2015年01月28日

敷居


「敷居」とは,

①地上に敷いて座る,筵の類
②古くは,閾。部屋の境の戸・障子・襖の下にあって,それを開け立てするための溝のついた横木

の意味で,ある意味,

門の内外を分けるために敷くもの

といってもいい。内と外の境界を意味していた。その対になるのが鴨居。

敷居ごし,

というと,隔てを意味するし,

敷居を跨げば七人の敵

というのも,その意味から来ている。閾値とか識閾というのは,境界を指す。



は,区切る,という意味だが,「門」の中の,「或」は,

領域を上下の境界線で囲んだカタチ+戈(ほこ)

で,区切りをしてその中を守る「域」の原字。「閾」は,「門+或」で,

門のところで内部と外部との区域を分けること

で,敷居の意味と区切る意味とがある。

昨今,「敷居が高い」の意味が,

「自分には分不相応」「手が届かない」
「高級(上品)すぎて入りにくい」

という,「ハードルが高い」「レベルが高い」と同じ意味で誤用されている,という。本来は,

不義理や面目ないことなどがあって,その人の家に行きにくい,
敷居を跨げない,

という自責の意味なのに,他責の意味に転じている。最近はやりの妖怪ウォッチのおかげて,自分の失敗やへまを妖怪のせいにするのと軌を一にする。問題の外在化そのものは悪くないが,他責までいっては,おのれを改めるという部分が消えてしまう。

しかし,実体として敷居が消えていけば,意味が変わっていくものかもしれない。

文化庁が発表した平成20年度「国語に関する世論調査」では,

http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_04/series_08/series_08.html

にあるように,「あそこは敷居が高い」を,本来の意味とされる「相手に不義理などをしてしまい,行きにくい」で使う人が42.1%,本来の意味ではない「高級すぎたり,上品すぎたりして,入りにくい」で使う人が45.6パーセントという。

もともと古い時代の日本の家屋は,開き戸かあげ戸が一般的で,引き戸ひいては引き戸に必要な敷居は用いられていなかった。敷居が一般化するのは,室町時代後期に個々の部屋を仕切る書院造が確立し,引き戸が用いられるようになってからであり,武家社会の浸透とともに普及した。礼儀作法において,敷居は踏んではいけないものとされているが,それほど古いものではない。

とあるように,この言葉自体がそんなに由緒あるものとは思えない。

小学館『大辞泉』編集部が集約した,

間違った意味で使われる言葉ランキング,

というのがあって,第一位は,ハッカーで,「コンピューターに侵入し,不正行為を行う人」ではなく,

インターネットやコンピュータに詳しい人,

という意味に代わって使われている。間違いではないが。。。第二位は,「確信犯」。「信念に基づいて『正しいことだ』と思い込んでする犯罪」ではなく,

悪いことであるとわかっていながらする犯罪

として使われがちだという。第三位は,「他力本願」は,

自分で努力するのでなく,他人からの助けに期待すること

で使われる。その意なら,他力本願したくなるわけだ。因みにも第四位は,「破天荒」。「いままで誰もしなかったことをする」ではなく,「豪快で大胆不敵」と矮小化されている。第五位は,「姑息な手段」の「姑息」。「その場逃れ」「医時事凌ぎ」ではなく,「卑怯」と意味が変わっている。第六位が,「失笑」。「可笑しさに堪えきれず,吹き出す」ではなく,「笑も出ないくらいあきれる」で使う。笑いを失う,という意味では,語意に忠実かもしれない。そして,第七位が,「敷居が高い」。ついで,「さわり」を,「話の最初の部分」と,「なしくずし」を,「物事をは少しずつ済ましていく」ではなく,「物事があいまいなまま進んでいくこと」。「悪びれる」を「気後れして卑屈な様子をする」ではなく,「虚性を張って悪事をしても悪いとは思わない態度をとる」に,変って使っている。「悪びれる」は,おおく,「悪びれない」という使い方をするので,こういう解釈になった。「なし崩し」は,僕自身も,「物事を少しずつ先送りして,帳消しにする」というニュアンスの意味で受け止めていた。

