2015年01月12日

李禹煥

DSC02456.JPG

牛に曳かれて,原美術館,

http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html

に出かけ,『開館 35 周年記念 原美術館コレクション展』

http://www.haramuseum.or.jp/jp/common/pressrelease/pdf/hara/jp_hara_pr_HMCollection_141204.pdf

を見た。美術館のコレクション展だが,何だが,肩透かしを食らった感じであった。草間弥生も,一点展示されていた(『自己消滅』)が,造形というか,オブジェが一点のみ,荒木経惟の『エロトス』の一部等々,写真も交じり,部分的に,インスタレーションのような部屋があり,と全体の統一性というか,まとまりというか,展覧会のコンセプトのはっきりしない美術展であった。案内では,「もの派」に焦点を当てたということだったが,美術のムーブメントに疎い僕には,さっぱりぴんと来なかった。

その中で,僕が個人的に面白かったのは,外のエアコンの室外機が,端正な日本庭園に,「恥部」のようだと,中国製の250円の竹ぼうきを並べただけのオブジェ,(杉本博司の)『アートのほうき』だっか,『かえりな垣』だったか記憶がはっきりしないが,窓越しに見えたのが,妙に印象に残った。そうか,竹箒を並べただけで垣根ができるのか,と別な感心をしてしまった。それがあるだけで,確かに窓越しに見る庭の風情が変わり,庭と竹(箒)垣とが,マッチしてしまっていたのが,作家の腕だ,と感心した。この辺りの,日常風景と地続きになっていくのは,観客と舞台を一つにしてしまったような,アングラ劇時代からの流れをふと感じて,勝手に妄想していた。ひとつの芸術作品の,この世へのありようとして,逆にインパクトがあった。これが収蔵作品なのかどうかは確かめなかったが,即興なのでないか,と勝手に推測している。

変な言い方だが,これが一番印象深かったのは,皮肉に思える。

作品群のなかでは,やはり,李禹煥(リ・ウーファン)の作品が,よかった。直島の李禹煥美術館で,彼の作品に出会って以来の久々の対面であるが,不遜ながら,近作(2012年)の『対話』は良くない,緊張感がない,と感じた。やはり,代表作の,『点より』『線より』シリーズからの,

「点より No79032」
「線より No790323」

の二作品が,圧倒的に印象に残った。好みを言えば,「線より」がいい。

しかし,よく聞くことは,どんな分野の作家も,処女作(もっと広く言えば,初期に達成した高み)を超えようとして,ついにに超えられない,という言葉だか,ここで並んでいる「対話」を見る限り,僕には,初期に,強烈にインスピレーションを得て,創り出した(だろうと,勝手に想像しているだけだが)「線より」「点より」のもつ,緊迫感と高揚感のようなものは,「対話」にはない。「対話」は落ち着きと静寂に「余白の芸術」という言い方もあるのかもしれないが,そこには,あまりオリジナリティを感じなかった。素人風の言い方なのは勘弁してほしいが,「点より」「線より」には,画面に時間がつなぎとめられていた。それは,生きていた。しかし,「対話」は,時間が死んでいた(と感じられた)。それを静寂というなら,そういうものは,とうの昔の絵画で達成されているような気がしてならない。すでに,それはやり尽くされていて,新しいパースペクティブを現出させるのは,よほどの力技かアイデアしかない。しかし,この作品からは,既にどこかで見た,というデジャヴを拭えなかった(まことに畏れ多いことだが,僕にはそう感じられた)。すでにある発想やコンセプトには,僕はあまり興趣を感じなかった。

美術館自身が,案内で,

「原美術館は一昨年,李禹煥作『対話』(2012 年)を収蔵しました。当館は初期の代表作『線より』(1979 年),『点より』(1979年),90 年代の大作『風と共に』(1990 年)3 点と立体作品『関係項』(1991 年)を既に収蔵しておりましたが,2000 年代の秀作が加わることにより,いまや唯一無二の存在として大きな役割を担う李の制作の流れを俯瞰できるコレクションとなりました。」

と誇らしげに言っているのだから,その四点を一堂に展示して,作家のキャリアの時間軸の中に,観客に身を置かせてもよかったのではないの?と,疑問を感じてしまった。ま,渋川と屋外にあるとのことだから,難しかったのかもしれないが,工夫の余地はある。すべてを映像で並べてみる手もあるし,実物に,画像を織り交ぜてもいい。キャリアの歴史を一堂に見せる余地はあったと思う(失礼!まあ払った入場料分ですのでご容赦)。

このほかでは,森村泰昌の『輪舞』,インスタレーションというものなのか,オブジェというものなのかは,わからないが,便器を抱え込んでいるピエロ(?)には既視感はなかった。

庭にあった,三島喜美代の『newspaper 84-E』という,英字新聞のも見捨てられたようなオブジェも,いろいろ考えさせられた。捨てられた新聞紙(過去の情報)は情報の墓場ではなく,ゴミに過ぎないのかもしれない。それと,ダニエル・ポムロールの,「自分に満足しない私』も,惹かれた。タイトル,にだが。

展覧会へ出かけるのは,新しいパースペクティブを手に入れるためだ。知識は,ある意味,

知ることは,超えることの前提である。

と吉本隆明が言うように,新しいパースペクティブを与えてくれる。しかし,絵画も,彫刻も,オブジェも,自分の知らない異空間のパースペクティブを与えてくれる。そのはず,と思って出かけていく。

たとえば,今回,美術館の庭の足元で,踏み石の上に,黒い御影石のようなものが乗っかっていた。そのとき,それは,並んでいたオブジェよりはるかにインパクトがあるように見えた(そこにあった李禹煥のオブジェのせいかもしれない)。その瞬間には,「おもしろい」と思えたのだ。しかし,帰って,改めて見て見ると,やはりただの踏み石に過ぎない。

別に何の新しい見え方を,あるいは新たな見方を手に入れてはいない。まあ,ひねくれ者が,ちょっと奇を衒ってみたものの,現に返ってみれば,ただの石というわけだ。

新しいパースペクティブが,そうそう手に入れられるわけはない。

今回は,李禹煥の「線より」に出会えたことでよしとしよう。






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:35
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