2014年10月24日

鴎外の怪談


永井愛作・演出『鴎外の怪談』を観る。新作である。

http://www.nitosha.net/ougai/

久しぶりにいい芝居を観た。理由は,作家が時代と格闘している,ということに尽きる。それは,自己完結して,自足する芝居ではない,という意味だ。

「彼は文学者として精力的に活動する一方,軍医として最高ポストにまで上り詰めた,政府高官でもありました。小説家としては,時に「風俗壊乱」の批判を受けながら,軍職者としては規律を重んじた鷗外を,『到底調和できない二つの頭脳を持っている』と当時の評論家,三宅雪嶺は評しています。この『二つの頭脳』を,鷗外は矛盾なく生きたのか?そこに,迷いや苦悩はなかったか?本作は,激動の時代を生きた鷗外を家庭生活の場から描き,内面の謎に迫ろうとするものです。」

と劇場のチラシにはある。

永井は,パンフレットにこう書く。

「猛烈なスケジュールだったはずですよ。朝は軍服にサーベルを下げて陸軍省に赴き,日暮れて帰れば,「パッパ!」と飛んでくる子どもたち,絶え間ない来客。執筆はどうしたって深夜になり,書斎の灯が消えるのは明け方。
精神的にはさらにハードだったでしょうね。日本が日清・日露を経て第一次世界大戦に向かおうとする時代に,軍職と文学を両立させなきゃならなかったのは。」

と,そして,

「『ねえ,本音はどうだったの?』と聞きたくなってしまいます。表現者の端くれとして,特に最近そう思います。答えが返ってくるはずもないので,自分で書いてみることにしました。」

そう,ここには,いま,治安維持法に匹敵する秘密保護法がいよいよ施行されようとし,ある人は,「もはや戦前である」といった,そういう時代に,

人として,
夫(妻)として,
表現者として,
社会に役割を担うものとして,
個人としての思想として,

どう生きるのか,というより,時代に,権力に,社会に,どう関わるのか,が問われている。その問われて,揺れ動くありさまそのものが,森鴎外に仮託されてえがかれている。

話は,ちょうど大逆事件が摘発され,幸徳秋水らが,権力によって事件そのものが「大逆」として,フレームアップされようとしていた。鴎外は,片方で,『沈黙の塔』などで,当局の言論弾圧を,「危険なる洋書」いわば思想の異なる本を燃やし,同じ部族の中で殺しあう話に仮託して批判し,他方で,『ヰタ・セクスアリス』で発禁処分を受けたりしていた,そのさ中から,最終的に幸徳秋水,大石誠之助ら十二人が処刑された直後までの,森家での騒動である。

『スバル』の編集者兼弁護士(大逆事件の被告の弁護人でもある),歌人,文芸評論家でもある平出修,
三田文学の編集責任者であり,慶応義塾大学教授である,作家の永井荷風,
軍医であり歌人でもあり,山形有朋ともつながる,友人賀古鶴所,
紀伊新宮で,大逆事件に連座した大石誠之助の世話になった女中スエ,
それに嫁姑の戦いの最中にある,母峰と十八歳年下の後妻しげ,

が登場人物。この人物に,

賀古鶴所と平出修が思想的対極,
荷風が揺れ動く鴎外の象徴,
「舞姫」のエリスと妻しげも,鴎外の中の女性観の対極,
母峰と嫁しげも,家と妻との対極,
時代の下層社会の女中スエと鴎外を取り巻く上層社会の対極,
少年の鴎外が見たキリシタン弾圧と大逆事件の弾圧とのシンクロ,

等々と,揺れ動く鴎外の心象を外在化する象徴と見ることが出来る。

それは,鴎外自身の振る舞いとして,

片方で,大逆事件の判決結果に(結論ありきの結論を決めている)有朋のもとでの秘密会議に加わる政府高官として,
他方で大逆事件の弁護士である平出に弁論についてのアドバイスをし,裁判官に思想を説こうとし,
片や家の象徴の母に心配り,
方や家庭として妻を立て,

