2014年08月08日
無知
恥ずかしながら,
30代
は底なしの無知であったと,いまは思う。おのれの無知をしらぬ無恥といっていいか。吉本隆明が「無知の栄えたためしはない」を,論敵に贈っていたのを,おのれのことではないと思っていた。おのれの無知に気づかぬ無恥ほど恐ろしいものはない。
無知
とは,
知識がないこと
智恵のないこと
とあるが,どうもそういうことではない気がする。確かに,
無(ない)+知(知る)
で,知らない,ということに違いないが,中国語源では,
無恥
つまり,
無(ない)+恥(はじ)
恥知らず,の意味だという。なかなか意味深で,確かに,
知らないこと
ではなく,
知らないことを知らないこと,
と考えると,無知は無恥に通じる。
子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。
と,孔子が,由(子路)にこう諭したのも,そう考えると意味深い。
しかし,だ。「知らざるを知らず」とするのは,そういうほど簡単ではないのだ。何を知らないかがわかるというのは,知についてのメタ・ポジションが取れることだ。そんなことがたやすくできるはずはない。
別のところで,孔子は,自分自身は,「生まれながらにして之を知る者」ではなく,
学んで之を知る者
であると言っているが,「学んで之を知る者」の次は,
困(くる)しみて之を学ぶ
者であるという。しかし,問題は,何を,どう苦しめばそうなれるかだ,といまなら思う。これは,自分の体験だから,
たまたまをそもそも
としているかもしれないが,鍵は,
アウトプット
だと思う。インプットではなく,アウトプットすることで,脳のシナプスの回路は強化される,というが,僕は,「知る」とは,自分の言葉を得ることだと思う。ひとは,
その持っている言葉によって,見える世界が違う,
と,ヴィトゲンシュタインを読んだとき,自分流に理解したが,その独自の言葉が,その人の見ている世界を示す,と思っている。僕は,初めて一書をまとめたとき,その瞬間は,気づかなかったが,
新しい視野
を得たのだと思う。僕は,それを,
パースペクティブ
と言う。「知」は,パースペクティブなのだと思う。自分にしか見えない世界を手に入れた,と言うと,大袈裟で不遜なのかもしれない。しかし,ピンではなく,キリだとしても,あるいは,他の誰かがすでに言っていることだとしても,それでもなお,
自分の世界を語る言葉
を手に入れたことが大事なのだと思う。それは,
視点
なのかもしれないし,
視角
なのかもしれないし,
ビューポイント
と言うべきものかもしれない。それは,それを表現するコトバを手に入れたことでもあるのではないか。そこで,初めて,
見える世界
がある。それが,おのれの視界であり,景色である。それが,その人の手に入れた「知」なのだと思う。もちろん,レベルの高低もある,是非も正否もある。しかし,自分のパースペクティブを手に入れなければ,その「知」と言う土俵で語ることができない。別の言葉で言うと,
借り物ではない言葉,
借り物ではないパースペクティブ
といってもいい。そのとき手に入れたものの完成度もレベルも,いま考えれば,恥ずかしいくらいかもしれない。しかし,小なりと言えど,自分の視界を手に入れたのだと思う。そこからしか,知の更新も,知の拡大も始まらない。
因みに,そのとき広げたおのれのパースペクティブの風呂敷からは,結局出られない,のかもしれない。そこで得たのは,おのれの視界の射程なのかもしれない。そして,それ以降は,おのれの顕在化した限界との戦いなのだ,と気づく。
いまも日々更新中だが,そうは射程は伸びてくれない。しかし,あの一瞬のフロー体験があったからこそ,脳細胞が沸騰するとはどういうことかが,キリはキリのレベルで,想像がつく。いま,更新しても,あの時の,興奮と白熱は,なかなかこない。
その意味で,自分のパースペクティブをもてているかどうか,
がその人が独自の知を築いたかどうかの目安なのだと思っている。言葉遣いの中に,その人独自の言葉があるはずである。借り物ではない,その言葉に,その人の見ている,独自の
視界
がある。それは,知識の多寡ではないように思う。知識の先に,その人だけに見える視界が開けているかどうかなのだと思っている。それを,和辻哲郎流に,
視圏
と呼んでもいい。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年08月25日
知と痴
『大言海』をみると,
「しる」は,
しる(痴)
しる(知・識)
しる(知・領)
しる(被知)
が並ぶ。それぞれ,
痴る(器量の奥の知るる義か) 心愚かなる。惚(ほ)くる。
知(識)る(物を明白にする義)万事を明らむる。物事の理を心に承く。交わりて顔を見覚ゆ。
