2013年03月14日

ファウンデーション強化は厚化粧?


コーチングでファウンデーションを言い立てることに疑問を感じている。僕のような素人に毛の生えたようなものが何を言っても,蟷螂の斧だろうが,

・ファウンデーションが整っているということがなぜコーチングに意味があるのか?
・コーチとしてのリアル世界の充実がコーチングの世界を強化することになるのか?
・ファウンデーションの整備がコーチングの技量アップにつながるのか?

という疑義を感じている。

これを考えることは,コーチングとは何かではなく,そもそもコーチとは何かを考えることになると思っている。あるいは,プロフェッショナルとはどういうことか,ということを考えることだ。プロフェッショナルについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11089626.html

で触れたことがある。

あらかじめ結論を出すなら,通常どのプロフェッショナルも,ファウンデーションなどということを問題にしない。コンサルタントが,自分のファウンデーションなどを言っているようでは,未熟者である。研修講師が,おのれの技量とレパートリーの拡充より前に,ファウンデーションを言っていたら,一生仕事は来ない。起業家にとって新製品を出すことが先決であって,ファウンデーションなどは後からついてくる。新製品がなくてファウンデーションだけが整っているのを起業家とは呼ぶまい。貧乏であろうとへたっていようと,あがり症であろうと,内気であろうと,役者は金持ちを演じ元気者を表現できなくてはならない(あえて類似を探ると,精神分析の教育分析で,自分の無意識の欲求やコンプレックスを意識化しておくプロセスだろう)。

自分の事情や条件などを云々しているのは,プロフェッショナルとして,まず失格である。何より心構えとしてプロではない。

前にフロイトの話を出したが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11099351.html

管見によれば,こんなことを言っているのは,コーチ業だけである。もちろん,紺屋の白袴,医者の不養生と揶揄する言葉はあるが,医者に医術より医者のファウンデーションなどを言うやつはいない。まず医術のアップをしろよ,と言われるのが落ちだ。

ファウンデーションについて言っているのは,主にCTP系なので,テキスト(僕の学んだ2004年当時のもの)から主張を拾うところから始める。次のように言っている。

豊かで価値のある人生を過ごしているひとは,一個人としての力強い基盤を持っています。強固な基盤を持っていれば,私の基盤は,こたちは,日々起こる些末な問題にエネルギーを奪われることなく,もっと簡単に目標を達成できるようになります。

この基盤は,「高層ビルの基礎工事」や「大きな樹木の根っこ」にたとえられます。高いビルを建てる際,その地下には深く強固な基盤を必要とします。また,大きくがっちりした枝が生い茂る樹木には,太く頑丈な根が伸びています。人間も,「高層ビル」や「大きな樹木」と同じです。より大きな目標を持ち,豊かな人生を実現していくには,より強い個人的な基盤が必要です。今どのような状態かであるかをつかみ,それを強化することをサポートする必要があります。クライアントが豊かで,価値のある人生を送るためには,この基盤を強化することが不可欠だからです。

そして,クライアントの基盤強化のためには,コーチ自身がそれを強化している必要がある云々。

なんだか,これって変だよねえ。ずいぶんもっともらしいが,頭でっかちな感じがする。人生と格闘してきた人は,決して言わない言い方だ。自己基盤は,根っこ?それはいいが,「根っこがあったら,動けねえだろう」と茶々を入れたくなる。

コーチが自己基盤を知っていて悪くもないし,自分の自己基盤を強化するものいい。しかしそれとクライアントのそれとは関係ない。それを考えるのも,するのもクライアントではないか。よほどクライアントを信じられないに違いない。

あえて挑発的な言い方をするなら,ファウンデーションが整い,自己基盤が強化されたら,コーチングがうまくなるのか,という根本的な疑問は,ますます強まるばかりだ。はっきり言って,まず関係はない。その前に,コーチとしての技量を磨けよ!と言いたくないか?

