2013年06月27日

語りの力とは…


『石丸幹二の語りで聴く  チャイコフスキー「くるみ割り人形」(映像つき)』を聴いてきた。

https://www.facebook.com/home.php#!/events/319061628223249/

正直,子供だましかと予想しつつ行ったが,その通りであった。

語り:石丸幹二
ピアノ:鈴木優人
映像演出:田村吾郎

誘いのフェイスブックには,

語りと影絵と音楽と。お話の世界へ,旅をしてみませんか?

「くるみ割り人形」のちょっと不思議でどきどきする幻想の世界が,目の前に。
ピアノ1台から紡がれるオーケストラの響き。
影絵に映し出されるおとぎの国の情景。
そして,語りを担当するのはあの石丸幹二。自らも音楽家である彼が,バレエ音楽の躍動をどう言葉で表現してくれるのか,これはまさに見もの,聴きものです!

「あの」と強調されるほど,こちらは石丸幹二を知らないので,ハロー効果もなく,八割方入っている人とは耳への入り方が違うのかもしれないが,全く魅力がなかった。もちろん語りとして,である。

主役は,ヒアの演奏の「くるみ割り人形」の方なのかもしれない。しかし,語りが語りとして自立する力を持たなければ,このコラボレーションというか,フィーチャリングは失敗である。

ピアノ曲がその曲によって中空へ描き出すイマジネーションと語りの語りだす世界とが,相乗効果をもたらしたとは到底言えない。

なぜそうなのか。ピアノはそれ自体で曲としての,ピアノ用に編曲されているとはいえ,チャイコフスキーの描いた世界を奏で続けている。問題は,語りだ。

この語り手は,書かれた物語を外から語っていた。彼自身が,語り手として,語られる世界に向き合って,自分がそれを眺めている語りになっていない。逆に言うと,彼の語り出しそのものによって,世界が現前するような語りになっていない。彼は,台本を読むように,語り手にならず,読み手として,もちろん棒読みではないが,語っているだけだ。

つまりここでは語り手ではなくナレーターにしかなっていない。ナレーターと語り手との違いは,物語が始まらないとナレーションは始まらない。つまり物語の後追いとしてしかナレーターは存在しえない。その役割上そういうことだ。しかし語り手は,そうではない。語り手が語りださなければ物語は始まらない。語り手は物語世界に向き合い,それを語る。ナレーターは始まった物語を,外から追いかけて語る。すでに物語はナレーターを置いて,始まっている。

だから,影絵がなければ,たぶん誰の頭にも映像が浮かばなかったはずだ。そう,影絵のナレーションとしてしか,ここで語りは機能しなかった。

あの語りでは,そのとき,その場が見えない。見えてこない。また見えてくるように語り手として立っていなかった。

その前日,落語を寄席に聞きに行ったが,あの噺の仕方と対比すると,聴き手へのインパクトの違いがはっきりする。噺家は,ほとんど身振りと扇子の見立てと自分の顔の向きで,会話を連ねていく。しかし,それでもその会話が,そのときその場を創りだす。

そのおおきな要素は,噺家が,その場にいる,ということだ。その場を,こちらに伝えている。語り手が信じていないもの(信じているふりをしないものといってもいい)はこちらには伝わらない。

石丸幹二は俳優なのだと思った。噺家は,役には入れ込まない。俳優は,役に入れ込む。このことは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11225523.html

に書いたが,物語をそこに見て,それを伝えようとする語り手になっていず,石丸幹二は,与えられたナレーターという役割として,そこに描かれている物語を語っていたというのが,受けた結論だ。つまり語り手ではなくナレーターでしかなりえないポジションにいて。彼は,語っているが,彼には,物語の,その場も,そのときも,見えてはいない。役者には物語は見えない。というか創り出せない。創り出された物語の中に入るのが前提だから。

絵がなければ語りの絵が浮かばないというのは,語りとして失敗である。いや,だから絵がセットなのかもしれない。しかしそのために,音楽そのものも,単なるバック音楽に堕してしまっていた。それは,チャイコフスキーが気の毒というものだ。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#石丸幹二
#チャイコフスキー
#くるみ割り人形

posted by Toshi at 05:42
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