2013年01月27日

「好き」についてあるいは「好き」の効果について


年甲斐もない,と言われそうだが,また「好き」のことを考えてみたい。

「好き」については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11041914.html

で,「恋」「愛」「好」の関係について触れたが,もう少し別の角度から考えてみたい。

どうしたら好きになるか,については,好意の互恵性だの,相手の自己開示だの,接触頻度だのとあるが,一瞬の胸の鼓動の高まりのような(と書きつつ,もう心臓にもカビが生えて,感受性も鈍ってしまっているので,はるかな昔のことを思い出すしかないが),その一瞬というのは何なのだろう(と,書けること自体が,そういう心理状態からは距離がある証拠か?)。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11030743.html

で,結局自分を好きになっているのだ,と考えたが,それはそれとしてあるかもしれないが,そこだけには納まらないものがある気がしてならない。

好きという感じを表現すると,

同じ空気を吸いたい
同じステージに居たい
同じ場所を占めたい
同じ時間を生きたい

といった感じのような気がするが,もっと踏み込むと,人は生きている限り,ひとつの場を占めている。その「場」には,時間と空間はあるが,ハイパーなので,一定の場所に固定されているわけではない。もちろんその人がそこにいるという物理的な場だけを意味しているのではなく,その時代の,その社会の,大袈裟に言うと,この地球に,一定の空間(時空という方がぴったりする)を占めている。その「場」を共有したい,という思いなのかもしれない。

あるいは,共有することで,その「場」がもっと豊かになる,もっと楽しくなる,もっとわくわくする等々の期待が膨らむのかもしれない。

どちらか一方に倣うとか,どちらかに一方に従うとか,どちらかと一体になるといことではない。それでは,誰かの人生と一緒になることであり,自分人生の「場」を捨てることだ。そういうのは,僕のイメージしているものには入らない。それなら,二つの「場」がぶつかり合い,丁々発止するわくわく感はない。それぞれがそれぞれの「場」を,自分の努力と好奇心と興味で膨らませ続ける。そうすることが,二つの場が,出会うたびに,新しい出会いの昂奮を生み出す。そこから,何かが生まれるかもしれない。そうやって成長する「場」同士が,ぶつかり合う,機会がほしいのかもしれない。

それって,協同作業とよく似ているし,ブレインストーミングの自由なキャッチボールにも似ている。本来,コーチングも,そういう場であれば,コーチもクライアントも,ともに,そのコーチングという場での出会いが,数倍数十倍わくわくするものになるはずだ,と思う。そこで生まれるのは,是非,可否の二者択一ではない,足して二で割るような妥協でもない。それぞれの人生の「場」が面からぶつかりあうことで,生まれてくる新たな別の何かだ。でなければ,ブレインストーミングをする意味はない。

だから,どちらの場も,それ自体で生き生きし続けなくてはならない。そして,出会う時,その二つの場のぶつかり合い,あるいはダンスの中から,全く別の場を,それぞれが掴み取る,そういう出会いであり,そういう機会が,両者を成長させ,それぞれの「場」がさらに豊かになっていく。

それが勘違い,思い込み,錯覚ということを後で気づくことはある。同じ場として成立しないことに気づくからだ。でも,それも,ひとつの出会いであり,それぞれの場が豊かになって行くプロセスと思えば,無駄でも消耗でもない。何せ,それも,おのれが生きていく場の,消長なのだ。いずれ,その場はなくなる。なくなっても,いつまでもそこに,名残りのような隙間を残す,隙間があるような思いを残す,そんな場でありたい。そういう生き方でありたい,と思う。そのために,何かができるのではないか,そういう出会いへのわくわくする期待なのではないか,と思う。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#場
#出会い
#好き
#生き方
posted by Toshi at 07:27
"「好き」についてあるいは「好き」の効果について"へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: