2013年04月13日

生きざまを見る


先日,報美社代表として展覧会のプロデュースをし,各画廊と提携して運営している竹山貴さんの「第1回 アートの世界から学ぶ本当の価値の見つけ方」に参加した。

正直のところ,アートには無縁の朴念仁なので,ただ関心と好奇心で参加させていただいた。

あまり一般には馴染みの薄いアートの世界ですが,「アートの世界は決して特別なものではなく,むしろどの業界でも通用する普遍的な要素が多い」と主張する方がいます。竹山貴氏です。彼はアートの世界をより多くの方に広げようとしています。それは単純に作家の作品を世に送り出す,という価値観だけに止まらずより深い信念により成り立っています。
「アートの世界にいると,本当に価値あるものを見いだす嗅覚が身に付く」
竹山氏はそう言います。混沌とするビジネス社会に生きる我々にとって,この感覚は実に興味深いところです。

という案内に誘われたのもあるが,何度かお目にかかっている時の,発散されるエネルギーに興味を持ったというのが正直なところだ。

正直に言うと,僕は,その人の過去にはほとんど興味がない。行きがかり上必要があって聞くことはあっても,いまのその人にのみ興味がある。いまのその人のあり方が,過去の見え方を変える。「いま」だけで十分と思っている。

苦労をしないと今がないという言い方もあるが,いまがあるから,その苦労が意味ありげに見えるだけなのかもしれない。肝心なのは,いまだ。だから,苦節何年にも意味はない。一生苦節のままに終わるかもしれない。その時過去は何年たっても「苦労の甲斐」にはならない。しかし,それでも,僕はすべての人生には意味があると思っている。野垂れ死にしようと,栄耀栄華にまみれようと,一生は一生。すべての人生に意味があり,全ての人生に物語がある。

で,いま,竹山さんがやっていることは,作家のプロデュースと作家の育成。作家,その作品,あるいはその作家の未来への道筋を商品と見立てると,それを仕入れて売れるか売れないか,化けるか化けないか,を見極めるのが,どんな商売人にとってもそうだが,竹山さんの一番の肝になる。ただ,

「アートの世界は,顧客のつかない水商売」

つまりは,ロングテールなどということは,有名になってからの話ということだ。いや違うか。一作一作勝負なのだから,その作品がすべてで,ある意味一発勝負,名前で売れるのは夢のまた夢ということだ。

ではどう,それを見極めるのか。竹山さんは三つ挙げた。

第一は,作品自体を見て,そこにその人がいるかどうか。

「そこに足跡が残っている」「その人自身の生きざま,考え方が残っている」という言い方をされた。僕は,その人の独自性,あるいはオリジナリティだと思う。ほんのわずかかもしれないが,その人でなければ出せない何か,それをその人自身というか,その人の方法上の工夫というか,オリジナルな現実の切り取り方というか,掘り下げ方というか…。自覚していないが,原石のように光る,他にない何かをそこに表現できなければ,その人自身が原石であっても価値はほぼない。

生きざまというのは,生き方ではない。生き方というのは誰でもしている。気づかないが,それぞれ個性的に生きている。しかしそれはただ生きているだけで,のんべんだらり(かつて先輩にそう言われたことがあった)と生きているのでは,生きざまとは言わない。生きざまとは,おのれの生き方を意識しているのを言う。ただの呑兵衛でもいい。アル中でもいい。そう自分が自覚して生きているなら,ひと様に何を言われようと関係ない。それが生きざまだと,僕は考える。

ということは,自分の描くものに対して,何がしか自覚的に,自分を主張していなくてはならない。真似でも模倣でも,そこに方法を意識していると,おのれが出る。意識していない方法は,意識的に修正できない。それでは日曜画家と同じだ(いやいや,今日の素人画家は端倪すべからざるものがある。下手な玄人よりは自覚的に描いているかもしれない)。そこが見極めどころか,と素人なりに推測する。

