2020年11月29日

伝承の検証


白川亨『石田三成とその一族』を読む。

石田三成とその一族.jpg


津軽に現存する、

三成の末裔、

とする、

杉山、
岡、
山田、

の三家の伝承にある、

三成三女・辰姫が、初め太閤政所の養女となり、その後津軽信牧公に嫁いだ、

とする記録をもとに、三成の子供たちのその後を辿り、さらに三成閨閥をも辿りなおして、その伝承を検証していく。

正直、三成になんのゆかりもない人間にはどうでもいいようなことだが、この執念は、ほとほと感心する。私のような、何処の馬の骨かというレベルの出自の人間には、おのが係累はさほどに重要なのか、と半ばあきれ、なかば驚嘆しつつ読み飛ばした。ひところはやった「ルーツ」の、キンタ・クンテの、奴隷として連れてこられたおのれの三代にわたるルーツ探しとは動機が異なり、三成の雪冤といいつつ、どこか、自慢気に感じられたのは、僻目だろうか。

辰姫の生んだ三代藩主信義、

は、その後十代信順まで男系が続いた。この縁を頼って、三成の子孫たちは、津軽家へ仕官することになるが、その細部はともかく、最も面白い機縁は、

三成の次女の嫁いだ、蒲生家重臣岡半兵衛の子息岡吉右衛門、
と、
春日局の従姉古那(祖心禪尼)(夫は、蒲生家時代の同僚・町野幸和)の娘たあ、

との間に生まれた、

お振りの方、

つまり、三成曽孫が、将軍家光の側室となり、

千代姫、

を産み、千代姫が、尾張二代藩主光友に嫁し、

三代綱成、

産んだということだ。この経緯を、

「祖心禪尼(古那)の孫・お辰の方を寛永三年(1626)養女に迎え、やがて、三代将軍家光の側室として送り込んだのは、紛れもなく春日局である。また、祖心禪尼の夫町野幸和を、寛永九年(1632)直参旗本に推挙したのも春日局である。したがって、春日局が、お振りの方の素性を知っていたと考えるのが自然」

と書く。春日局(於福)は、周知のとおり、

明智光秀の重臣・斎藤内蔵助利三の娘、

である。悲惨な亡命生活の間、於福親子を支援したのが、画家の、海北友松とされる。その海北と三成は、ともに春屋宗園を参禅の師と仰き、三成長子の宗亨禅師(石田隼人正重家)を支援したとされる。

「尾張徳川家は千代姫を通じて三成の血流が続いているはずである。そのほか、津軽家は比較的庶流が多く、また、女系も多いことから考えると、それらを含めたら優に数万人を超える人々に、三成の血が伝えられている計算になる」

とか。しかし、無名の人の血脈も、辿れば、これに近くなる。それは三成の血脈だけではあるまいが。

十年に及ぶ三成の伝承検証を終えて、著者は、三成像を、

「太閤の遺託に応えようと、躊躇する諸将を誘ってこの戦いに臨んだが、戦い吾に利あらずして敗れ去った。この責任はすべて吾にある」

と、捕縛されたとき、語ったという言葉をまとめにしている。しかし、私は、処刑前、水を所望したが、代わりに柿を出されて、それを「体に悪い」と食べるのを断ったというエピソードの方が三成らしい気がする。細かいことは忘れたが、フランス革命時、刑場へ行くまで、読んでいた本を、折り目を付けたのを、じきに処刑される身なのにと獄吏に嗤われたフランス貴族の姿勢と通じるものがある。それは、自害しなかった三成を、

戦いに敗れても自害もせず、縄目の恥辱を受けるとは、貴公にも似合わぬことである、

と咎めた本多正純に、

汝は武略を露ほどもしらない。大将の途を語るとも耳に入るまい、

と答えて、以後一言も口をきかなかったエピソードに重なる。最後の最後まで、おのが望みを捨てない、という矜持である。

参考文献;
白川亨『石田三成とその一族』(新人物往来社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:29
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