2015年02月17日

感じる


直感については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163385.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html

で触れた。人は,ざわつきとかざらつき,不快感という言い方をされるが,僕はあまり皮膚感覚的ではなく,異和感のようなものを感じる。

異和感については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399326821.html

で触れた。僕は,自分が論理的な人間でないことはわかっていたが,といって,感覚の鋭い人間ではなく,引き寄せとかということを誇っている人間を見ると,異次元の人間のように感じてきた。

例えば,思えば実現するとか,夢を描くと実現するとか,と言った類も,あまり信じていなかった。ただ,最近視点を変えて気づいたことがある。夢というのを,一生のドリームのように考えると,遥かな高みだが,こうなるといいな,と思っていたことが,まあ,実現している,というふうに思い当ることがある。

それは,レベルを変える,というか,水準を変える,という言い方もできるが,視点を変えてみる,ということだ。たとえば,顕微鏡で見るか,拡大鏡で見るか,望遠鏡で見るか,問題の設定を変えてみる,という言い方なのかもしれない。

それは,別の言い方をすると,こちらの感度を上げる,ということになるのかもしれない。大したことではないと,見過ごしてきたというか,見逃してきたというか,そもそも埒外に置いてきたことに,目を向けるということなのかもしれない。

もう少し違う言い方をすると,実現できていないことではなく,実現できていること,達成できていることに目を向けるということなのかもしれない。ほんの些細なことで,

この程度のこと,

と自分の関心の埒外に追いやっていた,わずかな達成を認めてやると,そのレベルで言うなら,まあ,いつの間にかできていると言えば言える,実現していなくもない,と不承不承,認めざるを得ないことに気づく。

何度も引用しているが,

「人生とは,何かを計画しているときに起こってしまう“別の出来事”のことをいう。」

という言葉にある,「別の出来事」というのを,何かしようとして,まったく別の道に,あるいは島に,たどりついてしまう,という言い方もできるが,富士山に登ろうとして,足柄山に登っているうちに,時間が尽きてしまう,という「別の出来事」だってある(これを,結果としての,クランボルツの「計画された偶発性理論」というものなのかもしれない)。その意味で,富士山は,達成できなかったが,山登りということで言えば,なにがしかが,達成できたということは出来る。

僕は,かつて,これはただの言い訳に過ぎない,と一蹴していた。あくまで目標は,富士山だったのではないか,それを,足柄山程度で自足してどうするのか,自己満足に過ぎない,あるいは,もっと手厳しく,自己弁護だと,思ってきたし,いまもそう思っているところがある。

しかし,人生の終点に近づきつつあるいま,上記の引用に続いて,

「結果が,最初の思惑通りにならなくても,――最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である。」

とあるのも,実感としてよく分かる。色恋のために,一生を投げ出しても構わない,という人を知っているが,その人は,その充実した人生を生き切って,死んだ。その意味で,自己評価の基準が違う。

ひとは,それぞれ目指すものがあって,スタートする。その目指すものを意識し,自覚したときが,

その人の人生のスタート

だと思う。それを役割と呼ぼうと,天命と呼ぼうと,使命と呼ぼうと,夢と呼ぼうと,志と呼ぼうと,大した差はない。

改めて気づく,

「“予期せぬ出来事”の中で全身全霊を尽くしている時,予期せぬ世界が開けてくる。」

という言葉にあるのは,そういう意味だ。予期した,あるいは,目指したものとは違っても,そこに,まぎれもなく,一つの視界が開いている。それが自分の達成したものだと,認めなければ,その先は壁にしか見えないだろう。

「いかに些細にみえることにも誠心誠意取り組んでいる時,それが真に必要であることなら“神業”が起こる。」

かどうかは,わからない。問題は,横道だろうと,脇道だろうと,そこで,

言は必ず信,行は必ず果,

と有言実行しているかどうかなのだろう。「アカウンタビリティ」を,有言実行と訳した人がいるが,言ったことは,誠実に実行するから,言は必ず信,となるのであって,「信」は自分が決めるのではない。「果」が,結果として「信」をもたらす。有言実行たるゆえんである。それを,責務の果たし方や,責任の取り方と,別の視点から言うにすぎない。

近頃,歳のせいか,魂というものを意識するようになった。というより,魂魄と言った方がいいか。

「魂」は,陽,「魄」は,陰。

という。「魂」は精神の働き,「魄」は,肉体的生命を司る活力だとされ,人が死ねば,魂は遊離し天に昇るが,なおしばらく「魄」は地上に残る,と考えられていた。

「魄」は,「鬼+白(ほのじろい,外枠だけあって中味のない,色のない)」。人の体をさらして残った白骨,肉体の枠のことから,形骸,形体の意となった。「魂」は,「鬼+云(雲,もやもや)」。「云」の字は,息や空気が曲折して立ち上がる様を示す。口の中に息がとぐろを巻いて口ごもること,雲(もくもくと上がる水気)の原字。「魂」の「もやもやした」ニュアンスがある。

両方とも「鬼」の字があるが,これは,大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いた象形文字である。

たしか,前にも書いたが,死ぬ直前,ベッドから幽体離脱して,ベットに横たわる自分,その周りの親族を見るのだという話を聞いたことがあるが,脳の右側の頭頂葉にある「角回」を刺激すると,

「被験者の意識は2メートルほど舞い上がり,天井付近から,『ベッドに寝ている自分』が部分的に見える」

のだそうだ。そして,この部位が,自分を客観的に見る,機能を果たしているのかもしれない,そうだ。

「有能なサッカー選手には,プレイ中に上空からフィールドが見え,有効なパスのコースが読める人がいます。…さらに言えば客観的に自己評価し,自分の振る舞いを省みる『反省』も,他者の視点で自分を眺めることが必要です。……幽体離脱の脳回路は,俯瞰力のために備わっているのかもしれません。」

と。ただ,魂を所与とは考えない。

「魂はあるものではなく,創造されるものだ」

というのが正しいように見える。スピリチュアルの世界ですら,

「これを開発するのが個人の責務」

という言い方をしている。ただ,それを神田橋條治さん流に,「遺伝子の開花」と呼んでも同じことだ。

「魂を語ることを怖るるなかれ」

というのは,そういう意味と受け止める。あるいは,それは,自分の中の,

ホムンクルス

のことかもしれない。おのれを見るおのれ,である。

参考文献;
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社)
アン・ドゥーリー編『シルバー・パーチの霊訓』(潮文社)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:21
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