と危ういバランスをとっていた鴎外は,女中のスエから大石の助命を嘆願される中で,とうとう,死刑判決の出た被告たちの助命嘆願を山形有朋に直訴しようと決意し,それを妻しげにも励まされるが,「おまえの出世の望みをかなえるべく有朋に引き合わせた」「お前が男爵になるのを見たい」という友人賀古鶴所と,「お前がどうしても行くというなら」と,短刀を喉元に突きつけて阻止しようとする母峰の前で,やはり,鴎外は立ち往生し,結局,なにもせず,「罪滅ぼし」のような貧民救済策で,お茶を濁し,最後,「結局こうなるのか,エリス」と,つぶやくところで終わる。

小事は大事

である。「たかがうちわでさわぐ」,という「たかが」と冷笑する昨今の風潮(法務大臣が公職選挙法違反行為をたかがという神経は,無知なのか無恥なのか)は,結局「フクシマ」にも「改憲」にも「秘密保護法」にも目をつむり,これから起こるであろう弾圧にも,「たかが」と冷笑しつつ,加担していくことになるだろう。それは大逆事件を,

罪を裁くのでも,
人を裁くのでもなく,
思想を裁く,

と喝破しながら,見て見ぬふりをしたここでの鴎外の心象風景とダブる。いま,思想が裁かれようとしている。

反原発,
反TPP
反政権
反基地
反辺野古,

等々という発想自体が,「反日」であり,「売国奴」であり,「サヨク」であり,「極左」になるとは,すでに,思想の断罪,思想の焚書が始まっている。いずれ,

非国民

のレッテルも復活するだろう。そして,生贄の事件が,フレームアップされるに違いない。

幕が下りた後,永井を含めた,若手の出演者とのトークライブがあったが,そこで,永井が,

観客のいる舞台をみて気づくことがある

と,日々,役者たちにダメ出しをし続けている,という話が出た。

永井は,

作家として,時代と格闘し,

演出家として,(いまの時代を生きる)役者と格闘して,

(いまの時代そのものである)観客と格闘して,

作品を完成させようとしている,と感じた。そう,「芝居」は,生き物であり,日々の舞台の中で,舞台を通して,変化し,変身していく,ということを,改めて,思い知らされた。そこには,

時代そのものの中での格闘,

社会そのものの中での格闘,

鴎外の格闘,

作家の格闘,

そしてわれわれ自身の格闘

が,何重にも重なりあっている。その意味では,

出演者が言った,

「全員が当事者」

とは,この舞台の全当事者が,大逆事件に,当事者として関わっている,という意味だが,それは,観ている我々にも,

いまの時代の当事者

であることからは逃れられぬ,ということを示しているように聞こえた。

ところで,『鴎外の怪談』の,「怪談」の意味が解せなかった。「怪談」とは,

怖さや怪しさを感じさせる物語の総称。日本古来のものを限定して呼ぶ場合もある。「日本三大怪談」は,四谷怪談・皿屋敷・牡丹燈籠の三話らしいが,多くは,死に関する物語,幽霊,妖怪,怪物,あるいは怪奇現象に関する物語,民話伝説を指す。

という。しかし,観終わって,一日たって,作者が,「怪談」という言葉を使った意味が,何となく分かる気がした。そこにあるのは,怖さや怪しい物語という怪談である。怖さや怪しさは,人に,特に自分に起因する。そう自分が,引き寄せるのだ。部外者に幽霊はやってこない。いま,時代の中に,

鴎外(的な)の怪談

が現れている(という作者の警告である)。それは,宙ぶらりのまま,見て見ぬふりをし続け,アクロバチックに逃げ抜けたつもりが,結果として時代の狂気に加担してしまった(だけではなく,その付けを我が身で味あわされた)という,