知(領)る 司る,占む,領す。
被知る 知らるの約。他の知ることとなる。
と,簡にして明。贅言がない。国語辞典で「知る」を引くと,ずらずと意味が出てくる。たとえば,『広辞苑』では,
「領(し)る」と同源として,
ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとする意,
という意味を,縷々書く。因みに,「領る」については,
ある範囲の隅々までを支配する意,原義は物をすっかり自分のものとすること,
で,治める,領有する,といった意味が並ぶ。「痴る(しれる)」は,
「領(し)る」の受身形で,支配される意,
とある。つまり,知と痴は,親子というか支配被支配の関係から出ている。いまは,
判断・識別の能力が働かなくなる,
ふざける,
といった意味になるが,上から,見下げてそう言っている,あるいは,そう言われている,という意味が含まれる。『大言海』の,
器量の奥の知るる義,
というのは,なかなか含意が深い。
ところで,「しる」の語源は,
「しるし(著し)」を語源とし,はっとわかるからしる(著し)とする説,
と,
心を占領する(領る),つまり占るとする説,
とがあるらしい。しかし,「知る」行為自体は,占るではなく,目にとめるという方ではないか。それがのちに占めるになる。いずれにしても,
ものを占める
のと
知を占める
のと
ひとを占める
のとが,アナロジカルに重なっているというのは,言葉の汎用化がどう広がるかを伺わせて,なかなか興味深い。
漢字の「知」は,
「矢+口」
で,矢のように真直ぐに物事の本質を言い当てることをあらわす,
という。因みに,「聖」は,「知」の語尾がのびたことばで,もともと,
耳も口も正しく物事を当てる知恵者のこと,
という。「智」は,智恵をあらわすが,「知」で代用する,という。「識」は,右のつくりが,原字は,「戈(棒くい)+Y字型のくい」で,目印のくいをあらわし,「言」を加えて,
目印や名によって,いちいち区別してその名をしるすこと,
という意味。どちらかというと,
みわける
とか
区別する
のニュアンスがある。『字源』には,
知は識より重し,知人・知道といへば,心の底より篤と知ることなり。知己・知音と熟す。識名・識面は,一寸見覚えあるまでの意なり。相識と熟す。
とある。知の方が識より,深くて重い,らしい。
「痴」は,本来「癡」と書く。「痴」は,その俗字。「癡」は,
「疑」が,戸惑って動かない意,思案にくれて進まないこと,
という意味で,「癡」は,「疒」(やまいだれ)を加えて,
何かに支えて,知恵の働かないこと,
を意味する。「癡」の「疑」には,
「疑」の右側は「矣」のもとのかたちで,人が後ろを振り返ってたちどまるさまで,「子+止(足を止める)+矣」で,愛児に心惹かれてたちどまり,進みかねるさまをあらわす,
という意味があり,思案に暮れているからといって,呆けているとは限らない。だから,知と痴は対比できない。問題なのは,知らないということではない。確かに,
無知,
というのは,知らないということだが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/419536179.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/403368447.html
等々でのべたように,
ただ知らないこと
ではなく,
知らないことを知らないこと,
であり,だから,無知は知から恥に通じる。
子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。
と,孔子が,由(子路)に諭したのも,それに通じる。
知は,もちろん個人の努力もある。しかし,多くその人の置かれた文脈による。そのことは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413639823.html
で触れたことと関わる。
「これを応用すると,『人間の能力』も,関係が物象化したものです。たとえば,家族がそろってニュース番組や芸術番組を見ながら夕食をとり,時事問題や芸術について会話があるような家庭で育った子どもは,お笑い番組をみながら夕食をとる過程で育った子どもより,自然と『能力』が高くなります。意識的な教育投資をしたかということではなく,長いあいだの過程の人間関係という目に見えないものが蓄積されて,『能力』となってこの世に現れる…。」
とすれば,大事なのは,知の有無ではなく,無知の知の有無こそが問われる。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm