2013年01月25日

「嫌い」について


人を嫌う場合,相手の中にある自分を嫌うという言い方がある。それを否定はしないが,どうも自分で引き受ける,というか自己内省という,そういう姿勢は悪くはないにしろ,そういうことで,本来は別のはずのモノが,結局自分の側に嫌う原因がある,だから,自分を正せという方向に行く。しかしそういう説明だけでは納得しきれないものがあるような気がしてならない。たとえば,逆に「好き」というのは,自分の中に似たものがいっぱいあるからといえるのか,というと,どうもそうでもない気がする。

僕自身について言えば,最近気づいたのは,人を嫌うということは,あまりないようで,うん十万貸したままドロンされても,その人を嫌いにはなれない。人に振られた程度では嫌いにはならないし,相手によほど敬遠されても,それでも好きではなくても,嫌いにはなれない。まあ,自分に返ってくると言えば,その通りで,結局自分を責めて,まあおしまい,となることが多い。ただ,あえて言えば,相手が自分を嫌っていれば,そうなるかもしれないが,人間関係が薄いせいか,そう手ひどく憎まれも嫌われもしていない(と勝手に思っているから,そう感じるだけかもしれないが)。

嫌いという時,食べ物はどうか,蛇やゴキブリはどうか,やくざはどうか,性犯罪者はどうか,家庭内別居している相手はどうか,と考えていくと,そう一概には,自分の中にあるとばかりは,言えそうもない気がしてくる。

たとえば,「嫌い」にあるのは,思いつく限りで(学問的なことは別として),その反応パターンをあげてみると,

①生理的反応
②生得的反応(本能的反応)
③価値的反応(感情的反応も含まれる)
④社会的反応(慣習的反応)
⑤文化的反応(地域性や日本性による)
⑥関係性的反応

がある気がする。

生理的反応は,生理的に受け付けないものなので,忌避感や嫌悪感を催すものは,ある意味で共通している。たまにゲテモノ趣味はあるが。これは,自分の中にあるなしはどうも関係ない。

生得的というのは,成育歴を通して感じてきたもので,たとえば,父を憎んでいれば,父に似たものを嫌うという傾向はある。しかしこれは第一印象のようなもので,そのうちに消えて行くことがある。食べ物もそうだが,ピーマンはいつの間にか,好きではないが,嫌いでもなくなっている。

価値については後に回すとして,社会的反応は,社会的差別や忌避とつながる。社会的に忌避するもの,乱暴者,犯罪者等々を嫌うということはある。だが,かつて(もうふた昔前のことだが),留置所で(何でそこにいたかは内緒だが)一緒になったやくざは,個人的に知り合うと,嫌な奴ではなかった。というよりも,池袋をしまにしているらしいのだが,一度遊びに来いかなどと言われた。これは,その相手との距離感の問題だ。

かつて,父親が地方新聞のコラムに書いていたのだが,映画館で,後ろの席にいるやつが,映画の中の悪人を罵倒していた。よほどの正義感かと思って振り向くと,かつて自分が取り調べた小悪人だった,という。一定の距離感の中にいると,個人的親密さとか認知が高まり,相手を知れば,社会的な反応としての,やくざだからという「嫌い」度は,その距離から離れれば離れるほど,高まるのではないか。

これは,いわゆる単純接触効果(ザイアンスの法則)といわれるものと関係があり,接触頻度が高いほど,好意をいだきやすい。これは,関係性的反応とも関係してくるかもしれない。

文化的反応としては,その人の価値にも関わるところがあるし,社会的な反応に関わるところもある。例えば,AVやDVなどへの反応には,個人としての価値に反するという「嫌い」もあるが,社会的な意味で,「嫌い」という反応もある。ここは,価値に絡んで,是非は言えない部分で,犯罪すれすれのところだってありうる。

関係性的というのは,相互の関係性からもたらされるものという意味だ。たとえば,好意の互恵性,ということがあるので,相手が自分に好意を持っていれば,こちらも好意を懐きやすい,当然,「嫌い」も互恵性がある。また自分の所属集団に好意を抱きがちなので,身びいきや愛国心も,自分の所属する集団への好意から敵対相手への「嫌い」が増すことになる。

価値という部分について,例えば,人が人を殴るシーンを目撃した時,「嫌悪」が起きるのは,自分の中にもそういう暴力性があるからだ,という説明がされ,この場合がもっとも,もっともらしく聞こえる。

確かにそういう部分も少なくないかもしれないが,それは価値に関わっているからだと僕は考える。暴力が好きな人もいるかもしれないが,基本は人は暴力を嫌う。これは,扁桃体の反応でもある気がするが,それよりは,その人が生きていくうちに,コアにしている倫理(人としての生き方)に関わるのだと思っている。恐らくは,多くは親や環境から身に着けてきた,その意味ではコヒーレントな(一貫した)何か,なのだ。それを軸と呼んでしまうと,身も蓋もない。

ただ,最近の研究では,「好き」と「嫌い」は別のもので,「好き」の上昇は,「嫌い」を減少させない,という。「好き」でもあるし「嫌い」でもあるという両価性,アンビヴァレンツもあり得る,ということなのだが,言葉に,
「好悪」はあるが「好嫌」はない。言葉の世界では,「好き」の反対は,「悪む」なのだ。

ちょうどいま『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』(レイチェル・ハーツ)を読んでいる。その感想を含めて,次はもう少し展開してみたい。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#好き
#嫌い
#価値
#あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか
#レイチェル・ハーツ
posted by Toshi at 08:31
"「嫌い」について"へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: