2022年06月10日

零落した神


柳田國男『一目小僧その他』を読む。

一目小僧その他.jpg

本書には、大まかにわけて、

一目小僧、
目一つ五郎考、
鹿の耳、

の御霊信仰、

橋姫、

の橋姫信仰、

隠れ里、
魚王行乞譚、
物言う魚、

の神霊譚、

流され王、
ダイダラ坊の足跡、

の異種神信仰、

餅白鳥に化する話、
熊谷弥惣左衛門の話、

の霊異信仰、

が掲載されている。一言で言うなら、

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。」(「一目小僧」)、
「それが次々にさらに畏き神々の出現によって、征服せられ統御せられて、ついに今日のごとく零落するに至ったので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首でも、かつて一度はそれぞれの黄金時代を、もっていたものとも想像し得られるのである。」(ダイダラ坊の足跡)、

などというように、

信仰の対象であったものが零落し、妖怪と目されるようになっていく事例、

ということになる。その信仰が残っている間は、

伝説、

として語られる。もとは神聖なる神話であったかも知れないが、信仰の零落に伴って、伝説から信仰が失われると、やがて、

語り物、
あるいは、
昔話、

の形式となって語りつがれてゆくことになる(「物言ふ魚」)。

「説話と伝説との分界を、明らかにすることがことに必要である。説話は文芸だから、おもしろければ学びもしまねもしよう。伝説に至ってはとにかくに信仰である。万人がことごとく欺かれ、または強いられて、古きをすてて新しきに移ったとは思えぬ。外国の教法がこの土に根づくために、多くの養分日光をここで摂取したごとく、伝説もまたこれを受け入れて支持する力が、最初から内にあったがゆえに、これだけの発展をとげることが可能であったかも知れぬのである。伝説から信仰が失われると、あるものはやがてそれが語り物、あるいは昔話の形式となって語りつがれてゆく。」(魚王行乞譚)

だから、「日本伝説目録㈠」と名づけて、若き著者が、抜書き、整理したもののメモに、

「明に虚構と認めらるゝは如何におもしろくとも採らずただ迷信によりて伝はれるをのこし外国伝説のつくりかへ又とらず」

とあるという(小松 和彦「新版解説」)のも、その原則が早くから著者の基準にあったという証なのだろう。だから、
たとえば、

江戸本所の七不思議の一つ、足洗いという怪物、

というような、

「昔話にも、何か信仰上の原因があったのではないか」

と思う、とし、

「深夜に天井から足だけが一本ずつ下がる(という足洗という怪物も)。これを主人が裃で盥を採って出て、うやうやしく洗いたてまつるのだというなどは、空想としても必ず基礎がある。洗わなければならなかった足は、遠い路を歩んできた者の足であった。すなわち山を作った旅の大神と、関係がなかったとはいわれぬのである。」(ダイダラ坊の足跡)、

と推測するのである。また、たとえば、

「たいていは雨のしょぼしょぼと降る晩、竹の子笠を被った小さい子供が、一人で道を歩いているので、おうかわいそうに今ごろどこの子かと追いついてふり返ってみると、顔には目がたった一つで、しかも長い舌を出してみせる」(「一目小僧」)、

という、

一目小僧、

も、

「自分は主として一目の怪が、山奥においてその威力を逞しくしている事実に着眼して、実は最初にこれと昔の山の神の信仰との関係を、探ってみたいと思っているところなのである。
 かく申せば何か神を軽しめて、一方には妖怪に対し寛大に失するように評する人があるか知らぬが、いずれの民族を問わず、古い信仰が新しい信仰に圧迫せられて敗退する節には、その神はみな零落して妖怪となるものである。妖怪はいわば公認せられざる神である。」(仝上)、

という問題意識から、

「ことによると以前はこれも山神の眷属にして、眇目ということを一つの特徴とした神の、なれの果てではないかと推測し、他の方面にも神の片目という例はないかどうか、あるならどういう様子かということを、参考のために調べてみるだけである。(中略)神様が一方の目を怪我なされたというのは、存外に数多い話である。」(仝上)

といった検索を経て、縷々事例を分析し、

「何か上代の天目一神(あめのまひとつのかみ)神話から筋を引いてるものがあるのではないか」(仝上)

などと勘案しつつ、

「(同じ例は多いが)いずれも水の神が魚のみか人の片目なる者をも愛し選んだという証拠であって、それはもちろん食物としてではなく、たぶんは配偶者、少なくとも眷属の一人に加える場合の、一つの要件のごときものであったのである」(目一つ五郎考)

として、

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人がしだいに少なくなって、文字通りの一目に絵にかくようにはなったが、実は一方の目をつぶされた神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐつかまるように、その候補者の片目をつぶし足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかもたぶんは本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれがやんで、ただ目をつぶす式だけがのこり、栗の毬や松の葉、さては矢に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌みが掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。」(一目小僧)

と推測していくのである。この成れの果てが、全国に散らばる、

片目・片足の怪物・妖怪、
片目の魚、

等々の説話として残ったと見たのである。

この仮説の是非も、その後の検証がなされたかどうかは知らないが、大胆な説である。

この説でふと思い出したが、戦国期、村同士の自力救済による抗争や戦国領主との対抗時、あらかじめ後処理の時の責任を取らせる犠牲者を決めておく、というのを読んだ記憶がある。村の貧しいものか、余所からの流れ者か、いずれにしても、その家族の面倒を後々まで村で見ることを約束して、そういう役につけたという。どこか、この「一目」の生贄に似た、村々の民の発想の底流のような気がしてならない。

なお、柳田國男の『遠野物語・山の人生』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488108139.html、『妖怪談義』http://ppnetwork.seesaa.net/article/488382412.htmlについては別に触れた。

参考文献;
柳田國男『一目小僧その他』(Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:07
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