まかねふく吉備の中山帯にせる細谷川(ほそたにがわ)の音のさやけき(古今和歌集)、
の詞書に、
この歌は、承和の御嘗(おほんべ)の吉備國の歌、
とあるが、
承和、
は、
仁明天皇の時の年号、転じて、仁明天皇、
ともあり、
御嘗(おほんべ・おほむべ)、
は、
大嘗会、
のことで、普通、
大嘗、
と当て、
おほにへの音便(岩波古語辞典)、
大饗(おほにへ)の義、饗(にへ)の敬称(大言海)、
とあり、音便に、
おほんべ、
と、
大嘗祭に同じ、
である(大言海)。
大嘗祭では、その年の新穀を奉る国が二つ決められ(悠紀国・主基国)、その国に即した歌を献上する。ここは、仁明天皇の大嘗会で主基国になった備中の国の歌、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
「にいなめ」で触れたように、
新嘗、
は、
宮中にて行はせらるる神事、古へは陰暦十一月、下の卯の日(三卯のあるときは中の卯の日 今は陽暦、十一月二十三日)に、其年の新稲を始めて神に奉らせたまひ、主上、御躬(みずから)も聞し召す、
とあり(大言海・精選版日本国語大辞典)、宮中神嘉殿(しんかでん 平安大内裏の中和院(ちゅうかいん)の正殿の称。天皇が神をまつるところ)にて行われるこの儀式を、
新嘗祭(にいなめさい・にいなめまつり・しんじょうさい)、
といい、
當年の新稲を以て酒撰を作り、天照大神を始め奉り、普く天神地祇に饗(あ)へ給ひ、天皇御躬らも聞し食し、諸臣にも賜る式典、
で(大言海)、
稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する祭儀、
である(仝上)。なお、天皇の即位の年、一代一度行うのを、
大嘗祭(だいじょうさい・おおにえまつり・おおなめまつり・おおんべのまつり)、
といい、
天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿ついで主基殿(東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)という)、
で行う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。一世一度の新嘗であるから、
大新嘗(おおにいなめ)、
ともいう(仝上)。古くは、
おほにへまつり、
おほなめまつり、
などと訓じたが、現代においては、
だいじょうさい、
と音読みする(宮内庁)とか。大嘗祭は、
践祚大嘗祭、
つまり、
天皇即位の年、
に行うが、
七月以前即位、当年行事、八月以後、明年行事、
とあり(太政官式)、
受禅即位が七月以前ならばその年の、八月以後ならば翌年の、諒闇登極(りょうあんとうきょく 服喪期間の即位)の場合は諒闇後の、一一月の下の卯の日(三卯ある時は中の卯の日)より始まり、辰の日の悠紀節会、巳の日の主基節会、午の日の豊明節会にいたる四日間にわたって行なわれる。辰の日以後は諸臣と饗膳を共にする節会である、
という(精選版日本国語大辞典)、で、
佳日は、陰暦十一月中卯日にて、場所は、朝堂の庭上、後には、紫宸殿の南庭にて行はせらる。初、龜卜を以て、豫め京都より東西の地方に、悠紀(ゆき)、主基(すき)の國郡を定め給ひ、斎田を立てて稲を作らしめ御饌(みけ)とし、又、白酒(しろき)、黒酒(くろき)を醸さしむ。次に、大嘗宮を設け、柴垣にて四方に神門を建て、其内に、東に悠紀(ゆき)殿、西に主基(すき)殿を建てらる(南北五閒、東西三閒)。すべて黒木茅葺作りなり(壁床は、近江筵(むしろ)なり)。此内にて祭をせらる。初夜は悠紀、後夜は主基にて行はせらる。北に廻立殿あり、此は、御浴御更衣の處とす。次に、斎田より奉れる新稲を天照大神、及天神地祇に饗(そな)へたまひ、天皇御親らも聞こしめし、臣下にも賜へり。中臣氏、天神(あまつかみ)の壽詞(よごと)を奏し、悠紀、主基(すき)の国司、其国の風俗歌を奏し、標(しるし)の山を殿庭に引きわたす。翌日節会あり、五節舞を奏す、
といい(大言海)、
大嘗宮、
は、
祭に先つこと七日始めて工を起し五日にして造り畢る、東西廿一丈南北十五丈、之を中分して東を悠紀殿とし西を主基殿とする、外は囲らすに柴垣を以てし、内に屏籬を以て隔て東西南北に各小門を設け別に廻立殿(天皇沐浴斎服著御の所)膳屋(神饌調進の所)あり、当日天皇廻立殿に行幸、御沐浴斎服著御の上悠紀の正殿に御す、やがて吉野の国栖古風を奏し、悠紀の国司歌人を率ゐて国風を奏し、隼人司は隼人を率ゐて風俗の歌舞を奏し、次に天皇親ら神饌清酒を神祇に供し、亦御親ら召させ給ふ。次に廻立殿に還御、更に沐浴斎服を改め主基の正殿に御し国栖以下の奏及び薦享の式悠紀に同じである、
とある(東洋画題綜覧)。大嘗宮は黒木(皮つきの丸木)で新造された悠紀・主基の両殿から成るが、
それぞれに同じく〈神座(かみくら)〉〈御衾(おぶすま)〉〈坂枕(さかまくら)〉などが設けられて、悠紀殿ついで主基殿の順で天子による深更・徹宵の秘儀が行われた、
が、秘儀だけにその詳細は知りがたいが、内部の調度より推定すれば、
天子はそこに来臨している皇祖神、天照大神(あまてらすおおかみ)と初穂を共食し、かつ祖霊と合体して再生する所作を行ったらしい。聖別された稲を食することで天子は国土に豊饒を保証する穀霊と化し、さらに天照大神の子としての誕生によって天皇の新たな資格を身につけた、
ものと考えられる(世界大百科事典)とある。
大嘗祭(=新嘗祭)、
の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃とされ、この頃はまだ、
通例の大嘗祭(=新嘗祭)、
と、
践祚大嘗祭、
の区別はなく、通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めとされる。律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として、
践祚大嘗祭、
と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備されたが、
大嘗会(だいじょうえ)、
とも呼ばれるのは、大嘗祭の後に、
3日間にわたる節会、
が行われていたことに由来している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD)。
なお、後には、通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを、
毎年の大嘗、
践祚大嘗祭を、
毎世の大嘗、
とも呼んだ(仝上)。元来、
記紀では大嘗・新嘗は、「祭」とも「会」とも称されていない。単に「大嘗」、「新嘗」とだけ記されている。奈良時代になると、「大嘗会」「新嘗会」と称されるようになり、平安時代となると、公式の記録では「大嘗祭」「新嘗祭」とされたが、日記類ではほとんどが「大嘗会」「新嘗会」である(仝上)ことから、大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが、
会、
にあった(仝上)とされる。
大嘗祭、
は、
古代の王権の歴史とともに古く、その淵源は農村の収穫儀礼や成年式に求めることができる、
とある(世界大百科事典)。
厳格化され肥大・分化してゆく「大嘗祭」の施行の細部は、「貞観儀式(じようがんぎしき)」(871ころ)、「延喜式(えんぎしき)」(927)、「江家次第(ごうけしだい)」(1111)などに記録されているが、その大略は、
(1)即位の年の4月、悠紀(ゆき)国・主基(すき)国(悠紀・主基)の卜定。検校行事の任命。
(2)大嘗祭の年8月上旬に大祓使(おおはらえし)を卜定し、左右京に1人、五畿内(ごきない)1人、七道に各1人を差し遣わし、下旬に抜穂使(ぬきほし)を卜定し斎国(いつきのくに)に遣わし、使はその国に至って斎田(さいでん)、斎場雑色人(ぞうしきにん)らを卜定し、9月になり稲穂を抜き取り、その初めに抜いた四束を御飯(みい)として、あとを黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供することとし、9月下旬斎場院外の仮屋に収めた。
