

と感じさせる表現は,いわば,二次元に三次元(あるいは時間の流れも含めた四次元)を表現しようという方向とはまったく別に,

二次元の中で二次元として表現する,

工夫として見られなくもない,と感じたのだ。あえて,

押絵

として,デフォルメされた対象を,さらに平坦に,極端に,

奥行き

を消して,描くということの意味は,そういうことなのか,と僕は解釈した。

解釈など,絵には不要なのかもしれないが,僕は,

画家のパースペクティブ

を表現するのが,絵なのだと思う。

作家のパースペクティブ

を表現するのが,小説なのだから,そこには作家の見た(い,というか想像したい)世界が描かれる。画家の見た世界が,

押絵

として表現される,ということは,そこに,大袈裟な言い方だが,作家の世界観がある,と思う。

表現の世界は,自立しているので,押絵として世界を描いた瞬間,その押し潰された,というか,

次元を折り畳んだ世界,

に転換したことで,逆により自由に描ける世界が生まれてくるのだと思う。キュビズムが獲得した自由とは,まったく逆の,自由が得られているはずだと思うのである。

三次元を二次元世界で描く,

のではなく,

二次元を二次元世界として描く,というような。

ただ,今回,それは,逆に,

閉じ込められた世界,

というか,

閉ざされた世界,

になってしまっているように見えてしまった。それが何かは,僕の勝手な感想なので,僕にもよくわからないが,

表現が窮屈,

に見えたということかもしれない。

先日ネットで次元のことを調べていたら,ユークリッドは,

立体の端は面である。
面の端は線である。
線の端は点である。

と定義したという。つまり,立体以上はない,という前提だが,それを,ポアンカレはひっくり返して,点からはじめた,という。つまり,

端が0次元(点)になるものを、1次元(線)と呼ぶ。
端が1次元(線)になるものを、2次元(面)と呼ぶ。
端が2次元(面)になるものを、3次元(立体)と呼ぶ。
端が3次元(立体)になるものを、4次元(超立体)と呼ぶ。

とすると,五次元でも,六次元でも,無限に次元を増やしていける(超ひも理論では10次元が仮説として出されているという)。

折り畳めば,何次元でも表現できる,

押絵,

にそんなことを夢想した次第である。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年05月28日

風景


安喜万佐子個展 「風景」 --に伺ってきた。

http://www.gallerycomplex.com/schedule/Hall14/yasuki_masako.html

「風景」というタイトルが気になっていた。

風景は,

風(季節のものが風に翻る)+景(太陽の光)

が語源とある。

風景は,光と風でなくてはならない。

風は,

とき(刻であり四季)

であり,

光は,

形象(ひろがり)

である。

僕は,絵は素人だから,逆に勝手に妄想する(自由がある)。

もともと風景は,

あるものではなく,

見つけるもの,

あるいはつくるものだ。その意味は,人が,

見る

ことで,風景になる。もともとある自然が,人によって,風景にされる。ということは,

風景には,風が,あるいは時間が不可欠だ,と感じた。

そんなことを道々考えていて,会場で,タイトルをすべて書き写そうと心に,何となく思い決めていた。

写しているときは,あまり意識しなかったが,振り返ってみると,

Vanishing point

Momentia

Absence

Obliteration

消えるとか不在とか喪失といったニュアンスの言葉がタイトルについていることが多いのに気づく。

つまり,光を(ということは影)を描きながら,実は,そこに不在を描いている。ないものが描かれようとしている。実は,肝心のものは,そこに描かれていない何か,であり,それは,




といっても,

いま

過去
といっても,

知覚

記憶
といってもいい。

で気づく。何のことはない。安喜万佐子個展には,

「風景」 -LANDSCAPE SUICIDE-

とあるではないか。その意味では,松林図シリーズを中心とした,

金箔の白抜き

でも表現されている。樹は,黄金色の光の中で,色を喪う。それは真っ白に抜かれている。そのシリーズが,象徴的な気がする。

圧巻は,正面に掲げられた,

Momentia

と題された,絵(170×300)だ。

作者は,パンフレットで,

逆光の中で,洛中洛外図のように遠近法を溶かしながら,都市はその「記憶」を瞬かせる

と書く。技法は知らぬので,洛中洛外図を思い出しながら,時空を超えさせる仕掛けの,「雲」に当たるのがこの車のヘッドライトのような光の点の塊り(群れ)なのかと思いつつ見ていた。因みに,洛中洛外図は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163511.html

で触れた。

しかし,僕は,そんなことを知らないでも,この絵には,



つまり,

とき

があると思った。それは,現と夢の混ぜ合わせか,過去といまの混ぜ合わせかは別にして,混合する,

とき,

が,ここにある,と見えた。さまざまな,

パースペクティブ

の交錯は,視界の交錯でもあり,思いの交錯でもある。人は,

見たいものしか見えない,

とすれば,ここには,人の数だけ,

とき

が,氷詰めされている,とみた。それを象徴させるのが,左上の,赤い炎とも陽の反射とも見えるものだ。これが,ときを象徴している。

対向に置かれていた,10年前の作品の,

無風

との差は歴然としていた。

僕は,「風景」という展覧会のテーマに引かれて,道々考えていたことは,

とき

つまり,



の表現であった。ある意味,不在の中に,消失として,それは描かれていた。しかし,もっと,ときそのものが見たいと感じながら,ちょっと疲れて帰り路をたどった。



今日のアイデア;
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2014年06月16日


報美社の

http://gallery-st.net/

柴山千尋展に伺ってきた。その直前まで,落語を三席聴いてきて,時間が思った以上に余裕が出て,回ったのだが,落語を聞きながら,

落語は時間,

いや,

語りは時間,

そもそも

言葉は時間,

と考えていて,絵を観させていただいているうちに,

色は時間,

ということを,不意に思った。

鮮やかな色を組み合わせるのが特色なのだが,僕は,そこには時間を感じなかった。例えば山に,赤系統の鮮やかな色が,互いにひしめき合うようにしているところは,紅葉とも花盛りともとれるが,そこには時間ではなく,空間しか感じられなかった。

だからいけないというよりも,僕は,(タイトルに記憶違いでなければだが)

緑の流れ

流れる青

と題された,水流を,濃い蒼と緑系の色で,縞をなす流れに,惹かれた。そこに,時間を見た。いやいや,「流れ」とは,時間の謂いだ。

色は時間,

というより,

時間の色,

というように受け止めて,二作品を暫く眺めていた(もう一作,少し似た雰囲気のものがあった気がするが)。

僕は個人的に,絵には,画家が,どう時間を描くのか,に興味を持っていて,ダリのだれて融けた時計には,ちょっと感心したが,あれは死んだ時間でしかない,ようにみえる。

色と色がせめぎ合うのは,ひとつところで,ぎゅうぎゅうひしめき合う,

饒舌さ

を感じるか,時間は感じられない,むしろ,広がりが感じられるように思う。

それに比して,「流れ」を表現しようとする,寒色系(?)の暗い縞のうねりに,微妙に動く時間を感じた。

作家の中には,タイトルを重視する人とあまり重視しない人がいるようだが,今日は拝見した作家は,たとえば,

気になる線
とか
その先の線
とか
線,かげになる,

(と,確か…)と題するように,タイトルとセットで,絵に奥行きを見せる(そこに描かれていない何かを共に見せようとする)ものと,

前述のタイトル,

緑の流れ

流れる青

(だったと思う)のように,象徴するものと,たとえば,

庭のかたすみ

(だったかな…)というような,あまり意味のなさそうな(失礼!)タイトルとにわけられる。どうせなら,タイトルにも,主張が欲しいというのが,僕の思い。タイトルをみるかぎり,まだ迷いというか,躊躇いが見えるように見える(もちろん錯覚かも!)。まあ一貫性が欲しい,とは思ったが,素人の勝手な思い込みかも。ただ,タイトルは,僕には絵と一体だと思うところがあるので,その点では,タイトルの表現スタイルが,少しばらけている気がした(のは勘違いかもしれないが)。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年09月16日

思い


人生初体験のお茶事の後,時間があるので,Fad Fairに参加されている,

https://www.facebook.com/events/329174273927366/?ref_dashboard_filter=upcoming

報美社の古石紫織さんの個展に伺った。

まず目についたのは一点,案内はがきに載っていた「森を抜けて」が正面にあって,目に飛び込んできたが,左手に,シリーズの,#4(だったか)だ。前者よりは,後者に,新しい何かを見つけそうな気がした(ちょっと影絵のデジャブ感はあったが)。

