2024年09月24日

くれのおも


来(こ)し時と恋ひつつをれば夕暮れの面影にのみ見えわたるかな(古今和歌集)、

は、

夕暮れの面影、

に、

くれのおも、

を詠みこんでいる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

くれのおも、

は、

呉の母、
懐香、

と当て(広辞苑・デジタル大辞泉)、

セリ科の多年草、ウイキョウ(茴香)の古名、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)に、

ウイキヤウ、一名懐芸、一名懐香、久禮乃於毛、

とあり、和名類聚抄(931~38年)も同じ、

とある(大言海)。

ウイキョウ.jpg

(ウイキョウ デジタル大辞泉より)

呉、

とは、

呉(くれ)の國よりの移植なり(茴香は、地中海沿岸の原産なりと云ふ)、

の故で、

おも、

は、

藝(ウン)の呉音、ヲンの転なり(烏帽子(えぼし)、焉帽子(えんぼうし)。ねもごろ、ねんごろ。寡(やもめ)、やむめ)、草の香(芸草)などと、音訓、混成したる、同趣の語にして、莖、葉、共に香気あること、芸香(クサノカウ)に同じ、

とある(大言海)が、

ウン、

の音は、

漢音、

の例外のようである(漢辞海・https://kanji.jitenon.jp/kanji/493.html)。

ウイキョウ、

は、

茴香、
懐香、

と当て、

セリ科の多年草、南ヨーロッパ原産の栽培種。高さ二メートルに及ぶものもある。葉は大きくて、糸状に細かく裂け、コスモスの葉に似る。夏、枝先に黄色い五弁の小花が球状にかたまって咲き、秋、卵形をした楕円形の実がなる。茎、葉、実ともに香りがあり、香味料となる、

とあり、実は、

健胃剤や、痰(たん)をきる薬とし、せっけんなどの香料、

ともする(精選版日本国語大辞典)。

中国へは4、5世紀に西域から伝わり、日本へは9世紀以前に中国から渡来した、

とされる(日本大百科全書)。

「呉」.gif

(「呉」 https://kakijun.jp/page/0746200.htmlより)

「呉」(漢音ゴ、呉音グ)は、「呉牛」で触れたように、

会意。「口+人が頭をかしげるさま」。人が頭をかしげて、口をあけ笑いさざめくさまを示し、娯楽の娯の原字。古くから国名に当てる、

とある(漢字源)。別に、

口と、夨(しよく 頭をかたむけた人)とから成り、顔をそむけるほどの大声の意を表す、

ともある(角川新字源)。ただ、口を開けて笑うさま(藤堂明保)とは別に、

祭器を担いで踊る様(白川静)、

との解釈もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%89ので、

象形文字です。「頭に大きなかぶりものをつけて、舞い狂う」象形から「やかましい」、「はなやかに楽しむ」を意味する「呉」という漢字が成り立ちました、

との説になるhttps://okjiten.jp/kanji1685.html

「茴」.gif

(「茴」 https://kakijun.jp/page/E4A0200.htmlより)

「茴」(漢音カイ、呉音エ・ウイ)は、

会意兼形声。「艸+音符回(まるい)」、

とあり(漢字源)、茴香に当てる。実が楕円形のためかと思われる。

別に、

形声、声符は回(かい)。香(ういきよう)は香草。〔玉〕に「香なり」とみえる。また懐香ともいう。字はもとに作る、

と(字通)、形声文字とする説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年09月23日

御嘗(おほんべ)


まかねふく吉備の中山帯にせる細谷川(ほそたにがわ)の音のさやけき(古今和歌集)、

の詞書に、

この歌は、承和の御嘗(おほんべ)の吉備國の歌、

とあるが、

承和、

は、

仁明天皇の時の年号、転じて、仁明天皇、

ともあり、

御嘗(おほんべ・おほむべ)、

は、

大嘗会、

のことで、普通、

大嘗、

と当て、

おほにへの音便(岩波古語辞典)、
大饗(おほにへ)の義、饗(にへ)の敬称(大言海)、

とあり、音便に、

おほんべ、

と、

大嘗祭に同じ、

である(大言海)。

大嘗祭では、その年の新穀を奉る国が二つ決められ(悠紀国・主基国)、その国に即した歌を献上する。ここは、仁明天皇の大嘗会で主基国になった備中の国の歌、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

にいなめ」で触れたように、

新嘗、

は、

宮中にて行はせらるる神事、古へは陰暦十一月、下の卯の日(三卯のあるときは中の卯の日 今は陽暦、十一月二十三日)に、其年の新稲を始めて神に奉らせたまひ、主上、御躬(みずから)も聞し召す、

とあり(大言海・精選版日本国語大辞典)、宮中神嘉殿(しんかでん 平安大内裏の中和院(ちゅうかいん)の正殿の称。天皇が神をまつるところ)にて行われるこの儀式を、

新嘗祭(にいなめさい・にいなめまつり・しんじょうさい)、

といい、

當年の新稲を以て酒撰を作り、天照大神を始め奉り、普く天神地祇に饗(あ)へ給ひ、天皇御躬らも聞し食し、諸臣にも賜る式典、

で(大言海)、

稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する祭儀、

である(仝上)。なお、天皇の即位の年、一代一度行うのを、

大嘗祭(だいじょうさい・おおにえまつり・おおなめまつり・おおんべのまつり)、

といい、

天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿ついで主基殿(東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)という)、

で行う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。一世一度の新嘗であるから、

大新嘗(おおにいなめ)、

ともいう(仝上)。古くは、

おほにへまつり、
おほなめまつり、

などと訓じたが、現代においては、

だいじょうさい、

と音読みする(宮内庁)とか。大嘗祭は、

践祚大嘗祭、

つまり、

天皇即位の年、

に行うが、

七月以前即位、当年行事、八月以後、明年行事、

とあり(太政官式)、

受禅即位が七月以前ならばその年の、八月以後ならば翌年の、諒闇登極(りょうあんとうきょく 服喪期間の即位)の場合は諒闇後の、一一月の下の卯の日(三卯ある時は中の卯の日)より始まり、辰の日の悠紀節会、巳の日の主基節会、午の日の豊明節会にいたる四日間にわたって行なわれる。辰の日以後は諸臣と饗膳を共にする節会である、

という(精選版日本国語大辞典)、で、

佳日は、陰暦十一月中卯日にて、場所は、朝堂の庭上、後には、紫宸殿の南庭にて行はせらる。初、龜卜を以て、豫め京都より東西の地方に、悠紀(ゆき)、主基(すき)の國郡を定め給ひ、斎田を立てて稲を作らしめ御饌(みけ)とし、又、白酒(しろき)、黒酒(くろき)を醸さしむ。次に、大嘗宮を設け、柴垣にて四方に神門を建て、其内に、東に悠紀(ゆき)殿、西に主基(すき)殿を建てらる(南北五閒、東西三閒)。すべて黒木茅葺作りなり(壁床は、近江筵(むしろ)なり)。此内にて祭をせらる。初夜は悠紀、後夜は主基にて行はせらる。北に廻立殿あり、此は、御浴御更衣の處とす。次に、斎田より奉れる新稲を天照大神、及天神地祇に饗(そな)へたまひ、天皇御親らも聞こしめし、臣下にも賜へり。中臣氏、天神(あまつかみ)の壽詞(よごと)を奏し、悠紀、主基(すき)の国司、其国の風俗歌を奏し、標(しるし)の山を殿庭に引きわたす。翌日節会あり、五節舞を奏す、

といい(大言海)、

大嘗宮、

は、

祭に先つこと七日始めて工を起し五日にして造り畢る、東西廿一丈南北十五丈、之を中分して東を悠紀殿とし西を主基殿とする、外は囲らすに柴垣を以てし、内に屏籬を以て隔て東西南北に各小門を設け別に廻立殿(天皇沐浴斎服著御の所)膳屋(神饌調進の所)あり、当日天皇廻立殿に行幸、御沐浴斎服著御の上悠紀の正殿に御す、やがて吉野の国栖古風を奏し、悠紀の国司歌人を率ゐて国風を奏し、隼人司は隼人を率ゐて風俗の歌舞を奏し、次に天皇親ら神饌清酒を神祇に供し、亦御親ら召させ給ふ。次に廻立殿に還御、更に沐浴斎服を改め主基の正殿に御し国栖以下の奏及び薦享の式悠紀に同じである、

とある(東洋画題綜覧)。大嘗宮は黒木(皮つきの丸木)で新造された悠紀・主基の両殿から成るが、

それぞれに同じく〈神座(かみくら)〉〈御衾(おぶすま)〉〈坂枕(さかまくら)〉などが設けられて、悠紀殿ついで主基殿の順で天子による深更・徹宵の秘儀が行われた、

が、秘儀だけにその詳細は知りがたいが、内部の調度より推定すれば、

天子はそこに来臨している皇祖神、天照大神(あまてらすおおかみ)と初穂を共食し、かつ祖霊と合体して再生する所作を行ったらしい。聖別された稲を食することで天子は国土に豊饒を保証する穀霊と化し、さらに天照大神の子としての誕生によって天皇の新たな資格を身につけた、

