2014年12月06日

旗本御家人


氏家幹人『旗本御家人』を読む。

巻末で,この本が書かれたころ話題になった,例の「死亡届を出さす,年金を受け取っていた」ことに絡んで,「憤まんやるかたない気持ちになった」かもしれないが,として,著者はこう書く。

「ところで,この国は昔はそれほどご立派だったのだろうか。たとえば将軍以下の武士が支配していた江戸時代はどうか。『武士は今の役人よりずっと誇り高く責任感が強かったし,なにより恥を知っていた。だから年金詐取のような破廉恥な行為はありえない。庶民だって,人情に富み親や高齢者を大切にしたから,老人の孤独死なんて皆無だったのでは。』…はたしてそうか。確かに武士のなかには,高潔で優れた人物もすくなからずいただろう。それは否定しない。しかし一般的に言えば,当時の武士たちの多くは,欺瞞と甘えに満ちた慣習にどっぷりつかっていたと言わざるをえない。」

と,だから,「家の当主が死亡しても,その事実を隠ぺいし病気療養中と偽って俸給を頂戴し続けた者がいた」という。武士の中の武士,旗本御家人が,である。そして,

「問題は,このような行為が一部の悪質な幕臣によって行われたのではなく,ほとんどの幕臣が当然のように行っていたことだ。」

という。たとえば,永年勤続表彰として下賜される「老衰御褒美」というのが,あった。

「実は既に死んでいるのに,高齢や病を理由に退職届を出し,『老衰御褒美』の金銀を受け取るケースが少なくなかった…。」

しかし,こんなとんでもない詐欺が習慣化したのは,

「幕府が見ぬふりをしてきたから,将軍の寛大な措置として俸給の不正受給を許してきたからにほかならない。…老中から小役人まで,組織全体が馴れ合い甘え合って,不正を慣例化させるに至ったのだろう。…隠蔽と癒着にまみれた薄汚い世界は,一方で,寛大な優渥(恩恵)に包まれた安穏な世界でもあった。死者の俸給の不正受給の黙認が,『武士は相身互い』あるいは『武士の情け』といった言葉で表現される互助精神の具体化だったことも事実である。」

さて,そんなもたれ合いの幕府の職制を通した,幕臣列伝に,本書はなっている。

まずは,幕府役人の用語。「おさそい」と「おたく」,

「『おさそい』とは『不首尾にて免ぜらるヽ也。何も子細あらされども,病気と称してこれを辞退する事なり』。要するに職務上の過失等を犯した幕府の役人が,罷免されたり病気と称して辞任することを意味していた…。」

「『御宅』とは,『余程おもき事件にて御とがめ』をこうむること。幕臣が重大な過失を犯した場合,夜になって名代の者が若年寄の御宅に呼び出され(だから御宅か),監察官である目付立会いの下,役職の剥奪(『御役御免御番御免』)と厳重な謹慎を申し渡された…。」

そんな結末もあるにしても,いささか風変わりな事例だけをピックアブしてみる。

幕臣の異動願いは,「場所替願」と呼ばれたが,高齢の幕臣のためのポストに,「老衰場」というのがあった。それは,

御旗奉行
御槍奉行

がそれで,太平の世になると,いくさの時代の誉れの役職も,高齢者のポストに化す。そこは,「臨終場」ともなった。

前述の「老衰御褒美」とは,

「幕臣は,死ぬまで将軍に御奉公が原則だったが,七十歳に達し,体力,気力ともに衰えたとき,老衰御褒美を頂戴して役職を辞することができた。」

という,その記録を観ると,「幕府が高齢の幕臣のためにいかに多くの『閑職』を用意したかがわかる」という。驚くべきは,幕末,西洋式の「歩兵(撒兵)」「騎兵」「砲兵」からなる将軍直属の常備軍を設けたが,「撒兵渡辺恒蔵の小普請入りと老衰御褒美を願い出た文書」がある。渡辺は,七十九歳。著者は言う。

