2016年01月04日

チョムスキー


田中克彦『チョムスキー』を読む。まさに一気呵成に読ませる。1983年に書かれた本書が,今どんなポジションにあるかどうかとは別に,チョムスキーを,言語学の歴史全体の中で,クリアに位置づけて見せていることは,今も変わらないはずである。

田中克彦『チョムスキー』.jpg


著者は,序論で,

「本書での役割は,チョムスキー学者としてその著作の数々を祖述することではないから,その理論構成の基本的な特徴のみに焦点をしぼって,かれの思想をあきらかにすることである。」

と書く,その意図は達成されている,といっていい。著者は,音もなく先住理論と後退して支配的位置を占めたチョムスキー理論は,日本では,

チョムスキー革命,

を起こさなかったと皮肉り,本書の動機をこう書く。

「私が本書を書くきになったのは次のようなちょっと困った人に出会う機会が多いからである。それは,チョムスキーが天才的な言語理論の開発者であるというふれ込みをすなおに受け入れ,その天才的,革命的なるもののなかみを問わず,単にその政治的批判の姿勢に共感して好意を抱いている人たちである。ほんとうはその人たちは,言語学名士であるチョムスキーの威光にすっかりまいってしまった,俗物の肩書き信者にすぎないにもかかわらず,チョムスキー思想の理解者であるかのような口ぶりをしている。これこそチョムスキーが批判した,専門テクノクラート信仰の実例そのものではないだろうか。現代の状況からすれば,チョムスキー自身が,無駄な探索だと斥けている,専門の分野における理論と,その一般的な思想的背景との関係を明らかにすることは,意味を失っていないばかりか,ますます重要になっているとさえ思われる。」

その状況は,おそらく,いまも,少しも変わっていない。そこで,本書は,

「私たちは,『革命』ということばにつられて,そのなかみまでわかってしまったような気になっては困る。チョムスキーが言語学において行なった『チョムスキー革命』は,いったい何を革命したのか。何を革命しなければならなかったのか。その革命を行うためにどんな装置を用いたのか。その装置はどこまで有効であったのか。それと同時に,革命が必要とするモデルの教条として,チョムスキーは何を盾にとったのか。その教条,およびその解釈は,我々にとって受け入れられるかどうかということを検討しなければならない。」

この冷静な,「革命の主体としてそこに参加する勇気も展望も持つ義理のない」立場から,いわば,メタ・ポジションから,

「それはわれわれにとってほんとうに革命なのか反革命なのか」
「この革命は学問の世界の中で,とりわけ政治がらみの学問のなかでどのような反応を引き起こしたか」

等々,を順序立てて展開していく。

まずは,その革命の装置は,次のようなものである。

「その装置の第一は,現実にある言語の外に別の言語―これは考え方によればすでに言語ではないのであるが―
を設け,言葉の現象は,すべてそこ(深層構造のこと)へもどして,あるいはそれと関係づけることによって説明することにした。」

それは,これまで「ことばの科学」たらんとして,ひたすら音や言葉,文字だけを対象としてきた言語学に,コトバを現象させるココロを持ち出したことになる。

「実際にあらわれた言語表現,すなわち『表層構造』(日本語の訳者によっては『表面構造』とする人もある。『表面』は『表層』よりも,直接目に見えるという感じを表している点ですぐれている。もとの英語はsurface structure)は,その『深層構造』とは『一般に別物』であると言っている。それらが『別のものである』(distinct)として,別の二番目のことばを仮定した―それは仮定でしかない。なぜなら表にあらわれておらず,見ることも聞くこともできないのだから―これがチョムスキーに革命を可能ならしめた第一の,しかも最も重要な装置だった。」

言語しか対象にしない言語学は,実際に生じた発話を集める。

「手に入るかぎりの,ある特定社会,ある特定個人の言語から集めた,まとまった資料の総体をコーパス(corpus)と言い,それが記述言語の作業の対象となり,基礎となる。」

しかし,チョムスキーにとって,

「より本源的でかんじんなのは,実演によってコーパスを産み出すそのもとに,言語を使う人間の能力(competence)があるのだから,その根元にある能力を描きだすことの方がより本質的だと考えた。つまり,この能力がそなえている基本的な(言語)形式があらゆるじっさいの言語表現―つまり表層構造を作りだしているもとなのである。それぞれの言語は,この深層構造を,一定の規則にもとづいて変形し,表層構造において,いわゆる言語として実現する。」

この深層構造は,抽象的だが,ポール・ロワイヤルの文法理論から要約される。これも装置である。

「いくつかの命題(proposition)から成るひとまとまりであって,…その命題の基本系は単純な『主語+述語』である。」

深層構造を表層構造につなげていくための変形規則が文法となる。それは,深層構造で,

「ただナントナク,ココロのなかで思われるだけ」

のものが,

「『一定の精神的操作』によって表層構造として姿をあらわす。『この一定の精神的操作』は,きっとこんなぐあいに行われるにちがいないと見当をつけて,その深層(ココロのなかのオモイチガイ)が表層(現れたことば)へと行きつくさまをいくつかの規則として引き出し,それをまとめたものがチョムスキーの言う『文法』である。」

