2017年07月28日

余白


牧考友貴展(報美社)に伺ってきた。

牧考友貴 展.jpg


拝見しながら,

余白,

のことを考えていた。突拍子もないが,「素」を思い起こしていた。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/434943171.html

で触れたことがあるが,素は,


とも
モト
とも
シロ
とも,

訓む。素とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,

撚糸にする前のもとの繊維,蚕から引き出した絹の原糸,

とか,

模様や染色を加えない生地のままの,白い布,

等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。『論語』で,

子夏問曰。巧笑倩兮。美目盼兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。繪事後素。曰。禮後乎。子曰。起予者商也。始可輿言詩已矣

にある,

素以為絢兮(素以て絢(あや)となす),

について,子夏が,

繪事後素,

と答えたのについて,古注では,

絵の事は素(しろ)きを後にす

と,絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,

と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,

絵の事は素(しろ)より後にす,

と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解する。

この「素」を,余白のメタファととらえるとどうなるのだろう,というようなことも考えていた。素と文とが拮抗しているから,後先が問題になる。だから,いずれが主とも言えない。

「余白」は,余りでも序でもなければ,単なる背景(図と地でいう地)でもない。沈黙が言葉であるように,余白もまた表現である。

絵を拝見しながら,こんなことを頭の隅っこで考えていたのは,ほとんどの作品が,

余白,

というと失礼だが,広い背景を持っている。その中で,案内に遇った,

「relief」

と題された作品だけが,背景が狭い。この作品は,だから,大きな作品の割に唯一,何とか背景と拮抗し得ていた。

抽象画(だと思うのは,現実を丸めて,ぎりぎりリアリティの紐を繋ぎとめている絵だと感じたからだが),と見なせば,

何を描いた,

かではなく,

どう描いたが,

が問題になる。どう丸めたか,と言い換えてもいい。そう見たとき,完全に僕の独断だが,上記の絵と同じサイズの絵は,ほとんど,僕には,余白に負けている,と感じた。地がまさっている。ただ,小さなサイズの絵は,かろうじて,拮抗しているように見えた。

僕の好みだけで言えば,一番いいと思ったのは(記憶で書くのでタイトルは読み間違えているかもしれないが),

cry for the moon

と題された作品だ。言ってみると,右寄りにただ細い塔のようなものが屹立していただけの図柄だか,濃紺の背景に拮抗して,全体のバランスが取れていた。つまり,余白に負けていないのである。同じサイズの,台形を逆さにした舟の形状のものを描いた,

suburb-30
suburb-20

も,やはり,拮抗していた。大きなサイズになると,デコレーションケーキの形状や家の形状のものは,僕には,背景に負けている,と見えた。絵のことはわからないが,中心にある対象に注力があり,背景が脇に回されているせいではないか,という気がした。沈黙もまた,言語表現である。

あえて主たる対象と背景を,図と地と言い換えると,それが,

地と図の空間的な拮抗なのか,
地と図の質的な拮抗なのか,
地と図の色遣いの拮抗なのか,
地と図のバランスなのか,
地と図の間合いなのか,

僕にはわからないが。

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2017年09月27日

色と形


「隅田あい夏~網のうつわ」個展(報美社主催)に伺ってきた。最終日に,ぎりぎり間に合った。

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いつもながら,独特の色遣いで,会場全体が,何となく温かい雰囲気を醸し出しているのは,喧噪をドア側の後ろに置き残して,別世界に入ったという感じがする。このところ,混雑した美術館で観るときの癖で,ざっと一巡してしまう。そして,気になったところに立ち止まる,あるいは戻る,という観方が身についてしまった。一番最初に立ち止まったのは,「スティングレイシティ」と題された作品。

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作家が言われるように,バックが濃い緑色のせいかもしれない。瞬間,

カタチが溶ける,

と思った。あるいは,

輪郭が溶ける,

という方が正確かもしれない。次に立ち止ったのは,「ひきとめる」と「すぎるもの」と題された,二点セットの作品。

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たぶん,この順序なのは,入日とその後,ということだと思うが,このとき,おやと思った。ひとつは,少しタイトルをひねっている,と感じたことと,いまひとつは,昨年は,こんな入日の絵の大きい絵があったはずと,振り向いて,並んだ大きい絵が目に入り,そちらへ移動してしまった。「そろそろ明日へかえるよ」(左)と「ふたご座クルーズ」(右)。

