2016年10月22日

列島の古代


三浦佑之『古代研究-列島の神話・文化・言語』を読む。

古代研究.jpg


サブタイトルに,

列島の神話・文化・言語

とあるのは,「まえがき」にある,

「たしかに古事記という作品はおもしろい。しかしわたしは,(中略)どちらかといえば,かなりうさん臭い書物ではないかと考えている。そして,だからこそ古事記はおもしろいのだ。
 古事記を読んでいると,いろんなことが見えてくる。いや見えなくなってしまう。古事記のことばを追いかけていると,その表現の奥に引き込まれてしまうからではないかと思う。結局あれこれと考えながら,いつのまにやらわき道へ迷いこんでゆくことになる。するとそこには,また得体のしれない神話があり,生活や思考があり,ことばがある。だから,そこでの遊びに夢中になってしまう。…。
 作品のなかに閉じこもるのではなく,作品から外の世界へと放り出され,それによって新しい何かに気づかされる。わたしが古事記という作品を好きなのはそういうところだ。そして,この本にはそうした古事記から放り出された旅の記録が集められている。」

その通りに,古事記をめぐっての旅である。

「基本スタンスは,このわたしたちの住む列島を広がりのある世界として眺めてみようとしているのだ。律令国家ができて以来,一つにならなければいけないように仕向けられてきた思考を,いちど解放して解体してみたらどうなるか。」

という姿勢である。たとえば,

「古代についての文章を書くとき,わたしは二つのことを意識している。それは,神武とか仁徳とか天武とかの漢風諡号の使用をできるだけ避けること,七世紀半ば以前をいう場合には『天皇』および『日本』という称号の使用を必要最小限におさえること,この二点である。」

という。ここに,著者の我が国に奥行と多様性を見ようとする視点がある。

「ほとんどの古代史や古代文学の研究者なら,『古事記』という作品には,『天皇』という語は多用されているが,『日本』という語は一度も使われておらず,ヤマトは『大和』ではなく『倭』と表記されているということは知っている。もちろん,八世紀後半にならないと漢風諡号の使用は認められないというのも常識である。でありながら平気で,雄略天皇とか天智天皇とか表記したり,六世紀の日本と呼んだりする。」

この問題意識は,すごく重要である。その当時,日本とか韓国があったのではない。倭があり新羅があり,百済があった。それは,そのまま今日の日本でも韓国でもない。しかし,

「それに慣らされてしまうとどうなるか。極端な言い方になるが,神武や仁徳や雄略や天智や天武が自明の存在になってしまい,本当は存在しない『仁徳天皇』を,五世紀初頭に実在したと思い込んでしまうことになる。そうした思考回路をいったん中断して,『オホサザキ』と表記し,天皇ではなく大君とか大王とか呼んでみると,『仁徳天皇』と呼んでいた時とは別の,五世紀初頭に難波を中心とした地域を支配した王を想像できるようになる。それは古代を考えようとする場合にとても重要なことだ…。」

八世紀に,大和朝廷が作り出した天皇像に基づいて歴史を見ることは,そのままその虚像を肯うことになる。もっと多様で,各地に大王がおり,多様な古代があったことを,一色に塗りつぶしてしまう。その目で見れば,すべてが,そうしか見えなくなる。

『万葉集』の山上憶良の歌に,

いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ

があるが,この「日本」は,「にほん(にっぽん)」と読むらしい。多くの『万葉集』の「日本」は「やまと」と訓ませるが,この歌の成立期,七世紀末には,「日本」という国名が成立した傍証になる。

「『日本』はそこではじめて誕生したのであり,それ以前に『日本』は存在しないのである。」

そして,

「『天皇』と『日本』とはセットになった呼称であり,(中略)681年に編纂が開始されたのは,『日本書紀』によれば律令だけではない。二月に律令の編纂が命じられ,三月には史書の編纂が命じられたと『日本書紀』は記している。そして,この時に開始された歴史書の編纂事業が720年(養老四年)の『日本書紀』に結実することになった。…そのとき完成したのは『「日本書」紀』であり,完成形として目指していたのは,紀・志・伝のそろった『日本書』であった。そしてその書名には,国名としての『日本』が用いられたし,『「日本書」紀』の本文にも,『日本』が溢れている。
 それに対して,『古事記』には『天皇』は存在するが,『日本』は存在しない。そこに『古事記』と『日本書紀』との歴史認識の違いが如実に表れている。」

こう考えると,次の指摘は首肯できる。

「古代の日本列島を考えようとして『日本』と発想してしまった途端に,日本列島は単一の国家に塗り込められてしまうのである。それを,ヤマトと言い換えた時,ヤマトの隣にはキビがあり,その向こうにイヅモがあり,遥か北には,エミシと呼ばれる人たちが自分たちの世界を営んでいたはずだと想像することができるのだ。」

その視点で見るとき,

「ヤマト(邪馬台)国が九州説と大和説に分かれて決着がつかないのは,どちらにしても,一つの起源を欲しいからにほかならない。
 ヤマト国はヤマト(倭・大和)にあったのだということを認めたうえで,そのヤマトとは別に,九州の北部にも日本海沿岸の弐氏のほうのイヅモに東のほうのコシ(高志)にも,瀬戸内海沿岸地域にも伊勢湾沿岸にも,さまざまに王権の萌しがあって相互に対立し繋がり,海彼の世界とも交流しながら存在したのだと考えることから出発するのがいいのではないか。」

という主張は,今日,アイヌの存在を否定し,少数民族としての琉球の存在を認めない状況では,特に重要に思える。では,仁徳天皇ではなく,オホサザキと表記してみると,そこから何が見えて来るのか。

「オホサザキという音だけをたよりに連想をはたらかせれば,サザキは,(通常言われているような鳥の名の)ミソサザイである前に,『陵墓』という意味を引きだしてくる。『日本書紀』の『陵』は『山陵』という漢字は,『日本書紀』の古訓や平安時代の古辞書などをもとに,ミサザキ(ミササキ)と訓読される。(中略)
 語構成は,『ミ(御)+サザキ(陵)』で,サザキが陵墓を表す言葉であったらしい。(中略)当然それは,オホサザキが葬られているとみなされている大山(仙)古墳(大阪府堺市大仙町)を想起させる。(中略)とすれば,その呼称は死語に生じたのかもしれないし,生前から墓が造りはじめられたからそう呼ばれることになったのかもしれない。」

ここに見えるものの方が,はるかに豊かで奥行があるように,僕には感じられる。

参考文献;
三浦佑之『古代研究-列島の神話・文化・言語』(青土社)


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posted by Toshi at 04:49
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