その花を少しデフォルメした絵を前に,作家に,話を伺っているうちに,

内的葛藤

をストレートに出した,とおっしゃった。思いというか,意味にこだわる方のようだ。聞き間違いかもしれないが,

デッサン(写生)に思いを載せて(初めて)絵になる,

というような言い方をされた。モノを描いた(写生した)だけではなく(それはまだ絵ではない),そこにおのれの思いが載せられて,初めて自分の絵になる,あるいは,

自分の思いを投影出来るモノに出会って,初めて絵になる,

ということでもある。それは,

おのれの思いを載せるに足るモノを発見した,あるいは創り出した,

ということなのかもしれない。ぼくは,

自分にしか見えないものを描き出す,

のが作家(文学者も含めて)なのだと思っている。

意味にこだわることは,僕は嫌いではない。意味づけは,目的の明確化につながり,おのれの大事にしている何か,価値につながるのだから。ただそれは,あくまで作家の内面の問題でしかない。

その意味で言えば,僕は,作家の思いではなく,作家が,思いを乗せて,描いたものにしか関心はない。どんなに思いが強烈でも,その思いが,表現のレベルとして,観る側に何かが見えなければ,その思いはなかったのも同然なのだから。

それで思い出したが,吉本隆明は,言語についてだが,

自己表出

指示表出

という使い分けをしていたが,それは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

で書いたように,時枝誠記の言う辞(主体的表現)と詞(客体的表現)につながる(時枝誠記は,日本語の構造は,客体的表現を主体的表現で包むという風呂敷型だと主張した),

自己表出は内的主観の表出

指示表出は外的な対象の指示

という意味であり,両者がなくては,表現自体が成り立たない。で,気になって吉本隆明の本を取り出して,ぱらぱらめくっていたら,

「言語の表現は,作家がある場面を対象としてえらびとったということからはじまっている。」

という文章に出くわした。そのとき,その場面が,自分の表出しようとする何かと重なったということなのかもしれない。しかし,もっと言うなら,まずは自分の思いを言葉に載せる,その言葉を選び取った瞬間から始まるのかもしれない。しかも,その言葉が,必然的に次の言葉を導き出し,それにつられて文脈を引き連れてくる。

そのあたりの機微はよくわからない。というのは,

思いが言葉になる,
のか,
言葉が思いを引き出す,
のか,

は,ちょっと微妙に思えるからだ。だから,場面を選び出す前に,表現する対象を求める思いがある,と言ってもいいのかもしれない。

ただ,しつこいが,そのプロセスは,観る側にとってはどうでもいい。見せてくれたものが,

観たこともないパースペクティブを開いてくれるものであるかどうか,

だけなのだ。別に作家と同じものが見える必要はない。そこに,初めてみる,

光景を見るか,
心象を見るか,
感情を見るか,
風景を見るか,
おのが思いを見るか,

は観る側の問題で,開いてくれた視界が,観たこともない何かを眺望させてくれるかどうかなのだ。あるいは,そこにおのれの思いを託すに足るかどうかなのだ。

その意味で,思いをどう描くかは,すべての作家の原点のようなものなのだろう。横道に入るようだが,

思う

は,「オモ(面)+フ(継続・反復・動詞化)

で,相手のオモ(面・顔)を心に描き続けるという説があり,顔に現れる心の内の作用を表す,とする。

もう一つは,

「重+フ」

と,ものを思う気分は重い気分という説がある。ま,これは,ちょっと作為的かもしれない。

思いとは,思うに,自己対話である。いつも引いて恐縮だが,キルケゴールの,

「人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。」

である。しかし,自己対話自体は自己ではない。

自己対話との関係

つまり,自己対話そのものとの対話,

自己対話へのメタ・ポジション

である。だから,自己の葛藤が表出できる。そのとき,それを外へ表出しようとする,それが,愚痴であれ,怒りであれ,号泣であれ,暴力であれ,それはそれで,表出である。しかし,その表出は,

自己完結している。どこまで行っても,自己の自己の自己の自己…の,ちょうど鏡の中の自分の目の中の自分の目の中の自分の目の中の自分…を見ているだけだ。

それでもいいという人は,表現には向かわない。それを何らかのカタチで外在化させ,表現しようとするには,するだけの矜持というか自信というものがいる,

ここで見得ているものは,自分にしか見えないものだ,それを他の人にも見せたい,

というような。

確か,吉本隆明はどこかで言っていた。

文句なしにいい作品というのは,そこに表現されている心の動きや人間関係というのが,俺だけにしか分からない,と読者に思わせる作品です,この人の書く,こういうことは俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の作家だと思います。

読者や観る側が,

そこにおのれのみの(おのれにしか見えないはずの)思いを見させる,

と言い換えてもいい。

それには,逆に言うと,作家自身に,自分にだけ見えた何かがあり,その見えた世界を,伝えようとする思いがあるからこそにほかならない,という気がする。

もちろん,ここでは,表現手段や方法の是非,可否はちょっと棚に上げている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(勁草書房)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年09月26日

変化


報美社http://gallery-st.net/

隅田あい夏個展 ~来ちゃった、覗き網~

http://www.gallerycomplex.com/schedule/ACT115/sumida.html

に伺ってきた。案内ハガキをいただいたときは,

http://aika.pupu.jp/

変化を直感したのだが,個展会場へ入った瞬間,

変っていないな,

という印象を全身で受けた。

しかし,どうしても変わったところに目が行く。それは,ベイトソンではないが,情報とは,

差異

であるからだ。そのわずかな違いを考え出すために,心血を注ぐものだと思う。差異が,

尖っている,

あるいは,



として表面化しているとは限らない。たぶん,見方は,

見え方

見せ方

で左右される。変化を感じさせるものが,はがきに採用されたのかもしれないし,一枚だけを取り出して見るから,変化に敏感になるのかもしれない。大事なのは,全体の雰囲気というか,全体の基調が保たれている,という印象を与えることなのだろう。

僕は,個人的には,変化は,

蛻変

のような,変身のイメージでとらえているわけではないが,しかし変わった,ということが印象づけられるのを好む傾向がある。しかしほんの小さな変化で,印象として,図と地が入れ替わることはある。

そんなことを考えながら,長居をしてしまった。話に出た,

「ひとはマンネリは望まないが,大きな変化も望まない」

とは至言なのかも知れない。描き手は,僕の想像するに,昨日の自分とは違うものを,別の言い方をすると,

新しいパースペクティブ

を手に入れたいのではないか,と思ってしまう。しかし,実は,変化は,

僅かな差異

なのかもしれない。まったく別の視界も変化かも知れないが,そう見えるのか,と思わせるわずかな「そよぎ」も変化なのかもしれない。

気づくと,わずかに変わったところを見つけようと,眼を凝らしている自分に気づく。そして,

この変化は,自分にしかわかるまい,

と思い込ませるのも作家の仕掛けなのかもしれない。

そして,ふと思い至る,個性というのは,自分がそう認知するものではなく,

相手

がそう認知するものなのだ,と。自分で自分を認知したところで,所詮それは自己完結している。まあ,自己満足と言っていい。とすると,他者が,これが作家の世界だと,認めた世界が,作家の個性というべきものなのかもしれない。観る側が期待している世界を大きく損なうことは,この世の中につくり出した作家の世界の否定になる。

しかし,作家は,変わる。変わらなければ成長はない。すると,戦いは,その自分が創り出した(観る側の期待する)世界をどう崩すかなのだろう。それは,自分の過去との戦いでもあるが,観る側のイメージ(固定観念とも言う)との戦いである。そこで,

グラデーション

ということが出てくる。

わずかずつ微妙に色をずらしていく変化ということなのだろう。それは,季節の変化が,風の音やにほひで感じとるような,あるいは,葉の色の微妙な変わりようで感ずる,微妙な変化である。そこにピンポイントで着目すると,変化が図になるが,俯瞰するというか,距離を置いて,全体を見ると変化は全体の地に紛れていく,というような。