鴎外の怪談

を。それは警告でもある。後世に,同類の,

おのれの怪談

を残さぬように,という。心しなくてはならない。





今日のアイデア;
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2014年10月26日

可笑しい


ちょっと前のことになるが,ある芝居を観てきた。

http://inucoro.jp/kouen.html

いわゆる,取り違えと,すれ違い,という(無声映画でもよく観る)喜劇の王道のような話なのだから,確かにおかしいのだが,面白いか,と言われると,ちょっとためらう。

どうせなら,取り違えと,すれ違いを,徹底して押し通してしまってはどうか,そうすれば,別の終り方があったのではないか。どこかで,まとまりを付けよう,大団円というか,完結させようとする,予定調和は,不要なのではないか,とふと思った。僕は,

破調

が好きだと思う。徹頭徹尾,

どたばた

し続けたっていいではないか。収拾をつけようとするところで,ご都合主義と内部閉鎖性が出る,という気がしてならない。ところで,思うのだが,

可笑しい

面白い

とは違うのではないか。

可笑しいは,

古代語「ヲク(招・呼)+シ(形容詞化)」

で,

思わず笑みがこぼれる心的状態,

とある。平安期の新語だそうである。知的感動がある,趣きがある,の意であったようだ。

優れている,上品である

という意味さえある。

をかし

と表現する。「いとをかし」というやつである。

「あはれ」とともに,平安時代における文学の基本的な美的理念。「あはれ」のように対象に入り込むのではなく,対象を知的・批評的に観察し,鋭い感覚で対象をとらえることによって起こる情趣,

とも言うらしいが,

心惹かれる,

というニュアンスがあるようだ。しかし現代では,

こっけいである,
つい笑いたくなる,
いぶかしい,
変だ,
怪しい,
粗末である,

といった意味にシフトしてしまっている。一方,

面白いは,語源的には,二説あるらしい。

ひとつは,「オモ(面)+白い」で,顔面が白くなる意,

いまひとつは,「面+著し」で,顔の前がパット明るくなる意,

で,「面白い」は当て字ではなく,語源に即した書き方のようだ。

心に強く感じて,パッと顔が明るくなるような感情,

ということになる。

昔,火を囲んで話をしていたところ,面白い話になると,皆がパッと顔を上げ,火に照らされた顔が白く浮かび上がった,

という俗説もあるらしいが,そんなイメージだろう。

だから,昔は知らず,いまは,おかしいだけではつまらない。

おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉

という芭蕉の句が思い浮かぶが,何と言っていいか,

異次元

に入り込んでしまっていたたような,感覚なのだ。だから,我に返ると,

寂寥

というか,祭りの後のような

もの悲しさ,

というか,

身につまされる,

おのが身を省みる,

というものが残る。

ドタバタを観ているとき,観客は,客席から,その取り違いが起こすやり取りを,笑っているのである。それは,自分とは違う,という目でなければ笑えない。面白さとは,その距離感が違うと言っていい。

我に返る

という一瞬の「間」がない。

可笑しさも中くらいかな,

あっ,ではない。

めでたさも中くらいなりおらが春

だったか。

僕は,どんな作品も,現実の文脈から自立した,完結性があるべきだとは思うが,同時に,時代と,あるいは観ている側の文脈とせめぎ合うような緊張感が欲しい。

それが,

面白い,

の評だと思う。その緊張は,作家自身の中なのか,作品の中なのかは,素人の僕にはわからない。しかし,どこにも時代とのせめぎ合う緊張感のない完結性は,少し物足りない。

それは,作家の中に葛藤がないか,葛藤に無自覚であるか,それを(テーマとして)見ないでいるか,のいずれかのような気がする(いや,いや,ひとごとではないが)。

かつての清水邦夫や初期のつかこうへいには,それがあった気がする。いまなら,野田秀樹か。いやいや,面白い芝居は,確かにある。それについては,先日,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/407649473.html?1414094841

