2014年12月10日

寓話


前川知大作・演出『新しい祝日』を観た。

http://www.geigeki.jp/performance/theater071/

寓話だと思う。寓話とは,

比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ,それによって諭す事を意図した物語。

つまり,物語自体が,何かのメタファになっているということである。あるいは,寓意,寓意とは,

ある意味を,直接には表さず,別の物事に託して表すこと。また,その意味

とある。ちらしには,

「ある会社,働き盛りの男が一人で残業している。男はふと不安に駆られる。なぜここにいるのだろう,と立ち止まる。見慣れた社内を見渡していると,いつの間にか,道化のような,奇妙な男がいる…」

と。ピエロの風体の男は,もうひとりの自分と見ていい。いわば,自己対話の中で,自分の過去らしいところから,もう一度,自分をたどり直す,寓意とみていい。

で,たとえば,そんな中に,意味なく,ストレッチとジョギングというウォームアップだけを繰り返する場面がある。何のために,何を目指してそれをしているのか,という問いは,それ自体を目的化する当たり前の中で,聞き流される。問いかけた『真実』役の男は,つまはじきされる。主人公は,それをつまはじきする側に回る。

これが主人公の過去か,それとも単なる想像かは別として,この寓意はわかりやすくはある。

流れに盲目的に乗るか乗らないか,それを批判的にあるいは問いたてる側に回るか回らないか,これ自体を,現代(現在のというべきか)の寓意ととってもいいかもしれない。

その意味では,何のために,何をしようとしているのか,また,自分は何のためにそこにいるのか,それは自分のいる(べき)場所なのか,その場所はどこか,等々を問い直せという主題であるように見え,「新しい祝日」も,そういう寓意から,出ているのだろうとは想像がつく。

しかし,観終えて,何となく不得要領である。チラシの言っていたほど,「立ち止まった」というシーンはなかったから,突然出てきたピエロに,男ともども驚かされたし,ラスト,会社を立ち去るシーンも,ただ残業を終えて帰るのと,特段の区別がつかず,普通の日常に回帰してしまうのか,そうでないのか,というなんとなく,クエスチョンマークがついたままであった。

僕はいつも思うのだが,自分が何をするためにそこにいるかは,そのとき,そこでしか発見できない。いつも,

そのとき
そこ

での現実,現場をスルーしてしまっては,結局現実と渡り合うことのない,ただの頭の中の自己対話以上には出ない。まあ,言ってしまえば,頭の中での自己変革に過ぎない。それは妄想といっても同じだ。その鍵は,そのとき,そこ以外の,過去にも,未来にもないのではないか。

いま
ここで

しか見直しも,再出発もない。過去へ遡っても,そこでは,いまの生き方以上を読み取ることは出来ない。

いまのありようが過去の見え方を決める。

いまの自分の見方,見え方以上のものは,過去で探し当てることは出来ない。観終わって感じたのは,そういう意味で,言い方は悪いが,ちょっとありきたりだなという感じだ。サラリーマンという設定も,子ども時代へと遡る設定も,そうなるだろうと予見できる範囲に収まって,意外性も,スリリングさもない。

サラリーマンだから,何かに流されて自分を失っている,

という設定自体も,ステレオタイプにしか見えない。どんな場でも,生きることは,確かに,妥協だが,妥協抜きで,徹頭徹尾おのれを貫くといっても,貫く自分がなければ,貫けはしない。その自分を,どこかへ探そうという発想自体が,自分探し的に,見える。

いま,ここを逃げてもそういう自分は,どこかにいるはずはない。いま,ここでの,自分との対決をとおしてのみしかあり得ない。それは,いま,ここにおいて,自分は何をするのか,何をするためにここにいるのか,がもっと徹底されるべきだろう。それは。自分の今いる現実との格闘抜きにはあり得ない。

できるなら,組織の中で働くことを通して,何をするために自分はそこにいるのか,そのために何をするのか,を考えるとはどういうことかを,寓意に逃げるのではなく,真正面から受け止めるべきなのではないか。確かに,ある日,

自分は何をするためにここにいるのか,

という疑問がわくことはあるだろう。不安に駆られることもあるだろう。

こんなことをしていていいのか,

という思いがわき出ることもあるだろう。それは,流れの中で,自分を確かめないまま忙しさに紛れて問うことを忘れたためだ,というのも確かだろう。しかし,その問いの答を,過去やまして幼少期,青年期に求めるのは,過去に原因帰属させる発想に思える。

あのとき,ああしなかったつけ,

というように。そうだろうか。

人は,日々選択している。そういう自分のありようは,たったいまも,ここで,選択しつづけている結果である。その選択に疑問がわいたのなら,

いまの,
ここでの,

ありようを問い直すべきだ。いま,ここで選択し直すべきなのではないか。その答えの中に,過去は,いままで見えていたのとは別の姿で見えてくるはずだ。

会社という組織で働くことが,自分を見失うなどという発想から発案されたとは思わないが,サラリーマンという存在を,またそういうあり方を,ちょっと上っ面を撫でているように見えて,いささか異和感を覚えた(ひところリーマンという言い方に感じた感覚である)。作家自体の考えがそうなのかの,最初の着想にすがったためなのか,それはいずれとも決めようがないが。

何度も,

自分の居場所

という言い方が出てくるが,それこそ,いまここでしか見つかりはしない。自分の居場所は,ヒトから与えられるものではない。もしそれを期待するなら,ファシズムへの期待,大審問官への期待であり,おのれを捨てることに等しい。

そんな疑問を感じて,観終わった後,ちょっとがっかりした。寓意が見え過ぎる。そう思って,帰り道,チラシを見て見たら,全登場人物には,

汎一
道化
慈愛
権威
敵意
公正
打算
愛憎
真実

と名前が付けられていることに気づいた。それは,劇中では,振り返ればそうだったかも,という程度だ。いやいや,そもそも自分を裁いてどうするのか。

このネーミングで,一層興ざめしてしまった。

それにしても,自己対話というか,自分の中だけを彷徨している限り,現実とのかかわりが一切ない。現実との格闘のない解決はない。そこにも不満があるのかもしれない。






今日のアイデア;
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2015年02月02日

時代性


芝居を観た。

蓬莱竜太作・演出『悲しみよ,消えないでくれ』である。

パンフレットには,

「現実が虚構(フィクション)を超えることが当たり前となった現代社会において、『演劇』を作り続ける意義を問い続け、『正しい解答』を限定し明示するのではなく、観るもの夫々の心の底に沈む『思い』に目をこらし、それをすくい上げるようなひと時を提供する、蓬莱竜太の新作書き下ろし公演。独特の存在感に定評のある俳優でんでんを客演に迎え、劇団だからこそ可能である濃密な劇空間を生み出す。」

とあった。実は,この劇を観つつ,自分の中にあった疑問は,

芝居というライブでなくてはならないという理由とはなにか,

という問いであった。芝居の概要は,

男と痴話喧嘩の末,女がひとり山を下りた,下山した麓の宿で,土砂災害に巻き込まれて,死んだ。その二年後,男の山岳仲間が,例年通り,女の実家である山荘を訪れる。件の男は,二年間,その山荘に居続けている。その一昼夜の出来事である。男は,悲しんでそこにいるとも,悲しみから逃げてそこにいるとも,女を死なせたという非難を避けてそこにいるとも,いろいろ解釈されているが,ちょうどその日,山を下りることになっている,女の妹が,最後に,姉から電話をもらった,と言ってこう打ち明ける。姉は,男に妊娠を告げたところ,おろしてくれ,おろしてくれたら結婚を申し込む,と言われ,断って山を下りたのだという。結局,男は,女に振られたのに,しゃあしゃあと女の実家に,悲しみを装って,転がり込んでいたのだということが分かる。

といった感じで,どうしようもない女たらしの男(ちなみに,この男は,先輩の山岳部長の妻の元彼であり,山荘に荷物を運ぶ強力夫婦の妻の不倫相手でもあり,この芝居に出ている女たちのうち,妹を除く,すべてと関係がある)の,どうしようもない痴話の顛末に過ぎない,と言えば言える。

これを,観ながら,思ったのである。これは,芝居にしなくてはならないことなのか,と。そもそも芝居とは,何なのか,と。

山岳部長夫妻のやり取り(子供ができない云々),強力夫妻と男との不倫疑惑への痴話喧嘩,どれをとっても,別に芝居でなくてもいい。テレビのホームドラマでもいい話ではないのか(こんな話ではテレビの視聴率は取れないか。だから芝居?)。