いや,思えば,日を経て振り返れば,白から黒へと変ずるのがわかるが,途中ではその変わりようには気づけない,その変化を察知し,

これに気づくのは,自分だけだ,

と悦に入るのが,吉本隆明の,例の,いい作品というのは,

「俺だけにしか分からない,と読者に思わせる作品です,この人の書く,こういうことは俺だけにしかわからない,と思わせたら,それは第一級の作家だと思います。」

である。次に,僕は,変化の尖端を見つけるのを楽しみにしたい。





今日のアイデア;
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2014年10月16日

世界


先日,田口恵子2014個展

https://www.facebook.com/events/1460291794244939/?ref_dashboard_filter=upcoming

に伺ってきた。

大学時代,畏敬する先輩に,

世界がない,

と痛撃された記憶がいまもある。それは,独自の

世界

を描き出す,という意味だと受け止めている。それは,別の言い方をすると,

新たなパースペクティブ

を開く,と言ってもいい。そこに,作家独自の世界を描くことで,

物の光景が違って見える,

というか,

異なる側面が図として浮かび出てくる,

というか,

新しい世界の見え方が開かれる,

というか。

僕は,この作品群の中で,田口さんに問われて,速攻で,

「眠らぬ夜」

を指差した。素人のたわごとに過ぎないが,僕は,一番に,

「眠らぬ夜」

を採る。「月下美人」も,月の連作,「満月」「新月」「上弦の月」「下弦の月」もいいし,

「秒秋」

も捨てがたいが,やはり,

「眠らぬ夜」

を採る。それは,冒頭の「世界」と関わる。素人なので,別に正否,巧拙とは別の,単なる好みの問題かもしれないが,そこに,

一つの世界

が自己完結して存在している,という,絵のありようがある気がした。しかし,だからと言って,自己完結は,リアルの世界から閉じた,閉鎖空間ではだめだと思う。あくまで,この世界と,

拮抗

というか,

対峙

というか,

向き合う,

というか,二つの世界が綱引き合うものがなければ,絵は,このリアル世界に対抗できない。その意味で,「眠れぬ夜」には,

世界の奥行

がある気がする。このリアル世界と拮抗するだけの世界の広がりと奥行きが,ある,という気がした。あるいは,二次元の向こうに,多次元の,

ファンタジー
なのか
スリラー
なのか,
怪奇もの
なのか,

はわからないか,世界が控えている,そんな余韻がある。あるいは,

余白

と言ったらいいのか。

絵に描かれていないもの

を向こう側に感じさせる。

その意味でいえば,逆に,このリアル世界を前提にして,見せる絵は,この世界に依存していて,あるいはこの世界の文脈に依拠して,このリアル世界を知らなければ,その絵の意味も奥行も窺えないというのでは,その絵独自の,

自立した世界

を持っていない,という気がする。だから,僕は,

タイトル

を重視する。タイトルは,世界への扉なのである。表札というと,ちょっと違うが,鍵穴なのかもしれない。

無題というのは,作家自身が,自分が見た,自分にだけ見えた世界を名づけ切れていない,と白状しているように,僕には見える。

あるいは,作家自身が,自分の見た,

新しいパースペクティブ

に自信が持てていないように受け取れる,気がしてならない。作家は,人の見えない世界を開いてくれているのだと思う。そこに見せた見え方が,人々に,その後の

世界の見方

の先鞭をつける,ということは多々ある。

そういう意味では,この絵は,一つの世界がその向こうに,作家自身にも,観る側にも,何かを開いている,という予感がした。





今日のアイデア;
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2014年10月20日

名づけ


岩河亜紀個展「だれかがどこかで」

https://www.facebook.com/events/719156641487112/?ref_dashboard_filter=upcoming

に伺ってきた。

過ぎ行く日常の中で
喜び,怒り,悲しみ
思いを巡らせ
時には何も考える事なく
生まれては消え
そして新たに生まれる

この瞬間もだれかがどこかで

と一文が飾ってあった。

思い

考え

感情

気持ち

というカタチにならないものを造形するのに,抽象画は向いているのだ,ということに改めて気づかされた。そういう意味では,

どこかでだれかが

ではなく,やはり,

だれかがどこかで

になるのだろうと思った。どちらにするかを迷った末,これに決められた由だが,むべなるかなである。

学生時代の三点と最近作の大作が向き合っている格好なのだが,僕は,まあ素人なので,好みで言うと,はさまれた真正面にあった,

青寂

を採る(上記個展の案内サイトのバックになっている絵です。そこをクリックすると全体像が見られます)。これの前の段階の,具象スケッチから,色で形を消していくプロセスの作品三点も見せていただいたが,どれも作品としての独立性があるが,やはり完成したものが一番いい。

具象から完成された抽象画へのプロセス

が,作品が,

いま・ここ

から,

いつか・どこか

へと自立していくプロセスに感じられた。軛を脱するといってもいい。

僕は,作品は,独立した世界を見せながら,しかし,この世界とせめぎ合っていなくてはならない,と思う。具象を残すというのは,

この世界の影を引きずる

ということだ。それも悪くはない。学生時代の三作は,その色合いがあり,それはそれで面白い。が,作品自体で,この世界に拮抗する力はない。

何かに似ている

何々みたい,

というのは,引きずる影が,観る側のエピソード記憶(あるいは自伝的記憶)と照応しあう。そういう引き寄せ方というか,思いの入れ方も,悪いとは思わないが,こちらの思いとは断絶したところで,作品自体が,

おのれの世界を屹立させる,

というのがいい。それこそが,いままで見たこともない,

一つの世界

であり,

独自のパースペクティブ

なのだと思う。「青寂」は,

静寂

なのかもしれないが,

孤独

寂寥

の孤影を感じさせる。影は,人ではなく,「思い」が立っている,という意味である。しかし,孤独が寡黙とは限らない。饒舌な孤影もある。

やはり名づけは,重要だ。作家が,

独自に見つけた世界

は,作家にしか名づけようはないのだから。

というよりも,名づけなければ,その世界は存在しないのかもしれない。

「名づけるとは,物事を創造または生成させる行為であり,そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。『大汝,少彦名の,神こそば,名づけはじめけめ』といった神話的な表現は,世界に対する関与の在り方を端的に語っている。名づけられることによって『世界』は,人間にとっての世界となった。」

つまりは,名づけることで,のべたんの地に,それが図として顕現する。せっかくの世界は,名づけなければ,世界にならない。

参考文献;
市村弘正『「名づけ」の精神史』(みすず書房)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:名づけ
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2014年10月31日

乖離


藤倉 麻美個展『耽々 / ドキュメント』にお邪魔してきた。

のっけから関係ないことにこだわるが,恥ずかしながら,

「耽々」



「眈々」

と取り違えていた。

「耽」は,

「冘」は,下に押し沈める意で,

「耽」は,耳が,上から下へ下へ深く垂れ下がること,転じて,深入りする,となる。だから,

ふける
とか
深入りする

の意となる。僕は,「虎視眈々」の,

「眈々」

というふうに受け取っていた。この「眈々」だと,

虎などが目を鋭くして注視する,転じて,野心をもって機会を狙う,

という意になる。

まあ,どうでもいいようだが,言葉にはこだわる質なので,ちょっと弁解。

僕は,チラシに案内された絵

http://gallery-st.net/w2img/20140905111920Fujikura2014_DM_ol1.jpg

に誘われて,出かけた。

今回は,入った瞬間,モノトーンの

暗さ,

を感じたが,別に忌避する感覚はなかった。同時に,

寂寥

というか,

「寂しさ」といいうより,「寞」という字を当てたい。「莫」(バク・マク)は,

「艸(くさむら)+日+艸」の会意文字。太陽が,草むらに隠れて,姿を見せなくなること,

という。「寞」は,

「宀(いえ)+莫」

で,家の中に,姿も声もないこと,という意味になる。

寂寞

である。これを感じた。

そのせいかどうか,言葉と絵との乖離に悩まされた。

言葉は,この場合,タイトルのことにしておくとして,タイトルが,絵の世界の入り口にはなっていない。意図的か無意識かは僕には考えが及ばない。

たとえば,僕は,

「花種」

と題された絵が,一番いいと思ったが,それにしても,タイトルと描かれたものとに乖離を感じた。もう少し言うと,ズレといってもいい。

吉本隆明は,言葉を,

自己表出

指示表出

に分けた。タイトルとは,「描かれた絵」への「名づけ」だとすると,

その世界そのものの名づけなのか,
その世界への誘いへの名づけなのか,
その世界の入口への名づけなのか,
その世界の象徴というなづけなのか,
その世界への思い(入れ)への名づけなのか,

等々あるが,いずれにしても,タイトルが,指示しているものがあるはずだ。それが,

そこにある「絵」そのものを指しているのか,
「絵に描かれた世界」を指しているのか,
「絵への標識」を指しているのか
「絵への思い」を指しているのか,
「絵のテーマ」を指しているのか,
「絵のモチーフ」を指しているのか,
「絵に見える世界」を指しているのか,
「絵の向こう側の世界」を指しているのか,

