2013年01月09日
追い詰められたユーモア~石原吉郎の詩をめぐってⅣ
どこか生真面目で,一本木だが,言い換えると辛気臭い石原の詩に,ユーモアを探すと,どこかブラックユーモアの気配がある。
じゃがいもが二ひきで
かたまって
ああでもないこうでも
ないとかんがえたが
けっきょくひとまわり
でこぼこが大きく
なっただけだった(「じゃがいものそうだん)
これなどは,結局事態を悪くしたともとれるが,しかしお互いに凹んだ分だけ,親しくなったとも,憎み合ったともいえる。濃厚な関係でもある。夫婦喧嘩のアナロジーともとれるし,兄弟喧嘩のアナロジーともとれる。とりよう次第で,見える風景が違うだろう。
石原の詩に,これをみつけたとき,思わずにやりとした。それに続いて,こんなのもあった。
動物園なぞ
さびしいよな
たぬきのおりなぞ
さびしいよな
そのたぬきが見た
けしきがまた
さびしいよな
みつめられている
だけでもさびしいよな
たぬきはそれで
もんくをいわないのか(「動物園)
でも,これには皮肉だけではなく,ちょっとさびしさが付きまとう。たぬき,というのが,きいている。これがきつねでも,アライグマでも,ニホンザルでも,ウサギでもこうはならない。ユーモアの感覚がなくてはならない。どこかとぼけた,たぬきにはそれがある。そして寂しさが,だから,じわっと滲んでくる。
これはどうだろう。
世界がほろびる日に
風邪をひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ(「世界がほろびる日に」)
最期の最期だからこそ,日常の何気ない継続を意地でも続ける。どうも意地という言葉が好きだ。意地を張るから,ぴんとしていられる。意気地なしになっては,さまにならない。
好きなエピソードで,ギロチンに向かう途上も本を読み続け,促されて,読みさしの頁を折った貴族の話があるが,そこに何とも言えぬ凄味がある。巧んでしているのではないから。凄い。しかも,その凄味は極限でユーモアに転ずる。チャプリンにそれを感じたことがある。
ここで言うのは,平常心のことではない。
平常心というのは,平常でいられない時に,平常でいようとする,いってみるといやらしさがある。どういうのか,これ見よがしの「いいかっこしい」を感じてしまう。しかしここにある,しぶとく,日常を続けるという凄味に比べたら,平常心の宮本武蔵も,形なしだ。彼は,島原の乱で,養子伊織の主家,小笠原家に陣借りして,先駆け,原城の石垣に取り付いて,上から落とされる石に打たれ,石垣から転げ落ち,けがをしたという。日常の延長のまま,しぶとく,泥臭く,かっこつけずに戦う百姓衆に負けたと言っていい。どんな手を使っても生き残らなくてはならない。それが日常の連続だ。
互いに勝負する,という同じ土俵に乗ってこそ,平常心は意味があるが,絶え間なく平常のつづく毎日に,平常心などという言葉は,矛盾でしかない。その平常そのものが断たれたその瞬間には,いわゆる平常心もへったくれもない。その瞬間も,しかしそのまましぶとく,日常的に生き続ける。どんな手を使っても,生き残ろうとする。その凄味の前には,平常心などという軟な言葉は,剃刀の凄味に過ぎない。こっちは鉈だの鍬だの鋤だの,日常の道具だ。百姓一揆に,サムライ衆はついに勝てていない。西南戦争も含めて。いや,勝ってはいけないのだ,自分たちの食い扶持なのだから。
これはどうか。木の側から考える。
ある日 木があいさつした
といっても
おじぎしたのでは
ありません
ある日 木が立っていた
というのが
木のあいさつです
そして 木がついに
いっぽんの木であるとき
木はあいさつ
そのものです
ですから 木が
とっくに死んで
枯れてしまっても
木は
あいさつしている
ことになるのです(「木のあいさつ」)
弁慶の立往生ではないが,生死もわからず立ち枯れる,これが理想だ。
孤独死という言葉は,死んだ者の側が言っているのではない。みすみす死んだのを見逃してしまった,担当役人の言い訳に聞こえる。誰も望んではいないかもしれないのだ,死ぬ側は。一人でひっそり死にたいかもしれないではないか。周りで,届がどうの,財産がどうの,年金の打ち切りがどうの,手続き満載,そんなこと知っちゃいねえ。死ぬときは,周りにいっぱいいようと,いまいと,たった一人で,三途の河を渡るしかないのだ。
僕は,こういう死に方が理想だ。「へえ,あいつ死んだんだってねえ」「そうか」で終わる程度なのだから。立ったまま挨拶だけはしたい。
しかし,どういう立ち方をするか,どういう挨拶の仕方をするか,せめてそのくらいは考えるか。
その生涯の含みを果てた
いわばしずかな
もののごとく
その両袖のごとき位置へ
箸にそろえて
置かれるであろう
すなわちしずかな
もののごとく(「しずかなもの」)
こんな感じが,いい。後ろ足で砂を掛けないというか,誰にも知られず,こっそり挨拶だけしていく。
そういえば,昔の知り合いが,神隠しにあった。小さな印刷会社を経営していたが,ある日突然消えた。部屋は,普通の夕食をしかけたまま,残されていた。後を妹さんが処理に来たそうだが,消息は不明。女のことで,やくざ者ともめていた,暴力団に消されたのだ,等々の噂だけが残った。この噂は余分だ。閑話休題。
そういう背景を思うと,この詩もブラックユーモアに見える。
最期に,彼のユーモアの感覚にある,ブラックというより,悲しみと寂寥の彩られた詩を。
うそではない
ほんとうにしりもちを
ついたのだ
それがいいたくて
ここへ来たのだ
妙な羽ばたきがするだけの
とほうもない吊り棚の下で
どしんと音がして
しりもちをついたのだ
しりもちをついた場所が
聞きたいか
あそこだ あの
もののかなしみと
もの影のかなしみが
二枚のまないたのように
かさなりあって
いるところだ
あそこから やがて
もういちどゆっくりと
もういちどなにかが
はじまるのだ(「しりもち」)
本人にとっての哀しみは,赤の他人にはユーモラスに見えることがある。本人は必至なのに,悠々としているように見えることもある。そのギャップに,悲哀が滲む。
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posted by Toshi at 06:53
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