2013年09月29日

剣禅一如


渡辺誠『真説・柳生一族』を読む。

剣豪小説の中で,記憶に残る立会いのひとつが,吉川英治『宮本武蔵』での,柳生四天王と武蔵との戦いのシーンだが,それがフィクションとわかっていても,ついその眼で柳生一族を見てしまう。それについては,すでに書いたことがある。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11180208.html

いまひとつは,本書でも指摘しているが,五味康祐の『柳生連也斎』での連也斎と武蔵の弟子鈴木綱四郎との立ち会いシーンだ。

いずれにも,小説に過ぎない。本書は,戦国時代,織豊の戦乱を生き残り,家康に見出されることで地歩を固めて以降,柳生宗厳(むねよし)石舟斎,柳生宗矩,柳生十兵衛三厳(みつよし)を中心に,柳生家の歴史をたどる。

中心は,戦国時代を,松永,筒井,信長,秀長,家康となんとか生き延びようとする戦国の小領主でありつつ,しかし上泉伊勢守から新陰流の印可を受けた剣豪でもある柳生宗厳石舟斎。

戦国時代にもかかわらず,流祖伊勢守の新陰流の特色は,

戦国末期の諸流が一般に本源としていた,戦場における甲冑武者剣術―介者剣術刀法・理合を徹底的に革新して,人性に自然・自由・活発な剣術を創めた,

といわれるもので,その本質は,

敵の動きに随って,無理なく転変して勝つ刀法,

といわれ,

一方的に敵を圧倒し尽くして勝つことが能ではなく,敵と我との相対的な関係,千変万化する働きのもとに成り立っている,

とする。この兵法観の背後にあるのは,

禅の思想であり,石舟斎も参禅したし,宗矩も沢庵とも深い交わりがあり,

剣禅一如

の境地を進化させている。このあたり,武蔵の『五輪書』と読み比べると,「石火のあたり」「紅葉の打ち」というように,間合いにしろ,相手との駆け引きは同じでも,武蔵が,圧倒的な膂力を前提にしているということがよくわかる。

宗矩と武蔵は同時代人だが,武蔵は牢人であり続け,島原の乱では,養子伊織の仕える小笠原家に陣借りして,参陣し,石垣から転落して負傷したのに対して,宗矩は,家光政権の惣目付として,一万石の大名に上り詰め,家光をして,

吾,天下統御の道は,宗矩に学びたり,

と言わしめる幕閣のひとりでもあった。

勝海舟は,『氷川清話』で,宗矩について,

柳生但馬守は,決して尋常一様の剣客ではない。名義こそ剣法の指南役で,ごく低い格であったけれど,三代将軍に対しては非常な権力を持っていたらしい。…表向きはただ一個の剣法指南役の格で君側に出入りして,毎日お面お小手と一生懸命やって居たから,世間の人もあまり注意しなかった。しかしながら,実際この男に非常の権力があったのは,島原の乱が起こった時の事でわかる…。

と言っている。島原の乱のこととは,宗矩が,

一揆鎮圧軍の上使に,格の低い板倉重昌を任命したことに反対し,板倉は討ち死にする,

と予言したことを指す。宗矩は,その時,

一揆討伐は苦戦になることを,家康が一向一揆で苦しんだことを例に,攻めあぐねているうちに,諸大名は最初は従うが,そのうちに足並みが乱れ,再度上使が派遣されることになれば,板倉は面目を失い,例え一騎でも吶喊し討ち死にする,

と説いた。既に出立した後で,任命は取り消されず,結果,戦いが苦戦の中,再度上使派遣が,松平信綱と決まると,板倉は無謀な総攻撃を仕掛けて,討ち死にする。

僕は,宗矩のこの立場は,おそらく武蔵が願ってかなわなかったことなのだと想像する。城や街の縄張りまでやってのけた武蔵は,剣術家としてではなく,宗矩のような帷幄にいる役どころを望んでいたに違いない。

一介の牢人の子と小なりと言えど領主の子の,出発点のわずかな差は,大きい。それは度量,器量,技量の差では追いつけない隔てのようだ。

参考文献;
渡辺誠『真説・柳生一族』(歴史新書y)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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posted by Toshi at 05:26
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