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「そろそろ明日へかえるよ」は,「ひきとめる」は似た構図だか,圧倒的に,「そろそろ明日へかえるよ」がいい。この図柄は,ちまちま収めるには,ちょっと荷が重い。広々とした海原に差す,光の残照が大きさを求めている,と見た。入日の図柄を観ると,いつもゴダールの『気狂いピエロ』のラスト,ベルモントが慌ててダイナマイトの導火線を消そうとするシーンが退いて,入日の海原を背景に,

また見附かった,
何が,永遠が,
海と溶け合ふ太陽が。

というランボーの詩(小林秀雄訳)が,映し出されたのを思い出す。そこには時間の停止を感じさせる何かがある。やはり大きさがいるようである。

で,また戻って,「ブナの森」を見,

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「言わざる たなびく」(左)と「サーディンラン」(右)(?ちょっとはっきりしない)に出会う。

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この流れで見たせいもあるが,僕は,「言わざる たなびく」が,今回の中で一番良いと感じた。「ブナの森」は,まだ輪郭に色が負けている。しかし,「言わざる たなびく」と「サーディンラン」は,色が輪郭を呑みこんでいる。というか,色に,カタチが溶けていく。特に,「言わざる たなびく」がいいのは,作家の言われたように,「緑色」が効いているのかもしれない。で,お話を伺っているうちに,「季節を運ぶ」が目に留まった。

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ちょうど,「ブナの森」よりも,もう少し色がカタチを溶かそうとしているように見えた。この先,色だけが,流れるように描かれる時,「言わざる たなびく」に辿り着く,というように。

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2018年01月21日

描く楽しさ


「清水国明の自然暮らし」展(報美社主催)に伺ってきた。

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初めての個展ということらしい。案内ハガキの絵を見て,ちょっと惹かれて伺った。油絵も初挑戦ということもうかがっていたので,正直たいして期待もしないで,用事のついでに寄らせていただいた。

しかし,こういう言い方をするのは失礼ながら,想定外に面白かった。絵の是非について,云々できる薀蓄はないが,僕はタイトルが面白いと思った。たとえば,

「決意の富士」
「夢叶う富士」
「かいでみるよりするがよい」
「秋冬同居」

等々,全てではないが,惹かれるタイトルがある。いつも,僕はタイトルを重視する。

人は持っている言葉によって見える世界が違う,

という。言葉を通してモノをみる。あるいは知識でモノを見る,と言い変えてもいい。僕は,

絵はタイトルとのキャッチボール,

なのだと思っている。描き手は,タイトルに,

描き手が見た世界を言語化,

するのだと思う。描き手は,そう見てほしい世界の道しるべをする。しかし,観る側は,絵を見ながら,タイトルの言葉に自分が見る世界と,絵の世界とキャッチボールをする。その乖離と融合の中に,描き手が見せたい世界とは別の新しい世界を,見る側が見つけ出せるかどうかが面白いのではないか。描き手の思うように見ては,それは絵の世界が(描き手の内部で)自己完結しているだけのような気がする。

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多分記憶では,左が「決意の富士」右が「おぼろ富士」。言葉の見せる世界と,絵の見せる世界のギャップが,絵を見ながら,様々に感じさせる。この絵柄では,「決意」が甘いとか,「おぼろ」は,もっと紗がかかっていなくてはとか,と思いながら,結構面白いと思えてくる。この二作と,案内ハガキの「藍富士」の三作が,メインなのかもしれない。確かに落ちついている。でも,「藍富士」じゃなく,蒼を集めた富士とか,別の言葉が見えてきたりする。

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僕は個人的には,「明瞭富士」と題された作品や,「秋冬同居」と題された作品,「GOLD」と題された作品等々,ちょっとデフォルメした富士にチャレンジして,楽しんで書いている作品が好きた。抽象度を増すというのは,

見える世界を丸める,

ということだ。その丸め方に,描き手の冒険と楽しみがある。

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(「明瞭富士」)

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(「秋冬同居」)

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(「GOlD」)


この展覧会の写真を見せたある人は,「絵を画くのが楽しくして仕方がない」という雰囲気が出ている。ちょっと描くことへの手応えを感じて,いろいろな表現スタイルを試みているところに,充溢感が出ている,と評したが,確かに,絵を描く楽しさが顕れている展覧会ではあった。

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2018年05月19日

パースペクティブ


江角健治 個展(飯田弥生美術館ギャラリー)にお邪魔した。

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毎年拝見しているわけではないが,独特のひしゃげた(傾げた)家々の絵が独自の雰囲気を醸し出す。今回,僕は,三点ほどある,いわゆるパースペクティブで書かれた絵に注目してみた。以前にもあったのかもしれないが,こういう絵はあまり印象にない。随分前になるが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397355525.html

