2014年12月16日
共感性
先日,ブリーフセラピー研究会「平木先生が語る『鋼鉄のシャッター』」に伺ってきた。
記録映画「鋼鉄のシャッター」については,案内に,こうある。
「北アイルランド紛争は,カトリックの人びととプロテスタントの人びとの何世紀にも亘る憎しみの歴史でもあった。
1969年の発砲事件に始まる宗教的対立は,首都ベルファストを全面的都市ゲリラ戦にエスカレートさせていった。
紛争が泥沼化している1972年,何らかの解決の糸口を見つけるべく,ロジャーズらはプロテスタント4名,カトリック4名,英国陸軍退役大佐1名と,3日間に亘るエンカウンター・グループを持つことになった。
この時の映像記録が『鋼鉄のシャッター』である。」
エンカウンター・グループの効果については,正直,さほどの体験がないが,Tグループの体験は,立教大学の早坂泰次郎さんが主導していた感受性訓練に参加したことがあり,ちょっと違うが,雰囲気と効果については,予備知識があった。しかし,対立するグループの人たちの会話を重ねていく中で,一つの場ができていく,ちょうどベン図で喩えると,
まったく離れ離れの円
で,それぞれが,一方的に会話していたのが,憎しみや反撥や怒りを媒介にして,円が重なって,
一つの場ができていく,
というのを目の当たりにした。それは,具体的にはそのビデオを観ていただくしかないが,そこでの,ロジャーズの,参加者の一人が使った,
「鋼鉄のシャッター」
というメタファーを駆使しつつ,「鉄のカーテン」という言い替えもしたが,互いの心の前の抑制と防御のシャッターを開けて,奥にある,生々しい,むき出しの憎しみと悲しみと怒りを投げ出す場を創り出していく,ファシリテーションの端倪すべからざる技にも,目を瞠る。
それ以上に,共感性というものについて,いまさらながら,ちょっとした衝撃を受けた。
まず平木典子先生のレジュメを借りて,おさらいをしておく。このエンカウンター・グループの背景にある,ロジャーズの,
セラピーにおける「必要にして十分な条件」
の意味は,確認しておくと,
①畏敬の念(caring,prizing) クライエントへの無条件の肯定的蓮侶と関心
②邪気のなさ(genuiness) セラピストの自己一致む,ありのままの自分を受け入れ,脅かされず,クライエントの体験に開かれている
③共感性(empathy) 相手の内面的枠組みを “あたかも”その個人で“あるかのように”,情緒的要素や意味を正確に理解すること
とあり,特に共感過程については,五つの過程がある。
①相手の私的な世界に入る過程
②相手が感じる意味について敏感になる過程
③一時的に相手のなかに生きる過程
④気づいたことを相手に伝える過程
⑤気づいたことを相手に問う過程
とある。しかし,このプロセスで,もっとも大事なことは,
「言語化しなくては共感は伝わらない」
ということだ。僕は,よく,
「言葉にしないことは決して伝わらない」
と言っているが,まさに,共感性のキーワードは言葉なのだ。ロジャーズが,「鋼鉄のシャッター」という参加者のメタファーを駆使して,その言葉の引き出すイメージを媒体に,ベン図の円を重ねていったが,それは,そのことを言語化したからなのだ。このことが,気づいたひとつだ。
ミラーは,共感性を,
「臨床家との出会いを求めざるを得ないクライエントの状況をわかったうえで,思いやりのある理解を示すこと。話していることに注意を向け,経験を理解しようとし,分かち合う」
と述べているこの言外に,言語化があることを見落としてはならない。結局,ミラーたちが書いていたが,セラピーの効果は,
クライエントのもつ資質 40%
セラピスト・クライエント関係 30%
セラピー技法 15%
プラシーボ効果 15%
であり,セラピーを受けること自体のもつ心理的効果,つまりプラシーボ効果と加えると,55%が,クライエント自身のリソースによる,と言っていい。それを,神田橋條治さん流に,
遺伝子のもつ可能性の開花
と呼び換えてもいい。そこで,僕は,『鋼鉄のシャツター』でのグループの変化,ベン図ふうに喩えると,
両者の円が重なる場,
ができるのに,共感性が左右したと思うのだが,今回発見したのは,従来のように,
事柄にとらわれず,感情の動き,
に着目することではなく,というかそれももちろん大事なのだが,ヒトの感情を動かすのは,その人の考え方を受け入れてもらった,という思いからだ,ということだ。『鋼鉄のシャツター』でのやり取りの中で,いまさらながら,強く衝撃を受けたのは,
相手の言っている考え,あるいは,その考えに基づいて描写する体験的事実,
をそのまま,受け止めること。賛否は脇に置いて,相手が語った事実,相手にとっての経験を,
そういう経験をしたんだ,
そういう感情にかられたんだ,
そういう目にあったのだ,
ということを受け止め,認めること,ここに共感性のもう一つの鍵がある,と気づいた。受け止めるとは,相手の,
相手自身の思い入れによって受け止められた事実(現象学的な事実と言い換えてもいい),あるいは事実経過,そのときの感情,考え方を,
“あたかも”その個人で“あるかのように”
一緒に見,感じ,考える,ということだ。その,
(相手の私的な)事実をそのまま受け入れる,
とは,相手の体験したことを,そのまま,
承認する
ことに他ならない。それは,あえて言えば,事柄であってもいい,ということだ。その事柄は,その人の目を通してみた体験に他ならない。そういうふうに見えた,感じた,考えた,そう価値を意識した等々,すべて,
受け止めること,
それが「共感する」ということである,ということだ。
「同意はできなくとも共感はできる」
とは,まさにこのことだ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm