2014年11月05日
スキル
改めて,(ビジネス)スキルをピックアップしてみているところだが,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/skill.htm
そこで考えたのは,能力というのと,スキルというのとの違いである。
能力というと,たとえば,例の如く,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
ということになる。これに,
体験(やったことがある)×気力(がんばれる)×体力(やり切れる)
を加えてもいい。ここでは,スキルは,
技能(できる)
つまり,努力すれば身につくもの,という意味である。
あるいは,知識というなら,G・ライルの言う,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(どうやるかを知っている)
でいうところの,
Knowing how
つまり,やり方と言っていい。
しかし,世の中は,スキルと能力(一般)とを混同している。スキルにこだわるのは,スキルとは,
「手腕。技量。また,訓練によって得られる,特殊な技能や技術。」
と定義される。つまり,訓練によって得られるのである。得られる結果は(人によって)巧拙があっても,得られなくてはならない。ところが,である。
たとえば,ずいぶん昔,佐野勝男氏らが,ハーバード大学のロバート・カッツを紹介した(佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』。記憶では,これが嚆矢だと思うが,今日独り歩きしている)が,そこで,
「管理技能について,カッツは三つの基本的技能をあげている。テクニカル・スキル(techical Skill),ヒューマン・スキル(human Skill),コンセプチュアル・スキル(Concrptual Skill)である。」
で,それぞれを,こう説明している。
「テクニカル・スキルはとは各職能分野における仕事の方法,手続等に関する知識・技能である。」
「ヒューマン・スキルとは,集団メンバーと上手に相互作用し,チーム・ワークを盛り立てていく技能である。上役,同僚とうまく接し,部下を上手に使い,組織の能率をたかめる,いわゆるヒューマン・リレーションの技能のようなものである。」
「コンセプチュアル・スキルとは,ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮していく。」
とここで,佐野勝男氏等は,「技能」という言葉にこだわっている。そして,このスキルを図示した有名な,
https://img.jinjibu.jp/updir/kiji/YWK12-1023-management_skill0101.gif
について,この図式は,「この考え方をデイビズが図式化した」と断り(つまりカッツが描いたのではない),
「カッツはこれらの三つの技能は,総て訓練によって開発できる能力であると考えている」
と言いながら,
「テクニカル・スキルは別として,他の二つの技能については先天的なものを考慮はなければならない。」
と付言している。こう付言する根拠は,あるレベル以上でなければならないと,(佐野氏等が)勝手に解釈したせいだと思うが,カッツは,あくまで,(結果の)巧拙は問わず訓練できる,と考えたということを忘れてはならない。
ところが,多くは,次のように,
テクニカル・スキル(業務遂行能力)
ヒューマン・スキル(対人関係能力)
コンセプチュアル・スキル(概念化能力)
と,いつの間にか,カッツが「スキル」と言っているものを,「能力」に置き換えて訳してしまっている。技能とは,
「あることを行うための技術的な能力。うでまえ。」
である。能力一般に還元してしまっては,カッツの言っている意味が変わる。そのことに無頓着だから,定義内容まで変わっていく。
「コンセプチュアル・スキルは概念化能力とも言われ,抽象的な考えや物事の大枠を理解する力を指す。具体的には論理思考力,問題解決力,応用力などが挙げられる。」
「ヒューマン・スキルは対人関係能力とも言われ,職務を遂行していく上で他者との良好な関係を築く力を指す。具体的には相手の話をきちんと聞いて理解するヒアリング,話し合いのなかで自分の意見を主張するネゴシエーション,自分の考えを的確に,論理的に伝えるプレゼンテーション,さらにはリーダーシップやァシリテーション,コーチング,交渉力,調整力などが挙げられる。」
「業務を遂行する上で必要な知識やスキル。これは職務遂行能力とも言われ,その職務を遂行する上で必要となる専門的な知識や,業務処理能力が挙げられる。」
つまり,能力に置き換えたことで,特に,コンセプチュアル・スキルの,大事なポイントが,すり替わってしまっている。流通している考え方では,コンセプチュアル・スキルとは,具体的に,
問題解決力
や
論理思考力
と挙がるが,これは,テクニカル・スキルでしかない。そんなことを言うために,コンセプチュアル・スキルとして,カッツがわざわざ概念化したのではあるまい。ここでは,佐野勝男氏等の定義が正しい。つまり,
「ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮」