言葉は変化するので,意味が変るのは,当たり前だが,会話をしていて,自分の使った言葉が,自分の込めた意味かどうかは,注意深くなくてはならない。

会話は,後続する人が,どう返事するかで決まるので,修正できるが,文書の場合,世代が違えば,意味が変る,ということもある。

竿さす,

の誤用もそうだが,実体験に竿で船を操るところを見ていないと,文字だけで意味をとりがちになる。昔,

取りつくヒマがない,

を口癖にしていた先輩がいたが,「取り付く島がない」を耳でを覚えると,そういうことはある。

同様に,

言い間違いされる言葉ランキング

というのもあり,

第一位は,「途切れがちの会話などを,うまくつなぐことができない」の意味での,正しい「間が持てない」ではなく,「間が持たない」という使い方をする。第二位は,「声を荒らげる」ではなく,「声を荒げる」。つまり「ら」抜きである。第三位は,「足をすくう」を,「相手のすきをついて失敗させる」ではなく,「足もとをすくう」という意味で使う。喩えだったのだから,先祖返りみたいなものだ。ついで,「采配を振るう」ではなく,「「采配を振る」が正しい。「怒り心頭に発する」ではなく,「怒り心頭に達する」と使う。

こういうのは,「的を射る」を「的を得る」という言い方をするのに似て,実体験が無くなれば,音韻変化するのはやむを得ない。

最近,上にも出た,「食べれる,生きれる,来れる」という「ラ抜き言葉」,「書けれる」「読めれる」と余計な「れ」を足す「レ足す言葉」,「言わさせていただきます」「急がさせてすみません」と,「さ」を加える「サ入れ言葉」というのが,ことばの乱れを指摘する専門家の指摘するものだそうだが,いささか鼻白む。

「ら」抜きは,かなり古くから(江戸時代から)あったとする説もあり,別に誰も気にしなくなるだろう。尊敬語や謙譲語が礼儀上必要だったのは,身分社会の反映に過ぎない。それが簡素化していくプロセスで,余分になったり,不足したりすることはある。ほおっておけば,失礼な言葉は,消えていくだろう。

御苦労さま

は上から目線,

お疲れ様

が,どちらにもとれるニュートラル,というのが落ち着いてきたように。言葉に目くじらを立てるものは,言葉生きて使われているものだということを忘れている気がしてならない。

普通の人は,多分気にかけないだろう。なぜなら,最後に淘汰されたものだけが,文化の堆積の上に残ることを知っているから。

参考文献;
小学館の国語辞典『大辞泉』編集部
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000007379.html






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:36| Comment(0) | 言葉遣い | 更新情報をチェックする

2015年02月12日

言葉遣い


ある年代になると,若い世代の人間の言葉遣いが気になるものらしい。言葉がわからないのは困るが,それ以外,僕は気にならない。まあ,多少ため口が過ぎると,むっとすることはあるにしても。

せんだって,『妲己のお百』の語りをうかがってきたが,それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413694128.html?1423341769

で触れた。その折,作家の藤浦敦さんが,江戸のことを知りたいなら,三田村鳶魚か岡本綺堂(は随筆のみ)という話が出た。そこで早速ネットを調べると,無料のKindle本があるので,『中里介山の「大菩薩峠」』を読んでみた。

全編,言葉遣いと,歴史の誤りのダメ出しのオンパレードである。

僕は,この本は読んでいると,特に,土方歳三らが清川八郎を襲撃しようとして,間違えて島田虎之助の駕籠を襲って場面については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163234.html

で触れたことがある。このシーンには結構思い入れがあったのだが,鳶魚先生に言わせると,

「『新徴組は野武士の集団である。野にあつて腕のムヅ痒さに堪へぬ者共を幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目』云々とある。これでは相当腕前のある、立派な人間ばかり集めたようにみえるが、事実の方からいえば、大変な間違いで、あの中には、随分いい加減ぶしな人物が入っていて、小倉庵事件では青木弥太郎の下回りを働いて、泥坊をやったやつさえある。それに浪士ばかりじゃない、随分剣道の心得のないやつもいたので、腕前が揃っていたなんぞは、とんでもない話だ。大分向う見ずの奴等が多く集った、というならいいかもしれない。一二六頁に『彼等は皆一流一派に傑出した者共で』などとあるのは、全く恐れ入ったことと言わなければなりますまい。」