ものと考えられる(世界大百科事典)とある。

大嘗祭(=新嘗祭)、

の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃とされ、この頃はまだ、

通例の大嘗祭(=新嘗祭)、
と、
践祚大嘗祭、

の区別はなく、通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めとされる。律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として、

践祚大嘗祭、

と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備されたが、

大嘗会(だいじょうえ)、

とも呼ばれるのは、大嘗祭の後に、

3日間にわたる節会、

が行われていたことに由来しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD

なお、後には、通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを、

毎年の大嘗、

践祚大嘗祭を、

毎世の大嘗、

とも呼んだ(仝上)。元来、

記紀では大嘗・新嘗は、「祭」とも「会」とも称されていない。単に「大嘗」、「新嘗」とだけ記されている。奈良時代になると、「大嘗会」「新嘗会」と称されるようになり、平安時代となると、公式の記録では「大嘗祭」「新嘗祭」とされたが、日記類ではほとんどが「大嘗会」「新嘗会」である(仝上)ことから、大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが、

会、

にあった(仝上)とされる。

大嘗祭、

は、

古代の王権の歴史とともに古く、その淵源は農村の収穫儀礼や成年式に求めることができる、

とある(世界大百科事典)。

令和の大嘗宮.jfif


厳格化され肥大・分化してゆく「大嘗祭」の施行の細部は、「貞観儀式(じようがんぎしき)」(871ころ)、「延喜式(えんぎしき)」(927)、「江家次第(ごうけしだい)」(1111)などに記録されているが、その大略は、

(1)即位の年の4月、悠紀(ゆき)国・主基(すき)国(悠紀・主基)の卜定。検校行事の任命。
(2)大嘗祭の年8月上旬に大祓使(おおはらえし)を卜定し、左右京に1人、五畿内(ごきない)1人、七道に各1人を差し遣わし、下旬に抜穂使(ぬきほし)を卜定し斎国(いつきのくに)に遣わし、使はその国に至って斎田(さいでん)、斎場雑色人(ぞうしきにん)らを卜定し、9月になり稲穂を抜き取り、その初めに抜いた四束を御飯(みい)として、あとを黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供することとし、9月下旬斎場院外の仮屋に収めた。
(3)9月、伊勢(いせ)の神宮以下諸国の天神地祇に幣帛(へいはく)を供す。悠紀・主基両国の神田からから、神饌用の稲・粟をもった雑色人たちが抜穂使らに率いられて上京し、内裏の北方に悠紀と主基の斎場を作り、井を掘り神酒を醸造し、神衣を織るなどの準備にかかる。九月から宮中は散斎(あらいみ)三ヵ月(のち一ヵ月)、致斎(まいみ)三日の物忌に入る。
(4)10月下旬、天皇は川に臨み御禊(ぎょけい)したが、平安中期以降それは賀茂(かも)川に一定、江戸中期以降宮城内。
(5)11月1日より晦日(みそか)まで散斎(あらいみ)とされ、その祭儀の行われる卯日(うのひ)の前丑(うし)日より3日間は致斎(まいみ)とされ、穢(けが)れに触れることを戒めた。11月上旬(十一月中または下の卯の日)が祭の当日、大嘗宮の設営。祭りの7日前より大嘗宮をつくり始めるが、5日以内につくり終える。
(6)11月の中の寅の日、(新嘗祭に同じく)鎮魂祭(ちんこんさい)。
(7)同卯の日の夜半より翌朝まで、大嘗宮の儀。卯の日は、早朝、神祇官で神々を祭り、三百四座の神々に班幣(はんぺい)がある。朝巳の刻に悠紀・主基の斎国の雑色人たちが国司・郡司に率いられて供物の品々を斎場から朝堂院の大嘗宮に運びこむ。造酒児(さかつこ、斎郡郡司の娘)が輿にのって先導し、神饌用の稲や神酒の輿を中心に節会の料物など多量の食物・調度を、悠紀と主基とそれぞれ朱雀大路の左右に分かれて、羅城門から応天門まで数千人が列になって搬入する。この時「標(ひょう)の山」という飾物(祇園祭の「山」のごときもの)も運びこまれる。こうして準備がすっかり整うと、大嘗宮の南北の門には物部氏後裔の石上(いそのかみ)・榎井(えのい)両氏が神楯(かんたて)・神戟(かんほこ)を立て、内物部二人を率いて守りに就く。伴・佐伯二氏は南門の左右の脇にあって時刻がくれば門を開閉する。
神事は夜に入って始まる。まず悠紀の神事であるが、天皇は戌の刻に廻立殿(かいりゅうでん)に入り、小忌(おみ)の湯で身を清め衣服を改めてから大嘗宮の悠紀殿に入る。この際の通路には布単(ぬのひとえ)が敷かれ、さらに天皇の通るところだけに葉薦(はごも)が敷かれている。悠紀殿内の奥の間にあたる室(しつ)の中央には八重畳の座が設けられ、坂枕(さかまくら)が置かれる。天皇が殿内に入って神事が始まる前に、南門が開かれ皇太子以下諸臣が大嘗院に入場して定位置につく。この時隼人(はやと)の犬吠(いぬぼえ)がある。続いて吉野の国栖奏(くずそう)、諸国の語部による古詞(ふるごと)の奏上、また悠紀・主基の斎国による国風(くにぶり)など地方の芸能が奏され、隼人の歌舞も奏される。やがて亥の刻に安曇(あずみ)・高橋両氏が内膳司の官人と采女(うねめ)を率いて松明を先頭に神饌を納めた筥などを悠紀殿に運びこむ。これを「神饌行立(しんせんぎょうりゅう)」という。続いて最も重要な天皇が神に食物を供え、みずからもたべる「神饌親供(しんせんしんぐ)」の儀が始まる。陪膳の采女たちが奉仕して、八重畳の東の神座と御座に米と粟の飯・粥に黒酒(くろき)・白酒(しろき)を中心とした数々の料理の品々の神と天皇の膳を並べる。天皇は神の食薦(けごも)の上に神饌の品々を十枚の葉盤(ひらで)に取り分けたものを供え、その神饌の上に神酒をそそぐ。そして天皇も箸をとってたべる形をとる。この神事が神饌親供である。以上の小忌の湯から神饌親供に至る神事や、諸国の芸能奏上は、主基殿においても丑の刻から寅の刻まで主基の神事としてくり返される。以上で辰の日の暁方に神事は終る。
これ以降、豊楽(ぶらく)院(平安宮では朝堂院の西に隣接する)において三日間続く節会となる。
(8)同辰の日、辰日の節会(せちえ)。
(9)同巳の日、巳日の節会。
(10)同午の日、豊明(とよのあかり)節会。
第二日辰の日には豊楽院に悠紀・主基の御帳が東西に並べて設けられる。天皇は朝辰二点に豊楽院の悠紀御帳に入る。皇太子大臣以下も庭上に整列し、ここで中臣寿詞(なかとみのよごと)奏上や忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式がある。次に悠紀・主基の国からの多米都物(ためつもの)の酒・菓子などの品目を奏上、続いて巳の刻から悠紀の御膳があり、五位以上に膳を給わり、六位以下が参入して風俗楽を奏し、悠紀国の国風(くにぶり)の歌がある。午後は主基の御帳に移り、午前と同様に主基の御膳と宴があり、官人たちに賜禄がある。
第三日の巳の日も前日とほぼ同様で、午前に悠紀帳における御膳と五位以上の宴に和舞(やまとまい)、午後は主基帳に移り、御膳と宴になり、田舞や主基の国風と風俗歌がある。ただこの日は寿詞奏上や神器献上の儀はない。辰の日には悠紀の国司らに、巳の日には主基の国司らにそれぞれ賜禄がある。
第四日の午の日は前の二日よりもくだけた感じの宴で、豊明節会(とよのあかりのせちえ)という。豊楽院に高御座(たかみくら)を設け、豊楽院の前に舞台を作る。朝、辰の刻に天皇出御して大嘗祭の功労者に叙位があり宣命が下される。終って饗宴となる。宴の間に吉野の国栖奏、久米舞、吉志舞(きしまい)、悠紀・主基両国の風俗(ふぞく)舞、さらに舞姫たちによる五節舞(ごせちのまい)がある。そして一同拝舞(はいぶ)の後、解斎の和舞があって、四日間の儀式をすべて終る。

平安時代には巳の日の夜、豊楽院後房で清暑堂御神楽(せいしょどうのみかぐら)があって、天皇・公卿らは「徹夜歓楽」と歓をつくす宴であった。さらに未の日には六位以下の官人と斎国の郡司人夫らに叙位賜禄、十一月晦日に大祓(おおはらえ)があってすべての行事が完了する。

というように、7ヵ月にわたって行われる(仝上・国史大辞典)。「豊明(とよのあかり)節会」については、「五節の舞」で触れた。

新嘗祭の前日夕刻に天皇の鎮魂を行う儀式「鎮魂祭(ちんこんさい)」については、「鎮魂(たましずめ)」で、「新嘗祭」については、「にいなめ」で、「五節の舞ついては、「鬢だたら」で、悠紀(ゆうき)・主基(すき)に風俗の歌を唱える童女(いむこ)については「童女」で、「五節の舞」で、大嘗会(だいじょうえ)などの時、菜菓などを盛って神に供える葉手(ひらて)については、「葉椀(くぼて)・葉手(ひらて)」で触れた。