では,山荘が何かのアナロジーなのか,というと,どうもそうとは読み取れない。

劇団のモダンスイマーズのホームページには,蓬莱竜太の作品を,

人が生きていく中で避けることのできない機微、宿命、時代性を描いていく,

とあった。そうなのかもしれない。しかし,この作品からは,

「人が生きていく中で避けることのできない機微」

は感じられたが,

時代性

は感じられなかった。この作家がどのくらいの年齢かが,わからないが,夫婦のやり取り,不倫についての価値観,同棲する男女の葛藤等々からは,どうも昭和の感じがしてならなかった。そう,僕の感じた,

異和感,

は,それなのだ。時代感覚が,少し古い感じに受け取った。戦後間もなく生まれの,僕が古いと感じるということは,僕が,

いまの時代の価値観と感じているものに較べると,

乖離がある,ということなのだ。それは,あくまで主観だ。しかし,その価値観の乖離は,この芝居の根底を揺るがす。

女との痴話喧嘩で死なせた男が実家にいる,

ということが,別にどうということでもない,と受け止めたら,最後妹の暴露も,別に衝撃でもない。周囲の友人たちの「(何かかから)逃げている」という忠告も,別にどうということもない。

つまり,批判に値する価値観が崩壊してしまっているなら,女の死を悲しもうが,悲しむまいが,そもそもどうでもいい。どこで,寝泊りしようと,逃避しようと,それがどうしたというんだ,ということである。

そう,この芝居の結構自体が成り立たない。

作者が若いのだとすると,少々古風だ。そして,古風だということに無自覚だ。それは,致命的だ。時代と渡り合っているつもりで,ひとり相撲に終わっているかもしれないことに,気づけないからだ。

僕は,ライブであることの意味は,

そのとき,その場での一回性の中でしか表現できない何かがある,

からだと思う。その意味では,観ている人が,男のことを,

あの女たらしはしょうがねえな,

と感じたのだとしたら,それは時代と渡りあっていない。結局時代の古ぼけた,自分だって口ではそう言っているが,平気で不倫もし,自分の都合しか押し付けていないのに,価値観としては,不倫はだめ,といっているいまの多くの生き方,有言不実行の在り方に迎合しているだけだ。

お前は,こいつを批判するが,そんなことを言えた義理か,

と,観客のひとりひとりの,その生き方そのものを,その場で,木端微塵とは言わないまでも,揺らぎ,不安にさせなくては,時代と格闘しているとは言えないのではないか。

芝居は何のためにあるのか。テレビでも,映画でもなく,生の,ライブであることにこだわるのは,何があるせいなのか,その答は,この芝居からは,少なくとも見えてこなかった。

小説はと何かという問いに答えることが,毎回の作品を欠くモチーフと言った作家がいたが,戯曲もまた,

芝居とは何かという問いに答えること,

でなくてはならないのではないか。





今日のアイデア;
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2015年02月14日

狂人なおもて往生をとぐ


作・清水邦夫,演出・熊林弘高『狂人なおもて往生をとぐ~昔、僕達は愛した~』

http://www.geigeki.jp/performance/theater069/

を観た。

狂人なおもて往生をとぐ

は,もちろん,親鸞の,

善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや

のもじりである。だから,こうなる。

狂人なおもて往生をとぐいわんや常人をや

と。

清水邦夫の初期の作品である。69年,その前年に,『真情あふるる軽薄さ』が上演されている。そういう時代背景である。75年には,『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』。78年に『火のようにさみしい姉がいて』,84年に『タンゴ・冬の終りに』。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399934797.html

でも触れたが,『真情あふるる軽薄さ』や『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』『タンゴ・冬の終りに』を,再演で(『タンゴ・冬の終りに』は初演と再演)観たとき,脚本が時代に追い抜かれたというか,置き去りにされたという感じを懐いた。その当時の情熱と熱意を,いまの時代は失っているから,その姿勢が浮いてみえた。しかし,それは,作家が時代と格闘していたという証だ。作家の危機感を,いま時代が,いま社会が見失ってしまった証だと思うからだ。だが,

『狂人なおもて往生をとぐ』

は,45年を経た,いまも輝いている。それは,作家が時代と格闘したことが,そのままいまに(続いて)あるからだ。それは,時代を先取りしたという言い方をしてもいい。家族というテーマだからではない。家族というテーマで,時代と格闘したからだ,とつくづく思う。家族が社会の縮図であり,社会での関係性を反映しているからに違いない。これは,作家の先見性を示している。いま,それが色あせていないということは,作家清水邦夫が,そのとき,その時代と,いかに真剣に格闘していたかの,証明でもある。

主人公の長男,出(いずる)は狂っていて,我が家を「淫売宿」と思っている。父を毎日通う客,母と姉を娼婦と思っている。それに付き合う家族は,その妄想と対比するように,ときどき「家族ごっこ」として,父であり,母であり,姉であり,長男であり,次男であり,という現実を,「ごっこ」で対抗して演じているふりをする。そうすることで,「淫売宿」も「家族」もゲームとなり,出の妄想は相対化される。

それを観ながら,家族療法を思い描いた。家族をシステムとして見,患者を,

IP(Identified Patient 患者と見なされた人)

と呼ぶ。まさに,出(いずる)は,狂人となることで,この家族というシステムを維持しようとしている。「淫売宿」という妄想に付き合うのも,「家族」をゲームにするのも,言ってみれば,この問題(出の狂気)を解決するために編み出した(家族による)解決策に過ぎない。「一家心中(があった)」とするのも,またゲーム(架空の因果を創り出した解決策)である。だから,家族療法による考え方では,

(システムズアプローチによる)家族療法では,家族を個々の成員が互いに影響を与えあうひとつのシステムとして考える。そのため家族成員に生じた問題は,単一の原因に起因するものではなく,互いに影響を与え合う中で,問題を維持する原因と結果の悪循環を描いている,

とみなす。まさに,出(いずる)の狂気に対応しようと,次々と編み出されるゲームは,家族というシステムそのものを軋ませ,さらなるゲームを考えなくては,維持できなくなる。

それは,狂気と正気の区別をあいまいにしていく。どちらが狂っていると言えるのだろう,そもそも正気と狂気の境界などあいまいなのではないか。

家族システムを維持するために,狂っているのが出(いずる)なのか,出(いずる)に合わせてゲームをしている家族の一員それぞれ,父も母も姉もなのかは,わからない。役割を変じ,役割を変えても,別のゲームが始まり,家族システムを維持することにしかならない。次男のフィアンセは,それに巻き込まれて,事実と妄想の区別がつかなくなる。それは,家族システムに入るための試金石でもあるかのようである。そのゲームに加わる限り,家族になれる。しかし,その妄想について行かず,家族でなくなれば(婚約を解消すれば),そのゲームから「やめた」といって離脱ができる(かもしれない)。ラスト,姉と弟出(いずる)が,姉弟から恋人(?)に役割を変えた(恋人ゲームを始めた)としても,「ごっこ」は所詮まねごとに過ぎない。それに置いてきぼりされまいと追いかけた末弟も含めた三人が,仮に家を出たとしても、家族としての別のゲームを続けるに過ぎない(のかもしれない)。現に,父と母は,強固なルーチンとしての日常を,日々の習慣を,また再び始めようとしている。

ところで,本来,往生とは,

現世を去って仏の浄土に生まれること,特に,極楽浄土に往って生まれ変わること,

という意味である。しかし,往生には,

どうにもしようがなく、困り果てること,

という意味がある。この起源は,閉口するの意の,

厭状(おうじょう)

脅かして無理やり書かせた証文,

とされる説もある。ここでは,「成仏」ではなく,「立ち往生」している,

立ったまま身動きの取れない,

という意味をも含めている気がしないでもない。そう,だから,

狂人なおもて往生をとぐいわんや常人をや

である。

この作品の危機感は,新学習指導要領に「道徳」が入った時代の危機感を反映している。しかしいまや,

教育勅語

が素晴らしいと公言している文部大臣のいる時代である。危機は格段に大きくなっているはずなのに,世の中はのどかで,作家たちも呆けているような作品しか書かない。

劇中,「タコ八の歌」(「タコ八」は,「冒険ダン吉」とともに当時の漫画の主人公)という歌が,つぶやかれる。

きのう召された
タコ八が
弾丸(たま)に撃たれて名誉の戦死
タコの遺骨はいつ還る?
骨が無いから帰れない
タコのかあちゃん悲しかろ

これは,戦時中(昭和17年頃),その少し前(昭和15年頃)に流行った高峰三枝子の「湖畔の宿」の替え歌が,ひそかに歌われていた,ものという。いまは,この第一節しか残っていない,らしい。