に書いた。これは,最近では,久しぶりの骨のあるいい芝居であった。こういうのを,面白いという。






今日のアイデア;
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2016年09月15日

自己完結


「自己完結」とは,基本的に,閉鎖的であると思う。『実用日本語表現辞典』,

http://www.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%8C%E7%B5%90

によると,

「何かの物事について、自分自身の中だけで納得したり決着したりしているさま。『周りの人からするとまだ決着していないのに、独りよがりに決着している』といった意味合いで否定的に用いられることもある。また、『自分自身で調べたりして自分だけで疑問や課題などを解決できた』という意味で用いられることもあるが、この場合は、『完結』というよりも『解決』が近い。」

とある。あるいは,別に,

「それだけで一つの世界を作っていて、内部に矛盾のないこと。」

と載せるものもある。仕事の仕方でいえば,

抱え込む,

というのに近い。自分の裁量でできる範囲で,自分だけの才覚で,何とかしようとしてしまう,という意味でもある。そして,それは,本来自分で抱え込んではいけないこと,あるいは自分ではどうにもならないことも抱え込んで,何とかしようとしてしまう,という意味でもある。

あるいは,

http://psychology-japan.com/self-completion-type-human.html

で,自己完結型人間について,

「一般に自己完結型人間と言う意味を調べると、何か問題が起こっても、自分はあまり関わらなかったり、自分の中だけで結論を出して、納得しているタイプということになります。冷静でドライな意見の持ち主ともいえるでしょう。」

とある。ある意味で,抱え込みといい,別の意味では,碁や将棋で言うと,勝手読みで,相手を無視して自分の筋しか見ないへぼでもある。

なぜこんなことにこだわるかというと,先日ある芝居を観て,実にオーソドックスで,完結した世界を,きちんと描いているのだが,途中で,うんざりしてしまったことがある。

別に脚本は,丁寧に,人物ひとりひとりもきちんと造形され,細部まで目が行き届いている。申し分がないのである。しかし,既視感が拭えない。どこかで見たことのある,パターン化した人物たちなのである。ひとりひとりがきちんと描かれれば,描かれるほど,デジャブが強まる。

どこかで見たことのある放蕩息子であり,
どこかで見たことのある頑固なオヤジであり,
どこかで見たことのある嫁舅であり,
どこかで見たことのある強突く隣人であり,
どこかで見たことのあるコソ泥であり,
どこかで見たことのある駆落ちであり,
どこかで見たことのある愛人と妻であり,

等々どこかで見たことのある人たちなのである。

既視感とよく描かれていることとは矛盾しない。しかし,それは破綻がないということではない。いやむしろ,既視感を懐かせるということは,その芝居世界が完成度が高ければ高いほど,自己完結した芝居世界の綻びなのではないか。

芝居とは,何も世界のミニチュアをつくることではない。それなら,

箱庭,

に過ぎない。あるいは,

ドーム,

と呼んでもいいし,

ドールハウス,

と呼んでもいい。それが,どんなに現実を忠実に写したとしても,そのことは,

箱庭的な世界,

として自己完結させるのなら,それでもいい。しかし,芝居に必要なのは,そうした,

自己完結性,

ではないのではあるまいか。少々芝居の結構が崩れていても,人物描写が多少破綻していても,この現実の世界と,

相渉(わた)る,

ことがなければ,芝居として舞台に世界を描く意味がない。むろん,作家の脳内自己完結はかまわない,作家自身が,

リアル世界と相渉っている,

限り。しかし,それは,作品の自己完結を諒とすることではない。しかし,逆に言うと,あるいは,

芝居の自己完結,

は,作家の,

自己完結の反映,

であり,作家自身が,

自己完結した世界,

に閉じこもり,現実と相渉っていないことを露呈しているのかもしれない。そのことは,テーマが,

反戦劇であるとか,
時代劇であるとか,
古典劇であるとか,
喜劇であるとか,
ドタバタであるとか,
シリアスであるとか,

等々とは関係ない。それはチャップリンを思い起こせばいい。


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