と身も蓋もない。鳶魚先生には,別に,『話に聞いた近藤勇』というのがあって,そこで新徴組のこと,新選組のことが詳しく書いてあるのだから,当然かもしれない。

しかも,その襲撃シーンについても,

「土方が大将になって清川を要撃する。ところが駕籠が間違っていて、中にいたのは、当時有数の剣客島田虎之助だから堪らない、皆斬りまくられてしまう。それはいいが、駕籠の中をめがけて刀を突っ込んでも、何の手応てごたえもない。これは島田が『乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く刀に備へ、待てと土方の声がかゝつた時分には、既に刀の下げ緒は襷に綾どられ、愛刀志津三郎の目釘は湿されて居た。空を突かした刀の下から、同時にサツと居合の一太刀で、外に振りかぶつて待ち構へて居た彼の黒の一人の足を切つて飛んで出でたもの』で、外の者は全くそれに気がつかなかったようになっている。いくら名人の剣術遣いでも、そんなおかしなことが出来得べきものではない。」

「それから島田虎之助に向った加藤主税、この両人が斬り合うところに、『鍔競合の形となりました』と書いてある。へぼくたな人間どもなら、かえって鍔競合なんていうこともあるかもしれないが、これは両人ともすぐれた剣客である。殊に島田のごとき、当時の第一人とさえ聞えた人物に、鍔競合なんてばかげたことがあろうはずがない。」

等々とあって,何だか,自分が感激したのが恥ずかしくなるくらいの貶めようである。で,肝心の言葉遣いだが,こんな調子なので,随所に赤ペンが入る。

「本郷元町の山岡屋という呉服屋へ、青梅の裏店の七兵衛という者が訪ねて来る。そうして山岡屋の小僧に向って、『旦那様なり奥様なりにお眼にかゝりたう存じまして』と言っている。…これもいけない。『旦那なりおかみさんなり』と言わなければならぬところです。町家で『奥様』というのは、絶対にあるべからざることで、この近所にいくつも『奥様』という言葉が出てくるが、そんなことは江戸時代には決してない。…『以前本町に刀屋を開いておゐでになつた彦三郎様のお嬢様』ということが書いてある。刀屋を開いている、なんていう言葉も、この時代に不相応なものだ。お嬢様もお娘御と改めたい。」

「店に入って来たのが、『切り下げ髪に被布の年増、ちよつと見れば、大名か旗本の後家のやうで、よく見れば町家の出らしい婀娜なところがあつて、年は二十八九でありませうか』(五五頁)という女なのですが、これはどうも大変なものだ。何でも旗本の妾のお古で、花の師匠か何かをしている女らしいのですが、『大名か旗本の後家のやう』というのも、ありそうもない話だ。大名の後室様が、供も連れずに、のこのこ呉服屋なんぞへ買物に来るはずのものでなし、旗本にしたところが、同様の話です。しかも『よく見れば町家の出らしい婀娜な処がある』というんですが、そんなものが大名や旗本の家族と誤解されるかどうか、考えたってわかりそうなものだ。江戸時代においては、そんなばかなことは決してない。」

ここにあるのは,外見,髷の結い方で,まず身分がわかる。伴もつれずに一人だあることはない,ということが,当たり前であった時代と,それが遠い昔,といっても,介山は,明治四年生まれ,『大菩薩峠』の連載が,大正二年,書籍になったのも。大体そのしばらく後と考えれば,いまに較べたら,江戸時代は,戦前より近いのに,すでに,そこがわからなくなっている。ついでながら,