この危機は,2015年の現在,1969年の比ではない。

作中繰り返された,

事実は歪めても
真実は歪めない,

が心に残る。





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2015年03月15日

砂の骨


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劇団トラッシュマスターズの『砂の骨』(作・演出中都留章仁)を観てきた。

http://setagaya-pt.jp/theater_info/2015/03/post_390.html

http://www.lcp.jp/trash/next.html

幾世代か前の作家すら,真正面で取り組まなかったような,今日の日本社会を主題に,真正面から取り上げていることに,妙に感動した。ちょうど,60~70年代のような雰囲気を醸し出す劇であった。そのことは,評価したい。

ただ,劇としての評価とは別だ。

かつて大島渚が,初期に,『日本の夜と霧』『絞死刑』等々でみせた,思いが先立ち,劇としての結構や世界を崩してでも,台詞で思いの丈を語らざるを得なかったような,そんな衝迫は,わからないでもない。しかし,それは,劇としてはどうなのか,と感じる。

テーマは貧困である。

だから,ホームレスがおり,雇止めされる契約社員がおり,それをマネジメントする上司もまた会社から意味ないレポートを毎日提出させられて苛まれている。それは,ホームレスから一般会社員までが,(ほんの一跨ぎで)地続きであることを示している。この構造に日本社会の問題を見ようとする着眼はよしとする。

今日,厚生労働省調査で,

「等価可処分所得の中央値の半分の額に当たる『貧困線』(2012年は122万円)に満たない世帯の割合を示す『相対的貧困率』は16.1%だった。これらの世帯で暮らす18歳未満の子どもを対象にした『子どもの貧困率』も16.3%となり、ともに過去最悪を更新した。日本人の約6人に1人が相対的な貧困層に分類されることを意味する。」

という。だから,いま,本当は,

(民衆なら)暴動,

(国家なら)戦争,

以外に,現状を打開する方法がない,とさえ言われる日本の現状である。

しかしである。国家のありようや,民のありようを表現するとき,登場人物に,演説させたり,高説をのたまわせることは,作品として如何なものか,という疑問が出る。ホームレスの一人が,叫び,演説風のことを公言するのは,まるで,60年代末の雰囲気である(ハンドマイクを持たせたあたり,作家はその戯画化を意識していたかもしれない)。

しかしである。その真只中にいた清水邦夫は,

『真情あふるる軽薄さ』

『狂人なおもて往生をとぐ』(これは,http://ppnetwork.seesaa.net/article/414023708.htmlで触れた)

で,直截的ではなく,メタファーとして,踰として劇を創ることで,演劇としてのインパクトを持たせた。僕は,直截的であることを必ずしも悪いこととは思わないが,劇中人物(特にホームレスの「大知」)が,正しいことを語れば語るほど,こそばゆく,恥ずかしくなった。それは,我が身を恥じてではなく,劇としての唐突感から来る,と思う。

メタファーとは,作家の距離感を示している。それがない。

勘ぐるに,作家が正解を知っていて,それを教えるために(登場人物に)語らせようとしている,そういうこそばゆさだ。実は,皆薄々知っているのだ,自分たちが,エッジの縁を歩いているのを,切りたつ尾根道を,踏み外すかどうかのギリギリにいることを。それを,あからさまに言語化されて,抵抗があるのだ。それは,御高説に過ぎない。劇は,世界として,現前化してもらわなくてはならない。

ホームレス,
(レストランチェーンの)契約社員,
(レストランチェーンの)契約社員を使う(元契約社員の)店長候補,
(レストランチェーンの)店長,
((レストランチェーンで)残業90時間で)くも膜下で突然死する料理長,
離婚調停中の夫婦(生活保護申請をするために偽装の離縁を持ちかけた夫),
金欲しさで自分の足を切るホームレス,

と並べてみると,貧困を描くのにふさわしい人物構成だろうか,とちょっと疑問を感じる。

貧困は,(貧困側ではなく)貧困すれすれのところにいる人に,最も集中的に,象徴的に現れる(この場合,雇止めされようとしている契約社員か店長候補に当たる)。一つ間違うと,地続きのホームレスまであと一歩なのだ。それが,十分描けていない気がしてならない。

貧困は凶器だ,

としいうセリフがあった。しかし,それを世界として,物語として描かなくては,劇としては,観客に消化不良を起こさせる。

貧困も自己責任,
シングルマザーも自己責任,
非正規雇用にしかなれないのも自己責任,
終活できないのも自己責任,
子どもを育てつつ働けないのも自己責任,
正社員として成果を出せないのも自己責任,
正社員としてトップ(上司)の覚え目出度く(なれ)ないのも自己責任,
ホームレスになるのも自己責任,

すべて自己責任の名のもとに,個人個人に自己完結させて,身を縮めさせていく。確かにその通りだ。それならは,そのことを徹底的に,劇空間の,世界として描くすべはあったと思う。

井上光晴の『地の群れ』『虚構のクレーン』等々といった作品群を思い出した。が,しかし,そこには演説はない。ただ,日常会話が積み重ねられ,にっちもさっちもいかない日常の悲惨さが,世界として語られている。悲惨とも,登場人物は言わない。言わないから,世界として,悲惨が顕在化してくる。悲惨は,悲惨と叫ぶなかにではなく,そのことに気づかない,懸命になってあがいているところにある。それを世界として,顕在化してもらわなくては,消化不良が起きる。

たとえば,ホームレスが貧困の象徴ではない。日々まともな格好をしているが,ネットカフェにしか住処のないものも,かつかつ日銭を稼ぎながら,家賃と食費ですべてが消えるのも,正社員として齷齪としていてもふと立ち止まったら,踏み外しかねない危機にあることも,境界線は,ほとんどないところにこそある。

考えると,サービス残業がほとんど当たり前のように横行する(残業が多いのは仕事効率化の工夫がないからという集団圧力もある)日本企業は,(休暇も含めた)労働時間管理に厳しい中で競争しているドイツ企業に言わせたら,すべてブラック企業なのかもしれない。その底無しの日本社会の絶望感が,ここからは見えてこない。

作家は解決策を考えようとしているらしいが,組合をつくることが,あるいは,仲間を作ることが,本当にそうなのかは,ちょっと疑わしい(タイトルの「砂の骨」は,砂も固まれば骨になる,というメタファーではないかと感じているが)。

作家が解決策らしいものを出して,未来を展望する必要があるのだろうか。むしろ。絶望の底の底の底まで,徹底的(徹底とは,底を徹することだ)に描くべきだ。今日,中途半端な希望は,幻想よりもたちが悪い。

晩年の田村隆一は,「芸術って何ですかね?」と問われて,

「希望だろうな,陰惨な絵でも、悲痛な音楽でも、救いのない小説でも、ある人にとっては希望になるんだよ。おもしろいよな。」

と言ったという。

たとえば,今日世界の流れに,国債をリスク資産と評価し,各銀行に自己資金の積み増しを求める,という動きが出ているらしい。そうなれば,下手をすれば,国債が暴落し,日本自身が自己破産,ホームレスになりかねない危機にある。危機は,構造や仕組みにある。その危機が,作家にも,劇にもない。それが,あたかも個々人の努力で何とかなる,という希望につなげようとしているところに現れている。

それは,自己責任という言葉で,各個人に自己完結させようとする今日の風潮の中に,作家自身もまたいる,と言う証に見える。








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2015年04月25日

満月の人


作/演出/東 憲司 『満月の人よ』を観てきた。再演のようであるが,

http://ameblo.jp/shihofujisawa/entry-11988172280.html

出演は,村井國夫,山崎銀之丞,藤澤志帆,岡本麗の4人だけである。4人とも,達者で,ほとんど飽きさせない。最前列だったせいか,表情がよく見える。わずかなしぐさ,顔の変化が見て取れる。いい経験であった。
それだけに役者のうまさでもった空間だという気がする。