等々,いずれにしたところで,作家にとっては,タイトルを名づけた,

意図

があったはずだ。その意図が,たとえば,

絵に見える世界ではなく,絵の裏のテーマ

を指し,観る者に挑戦しているのだしても,その言葉は意味があるはずである。逆に,

絵への思いを,
あるいは
絵に託した思い
を,

自己表出として,

タイトル

にしたのだとしたら,その思いが,観ている者に伝わらなかったとしたら,その絵は,

思いの表現

に失敗したことになる。

僕は,表現するとき,

コトバにするのと,
絵にするのと,
カタチにするの,

とに差があるとは思わないが,表現されたものそのものが直接的に伝えて来るものの力という意味では,絵や造形は,インパクトがあると思っている。そのインパクトとタイトルが,相殺するような,乖離をしばしば感じた。それが,作家の意図したものだとしたら,その

乖離

に意味があるのだろう。しかし,その意味で言うと,こちらには,そのチャレンジを受け止める技量も力量もない。

ひとつだけ,「めめ」と題された,暗いバックに目が四つ並んでいる絵があった。僕は,全体の象徴として,

絵に描かれていないものがテーマ

なのか,という印象を得た。と同時に,作家は,その目で,こちらを観ていると見えなくもない。しかし,それだとすると,この作品が,作品世界としての,

自立

を欠いていることになる。はてさて,いずれであろうか。

参考文献;
吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(勁草書房)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2015年04月27日

風神雷神


田部光子展「風神雷神様のレイゲンアラタカ,アブストラクト」

http://www.mizoe-gallery.com/user_data/event.php

に伺ってきた。案内ハガキをいただいた人に引かれての,何たらである。

03291114_5517600dcf256.jpg


案内はがきにあった,風神雷神図(The Thunder God)に引かれた。

風神雷神図は,風神と雷神を描いた,俵屋宗達筆の屏風画が有名。まあ,それをまねて,描くとは,大胆不敵,という感じで,いささか興味本位で,伺った。光琳の模写も有名で,琳派の絵師をはじめとして、多くの画家によって作られた模作や模写が多数ある。

370px-Fujinraijin-tawaraya.jpg


会場は,なかなかいい。こんな展覧会場はない。

閑静な住宅街に立つ和風家屋,

といううたい文句だが,田園調布の高級住宅街の一角に,個人の邸宅とおぼしいものをそのまま使っている,という感じの会場である。

DSC_0413.jpg


DSC_0409.jpg


風塵雷神図といえば,

「宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。」

とされる絵である。その向こうを張ったのである。

宗達の「風塵雷神図」は,

「画面の両端ぎりぎりに配された風神・雷神が特徴であり、これが画面全体の緊張感をもたらしているが、その扇形の構図は扇絵を元にしていると言われる。」

というその構図に特徴がある。田部さんの絵も,

https://pbs.twimg.com/media/CCSKz7zUEAI5KL9.jpg:large

同じ構図をなぞっている。

難しいことはわからないが,同じ構図をなぞらなくてはならないほど,宗達の絵が,空白をうまく使った,ぎりぎりの対比を,構図化していて,それを崩すのは,難しかった,ということなのか,やはり,どう思案しても,その構図以外,両神を,対峙させる位置取りは,難しかったのか,いずれにしても,宗達の描いた世界,というか,

切り開いた世界,

を出ることはできなかった,という気がする。しかし,構図は同じでも,別の世界にはなっている。後は,好みの問題だろう。

田部光子さんのことは,詳しくは知らないが,

http://www.gallery-58.com/08tabe.html

によると,キャリアは長い。だからこそ,チャレンジ出来た,というか,チャレンジしても,位負けしない,ということなのか,風塵雷神図にチャレンジするには勇気がいる。田部さんについては,

「田部は1990年代から安土桃山をテーマに制作し、アメリカ、フランスで個展を2005年まで続けた。田部のテーマは、日本の中世美術と現代美術との調和である。今回の二曲一双屏風仕立てはその集大成と言えるだろう。」

との評があった。しかし,今回は,甚だ僭越ながら,調和,というよりは,やはり,

宗達の手のひら,

からは出られないなあ,という印象がした(ごめんなさい)。







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2015年05月23日

個展


先日,自分の都合で,二ヶ所の個展に伺わせていただいた。

ひとつは,『長濱恭子展 KYOKO NAGAHAMA-汽水域 brackish water-』

http://kyokonagahama.jimdo.com/%E5%B1%95%E7%A4%BA%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

いまひとつは,『江角健治個展』

https://www.facebook.com/events/1448965842064560/

それぞれについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409519858.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397355525.html

で,以前に触れたことがある。

両方を拝見して,今回,考えさせられることは一杯あったが,最近とみに考えているのは,

丸め方,

である。表現するということは,現実を,

どう丸めるか,

ということである。リアルに見える写真だって,視角とフレームで,いかようにも見え方を丸められる。何かをしゃべることだって,思いであれ,描写であれ,意識していないかもしれないが,我流の丸め方をしているはずだ。

表現者は,独自の丸め方,つまり,

現実の捉え方

その表出方法

を工夫する。表現者は,たぶん,終生それを工夫し続けるのだろう。どう丸めるかに,その人なりの方法論がある。

別の言い方をすると,

現実との距離感の取り方,

と言い換えてもいいかもしれない。

長濱さんの作品は,いずれも,僕は好きな色遣いで,特に「潮」シリーズの青と,地衣をモチーフにした「樹紋」シリーズの,たとえば,案内ハガキにある「#065」,

http://kyokonagahama.jimdo.com/%E5%B1%95%E7%A4%BA%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

の落ち着いた色調が,好きである。 しかし面白いのは,地衣というリアルの,

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%A1%A3%E9%A1%9E#mediaviewer/File:Kajyoutii.jpg

から,丸めて表現した世界を,上記の「#065」では,

木板

に書く,という丸め方,樹木を這う地衣になぞらえて,木板に書く,という距離の取り方が,何とも言えず興味深かった。距離をリアル側に(樹皮に這う菌類だから木に)写したのではない。地衣をモチーフら描いた「樹紋」という絵の世界の表現の仕方として,木板に描いてみた,という丸め方の面白さである。

他方,「樹紋#025」は,地衣から離れた(かなり丸めた)抽象画になっていて,この両者の丸め方を見ると,意識的に取っている,というのを感じさせた。

もう一つ気になったのは,メモが間違っていなければ,だが,

「潮」#025

で,「潮」シリーズにはなっているが,「樹図」#001,#002との境界線にある感じで,この丸め方は,位置として面白い,と感じた。

距離の取り方というのは,観る側は,完成作品と現実との距離を取るが,多分作家の中では,自分の捉えた現実と描こうとしている世界との両にらみなので,次の世界が,描こうとする世界の背後から,あるいは,その先に透けて見えて,描いた世界と地続きで引き出されてくる,そんな感じではあるまいか,と想像する。

江角展は,いつもの独自の丸め方なのだが,今回,タイトルの丸め方と,書かれた絵の世界の丸め方とのギャップに引っかかった。

たとえば,「夜の守衛所」「お散歩日和」「象のレストラン」というタイトルは,描かれた世界が醸し出す,ひとつの世界を丸めた言葉で表現しているが,「ブリキの小屋」「トタンの工場」は,言葉の丸め方が,絵が現実を丸めたレベルとは少し違いがある。「登る家」「寄りそう」「聖者の道」が,その中間という印象である。

言葉の丸め方の違い,という言い方は正確ではないかもしれない。

タイトルをどうつけるのかは,僕にはわからないが,仮に,描いた世界(あるいは描きつつある世界)に,名づけるのだとすると,その名づけが,作家の見た現実の方に引っ張られている,その引っ張られ具合なのではないか,と思う。

別の言い方をすると,絵が,モチーフはリアル世界の建物としても,画布の中に,ひとつの世界を描いている,あるいは,ひとつの(虚構の)物語と言い換えてもいいが,それなのに,その非現実の世界に,まだ現実の建物のイメージを引きずったタイトルになっている,という感じなのである。事実は知らないが,僕には,そう見える。ま,そのくらい,タイトルが,絵の世界をリアルの方に引き戻している,という印象である。

せっかくおとぎの国っぽくしたのに,八百屋とタイトルを付けた,というと,僕のイメージが伝わりやすいだろうか。あるいは,意識的に,そのギャップを狙い,先日観たマグリットのような,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418482700.html