「嘗」.gif


「嘗」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、「にいなめ」で触れたように、

会意兼形声。嘗は「旨(うまいあじ)+音符尚(のせる)」で、食べ物を舌の上にのせて味をみること、転じて、試してみる意となり、さらにやってみた経験が以前にあるという意の副詞となった、

とある(漢字源)。「嘗烝(蒸)」という言葉があるが、これは中国最古の字書『爾雅(じが)』(秦・漢初頃)にある、

春祭曰祠、夏祭曰礿、秋祭曰嘗(シャウ)、冬祭曰蒸、

で、

春の祠、夏の礿、秋の嘗、冬の烝

を、

四祭(しさい)、
四時祭、

という(精選版日本国語大辞典)。別に、「嘗」を、

形声文字です(尚+旨)。「神の気配の象形と屋内で祈る象形」(「請い願う」の意味だが、ここでは、「当(當)」に通じ(同じ読みを持つ「当(當)」と同じ意味を持つようになって)、「当てる」の意味)と「さじの象形と口の象形」(さじで口に食物を流し込む事から、「うまい」の意味)から、「旨い物を舌に当てる」、「味わう」を意味する「嘗」という漢字が成り立ちました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji2401.html。漢字の、

新嘗(しんじょう)、

は、

野露及新嘗(杜甫)、

とあるように、

新穀を廟にすすめて神をまつる、

意である(字源)。「にいなめ」に当てたのは、この故であろう。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2024年09月22日

とま


海人小舟とまふき返す浦風にひとり明石の月をこそ見れ(新古今和歌集)、

の、

とま、

は、

苫、
篷、

と当て、

菅(すげ)や茅(かや)を菰(こも)のように編み、和船の上部や小家屋を覆って雨露をしのぐのに用いる、

とあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典・大言海)、

とば、

ともいう(仝上)。日本書紀に、

大苫辺(おほとまべ)尊、
大戸摩姫(おほとまひめ)、

とあり、

トマ(苫)、

の、

ト、

は、

toの音、

とある(岩波古語辞典)。和名類聚抄(931~38年)に、

苫、度萬、編菅茅、以覆屋也、

とある。初出は、

秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ(天智天皇)、

とされる(後撰和歌集)らしい(精選版日本国語大辞典)。

とま、

は、

鳥羽(トハ)の転、鳥の羽を覆ひたる如き故の名かと云ふ(大言海)、
泊まりの船に葺くところから、トマリ(泊)の義(名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、
フナトマリブキ(船泊葺)の略(日本語原学=林甕臣)、
人のトマル(泊)所を葺くものであるところからトマル(止)の義(柴門和語類集・本朝辞源=宇田甘冥)、
トモ(戸衣)の義(言元梯)、

と、諸説あるのだが、はっきりしない。用例から見ると、もっと古い由来があるように思う。

大苫辺(おほとまべ)尊、

は、日本書紀の、

神世七代(かみよななよ)、

の、

国之常立尊(くにのとこたちのみこと)、

から、

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、
伊弉冉尊(いざなみのみこと)、

までの、七代の神々をいうが、

大苫辺(おほとまべ)尊、

は、その五代目の神で、日本書紀では、

埿土煮尊(ういじのみこと)、沙土煮尊(すいじにのみこと)、

に次いで、

次に神があり、

として、

大戸之道尊(おほとのぢのみこと)、
大苫辺尊(おほとまべのみこと)、

が並んであげられ、古事記では、

角杙神(つぬぐいのかみ)、次に妹活杙神(いもいくぐいのかみ)、

次に、

意富斗能地神(おほとのぢのかみ)、

次に、

妹大斗乃弁神(おおとのべのかみ)、

と、挙げられている。

伊弉諾・伊弉冉(日本書紀)、
伊邪那岐・伊邪那美(古事記)、

と同様に、『古事記』では、

兄を意富斗能地神、妹を大斗乃弁神、

『日本書紀』では、

兄を大戸之道尊、妹を大戸之部尊、

と、

男女二柱、

が挙げられ、

外と内を隔てる戸を象徴する神、

とあるhttps://nihonshinwa.com/archives/6687。日本書紀の、

大戸之道尊(おほとのぢのみこと)、
大苫辺尊(おほとまべのみこと)、

の、

戸、

苫、

は、つながり、古事記の、

意富斗能地神(おほとのぢのかみ)、
妹大斗乃弁神(おおとのべのかみ)、

の、

斗、

は、

と(門・戸)、

で、

苫、

は、

扉代わりに菰を下げた、

状態がイメージできる。

まど

で触れたが、

まど、

は、

マ(目)ト(門)、
間戸、

で(広辞苑・岩波古語辞典)、



は、

戸、
門、
所、
処、

等々と当て、

ノミト(喉)・セト(瀬戸)・ミナト(港)のトに同じ。両側から迫っている狭い通路。また入口を狭くし、ふさいで内と外を隔てるもの

で(岩波古語辞典)、「と」に、

戸、

と当てると、

場所、ところ(處)、

を示す。

かまど

が、

井戸→井処、

同様、

かまど→竈處

であり、ここから、和語「まど」の、

ど、

は、

処(處)、

と見られる。で、この、

まと(目門・間戸)、

を、

ひっくり返して、

とま(門目・戸間)、

としても、意味は変わらないのではないか。ちょっと付会気味かもしれないが。

「苫」.gif


「苫」(漢音呉音セン)は、

会意兼形声。「艸+音符占(ある場所にしばらくとめおく)」、

とあり(漢字源)、「簾苫」(れんせん)「草苫」は、「とま」の意、「寝苫」(シンセン)は、喪に服しているとき寝るのに用いるろむしろの意(漢辞海)とある。

「篷」.gif


「篷」(漢音ホウ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「竹+音符逢(ホウ △型の頂点でであう。△型のもの)」で、三角形をしたよしず張り、

とある(漢字源)。ただ、

形声。「竹」+音符「逢 /*PONG/」。漢語{篷 /*boong/}を表す字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AF%B7、形声文字とする説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
宇治谷猛訳注『日本書紀』(講談社学術文庫)
倉野憲司訳注『古事記』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年09月21日

採物(とりもの)


神垣の三室の山の榊葉は神の御前に茂りあひにけり(古今和歌集)、

は、古今和歌集第二十巻、

大歌所御歌、

の中の、

神遊びの歌、

にある、

採物(とりもの)の歌、

の冒頭にある歌だが、

神遊

は、

神々が集まって楽を奏し、歌舞すること、

を言い、転じて、

神前で歌舞を奏して神の心を慰めること。また、その歌舞、

の意となる(精選版日本国語大辞典)、

神楽(かぐら)、

と同じ意味である(仝上)。

神楽

は、

神座(かむくら・かみくら)の転、

で(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)、

カミ(ム)クラ→カングラ→カグラと転じた、

語である(大言海)。

神前に奏される歌舞、

をいい、

神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形、

とされ、古くは、

神遊(かみあそび)、

とも称したhttps://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1389

採物(とりもの)の歌、

は、

神楽歌の一つ、

で、

人長(にんじょう 宮中の神楽の舞人の長)が採りて舞などする榊、幣、杖、篠、弓、劔、鋒など(採物の事)を歌ふ古歌、

とある(岩波古語辞典・大言海)。

天照大神の天岩戸に籠りたまひし時、諸神の御前に集ひて、和(なご)め奉らんとしたまひし時に、各採りたる品々なり、

という(大言海)。平安時代の『神楽歌』入文に、

採物歌、考曰、神遊の時、人長が取りて舞などする物を云ふ、則其物ごとに、古歌をうたふ也、賢木より、ひさご、葛まで九種の取物あり、

とある。

採物、

は、

取物、

とも書きhttp://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-996.html

神楽の舞人が神の依代として手に持つ物、榊、幣(みてぐら)、杖、篠(ささ)、弓、剣、鉾(ほこ)、杓(ひさご)、葛の九つが用いられた、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。『古今和歌集』の「大歌所御歌」には、榊について、冒頭の歌の他、

霜八たび置けど枯れせぬ榊葉のたち栄(さか)ゆべき神のきねかも
み山にはあられ降るらし外山(とやま)なるまさきのかづら色づきにけり

の二首があり、その他、

巻向(まきもく)の穴師(あなし)の山の山人と人もみるがに山かづらせよ
陸奥の安達の真弓(まゆみ)わが引かば末さへ寄り来(こ)しのびしのびに
わが門(かど)の坂井の清水里遠み人し汲まねば水草(みくさ)生(お)ひにけり

