2016年05月11日

つう


「つう」は,

通,

と当て,辞書(『広辞苑』)には,

「慣用音。呉音はツ」

とある。念のため,漢字「通」を見ておくと,しかし,

呉音ツウ,漢音ツ・トウ,

とある。別の漢和辞典を見ても,同趣のことが書いてある。しかし国語辞典は,他のものも,

「ツウ(慣) ツ(呉)」

と記す。この是非判断はつかない。この場合は,漢和辞典を取るしかないだろう。因みに,「通」の字は,

「用は『卜(棒)+長方形の板』の会意文字で,棒に板をとおしたことを示す(それが転じて通用のこととなり,力や道具の働きを他の面にまで通し使うこと,となる)。それに人を加えた甬(ヨウ)の字は,人がとんと地板を踏み通すこと。通は『辶(足の動作)+音符甬』で,途中仕えて止まらず,とんと突き通すこと」

とある。「つう」は,この「通」の字のもっている意味を広げたものとみなすことができる。で,「通(つう)」の意味は,

とおること,とおすこと,

の意味から,

かようこと,いききすること(「交通・通学・通勤),
知らせること,伝えること(内通・通知・通信・通告・文通),
全体に行き渡る,一般に広く行われる(「通常・通説・通俗・通念・通有・通用・共通」),
・弘通 (ぐずう) ・普通」
ある範囲の全部に及ぶ(「通算・通史・通読・通年」),
男女が交わること(「姦通・私通・密通」),
全体を経過すること(「通算・通読・通年」),

と広がり,

ある物事を広く知っている,知り尽くしていること,物知り(「通暁・通人・食通・精通・消息通」),
物事を自在に操る働き(「通力・神通力),

にまで至り,物知りの特殊事情として,

人情や花柳界の事情などをよく知っていて,捌けていること,野暮でないこと,またその人,

という意味があり,いま,「つう」というと,物知りであることと同時に,

粋,

という含意があるように思う。現に,『古語辞典』には,「行き通ること」「通力」の他に,

「(その道に通達するの意から)粋(すい)③に同じ。近世後期明和・安永頃,管楽の影響で遊里に発生した流行語」

とある。「粋」には,

物事に精通してすぐれていること,またその人,

という意味があるが,③にあるのは,

「遊里の事情に佳く通じ,言動がおのずからその道にかなう,洗練された遊興の態度,またその人」

と,限定された意味になる。『江戸語大辞典』を見ると,

粋(すい),いき,
粋人,通人,通り者,

と載る。『大言海』をみても,通人と通り者はほぼ同義で,「通人」は,

達人の意,

とある。「通り者」は,いまではほぼ使われないが,

世間一般にその名の知られているもの,
人情・世上の機微に通じた者,通人,粋な人,転じて放蕩者,道楽者,
侠客,博徒,遊び人,男だて,

とある。これを見る限り,通り者とは,まともに仕事をせず,放蕩して,世に知られている,というふうにしか,読めない。世に言う,

粋人,通人,

のイメージとは違うように思う。その答は,やはり,三田村鳶魚にあった。こうある。

「粋(すい)といえば上方言葉、通り者といえば江戸言葉だと思っている。それについては、『洞房語園(どうぼうごえん)』に収録した「待乳(まつち)問答」というものがありますから、その文を出しておきましょう。

『世人皆放埒成る博奕の徒をさして通りものといふ、然らず、爰に大言せば、天下の事に於て通ぜざる所なきを聖といふ、世俗の人に於いても、諸事に事馴れて、能く捌けたる者を、関東にて通り者といふ、かの通ぜざる所なしといふ通の字を借り用ひたるもの也、京にて粋といふ事は、六芸及び諸事に渡りて、其道々に達して精しき者を粋といふ、精と粋とは字意相通ず、文筆に精しき者は文筆の粋也、音楽に精しき者は音楽の粋也、』

『下手談義』に、「通者、江戸にて博奕するものゝ別号也」ときっぱり いってある」

と。どうやら,粋の「いき」の中身が,江戸へ出て,すりかえられたもののようである。

「では、『通り者』という言葉をどういうふうに使っ ているかと思って捜してみると、随分沢山あるようですが、大概、気の利いたという方の意味に使っている。任侠という方の意味に使っているのは、『棠大門屋敷』に、此亭主かくれなき通者、筋の通りたる事に、たのまれて一足もひかぬ男。と書いてある」

つまり,「通り者」という言葉は,

「筋の通った者」

という心持で使われている。どうやら,「任侠」のいみの,「筋」である(筋目とか筋者とかという言い方をするように記憶している)。

「元文から宝暦まで、この三十年ほどの間に、通り者というのが任侠の意味らしく扱われている。前には、廓の言葉として、粋だの通だのという言葉が遣われていた。これが訓でよむようになって、通り者ということになると、今まで通といった 心持とは違って、別な意義 になってまいります。」

と,そして,こう付け加える。

「侠客というものと博徒というものとは、自ら違うのであって、侠客は侠客、博徒は博徒で、侠客のすべてが博徒でもなければ、博徒のすべてが侠客でもない。ですから、博奕打のことを、寛保・延享の頃は『通り者』といっております。」

遊里ではやった通人とは,別の意味の通人,通り者のイメージに変じている。しかし,通り者イコール通人と,辞書に載れば,「いきな」イメージになる。

「かぶき者・町奴・きおい組・通り者・大通、この大通がまた分れていって、通人となり、通となっている。それから勇み、勇み になれば、江戸ッ子の一般の姿といっていいでしょう」

と鳶魚が書き加えたとき,江戸ッ子にも,どこか(粋ではなく)通り者の気風がある,と言っている。それは,男立と通底しているものがあるのかもしれない。男立(男伊達)については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163232.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/435961747.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/435836567.html

等々で触れた。この「男」とは,士の意味である。

参考文献;
三田村鳶魚『江戸ッ子』(Kindle版)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)


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posted by Toshi at 04:56
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