2013年04月02日

リソースの最大化


確か井原くみ子コーチは,クライアントのリソースを最大化するのがコーチの役割とおっしゃっておられた気がする。では,リソースを最大化するというのはどういうことなのか。

結論から言えば,リソースの最大化するには,学ぶことだと考える。知ること,と言い替えてもいい。学ぶこと,知ることで,自分の可能性を引き出す。ただ,神田橋條治さんが言っていたように,鵜は鵜。鵜は鷹にはならない。大事なのは,おのれの遺伝子(の可能性)を開花させることだ。

人には,「己の為にする」(自己の向上を志す)心があってこそ,はじめて「己に克つ」ことができ,己に克つことができるからこそ,己を成すことができる。そのために学ぶ。それがリソースを引き出し,顕在化することのはずだ。

王陽明は言う。

心がなければ身もないし,身がなければ心もない。ただそれが実体として存在している面から身といい,その全体を主催している面からいうと心といい,心が発動しているその働きについて意といい,意の働きが霊明である面を知といい,意の働きの及んだところを物(こと)というだけであって,もとはすべて一つのものなのだ。

そして一人の胸の内には,誰しもそれぞれに聖人が宿っている。ただ自分でそう信じきれないために,みんなそれを自らの手で,葬ってしまっている。

見性成仏ともいう。自分本来の仏性を生かして,おのれを完成する。

驢に騎って驢を覓(もと)める。おのれの仏性に気づかないというのも同じ意味だ。

もちろん個人差はある。こう王陽明は付け加える。

力量や気魄に個人差があるのは,あるのが当たり前ではないか。もし重量や多寡を比較する心を取り除き,各人が自己にあるかぎりの力量や精神を尽くして,ひたすらこの心が天理に純一となるように功夫(じっせん)につとめたなら,すべてのひとがおのずから『箇箇円成』し,大なるは大を成し,小なるは小を成し,外に求めずとも,いっさいが自己に具足していることになる。

学び方の,王道は一つ。王陽明は言う。

(『中庸』の)「博く学び,審らかに問い,慎んで思い,明らかに弁じ,篤く行う」(学・問・思・弁・行)は,全て学を為すときの根柢となるものであり,学びはするが行わぬということはありえないのです。たとえば,孝を学ぶといえば,必ず骨身を惜しまず孝養を尽くし,みずから孝の道を実践してこそはじめて学んだといえるのであり,徒に抽象論を唱えてみても,決して孝を学んだということはいえない。

「篤く行う」の「篤」とは,篤厚の意で,行う以上は,その行いを篤実にし,休むことなく続けるということです。思うに,学ぶとすれば疑問がないわけにいかず,そこで問いが生ずる。この問うことがそのまま学ぶこと,そして行うことでもあるのです。また,その疑問があることから,思いが生ずるのですが,此の思うこともまたそのまま学ぶこと,そして行うことである。さらにその疑問は,弁ずる(明察する)ことにもつながり,その弁じ明らかにすることもまたそのまま学ぶこと,そして行うことに他なりません。弁ずること明らかに,思うこと慎み深く,問うては審らかに,学んでは能くし,その上またそれを休むことなく続ける。それを「篤く行う」というのであって,ひとまず学問思弁して,そののちにはじめて行いを施すというのでは決してないのです。

その事を能くしようと求める上から,学といい,その惑いを解こうと求める上から問といい,その理に通じようと求める上から思といい,その考察を精にしようと求める上から弁といい,その実際を履行しようと求める上から,行という。

しかし,人のことをただ素直に聞けばいいというのではない。

そもそも学は,自己の心に実得することを第一義とします。もし自分の心におしあててみて誤りだと思ったら,たとえ孔子の言であろうとも,それを是としない。まして孔子にも及ばぬものの言についてはなおさらです。一方,自分の心におしあてて正しいと思ったら,たとえそれが凡庸の人の言であったとしても,それによってそれを非としたりはしない。

天を怨まず,人を咎めず,ただ身近なことを学んで道に達するのみ。ただし,「心が法華に振り回されない」。つまり,既成概念や時流や権威にこだわらず,自由に考える必要がある。

その学び方には,そのレベルに応じて,三種類ある。

「生知安行」(生まれながらに知り,安んじて行う)の聖人,
「学知利行」(学んで知り,利(つと)めて行う人)の賢人,
「困知勉行」(困(くるし)んで知り,勉めて行う)の普通の人

天命と一体の聖人,天に事える賢人に対して,天命が何たるかを知らないから,「天命を俟つ」(人事を尽くして天命を俟つ)以外ない。「殀(わかじに)か寿(ながいき)を全うするかによってその心を弐(たが)えず,身を修めて天命を俟つ」。だから,ひとが一たびするとすれば,おのれは,百たびし,ひとが十たびすれば,おのれは,千たびする,必要がある。

これを絶対的な格差と考える必要はない。自分の中のステップだ。もともと自分の中にある聖人性に到達するためのマイルストーンと考えることができる。

どうもコーチングでもセラピーでも家元制度のように,外の説をそのまま敷衍している人ばかりで,正直オリジナリティを感じない。守破離の,破と離に達している人が本当に少ない。それは,学びではなく,まねびのままにある,ということだ。

むしろ,嬉々としてライセンスをもらうことを喜んでいるふうにも見える。奴隷根性だ。いい加減,守破離の守を破り,おのれの仏性を顕現すべきではないのか。そうやって,外に答えを探している限り,いつまでたっても,自分は見つからない。自分の中の聖人はあらわれるチャンスがないまま潰えていく。それで,クライアントの自分を見つけるのを手伝えるのか?と疑問がわく。

大事なことは,自分でしかできないことをすることだ。

それは自分でなくても言えることではないか
それは自分でなくても伝えられることではないか
それは自分でなくても教えられることではないか
それは自分でなくても手渡せるものではないか

自分でなくてもできることをするのは人生の無駄遣いになる。その自分しかできないことを見つけるのが,リソースを最大化する真の狙いだろう。

その上で,自分にしかできない形で表現する。二番煎じでも,誰かの物まねでも,受け売りでも,翻訳でもなく,

まぎれもなく,いまここで,
自分以外のものには表せない表現スタイルと様式で,
どこにもない,自分だけのパフォーマンスとして,
この世に初めて現出させる,

そこで初めて自分のリソースが最大化したと言えるのではないか。

天下のすべての人に信じられるよりは,むしろただひとりでも真に信じてくれる人がいたほうがいい。道はもとより自在であり,学も自在なのだから,天かすべての人に信じられても別に多すぎないと同時に,仮に一人にしか信じてもらえないとしても,決して少ないとは言えない。

そこにコーチがいてほしい。

その点から,蛇足ながら付け加えれば,コーチングの目的は,

クライアントの夢を実現したり,
クライアントの目標を達成させたり,
クライアントのビジョンをかなえることなどではない。

それは本末転倒だ。そうではない。コーチングは,クライアントがクライアントとしてもっている,リソースを最大限に顕在化し,飛び出させることだ。結果として,夢が叶ったりするかもしれないが,それは末梢のことだ。クライアント自身の遺伝子の可能性が開花し尽くすことこそが,コーチの果たすべき役割だ。


参考文献;
王陽明『伝習禄』(溝口雄三訳 中公クラシックス)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 04:51
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