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「満月の人よとは天狗の意味である。」

そうである。話は,

天狗伝説がある村に一人で暮らすとりもち職人の梁瀬達吉のもとに、27年前に駆け落ちして出て行った妻・早苗が,何度目かの男に死なれて,帰ってくる。同じく,妻に逃げられた息子も返ってくる。27年前の妻の出奔は,天狗による神隠しと,大騒ぎになり,山狩りまでした。その昔の記事を持って,訳ありの娘が,「天狗に会いたい」「天狗にさらわれて生き直したい」とやってくる。娘の天狗探しに,親身になって,あるいは不承不承付き合い,果ては,天狗の装束をつけて,天狗探しに一役買った家族か,何か憑き物が落ちたように,それぞれ自分の現実へと帰っていく。

天狗は,

「日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物」

だが,日本の神が,なべてそうであるように,禍でもあり,福でもある。

「平地民が山地を異界として畏怖し,そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ,各種天狗の像を目して山人,山の神などと称する地域が現在でも存在する。」

と言われる。畏怖の対象である。ただ,今日の,

「鼻が高く,長く,赤ら顔,山伏の装束に身を包み,一本歯の高下駄を履き,葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをする」

というイメージは,中世以降らしい。だから,『平家物語』では,

「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」

としている。

まあ,天狗のことはさておき,結局,天狗は,ここでは,

自分探しの出汁,

である。だからか,観終わって,

「情けない」

という言葉が浮かんだ。蔑む意味はない。

「情けないからこそ,人間らしい」

のでもある。「情けない」は,

「情け+無い」

で,ふがいない,意気地がない,という意味だが,「情け」は,

「ナス(為・作)+ケ」

で,心遣いが見えるさま,を意味する。『古語辞典』には,

「他人に見えるように心遣いをするかたち,また,他人から見える,思いやりある様子の意が原義。従って,表面的で嘘を含む場合もあり,血縁の人の間には使わない。ナサは,ナシ(作為する)と同根,ケは,見た目,様子の意の接尾語ケに同じであろう。ただ漢文訓読体では「情」(真情・内情)にナサケの訓を当てたので,平安女流文学系の用法と相違がある。」

とある。「情けなし」は,

情愛がない,思いやりがない,
風情がない,
むごい,
嘆かわしい,

となる。しかし,「情けない」登場人物か,訳ありの娘に,情け心から,天狗探しをしていくうちに,おのれ自身の真情に気付いていく,というのは,まさに,

情けは人の為ならず,

を地でいくようなものか。「情」の「青」は,

「生(あおい草の芽生え)+丼(井戸の中に清水のたまったさま)」

で,あおくさや清水のような澄み切ったエキス,の意。「情」は,

心の動きをもたらすエキス,

のことだそうだ。だから,心の動き,を意味する。その意味では,嘘でも,娘の,

天狗を信じ,それに会うことで,自分を変えたい,

と願う気持ちに添っていくうちに,それぞれの内にわだかまった,

鬱屈,

が消えていった,ということだろうか。

観終わって,心に,優しさを残す,印象ではあった。そのあたりのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415462184.html

にも書いた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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今日のアイデア;
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2015年06月18日

気がかり


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http://www.lebal.jp/stage/new/

『蜜柑とユウウツ』(作・長田育恵,演出・マキノノゾミ)を観た。

https://www.geigeki.jp/performance/theater086/

20歳で終戦を迎え,夫の死後30年を一人で生きた,戦後を代表する詩人・茨木のり子の人生を,ちょっと変わった趣向で振り返る形になっている。

死んだはずの本人(の魂,だから本人と姿形は似ていない)が,この世に「気がかり」を残して,まだ自宅に残って居る。しかし,それが何かが思い出せないため,新聞を取りに出て,戻ってきたところで倒れた時刻(5時23分)のところまでを,もう何日もの間繰り返している,という設定である。

その気がかりは何かは,ともかくとして,その一生を振り返るということは,戦後の歴史そのものを辿り直すことであり,そこには,戦争体験者の,戦争を止められなかったという自責と自戒と怒りが込められている。

要所要所で,彼女の詩を使いながら,彼女の立脚点を,照らし出すことにもなっている。それは,ちょうど,戦後史の重大な分岐点に差し掛かっている,いま現在という時代を,戦中派から反照しているとも見える。

73歳の時,彼女はこう書いた。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ(「倚りかからず」)

ここに彼女の姿勢がよく出ている。敗戦時,「自分の目で見,自分の頭で考え,自分の足で立たなかった」自分を悔い,それを取り戻そうとしたご本人が,戦後を通して身に染みて感じてきたことだ。それは,

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた(「わたしが一番きれいだったとき」)

に,その意味がよく出ている。しかし,劇そのものには,

詩に見られる,何か,凛とした厳しい姿勢がなかった。
書かれた詩に伺える屹立した孤高が見えなかった。

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ(「自分の感受性くらい」)

という詩のもつ鋭利な尖りも見えなかった。
孤独を怖れない鋭い怒りが見えなかった。
いまの(こんな)時代の中にありながら,それを厳しく批評する目がなかった(と,茨木のりこさんの詩のリフレインを真似てみる)。

それは,いまの時代と,いまの状況と相渉ろうとする作家(と演出家)の思いの不足,と見た。茨木のり子という詩人の過去を単に振り返ってどうするのか。それは,この詩人を過去の人とすることではないのか。過去に封じ込めてどうするのか。

それは,劇が,情緒に流されたせいでも,日常の些事に躓いたせいでも,茨木のりこの本質を見落としたせいでもない。僕は,演出(家)が,茨木のり子という詩人の中に,その半生の中に,自己完結させようとした結果ではないか,という気がしてならない。彼女の精神がいまも生きている,活かしうる,という視点がない。

不必要に,説明過多になっていたと感じさせる箇所が目についたが,それは,(この劇そのものを)いま,観ている観客のそれぞれの生き方,在り方と相渉らせようとする,つまりは観客の感性と知性を信じ,それに委ねようとしていないせいではないか。それは,つまるところ,作家も演出家も,この作品を,演じているいまの時代と格闘しようとする姿勢が少なかったということでもあるのではないか。

特に,エンディングは,余韻というより,あれっというほどの切り落とし方で良かったのではないか。最後の説明落ちはいらない。あれによって,劇をその劇空間の中(の中の亡くなった茨木のり子)に自己完結させてしまった。

結果として,「気になること」が,残した「恋文」という詩稿(と夫の遺骨)というのは,振り返った戦後史と(重なる茨木のり子の半生とその詩作と)のギャップが大きすぎる印象が強い。

いまの時代の行く末が気になっているのではないのか,と僕なんぞは思うのだが,しかし,まあ,それがこの作品のテーマ(「茨木のり子異聞」)なのだから,仕方がないとしても,劇中で朗読された詩の佇まいと,この劇空間の自己完結性とのギャップは,少し大きすぎる気がする。

参考文献;
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/shisyu.html






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年06月23日

花火


先日,ご縁があって,『師弟ヤング・マスター~僕と先生との十日間~』を観た。

http://www.acfactory.com/%E5%85%AC%E6%BC%94%E6%83%85%E5%A0%B1.html

s__17342468.jpg


倉田アクションクラブ40周年×ACファクトリー20周年と題されているが,どちらかというと,

「師匠倉田保昭と弟子たちのコラボ公演」

がウリらしい。まあ,まだ倉田保昭さん(御歳70歳…!)がご健在なのが驚きだが,最前列にかぶりついてみていたせいもあるが,さすがに,格闘場面は,少しふらついた(ように見えた)し,ご本人も,「けっこうつらい」と最後のご挨拶で述べられていたように,(お歳という色眼鏡のせいか)ちょっと痛々しい感じがなくもない(失礼…!)。

梗概に,

「空手には全く興味のない一人の青年が、 ひょんな事から関わることになった潰れかけの空手道場。 そこにいるのは風変わり師匠と、一癖も二癖もある奇妙な弟子達。 青年は無理矢理、空手道場に入門させられるのだが…。
道場存続のため生徒募集に試行錯誤の弟子達。 そして空手道場で巻き起こるハプニングや大事件の十日間。」

とあるように, ある意味空手と格闘シーンがウリの舞台なので,舞台の結構がどうの,構成がどうの,と言ってみたところで仕方がないが,青年の語り手役としての説明が,場面と重複して,結構煩わしい。なくても,観ている側には十分わかる。この語りのための場面展開が,一種の暗転代わりになってはいるが,その分スピード感を削ぐ。単純にフェイドアウトさせないで,あえて,予告的に語らせる意図はよくわからなかった。