で,この作家の絵の特徴を,

押絵,

になぞらえたことがある。画家の見た世界が,

押絵

として表現される,ということは,そこに,大袈裟な言い方だが,作家の世界観がある,と思う。

表現の世界は,自立しているので,押絵として世界を描いた瞬間,その押し潰された,というか,

次元を折り畳んだ世界,

に転換することで,より自由に描ける世界が(作家に)生まれてくるのだと思う。では,その作家が,いわゆる遠近法,

パースペクティブ,

で表現するとどうなるか,という興味で拝見した。

ひとつは,「黒い倉庫」
いまひとつは,「ブタのぬいぐるみ」

である(もうひとつ「赤い屋根の大学」もある)。

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(「黒い倉庫」)


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(「ブタのぬいぐるみ」)


正直言うと,他のいつもの絵に比べると,際立たない。ただの古ぼけた倉庫だし,ちょっと傾いた建物にすぎないようにみえる。独特の雰囲気が,ありふれた世界観に紛れ込んでしまう。それは逆に,この普通のパースペクティブの絵を見て,改めて,ひしゃげて,(次元の)圧縮された,この作家の絵の特徴が,際立ってくる気がした。

前に,僕は,こう書いた。

画家のパースペクティブ

を表現するのが,絵なのだと思う(この場合パースペクティブは,遠近法ではなく,眺望,あるいは和辻の使っていた視圏の意味で使っている)。そこには作家の見た(見せたい)世界が描かれる。画家の見た世界が,

押絵

として表現される,ということは,そこに,大袈裟な言い方だが,作家の世界観があると思う,と。

しかし通常のパースペクティブで描くと,その独特の世界観が弱められてしまう。言葉は悪いが,ありふれたものになってしまう。

要は,折り畳み,圧縮する中に,様々の思い,感情,来歴が閉じ込められる。あるいは,独特の,

ひしゃげ方,
傾き方,

にも,その家々の歴史(積み重なった過去)や個性(独自の佇まい)が見えてくる。それが,見る側に,

押絵,

のような,

次元を折り畳んだ,

独自の厚みを感じさせる。

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(ハセ川さんちの理容店)


たとえば,案内ハガキに載った「ハセ川さんちの理容店」を見るとよく分かるが,この傾きに,この家の歴史があり,ひしゃげそうな店構えに,悲喜こもごもの来歴がある(と見た作家の思いがあると言い換えてもいい)。しかし,これを通常のパースペクティブで描けば,ただの古ぼけた床屋に過ぎなくなる。

次元を折り畳んだ世界,

にはどうやら,まだまだ奥行があるらしい。

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2018年07月31日

崩す


牧孝友貴 個展(報美社)に伺ってきた。

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昨年も伺った記憶があり,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/452196019.html

で触れたが,僕には,背景というか「地」が気にかかった。それは,たぶん描かれているものが具象度を薄める,もっというと,カタチを崩そうとする分,それが地が拮抗し切れていない,という印象であった。それは,勝手な読みかもしれない。しかし,今回,別のことに目が向いた。

一番惹かれたのは,「motorcycle touring2018015」と題された作品。僕が常識にとらわれているのかもしれないが,地に対象物が浮いている,という印象がない。たぶん現実の風景(ないしそのイメージ)から着想されたものと思うが,現実味が濾過された一種心象風景になっている。

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(motorcycle touring 2018015)


これに惹かれるのと同じ理由で,同じく「motorcycle touring20180502」というタイトルの作品にも惹かれた。これも,同じように,現実の風景が一種心象風景のように見える。あえて言えば,幻想的かもしれないが,別の言い方をすると,現実を丸めた分,抽象度を高めている,という言い方もできる。この場合,僕には,地だけが際立つような印象はない。全体が,一つの世界を形作っているとみえた。それが,全く個人的な印象かもしれないが,前回との差に思えた。

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(motorcycle touring 20180502)


もひとつ今回勝手にあることを感じたのは,「motorcycle touring 20180527」と「motorcycle touring 20180127」だ。

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(motorcycle touring 20180527)

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(motorcycle touring 20180127)


どちらも,色とりどりのドッドは,丁度デジタルデザインが最小単位のドットが分離して,カタチが崩壊していく(のによく使われる)ように,ひとつのカタチを崩れていく様に見える。これもまた心象風景でもありえる。

そう見ると,いま,この二つの絵は,未来を描いているとも見えてくる。別の言い方をすると,時間が描けている気がする。それが作家の志向かどうかはわからないが,僕には二つの意味で興味深い。