と、葛・弓・杓(ひさご)の三首が記されている。

わが門(かど)の坂井の清水里遠み人し汲まねば、

は、

人し汲まねば、

とあり、神遊びの歌としては、

採物の杓の歌、

とされる(仝上)。神楽歌の中には、これに加えて、

幣(みてぐら)・杖・弓・剣・鉾、

の五種が加えられて、

計9種類、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A1%E7%89%A9。なお、一説には、

杓と葛は元は一物(「杓葛」)であった、

とする説もあり(仝上)、折口信夫は手に持って振り回すことで神を鎮める「鎮魂」の意味があったという説を立てている(仝上)とある。

採物、

は、

神楽における依り代としての役割があり、しばしば神の分身そのもの、

として扱われ、

それを採って舞うことは清めの意味があり、同時に舞人が神懸りする手だてともなる、

とあり(世界大百科事典)、

天の岩戸における天鈿女(あめのうずめ)命の神懸りも、笹葉を手草(たぐさ)に結ったとか(古事記)、茅(ち)を巻いた矛を手に俳優(わざおぎ)した(日本書紀)とあり、採物を用いていたことが知られる、

とある(仝上)。

宮廷での御神楽では、上述のように、

榊・幣(みてぐら)・杖・篠(ささ)・弓・剣・鉾・杓(ひさご)・葛、

の9種だが、民間の神楽もこれに準じ、

鈴、扇、盆、

などを持つ場合もあるhttps://sanuki-imbe.com/blog/2023/04/03/miko-torimono-inori/

採物としての鈴、

は、

柄のついた鈴で、形により神楽鈴、鉾先鈴などにわかれ、

神楽鈴、

は、

神楽を行う場合に楽器として用いつつ、五色の布(緒)が踊って視覚的にも鮮やかなもの、

で、

鉾先鈴、

は、

剣先舞鈴ともいわれ、剣の先のような部分がある、

とある(仝上)。

神事や神楽において巫女や神楽などが手に取り持つ道具、

である、

採物(とりもの)、

は、本来、

神の降臨する場所、すなわち神座(かぐら)としての意味を持ち、森の代用としての木から、木製品その他の(榊葉、幣・笹・弓・剣・ひさご等々)清浄なものにもひろがった、

とあり(岩波古語辞典)、

手に物を持って舞う、

という、

神楽の曲の分類名、

ともされる(広辞苑)。

採物の部は、

最初の阿知女作法から始まり、現在は榊と韓神のみですが、古くは榊、幣(みてぐら)、杖、篠(ささ)、弓、剣、鉾(ほこ)、杓(ひさご)、葛、韓神(からかみ)の10種、

からなり、これらの歌を、

採物歌、

という(http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-996.html)。なお、

韓神、

は、採物の名ではなく、

歌詞にある木綿(ゆう)と八枚手はいずれも神事に用いられるものです。『体源鈔』には『神楽証本』には「八枚手」ともいうとし、これなら、採物の一部でも良さそうです。また、「からおぎ」を枯れた荻として手にもって舞ったとする説もあります。一方で、『体源鈔』はその後に、「取物の外」としています、

とあり(仝上)、

韓神、

を採物の歌としない場合もある(仝上)。

民間の神楽の採物舞は、

諸曲に先立ち直面(ひためん)の者が舞う、

場合が多く、

島根県鹿島町の佐陀神能(さだしんのう)では、採物舞7番を七座の神事と称し、神能や《三番叟》の前に舞い、採物の種類も鈴、茣蓙(ござ)などが加わる。愛知県奥三河地方の花祭などの湯立神楽では、扇、湯桶(ゆとう)、盆、笹、花笠、衣装などを採物とする。これは神事や舞に使用する道具をまず採って舞うことにより清めたあと、それを使って本舞を演じるのである、

とある(仝上)。能、歌舞伎、舞踊などでも、

狂笹(くるいざさ)、
持枝、
打杖(うちづえ)、

等々多くの採物を用いるが、いずれもそれらの扱いには、本来、

神座神座(かむくら・かみくら)、

とされたおりの心意が残り、たんなる小道具として以上の意味を含む場合が多い(世界大百科事典)とある。

神楽」、「神遊」は触れた。また、「みてぐら」については「ぬさ」で、「巫女」、「梓の真弓」についても、それぞれ触れた。

「採」.gif

(「採」 https://kakijun.jp/page/1199200.htmlより)

「採」(サイ)は、

会意兼形声。采(サイ)は、「爪(手の先)+木」からなる会意文字で、手の先で木の芽をつみとるさま。採は、「手+音符采」で、采の原字をあらわす、

とある(漢字源)。他も、

会意形声。手と、(サイ)(とる)とから成り、手でつまみとる意を表す。「(采)」の後にできた字(角川新字源)、

会意兼形声文字です(扌(手)+采)。「5本指のある手」の象形と「手の象形と木と実の象形」(木の実を「つみとる」の意味)から、「とる」、「つみとる」を意味する「採」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji771.html

と同趣旨であるが、

形声。「手」+音符「采 /*TSƏ/」。「とる」「つみとる」を意味する漢語{採 /*tshəəʔ/}を表す字。もと「采」が{採}を表す字であったが、手偏を加えた、

と形声文字とする説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8E%A1

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2024年09月20日

しもと


しもとゆふ葛城山に降る雪の間なく時なく思ほゆるかな(古今和歌集)、

の、

しもと、

は、

細長い枝、

の意、

しもとを結ふ葛、

という連想で、葛城山にかかる枕詞、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

しもと、

は、

むち

で触れたように、

葼、
楉、
細枝、

と当て、

枝の茂った若い木立、木の若枝の細長く伸びたもの、

をさし(大言海・広辞苑)、

すはゑ(すわえ)、

ともいう(仝上)。元来は、

小枝のない若い枝を言った、

とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。

灌木などの生ひのびて、枝の茂れるもの、

とあり、

茂木(しげもと)の略、本は木なり、真っ直ぐに叢生す、木立の意、

ともある(大言海)。和名類聚抄(平安中期)には、

葼、之毛止、木細枝也、

字鏡(平安後期頃)には、

葼、志毛止、

とある(大言海)。これは、

茂木(しげもと)の略、本は木なり、真っ直ぐに叢生する木立の意(大言海・万葉考・雅言考・和訓栞)、
シモト(枝本)の義(柴門和語類集)、
数多く枝分かれした義のシマと枝の義のモトから(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

等々の説があるが、どうもしっくりしない。

小枝のない若い枝を言った、

枝本、

を音読みした「シモト」ではないかと、憶測してみる。「しもと」と同義の、

すはゑ、

は、

ずはえ、
すわえ、
すはえ、

ともいい、

「すはえ」、「すばい」の表記もあるが、平安初期の写本である興福寺本霊異記に「須波惠(すはゑ)」とあるから、古い仮名遣いは「すはゑ」と認められる、

とある(岩波古語辞典)。

木の枝や幹などから真っ直ぐに細く伸びた若枝、

の意で、

楚、
杪、
條、
気條、

等々とも当てる(広辞苑・大言海)。字鏡(平安後期頃)、天治字鏡(平安中期)に、

須波江、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

楉、シモト、スハエ、
楚、スハヘ、

色葉字類抄(1177~81)に、

楉、楚、シモト、スハエ(楉は若木の合字)、

和名類聚抄(931~38年)には、

魚條、楚割、須波夜利(すはゑやりの約 楚(すはゑ)と割(わり)との約、魚肉を細く割り潮に附けて乾してすはゑのごとくしたもの)、
葼、之毛止、木細枝也、

字鏡(平安後期頃)に、

楉、志毛止、

等々とあり、

すくすく生えたるものの意、條は、小枝なり、

とある(大言海)ので、

しもと、

と同義である。この由来は、

スクスクト-ハエタル(生)モノの意(大言海)、
スハエ(進生)の義(言元梯)、
スハエ(末枝)の意(日本釈名・玉勝間)、
直生の義(和訓栞)、
直生枝の急呼(箋注和名抄)、
スグスヱエ(直末枝)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々あるが、これも、どうもすっきりしない。

素生え、

なのではないか、と憶測してみた。

しもと、
すはゑ、

は、

木の枝や幹などから真っ直ぐに細く伸びた若枝、

から作るところから、

むち、

の意に転じる(岩波古語辞典・大言海)。和名類聚抄(平安中期)に、

笞、之毛度、

養老律令の獄令(ごくりょう)には、

笞杖、大頭三分、小頭二分、杖、削去節目、長三尺五寸、

とある(大言海)。

しもと、

と同義の、

すはゑ、

も同じく、

細い枝、

の意から、それを用いる、

むち、

の意に転ずる。

笞 ほそきすはゑ、
杖 ふときすはゑ、

とある(日本書紀)。

むち

は、

鞭、
笞、
撻、
策、

等々と当てる(広辞苑)。

馬のむち、

の意もあるが、

罪人を打つむち、

の意もある(仝上)。

ブチとも云ふ、

とあり(大言海)、

打(うち)に通ず、

とある(仝上・日本語源広辞典)。或いは、

馬打(うまうち)の約、

ともある(大言海・言元梯)。

馬を打つところから、ウチの転(日本釈名・貞丈雑記)、
ウツの転(和語私臆鈔・国語の語根とその分類=大島正健)、
ムマウチの約(名語記)、

も同趣旨と思う。和名類聚抄(931~38年)に、

鞭、無知、

字鏡(平安後期頃)に、

鞭、策、……不知、

などもあり、

ウブチ→ブチ→ムチと変化(山口佳紀・古代日本語文法の成立の研究)、

とする説もあるが、馬にしろ、罪人にしろ、

打つ、

ところから来たものと思われる。ところで、「むち」に当てる、



は、「むち」ではなく、漢音の、

ち、

と訓むと、

律の五刑のうち、最も軽い刑、

を指す。

楚、

とも当て、

木の小枝で尻を打つ刑で、10から50まで、10をもって1等に数え、5等級とした。明治初年の刑法典である『仮刑律』『新律綱領』においても正刑の一つとして採用された。しかし明治5 (1872) 年それに代り懲役刑が行われることとなった、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。五刑とは、