「『下級の長脇差、胡麻ごまの蠅もやれば追剥も稼がうといふ程度の連中』ということが書いてある。『下級の長脇差』というのは、博奕打の悪いの、三下奴とでもいうような心持で書いたんでしょうが、博奕打は博奕打としておのずから別のもので、護摩ごまの灰や追剥を働くものとは違う。追剥以上に出て、斬取強盗をするようなやつなら、護摩の灰なんぞが出来るはずはない。作者は護摩の灰をどんなものと思っているのか。要するにその時代を知らないから出る言葉だと思う。
 六九頁になって、文之丞の弟の兵馬という者が、『番町の旗本で片柳といふ叔父の家に預けられてゐた』と書いてあるけれども、三十俵か五十俵しか貰っていない千人同心が、旗本衆と縁を結ぶことはほとんど出来ない。従って旗本を叔父さんなんぞに持てるわけがない。」

この辺りも,身分というものの実感がないから,わからなくなっていることのつながりだろう。さらに,

「お銀という馬大尽の娘のことを書いて、『着けてゐる衣裳は大名の姫君にも似るべきほどの結構なものでありました』とある。いくら大百姓でありましても、大名の息女に似寄ったなりなんぞをするということが、この時代から取り離れたことでありますし、…この女が髪の美しい女であって、『それを美事な高島田に結上げてありました』とも書いてあるが、大名の姫君というものは、高島田などに結っているものではないはずだ。…この娘が父親のことを、『父様』といっている。いくら大尽の家の親父にしたところが、その子供が『父様』なんていうことはないはずだ。…この馬大尽の家の女どもが、主人のことを話している。…この家の女房のことを、『奥様奥様』と言っているのは、例によっていけません。『変なお屋敷でございますよ』ともあるが、百姓の家をお屋敷というのも何だか変だ。」

「甲府の御城の門番…をしている者が、お君に向って『一応御容子を伺つて来るからお待ち召されよ』と言っている。どうも不思議な言葉を遣うもんだ。『何と仰有るお名前ぢや』とも、『有野村の藤原の家から来たお君殿』ともあるが、百姓の家から使に来た女――これは町人にしても同様ですが、それに対して『お名前』だの『お君殿』だのという言葉を遣うわけはない。足軽にしたところが、同心にしたところが、そのくらいの心得はあるはずだ。それにこういう場合は、やはり八右衛門とか、伊太夫とかいう名前をいうところです。たとい大尽でも百姓だし、かつまたその使に来た女なのですから、それに『お』の字や『殿』の字をつけるはずがない。それでは士分の者から来た使には、何といったらいいか。こういうふうなところから眺めてまいりますと、百姓や武家の生活はどんな状態にあったか、まるで作者は心に置かずに書いたようにみえる。」

結果として,身分というものを意識しないで,接客としての言葉遣いになっているからなのだろう。言葉遣いが,身分で,まったく違い,だからこそ,

「よのなかは さようしからば ごもっとも そうでござるか しかとぞんぜぬ」

と武士を皮肉ることで面白がったのに違いない。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406373501.html

で書いたことがある。古典落語の,『政五郎出世』(「妾馬」)の可笑しさもそこに由来する。

とはいえ,言葉遣いだけは,昔の言葉同様にはいかない。せめて,身分というものの重みがあった時代だということは弁えていないと,小説とはいえ,とんでもないことになる。

「お松という女が、例の山岡屋へ買物に来ていた、花の師匠か何かのところに世話になっていて、四谷伝馬町の神尾という旗本の屋敷へ、奉公に出る話が書いてある。この四谷伝馬町はどういう町であったかというと、これは市街地で、武家地ではない。武家地でないのだから、大きな大名でありませんでも、旗本衆の屋敷でもそういうところにあるはずがない。これは決してあるを得ないことです。」

というダメ出しは,最悪かもしれない。

参考文献;
三田村鳶魚『中里介山の「大菩薩峠」』(青空文庫)
三田村鳶魚『話に聞いた近藤勇』(青空文庫)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:45| Comment(0) | 言葉遣い | 更新情報をチェックする

2015年02月13日

なってございます。


店員が,陳列の商品について,客に,

「~になってございます」

と言っているのが耳に聞こえた。そう言えば,当事者として,店員から言われたことがある。テレビでも,似た言い回しをしていた。そういうことを教育するものがいるに違いない。