敢えて勘ぐると,劇進行についての親切なのだろうか。しかし大きなお世話という感じがなくもない。その分,進行のスピード展開が遅れ,場面そのものに向いている観客の視線を,わざわざ場面と切れた,ちょうど幕前で進行を説明する「ト書き」を設けているような,場面の流れから視線を外させるような気がして,気になって仕方がなかった。こういう構成は,前にも観たことがある気がするが,それは,ピエロ役のような,場面の展開上,部外者であることが多いような気がする。

ここは勘ぐりだが,「僕と先生との十日間」というサブタイトルの,「僕」を語り手にしようとする,当初のシナリオの意図の残滓が,そのまま残ったという感じではなかろうか。

閑話休題。

帰路,たまたま買った夕刊(『日経新聞』)に,演劇評論家の扇田昭彦さんの,

「(舞台は)花火のように,ひとたび生まれては消え去る運命にある。」

という言葉が(「遠みち近みち」というコラムに)載っていて,眼を惹かれた。ライブというのは,確かにそういうものだ。だから,観客の「記憶に残す」しか,生き残らない。その意味では,「人は二度死ぬ」という言葉になぞらえれば,舞台の幕が下りて以降,観た人の記憶に残すことで,芝居は生きのびていく。それには,

ストーリー自体か,
登場人物の生きざまか,
目を瞠る振る舞いか,
気の利いた台詞か(「偶然は三度目まで,それ以降は必然」といった台詞が残ったが),

等々,何かで観客の心にフックを掛けるしかない。

その意味で,僕は,この芝居は,

アクション(空手)そのもの
なのか,
アクション(空手)をめぐるなにくれ

なのかが,別れ道のような気がする。前者なら,アクションが主役だ。後者なら,アクションは添え物になる。

(制作者の意図は)どっちだったのだろう。

ただ,舞台という固定された空間でアクションを見せるには,手段は限られている。

以前よく見ていた,『劇団☆新感線』の舞台でもそうだが,パンもズームも効かない舞台では,格闘シーンは,格闘している人たちが,舞台に出たり引っ込んだり,つまり,場面の展開ができないので,闘っている演者同士が(そうやって出たり入ったりして)動き回って展開していくしかない。その場合,限られた空間で,格闘シーンを迫力あるように見せるには,

その場での格闘する人たちの格闘のらしさ,

例えば,投げたり,飛んだり,飛ばされたり,という動きの激しい変化だが,ワイヤーアクションでないかぎり,肉体のキャパ以上にはいかない。となると,固定した場面で迫力を出すには,

格闘しているシーンを流れさせるのではなく,(現実の立ち合いがそうであるように)徹底的にその場で格闘する,

か,固定した場面で生かせる空間は,上下しかないので,

上下,つまり落下するシーン,

に見せ場があるのだろう。上下は限界があるにしろ,それはこの舞台上で何度かあった。これは舞台の地響き(?)と同時に痛さが伝わってくる。

その意味で,僕個人の好みで言うなら(この舞台では特に),一対一の格闘を,その肉体のぶつかるさまを,芝居として,徹底してほしい気がしてならなかった。その機会は,二度,師匠自身と他流者と,兄弟弟子同士と,あったが,ちょっとさらりと交わされた感じであった。その意味では,この芝居では,実は,

アクションは添え物,

の方だと,観ている側としては受けとめた。

「娯楽」というのは,中国語の,

「娯(たのしむ)+楽(舞い楽しむ)」

から来ているらしいが,英語の,エンターテインメント(entertainment)は,もてなす,歓待する,という意味だが,

enter「間」+tain「保つ, 含む」+ment,

つまり,「人と人との間をとりもつこと」の方がピンとくる。となると,どちらも(倉田アクションクラブもACファクトリー),

アクション

が出自なんだから,アクションが取り持ってくれるはずである(まして倉田保昭さんなんだから)という,観る側の先入観を,この脚本では,あるいは,少し意図して外そうとしたのかもしれない。最後の秘伝書の落ちは,その外しの流れかと思うと,なかなか洒落ている。いやそもそも,

「師弟ヤング・マスター~僕と先生との十日間」

というタイトルがもつ,何となくイメージする(武道に関わるといった)期待を,劇では意図して外している。その外し方に,工夫がある,と言えば言えるのかもしれない。







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2015年10月17日

語り


先日,ACファクトリー20周年記念公演『Teacher』

http://acfactory.com/teacher.html

を観てきた。

ティチャー.jpg


前回,『師弟ヤング・マスター~僕と先生との十日間~』を観たとき,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/421142508.html

で書いたように,語り手役の青年が,狂言回しとして登場することについて,

「青年の語り手役としての説明が,場面と重複して,結構煩わしい。なくても,観ている側には十分わかる。この語りのための場面展開が,一種の暗転代わりになってはいるが,その分スピード感を削ぐ。単純にフェイドアウトさせないで,あえて,予告的に語らせる意図はよくわからなかった。」

と書いた。たとえば,

「私は,かくかくの次第で,こういうところへ行くことになりました。」

と語って,その場面にその青年が登場するのと,いきなり,その場面に登場するところから,舞台が始まるのと,どこが違うか,というと,

あくまで,その青年が語り手になっているために,その場面は,その青年の体験している世界を,観客が見ている,という構造になる。小説で言うと,

語り手としての,「私」の視点

であったり,

何某という登場人物の視点

から,語っていく,というのがそれに当たるだろう。そのとき,語られていることは,あくまで,「私」や「何某」の目を通しての世界,ということになる。違う視点で,例えば,作家が,俯瞰する視点(神の視点とか言われる)から描く時の,あくまで,外部から,その場面を描こうとするのとは,その語られている世界が,違う,ということだ。それは,

私的世界,

というか,現象学的世界,ということになる。

で,前回,その必要性はあるのか,という意味で,

「敢えて勘ぐると,劇進行についての親切なのだろうか。しかし大きなお世話という感じがなくもない。その分,進行のスピード展開が遅れ,場面そのものに向いている観客の視線を,わざわざ場面と切れた,ちょうど幕前で進行を説明する『ト書き』を設けているような,場面の流れから視線を外させるような気がして,気になって仕方がなかった。こういう構成は,前にも観たことがある気がするが,それは,ピエロ役のような,場面の展開上,部外者であることが多いような気がする。」

と疑問を呈した。それは,そこでの青年の体験そのものを,いきなり場面として描い他方が,はるかにストレートだと感じたからだ。

今回も,同じように,新人の女性教師が,就任する学校を訪れる,と自分が語るところから始まり,折々,ストップモーションのように,舞台が止まり(あるいは暗転して),彼女にスポットライトが当たり,自分の心境や,状況や,あるいは,「ここから,〇〇なことが起こるとは予期していなかった」といったような,を説明をする。

で,着任した学校で,出迎えた教師たちとの間で,どたばたがあるのだが,そのドタバタ自体が,受け入れのための儀式,通過儀礼というか,イニシエーションだった,という落ちである。

で,はじめは同じパターンだな,この作家というか演出家の好みなのか,と思ったのだが,この作品に関してだけは,そうではないことに気付いた。

つまり,これを,普通に,着任した学校で,

いきなりドタバタする場面に遭遇した,ということを描く,

のと,

着任する新人教師がドタバタ場面に出会う,

のとでは,少し違う。前者だと,観客は,着任した新人が職場で受け入れのお試し儀式の洗礼を受ける,という場面を見ることになる。しかし,後者だと,新人教師が語り手なので,観客が見ているのは,新人教師の目を通して,彼女の体験したドタバタを目撃させられている,ということになる。

その意味で,微妙だが,両者は違う。

そして,今回に限っては,あくまで,新人の目を通して,彼女の体験した世界を目撃している,という構成が,その体験がハチャメチャで,現実離れしていればいるほど,その効果がある。

例えば,妄想している人を見るのと,妄想している人の妄想そのものを見るのと,の違い,というと,大袈裟かもしれないが,そんな違いである。









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2016年07月03日

文字


方の会第58回公演 作・平山陽,演出・狭間鉄,

『散り往く雪~京助と幸恵~』

を拝見してきた。いわば,言語学者金田一京助が,アイヌ研究を進めるプロセスで出会ったアイヌの少女知里幸恵との,『アイヌ神謡集』としてまとめる前後のエピソードを劇化したものだが,一方で金田一のアイヌ研究の進捗があり,他方で,少女幸恵が進学し,差別のなかで成長していく過程があり,それが交錯し,共にアイヌ研究に協働し,幸恵の『アイヌ神謡集』の上梓に至る,時系列の流れになっている。