五罪、

ともいい、罪人に対する五つの刑罰で、

古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。隋・唐の時代には、笞(ち むちで打つこと)、杖(じょう つえで打つこと)、徒(ず 懲役)、流(る 遠方へ追放すること)、死(死刑)の五つをいう。日本では、大宝・養老律以後この隋・唐の方式がとられ、近世まで行なわれていた、

とされる(精選版日本国語大辞典)。

なお、「しもと」が「笞」の意であるところから、

老いはてて雪の山をば戴けどしもと見るにぞ実は冷えにける(拾遺和歌集)、

と、「霜と」と「しもと(笞)」を懸け、

「大隅守さくらじまの忠信が国にはべりける時、郡のつかさに頭の白き翁の侍りけるを召しかんがへむとし侍りにける時翁の詠み侍りける」とあり、それが上記の歌で、註に、「この歌により許され侍りにける」とある。似た歌が、宇治拾遺物語にあり、やはり罪人が、

としをへてかしらの雪はつもれどもしもとみるにぞ身はひえにけり、

と詠んで、「ゆるしけり」とある(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。

「楉」.gif


「楉」(漢音ジャク、呉音ニャク)は、

形声。「木+音符若」

とあり(漢字源)、

ざくろ、

の意である。

楉榴(ジャクリュウ)、

とは、

ざくろの木、

である(仝上)。我が国では、

しもと、

と訓ませ、

樹木の細長く伸びた小枝。また、枝の茂った若い立木、

をさし、

すらわえ、

と訓ませ、

樹木の細長く伸びた小枝、

の意、転じて、

刑罰に用いた木の鞭、

の意で使うhttps://kanji.jitenon.jp/kanjiy/12140.html

「葼」.gif


「葼」(漢音ソウ、呉音ス)は、

会意兼形声。「艸+旁は細長く縦に通る意を持つ音符」

とあり(漢字源)、

木の細長い枝、

の意である(仝上)。

樹木の細長く伸びた小枝。また、枝の茂った若い立木、

ともあるhttps://kanji.jitenon.jp/kanjit/9563.html

「笞」.gif


「笞」(チ)は、「むち」で触れたように、

会意兼形声。「竹+音符台(ためる、人工を加える)」

とあり(漢字源)、「笞杖」「笞刑」等々と使うが、竹で作った細い棒である。

「楚」.gif


「楚」 甲骨文字・殷.png

(「楚」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%9Aより)

「楚」(漢音ソ、呉音ショ)は、「むち」で触れたように、

会意兼形声。「木二つ+音符疋(一本ずつ離れた足)」。ばらばらに離れた柴や木の枝、

とある(漢字源)が、

「会意形声文字」と解釈する説、

は、

根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%9A

形声。「林」+音符「疋 /*SA/」、

とする(仝上)。同じく、

形声。意符林(ならびはえる)と、音符疋(シヨ)とから成る。「いばら」の意を表す、

とも(角川新字源)、

形声文字です(林+疋)。「木が並び立つ」象形(「林」の意味)と「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「あし(人や動物のあし)」の意味)だが、ここでは「酢(ソ)」に通じ(同じ読みを持つ「酢」と同じ意味を持つようになって)、「刺激が強い」の意味)から、「群がって生えた刺激が強い、ばら」を意味する「楚」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji2520.htmlある。「一本ずつばらばらになった柴」や「いばら」の意である。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2024年09月19日

仏名


時過ぎて霜に消えにし花なれどけふは昔の心地こそすれ(朱雀院御歌)、

の詞書の、

仏名の朝(あした)に、削り花を御覧じて、

の、

仏名、

は、

仏名会(ぶつみやうゑ)、

のことで、

御仏名、

ともいい(広辞苑)、

十二月十五日、後には十九日から三日間、朝廷で行われた、諸仏の名号を唱えて罪障を懺悔する法会、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

削り花

は、

円い木を削りかけて花弁のようにしたもので、生花の代りとする、

が、これについては、「めどに削り花」で触れた。

時過ぎて、

とあるのは、仏名の翌朝なので、

削り花が飾られる時節が過ぎての意に、退位して自身の時代が過ぎての意を籠める、

とある(仝上)。

仏名、

というと、

佛の名号、

をいい(広辞苑)、

南無阿弥陀仏、
南無薬師如来、

といった、

六字名号、

南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)、

という、

九字名号、

帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)

といった、

十字名号、

等々があるhttps://kyonoreijo.sakura.ne.jp/lib/nb/libnb6-10mg.htm。ちなみに、サンスクリット語のnamas(ナマス)の漢訳が、

帰命、

音写が、

南無、

なので、「帰命」と「南無」は全く同じ意味、

尽十方、

は、

あらゆる場所、

無碍光、

は、

何物にも遮られない仏の発する智慧や救済力の光、

という意味で、

尽十方無碍光如来、

は、

阿弥陀仏、

を指す(仝上)。

十方、

は、

東・南・西・北・上・下・四維(東北・東南・西南・西北の総称、

で、

この10の方向がすべての方角を意味する

とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E6%96%B9)

仏名会、

は、

御佛名(ミブツミヤウ)、

とも、

佛名懺悔、
千佛会、
三千仏名会、

などともいい(大言海)、

禁中の公事、

として、

朝廷や諸国に寺院で行われた法会で、仏名経を誦んで、三世(過去・現在・未来の三つの世)十方の三千仏の名号を唱えてその年の罪障を懺悔する、

もので、

毎年十二月十五日から十七日まで三日間行うのが普通であったが、後には十九日から三夜となり、更に、一夜となった、

とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。もともとは、釈尊の成道(成仏得道)に合わせて一二月六日から八日にかけて修されることから、

朧(ろう)月仏名、
朧八仏名、

ともいい、『年中行事秘抄』(1239年)によると

光仁天皇の宝亀五年(七七四)に始まったもので、承和二年(八三五)宮中での恒例の儀式となり、同一三年には諸国においてもこれを修するように発令された、

とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BB%8F%E5%90%8D%E4%BC%9A)。これは、『仏名経』に、

若し善男子・善女人、諸の仏名を受持し読誦すれば、是の人は現世安穏にして諸難を遠離し、及び諸罪を消滅し、未来に当に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得べし。若し善男子、善女人、諸罪を消滅せんと欲せば、当に浄く洗浴して、新しき浄衣を著し長跪(ちょうき)合掌して、是の言を作すべし、

とあることに基づいている(仝上)。今日、

増上寺では一二月一〇日から一二日に、知恩院では一二月二日から四日に、京都嵯峨清凉寺では一二月六日から八日に行っている、

とある(仝上)。

仏名経(ぶつみょうきょう)、

は、

諸仏の名号を受持し、その功徳によって懺悔滅罪すべきことを説く経典、

で、数種の異訳があるが、現在、毎年歳末に行われている仏名会では『三千仏名経』(『三劫三千諸仏名経』)三巻を依本とするhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BB%8F%E5%90%8D%E7%B5%8Cとある。

「佛」.gif


「佛」(①漢音フツ・呉音ぶつ・ブチ、②漢音ホチ・呉音フツ)は、

形声。「人+音符弗(フツ)」で、よく見えない意を含む。ブッダに当てたのは、音訳で原義とは関係がない。「仏」の字は、宋・元のころから民間で用いられた略字、

とあり(漢字源)、「ほとけ」の意の場合、①の音、「仿仏(彷彿 ホウフツ)」のように、ぼやけて見える意の場合②の音となる(仝上)。別に、

形声。「人」+音符「弗 /*PƏT/」。擬態語「彷彿」の第二音節を表す字。のち仮借して「佛陀」(梵語 Buddha より)の第一音節を表すhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%9B

形声。人と、音符弗(フツ)とから成る。ぼんやりとしている意を表す。梵語(ぼんご)buddhaの音訳に仏陀(ぶつだ)が用いられてから、「ほとけ」の意に用いる。教育用漢字は佛の異体字による(角川新字源)、

ともある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年09月18日

浅茅生(あさぢふ)


