2013年11月01日

視界



ランボオの『地獄の季節』の,小林秀雄訳,

また見付かった,
何が,永遠が,
海と溶け合う太陽が。

が好きなのだが,あるところで,金子光晴の訳を見た。

とうとう見つかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽といっしょに,
去(い)ってしまった海のことだ。

ニュアンスの差がある。

「海と溶け合う」太陽ではなく,

太陽と一緒に去る海に力点がある。で,ちょっとネットで調べてみた。

堀口大学

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは,太陽と番(つが)った
海だ。

西条八十

また見つかったぞ。
何が? ――永遠が。
それは太陽と共に
去って行った海。

粟津則雄

見つかったぞ。
何がだ!――‘永遠’。
太陽と手をとりあって
行った海。

清岡卓行

あれがまた見つかった。
なにが? 永遠が。
それはいっしょに消えた海
太陽と。

原文は,

Elle est retrouve'e.
Quoi? - L'Eternite'.
C'est la mer alle'e
Avec le soleil.

逐語的だと,

また,見つかった。
何が?-永遠。
それは行ってしまった海,
太陽といっしょに。

という(ふうになる)感じだが,訳は,二種類に分かれる。

太陽とともに行った海,



太陽に混じった(溶けた,とろけた)海,

に別れる。

Aller

は,語学に堪能ではないので,間違っているかもしれないが,英語のgoに当たる。それを,

Avec

の捉え方で,

一緒に行く,



溶ける

かになる。それも,

海が溶けるのか,

海に溶けるのか,

の違いもある。

確か,記憶が間違っていなければ,ウィトゲンシュタインは,

その人の持っている言葉によって,見える世界が違う,

といった。

それは,訳者のもっている言語によって,見える世界が変わる,ということだ。それは,もう原義とは離れているかもしれない。

もう少し踏み込むと,その人の視界は,その人だけのもので,それは他人とは重ならない。例えば,小説家が見えていた世界を,言語化しても,その言語で見える世界は,人によって違う。だから,同じ文章を読んでいても,違うものを見ている,と言ってもいい。

われわれは,言語を得ることで,世界を俯瞰する視点を得た。あるユンギアンの本を読んでいたら,言葉を得てから,中空を飛ぶ夢を見る,と言っていたのを記憶している。

そう言えば,幼いころ,中空を平泳ぎで泳いでいる夢をよく見たものだ。

それは別の言い方をすると,現実を丸める術を得たということになる。人によって,丸めるレベルに違いがある,ということなのかもしれない。

だから,持っている言葉によって,そこから見えるものが違う。

たしか,和辻哲郎は,『鎖国』の中で,「視圏」という言葉を使っていた(と思う)。そのとき,日本(人)の視界の狭さと,射程距離のなさを嘆いていた。でも,別の見方をすると,それは,(不遜ながら)ご自身のそれを言っていたのかもしれない。

参考文献;
ランボオ『地獄の季節』(小林秀雄訳 岩波文庫)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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#金子光晴
posted by Toshi at 03:58
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