そうすると,語られている表層構造ではなく,十個ばかりのタイプに記せられる深層構造だけが対象になる。それは,

意味,

であり,

思考の形式の反映,

であり,

全ての言語に共通(あるいは同じ),

とされる。言語の違いを超えて深層構造が同一なのは,

人間という種に共通の器官の能力

だから,という。

「人間という生物のうちの特別の種が,種として授かった器官の能力として発生するものだと考える。この器官の中には,原語を組みたてる理論や文法がセットされている。」

つまり,チョムスキーは,

「言語理論(あるいは『普遍文法』)とは,ぼくたちが生物学的な所与であると仮定できるもの,つまり人類という種の発生学的に決定された特性だ。」

というのである。それは,

「後天的に,経験的に見につけるような能力ではなく,生まれながらにして,その種の特性として,もって生まれてくる能力」

らしいのである。そして,

「普遍文法を一つの臓器として内蔵してうまれてきている」

とし,それを,

言語獲得装置(language acquisition device),

略して,LAD,と呼ぶ。しかし,これは,「仮定」に過ぎない。その仮定のもとに組みたてられた,深層構造であり,表層構造ということになる。

「深層構造,言語能力(competence),普遍文法,言語獲得装置,心的器官等々」

の概念によって,「いわゆる近代言語学の方法を全く逆転させて」,つまり,現実の言語を通して一般化する作業ではなく,「見えないが,論理的に仮定される一般文法から,つまり普遍の方から出発すべき」としたということになる。

著者は皮肉を込めて,

「チョムスキーの言語理論の骨組みは,まずはこの深層構造なるものの存在を信ずるよう説き伏せ,認めさせたところで築かれ,それが確立されると,さらにそれを現実の言語へと変形させる(transform)規則を設けることになる。」

と。しかしである,変形を論じうるのは,

「常に深層構造というものが準備されているからで,表層構造同士の比較は,かならずこの深層を介して行われるのである。その深層構造は単純で,従ってそれ以上何かに還元できない構造をもち,一般的に主語+述語の形をとる命題である。その命題は,常に肯定文の形をとるものとされており,その命題に,否定変形規則,疑問変形規則,受動変形規則などをくわえて変形させることによって,一つの命題から,否定文,疑問文,受動文などが生成されて,表層に現れるのである。深層構造は,そうした操作を受けて具体的なことばとなる以前,心の中にだけ思い描かれる抽象的な構造である…。ところが,そのような心に描かれただけの言語以前の何かを言語学者は意味とは呼ばなかった。ふつう言語学では,ことばの形をとって具体的に言い表されたもののなかにだけ意味を認める。」

以上がチョムスキーの装置である。当然仮説に仮説を重ねている。その補強のために,ポール・ロワイヤルの文法理論以外にも,

デカルト,
フンボルト,

という古ぼけた権威を借りる。著者曰く,

「デカルトとフンボルトのかけあわせは,チョムスキーによる最大の発明品だったというべきであろう。…これらの思想的権威を味方に引き入れ,うしろだてにしたてあげることによって,基本問題が通過しなければならない難所をきりぬけた…。」

と。では,この「革命」で何をもたらしたのか。言葉は社会的なものであった。しかし,

「チョムスキーは言語のあり場所を,社会や大衆などではなく,生物的個体の中に閉じ込めたのである。」

そして,

「個々の言語の研究は,原語の本質の解明にとってはもはや無駄な骨折りであって,英語をしらべれば,すべての言語にもあてはまる一般理論が引き出せると信じている」

この言語の多様性の否定を巡って,著者はひとつの仮説を,さりげなく述べている。

「ザメンホフが,実用の領域でエスペラント語という普遍的な混成共用言語を思いついたのと全く同様,チョムスキーは,現実にある,個々の言語に手をつけることなく,理念の上で,普遍言語を作りだしたのであると。それがほかでもない深層構造であった。」

脳科学者からの生成文法の脳内根拠,つまり認知のシステムの研究プロセスについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163351.html

で,すでに触れたが,他の動物が生得的に鳴いたりするのと違って,人間は,社会的に学びつつ言語を得ていく。言語化の器官的な根拠があるとしても,チョムスキーの仮定したようなものではない可能性が高い。

日本語学者が,日本語の構造を通して,チョムスキーの仮説を立証したのか,反証したのか,知らない。文脈依存度が高い日本語に,文脈抜きで深層構造を想定するのには,少し無理があるような気は,素人ながら,推測できる。

著者の次の言葉の意味する射程は長く深い気がする。

「チョムスキーの言語モデルには,各人は,その言語能力に見合った言語運用をするものだという前提が含まれている。このモデルには,言語というものが,その他の表現行為ときりはなしてとらえられている。したがって,かれが考え出して示す,いわゆるあいまい文は,いっさい文脈ぬきの,意図して曖昧が起きるように作られた例文である。しかもその例文は,印刷言語のレベルだけで観察されている。
人間の表現手段は言語だけに限られてはいないのであって,その場に前提された言語外の状況や,表情,身振りなどと幾層にも組み合わさっている。
深層構造が表層構造に,有形なすがたをとって,かけねなくあらわされるかどうかは,言語ごとにいちじるしく異なっている。それは単に言語の構造によって異なるだけでなく,その言語が用いられる文化的環境の相異や,社会階層の相異によって異なるのである。」

参考文献;
田中克彦『チョムスキー』 (岩波現代文庫)


ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:33
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