僕は基本,ファウンデーションも,自己基盤も,コーチの自己満足の問題で,コーチングの巧拙に何の関係もないと思っている。「何の関係もない」とは,少し言い過ぎかもしれないが,もう何十年も生きてきた,自分の生き方を改めて偽ってどうするのか。あるいはコーチになったからと言って,おのれの生活基盤と自己基盤を強化し直してどうするのか。それは偽りとまでは言わないまでも,厚化粧ではないのか。

コーチになったからと言って,ありのままの自分以外に,何を見せようというのか。いまさら自己基盤を整えるというような生き方って,それまで一体どんな生き方をしてきたのだ。

かつて江藤淳が,新人の中上健次に,「年収の一年分を貯蓄しろ」と助言していたのを読んだ記憶がある。それに中上がどう返事したかは知らないが,年収分の貯蓄があることで,小説家としての技量や作品力が上がるとは思えない。

どうも勘違いしているとしか思えない。

すべては,コーチングの技量(ここで技量というのは,スキルではない。コーチとしての覚悟,コーチとしてのありようを指す。いずれ触れる)の問題であって,リアル世界のコーチ何某がどんな生き方をしているかなどは,その人のコーチングにとっては,二の次,三の次なのではないのか。

コーチ自身の人間としての器量,人品骨柄の問題なら,いまさら取り繕ったところで何が変わるのか。そんな付け焼刃で,どの面下げて,クライアントに向き合おうとするのか。

コーチングとは生きざまというのは,いまのおのれの生き方が問われているのであって,コーチになったからとか,コーチであるかどうかということから問われているのではない。

生きてしまった今の自分をすべて認めることができない,そのあほ臭い虚栄心の方が問題だ。コーチが偉大な人だからコーチングを受けるわけではない。また,コーチが人生で成功しているからコーチングを受けるわけでもない。コーチが大学教授だから,コーチが有名人だから,というのは,クライアントにとって,コーチングを受ける動機づけとしてはあり得る。しかしそこまでだ。有名人が,コーチングが上手いとは限らない。リアル世界のコーチの生き方とコーチングの場におけるコーチのありようとは,イコールではない。そこに勘違いがあるように思えてならない。

まずは,ありのままの自分をさらけ出すこと。それが出発点だ。

おのれがまっとうに生きてこなかったと思っているような人間が,あるいはまっとうと言い切れないような人間が,コーチになることでまっとうになるということは,コーチングを自分の生き方の出汁にしているとしか思えない。

コーチになって,まっとうになる?クライアントがそこにはいないではないか。クライアントは一瞬で,その化けの皮を剥ぐに違いない。

高座で寝てしまった志生が愛されたのは,その生き方ではなく,その高座で見せる存在感だ。取り繕った姿ではなく,そのまま落語になっているそのありようだ。リアル世界で,志生がどんな生き方をしているかは,貧乏だろうが,飲んだくれだろうが,落語を聞きに来たものには関係ない。落語として,高座で創り出してくれる世界だけが問題だ。

イチローが敬愛されるのは,好きでやっている野球に,楽しくないと言いながら,はつらつと,球場で,第一級の活躍を見せ続けている姿だ。野球場の外は関係ない。どんなに努力しているとか,どんな修練を積んでいるとか,夫婦仲がいいとか悪いとか,どれだけ豪勢な暮らしをしているか等々は,関係ない。場は,野球場でのパフォーマンスがすべてだ。

コーチにとっては,その場は,クライアントと向き合う,コーチングの場そのものでしかない。

いまの自分をありのまま,さらけ出して,開示できないコーチは,自分の生き方をどこかで恥じている。どこかで糊塗したがっている。そんなコーチはどれだけファウンデーションを整え,名声をはくしても,僕はコーチとして認めないだろう。

王陽明は言う。

重量や多寡を比較する心をとり除き,各人が事故にあるかぎりの力量や精神を尽くして,ひたすらこの心が天理に純一となるように功夫(じっせん)につとめたならすべてのひとがおのずから『箇箇円成』し,大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足していることになる。

この身よりほかはないという覚悟の問題なのだ。そしてクライアントにも,「大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足していることになる」と信ずればこそ,真摯に向き合う。


参考文献;
王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 06:32
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