タイトルと絵世界両者の葛藤自体がひとつの世界ということもあるのかもしれないが。

随分昔,絵は,時間が描けない,と妄言を履いたことがあるが,今はそうは思わない。ダリの「記憶の固執」のような表現もあるが,ときを刻むだけが時間ではない。その直前までの動きが,一瞬止まった,

「定休日」

というような表現の仕方もあるし,

「夜の守衛所」

のような,点る灯りに,時間を感じこともできる。







今日のアイデア;
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2015年09月26日

目的が変わる


先日,「隅田あい夏 個展~網とわたしが呼吸する~ 」

https://www.facebook.com/events/905092126227922/910535582350243/
http://gallery-st.net/
http://aika.pupu.jp/

隅田あい夏展.jpg


に伺ってきた。お約束の隅田ワールドの絵もあるが,今回,いくつか,今までにない(と言っても,小品にあったのを,自分が昨年気づかなかったらしいのだが),記憶で書くので間違っているかもしれないが,タイトルで言うと,

「あしたは乗馬の日」
「あの子の顔が見たいとき」
「なんでもない海原」
「見知らぬ島」

の四点の風景画(?)が新鮮だった。作者曰く,

「色」

を(いつもとは違って)いろいろ試したいから,と言うことであったが,僕には,色も確かに他の絵とは違うが,(入日の海を描いたからだけではなく)ちょっと視界が広がる気がして興味を惹かれた。その他,今回は,僕には,確か飲み物のタイトルがついていた,

グラスの中の女性,

を描いた何点かと,タイルの部分を切り取った絵に,ちょっと作家の視角というか焦点の絞り方に惹かれた。

上記の入日を描いた二点は,昨年の小品を改めて,描き直したもののようだが,小さいものをただ描き直す,というのではなく,作者は,

目的が変る,

と言う言い方をされた。確かにそうだろう。小説で言うと,

ショートショート

短編

で書いたものを,中編や長編に書き直すとすると,ただ同じことをただ延ばすというわけにはいかない。素人だから,的を外すかもしれないが,あるいは,

テーマ

が変り,

地と図の焦点,

が変り,さらに,

時間の流れ方,

が変わり,

物語

が変り,結局,

世界

が変り,

小説そのもの

が変るような気がする。仮に,テーマが同じでも,焦点が変り,時間の流れ方が変れば,物語そのものが変る。それはもう別の小説なのだ。絵もまた,その一瞬に,

時間の流れ

物語,

を二次元に圧縮(次元の折り畳み)してみせるのだから,その背後に,そんな操作があるのだろう。

先の風景も,小品で描いた風景を,そのまま拡大して書き直しただけでは作品にはなるまい。たぶん,臆説だが,

風景の発見し直し,

というか,

新たな風景の見つけ直し,

がいるのではなかろうか。二つを並べて詳しく見較べたわけではないから,いい加減なことは言えないが,別の風景が見えるはずではなかろうか。

それにしても,入日というか,海に沈む太陽というのは,どこか時間が止まって見える。確か,ゴダールの『気狂いピエロ』で,ラスト,ジャン=ポール・ベルモンドが,自分に巻きつけたダイナマイトに点火して,あわててそれを消そうとしたシーンからずっとカメラが引いて,海に沈む太陽に,

また見附かった,
何が,永遠が,
海と溶け合ふ太陽が。

というランボオの詩(小林秀雄訳)が重なったシーンが思い浮かぶ。そう言えば,死んだ友人が夕日を見たいと言うので,最後に,黄金崎に,夕日を見に行ったことがあった。そのとき,つくづく思ったたが,幾ら絶景をカメラに収めても,風景は,

心の中にある,

と。それにはついにかなわない。








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2015年10月23日


田口恵子2015個展

https://www.facebook.com/events/402371196623153/415606255299647/

に伺ってきた。フェイスブックの案内にあった画家の写真を借りると,こんな雰囲気である。以下で言及する作品が右手に見える。

田口展.jpg


個展案内に,

「ジェッソという盛り上げ材で下絵を描き,少し隆起したところで,その上から箔(主に銀箔)を画面一面に貼る。その上から,アクリル絵の具で彩色を施す」

と,プロデュースされた竹山貴氏の,画家の手法についての言及があった。拝見するのは,二度目くらいだと思うが,箔が貼ってあることを改めて意識して,今回は拝見した。

案内ハガキにあった「芥子」という絵に,

田口・芥子.jpg


この画家の典型的な視界がある。

言ってみると,カンバスに地を造る操作は,

平らにする
とか,
カンバス地の目を潰す,
とか,
地を調える,
とか,
描きやすくする,
とか,

等々,いろいろあるのだろうが,その瞬間に,画家の描く世界の,

地,

を造っている。ある意味,既に,

世界,

を設えている,というのに等しい。そう見て,箔を貼ることには,この作家独自の世界像があるのだろうと思う。で,見ているうちに,日本画という雰囲気からの連想か,

襖絵,

蒔絵,

絵付け,

を連想した。蒔絵は,いうまでもなく,ネットの説明を借りると,

「漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を『蒔く』ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる『平文(ひょうもん)または、平脱(へいだつ)』や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む『沈金(ちんきん)』、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする『螺鈿(らでん)』などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つである。」

とある。それと似た絵と言いたいのではなく,蒔絵は,

漆を地とし,

襖絵は,

襖を地とし,

絵付けは,

陶器や磁器の肌を地とし,

その世界におのれの絵を描く,それと似ている,と言いたいだけだ。ただ,普通,地はあくまで地で,背景の絵の具で消される。しかし,この画家は,地の箔にこだわっている。そこが,

地を活かす,

というか,

地に活かされる,

という,蒔絵や襖絵を連想させたのだと思う。

しかし,そう連想させるのは,地の箔だけではないような気がする。

今回の作品のなかで,目に留まったのは,確か,

「闇にも咲く」(上記会場内写真の右から二番目)

「落葉」
と,

題された二作品だった。特に,僕は,「箔」の生きる,「落葉」がいいと,個人的には思ったが,箔の力のせいか,どの絵も,(画家の意識的な試みなのかもしれないが)

二次元に圧縮される,

感じを強く懐いた。押絵の感じである。それか,一層,蒔絵や絵付けを強く連想させた。

「闇にも咲く」

は,そういう二次元への圧縮力に反発するように,箔の余白全体に,色が滲み出て,箔を汚していく。汚していく,というのは変な言い方だが,箔の鈍い光と色とがせめぎ合う,という感じである。そうやって,箔が,まさに,地に沈んでいくことで,地の力が消え,二次元圧力が薄らぐ。

この作品に,変化を感じた。変化とは,時間である。時間とは,次元の増加である。







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2015年10月29日

フレーム


報美社(代表・竹山貴)主催の,

http://gallery-st.net/

「前嶋望 個展」に伺ってきた。

前嶋望展.jpg


フレームというか,視界というか,視角というか,アングルというか,を意識している画家だという印象を強く受けた。

確か,ロラン・バルトは(バルザックの『サラジーヌ』の構造分析を通してだが),

「文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。」

と書いていた。その続きは,

「《現実》について語ることができるためには,作家は,…まず《現実》を描かれた(枠に入れられた)対象に変えなければならない。…したがって写実主義(まったく名前が悪い。とにかくしばしば誤解されている)とは,現実を模写することではなく,現実の模写(描かれた)を模写することなのである。」

とある。その「窓枠」を,フレームと置き換えてみればよくわかる。現実の切り取り方,という言い方がふさわしいのかもしれない。フレームを持ちながら,上に上げたり下げたり,広げたり縮めたり,視野を自在に切り取ることができる。

視界というのは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/425947852.html

で述べたように,

目で見通すことのできる範囲。視野。

という意味で,眼や光学機械の見える範囲,を指す。見える限界,である。同義語とされる,視野は,

眼を動かさずに知覚できる周辺視の範囲,

という意味らしく,

外界の一点を凝視するとき、その点を中心として見える範囲,

という意味になる。そういう視野を,絵の設えたフレームが観る人を強いることになる。

そのことを,強く感じさせる作品が,結構ある。

「漂う青」

と題された作品は,海の底から見上げた角度で,泳ぐ魚が描かれている。その他,タイトルは忘れたが,魚をやや後上部から泳ぐ魚を描いたり,クラゲが逆さに泳ぐ(吸い込まれる?)を描いたり,と,そうした着眼を意識した作品が僕には目に留まった。

僕は,よくパースペクティブという言葉を使う。あるいは,

視界が開く,

とも言う。文学でも絵画でも,自分の視界を開くというのが,それを楽しむ意味である。その辺りは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389193629.html