浅茅生(あさぢふ)や袖に朽ちにし秋の霜忘れぬ夢を吹くあらしかな(新古今和歌集)。

の、

浅茅生(あさじふ)、

の、

フ、

は、

芝生、園生(そのふ)の生(ふ)なり、

とあり(大言海)、

生(フ)、

は、

生(お)ふの約、音便に、ウと云ふ、

ともあり(仝上)、

生えた所、

の意(岩波古語辞典)で、

浅茅生、

は、

茅(ちがや)の生えたところ、

を言い、転じて、

荒れ果てた野原、

をいう(広辞苑)。

浅茅原、

とも(仝上)、

浅茅ヶ原、

ともいい、平安時代以降、

荒廃した邸の景物、

をいう(仝上)。ただ、万葉集・古今集では、

浅茅、

は、

印南野(いなみの)のあさぢおしなべさ寝(ぬ)る夜の日長くしあれば家し偲(しの)はゆ(万葉集)、

と、

叙景や恋の歌にも使われるが、源氏物語以後は、ヨモギ・ムグラと共に寂しい荒廃した場所の象徴とすることが多い、

とある(岩波古語辞典)。

チガヤ.jpg


浅茅焼(あさじやき)」で触れたが、

浅茅(あさじ)、

は、

一面に生えた、丈の低い茅(ちがや)、

をいう。「ちがや」は、

イネ科の多年草、

日当たりのよい空き地に一面にはえ、細い葉を一面に立てた群落を作り、白い穂を出す、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%A4。春、葉より先に柔らかい銀毛のある花穂をつける。この花穂を、

つばな、
ちばな、

といい、強壮剤とし、古くは成熟した穂で火口(ほぐち)をつくった。茎葉は屋根などを葺いた(広辞苑)。

万葉集に、春の蕾の時は、

戯奴(わけ)がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(め)して肥えませ(紀女郎)、

とあるように、甘みがあって食べられるhttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/tigaya.htmlらしい。

「茅」.gif

(「茅」 https://kakijun.jp/page/0898200.htmlより)

「茅」(漢音ボウ、呉音ミョウ)は、

会意兼形声。「艸+音符矛(ボウ 先の細いほこ)」

であり、尖った葉が垂直に立っている様子から、矛に見立てたものであり、「ちがや」「かや」の意である、

とある(漢字源)が、

形声。艸と、音符矛(ボウ)→(バウ)とから成る。「かや」の意を表す(角川新字源)、

と、形声文字とする説もある。

和名「ちがや」は、

チ(茅)カヤ(草)の義、チ(茅)は千の義。叢生するより云ふか(大言海)、
チヒガヤ(小萱)の義(日本語原学=林甕臣)、
根が赤いところから、チカヤ(血茅)の義(柴門和語類集)、

等々あるが、

「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味、

で名付けられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%A4というのが妥当なのだろう。

「浅茅」は、

茅の丈の低いもの、

を指し、

浅は、低しの意、

とある(大言海)。

深しの対、

とあり(岩波古語辞典)、

アス(褪)と同根。深さが少ない、薄い、低いの意、

とある(岩波古語辞典)。「浅い」の語源には、

ウスシ(薄)のウスと同根(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、
アは発語、サシはサシ(狭)の義(大言海)、
アは輕いの音、サは小水の流れる音で狭小、薄いの意(日本語源=賀茂百樹)、
少量の水がサラサラ流れるさまから出た語(国語溯原=大矢徹)、

等々、種々あるが、それは、「浅い」が、

空間的に表面から底までの距離が近い、奥までが近い、
時間的に初めからの時間の経過が少ない、
色や香りが薄い、
程度が軽い、
社会な地位が低い、
心づかいが不十分、

等々の幅広い意味で使われているためである(広辞苑)。

浅茅生の原、

を、

茅花(つばな)抜く浅茅之原(あさぢがはら)のつぼすみれいま盛りなりわが恋ふらくは(万葉集)、

と、

荒れ果てた野原、

をいい、

浅茅原、

とも、

茅生(ちふ)、

とも言う(大言海)。

雲のうへも涙にくるるあきの月いかですむらんあさぢふのやど(源氏物語)、

と、

浅茅が一面に生えて、荒れ果てた住まい、

を、

浅茅生(あさじう)の宿
あさじがやど、

という(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。また、

浅茅生の、

は、枕詞として、

あさぢふのをのの篠原(しのはら)忍ぶとも人知るらめや言ふ人なしに(古今和歌集)、

と、

浅茅の生えている野の意から「小野(をの)」にかかり(仝上)、「ヲ」と「オ」とが同音になった後には、

露まがふ日影になびく浅ぢふのおのづから吹く夏の夕風(続拾遺和歌集)、

と、「己(おの)」にもかかる(仝上)。

茅(ちがや)、

の古名は、

茅(ち)、

で、和名類聚抄(931~38年)には、

茅、智、

本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)には、

茅根、知之禰、

天治字鏡(平安中期)には、

茅、知、

とあり、

千(ち)の義にて、叢生するより云ふかと云ふ、

とある(大言海・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹)。

茅、

を、

かや、

と訓ませると、

萱、

とも当て、

チガヤ・ススキ・スゲ等々、屋根を葺く箆に用いる草本の総称、

を言う(広辞苑)。これは、

「茅」は、「ち」で、「ちがや」をさすが、「ちがや」は、屋根を葺く草の代表的なものなので、「かや」に当てられた、

とある(日本語源大辞典)。ただ、

萱、

の字は、本来、

ユリ科の植物カンゾウ(萱草)、一名ワスレグサで、「かや」の意に用いるのは誤り、

とある(仝上)。

倭名抄、名義抄などの「かや」には「萓」を当てており、字形がにているため後世誤ったもの、

ともある(仝上)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2024年09月17日

真屋


さみだれは真屋(まや)の軒端の雨(あま)そそきあまりなるまで濡るる袖かな(新古今和歌集)、

の、

真屋、

は、

切妻造りの家、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

真屋、

は、

両下、

とも当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

ま、

は、

両方、

や、

は、

屋根、

の意(広辞苑)、

棟の前後二方へ葺き下ろしにした家の作り、

で、

両下げ、

ともいう(仝上)。和名類聚抄(931~38年)に、

両下 唐令云、門舎三品已上五架三門、五品以上三門両下、瓣色立成云、両下、和名萬夜、

天治字鏡(平安中期)に、

両下、真屋、

とあり、『梁塵愚案抄』(一条兼良 1455年)に、

兩下(マヤ)は、臺屋(對屋(タイノヤ))作りの両方に、雨水の落つるを云ふ、

とある。

切妻造(きりづまづくり)、

のことである。

屋根形式.png


真屋、

の由来は、

「ま」は両方、「や」は「屋根」の意とする、

説(広辞苑)以外に、

神社建築がすべて切妻造りであるところからも、仏教建築渡来以前は切妻造りが上等な建物に用いられたため、「真(ま)」の意とする、

つまり、奈良時代には、

切妻造を真屋(まや)と呼び、寄棟造や入母屋造を東屋(あずまや)と呼んだ。真屋は〈ほんとうの〉という〈真〉であり、〈東〉は〈いなかの〉という意味で、真屋の方が言葉としては高い程度のものを意味していた、

とする説(精選版日本国語大辞典・世界大百科事典)、

真手(まて)の真、物二つ備わりたる意を云ふに同じ、

とする説(大言海)などがある。江戸後期の『和訓栞』には、

まや 和名杪に両下をよめり、両方へ簷(のき)をおろしたる対屋造をいふ、祝詞式に書る真屋の義なるべし、四阿(あづまや)に対しいへり、よてあづまやのまやのあまりとも重ね詞によめり、あまりはのきをいふ也、一説に、細流に、まやは本屋也と見ゆ、もやと同じともいへり、式神賀辞に伊豆能真屋といふは、斎屋なれば、厳にいへり、真は褒たる辞也、

とあるhttps://verdure.tyanoyu.net/cyasitu010101.html

真屋、

つまり、

切妻造、

は、

切棟、

ともいうが、

四阿(あづまや)の作りに対す、

とある(大言海)。

妻、

は、

端(つま)、

の意味で、屋根の妻(端)を切った形というところからきているhttps://verdure.tyanoyu.net/cyasitu010101.html。江戸後期の『類聚名物考』には、

つま 軒のつま あつまや 爪 端(義訓) 妻(俗字)。これは端と云ふに同し意あり、もとは爪なり、漢書王莽傳に云ふ。……(前漢書九十九王莽傳下)或言、黄帝時建華蓋、以登僊、莽乃造華蓋、九重高八丈一尺、金瑵葆羽、載以祕機、四輪車駕、六馬云々。注、師古曰瑵讀曰爪、謂蓋弓頭為爪形。今思ふに、つまに端と書は義訓也、妻は借字也、爪を正とすべし、すべてつまとは、家の宇(のき)の下にさしくだしたる端をいへり、四阿をあづまやと訓るは、四方みな軒をおろして爪あれば也、今俗に云宝形造り也、その爪を切取たる方を切爪といふ、破風の方をいふ也、さてつまとは、軒の方は垂木のさし出て有が、人の指を延て、爪のそろひたる様に似たればいふ也、今堂塔などに、扇垂木といふ物有は、まさしく傘の骨に似たり、これ王莽が伝に見えし蓋の制より出たり、