観ながら,幸恵と京助の関係というには,その関係自体が薄いし,両者それぞれの内面的葛藤というには中途半端だ,と感じながら観ていた。それなりに,少女の儚さと哀れさはを感じさせるが,その中にある葛藤は,口に出される台詞以上には見られなかった。

しかし,観終わって,パンフレットを見たら,石川啄木をえがいた前作,『われ泣きぬれて~石川啄木~』で,金田一に守られた啄木が,

「金田一君,死んだらきっと貴方を守りますよ!」

という言葉からこの続編が,というより金田一を中心に据えるということが決まってきたようなので,あくまで,幸恵のエピソードは,金田一の仕事の一つとして膨らんできた,というようなのだ。だから,

「今作でアイヌが生んだ天才少女・知里幸恵さんと出会えたのは作品に厚みが出ました,と言いますか,金田一と並び超えてしまう存在になったのです。」

と,作者が言うように,幸恵の話は,金田一のアイヌ研究のエピソードのひとつのはずなのに,幸恵の存在感が,それを食い破った,ということなのだ,と得心し,結局,しかし,やはり幸恵の悲しみは,金田一からの(研究対象という)目線から外れていない,と感じさせられた。

僕には,

知里幸恵,

という名前にこそ,アイヌ人の屈辱と悲しみが象徴されているのではないか,と感じいていた。この名前には,

自分の本来負うべき名前を奪われ,
その上に,
他民族の名前を押しつけられた,

という,二重の意味の屈辱と悲しみがあるはずである。しかも,そういう名前を付けなければ,本来自分の土地を簒奪した,当の相手である日本国の一員として生きていけない,ということに想いを馳せるとき,朝鮮半島を植民地化したとき,日本語を強い,創氏改名として,日本人名に換えさせたのと,同じことを,北海道でアイヌ人にしていた,ということに気づかされる。

この芝居の中では,この名前のことに頓着なさげに,当たり前のように,「幸恵」と呼び,自分でもそう名乗る。しかし,

アイヌとしての名前,

があったはずである。そのことに触れていないのが,僕には,劇が始まったときから気になっていた。

祖母には,

モナシノウク,

という名がある。にもかかわらず,母は,

知里ナミ,

であり,養母となるおばは,

金成マツ,

なのであり,恋人もまた,アイヌなのに,

村井宗太郎,

なのである。おのれのアイデンティティを示さない名前と,アイヌ人としてのおのれの本性との葛藤が,名前一つとってもある。仮に,そういう葛藤が,もはやこの世代にはないにしても,それはそれで悲劇なのではないか。ネイティブアメリカンが,英語しかしゃべれないのと,似ている。その何というか,

乾いた哀しみ,

の方に,僕の関心は向かっていた。

あるいは,着物とアイヌ衣装とに着別けているところに,たぶん,作者は,その位置を象徴していたのかもしれないが,実母が着物を着,幸恵も着物,村井は洋装,おばや祖母がアイヌ衣装,とその衣服に,年代と,同化政策の痕跡をみることができる。その辺りの心的抵抗も,葛藤も,あまり触れられているようには見えず,せっかくの着別けが生きていなかった。

アイヌ.JPG


憶測で言うが,作者は,金田一の視野のなかで,つまりアイヌ研究という土俵の上で,未完のまま,弟に後事を託さざるをえない,幸恵の無念さに目が向いていたように思う。しかし,それは,文字としてしか残せない,それも異民族のローマ字でしか残せないこと自体の,悲しみなのではないか。その行為は,民族の生きた言葉が消えてしまうことを,それを喋る民族自体が絶滅していくことを意味しているのだから。

知里幸恵.jpg

(死去する2ヶ月前、大正11年7月に滞在先の東京の金田一京助の自宅庭で撮影された)


考えると,日本人も文字を持たなかった。だから,漢字の真名に対して,漢字から剽窃したかなを仮名と名づけた。台湾から,琉球弧,日本列島,千島列島と,カムチャツカ半島までの島の連なりに住んでいた民族は,和人も,琉球人も,アイヌ人も,文字を持たなかった。

アイヌの『ユーカラ』は,和人の『古事記』と同様,口承されてきたものだ。文字に起こそうとする金田一も,それを助ける幸恵も,時代の前後はあっても,同じく他民族である中国の漢字を借りなければ,何一つこの世に残せなかった,という大きな悲哀が,あるはずである。しかし,この芝居には,そこまでの視線はなかった。

金田一の善意に,おのれが起こそうとしている文字は借り物でしかないという自覚はない。だから,そのアイヌへの目は,大切な自意識を欠いている。同情があっても,共感はない。その意味で,現実の金田一京助がどうだったかとは別に,この芝居に出てくる金田一は,良質の日本人のもつ,ある種の無頓着さが,というか無邪気な鈍感さが,意図せずに描かれている。しかし,それは,残酷さでもある。

思えば,金田一のしていることは,本来文字を持たなかった日本人が,ただ僅かばかり先に漢字を剽窃して仮名を創り出しただけなのに,まだ文字をもたないアイヌを憐れみ,一方で国はその言葉を奪い,おのれの言葉に置き換えようとしているのに,それには手を拱いて,ほろびゆくアイヌ語を残そうと奔走している,という滑稽とも,間が抜けているともいえる事態でもあるのだ。。

そんなことを,感じさせ,考えさせてくれた芝居ではあった。

最後に素人ながら,すごく気になったのは,出てくる役者の方々の何人かの止まった手である。日常もそうだが,身振り手振りのうち,手振りはあまり意識されることはない。しかし両脇にただぶら下がっているということはないはずである。極端に言うと,手と腕が,芝居の流れから取り残されていた。それはひどく気になって仕方がなかった。


参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E9%87%8C%E5%B9%B8%E6%81%B5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E4%BA%AC%E5%8A%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
http://matome.naver.jp/odai/2137413254248180401


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今日のアイデア;
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2016年09月10日

Infinity


ハグハグ共和国という劇団の「infinity」という芝居

http://hughug.com/infinity/index.html

を,知り合いが出ていると言うので拝見した。

インフィニティ1.jpg


Infinity,

つまり「無限」である。無限とは,

限界がないこと,無際限,

であるが,時間軸でいうなら,それは,

果てがない,

ことではあるが,

永遠,

とは違う。われわれの時間感覚を超えている,という意味でいいのかもしれない。

「直感的には『限界を持たない』というだけの単純に理解できそうな概念である一方で、直感的には有限な世界しか知りえないと思われる人間にとって、無限というものが一体どういうことであるのかを厳密に理解することは非常に難しい問題を含んでいる。」

と,ウィキペディアは書く。「(限りが)ない」ことを示すというのは,その意味で確かに視覚化は難しいのかもしれない。

劇中,台詞や朗読に「説明」はあったが,必ずしも,

視覚化,

されてはいなかった気がする。

劇は,ホスピス病棟のイベントのサポートいうことで,かつては売れたモデルと,元モデルのマネジャーとカメラマンが,そのイベントの企画,実施をサポートするなかで,逆に,生きていく勇気をもらう,といったストーリーなのだが,イベント(その病棟の患者ひとりひとりの「なりたい自分」を,白雪姫をベースにファッションショー形式で登場させていく)の,いわば祭りの後,生きている者たちが,一瞬動きを止め,死んだ者が動き出し,去っていく,というシーンがあり,この一瞬に,作者の考える,

無限の視覚化,

があったと受け止めた。それは,

シーケンシャルな生者のこの世の時間,
と,
(永遠のいまであり続ける)死者の世界の時間,
と,

が,対比的に示されていた。生者の止まっているという視覚化で,死者の時間が,

永遠のいま,

でありつづけているというメタファになってもいた。

しかも,この両者は,隣り合わせて,パラレルになっていることを,視覚化して見せた。生者の時間とは別の時間を,死者が生きている時間が,すぐ隣にパラレルにある,ということを具体的に表現していたと思う。逆に言うと,死者は,生者のシーケンシャルな時間を眺める位置にいた,ということもできる。ふと,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/441553477.html