で描いたことと通じる。世界の見え方を決めるのは,

窓枠,
あるいはフレーム,

だと思う。それは,窓枠によって,

世界が現前する,

ということである。そこに,視界の新しさがあり,価値があり,意味がある。クリエイティブを,ざっくり,

新しい視界,

と呼ぶとすると,

前嶋・秋.jpg


僕は,今回の個展の中では,

「漂う青」
「笛と太鼓」(これが一番いい)
「おなかがすいた」

という題(だったと記憶している)三作が,印象に残った(特に「笛と太鼓」が一番いいと思う)。しかし,僕には少し物足りない感じが残った。僭越ながら,まだかすかな既視感がある。

確かに,案内ハガキにあった「秋思」というタイトルの絵や,「風は砂塵まじり」のライオンなどにみる色遣いの特色も新鮮だが,個人的には,色よりは,独特のアングル志向に強く惹かれた。

参考文献;
ロラン・バルト『S/Z』(みすず書房)




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2016年01月21日


安喜万佐子個展「景の足跡‐ traces of shadows」

https://www.facebook.com/events/428407667353861/429992253862069/

に伺ってきた。

安喜展.jpg


昨年の個展(「風景- LANDESCAPE SUICIDE -」)に伺ったときの感想は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398086771.html

で触れた。

今回会場へ入った瞬間,いつもの癖で,各作品のテーマを観ようとして,貼付してなく,今回は,この全体が,

「景の足跡」

というのかと,勝手に独り合点し,そう言えば,入った瞬間,妙に統一した感じがしたのは,そのせいか,とひとりで得心していたが,それは勘違いであった。しかし,その勘違いは,必ずしも,的外れではない気がしている。

僕が絵のタイトルを気にするのは,言葉自体が,その向こうに景色を見らせる,と思っているせいだ。

「光の趾音」と題された,入口すぐの絵の向こうに,瞬間,モネの睡蓮(たまたま最近観たせいかもしれない)を背後に見た。というより,この絵を観たとき,勝手にそう感じた。後から,タイトルを知って,「光の趾音―池」とあった。タイトルがあることが,ひょっとすると,邪魔になることもあるのかもしれない。先にタイトルを観ていたら,そうとしか見なかったろう。

でも,僕は,タイトルの言葉(の向こうに見える世界)と絵の見せる世界がせめぎ合うのが,やはり面白いと思ってはいる。

僕には,「消失図」と題された作品が,一番いい。別に是非を論じるほど,絵画に造詣が深いわけではないので,単なる好みに過ぎない。タイトルを知らないで,観ていた時,僕は,空襲で焼け果てた都市の写真を(この絵に重ねて)見た。街の跡である。

風景という言葉は,

「風(季節のものが風に翻る)+景(太陽の光)」

が,語源とある。「景」の字は,「漢字源」によると,

「景は形声文字。京(亰)は,象形文字。上部(亠と口)は,楼閣の姿(高の字の上部と同じ),下部は,小高い土台を描いたもので,高く明るく大きいの意を含む。上古の人々は洪水や湿気をさけて,高く明るい丘の上に部落を作り,やがてそれが中心都市となり,京(みやこ)の意を生じた。景は,「日+音符京」で,大きい意に用いた場合は,京(けい)と同系。日かげの意に用いるのは,境(けじめ)と同系で,明暗の境界を生じること。」

とある。だから,

日光によって生じた明暗のけじめ,明暗によってくっきり浮き上がる形,転じて日光,
光によって生じた陰(明るい日影),

といった意味がある。

モノは,光によってその色とカタチを浮かび上がらせるが,陰もまた形を際立たせる。光も陰も,影に過ぎない。いやそもそも,闇にすら,濃淡(陰翳)がある。その意味では,

モノも色も景色も,

光の跡なのである。

各絵のタイトルは,「跡」の字は,「趾」と「跡」が使い分けられていたが,「趾」の字は,

「止は,あしくびを描いた象形文字だが,のち,ふまれてとまる意にもちいられて,あしくびをあらわした。趾は,『足+音符止』」

とあり,「足あと」を意味する。「跡」の字は,

「亦は,胸幅の間を置いて,両脇にある脇の下を意味する指事文字。腋の原字。跡は,『足+亦』で,次々と感覚をおいて同じ形の続く足あと」

とある。「跡」は「迹」に同じとある。「迹」の字は,

「辶(すすむ)+亦(一つ,また一つと続く)」

と,ある。「趾」は,あくまで,「痕(あと)」を示し,「跡」は,点々と続く,跡の形を示す。

そんなことを思っていると,カタチの見せ方には,たとえば,

ドッド化する,

というのがある。モノみな量子に遡及できるとするなら,ドットによってカタチを描くのも理にかなっている。そのドッドを色分けすれば,モノの彩りになる。あるいは,

明暗や色が反転したネガ(陰画と書いた方がしっくりくるか),

によっても,ものの輪郭が際立つということはある。影絵である。あるいは,

色を流す,

というのもある。昔,墨流しで,表紙のデザインをしていただいたことがあり,そのときデザイナーは,実際に水に墨を流して,あれこれ試していた。それは,自然の作りだす造形をなぞっているのに等しい。カタチは,意図を超えて浮かび上がる。

こんなことを,展覧会場を出て,時間調整にコーヒーショップで,考えていた。そして,気づいたのは(というよりは,作品を見てきたからこそ,そう感じたにすぎないのだが),そのすべてが,あの会場にあった気がするのである。

モノのかたちの迹が,点々と,展示されていたのである。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
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2016年09月27日

抑制


「隅田あい夏 個展 ~網で濾せないとこらへん~」

http://aika.pupu.jp/

に伺ってきた。

隅田あい夏.jpg


今年は,僕には,

『やることリストを反芻する』(左)

『残した仕事は明日また』(右)

が強く印象に残った。

DSC_0962.jpg


勝手な印象だが,この作家は,視界に網目を掛けるのが特徴的な作風だが,僕には,具象のままでは,どこか作家の中に物足りながあって,何か加えることで,具象のもつ具体的な印象やインパクトを薄らげたいという思いがあるのではないか,思える。

そのせいか,同じ風景でも,二見が浦とはっきりわかるもの(『海の鳥居』)よりも,上記二作や,『早春の海を滑る』のように,具象から少し離れたものの方が,描き方に自由度が高まっているように見える。

去年も似た構図の作品があったと作家には伺ったが,まったく印象が違うのは,

陽の光のはじけ具合,

なのかもしれない。作家は,特に

『残した仕事は明日また』(右)

について,手前に赤のラインや網目といった,手を加えたせいだと言われたが,それだけではない気がする。

DSC_0966.jpg


昨年に比べると陽の出方(というより残り方)が大きいので,光の燦燦とした輝きで,海が暖色系になる。それも違うが,僕が感じたのは,元来が,

具象に引きずられるより,具象から舞い上がる方が,得手なのではないか,

ということだ。ふとそんな気がしただけだから錯覚かもしれない。ただの思い過ごしかもしれない。その意味では,具象に手を加えることで(あえて,それを,視界を「汚す」というか「曇らす」「紛らす」という言い方をしてみるが),視界から(観る者に)具象への注視を妨げる,というのは意味があるのかもしれない。

しかし,僕は,素人ながら,勝手に想像したのは,この作家は,全体に,

抑制のききすぎる,

という感じがするのである。網でいくらか崩しているのだが,それもまだ一種の抑制の域の中にしかない。思い切りよく「汚す」あるいは「曇らす」(というより,何かを描き加える)ことで,抑制のバランスが崩れる,のではないか。

で,

はじける,

という言葉が浮かんだ。日の光がはじけている分,抑制を打ち砕く。ひょっとすると,

もっとはじけたい,

という作家の潜在意識が,「手を加える」ことを,させているのかもしれない,と妄想する。それなら,その思いのままに,「紛らす」ものを発散(はじけ)させたら,陽の光は,もっと,

燦燦と,

視界全体を眩く眩ませるのではないか。その時,さまざまの光の煌めきによって具象の輪郭はかき消され,図も地も,境界線の定かではない,光そのものの散乱する視界には,その向こうに別のパースペクティブが開けそうな気がする。もはや抽象と具象の閾は消える。そんなはじけ方も見てみたい気がする。

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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2016年11月01日

確認


前嶋望展

http://gallery-st.net/
http://blog.livedoor.jp/kidailack/archives/1928299.html

長濱恭子展 KYOKO NAGAHAMA
https://www.facebook.com/kyoko.nagahama.10?fref=ts

というふたつを,はしごで拝見してきた。

前嶋望展は,

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1744251015840462&set=pcb.1744251035840460&type=3&theater