敬語・謙譲語・丁寧語について,詳しくはないが,

~になっています。

か,

~になっております,

というのが,たぶん,普通の言い回しではないか。別の敬語の乱れは,今に始まったことではなく,前回にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413913243.html?1423687556

で触れたが,三田村鳶魚が,中里介山の『大菩薩峠』について,言いまわし,言葉遣いをさんざんにこき下ろしているが,たとえば,

「お銀がお君に向って、『まあ、お前、三味線がやれるの、それは宜かつた、わたしがお琴を調べるから其れをお前の三味線で合せて御覧』と言っている。気取った生活をしている人間なら、『三味線がやれるの』なんていう、野卑な言葉を遣うはずがない。しかしこれはもともと百姓なんだから、身分のない娘とすれば、そういうふうに砕けた方がいいかもしれないが、それにしてもこれは砕け過ぎていて、甲州の在方の娘らしくない。それほど砕けたかと思うと、『お琴を調べるから』という。お台所のお摺鉢がおがったりおがったり式だ。おの字の用例を近来の人はめちゃめちゃにしている。めちゃめちゃにしているのではない、御存知ないのであろう。すべてのことを差しおいて、この短い会話だけ眺めても、一方では琴におの字までつけるに拘らず、一方では『やれるの』と言う。一口にいう言葉のうちに、これだけ品位の違ったものが雑居している。百姓の娘が増長して、悪気取りをして、こういうむちゃくちゃをいったとすれば、それでいいかもしれないが、作者はそういう気持で書いたものとも思われない。」

といった具合である。話を元へ戻せば,「~になってございます」は,

「~になって」

を,

「~にさせていただいて」

とすれば,自然と,「おります」となったのではないか。敬語や,謙譲語は,相手との関係を反映している。万事が,フランクで,日常と非日常の区別がなくなった社会を反映しているのだから,別に取り立てて,取って付けたような丁寧語を使わなくても,

「~になっています」

ですむものを,どこの誰が教えいるのか知らないが,とんでもない無知をかえってさらけだしているようにしか見えない。

「ございます」というのは,

「御座+あり+マス」

で,gojaariから,aとjが抜けてゴザイとなり,丁寧語のマスが加わったもの,とされている。

ござる

も関連語だが,これは,

「御座+す」(おわす),「御座+ある」(ござる)

で,「おわす」の当て字,「御座す」を,字音で読み,動詞化の「アル」を付けたのが語源とされる。「御座」は,

「座」の尊敬語。貴人の席。

を指し,そこから,「いらっしゃること」をも指す。たとえば,「この処に御座をなされ」というように。だから,「茣蓙」は,イグサで編んだ敷物だが,もともと

「御+座+むしろ」のムシロを略したもので,「蓙(ござ)」を当てる。

「になって」

と,「その状態に成ってある」ことを,さらに,「御座います」と重ねているので,

「~になってございます」

は,

「になってなっています」

と言っているに等しい。しかも,自分の「している状態」に敬語を使っている形になる。丁寧も,度が過ぎると,馬鹿丁寧で,

慇懃無礼

に近いのではないか。前にも書いたが,「座」は,「坐」が,人二人+土」で,人々が地上に坐って,頭が高低で凸凹するさまを示していて,

「广+坐」

で,家の中で人の坐る場所であり,それに「御」をつけて,敬っている。

その意味では,

「~してございます。」

という言い回しも,考えようによっては,自分の動作を敬うカタチになっており,何だか,客に対して丁寧に行っているつもりが,そうしている自分に敬語をつけていることになり,一層客を馬鹿にしている言葉遣いに聞こえる。

自分の使いなれない言葉でも,語感的に異和感があるかどうかはわかるのではあるまいか。言われた通りに言っているなら,それはロボットであり,その先に来る図は,とても恐ろしい。自分で感じ,考えることをやめたら,何でもしかねないのではないか。言われたら,何でも,その通りにするのだろうか?

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:38| Comment(0) | 言葉遣い | 更新情報をチェックする