で触れた,「シュレディンガーの猫のパラドックス」について,

「〈生きている猫の宇宙〉と〈死んでいる猫の宇宙〉が〈共存している宇宙〉を考え,その宇宙が観察を繰り返すごとに〈生きている猫の宇宙〉と〈死んでいる猫の宇宙〉に〈分岐〉し,〈生きている猫〉と〈死んでいる猫〉とがそれぞれ〈別の宇宙〉に〈重ね合わせ〉の状態で並存している」(『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』)

という,「並行世界説」を思い出していた。

そういう死者の世界と,生者の世界が併存している,という視点から見た時,ラストで,

止まった生者の時間と動く死者の時間,

が視覚化されたとき,そこに,イベントに参加していた何人かも,既に死者となっていること,ずっと舞台上に静か存在していた女性が,ドクターの亡くなった細君であることも,はっきりと意識させられる(僕は,この後の暗転の次の後日譚は,前半でパラレルな時間が視覚化できていたら,要らなかったと思う)。

正直に言うが,その白い衣装を着ている女性が,死者なのか生者なのかは,はっきりわからなかった。うろうろしているホスピス患者なのかと思っていた。しかし死者の時間に加わっていることで,死者の時間を生きていると,初めて視覚化される。

緩和ケアについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392554905.html

で触れた。僕の知っている,リアル世界の緩和ケア病棟は,笑顔がないとは言わないが,あんなにドタバタしないし,死者と同居するほどの静寂が占拠していた。一般病棟とつながっていたということもあるが,治療の不可能,というより,医療費を掛けるだけ無駄という感じで,患者は移されていくので,ただ死を待つだけの静けさが支配していた。だからといって,ホスピス病棟の患者がこんなイベントをするのはおかしい,などとは僕は思っていない。

ただ,緩和ケアは,死者と生者とが,パラレルワールドにいるのだ,と思う。死にゆく人も,そこにいる。死の直前,人は身体から離脱して魂だけが,その部屋を俯瞰する位置にいて,死にかけている自分を眺め,その周りにいる家族や知人を眺めるのだと,聞いたことがある。真偽は知らない。その時,死につつある人は,パラレルワールドを見わたせる位置にいる。

その意味で,シーケンシャルに流れる生者の時間軸と重なりつつ,違う時間が流れる死者の世界が,パラレルのあることを,ドクターの亡くなった細君で表現するのであれば,そのパラレルを,劇のはじめから強調してもらう方が,わかりやすかったかもしれない。

正直のところ,亡くなった女性が,どっちが院長の娘さんでどっちが細君なのか,白い服を着た瞬間,区別がつかなくなっていった。舞台を見ている限り,見分けがつかない。区別がつかなくてもいいが,パラレル感を視覚化してもらえれば,生者を見守っているのは,生きている家族や医療者だけではなく,死者もまた見守っているのだということが,明確に視覚化された気がする。

その意味で,すべての患者を,次々とシーケンシャルに登場させていくイベントのシーンは,

母と病いの娘,
夫と病いの妻,
元のアクションスターと後輩,
同量の女性と病いで熊の着ぐるみを辞めた男,

等々,劇の時間のほとんどを占めていて,僕には冗長で,時に退屈に感じる箇所もあった。どうせなら,いくつかのエピソードを二つとか三つ並べて,同時進行にしてもよかったのではないか。イベントのシーケンシャルな時間をそのまま劇の時間にするのではなく,並べた三つを,次々,スポットライトを当てて,焦点化することで時間を移動させることで,イベントの時間進行をパラレル化して劇の時間が流れる,というほうが,イベントの進行に合わせて劇の時間が流れるよりは,「無限」というタイトルにふさわしかったのではないか。

最後に,苦言をひとつ。
開演直前に,空いた席に,スタッフを座らせた。たまたまその一人が僕の隣に座った。劇団員なのかどうかは分からない。最初は,劇に登場するのかと思ったがそうではなかった。劇が始まってしばらくして,携帯電話の小さな呼び出し音が鳴り,女性は,それを止めるでもなく,モニターを見ながら何か操作をしていた。そのスマホの画面が,暗くなった劇場の中では目につく。それが必要な連絡なら,そういう人を客席に座らせるべきではない。開始直前,観客には,何度も,携帯電話を,マナーモードではなく,電源から切ってくれと要請していた以上,なおさら許されないのではないか。

インフィニティ2.jpg


参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90
岸根卓郎『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』(PHP)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm
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2017年05月22日

物語


方の会第六十回記念公演『幕末明治・高橋お伝』(原案・福原秀雄,作・若菜トシヒロ,演出・狭間鉄)を観てきた。

お伝ポスター.jpg


僕自身もそうだが,お伝について知っている人は,もはや少ない。概要は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E3%81%8A%E4%BC%9D

に詳しい。実像はともかく,ここでは,お伝は,武家の出で,姉の敵討ちをしたにもかかわらず,その証拠も探し出したが,既に世間では毒婦として,センセーショナルに喧伝されており,一種の政治的な道具として,懲罰的に処断された,というストーリーで,言ってみると,本当は,死罪ではなく,減刑されるべきなのに,裁く側の事情と論理で押しつぶされた,という構造である。。
お伝.jpg

お伝・写真

 
所謂,本当はこうだった式の物語として,それなりの結構は保たれているし,面白さもある。しかし,どこか既視感がつきまとう。

個人的な好みで言うと,ラスト近くで,判事補(だと思う)とその妻の,お互いにかみ合わない,会話(というより独語)のやり取りが非常に象徴的で,人は,誰でも(人に語りたい)自分だけの物語をもっている。確か,フランクルだと思ったが,

誰でも人に語りたい自分の物語がある,

という趣旨のことを言っていた。だから,ここでのお伝の

仇討,

というのも,お伝の語りたい物語であり,世間の言う,

明治の毒婦,

というのも,また面白おかしい物語であり,取り調べ記録にある,

「診断書、関係者の証言で、犯行が裏付けられ、ついに自供」

というのもまた,ひとつの物語に過ぎない。『藪の中』ではないが,それぞれ独自の物語であって,どれが正しいかは分からない,というストリーリーの方がはるかに,(今日これを取り上げるという意味で)現代的ではないか。そう,判事補夫妻が,互いに,自分の物語を,かみあわないまま,一方的に語り続けていくように。

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高橋お伝(小林清親画)


この芝居の結構では,本当はお伝の語る物語が事実なのに,そうはならなかった,という,

お伝に同情する視点,

には,どうしても,「本当はこうだった」というストーリーの既視感を拭えない。本当はどうだか,もはや誰もわからない。だから,お伝は,

仇討ストーリーを語り,

取り調べ側は,

毒婦ストーリーを語り,

死んだ夫は,

よく面倒を見てくれた妻というストーリーを語り,

遊び人の市太郎は,

カモとしてのお伝を語り,

この並行した,重なることのない物語の重層の中に,お伝の物語があるのではないか。人は,社会的な存在であり,自分が語る物語だけではなく,周囲の人の語る物語の中に,自分がある,のではあるまいか。僭越ながら。そういうストーリー構成がいいと,観終わって感じた。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E3%81%8A%E4%BC%9D
http://meiji.bakumatsu.org/men/view/78

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年11月04日

死者の思い


ハグハグ共和国という劇団の「青の鳥 レテの森」(作演出・久光真央)を観てきた。

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同じ劇団の「infinity」という芝居については,昨年,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/441793799.html

で触れた。

芝居の構造は,前作と同じだ。前作は,ホスピス病棟,今回は,架空の森,そこで,登場する何組かがドタバタする,というところは,ほぼ同じだ。

今回も,いきなり,森に迷い込んだ,母と兄妹,アイドルの追っかけ三人,ロケハンの三人,バス会社の四人という四組が,得体のしれない黒装束の一団に,無理やり「行けば何でも願いの叶う」という「其処」を目指すゲームに参加させられ,それぞれ,桃太郎(の猿,雉,犬),オズの魔法使い(のライオン,案山子。ブリキの木こり),不思議の国のアリス等々の登場人物に準えられて,「其処」を目指させられる,という結構になっている。

その間のドタバタの渦中では,劇中の四組が何が何だかわからない状態で,振り回されているのと同様,それを観ている観客の側も,わけのわからないまま,そのドタバタの悲喜劇に,引きずり回される。

