2013年04月16日

「描く・書く」ということについて


ルーベンス展~栄光のアントワープ工房と原点のイタリアを観た。

http://rubens2013.jp/index.html

「17世紀バロック時代のヨーロッパに名声をとどろかせた画家ペーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)。8年間のイタリア滞在を終えてアントワープに帰郷したルーベンスは,大規模な工房を組織して,数々の傑作を生み出しました。本展では,彼のイタリア時代の作品を紹介するとともに,アントワープ工房の活動に焦点を当てて,彼自身の手になる卓越した作品を軸に,工房作品,専門画家たちとの共同制作作品,彼が直接指導して制作させた版画を展示します。また,彼の工房で活動した画家たちの,独立した画家としての作品を紹介し,アントワープ画派の豊かな芸術的展開を探ります。」

と案内にはある。正直に言って,ルーベンスを観て全く感動もしなければ,知的興奮も覚えなかった。それは自分がぼんくらだというせいもある。しかし,ここには,絵の革新性はない。工房として,「絵」を大量生産する,プロダクト・システムとしての意味しかくみ取れない。

「自分とみわけのつかないレベル」の,つまり自分が描いたのと同じくらいの技量の弟子を揃えて,自分と遜色ない作品を世に出した。しかし弟子は結局ルーベンス止まりで,それを超えられない。是非はともかく,そういうシステムを作ったことに,ルーベンスの技があった,とは認めていい。

ルーベンスの表現手法のオリジナリティについて云々する技量はないが,その絵そのもののインパクトを語る資格は,僕にもあるだろう。

改めて,絵を描く,と言うことはどういうことか,写真を撮るでもいいし,小説を書くでもいい。その時,作家は,対象とどう向き合うのか。

写真のように,リアル世界と作家が地続きにいる,という場合もある。肖像画家や風景画家のように,対象と直接向き合う場合もある。しかし自分のイメージだけと向き合う,脳内だけで向きあう場合もある。

G・ジュネットは,文学者について,こう言っている。

われわれが,語りのパースペクティブと隠喩的に呼んでいるものは,つまるところ,ある制限的な『視点』を選択すること(あるいはしないこと)から生ずる,情報の第二の制禦の仕方である」(『物語のディスクール』)。

そして,こう続ける。

物語言説はまた,もはや一様な選別によるのではなく,その物語内容のしかじかの引き受け手(一人の作中人物もしくは作中人物のグループ)の認知能力に応じて,自己の伝える情報を制禦することをも選びうる。そして物語言説は,そうした引き受け手の,一般には「視像」とか「視点」と呼ばれるものを採用する-または採用するふりをする―ことになるのと同時に,その物語内容に対して(空間的隠喩をさらにもう一度用いるなら)しかじかのパースペクティブを採るように思われるのである。

微妙に違うが,R・バルトはこう言っている。

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。 (『S/Z』)

視点が先か,窓枠つまり,フレームが先かということだが,些末のようだが,フレームを取る。自分のフレームを決めることで,おのずと視点が決まる。視点で決まるのは視界だが,どういうフレームを取るかでも,視界は全く変わり,その瞬間視点が動く。たとえば,高い位置から俯瞰しているとしても,フレームをズームアップすれば,視点は近接しているのと同じになる。言ってみれば,ジュネットの言うのは,どんな(制限的な)視点から語りの舞台が見られているかによって,その見え方(視界)は異なるという当たり前の指摘にすぎない。だが,バルトが指摘するように,視界を決めるのは,「制限的な『視点』」ではなく,窓枠(あるいはファインダーのフレームに喩えられようか)だ。窓枠を決めるのは,それに向き合う語り手にほかならない。

この場合の語り手は,作家とイコールではない(厳密に言うと,書き手も区別しなくてはいけないが,ここでは省く)。その作品に向き合っている仮定的視点を託した人(とは限らず,猫だったりすることもある)であり,しかも,また作家その人でもない。作家と限りなく近いと目される,私小説でも,自分を語る語り手を設定している。自分のことを書いている日記でも,語り手を設定しない限り,自分を語れない。時に,シニカルに,時に能天気に,語り手を設定することで,自分の描き方は変わる。

で,その語り手が,各対象にどう向き合うかによって,窓枠が決まり,パースペクティブが決まる。もしもその窓枠にも向き合うなら,その窓枠を語る別の窓枠が必要になる。視点は,その結果にすぎない。

ミシェル・フーコーが,『言葉と物』で指摘した,ベラスケスの「侍女たち」という絵全体が見つめている絵画空間の外の,国王夫妻の立つ一点のもつ三つの機能,

描かれている瞬間のモデルの視線,
場面を見つめている観賞者の視線,
そしてその絵(表象されている絵ではなく,われわれのまえにあって,われわれがそれについて語っているところの絵)を創作している瞬間の画家の視線

の,絵「を創作している瞬間の画家」と呼んだものこそ,実は画家ベラスケスの設定した,語られる(描かれる)べきものと向き合う「語り手」(ここでは仮設の画家)にほかならない。

現実に画家がそう向き合ったかどうかは,どうでもよい。問題は,どういうスタンスで語られる(描かれる)ものと向き合うか,だ。そのスタンスの取り方によって,語られる(描かれる)もの(の窓枠)が決まる。それが,作家にしつらえられた,パースペクティブ(視野)にほかならない。読み手(観賞者)は,そのパースペクティブをなぞって,語り手の向き合ったものに向き合うことになる。

