2013年02月20日

自分の芯について


ずいぶん昔,ランボーの『地獄の季節』という岩波文庫の薄いのを読んではメモし,メモしては読んでいた記憶があるが,いつの間にか紛失してしまった。改めて買ったが,もう昔の熱は冷めていた。

それが,大量の書籍と日記を処分した時に,ポロリと出てきた。すべての記録とか日記とか文書類を廃棄してしまったので,いまは,かつて自分の書いたものは,この文庫に走り書きした,詩片らしきものしか残っていない。

そして,最近思うのだが,この世の中の基準では,その人が,何を考え(てき)たかではなく,何を(果)したかにのみ意味があるのではないか。だから行動に移されなかった思いや,言葉にされなかった思い,活字にならなかった文章は,なかったも同然なのだ,と。まあ,確かに,その通りだ。一篇も書かぬ詩人は,詩人ではない。

そうであるかもしれない。だが,だ。結局考えて,考えて,考え抜いた末,何もしないという決心も,ある,とこの頃は思う。あるいは,書き込んで,書き込んで,書き込んでも,結局ものにならないものも,あるいはものにしないと決めることも,あるかもしれない。その時,人生には,人の眼から見れば,何の軌跡も残さぬことになるだろう。そうかもしれぬ。しかしそれでも,いいのではないか。そう思うようになった。

何度も同じ引用で(口癖のようになってしまったので)恐縮だがガイアシンフォニー第三番で,

人生とは,なにかを計画している時に起こってしまう別の出来事のことをいう。結果が最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまったかけがえのないその時間である。

とある。それが「過ごしてしまったかけがえのない時間」なのかどうかはわからない。しかし,そこで思い詰め,考え込んだ時間があったことだけは確かだ。その圧縮された時間感覚だけが,いまの自分の中にある。確かに,底流としてあるし,土台としてある,そんな気がする。

「思い群ならず」という,杜甫の言葉がある。李白をほめたたえた詩の中で,「白や詩敵無し,飄然として思い群ならず」とある。ここでそれを言うのは,負け惜しみというか,強がりかもしれない。しかし,一人一人が,自分の言葉を口にしても,雑踏の中では,ひとまとまりの雑音となってしまう。それと同じで,ずっと視点を遠ざければ,同じことだ。

だからと言って,声高の声に同調したり,流行っている者に乗ったり,誰かのお先棒を担ぐ,というのは嫌だ,誰かの真似や,誰かの弟子や,誰かの後塵を拝するのはもっと嫌だ,とまあそんなことを言っているから,所詮我流からしか抜け出せない。我流でも,宮本武蔵までいけば,一派が立つ。そこまでの気概も器量もない。

自分の思いに拘泥していると言えば,言えるのかもしれない。しかし,そこにコアがあるのなら,それを簡単に手放していいはずはない。まあ,一種の開き直りに近い。

フロムは,こういう。

私たちは自分自身を「信じる」。私たちは,自分のなかに,ひとつの自己,いわば芯のようなものがあることを確信する。境遇がどんなに変わろうとも,また意見や感情が変わろうとも,その芯は生涯を通じて消えることなく,変わることもない。この芯こそが,「私」という言葉の背後にある現実であり,「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。

自分自身を「信じている」者だけが,他人に対して誠実になれる。なぜなら,自分に信念をもっている者だけが,「自分は将来も現在と同じだろう,したがって自分が予想しているとおりに感じ,行動するだろう」という確信をもてるからだ。自分自身に対する信念は,他人にたいして約束ができるための必須条件である。

他人を「信じる」ことのもうひとつの意味は,他人の可能性を「信じる」ことである。

このコアがあるからこそ,世界に自分を開ける。ブーバーは言う。

他の人間そのものに自己を向け,自らを開くものののみが,自己の中に世界を受けとる。

いまは,だから,我執というシャッターを開いて,外に向かって,おのれを全開するときなのだろう。それがどういうコアであろうと,それを信ずることで人を信じ,世界を信ずる。

参考文献;
マルティン・ブーバー『我と汝・対話』(岩波文庫)
エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 06:08
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