なのであって,「論理思考力」は所詮,コンセプチュアル・スキルを実現するための手段に過ぎない。大事なのは,
「ものごとの全体的な関係を洞察」
することだ。僕は,これを,
目利き力
とか
俯瞰力
と呼ぶ。その視野によって,
意味づけること
ができる。上位になるほど求められるのは,
概念化
ではない。
意味づける
あるいは
意味の発見
である。それが新しく,革新的であればあるほど,説明したり,展開したりするのに,論理的思考力や問題解決力(というテクニカル・スキル)が要る(この作業が概念化で,概念化も手段である),というだけである。
しかし,大事なことは,こういうコンセプチュアル・スキルのような,ものの見方というか思考スタイルもまた,スキルだと,カッツが考えたということだ。そこに,佐野勝男氏等のように「先天性を」考えてしまうと,どうそれを育成したり,訓練するかは,ほぼ思考の埒外,つまり不可能になってしまう。スキルと考えるから,
どういうことを学び,
どういうトレーニングをして,
何を体験させ,
どういう知見をえさせば,
これが可能になるか,という思考が可能になる。こういう論理的な詰めは,こう考えると,その前提からして,日米格差がある。
それで思い出したが,第二次世界大戦での,戦闘機の設計思想そのものに,こういう思考の差が現れている。たとえば,
天才パイロットを前提に極限まで軽量化したゼロ戦(後ろに回られたら防げない)
と
普通の(徴兵された)パイロットをも守る防弾装備を強化したF6Fヘルキャット(ともかく兵員を守る)
との差と言っていい。だれでもが学習すれば車の運転のようにできるようになる,そのためにどうすればいいかを,具体的な訓練手段にブレークダウンしていく。これが論理的思考だ。論理的思考が手段というのはこういう意味だ。論理的思考があっても,そもそもの俯瞰力がなければ,下らぬMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive )のような,役にも立たない細部に血道を上げることになる。
だから,能力と言わず,誰もが身につけられるスキルということで,
ではどうすればそれを身につけることが出来るか,
というKnowing howを突き詰めていく。これを論理的に突き詰め,開発していく,これこそが,
コンセプチュアル・スキル
に他ならない。だから,上位者になればなるほど必要になる。こういうコンセプチュアル・スキルが不足しているから,研修スキルも,研修理論も,いつも,アメリカからの輸入に頼る羽目に陥る。
参考文献;
佐野勝男・槇田仁・関本昌秀『管理能力の発見と評価』(日本経営出版会)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年05月09日
目利き
目利きとは,スキルの
メタ・ポジション
なのだと思う。
スキルについては
http://ppnetwork.seesaa.net/article/408346660.html
で触れた。カッツの管理技能の三つの基本的技能に,
テクニカル・スキル(techical Skill),
ヒューマン・スキル(human Skill),
コンセプチュアル・スキル(Concrptual Skill)
がある(前に書いたことと重なる)が,カッツは,
テクニカル・スキルはとは各職能分野における仕事の方法,手続等に関する知識・技能である。
ヒューマン・スキルとは,集団メンバーと上手に相互作用し,チーム・ワークを盛り立てていく技能である。上役,同僚とうまく接し,部下を上手に使い,組織の能率をたかめる,いわゆるヒューマン・リレーションの技能のようなものである。
コンセプチュアル・スキルとは,ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮していく。
とそれぞれを説明するが,
https://img.jinjibu.jp/updir/kiji/YWK12-1023-management_skill0101.gif
と図示されるように,上位に行けばいくほど,テクニカル・スキルは,ウエイトが小さくなる。自分で操作したり,実施するというよりは,管理に回るからだ。その場合,とりわけ必要なのは,
目利き,
ではなかろうか。丸投げや放任でない限り,本当にできているかどうかを,見抜けなくてはならない。だから,
コンセプチュアル・スキル
のウエイトが高まる。佐野勝男氏等の定義では,コンセプチュアル・スキルは,
「ものごとの全体的な関係を洞察し,論理的な思考を働かせ,創造性を発揮」
なのであって,これも前に書いたが,
「ものごとの全体的な関係を洞察」
が鍵になる,と思う。これを,
目利き力
とか
俯瞰力
と呼ぶべきものだ。その視野によって,そのことの,その出来事の,そのものの,
意味づけができる,
ことでなくてはならない。これこそが,と上位者に求められる。
目利きとは,
目+きき(試して調べる,意のキクの連用形)
で,良否を見分けることを言う。キクは,
「耳にもっとも強く響く音(キン・キ)+く」の耳に強く作用する意,
と,
「キ(生きる力)+ク」で,キを活用して現象を強く認識する意,
の二説がある。本来は,
