2013年10月14日

計らい


FAP(「精神生理固着除去」のことらしい。原文をうかがったがわからなかった。手首を振りながら,相手の状態を察知する。いわゆるOリングテストやタッビングのTFT(Thought Field Therapy)と類似している)のワークショップに出てきた。ミーディアムのワークショップもそうだが,内容はともかく,一心に,心に聞こえてくるものを耳を澄まそうとしても,雑念と,意識と,妄想にかき消されてしまうことが続く。わずかな変化,微妙な兆しに敏感になる。研ぎ澄ます。しかし,なかなかそれが届かない。ただそれが,当たったとか当たらないとかと反応をするのは,変だ。

こころの声を聴く,

天の声を聴く,

身体の声を聴く,

人の心の声を聴く,

それが聞こえたとして,幻聴でないと,どうして言えよう。

聞こえる,とはどういうことなのか。

神の御心のままに,

とクリスチャンなら言うのだろうか。そうそれは,おのれを捨てることだ。

で,ふと思い出した。計らいを捨てる,ということだ。

親鸞が晩年に弟子に語ったものを聞き書きした『自然法爾章』と言うのがあり,それによると,

浄土の阿弥陀如来から射してくる光を信じて,一遍でもなんら計らうことなく念仏を称えるという状態にひとりでになっていったときに,その両者の光がうまくいきあったときには,必ず浄土へ行ける,

そういう自然な状態を「自然法爾」と言っている,らしい。

この考え方の面白いところは,

こちらが信じてみようという気持ちになったら,浄土から光が差してくる,

というのではなく,信の心の状態になれる人のところに光が差してくる,

というところにある。つまり,こちらの関心ではなく,関心を持つということは,

向こうから光が射してきた,

だから関心をもった,と考える。

これが親鸞の到達した地点だという。

人に対してであろうと,信仰であろうと,そのことに関心を持ち始めるということは,すでに向こうからこちらを包み込んでいる,

それが第十八願,

たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,至心信楽してわが国に生ぜんとおもひて,乃至十念せん。もし生ぜずんば,正覚をとらじ,

つまり,

わたしが仏になるとき,すべての人々が心から信じて,わたしの国に生れたいと願い,わずか十回でも念仏して,もし生れることができないようなら,わたしは決してさとりを開きません,と。

この誓いの中に,阿弥陀如来から射してくる光が向いている方向がある,というのである。

至心に阿弥陀仏を信じて名号を称えれば,必ず浄土へ行けるとは,その状態が自然になれば,浄土の方から光が射してくる,という考え方になる。

しかし,こうすれば浄土へ行ける,と言うのは,こちらの計らいであって,それのない状態で,称える心の状態になれたら,と言う意味のようだ。そう考えると,

善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや,

とは,こちらの計らいのない状態,よいことをするといいといった計らいがないことを象徴的に言っているとみなすことができる。

それを信仰心と言うのかどうかはわからない。おのれの思惑や思いを捨てることができるのか。そこが,難しい。

親鸞は言う。

念仏を信ずるも信じないも,みなさんのお計らいである,

と。そのおのが計らいを捨てて,無心に,声を聞き取る。何ごとにも通ずることのように思う。

一瞬聞えたように感じるかもしれないが,それが錯覚でないと,どうして言えようか。

傾聴と言うのは,ロジャーズの言うように,「あたかも~のように」なのだが,しかしそれ自体が,考えようでは,おのが計らいと言えなくもない。

ただただ,相手の枠組みの中で,その視界に見えるものを,ただ見て,聴く。

無論それは,一種のイマジネーションなのかもしれない。しかし,不意に相手の見ているものが見え,相手の心の声が聞こえたような気がするときがある。

それがひたすら耳になるかどうか,それは訓練もあるが,心の静謐と関係があるような気がする。

鏡のように平らかな心か,と問われている。

というよりも,心そのものが,聞えてくる声の,射してくる光の,通路,回路になる状態なのかもしれない。

その心で向きあうとき,光が差してきていている,ということになるのだが…!

参考文献;
吉本隆明『親鸞』(東京糸井重里事務所)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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#阿弥陀如来
posted by Toshi at 05:44
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