2013年07月16日

ラノベ


波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本』(講談社現代新書)を読む。

ラノベ,ライトノベルの世界を知らなかったので,その意味では,著者が冒頭でこう書くのを,新鮮な視界が開けたような感じで読んだ。

ラノベ,という文芸ジャンルがある。正式名称は,ライトノベル。従来の文芸作品全般を「ヘビー」なものと考え,質量ともに「ライト」であることを追求した小説群のことを指す。読者層は主に中高生とされている。しかし,…平成生まれの世代は,そのほとんどが,何らかのかたちでラノベの影響下に(あるいは,ラノベを意識せざるを得ない状況下に)育ってきたといえるだろう。
だが一方で,昭和生まれの世代ほとんどにとって,ラノベはある日突然降ってわいた「よく分からないジャンル」である。

そう考えると,直木賞受賞作品が売れず,本屋大賞を設けざるを得なかった書店の危機感は,社会的な根拠があったと言うべきなのだろう。しかし,

ラノベという文芸ジャンルは,現代日本におけるひとつの「断絶」を意味している。

かつてそういう代表だったマンガやアニメは幅広いターゲット向けになったのに対して,ラノベは,

そのターゲットはあまりに限定的だ。なにより致命的であるのは,ラノベが若者向けの日本語で書かれている,という至極明快な事実である。…ましてや,ラノベのテキストに書き込まれているのは,日本の中高生がちょっとだけ背伸びしてほくそ笑みたくなるようなスラングであり,世界観である。「ぼっち」,「ジト目」,「リア充爆発しろ」…。

つまり,ラノベという「日本語で書かれた小説」は,若者たちにとっての「現代日本」を題材とし,彼らにとっての「現代日本」そのものを主題としている。

ということらしい。そこで,本書がしようとしていることは,SFやファンタジーやラブコメといった多彩なジャンルを取り込んだラノベについて,

「ライト」であることが,書き手と読み手のコミュニケーション効率を向上させるための「軽快さ」を意味している場合,ラノベのテキストが共通言語のように抱えている「現代日本」の姿を知ることは,やはり重要だと思われる。なぜなら,そこで得られるのは,昭和が青春だった世代と,平成の世に学生時代を過ごした世代のあいだに横たわる,「現代日本の断絶」を乗り越えるための教養であるからだ。

という。大学の教員であるゆえに「教養」とでるのだろう。しかし,別に断絶を乗り越えたいとは思わないし,文芸という共通の土俵に乗っていれば,後は,ただ中身ではなく,その表現としての力量,表現としての突出力だけが問題になるだけと考えている人間には,断絶という言葉は意味を持たない。

どうも,著者はそう考えないらしい。

いまどきの若者の書いた小説を読み,「俺たちの若い時はこんなんじゃなかった」とくちにしてしまう―まさにその刹那,読者はみずからが属すべき「世代」なるものを創出する。

という。だから,自分の代弁として,著者は,村上龍と村上春樹を対照として出している。どうも,それこそが,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,に見えてくる。俺たちの若い時はこんなんじゃなかった,等々と口にしない僕には,この問題意識はさっぱり共有できない。そう言っている限り,相手ばかりか,自分自身をもステレオタイプでしかとらえられていないことの象徴のようにしか見えないと思うからだ。。

それに,小説を題材にして,その著者の描く「現代日本」を評論するというこの著者の手法が,なじめないのは,文芸という土俵に乗ったら,どの世代が描くものも,日本を切り取っているものにすぎない。それなら,もっと上の世代の切り取っている日本と対比しなくては,ラノベの世界を相対化できないのではないか,という疑問からくる。しかし著者は,そうは考えていないらしい。W村上を出したのも,対照としているだけらしいのだ。

たとえば,「ほっち」について,渡航(わたり わたる)の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』から,

1987年生まれの渡が描く「ぼっち」とは,たとえば,遂にドラえもんがやってこなかった(高校生になった)「その後の野比のび太」を想像してみるといいかもしれない。

といい,入間人間(いるまひとま)の『ぼっちーズ』では,

大学生になっても,ついにのび太のままであった「ぼっち」は,

「独りぼっち」のぼっちは,「墓地」に通ずる

とつぶやき,

誰かと一緒にいても,自分は変わらない。

と言う。そこに,著者は,

オタク的な自己卑下はない。彼らは,明らかに,のび太のままに成長してしまった自分を嘆いてはいない。

と見る。そして,こう書く。

たとえば,1970年生まれの谷川流(ながる)による『涼宮ハルヒの憂鬱』(2004年)という物語は,実際は「ハルヒ」というツンデレ・キャラに萌えることが主眼なのではない。そうではなく,「アニメ的特撮マンガ的物語」に別れを告げたキョンと呼ばれる男子高校生が,いかにして「いつも眉間にシワ寄せている頭の内部がミステリアスな涼宮ハルヒ」という「ぼっち」に,我知らず仲間意識をいだくようになったのかを一人称によって述懐するものであった。

そして,

『涼宮ハルヒ』以後,多くのラノベは,「かつてのオタク/現在はフツー」という男子学生を語り手に起用すると同時に,「オタク嫌い」が「オタク好き」を憧れ半分自嘲半分に眺めやる,という一人称スタイルを採ることとなる。

ここに一つの鍵がある。どういう語り手を立てるかで,眺める世界が変わる。この瞬間,書き手が,自分の世界,「現代日本」を,どう眺めているかが,見えてくる。しかし著者は,スルーしてしまう。

ライトであるかどうか,どういうラベルが貼られているかどうかとは,関係なく,文学は文学の眼で見られなくてはならない。そのスタイルを確立した「谷川流」は,自分の時代を見る視点を確立したのであり,文学の表現スタイルを確立したとみる。表現は実物にあたってみるほかはない。


参考文献;
八十岡景太『ラノベのなかの現代日本』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 04:52
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