どうやら,その途中で勝ち残るものが死者で,リタイア,あるいは,殺されたものが,うつつの世界へ戻らされるらしい,ということが分かりかけて,最後,登場人物が全員そろって出てくる時,それまで黒装束だった人たちが,昔の看護師(看護婦という方がいいかもしれない)の服装や,モンペ姿,軍袴姿などで,登場したとき,観ている側は,それまでの全てのモヤモヤが一気に霧消する思いがする。この種明かしの仕方は,僕には秀逸に思えた。瞬間,僕は,

死者と共にいる,

という言葉が浮かんで,胸に滲みるものがあった。そう言えば,前作も,死者と共にいることが通奏低音のように,全編に流れていたことを思い出した。

あるいは,常に,

死者は,見ている,

ということかもしれない。あるいは,

死者の思い,

ということかもしれない。そこには,生きているものの生きざまへの苛立ち,腹立ち,悲しみなどがあるかもしれない。が,それは,同時に,死者そのものの側の生きざまの反映でもある。生き残したことへの思いである。

死者が,全て,戦時中である,ということに,作者なりの意味づけがあるのかもしれないが,そこは,正直,僕には,無理筋に思えた。別に七十何年も遡る必要はないのではあるまいか。3.11でもいいし,日常の交通事故でもかまわない。が,しかし,そこは作者の思い入れ(こだわり),ということにしておくしかない。その意味が,全編に通底しているわけではない。

劇団の案内には,

「前回公演『Infinity』では終末医療の現場、“ホスピス”を舞台とし、
現実世界における命と医療について描きましたが今作の舞台となるのは神話からインスパイアされた世界。神話と童話、精神と現実のダークファンタジーを描きます。」

とある。題名の,「レテの森」の「レテ」とは,

「ギリシア神話の神格で、「忘却」を意味する。ヘシオドスによれば、争いの女神エリスの娘で、ポノス(労苦)、マケ(戦い)、リモス(飢え)、アテ(破滅)らの姉妹とされる。しかし、神としてはなんら活動することがない。レテは普通冥界(めいかい)にある野原、あるいは泉、川のことをさし、またスティクス川(日本の三途(さんず)の川にあたる)の支流ともされる。地下に降りた死者の魂は、レテの水を飲んで生前のことを忘れると信じられていた。」

とある(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)。

「レテの水を飲んで生前のことを忘れると信じられていた」

が,

「レテの河をワタルとすべてを忘れる」

とされている出典なのだろう。しかし,ラスト,

バス事故云々,

についての,切れ切れの音声は,余分ではないかと思えた。ファンタジーは,そこで完結していてかまわない,ここまでの絵解き(というかつじつま合わせ)はかえって興ざめな気がした。上述の通り,全員が,揃って出てきたところで,全ての種明かしは終わっているのではあるまいか。それ以上は蛇足である,と僕には思えた。

書評家の大森望氏が,あるところで,最近,

「現実的で論理的なのがミステリー、非現実的で論理的なのがSF、現実的で非論理的なのがホラー、非現実的で非論理的なのがファンタジー」

と整理されているとか。その通りである。

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2017年12月03日

思いの重奏


方の会第61回公演「はかなくも また,かなしくも」(作・平山陽,演出・狭山鉄)を観る。

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啄木の死後,その作品を世に出そうとした土岐哀果ら友人,知人などの人々と残された妻子の物語,である。それを,残された詩歌,手紙を介して,綴っていく。

そのとき,読む人によって,その詩句や手紙の文面の言葉に読みこむ思いや感情は,発信者と受信者とでは違うはずである。あるいはズレルといってもいい。

言葉は,コード化できる。しかし,0と1に転換できない思いや感情は,そのことばを読む側の思いで転換される。発信者の思いと受信者の思いとが同じとは限らないのである。これは,小説を読む時も,詩歌を読む時も,同じである。作者が使った言葉に込めた思いや感情と,その同じ言葉に読者が読みこむ思いと感情は,けっして同じではない。同じなら,それは読書ではなく,摺り込みにすぎない。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389809186.html

で触れたことがあるが,情報には,

コード化できる情報である「コード情報」

コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報である「モード情報」

とがある。その思いや感じを表現した発信者の言葉を,受け手が,その同じ思いで受け取るとは限らない。そもそも同じはずはない。クオリアは人によって違う。人のもっているリソース,つまり記憶には,

意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

等々があるが,その言葉の意味をモード情報に置き換えさせるのは,その人のエピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。人の軌跡が違えば,言葉というコードに載せるモードは違う。

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1904年(明治37年)婚約時代の啄木と妻の節子(部分)


本劇の「タイトル」

はかなくも また,かなしくも

は,「家」(『呼子と口笛』所収)の,

 今朝も、ふと、目のさめしとき、
 わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
 顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
 つとめ先より一日の仕事を了へて歸り來て、
 夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
 むらさきの煙の昧のなつかしさ、
 はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び來る――
 はかなくもまたかなしくも。(1911.6.25 TOKYO)

から採られている(後半は略した)。

この「はかなくもまたかなしくも」を,

はかなくも
また,
かなしくも

と三段に別けて記したのは,啄木ではない。この劇の作者だ。その思いは,啄木の思いとは違うはずである。

人は,同じ言葉を使っていても,同じ思いを語っているとは限らない,

のである。この劇が,手紙を使って,書き手と訓み手に語らせていることで,ある意味で,同じ言葉を使いながら,相互に,受け取る思いの違いが生まれる,その多重性がおもしろい協奏,あるいは重奏になるはずである。啄木が,土岐哀果に,

これからもよろしく,

といった言葉以上の思いを汲み取って,哀果は,啄木の遺稿を整理し,全集という形で世に出そうと尽力する。宮崎郁雨の啄木の妻節子への手紙の送り手と受け手の齟齬も,やはりそれだ。言葉を受け取るエピソード記憶とは,その人の自伝的記憶,いわば人生そのものだ。言葉の思いの受け取りに齟齬が生まれて当たり前だ。

おそらく,劇の作者の意図がそこまで狙っていたかどうかは分からないが,随所に,言葉と向き合う,送り手(発信者)と受け手(読み手)との,思いの違いが,言葉を輪唱のように木魅させるはずなのだが。

たとえば,

雨が降っています,

という文を書いた人間が,イメージした雨と,受け手のイメージした雨が違うように,この言葉に託した思いは微妙に違う(あるいは「交う」と書く方がいいかもしれない)。それが,読み交わした後の振舞で現れてくれば,そこにまた別のドラマが生まれると思う。

劇中で使われた,「古びたる鞄をあけて」(『呼子と口笛』所収)

 わが友は、古びたる鞄をあけて、
 ほの暗き蝋燭の火影ほかげの散らぼへる床に、
 いろいろの本を取り出だしたり。
 そは皆この國にて禁じられたるものなりき。
 やがて、わが友は一葉の寫眞を探しあてて、
 「これなり」とわが手に置くや、
 静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出だしたり。
 そは美くしとにもあらぬ若き女の寫眞なりき。(1911.6.16 TOKYO)

この詩を劇の作者が使った意図は,啄木の意図とは微妙にずれるだろう。啄木の思いは,「この國にて禁じられたるもの」と「若き女の寫眞」のギャップにあると,僕なら読むが(とするとこの劇の流れとはそぐわない),その言葉を挿んだ,対峙というか協奏,あるいは重奏こそが,たぶん面白さのはずなのだが。

ところで,人は,二度死ぬ,という。

一度は,生物的に,
二度は,社会的に,

二度目の死とは,その人のことを覚えている人がいる限り,社会的には生きている,という意味だ。啄木は,恐らく,多くの友人の心に巨大な跡を残したのだろう。その強烈な記憶が,その死を惜しむ友人知人が一杯おり,その二度目の死を延命し続けている。そして,今回,その妻子もまた,二度目の死を延命する,これを観た人の心に。その意味で啄木を「遺す」を意図した作者の思いは伝わったと言える。,

「家」の最後の節は,

 はかなくも、またかなしくも、
 いつとしもなく、若き日にわかれ來りて、
 月月のくらしのことに疲れゆく、
 都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
 はかなくも、またかなしくも、
 なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、
 そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
 はじめより空しきことと知りながら、
 なほ、若き日に人知れず戀せしときの眼付して、
 妻にも告げず、眞白なるランプの笠を、見つめつつ、
 ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。

で終る。この啄木の翳は,今回の劇の外にある。それは啄木の『ローマ字日記』にある啄木でもある。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/47892_31512.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/n32e131/tanka/takuboku012.html

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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