(3)9月、伊勢(いせ)の神宮以下諸国の天神地祇に幣帛(へいはく)を供す。悠紀・主基両国の神田からから、神饌用の稲・粟をもった雑色人たちが抜穂使らに率いられて上京し、内裏の北方に悠紀と主基の斎場を作り、井を掘り神酒を醸造し、神衣を織るなどの準備にかかる。九月から宮中は散斎(あらいみ)三ヵ月(のち一ヵ月)、致斎(まいみ)三日の物忌に入る。
(4)10月下旬、天皇は川に臨み御禊(ぎょけい)したが、平安中期以降それは賀茂(かも)川に一定、江戸中期以降宮城内。
(5)11月1日より晦日(みそか)まで散斎(あらいみ)とされ、その祭儀の行われる卯日(うのひ)の前丑(うし)日より3日間は致斎(まいみ)とされ、穢(けが)れに触れることを戒めた。11月上旬(十一月中または下の卯の日)が祭の当日、大嘗宮の設営。祭りの7日前より大嘗宮をつくり始めるが、5日以内につくり終える。
(6)11月の中の寅の日、(新嘗祭に同じく)鎮魂祭(ちんこんさい)。
(7)同卯の日の夜半より翌朝まで、大嘗宮の儀。卯の日は、早朝、神祇官で神々を祭り、三百四座の神々に班幣(はんぺい)がある。朝巳の刻に悠紀・主基の斎国の雑色人たちが国司・郡司に率いられて供物の品々を斎場から朝堂院の大嘗宮に運びこむ。造酒児(さかつこ、斎郡郡司の娘)が輿にのって先導し、神饌用の稲や神酒の輿を中心に節会の料物など多量の食物・調度を、悠紀と主基とそれぞれ朱雀大路の左右に分かれて、羅城門から応天門まで数千人が列になって搬入する。この時「標(ひょう)の山」という飾物(祇園祭の「山」のごときもの)も運びこまれる。こうして準備がすっかり整うと、大嘗宮の南北の門には物部氏後裔の石上(いそのかみ)・榎井(えのい)両氏が神楯(かんたて)・神戟(かんほこ)を立て、内物部二人を率いて守りに就く。伴・佐伯二氏は南門の左右の脇にあって時刻がくれば門を開閉する。
神事は夜に入って始まる。まず悠紀の神事であるが、天皇は戌の刻に廻立殿(かいりゅうでん)に入り、小忌(おみ)の湯で身を清め衣服を改めてから大嘗宮の悠紀殿に入る。この際の通路には布単(ぬのひとえ)が敷かれ、さらに天皇の通るところだけに葉薦(はごも)が敷かれている。悠紀殿内の奥の間にあたる室(しつ)の中央には八重畳の座が設けられ、坂枕(さかまくら)が置かれる。天皇が殿内に入って神事が始まる前に、南門が開かれ皇太子以下諸臣が大嘗院に入場して定位置につく。この時隼人(はやと)の犬吠(いぬぼえ)がある。続いて吉野の国栖奏(くずそう)、諸国の語部による古詞(ふるごと)の奏上、また悠紀・主基の斎国による国風(くにぶり)など地方の芸能が奏され、隼人の歌舞も奏される。やがて亥の刻に安曇(あずみ)・高橋両氏が内膳司の官人と采女(うねめ)を率いて松明を先頭に神饌を納めた筥などを悠紀殿に運びこむ。これを「神饌行立(しんせんぎょうりゅう)」という。続いて最も重要な天皇が神に食物を供え、みずからもたべる「神饌親供(しんせんしんぐ)」の儀が始まる。陪膳の采女たちが奉仕して、八重畳の東の神座と御座に米と粟の飯・粥に黒酒(くろき)・白酒(しろき)を中心とした数々の料理の品々の神と天皇の膳を並べる。天皇は神の食薦(けごも)の上に神饌の品々を十枚の葉盤(ひらで)に取り分けたものを供え、その神饌の上に神酒をそそぐ。そして天皇も箸をとってたべる形をとる。この神事が神饌親供である。以上の小忌の湯から神饌親供に至る神事や、諸国の芸能奏上は、主基殿においても丑の刻から寅の刻まで主基の神事としてくり返される。以上で辰の日の暁方に神事は終る。
これ以降、豊楽(ぶらく)院(平安宮では朝堂院の西に隣接する)において三日間続く節会となる。
(8)同辰の日、辰日の節会(せちえ)。
(9)同巳の日、巳日の節会。
(10)同午の日、豊明(とよのあかり)節会。
