2014年03月11日

フラッシュバック


まいったね,これが,

フラッシュバック,

というやつなのかね。

先日,ある研修の場で,嫌な人に会った。いやな体験がフラッシュバックした。幸い,ワークを一緒にしなかったが,のっけの自己紹介のところで,遭遇した。

たぶん,相手は,自分の振る舞いにも,自信があり,こっちへ貼りつけたラベルにも自信があるのだろう。明らかな上から目線を感じて,

お元気ですか,

と言われたとき,一瞬で,フラッシュバックした,たぶん。そのとき自分の追い詰められたシチュエーションが一瞬で蘇った。

部屋の中が熱くて,汗をかいていたが,そのことも,相手の前に出たとき,(その人の前で冷や汗をかいているというように感じて)心理的な負い目として影響したかもしれない。

それは,多く僻目かもしれない。しかし,僕は,そのときの感触,不快感を忘れていないらしい。もう二年以上前の話だ。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html

それについては,もう思い出したくもないし,自分なりに決着がついたつもりだと思っていたが,未完了であった。しかし,この未完了は完了したいとは思わない。と言うか,もう,この不快感は,そのまま,自戒として,持ち続けていたい。そういうコーチングを,おのれはしていないか,と。

いやいや,ここで言いたいのは,そういうことではない。

自分と相手との関係は,そのまま引きずる,と言うことだ。もちろん現実的とは限らず,単なる心理的な関係かもしれないし,こっちの思い込みかもしれない。

例えば,コーチは,いつまでも,相手をクライアントとして見続ける。昔のコーチに会うと,相手は,意識してかしないかはともかく,クライアントとしての僕を見ているところがある。

因みに,僕は,クライアントと会っても(コーチング契約中でも,コーチング契約が終わった後も),そうは見ない。というか,そうは見られない。なぜなら,コーチ-クライアント関係は,コーチングという場での,お互いが電車ごっこの紐に入っている状態に過ぎない。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームになぞらえれば,コーチングゲームをしている関係なのだ。ゲームが終われば,鬼ごっこの鬼が解消されるように。コーチ-クライアント関係という紐を,コーチングの場と,二人が見立てていて初めて成り立つ,仮象の関係に過ぎない。それを離れれば(紐を外せば),その関係は消えて,ただの知人関係になる。ただの知り合いになる。それができないということは,四六時中コーチでいる人か,役割としてのコーチという,役割の持つ意味を意識的に自覚できていない人だ,と思っている。

かつてのコーチングで痛めつけられた僕は,その人の前では,痛めつけられた自分の状態に戻る。そういう自分が,いないと言いたいのではない。多様な自分の中のある局面だけがクローズアップされ,それに向き合うコーチと,それを逃げるクライアントと(見られていると)いう図式に,舞い戻らされる,という意味だ。

僕が相手をそう見てしまうから,相手との間に,そういう関係を現実化してしまうのか,相手の眼にそれを感じるから,そういう自分になってしまうのかはわからない。あるいは,僕が,その人を正当に見られていないのかもしれないが,それは,その人が,正当に僕を直視しなかった,照り返しでもある。しかし,かように,コーチングのつけは,クライアントを苦しめる。

僕は,その日,ずっと心の底に苦い味を引きずっていた。

その苦味は,再会して,その関係性を意識した瞬間,

何かから逃げている,
過去に蓋をした,

と,言われて,追い詰められた,やましい自分を味あわされつづける。それは,酷い劣等感だったり,こっぴどい敗北感だったり,自己嫌悪だったり,どん底に落ち込んだ悲哀だったりする。

嫌なことに,その感覚は,翌日も,翌々日も,続いた。だからここに書いている。

それこそ,「蓋をしていた」ことがあふれてきた。

不快感が嫌だから,もう一度さらけ出す。

そのとき,ジョギングの話をしていたはずだ。まだ病気が発覚していない時だから,フルマラソンへのチャレンジを話していた,と思う。どこが楽しいのか,と聞かれた記憶がある。楽しい?と聞かれると,ちょっと違う。苦しいのだ,走っている最中は,しかし,その苦しさを耐えて,我慢して,ゴールを目指している感覚が,少ない体験ながら,僕には貴重な感覚だ,というようなことだったはずだ。

そのとき,横柄な話し方をした記憶はないし,ぞんざいな話し方をした記憶はないが,覚えているのは,

横柄だったのが,だんだんしょげていった,

というフィードバックがあったことだ。ふんぞり返っていたと取られたのかもしれないが,横柄だった覚えがなく,追い打ちをかけるように,

何かに蓋をしている,

そして,それを隠すために,何かに夢中になっていると,いう人の例をコーチが話した。いま考えると,ジョギングに夢中になることで,何かから逃げている,ということを言いたかったのかもしれない。しかし,そう言われたときに,何にも「蓋」のイメージがわかず,蓋をしていることにも思い当らず,呆然とした記憶がある。そこから,だんだん気力が萎えていった。何を言っても,逆さに受け取られていく気がして,気が滅入っていった。

書いているうちに,厄介だと思うのは,

蓋をしている,

と言われて,強いて過去を探していけば,なくはない。しかし思い浮かぶのは,たとえば,

子どもの頃,親戚でレコードを踏んづけたのに,知らんふりをした,

といった他愛のないことだ。なのに,そう言われると,それは,もっと大事なことから目をそらすために言っているのではないかと,蓋している中身を探さなくてはならなくなる。いま,懸命になっていること,夢中になっていることが,その代償行為と言われたのでは,立つ瀬がない。

そういうふうに陥っていく自分が嫌だ。

だから,潜在的に,そのとき問い詰められた,

何を隠すための蓋か,

という問いから,ずっと逃げられていないらしいのだ。

僕自身は,基本的に,過去に因果を求める考えには,反対と言うか,全く意味がない,と思っている。いま,ここで,生きている自分がどうなのか,だけだ。その自分のありよう,生き方が,過去をどうとでも見させる。

これが僕の持論だし,実感たが,

え,まてよ,この考え方自体が,過去に蓋をしている,ってこと?

まだ引きずっている…!



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 05:14
"フラッシュバック"へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: