2012年11月05日

「自分の好きな場所」から見えたこと~幻の場について


 昨日,ある勉強会で,フォーカシングのワークをする機会があった。ずいぶん前にフォーカシング基礎コースというのを受けたことがあるが,そのとき,自分が遠い山道をひとり,ただずんずん歩いているイメージを得た記憶はあるが,あとはほとんど忘れてしまっていることに気づいた。そのため,初心者と同じ心境で,ワークに取り組んだが,その中で,自分にフィットしたのは,

 自分の好きな場所をイメージして感じてみよう

というものであった。その文字を見た瞬間,思いもかけず,もう何十年も前,三度目の小学校に転校した,飛騨高山の父の官舎のあった,本町の路地であった。家の真ん前が,宮川で,その当時はヤツメウナギがとれるほどの清流であった。
その高山に住んでいたのは,三年弱で,すぐ四度目の転校をしたのだが,その路地では夕暮れまで遊びまくっていた。近くに西小学校があり,そこへみな通っていたのだが,校内で,「本町の生徒は夜遅くまで遊びすぎ」と名指しで注意されるほど,暗くなるまで,路地を駆け回っていた。父にもいつまで遊んでいる,と叱られたものだ。昔の官吏は帰宅が早かった。いや,父だけかもしれない。5時半には毎日7帰宅していた。

そして,同時に思い出したのは,その路地のことを,その後何度も夢に見たということであった。夢に出てきた,いつまでも続いていた塀が,路地から本町通りへ出る出口だったり,その塀の長さを,ずいぶん広く長く感じていたものだった。そして,多くの夢で,その路地を抜けようとして,なかなか出られない,迷路の路地,そんな夢であった。

何年か前,センチメンタルジャーニーで,高山へ行った時,路地も官舎もほぼそのままで,意外なほど狭く短い路地であった。確か,路地の中ほど,川へ下りる階段のあるあたりが,小さな広場になっていて,毎夏土俵が作られて,相撲大会をやっていたはずなのだが,その面影は残っていなかった。


ここは思い出をする場ではない。その場をイメージした時,そこで味わったものは何か,を書かなくてはならない。私には,それは,

手放しのあそび
手放しに遊びほうける
手放しに面白がる

そういう心だと感じた。忖度も屈託も思惑もなく,ただその一瞬に没頭して遊びほうける。遊びをせんとや生まれけむ,という梁塵秘抄の一節があるが,まさにそんな感じだ。

ただ熱中する,無我夢中になる,いわゆるフロー体験はなくはない。しかしただ時間を忘れ,手放しで遊びに夢中になっていた,その遊びほうけには,成果も目標も,制約もない。そのエネルギーは無償であり,ただ心ゆくまで遊びほうけるだけ。そこから何が生まれるだの,それで何になるだの,そんなことにとらわれることなく,ただその一瞬一瞬がかけがえのないひとときだった。

そのひとときと夢の中の苦渋に満ちた迷路感との落差はいったい何なのだろう,と思う。そこにあるのは,心と感情と思いの,いまとの差なのだろう。自分の好きな場所とは,私の生き生きした一瞬,その原点のように思う。

しかしだから,いまの自分は遊ぶ自由がないだの,心行くまでの自由がないだのという振り返りをしたいとは思わない。

 自分の好きな場所をイメージして感じてみよう

という問いには意味がある,少なくともそこに何かを感じた自分には,ただそのときの自分の心の持ちようやありようが,いまはあの時とは違う,いまはそうなっていないということではなかったのだ。

つまり,あの「自分の好きな場所」というと問いに意味があるのは,『場』なのではないか。あのと
きの手放しの自由は,その場所,つまり路地という場所と,そこで一緒にほうけていた仲間がいて,そこに溶け込んだ自分がいた。気づいたのはそこだ。

つまりこういうことだ。自分あっての場,場あっての自分,自分を手放しの自由に放り投げる場所,そしてそこに浸りきれる自分が,いまはない。そこにいまとの落差を感じた意味を受け取った。


それは単なるいまと自分のギャップだけではなく,いまの自分の心といまいる自分の場の落差,場の持つダイナミズムを感じ,そこに浸りきれる場と自分がいない,またそういう場がない,という感じなのだろう。

つまり,そういう場所,そういう関係性がない,あるいはそういう場の中にいる自分の体験がない(ないというとウソになるが日常的にない),ということからくる迷いだったのではないか,という気づきだ。だから夢の中では路地は迷路になっていた。


そしてこの問いが私には,いまの自分を確かめる問いになっていたと思う。

そこまで,帰りの電車の中で,ぼんやり考え,メモを取っているうちにふいに,清水博さんを思い出して,帰宅後著書を取り出した。


清水博さんは,
「創造の始まりは自己が解くべき問題を自己が発見することであ」り,「自己が解くべき問題の発見」とは,「これまで(自分のいる場所で)その見方をすることに大きな意義があることに誰も気づいていなかったところに,初めて意義を発見する」といっています。少なくとも,自分には新しい意味だと感ずる。

ぱらぱらめくっていたら清水博さんは,こんなことをいっていた。

自己は二重構造をもっていることがわかります。一つは自己中心的に(自他分離的に)ものを見たり,決定をしたりしている自己(自己中心的自己),もう一つはその自己を場所の中に置いて,場所と自他分離しない状態で超越的に見ている自己(場所中心的自己)です。私はこの構造のことを,自己の二重活動領域とか活動中心と呼んできました。(中略)わかりやすく言うと,自己中心的自己は場所の中に存在している個物を対象として,自他分離的に捉えたり,表現したりする働きを持っています。また場所中心的自己はその主語の場所の中における状況を述語するのです。


言ってみると,場と自分のギャップ,場あっての自分,自分あっての場という相互作用に悩んでいたのだ,ということに,好きな場所を自分の中に分け入っていくことで気づかされた,そう意味づけてみたくなった次第だ。そして,それはどうも足かけ二十年勤めた会社を辞めて二十年余,その裂け目に夢が噴出したきた,という感じもした。最近はそういう夢は見なくなっている。


参考文献;
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#フォーカシング
#清水博
#場
#フロー体験

posted by Toshi at 06:27
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