第二日辰の日には豊楽院に悠紀・主基の御帳が東西に並べて設けられる。天皇は朝辰二点に豊楽院の悠紀御帳に入る。皇太子大臣以下も庭上に整列し、ここで中臣寿詞(なかとみのよごと)奏上や忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式がある。次に悠紀・主基の国からの多米都物(ためつもの)の酒・菓子などの品目を奏上、続いて巳の刻から悠紀の御膳があり、五位以上に膳を給わり、六位以下が参入して風俗楽を奏し、悠紀国の国風(くにぶり)の歌がある。午後は主基の御帳に移り、午前と同様に主基の御膳と宴があり、官人たちに賜禄がある。
第三日の巳の日も前日とほぼ同様で、午前に悠紀帳における御膳と五位以上の宴に和舞(やまとまい)、午後は主基帳に移り、御膳と宴になり、田舞や主基の国風と風俗歌がある。ただこの日は寿詞奏上や神器献上の儀はない。辰の日には悠紀の国司らに、巳の日には主基の国司らにそれぞれ賜禄がある。
第四日の午の日は前の二日よりもくだけた感じの宴で、豊明節会(とよのあかりのせちえ)という。豊楽院に高御座(たかみくら)を設け、豊楽院の前に舞台を作る。朝、辰の刻に天皇出御して大嘗祭の功労者に叙位があり宣命が下される。終って饗宴となる。宴の間に吉野の国栖奏、久米舞、吉志舞(きしまい)、悠紀・主基両国の風俗(ふぞく)舞、さらに舞姫たちによる五節舞(ごせちのまい)がある。そして一同拝舞(はいぶ)の後、解斎の和舞があって、四日間の儀式をすべて終る。
平安時代には巳の日の夜、豊楽院後房で清暑堂御神楽(せいしょどうのみかぐら)があって、天皇・公卿らは「徹夜歓楽」と歓をつくす宴であった。さらに未の日には六位以下の官人と斎国の郡司人夫らに叙位賜禄、十一月晦日に大祓(おおはらえ)があってすべての行事が完了する。
というように、7ヵ月にわたって行われる(仝上・国史大辞典)。「豊明(とよのあかり)節会」については、「五節の舞」で触れた。
新嘗祭の前日夕刻に天皇の鎮魂を行う儀式「鎮魂祭(ちんこんさい)」については、「鎮魂(たましずめ)」で、「新嘗祭」については、「にいなめ」で、「五節の舞ついては、「鬢だたら」で、悠紀(ゆうき)・主基(すき)に風俗の歌を唱える童女(いむこ)については「童女」で、「五節の舞」で、大嘗会(だいじょうえ)などの時、菜菓などを盛って神に供える葉手(ひらて)については、「葉椀(くぼて)・葉手(ひらて)」で触れた。
「嘗」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、「にいなめ」で触れたように、
会意兼形声。嘗は「旨(うまいあじ)+音符尚(のせる)」で、食べ物を舌の上にのせて味をみること、転じて、試してみる意となり、さらにやってみた経験が以前にあるという意の副詞となった、
とある(漢字源)。「嘗烝(蒸)」という言葉があるが、これは中国最古の字書『爾雅(じが)』(秦・漢初頃)にある、
春祭曰祠、夏祭曰礿、秋祭曰嘗(シャウ)、冬祭曰蒸、
で、
春の祠、夏の礿、秋の嘗、冬の烝
を、
四祭(しさい)、
四時祭、
という(精選版日本国語大辞典)。別に、「嘗」を、
形声文字です(尚+旨)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」(「請い願う」の意味だが、ここでは、「当(當)」に通じ(同じ読みを持つ「当(當)」と同じ意味を持つようになって)、「当てる」の意味)と「さじの象形と口の象形」(さじで口に食物を流し込む事から、「うまい」の意味)から、「旨い物を舌に当てる」、「味わう」を意味する「嘗」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2401.html)。漢字の、
新嘗(しんじょう)、
は、
野露及新嘗(杜甫)、
とあるように、
新穀を廟にすすめて神をまつる、
意である(字源)。「にいなめ」に当てたのは、この故であろう。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
posted by Toshi at 04:04|
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