とある(仝上)。「つま」で触れたように、「つま」は、

妻、
夫、
端、
褄、
爪、

などと当てるが、「つま(端)」につながることと符合する気がする。

四阿、

は、

東屋、

とも当てるが、この、

四阿、

の、

阿、

は中国語では棟の意で、四阿は四方に棟のある建物、すなわち、

宝形造、
や、
寄棟造、

の建物をさす。日本古代でも四阿はそのような意味で使われ、切妻造の建物、すなわち真屋(まや)に対する言葉であった。この場合、

真屋、

には、

真正の家屋、

あずまや、

には、

へんぴな地の家屋、

という意味が含まれている(世界大百科事典)とあるが、これはあくまで、

神社建築に見られるような切妻造を高級視する、

という価値観に基づくものとある(仝上)ので、「真屋」の由来とはつながらないだろう。

「眞」.gif

(「眞(真)」 https://kakijun.jp/page/shin10200.htmlより)

「眞(真)」(シン)は、「真如」で触れたように、

会意文字。「匕(さじ)+鼎(かなえ)」で、匙(さじ)で容器に物をみたすさまを示す。充填の填(欠け目なくいっぱいつめる)の原字。実はその語尾が入声に転じたことば、

とあり(漢字源)、

会意。匕(ひ)(さじ)と、鼎(てい)(かなえ)とから成り、さじでかなえに物をつめる意を表す。「塡(テン)」の原字。借りて、「まこと」の意に用いる(角川新字源)、

会意文字です(匕+鼎)。「さじ」の象形と「鼎(かなえ)-中国の土器」の象形から鼎に物を詰め、その中身が一杯になって「ほんもの・まこと」を意味する「真」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji505.html

等々と同趣旨が大勢だが、

形声。当初の字体は「𧴦」で、「貝」+音符「𠂈 /*TIN/」。「𧴦」にさらに音符「丁 /*TENG/」と羨符(意味を持たない装飾的な筆画)「八」を加えて「眞(真)」の字体となる。もと「めずらしい」を意味する漢語{珍 /*trin/}を表す字。のち仮借して「まこと」「本当」を意味する漢語{真 /*tin/}に用いる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%9F

甲骨文字や金文にある「匕」(さじ)+「鼎」からなる字と混同されることがあるが、この文字は「煮」の異体字で「真」とは別字である。「真」は「匕」とも「鼎」とも関係がない、

とある(仝上)。

「屋」.gif

(「屋」 https://kakijun.jp/page/0948200.htmlより)

「屋」(オク)は、「壺屋」で触れたように、

会意文字。「おおってたれた布+至(いきづまり)」で、上から覆い隠して、出入りをとめた意をあらわす。至は室(いきづまりの部屋)・窒(ふさぐ)と同類の意味を含む。この尸印は尸(シ)ではない。覆い隠す屋根、屋根でおおった家のこと、

とある(漢字源)が、この説明ではよく分からない。ただ、別に、

形声。「室」+音符「𡉉 /*ɁOK/」、「尸」は「𡉉」の変化形で「しかばね」とは関係がない、「やね」を意味する漢語{屋 /*ʔook/}を表す字、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%8B、また、

会意。尸(居の省略形。すまい)と、至(矢がとどく所)とから成る。居住する場所を求めて矢を放つことから、住居の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です(尸+至)。「屋根」の象形(「家屋」の意味)と「矢が地面に突き刺さった」象形(「至(いた)る」の意味)から、人がいたる「いえ・すみか」を意味する「屋」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji464.html、「尸」が、「しかばね」とは別の、「屋根」を表す字であることは共通している。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年09月16日

やすらふ


入りやらで夜を惜しむ月のやすらひにほのぼの明るく山の端ぞ憂き(新古今和歌集)、

の、

夜を惜しむ月、

は、

月を擬人化していう、

とあり、

この表現で有明の月と知れる、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。また、

やすらひに、

は、

ためらひのうちに、

とあり(仝上)、

やすらひに真木の戸こそはささざらめいかに明けつる冬の夜ならむ(後拾遺・和泉式部)、

を引く(仝上)。同じ新古今集に、

おのづからいはぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる(西行)、

があり、この場合は、

こちらから音信するのをためらふ、

とある(仝上)。

やすらふ、

は、

休らふ、
安らふ、

と当て(広辞苑・デジタル大辞泉)、

ヤスシ(安)と同根。ヒは反復・継続を表す接尾語、事の進行、骨折りをしばらく止めている意、

とある(岩波古語辞典)。

やすし、

は、

易し、
安し、

と当て、

ヤスム(休)と同根、物事の成行きについて、責任や困難がなく、気が楽である意、

とあり(仝上)、接尾語、

ヒ、

は、

四段活用の動詞を作り、反復・継続の意を表す。たとえば、「散る」「呼ぶ」といえば普通一回だけ、散る、呼ぶ意を表すが、「散らひ」「呼ばひ」といえば、何回も繰り返して散り、呼ぶ意をはっきりと表す。元来は、四段活用の動詞アフ(合)で、これが動詞連用形の後に加わって成立した、

とある(仝上)。ただ、異説も、

ヤスム(休)のヤスに接尾語ラフがついたもの(小学館古語大辞典)
ヤスムル(休息)の義(言元梯)、

等々あり、

やすむ、

とつながることだけは共通している。

やすらふ、

は、本来、

ものうければしばしやすらひて参り来む(紫式部日記)、
ここにやすらはむの御心もふかければうちやすみ給て(源氏物語)、

などと、

休息して様子を見る、
休む、

意で、そこから、

いとなんゆゆしき心ちしはべるなどいへど、けしきもなければ、しばしやすらひてかへりぬ(蜻蛉日記)、

と、

足を止める、
一所に止まってぐずぐずする、
たたずむ、

意や、

宋朝よりすぐれたる名医わたって、本朝にやすらふことあり(平家物語)、

と、

仮に滞在している、
とどまっている、
旅先で滞在している、

といった、状態表現で使い、それが転じて、

物や言ひ寄らましとおぼせど……心恥づかしくてやすらひ給ふ(源氏物語)、
せちにそそのかし給へど、とかくやすらひて(宇津保物語)、

などと、価値表現となり、

どうしようかと迷って、行動に移れないでいる、
事を進めず思案している、
ぐずぐずしている、
躊躇(ちゅうちょ)する、
ためらう、

という意で使うに至る(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

「休」.gif

(「休」 https://kakijun.jp/page/0612200.htmlより)


「休」 甲骨文字・殷.png

(「休」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%91より)

「休」(漢音キュウ、呉音ク)は、

会意文字。「人+木」で、人が木の陰にかばわれて休息するさまを示す。かばいいたわる意を含む。やすむの意はその派生義である、

とある(漢字源)。人が木陰にいこうことから、「やすむ」意を表す(角川新字源)ともある。別に、

会意。「人」+「木」または「𥝌」。人が木陰でやすむさまを象る。{休 /*hu/}を表す字、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%91

戦の講和の軍門を示し、戦時の褒賞が原義(白川静)、

との説もあるが、

甲骨文字や金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%91

「安」.gif

(「安」 https://kakijun.jp/page/0667200.htmlより)


「安」甲骨文字・殷.png

(「安」甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%89より)

「安」(アン)は、

会意文字。「宀(やね)+女」で、女性を家の中に落ち着かせたさま。疑問詞・反問詞などに用いるのは当て字。焉と同じ、

とある(漢字源)。

家の中に女がいることから、静かにとどまる、ひいて、やすらかの意を表す、

ともある(角川新字源)。しかし、

「宀」+「女」と説明され、女性が家の中で落ち着くさま、

との解釈は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に基づく解釈で、

これは誤った分析である。甲骨文字や金文の形を見ればわかるように、この文字の下側の部分は「女」とは異なり、後漢の時代に字形が省略されて“女”と書かれるようになったに過ぎない、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AE%89

甲骨文字には「[⿻女丶]」+「宀」からなるこの字と、これに字形がよく似た「𡧊(賓)」の異体字(「女」+「宀」からなる)が存在し、古い学説ではこれらが混同されていた、

とし、

甲骨文字に見られる原字「[⿻女丶]」は、跪いた人を象る「女」とその臀部付近に添えられた深く腰掛けることを示す(またはは敷物や腰掛けの類を象る)筆画から構成される。のち「宀」(家屋)を加えて「安」の字体となる。「座る」を意味する漢語{安 /*ʔaan/}を表す字、

としている(仝上)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2024年09月15日

局外者


M・フーコー( 中村 雄二郎訳)『知の考古学』を読む。

知の考古学.jpg


とてもフーコーを論じ、構造主義を云々ずるだけの知識がないので、これを読んで起った自分の中の反応を書き留めておく。あくまで、憶説、妄説である。

言葉と物』で、フーコーが、

「……自分が自分の言語の総体に、秘かですべてを語り得る神のように、住まってはいないことを学ぶ。自分のかたわらに、語りかける言語、しかも彼がその主人ではないような言語が、あるということを発見するのだ。それは努力し、挫折し、黙ってしまう言語、彼がもはや動かすことのできない言語である。彼自身がかつて語った言語、しかも今では彼から分離して、ますます沈黙する空間の中を自転する言語なのだ。そしてとりわけ、彼は自分が語るまさにその瞬間に、自分がつねに自分の言語の内部に同じような仕方で居を構えているわけではないということを発見するのであり、そして哲学する主体……の占める場所に、一つの空虚が穿たれ、そして無数の語る主体がそこで結び合わされては解きほぐされ、組み合わさっては排斥し合うということを発見するのだ。」(豊崎光一訳『外の思考』)