第二は,その人としゃべっていて何かを感じるか,感じないか。

真面目に生きているか,世の中に何か訴えたいものがあるのか,本気の顔があるか。本気度を見ているということか。ここは,正直わからない。僕は,その人物から作品を論ずるのをあまり信じない。作家は,どんな作家も,その作品にないものは,意味がない。そこに描かれていなければ,それはないのだ。どんな立派な御託を並べても,それがその一枚に描ききれなければ,詩を書かない詩人と同じだ。

その意味で,どんなぐうたらで,話すとアホ丸出しでも,描いたものに仰天させられる,そういうギャップが好きなので,ここは,画商あるいはアートディレクターとしての男気あいは気概なのだと思って聞いていた。

作家は,本来顔を出してはいけないのかもしれない。なぜなら,美人というだけで,写真家でも書家でも画家でも,あるいは音楽家だとソリストは,それが与件になっていると聞くが,何十パーセントか付加価値(作品のではないが)が上がる。そういうのが嫌いなので,「へちゃもくれ」「ぐうたら」だと一層肩入れしたくなる判官贔屓の癖があるが。

第三は,負けず嫌いな人,反骨心のある人。

言ってみると,早々にくじけず,やり続けていける人でなくてはならない。なまじいの自信と自惚れがあるだけでは続かない。まあ,すぐに売れる人はまれかもしれない,何年も何年も,下積みを続けて,しかもおのれの夢をあきらめない人でなくてはならない。書き続けなくては,自分の中に何があるかに気づくものはない。何もないと気づいても,それでもそれを武器に続ける。そういう意味で,自分の絵を描きたいという初心にこだわり,続けていくだけの気概と自恃の念がある人ということになる。

だいたい自分を恃まぬものが芸術などに手を出すはずはない。ということは,ほとんど人嫌いか愛想が悪いのが相場(?)といっていいかもしれない。先入観だが,人との付き合いに時間を割くゆとりはないはずだ。人との交渉などほとんどしたいとも思わぬ。そういう人を食った,ふてぶてしさがなくては,やっていけるはずはない。そこに,市場や画廊と架け橋をする人が必要な所以だ。

大体,それが価値があるというのは,現実化されて初めて気づく。新商品開発も同じことだ。出てみて初めて,それがほしかったものであることに気づく。由紀さおりの「1969」も,プロデュースしたのは,ピンク・マルティーニだが,出されてみて初めて歌謡曲の目新しさを見直す。そう言えば,ビルボードで一位になったのは,坂本九の「上を向いて歩こう」ただ一曲だけだ。宇多田ヒカルの歌では本場アメリカでは凡百の歌に埋もれて光らなかった。存外宝は,自分たちの中にある。いまサブカルチャーが注目されているが,ほとんどがガラクタかもしれないが,サブのサブに,サブのサブのサブに,気づかず宝が眠っているかもしれない。

売れるかどうかに,昔はあまり執着しなかったが(というより売れてるものを鼻先でせせら笑う癖があったというか,いまもあるが),「アート業界はアカデミズムが強い」という竹山さんの言葉に,本屋大賞を思い出した。直木賞作品では売れぬ,という書店側の危機感で,ベストセラーを生み出す仕掛けを作った。それが百年後残るものか,という疑問はあるが,ここに芸術のジレンマがある。売れなければ市場は縮小する。しかし売れるものは本物とは限らない。

竹山さんは,ご自分の姿勢を55対45の姿勢を言われたのは,いわばアートを商売とするものの,気概だろう。そういう気概のある人がいなければ,しょうもない,いま売れるだけの作品が氾濫する。一方で,百年,二百年という長期の視野がなければならないのだろう。

かつて浮世絵は,消耗品であった。日本から輸出された陶器の包装紙として無造作に包まれていた浮世絵に,ヨーロッパ人が驚愕し価値を見出し,多大な影響を受けた,と聞く。だから消耗品だから価値がないとはいえまい。必要なのは,視野の広さだろう。自分で「枠をつくらない」「決めつけない」という竹山さんの姿勢は,その意味と受け止めた。

そう考えると,見込みのはっきりしない,まあ売れるか売れないかが丁半博打に似た賭けでしかないなら,残るのは,作家そのものの生きざまを見届けるのが正しい指標なのかもしれない。いわば,本人の覚悟を見極める,ということなのだろう。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 06:28
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