2014年12月08日

ノンキャリア


門松秀樹『明治維新と幕臣』を読む。

本書は,戊辰戦争の混乱期,全国統治の空白が生じかねない状況下,明治新政府は,その危機的状況に対応するため,

「幕臣の継続登用」

をはかり,

「各奉行所などの幕府機関を,所属する人員も含めて継承」

することで乗り切った。その多くは,

「ほぼ無名といってよい小身の旗本や御家人であった。彼らは著名な幕臣たちとは異なり,政府の政策形成に関与できるような上級ポストではなく,行政実務に当たる中・下級のポストに登用された。(中略)実際の予算や政策の形成過程では,長年の経験を積み,実務に精通したいわゆる『ノンキャリア』の存在」

である。本書は,そうした「『ノンキャリア』の幕臣たちに光を当てることを試みた」ものである。

旗本御家人については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410162722.html?1417810594

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410218701.html?1417897473

で,その体たらくぶりを散々挙げたが,逆に,その職務に忠実な気質が,明治新政府の立ち上がり期の行政を支えた。

幕臣の気質について,本書でも,

「太平の世が続くことで,武士の『家』の固定化も進み,武士の主従関係の根本である『御恩』と『奉公』の関係についての意識が薄れていくことで,知行・封禄は『御恩』,すなわち主君に対する『奉公』の対価ではなく,『家』が代々相続すべき固有の財産という意識が強まっていく。その結果,(中略)『役料』や『足高』のみが職務に対する対価であり,職務を遂行する以上は当然えられるべき俸給であると解されるようになる。その結果,…幕臣,ひいては武士は,『御恩』と『奉公』の関係に基づく臣下ではなく,役職に就いて働くことで『役料』『足高』という『俸給』を得るサラリーマンに転じていった…。」

と,その気質を述べている。これを前提にすると,本書の主題である,幕臣がそのまま新政府の行政を担うという流れが,理解しやすい気がする。

江戸開城後,徳川家は700万石から70万石に減封,静岡へ移封される。そのとき勝海舟が,幕臣の身の振り方の概算をまとめている。それによると,

旧徳川氏家臣 凡そ三万三千四百戸
朝臣 五千人
静岡行 一万五千人
帰農 六百人 後大抵帰参
大蔵省附渡 百三,四十人
外務省同断 百人
金川(神奈川奉行所を接収・改組) 同断
田安・一橋家へ従属 
諸侯の末家は其本家に附する者
静岡・在職人数 四千九百二十四人

私事ながら,母方の実家は,幕臣で,鳥羽・伏見以降の混乱で一家離散,遺児は下僕に背負われて,彼の実家だか親戚だかにかくまわれ,維新後はその姓を名乗って生き延びた,という伝承がある。ここに載らない幕臣の人数も少なくないはずである。

新政府は,鳥羽・伏見で幕府軍を破った後,慶喜以下を朝敵として追討令を発すると同時に,

「幕臣に対して帰順を呼びかけている。そしてこの呼びかけに応じた幕臣に与えられたのが『朝臣』という身分であった。」

「朝臣」は,「あそん」ではなく,「ちょうしん」と訓む。「朝廷の臣」を意味し,

「陸続徳川の家臣,朝臣となり候願い候者有之,皆上京せり。実に千を以て数ふ也」

と,松平慶永が回想している。「朝臣」の身分の要件は,「旧禄高の書上(調書)の提出」と「天皇に対して忠誠を尽くすという誓約書の提出」が求められていた。全員がその身分を得られるわけではないが,

「『朝臣』に関する審査基準は,家長もしくは嫡男など,一家の主もしくはそれに準ずる立場にあること,反政府活動に関与していないこと,明治元年(1868)九月二十五日(慶応四年九月八日に改元)の『朝臣願』の提出期限を守っていること,そしてそれに加えて,…禄高を得られる身分であること,」

である。「朝臣」の待遇は,

「家禄として一定の収入が保証された」

が,規準があり,旧録五千石以上は,家禄を千俵,三千石以上は,五百俵,千石以上は三百俵,五百石以上は二百俵,三百石以上は百五十俵,二百石以上は百俵,百石以上は五十俵,四十石以上は四十俵,四十俵未満は従来通り,とするというものである。

その狙いは,一方で戊辰戦争が継続する中で,数千の幕臣が政府側に留まり,反政府活動を抑止する効果があったが,同時に,行政の継続,連続性を保った効果も大きい。

「戊辰戦争において戦地となった場所は例外として,全国津々浦々が混乱を極め,略奪や暴行が横行したという事態に至っていないということは,少なくとも社会生活を維持できるような秩序が保たれていたということになる。行政が機能しない状態にはほとんどならなかったということになろう。」

たとえば,江戸城開城と同時に,東征総督府は,

「江戸町奉行に対して江戸市中の取締りに引き続きあたるように命じた。さらに,徳川宗家の静岡移封を決定した五月二十七日には,奉行以下,与力・同心を継続登用するものとして,『禄高扶持米等是迄通被下置候事』,すなわち待遇を改善せずに従前どおりとすることを達している。」

この他,開港地となった函館,神奈川,兵庫や長崎,大阪,京都など遠国奉行をおいて幕府が直接支配していた各地でも,奉行所の接収と,その人員の継続登用を行っている。これによって,

「400万石に及ぶ幕領の統治を,幕府が整備した行政組織をそのまま活用することで実現しようとした」

のである。では,そういう風潮を幕臣はどう見ていたのか。旧幕臣である渋沢栄一は,「武士は二君に仕えず」というのは少数派で,十中八,九は明治政府における出世を望んでいた,と振り返っている。著者は,

「忠誠心の問題に悩むことができたのは比較的高禄の旧幕臣にかぎられているかもしれない。江戸町奉行所が接収され,奉行以下,与力・同心に至るまでの全員が継続登用された…が,同心の禄高は三〇俵二人扶持,手取りの俵数に直しても四〇俵程度である。この収入を現代の現代の貨幣価値に…,あえて換算すると,100万円から200万円前後の年収に相当する。(中略)江戸町奉行所をはじめ,さまざまな奉行所で行政実務の最前線にあった同心クラスの旧幕臣は,忠誠心の問題に悩むよりは,日々の生活を支えていくことをそもそも悩まなければならなかったであろう。」

と。しかしその継続登用も,明治十年(1877)前後を画期として,行政機能の維持を目的として登用された幕臣たちは減少していく。

明治5年(1872)には,勅任官に占める旧幕臣は7%,判任官で35%を占めていた。しかし,

「明治政府が求める人材の要件が,行政機能の維持を優先することから近代化政策の推進に代わっていくことで,旧幕臣の入れ替え」

が生じていく。そして,最終的には,明治二十六年(1893)の文官任用令によって官僚の試験任用制度が確立するまで続く。

「明治政府の草創期に政府を支え,また維新の改革が軌道に乗るまで支え続けたのは,無名に近い,行政の現場にあった旧幕臣たちであった。」

ということは,改めて再認識するのは悪くはないとつくづく思う。

参考文献;
門松秀樹『明治維新と幕臣』(中公新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:54
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