だから,文学なら,パースペクティブが語る視点を決める。絵なら,パースペクティブが描かれる視点を決める。写真なら,パースペクティブが撮る視点を決める。

パースペクティブを決めるのは,語り手(仮定した画家,写真家)のパースペクティブにほかならない。語り手がそれにどう向き合うかで,つまりどういうパースペクティブを取るかで語る視点は決まるような気がする。ジュネットは逆立ちしているのである。むろん,語りの視点が,語り手のパースペクティブを揺るがすことがあるかもしれない。しかし,ジュネットの言う,「制限的な『視点』」を選択すること(しないこと)が見え方(パースペクティブ)を変えるのではなく,取ったパースペクティブが「制限的『視点』」を選択する。

たとえば,「書きたいこと」とどう向き合う(パースペクティブを決める)かとは,小説の素材となるものを,どう文学作品として書くか,ということではない。「対象化する」とは,そのことではない

現実の対象を作品の対象として向き合うとき,作品の虚構の空間が広がる。現実に向き合う作家と,虚構の対象と向き合う語り手との挟間こそ,虚実の皮膜に他ならない。

フーコーは,別のところでこう語っている。

周知のように,ある語り手による物語というかたちをとった小説では,一人称代名詞,直接法現在,時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも,彼が現に書いている時点にも,彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは,もうひとつの自己へ―そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか,その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ,と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも,虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで,―この分割と距離のなかで作用するのです。(『作者とは何か?』)

ここで言うところの「もうひとつの自己」といっているものであり,その語り手を立てた時,世界がその前に広がる。語り手を立てなければ,文学作品としての世界は広がらない。そこに,発話者(私という立て方であったり,何某という形だったりする)を設定することで,視界が制限されてくる。ジュネットの言う,「制限」とはこのことだ。しかし,その前に,語り手が自分の前のパースペクティブを広げなければ,発話者自体が存在しえない。対象化するとは,この語り手が目の前に見える世界を眺めること,このことに他ならない。虚実皮膜とは,「現実の作家」と「虚構の発話者」(語り手の向き合っているもの)との間の「距離」そのものにほかならない。

ところで,ベラスケスの「侍女たち」の構図(語るべきもの)に向き合っているのが「語り手」(仮設の画家)だとすれば,それ(語り手の向き合うもの)に向き合うことで初めて「書き手」(描き手)となる(語り手は書き手なしでありえるが,語り手なしに書き手はありえない)。もしその構図が架空のものならば,それに仮設的に向き合う語り手に向き合う書き手は,限りなく語り手に近づく。逆にこの構図が現実のもので,それに向き合っているのが画家(あるいは作家)自身とすれば,書き手は現実の画家(作家)に限りなく近づく。書き手は,この「可変的でありうる」距離(フーコー氏の言う「もうひとつの自己」)そのものとしてある。しかし裏を返せば,書き手が可変的なのは,語り手(「フーコーの言う「虚構の発話者」に向き合っているもの)と作家の距離が可変的だからにほかならない。

語り手が世界の前に立った時,その一瞬のときに,ありもしない現在過去未来が集約され,ひとつのパースペクティブが顕われる。語り手みずからの向き合う視線によって,初めて語り手の前に,語られるべき一瞬が収斂する。その語り手に向き合う(語る)語り手があれば,その語り手は語られるものへと変じていく。それは,語り手のいるときとところが,現実の「作家」と語り手の語り出すものとの間にあることを意味する。

語り手は,現実の「作家」の「私」と語られる作家自身の「私」(「私は……」と語り出した瞬間,作家から剥離していく)との間,現実の「作家」の「私」と語られる語り手自身の「私」(「私は……」と語り出した瞬間,語り手自身から乖離していく)との間,現実の「作家」の「私」と語られる語り手の立てた一人称の「私」(あるいは誰其。巫女の神語りと同様,語られる「私」は演ずる「私」でしかない)との間,語られるものを語るものを語るものを語る……と語るものをどこまで後退させても,少し比喩的に言えば,アキレスの前に延びる亀との距たりのように,決して現実の「作家」には到達できない無限分割される距たり,つまり,現実の「作家」と《語られること》との間には,語り手の立ちうる,幾層にも亙る無限のときが懸隔となっている。それは,語り手に向き合う書き手の位置もまた,それにつれて変わるということである。

だからこそ,語り手の立て方で,そこに開ける虚構空間,物語世界の見え方が変わる。そのことをどれだけ自覚的に書いているかで,その作家の文学者としての自律性が問われる。小説世界(絵画世界)が当然あるものとして書き(描き)始めるものと,その世界そのものを自分が創り出しているという自覚のあるものとでは,まったく雲泥の差がある。芸術空間とは,そういうものだと信じている。

しかし,ルーベンスの中には,作品と作家のこの幾層もの豊かな世界よりは,作品と現実世界との間,商品としての売れる絵に関わる,プロダクトを生み出す工場主しか見いだせなかった。そして,それを僕は否定しない。ルーベンスは,そういう作品=プロダクツを創ることに自覚的であっただけのことだ。それはそれで,ひとつの生き方なのだから。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 04:29
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