2014年09月02日

書く


何度も書いたかもしれないが,時枝誠記は,日本語では,

「『桜の花が咲か』ない」

「『桜の花が咲い』た」

における,

「た」

「ない」

は,

「表現される事柄に対する話手の立場の表現」

つまり話者の立場からの表現であることを示す「辞」とし,「桜の花が咲く」の部分を,

「表現される事物,事柄の客体的概念的表現」

である「詞」とした。

要は,辞において初めて,そこで語られていることと話者との関係が明示されることになる。即ち,

第一に,辞によって,話者の主体的表現が明示される。語られていることとどういう関係にあるのか,それにどういう感慨をもっているのか,賛成なのか,否定なのか等々。

第二に,辞によって,語っている場所が示される。目の前にしてなのか,想い出か,どこで語っているのか等々が示される。それによって,いつ語っているのかという,語っているもののときと同時に,語られているもののときも示すことになる。

さらに第三に重要なことは,辞のときにある話者は,詞を語るとき,一旦詞のときところに観念的に移動して,それを現前化させ,それを入子として辞によって包みこんでいる,という点である。

これを,三浦つとむは,的確な指摘によれば,

「われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,想像によって,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し,あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を,われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり,現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかつたとすれば,現在の私は
        予想の否定 過去
  雨がふら  なくあっ    た
というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっているときと今朝のそれを否定する天候を確認したときとそれを語っているいま=引用者)と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」

という,アクロバチックな構造表現になる。

かつて,これを読んだときの興奮がいまも蘇る。ひとが,何かを語る時の,その構造の奥行を垣間見た気がするのだ。そして,それを書いていた,とすると,

昨日雨が降らなかった,

という一文に,


「昨日まだ雨が降らない」とき

「『(明日は)雨が降るだろう』と予想した雨のふっている(だろう明日の状態の想像の中にいる)」とき

「今朝のそれを否定する天候を確認した」とき

「それを語っている」とき

「それについて書いている」とき


とが多層に渡って埋め込まれている,ということができる。こういう日本語では,そのつど,語り手は,


「雨の降っていない」とき

「雨の降っている想像の未来」のとき

「雨が降っていない」翌日のとき

そう語っているとき

そう書いているとき

という多重の時間を,一瞬で飛んでいるのである。そのことを意識しないと,時制は使いこなせない。

ヴァインリヒは,語りの時制について次のように指摘している。

「われわれが語るときには,その発話の場から出て,別の世界,過去ないし虚構の世界へ移る。それが過去のことであれば,何時のことであるかを示すのが望ましく,そのため物語の時制と一緒に……正確な時の表示が見られる。」

と言う。日本語が論理的でないとかと言う人は,日本語をよく知らないのだ。我々はそれほど無意識で,時制を使いこなしている。つまり,

話者にとって,語っているいまからみた過去のときも,それを語っている瞬間には,そのときを現前化し,その上で,それを語っているいまに立ち戻っているということを意味している。

こうやって多層に入子になっているのは,語られている事態であると同時に,語っているときの中にある語られているときなのである。

僕は,かつてケースライティングを職務としていたことがある。そのとき,あくまでケースライティングの書き方だが,まとめたことがある。

因みに,ここでいう「ケース」と言うのは,職場のマネジメント課題を研修として利用するために,職場で起こるような問題事例を,物語風にまとめることを言う。

そのために,起こっている問題を構造化する。

「通常問題の構造化というと,『問題と原因の因果関係』といったことになります。しかし,それでは,問題が,自分の外のことにしかなりません。問題と感じるのも,それを問題にするのも自分である以上,主体側のパースペクティブ抜きに,問題の構造化はありえません。したがって,

 ①問題の空間化(ひろがり)
 ②問題の時間化(時系列)
 ③問題のパースペクティブ化(誰にとって,誰からの)

の3つなくして,構造化はありえません。」

と書いたとき,問題を構造化するのは,

問題を自分の問題とすること,

言い換えると,

その問題場面に,当事者として,登場することを想定して,問題を捉えること,

ということになる。わかりにくいが,時制と同様,自分がその問題の場面のときに,飛ばない限り,当事者として問題は捉えられないということを言っていたのである。だから,鍵になるのは,

パースペクティブ

となる。

物語の形で語られている以上,語り手が,かく語っているにすきない。つまり,

「その事実を描いている,あるいは目撃しているのが誰で,どこからそれを見ているのか,のパースペクティブが明確であることです。その位置に応じて,事実は違って見える(事実はひとつなどと子供のようなたわごとを言う人は,ケースライティングどころか,マネジメントの資格もありません)し,当然,問題も違って見えるのです。

語っている『私』が,その問題を見ていることなのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語っているのか
語っている『私』が,その問題を目撃した人からの伝聞を語った人から聞いたことなのか
語っている『私』が,その問題の当事者なのか
語っている『私』が,その問題の当事者の同僚なのか

ひとつの問題でも,それぞれの立場によって,違ってきます。それは,意識しているかどうかは別にしても,その人にとって,見えている事実が異なっているからにほかなりません。」

これは,そのまま時制と場所

いつ,どこで

につながることになる。

起きた出来事の時と場所
それを見たときのときと場所
それを聞いたときのときと場所
それを語っているときと場所

等々,つまり,それに向き合う主体も,その時制を遡らなくては,全体は見えないということになる。

ケースも物語と同じなので,

既に終わったところで語られている

というか

語られ始めたところで止まっている。

その時間を遡ることが,その全体像を辿り直すことが,自分の問題として,語り直すことなのである。問題を主体化するとは,そこなのである。

時間軸を通すことで,初めて,未来像(どうなるか)が視界に見え,

どうしたらよかったのか
(どうしなかったらよかったのか)

そこからまた別の解決物語が始まることになる。

これは,歴史を語るのも同じである。多様な物語,つまり多様なパースペクティブを捨てたとき,歴史物語はシンプルになるが,豊かさは失われ,虚構度が高まる。そんな歴史物語は使い物にならない。

参考文献;
時枝誠記『日本文法口語篇』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(講談社)
ハラルト・ヴァインリヒ『時制論』(紀伊國屋書店)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:23
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