2014年04月14日

言葉


北山修『意味としての心』を読む。

ヴィトゲンシュタインの言葉に,

もっている言葉によって,見える世界が違う,

と言った趣旨のものがあった(と記憶している)。

ここにあるのは,精神科医で精神分析家である北山修の言葉集(辞典)といっていい。凡例では,

さまざまな機会にあらわしてきた,精神分析的観点からみた臨床語を集め編集した,

とある。たとえば,「あい」からはじまり,

「あふ」はその語源説のひとつに上下の唇が相寄るときの音から出たという連想があるように,二つが互いに寄り合ってぴったり一致する,調和する,一つになる,という意味で,ものともの,人と人との間の基本的意識を示しています。特に「合う」の場合は,「出会い」がさらに進んで,受け入れる,矛盾しない,ぴったり当てはまるという適合,合致,調和のニュアンスが強調されます。(中略)「医者に会う」「先生に会う」とは言っても,「通行人に会う」とは言わないように,対人関係にいつて,「会う」が使われる場合は会う意味があるときで,無意味に会うことは会うではなくて,むしろ会っていないことになります。よって通常は,会うこと,合わせること自体に大きな意味や高い価値があり,…このような意識を伴う「あふ」という言葉は,面接と対話を価値ある形式とする日本語臨床の基本語となります。

という具合である。この「日本語臨床」という言い方には,特別な意味がある。著者はこういう。

日本人は普段より「滅多なことは言わない方がいい」と考え,饒舌や雄弁をそれほど好まないなど,言葉にあまり期待しない傾向があるため,精神医学や臨床心理の領域でもむしろ非言語コミュニケーションの重要性が説かれ,その視点から多数の心の理論が翻訳を通して輸入され,外国製の概念や理論で臨床の現象が割り切られることが正しいとされる風潮も見られます。心を描写するための言葉が日本語に豊富にあるにもかかわらず,研究者たちが日本語を生かすことが稀という傾向も強くありました。

その問題意識の中に,土居健郎の「甘え」論がある,と考える。そして,

もともと解釈や言語化という精神分析の技法論に見られるごとく,言葉と精神分析臨床は切っても切り離せないものであり,フロイトは夢,機知,言い間違いの精神病理などの分析で,言葉と意識・無意識に関して様々な相から検討を試みています。

として,

言語を主たる治療媒体とする精神分析理論の発展に向けて言語学者,文化人類学者,精神病理学者,言語心理学者などの知見から学ぶことは多く,日本語の中での精神病理の特徴や治療のための言語の機能について明確にしていく作業も必要です。言語論とともに重要なのは意味論的視点であり…,

とする,言葉の意味と機能に着目する著者の姿勢そのものの蓄積が,本書ということになるのではないか。

精神分析療法は,「心の台本を読む」ことを仕事とする,という言い回しが,何度か出るが,それを,「劇」になぞらえて,こういう言い方をしている。

「筋書きを読む」という仕事には,最初に劇の展開があり,問題が劇化され,その劇が繰り返され,やがて筋書きが読まれて,そしてその洞察を通し筋書きを考え直して書き替え,協力して新たな劇を創造するなどの作業が,段階的なものとして含まれるでしょう。そして,劇的な関係を引き受けてこれを分析する分析的治療者の仕事とは,劇の比喩で言うなら,出演しながら筋書きや心の台本を読むことになります。

あるいはこうも言う。

精神療法の言語的な仕事が「人生物語を紡ぐこと」,そして「人生を語り,語り直すこと」と説明されることが多くなってきましたが,これは古典的精神分析で言うところの過去の再構成という仕事です。

更に,

人生を物語として言葉で語って,それを二人で考えていこうとする分析的臨床的態度は,日本においても臨床心理学の基本となっている,

あるいは,また,

頼まれてもいないのに生きがいの動機づけや構造を指摘して,他人の生きがいによけいな解釈で水をさすことは,分析家の「野暮」と「愚の骨頂」「いらないお世話」となるでしょう。そして抱えられた空虚を埋めようとして何かがなされる場合,内側からの自己表現や創造としての何ものかが,たとえ野暮ったくて不器用なものでも,まずは貴重な意味ある生成となることがあります。精神分析とは,症状から,夢から,些細な言動から,そういう意味を取捨選択して発見し共有することに徹底的に貢献し「意味ある人生」にしようとする仕事なのです。
 
と。

精神分析では,言葉が媒介になる。

自由連想法の設定(セッティング)では分析者と後ろ向きの被分析者の二人はほとんど顔を合わせることがありません。それで,治療的に検討され取り扱われる素材は,被分析者により言葉で報告されるものがほとんどとなります。被分析者の無意識的反応を把握し,これを言葉で描き出すという営みの中で,そこに織り込まれてゆく分析的セラピスト側からの応答を「解釈」と呼びます。

そうして,

それまで無意識であった台本が読み出され,それが人生として生きられながら語られて,心の表と裏を織り込んだ人生物語を紡ぎ出すことになるのです。

と。そこで言葉が,他の療法に比して,格段に重要になる。そのことについて,フロイトの「言葉の橋」という言葉を手掛かりに,こう言っている。

両義的な言葉は,人々に共有されやすい意識的な意味と,個人が個別の内面に抱いている個性的な意味との間の橋渡し機能を果たしているのであり,私は,この議論を,心の内面と外面,内界と外界の間に橋をかけ,その内と外を結び付けているという言葉の機能の,精神分析研究の歴史的出発点としたいのです。

と,それを分析的な言い方で表現すると,

すでに意識されている意味と抑圧されて意識されにくい意味との間に橋をかける,

となるはずである。そのことの効果を,こうまとめている。

私は,「話す(ハナス)」には,対象を外界へ放す(ハナス)機能と,対象を自己から離す(ハナス)機能があると考えて,内的体験を外界へ伝えながら内外を分離させる言葉の機能を,総合的に「橋渡し機能」と呼びたいと考えています。

さて,精神分析家の北山修の言葉から見えるのは,こんな風景として,では,作詞家,

北山修,

あの,フォーククルセダーズのメンバーであり,提供したのも含めるレコーディングされたのが400曲,作りっぱなしのも含めると700曲に上るという,作詞家としての言葉から見えるものは別なのかどうか。

たとえば,橋田宣彦と旅の宿で嵐が通り過ぎる間に作ったという,

人は誰もただ一人旅に出て
人は誰もふるさとを振り返る
ちょっぴり寂しくて振り返っても
そこにはただ風がふいているだけ(「風」)

の向こうには,何が見えているのか。例えば,こんなことを,あとがき代わりの,「私の歌はどこで生まれるのか」に書いている。

「かける兎」の如き私が,昼間は跳びはねて遊び,あるいは懸命に働き,夜になり「疲れた兎」が横たわり目を瞑ると,あるいは勝って酔った気分で横になると,眠り始めた兎の背後から亀がゆっくりと立ち現れるのです。夜な夜な出現するこの亀は,歩みはのろいし,目を閉じ夢と眠りの中に生きているようなのです。

この夜から朝の間にある「考える亀」という,移行の領域において考える「私」は,自分に正直な「素の自分」です。亀でも兎でもない,そして亀でもあり兎でもあり,その真ん中で「本来的」とでもいうべき状態であり,「私は私」なのです。そこで朝起きたら患者に何を言うか考えたり,よいイデアを思いつきながら眠りにまた落ちたりしています。…そして外からは寝ているように見えますが,実は泣いていたり,誰かを罵っていたり,吠えたり,読んだり,そして歌ったりして,ここに歌詞の元がたくさん生まれているように思うのです。

そして私個人の場合,覚醒の手前で時に「なき」ながら考えているので,そこでこそ再び旅の歌も生まれ,そこが人生のクリエイティヴィティの原点です。また,分析のセッション中で精神分析家の「私」が何も見ずに目を瞑り暗闇の中でぼんやりと考えていますと,この状態が度々発生します。気持ちの上で揺れながらも,その旅の途中で,本来の自分として,考えはまとまっているなあと感じます。

そして外向けの歌作執筆活動では,亀から兎への間で引継ぎがあって,例えば朝型の亀の「歌」を日中兎が選択的に書き移し,「私」が修正加工し歌として書き直すところが外向きの創作の核心です。

この個人の自己対話を見ていると,著者自身が,創造性の項で,

フロイトは,子どもの遊びの中に創造性の発露を発見し,それが大人になると空想や劇に姿を変えると考えました。願望充足を特徴とする空想や白日夢は通常個性的すぎる内容であり,他者に伝えたとしても不快感をもたらすことが多いのに対して,詩人は個人的な空想を受容される形で伝えることで他者にもたらします。このことに注目したフロイトは,神経症者と比較して,創造的行為とは,抑圧のゆるさと,空想や白日夢を公共性の高いものにする強い昇華の能力とを同時に有するものと考えました。

と述べていることと照合してみると,まさに,

言葉によって見えているものは,

作詞家のそれも,

精神分析家のそれも,

北山修というひとりの人の見えているものに違いない。と感じるのである。

参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:57
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