「最大の課題であった近代的軍備の確立より,高齢の幕臣たちの処遇が優先された奇怪さ。幕府と幕臣の組織的な緊張感の欠落」

が見て取れる,という。

「十七歳原則」というのがある。「大名や旗本の当主が十七歳未満で亡くなると,養子が許されず,家は断絶とする相続の法」があり,このために,「官年」という,大名や旗本が幕府に届け出る年齢が,実際よりも,五,六歳サバを読んでいた,という。十七歳以上であれば,若年で没しても,養子を取って家を存続させることが出来るのである。

「官年(幕府に届けた年齢)が私齢(本当の年齢)より高いのは,年齢の詐称ではなく,幕府の制度のひとつで,お蔭で,たとえ赤ちゃん(嬰児)であっても,十七歳だと称して家を相続できるようになっていた。家の存続のためには,極端な年齢詐称も半ば,合法とみとめられていた」

というわけである。

就活は,今も昔も大変で,「対客登城前」と呼ばれた。「百俵七人泣き暮らし」という諺があり,封禄米だけでは食べていけないことを諷している。役職に付ければ,「家禄が役高に不足する場合は,不足分が足高として支給」される。

「加えて,年三回に分けて俸給米(蔵米)を支給される際にも,役職(とりわけ激職)を務める者には上等な米が支給されるが,役職についていない幕臣には下等米が回されるのが原則だった」

というから,「非役の小普請」から脱するべく,小普請支配(小普請の旗本御家人を支配,監督する役職)のもとへ請願に出かけるか,早朝,老中や若年寄ほか幕府上層部が江戸城へ登城する前に邸に参上する。これを,「対客登城前」あるいは「対客」と呼んだ。これを幕臣は,「出勤」「勤めに出る」と称していたという。まあ,就活である。

勝小吉は,七歳で勝家の養子になり,十六歳から「勤め」はじめ,出奔したりといろいろあったが,結局番入り(武官への採用)はならず,三十七歳で,海舟に家督を譲る。

幕臣の就職難が始まったのは,舘林藩の綱吉と,甲府藩の綱豊(家宣)が将軍となり,多くの藩士が幕臣になってから,という。

それでも,成功した者はいる。筆頭の一人は,根岸肥前守。小身の旗本から,勘定奉行,町奉行などの要職にまで昇進した。しかし,根岸は,幕臣安生家の三男として,根岸家に養子に入ったということになっている。しかし,出自については,前身は「臥煙(火消人足)」で,蓄えた金で御徒の株(いわゆる御家人株)を手に入れ,幕臣の末端から出世を遂げた,と,生前からささやかれている。しかも,「一パイの文繍(体中の入れ墨)ありたり」とさえも。

しかし,そこに垣間見えるのは,

「与力や御徒等々御家人の地位は『株』として実質的に売買が許されていたから,百姓町人でも,金さえ出せば,御家人すなわち御目見え以下の幕臣になることができた。いや,それだけではない。ひとたび御家人になれば,御目見え以上の旗本に昇格し,さらには幕府の要職に就くことだって可能だった」

という,制度の柔軟性ではなかろうか。

「われわれが今日想像する以上に,幕臣社会とりわけ御家人社会には,庶民出身者がおおかったのである」

と。本書が拠っている,大谷木醇堂『醇堂叢稿』には,こうある。

「所謂非格御取立(俗に成上り立身と云)の人にハ筋目正しきものは少なく,その家をおこしたるものは,或いは前栽売の太郎兵衛,魚商の次郎兵衛,豆腐屋の三朗兵衛など多き事也」

と。幕末の,

勝海舟,
小野友五郎,
大鳥圭介,
平山敬忠,
榎本武揚,

もそうだし,

川路聖謨,
井上清直,

もこれに加えてもいい。

まあ,これは,武士がどうの町人がどうの,ということではない,人としてどうか,ということに結局行き着く過ぎないのかもしれない。

参考文献;
氏家幹人『旗本御家人』(歴史新書y)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:16
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