ひとつは,カタチを崩すのは,作家が自分の世界を築く在り方で,どう現実を丸めて見せるか,そしてそこにどう新しい世界を顕現させるかだと思うからであり,いまひとつは,カタチを崩すという作業には,画く行為自体を画くという意味が含まれていると思うからである。そこには,いかに現実の対象であれ,心の風景であれ,それをどうう描くかではなく,それを描こうとすること自体を対象化しなければ,描けないからである。

僕は最近,描くを描く,ということに個人的な関心がある。それは,単に,

何を描くかではなく,どう描くか,

という方法の問題ではなく,

その(発想を)描くこと自体をどう描くか,

という,

描くを描く,

ことこそが,文学でも,絵画でも,今日の大事な方法的視点だと思っているからである。そんなことを感じさせてくれた個展ではあった。

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ラベル:崩す
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2018年08月04日

共振れ


對馬有輝子 個展(報美社)に伺ってきた。

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僕は絵を観るとき,タイトルを観,絵を観る。タイトルは,作家の見てほしい(あるいは作家がそこに見た)世界だ。しかし,それと,絵から僕自身が受けるものとは,必ずしもシンクロするとは限らない。なんだ,そんなタイトルか,という思いで,改めて絵を見直し,そこで,絵の見せる(というか,僕が見る)世界とタイトルに示された世界とを重ね合わせる。そのとき,僕がタイトルから見る世界は,作家の見る世界とは異なるはずだ。たしかヴィトゲンシュタイン(だったと思う)が,

人は持っている言葉によって見える世界が違う,

と言った。しかし,同じ言葉だ(を持っている)からといって,同じ世界を見ているわけではない。言葉に,ひとはおのれの経験と知識を見る。もっと峻別するなら,たぶん,ひとは,そのひとの,

自伝的記憶(は多くエピソード記憶と重なる),

を見る。だから,すごく大袈裟な言い方をすると,

作家のタイトルに見る世界
と,
そのタイトルに観客が見る世界,

は別々なのだ。だから面白い。しかも今回,タイトルは,凝りに凝って,ある意味,抽象度が高く,

詩的,

であるだけに,様々に思い入れる陰翳がまつわりつく。その意味では,作家の凝ったタイトルと観る側の言葉にみる世界との微妙な振幅によって,人によって見える世界が異なるのだろう。言葉と絵の共振れによって,見えてくる世界が作家とそれとどう違うのかを,想像しながら観て回るのも,なかなか面白い

昨年の個展については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/448939211.html

で触れた。そこで,作家の「喩」について,言語でいうメタファー(隠喩)になぞらえた。つまり,描かれた具体的な対象は,何かに喩えとして描かれている,という意味である。

今回,それがますます強まっているという印象を受けた。あるいは,別の言い方をすると,

象徴,

と言ってもいい。たとえば,「たったひとつの ゆずれないもの」というタイトルの絵は,龍の手にしているもので象徴的に示される。俗物の僕には,ドラゴンボールに思えたが,それはそれで希望の象徴と見える。

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(「たったひとつの ゆずれないもの」)

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(「あともう少しで」)


(タイトルと絵を記憶違いしているかもしれないが)個人的には,「あともう少しで」にまず指を折る。願望は,いつも,あと少しのところに手が届きそうで届かないまま,水中の月影のようなものだ。次に指を折るのは,一対になっていた「生きとし生けるもの」という大作だ。巨大な鳥の肢と爪をどう見るかによって,絵の奥行が変わるかもしれない。僕には,生きとし生けるものを被う,巨大な生のエネルギー,まさに火の鳥に見えた。喩というかアナロジーは,それを何に見立てるかで,世界は変わるだろう。

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(「生きとし生けるもの」)


コラージュ風な「対話する惑星」や「噂する惑星」もいいが,僕には,案内ハガキの「そこにあるもの」という鶴を象徴にしたものや,「たどりついたときに」のような白馬(天馬とみてもいい)を象徴にしたもののような,躍動する一瞬を切り取ったもののほうが,イメージは広がる気がする。ただ,馬にしろ,鶴にしろ,具体的形象は,どうしてもそのイメージに引きずられ,見る側の飛躍の足枷になる気がする。その意味では,鶴(丹頂鶴)よりは,白馬の方が,さらに,見えない脚と爪のほうが,自分の世界を開ける気がする。

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(「対話する惑星」)

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(「たどりついたときに」)


タイトルの私的言葉と具象的な絵との会話は,作者のそれと観る側のそれとが,交錯して,世界を開く,ということを改めて,いろいろ考えさせられたが,とりわけ,タイトルは,作家にとって,観るものへの一種のチャレンジであることをつくづくと感じ入った。タイトルは重要だと,改めて再認識した。

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