個人的な印象だが,いつもながら,全体として動物をモチーフとした作品が多く,とりわけ,

「茜に遊ぶ」

という作品は,案内ハガキにもあった絵で,今回の中で一番目立つし,色遣いの特色がよく出ている。

前嶋.jpg


しかし,僕は,確か,

暑気払い,

と題された(と思う)作品が一番いいと思うし,ここに,個人的には作家のもつひとつの可能性のようなものを感じた。個人の好みだが,僕は,具象よりは,つまり,

現(うつつ)を写す,

のではなく,その現実の世界に紐づけられず,それからどれだけ自由に自分の世界を描くか,に興味をもつらしいのである。だから(タイトルのみメモってきたので,作品とつながらなくて申し訳ないが),

Scene♯29,
もう寝る,
ソヨカゼ,
Shadow,

と題された作品が惹かれる。タイトルを忘れたが,海底に光が差してきた絵柄(「もう寝る」だったか)とタイトルの乖離が,「現」との距離を示していて,惹かれた。

どうやら,僕は,カタチが溶かされていくというところに,関心がある。

人は,個展に行って,何を観るのだろうか。僕は,自分の(好みの)世界を確かめに行く。確かめに行って,そのおのれの世界を(完全にか,部分的にか)突き崩されるような刺激を絵から受けて,そこに顕現した新たな世界観を受容し,自分の世界観を改めて再構築しなおす。先日の速水御舟にもそれを感じた。御舟については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/442867547.html

で触れた。

長濱恭子展でも,同じことを感じた。作家の言葉に,

「今回は樹木や地衣類ではなく、すべて新作の珊瑚と海の作品です。夏に沖縄で約10年ぶりに海に潜り、取材してきました。」

とあるようあるように,

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=891634904269609&set=pcb.891635504269549&type=3&theater

素材となるもものとの距離を測りながら拝見していた。

長濱.jpg


どうやら,ここでも,抽象度の高い,というか,具象の溶ける,感じのものに惹かれる。タイトルだけメモったので,絵と記憶が上手くつながらないが,案内はがきの,

Coral reef♯001,

もいいが,

Eternal sea

と題されたものの,♯002,003が印象に残った。もともと,珊瑚にしろ地衣にしろ,それ自体が,切り取って拡大すれば抽象度は高い。しかし,それ自体の世界として描くには,逆にちょっと飛躍がいるように思う。つまり,現のもつ抽象度からどれだけ離れた世界として顕現させるか,という意味で,ある距離がいる。たとえば(いい例かどうかわからないが),ある目標をブレークダウンしてアクションレベルまでステップダウンするのに,目標の抽象度が高いほどステップ数がいる,というような感じの,ちょうどその逆になる,というイメージだろうか。

その意味では,たぶん,まだ世界として完成させていくステップの途中なのだ,と感じた。前回,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/419428920.html

で触れたような,作家の葛藤のようなものよりは,手探りで世界を作りつつある,という感触があった(失礼…!)。

結局,作家の画こうとするものと,観る側が見ようとするものは,

現(うつつ),

をさしはさんで,向き合っている。しかし,現を上塗りする様な絵よりは,現の向こう側へ突き抜けていく絵が,僕は好きらしい。その意味では,

輪郭,
とか,
カタチ,

の溶けていくものがひとつの象徴に見える。だから,個人的には,

朝まだき,

夕まぐれ,

の,物の翳と地の薄闇が融け合う世界が,好きなのである。結局全く違う(和洋の)画家の絵の中で,僕は自分の見たいものを見,その向こうに突き抜けていく世界を期待していた,ということだろう。その意味で,惹かれたのは,そのきっかけを与えてくれそうに思えたからだろう。

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2017年04月12日


對馬有輝子展(報美社)に伺ってきた。

對馬展.jpg


拝見しながら,そのデザイン性に惹かれた。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/448559206.html

で触れたが,暁斎の「雨中さぎ」に惹かれたのも,それだと思う。しかし,デザイン力というのは,ある面,

抽象化力,

だと思う。抽象化とは,具象のある側面(本質とは限らない)・性質を抜き出すことだ。しかし,デザインには,いまひとつ,

喩化力,

とでもいうべきものが必要なのではないか。喩とは,

アナロジー,

と置き換えてもいいが,むしろ,「準える」という意味なら,言語の「喩」の,

メタファー(隠喩),

と置き換えた方がわかりやすいかもしれない。表現の具象か抽象かとは別に,具体的なものを描いているからと言って,そこには,別の意味が喩えられていることもある。

今回,ずっと絵を拝見しながら,

喩,

を強く意識していた。ある場合,メタファーよりは,「白バイ」で白バイの警察官を指す,

換喩,

や,手が足りない,という言い方で,「手」で「労働力」を指すような,

提喩,

の,象徴性を強く感じさせるものがあった。メタファーについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/408700916.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163440.html

で触れた。今回,多く鳥をモチーフとした絵が多いが,むしろ,主役は,

羽,

である。それを強く象徴しているのは,

「ヒラクラヒ」
「ランマラ」

と題された,羽にうもれた鳥の絵である。

DSC00109.JPG


どちらかというと,右側の「ヒラクラヒ」の構図がややまさる感じがするが,これなどは,「羽にくるまれた」,

温もり,
とか
柔らかさ,
とか,
安らぎ,

のメタファーと見てもいい。個人的には,「ツキマツキ」と題された,「蜘蛛の巣」の向こうの世界をのぞく鳥の絵が一番気に入ったが,これなど,メタファーそのものといっていい。何を隠喩しているかは人によって違うが,人は,蜘蛛の巣のようなものに絡めとられているだけなのに,それを破ろうともせず,未知の世界にあこがれている,と見てもいいし,いましも,その縛めを解き放って彼方へ行こうとしているとみてもいい,あるいは,蜘蛛の巣越しに見える世界をのぞき見ている状態表現そのものと見てもいい,あるいは,蜘蛛巣に捕えられてしまった自分と見てもいい(蜘蛛の巣は何かの象徴かもしれない)。何が正解かは,人のもつ世界観を反映する。

DSC00107.JPG


デザイン性が強い,ということは,

図と地のバランス,

というよりは,図の配置に取り方といっていい。配置は,図の見せ方,あるいは,焦点の置き方なのだが,その工夫にはちょっと惹かれるところがあった。

作家の方は,「切り絵」のように,構図や配色を塩梅していく操作をしている,という趣旨のことを言っておられたが,それを伺って感じたのは,その操作で,図の配置のデザイン性を産み出すとともに,そのワンクッションの操作で,丸まり方というのか,捨象のされ方というのか,あるいは脱色のされ方というのか,一種の象徴度が高まっていくのだろう,としいうことだ。

それが,全体に象徴性の強い図柄の印象を与えるのかもしれない,と納得させられた。しかし,あえて言うなら,上記の,「ヒラクラヒ」「ランマラ」には,羽の表情はあったが,羽根には表情がなかった。もし,一枚一枚の羽根に表情があったら,どんなメタファーに変るのか,個人的には興味が湧いた。

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2017年04月23日

象徴


小松孝英個展(みぞえ画廊)に伺ってきた。

小松孝英の個展.jpg


http://www.mizoe-gallery.com/user_data/event.php

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案内ハガキをもらった人に誘われて,伺った。ハガキにあった絵,

img019.jpg


にちょっと興味を惹かれた。どうやら,

蝶,
魚,
おたまじゃくし,

といった自然系のものをモチーフに描く方らしい。略歴を見ると,

九州デザイナー学院アーティスト学科卒業

とあり,構図のデザイン性も強い作風なのは,納得できる。案内ハガキの絵を見てもわかるように,絵のもつ象徴性は強い。展覧会の案内の文句には,

アートフェア東京2017で好評を博した小松孝英の個展,
「九州から世界へ」を実践し、生物多様性のテーマを描く,

とある。

生物多様性のテーマ,

というのは,今回の作品群ではよく分からなかったが,デザイナー博の案内にある,

アートフェア.jpg


絵は,今回の入口正面にあった「蝶舞図」である。この作家の群像を描くときの独特のデザイン性は,

蛍群舞,
蛙ノ子群生図,
蛍群舞図,
群虫図

等々の群像を描いた作品群に能く特徴が出ている。「おたまじゃくし」の動きをラインで示す,デザイン性は,

ハヤ,

アユ,

が泳ぐ図で,流水をラインで表現するところと似通っている。是非は別として,そのデザイン化された構図が,極端に行くと,さらに象徴性を強めた画風になる。

玄関右手にあった,細長い,

流水吸水図,

は,滝のように流れ落ちる(何本かのラインで表現される)水と戯れるように飛び交う蝶が数匹の図である。これもシンプルだが,やはり細長い,

雨,

と題された作品は,抽象化された花らしいものに止る,白い蝶が下に,同じくデザイン化された枝にとまるイモリが上に,と対比的に描かれた作品だが,僕には,これに一番惹かれた。

僭越ながら,蝶の群舞には,どうしても既視感がつきまとう。こちらは蝶で,あちらは(たぶん)蛾だが,御舟の,「炎舞」の翳がちらちらしてしまう。こちらはアクリル,あちらは日本画ではあるが。

その他の群舞も,現実に先行する絵があるかどうかとは分からないが,やはりどこか既視感を感じてしまう(先入観かもしれないが)。デザイン性が強まるほど,それは象徴性が高まることであり,それは与える印象をシンプルにする。先行する者の印象の翳は強くなるのではないか,と感じさせられた。その意味では,独自の構図のもつ,

雨,

のインパクトに惹かれた。

なお,速水御舟については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/442867547.html

で触れた。

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2017年05月23日

昭和の香り


江角健治個展(報美社主催)に伺ってきた。

http://gallery-st.net/

江角展.jpg


江角さんの個展には何度か伺ったし,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397355525.html

で触れたこともある。なかなかユニークな,独特の世界観のある絵である。

今日ざっとひとめぐりしたとき,ある感慨があった。前にも感じたはずだか,スルーして気に留めていなかった。それは,誤解を恐れずに言うと,

昭和の香り,

とでもいうべきものだ。ある懐かしさを伴う,と言ってもいい。まあ,個人的な感慨かもしれない。作家がどれほど意識的なのかはわからないが,ちょうど,

望遠鏡,

というより,昔風に,

遠眼鏡,

という言い方が似つかわしいが,それで見ている感じである。距離は,

作家と対象との隔て,

つまり,それだけ対象に対する距離がある,ということだ。それは,リアルさからの距離と言ってもいい。さらには,この距離は,

時代(あるいは時間)の隔り,

つまり,時代(時間)の層を貫いている隔たり,でもある。そして,観る側は,その逆を辿って,この絵を通して,時代を遠くからのぞき見る格好になる。この隔てが,ある意味,作品を,

メルヘンチック,

にする。あるいは,

現実の丸め方,

といってもいい。

はや,平成になって三十年近くも経っているので,敗戦後の焼け野原から,四十年かけて築き上げた戦後世界は,遠い彼方にある。あの時代は,まるでバラック建てから始まった古い温泉旅館が,急成長に間に合わず,建て増し建て増しして,迷路のような巨大建物になったような,猥雑で,乱雑で,一種無秩序感の残る世界は,けっして今日のように小ぎれいな家並み,街並み,風景ではない。いま,区画整理や再開発で消えていく世界は,ある意味,ひとつひとつに個性があった。そう言うと,嗤われるかもしれない。

文化住宅,

団地,

のどこが個性的か,と。しかし,今日の林立する高層住宅と比べれば,ずいぶん個性的だ,と僕は思う。そういう時代との距離を突き抜けてくる気配が,これらの絵にある。そんな雰囲気を漂わせる建物群が,会場全体に,ひとつひとつ個性的に,おのれを主張しているのである。

僕には,素人なので技法のことはよく分からないが,現実の対象から,描かれた作品までの距離は,描くときの独特の対象の丸め方(丸めていくプロセス)にあると思う。幾工程かを(作家の頭のなかで)経てからでないと,こういう丸まり方にはならない。いい喩えかどうかからないが,一旦見つめた,あるいはラフに描きとった下絵は,たぶん,リアルなものなのではないか,それを自分の世界観,というより,自分の世界に中に置き直すことで(ここでも何工程かを経ている),こういう造形になる。そのプロセスを,微細に辿ってみるなら,ちょうど,貼り絵をするとき,輪郭に張っていく紙の形や色によって,世界を作り直すような感じ,という言い方のほうが近いだろうか。その時間的な次元の隔たりを経ている,と思えるのである。

今日の,画一化したプレハブ住宅やコンクリートの建物は,丸めても,たぶん,一色の箱にしかなるまい。いかに丸めても,トタンあり,板塀あり,継当てあり,破れ目ありの,昭和の建物だから,こういう丸まり方になる。あるいは,逆かもしれない。こういう丸まり方をしたものを観て,ある感慨を懐ける人の心の中に,昭和の風景がある限り,観る側の思いを膨らませていく。そういう実体験のない世代にとっても,昭和の風景に懐かしい,というように,共有できる感慨を呼び起こすものなのかどうかは分からない。現実の風景が消滅した後に,あるいはそれを知らない人にとっては,たぶん一種のメルヘンとして感じられるものは残るのだろう。そのとき,絵は,別の物に代わっているのかもしれない。

丁度取り壊し前の古い建物を描いた(注文制作の)絵が二点あったが,それが,全体と調和を乱さず並んでいるのである。まことに,今にも取り壊されそうな,古びた,取り残された建物が,真新しい家並み中に,ぽつんと,建っていることがあるが,まさにそんな雰囲気なのである。

いまも田舎に行くと,ボンカレーの古びたポスターや金鳥の看板に,懐かしさを感じる世代と,それを別の世界のものとして受けとめる世代との差,ということかもしれない。しかし,そのとき,絵は,変化を迫られるような気がする。

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2017年07月22日

破調


根津太一展(報美社主催)に伺ってきた。

根津太一.jpg


全体に静かなたたずまいである。穏やかと言ってもいい。すべての作品は,

みえない糸で繋がる命,

と題されている。僕の好みでは,案内ハガキにあった,

「みえない糸で繋がる命(循環 大河)」

と題された作品に惹かれてお邪魔したようなものである。でも,写真と作品は,別物で,作品に両サイドから光を当てて撮ったもの,と作家はおっしゃった。輝いている部分は照明の効果で,現実の作品は,沈んだ色遣いである。それはそれで悪くはない。

今回僕がいいと思ったのは,入口右手に並んでいた,

みえない糸で繋がる命(赤茶),
みえない糸で繋がる命(赤黒),
みえない糸で繋がる命(黒赤),

と題された作品群で,とりわけ,

みえない糸で繋がる命(黒赤),

が僕には好印象であった。それに並んでいた,

みえない糸で繋がる命(層Ⅱ),
みえない糸で繋がる命(層Ⅲ),

もいい。しかし,「Ⅰ」にあたるらしい,

みえない糸で繋がる命(層),

のコンパクトなものの方が,僕には落ち着いて見えた。

全体として,落ち着いた雰囲気の中で,

みえない糸で繋がる命(赤茶),
みえない糸で繋がる命(赤黒),
みえない糸で繋がる命(黒赤),

が破調に見えた。ふと,

美は乱調にあり,

という,瀬戸内寂聴の,甘粕事件で大杉栄と共に虐殺された伊藤野枝の生涯を描いた小説のタイトルを思い出した。この言葉は,大杉栄の,

「美はただ乱調にある。階調は偽りである。」

という言葉に由来するらしい。正確には,

「生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、階調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある。」(「生の拡充」)

という文脈らしい。ついでながら,この言葉は,

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070302/1172855740

によると,フランシス・ベイコンの,

There is no excellent beauty, that hath not some strangeness in the proportion.

に出自があるらしい。

「プロポーションがちょっと乱れたり、歪んだり、傾いたり(some strangeness)しているところにこそ、本当の美(excellent beauty)がある」

という考え方らしい。たまたま,

「美はただ乱調にある」

を思い出したのは,全体に静謐な雰囲気に,僕なりにちょっと反発してみたくなったせいかもしれない。

命はゆらぎ,

であると思う。僅かなゆらぎから始まったビックバンにわれらの命が由来するなら,ゆらぎがなくては,ならない。あるいは,

そよぎ,
もつれ,

でもいい。それを,

破調,

と呼ぶなら,乱調と言わないまでも,破調が欲しい。その意味で,破調の窺える,

みえない糸で繋がる命(赤茶),
みえない糸で繋がる命(赤黒),
みえない糸で繋がる命(黒赤),

の中でも,

みえない糸で繋がる命(黒赤),

をまず指を折る。次いで,

みえない糸で繋がる命(赤茶),

を取る。沈んだ底から,ほとばしる何かを抑える体がある。

参考文献;
大杉栄『生の拡充』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000169/files/2312_13472.html


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