刀剣,書画,器物などの真偽,好悪を見分けること,またはその人,
という意味になる(『大言海』)。
「聞き」は,
感覚で音弥声を感じ取る,
が元の意味で,
味を試す,
の聞き酒の聞くや,
効果がある,
の利くは,後の転用。要は,
鑑識眼
審美眼
具眼の士
見巧者
ということになる。ここからは,まったくの想像だが,対象をきちんと聞き分けるとき,
見立て
や
準える,
のと似た思考方法を取っているのではないか。何かになぞらえるとき,全体の類似性もあるが,AとBを比較し,それぞれの下にツリー状にぶら下がる下位概念,まあ特徴を対比している。真贋でも真偽でも,対比する時,AとB,それぞれの下にツリー状にぶら下がる特徴というか,あるべき印というか,具わるべき要因,を比較しているはずである。その意味では,自分の中にある,
対比するものの引き出し
と同時に,
つりーの下にぶら下がる特徴(要因)の,更に下(の下の下の…)にぶら下げられる微細に渡る特徴,
が多いほど,比較対象の細部を見ていくことになる。その意味では,ものを見るポジションが,
大まかな全体像から,
微細な細部にわたるまで,
遠近自在にできることが,
メタ・ポジション
と一言で言いながら,目利きの力の奥行なのだろう。それは,知識ではなく,
Knowing how
の
Knowing that
を幅広く,奥行深く持っていなくてはならない。そういう目利きは,市井に密かにいる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年07月25日
昔取った杵柄
昔取った杵柄とは,
「若い頃に身に付けた技量や腕前のこと。また,それが衰えないこと。」
「昔、若い頃に、しっかりと鍛えて、身につけた技能は、年がたっても、そのことを忘れず、 十分にやることができるというたとえ。」
という意味である。
若い頃に身に付けた餅をつく腕前は,年をとっても体が覚えているため衰えないことから,
そういうらしい。いわゆる,
手続き記憶,
である。スキーや自転車といった,身体で覚えた記憶である。
「杵柄」とは,
脱穀や餅つきに用いる杵の柄,の部分のこと,である。
「杵の柄を上手にあやつって、餅をしっかりとつく」
という意味になる。だから,よく,
「かつて、しっかり体に身につけたことは、ある程度、年が過ぎても、そのことを体で覚えているので、 昔のように、上手にやることができるということです。」
と説明される。しかし,僕は,あまり信じない。確かに,スキルは,身についている。しかし,現実に日々それを繰り返し,強化している人と対等に渡り合える,というのは思い上がりである。
かつて自分がやったことがあると,そのイメージでわかったふりをするのが,最悪の経験者であるのと同様,自分の(できているときの)イメージ通りに,いま体が動くわけではない。
だから,
騏驎も老いては駑馬に劣る(及ばず),
昔千里も今一里,
昔の剣(つるぎ)今の菜刀(ながたな),
昔は肩で風切りいまは歩くに息を切る,
等々と,逆の諺の方が圧倒的に多い。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html
で触れたが,どんなスキルも,日々鍛錬しつづけなければ,劣化する。かつて自分が出来たと思ったイメージ通りには,自分ができないことは,おのれ自身で気づく。それに気づけないのであれば,それは,おのれのノウハウとはなっていなかった,ということだ。
なぜならば,スキルもまた,
自己完結
しているわけではなく,環境とというか,状況との格闘抜きには,上達はない。とすれば,何十年も前に自分がそのスキルを立てていた状況とは変わっていれば,そのスキルは,状況対応できないことになる。つまり,
状況変化に対応できないスキル,
とは,時代遅れであり,化石化そのものに他ならない。前に書いたことと重なるが,
スキル,
を,
Knowing how,
と置き換えると,ただそれをやれるという埋没化した即自的なものは,スキルとは言わない。G・ライルの,
Knowing that(そのことについて知っている)
と
Knowing how(そのやり方を知っている)
で言う,
Knowing that,
つまり,Knowing howのKnowing that,
そのやり方についての知,
を持たなければ,おのれのスキルそのものをメタ化できない。つまり,俯瞰する力がない。それでは,自分のスキルを測ることなどできはしないのである。所詮,
昔取った,
という形容詞抜きでは,誰にも認知されないであろう。ある意味,
昔取った杵柄,
という言い回し自体に,一種の,
揶揄,
がある。まあ,こんな感じである,
「昔鳴らしたんだってねえ,お手並み拝見」
である。明らかに,相手のほうがメタ・ポジションに立っている。多く,どんな剣豪も,老いては,試合をしない。目利き力だけで,生きる。それが,本当の意味での,
昔取った杵柄,
というものの意味である。目利き,については,既に,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/418653213.html
に書いた。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm