2015年10月07日

鞠躬如


鞠躬如は,

きっきゅうじょ

と読む。辞書(『広辞苑』)には,

「如」は語調を調えるために添えた語,

とあって,

身を屈めてかしこまるさま,

という意味とある。あるいは,別の辞書には,

身をかがめて、つつしみかしこまるさま,

とあり,使い方として,

鞠躬如(恐怖・不安の表現)
鞠躬如(緊張の表現)

の二例が載っていたりする。僕の記憶では,確か,『論語』に,その言い回しが載っていた記憶があり,調べると,「郷党篇」に,こうある。

「公門(こうもん)に入るときは,鞠躬如として容(い)れられざるが如くす。立つに門に中(ちゅう)せず。行くに閾を履(ふ)まず。位(くらい)を過ぐれば,色勃如(ぼつじょ)たり,足躩如(かくじょ)たり。其の言うこと足らざる者に似たり。斉(し=もすそ)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るに,鞠躬如たり。気を屏(おさ)めて息せざる者に似たり。出でて一等(いっとう)を降(くだ)れば,顔色(がんしょく)を逞(はな)って怡怡如(いいじょ)たり。階を沒(つく)して趨(はし)り進むときは,翼如(かくじょ)たり。其の位に復(かえ)るときは,踧踖如(しゅくせきじょ)たり。

貝塚訳では,

孔子が宮廷の御門にはいられるときは、体をまるくかがめて,まるで狭い門をやっと潜り抜けるようになさる。門内では主君の通り道である中央部には決して立たれない。門の敷居を踏まず,跨ぎこされる。広場に入って,儀式のとき主君が決まって坐られる場所を通り過ぎるときは,主君がそこにおられるかのように顔色は改まり,歩き方はためらってゆるく,ことばすくなになられる。御用で,衣の裾を持ち上げて,宮廷の階段を堂上に昇られるときは,身体を丸くかがめられ,息を吐くのをとめて,まるで呼吸しないかのようにされる。堂から退出して階段を一段おりられると,顔つきはぼれてのびのびとされる。階段をおりきると,少し身をかがめて小走りにするすると進まれる。もとの主君の座席のそばにもどられると,またうやうやしくなさる。

となる。貝塚注では,「鞠躬如たり」について,

「ふつうからだを鞠のように丸く曲げることだとされている。これに対して,廬文弨は『鞠躬』という熟語として,恐れ慎む形容だとしている。このほうがよさそうである。恐れ慎むのが原義だとしても,ここでは恐れ慎むのあまり,体をすくめて門に入り込むことを言っているのであるから,身を屈めてと意訳した。」

と注記しているので,鞠躬如が,いまは熟語になっているが,かつてはそうではなかったことを忍ばせる。あるいは,『論語』辺りが出典なのかもしれない。ここには,「如」を加えた言葉が,連発している。
色勃如たり(緊張した顔色),
足躩如たり(小刻みに歩く),
怡怡如たり(なごやかに),
翼如たり(翼を拡げた鳥の様にのびのびと),
踧踖如たり(恭しい態度),

等々。しかし,「郷党篇」には,孔子の言行の記録(例の作法)との紹介の要素があり,

恂恂如(じゅんじゅんじょ) 恭慎のさま。口をもぐもぐさせてよくしゃべれない
侃侃如(かんかんじょ) 和楽のさま(古注)。ビシビシと話す(新注)
誾誾如(ぎんぎんじょ) 中正のさま(古注)。和やかに論争する(新注)
踧踖如(しゅくせきじょ) 教敬のさま
與與如(よよじょ) しずしずと進む

等々と出てくる。こう見ると,「如」は,単なる語調ではないのではないか。

「如」は,

ごとし,
~のようだ,
~と同じくらい,

と使われるが,「口+女」で,もとは,

しなやかに,という柔和にしたがう,

という意味。しかし一般には,

若とともに近くもなく,遠くもないものを指す指示詞に当てる,

とある。さらに,

「A是B」は,AはとりもなおさずBだの意で,近称の是を用い,「A如B」(AはほぼBに同じ,似ている)という不即不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を示す「如(もし)」も,現場にないものを指す活きの一用法である,

とある。まあ,いまふうに言うと,直喩である。直喩は,前にも書いたが,

直接的に類似性,

を表現する。多くは,「~のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「~そっくり」「たとえば」「~似ている」「~と同じ」「~と違わない」「~そのもの」という言葉を伴う。従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。その意味で,鞠躬如が,

鞠のように丸く曲げること,

と,僭越ながら,貝塚注にあったのは意味があるのではないか。

諸葛孔明.jpg


ところで,「鞠躬」を調べていて,『三国志』に,

「鞠躬尽瘁」(きっきゅうじんすい)

と言い回しがあるのを知った。諸葛孔明が、五丈原での決戦に向かうに先立ち,蜀帝劉禅に提出した,所謂,

「後出師の表」

の最後の文句に,

「臣鞠躬尽瘁、死而後已」(臣、鞠躬して尽瘁し、死して後已む)

とある。ここでは,「如」なしに,「鞠躬」が「身を低くしてかしこまる」意で使われている。「~のような」なしで,人口に膾炙する時代になっている,という証のようなものである。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
http://lunyu.lightswitch.jp/?eid=11#01










ホームページ;
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posted by Toshi at 05:23
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