と書いていることを引用したことがあるが、本書の結論のところの、自己対話の中で、

語る主体をなしですまそうとつとめた、

との指摘に対して、

語る主体への照合を保留したとしても、それは、すべての語る主体によって同一の重要なのは、反対に、さまざまな差異がなにから成り立つのか、一つの同じ言説=実践の内部で、人々が異なった対象について語り、対立する意見をもち、矛盾した選択をすることがどうして起こりえたか、を示すことであった。また、言説=実践のあれこれが相互に区別されるのはどのような点によるのか、示すことでもあった。要するに、私が欲したのは語る主体の問題を排除することではなく、言説の多様性のなかで語る主体がもちえたさまざまな位置と機能を明確にすることであった。

と答えている。構造主義の、

歴史と文化を相対化する、

ということと、

語る主体を相対化する、

こととは、一対のように、僕には見える。

歴史主義、

を否定することと、

非中心化、

とは一対である。

歴史主義、

とは、

救済史、

とつながり(救済史については、K・レーヴィット『世界と世界史』、R・K・ブルトマン『歴史と終末論』、O・クルマン『キリストと時』で触れた)、主体を、

歴史の中において、

歴史の中から見ることではないか。それに対して、

考古学、

というとき、過去の文化、著作、思想を、

遺跡、
遺物、

として、主体としての著者を、

歴史の外から、

あるいは、

歴史の終着点から、

見るということにつながるのではないか。それは、歴史の、

局外者、

となり、

歴史に責任をとらない、

ということでもある。それは、

救済史、

になぞらえるなら、

究極の時点(たとえば、最後の審判)、

から、過去を振り返るに等しくはないか。それは、

神の視点、

に近い、というと、言い過ぎだろうか。確かに、

歴史主義、

は、『世界と世界史』で触れたように、

救済史、

つまり、

神的な始りから神的な終わり、

を、

約束からその実現(最後の審判)への前進、

とみなしたことが、

ヘーゲルの世界精神の現実化、

という、

キリスト教的信仰の世俗化をもたらし(ヘーゲル『精神現象学』については触れた)、それが、マルクスの、

史的唯物論、

という終末論の世俗化を理論化に至らしめた(マルクス『経済学批判』、『資本論』については触れた)。しかし、こうした、

何かを目指している歴史、

という考え方の、

歴史主義、

は根深く、

「人間は歴史的に制約されているのみならず、根本的に歴史的に存在する――つまり人間は徹頭徹尾時間的な存在だからである。歴史的な意識と伝達の可能性は、ハイデッゲルによれば、人間的実存――それの時間性がもっとも決定的に表現されるのは、それが死を予想して実在している、あるいは『終わりに向かう存在』である、という事実においてである――の総体的かつ徹底的な歴史性に存する。」

とするハイデッガーですら、

「存在そのものは『存在の生起』であり、その真理は真理の生起であり、歴史的な出現と隠伏はそれぞれ、そのさどの決定的な瞬間に変化する『現前』と『不在』である」

と(ハイデガーについては『形而上学入門』、『存在と時間』で触れた)、言ってみれば、時間軸を短くし、終末を、「存在の運命」の瞬間に貶めただけのように見える。

確かに、歴史主義は、

「もろもろの理念、神、道徳律、理性の権威、進歩、支配者の幸福、文化、文明などがその建設的な力を失い、無価値」(レーヴィット)

なのかもしれないが、逆に言うなら、

歴史の外から、

ではなく、現在進行形の、

歴史の中から、

歴史に身をゆだねている、

からこそ、その、

歴史の責任を自ら負う、

ということをも意味したはずだ。しかし、

構造主義、

は、少なくとも、フーコーのそれは、

歴史を外から、

言い換えると、

歴史の終着点から、

見ている。だからこそ、

考古学、

というのではないか。それかあらぬか、僕には、構造主義の後、

ポスト構造主義、

は、ぺんぺん草も生えない、不毛の地になっているとしか見えない。なぜなら、

歴史の終着点から総括してしまった跡、

には、何もないからではないか。

こんな感想を懐いた読後である。

なお、ミシェル・フーコーについては、、『〈知への意志〉講義』、『主体の解釈学』、『言葉と物―人文科学の考古学』については触れた。

参考文献;
M・フーコー( 中村 雄二郎訳)『知の考古学』(河出書房新社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2024年09月14日

いはぬ色


九重にあらで八重咲く山吹のいはぬ色をば知る人もなし(新古今和歌集)、

の、

いはぬ色、

は、

山吹の花色衣(はないろごろも)ぬしや誰(たれ)問へど答へずくちなしにして(古今和歌集)、

とも詠われ、

梔(くちなし)と口無しをかける。山吹色に染めるには、梔をもちいた、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

言わぬ色、

は、

梔(くちなし)の実の色を口無しにかけて言うものだが、この由来は、源俊頼の歌論書『俊頼脳髄』(1112年頃)にある、

道信の中将の、山吹の花を持ちて、上〔うへ〕の御局〔みつぼね〕といへる所を過ぎけるに、女房たちあまた居〔ゐ〕こぼれて、「さるめでたきものを持ちて、ただに過ぐるやうやある」と、言ひ掛けたりければ、もとよりやまうけたりけむ、

くちなしにちしほやちしほ染めてけり、

と言ひて、差し入れりければ、若き人々、え取らざりければ、奥に伊勢大輔〔いせのたいふ〕が候〔さぶら〕ひけるを、「あれ取れ」と宮の仰せられければ、受け給ひて、一間〔ひとま〕がほどをゐざり出〔い〕でけるに、思ひよりて、

こはえも言はぬ花の色かな、

とこそ、付けたりけれ。これを上、聞し召して、「大輔なからましかば、恥がましかりけることかな」とぞ、仰せられける、

という、

くちなしに千入(ちしほ)八千入(やちしほ)そめて(藤原道信)
こはえもいはぬ花の色かな(伊勢大輔)

の連歌から、

山吹のくちなし色、

を、

口無し色、
言わぬ色、

というようになったようである。

梔子色、

は、

梔子(くちなし)染、
支子(くちなし)染、

の色を指し、

布帛を、クチナシの実にて染たるもの、色、黄なり、

とある(大言海)が、

赤みを帯びた濃い黄色、

である(岩波古語辞典)。厳密には、

クチナシで染めた黄色に、ベニバナの赤をわずかに重ね染めした色を指し、クチナシのみで染めた色自体は黄支子(きくちなし)と呼んで区別された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%94%E5%AD%90%E8%89%B2。別名が、「口無し」にかけて、

謂はぬ色、

である。

梔子色.jpg

(梔子色・染め上がり デジタル大辞泉より)

クチナシ

は、

梔子、
巵子、
山梔子、

等々とも当て(広辞苑)、漢名は、

梔子(シシ)、

で、これを当てた。

「梔」.gif


「梔」(シ)は、「クチナシ」で触れたように、

会意兼形声。「木+音符巵(シ 水をつぐ器)」。くちなしの実が、水をつぐ器に似ていることから」

とある(漢字源)。「巵(卮)」(シ)が当てられるのは、「巵」が、盃の意だからであろうか、あるいは、「シ」という同音のせいだろうか。たべもの語源辞典は、

巵は酒を入れる器である。果実の形が巵に似ていることから、巵子あるいは梔(シ)という、

とする。

クチナシの実.jpg


「クチナシ」は、別名、

木丹(ボクタン)、

とも言う。本草綱目に、

梔子、一名木丹、

とある(字源)。

熟した果実を採取し、天日または陰干しで乾燥処理したものは、生薬として、

山梔子(サンシシ)、

と称され、漢方では、

消炎、利尿、止血、鎮静、鎮痙(痙攣を鎮める)の目的で処方に配剤されるが、単独で用いられることはない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8A%E3%82%B7

「クチナシ」の語原は、大勢、

口無の義、實、熟すれども、開かず、

とされる(大言海)。和歌では、

山吹の花色衣(はないろごろも)主(ぬし)や誰(たれ)問へど答へずくちなしにして(古今和歌集)、

というように、「口無し」にかけて言うことが多いこと、また、

クリ・シイ・ザクロ・ツバキなど、からがあってその内に種子を包むものは、熟するとかならず口を開くものであるが、このクチナシだけが、熟しても口を開かない。熟しても口がないのは実に珍しいのでクチナシと称した、

という(たべもの語源辞典)ことから、

口無し、

説が妥当なのだろう。和歌では、

口無し、

に、

梔子、
梔子色

にかけ、

これが、

いはぬ色、

につながる。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2024年09月13日


麻衣着(け)ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く吾妹(わぎも)(万葉集)、

の、

麻衣、

は、

喪服として用いた、

とある(岩波古語辞典)が、このことは、「藤衣」で触れた。また、

紀州の名産、

でもあった。

麻、

は、

大麻、
苧麻(からむし)、
黄麻、
亜麻、

などの総称(広辞苑)とあるが、現代では、

「大麻(ヘンプ)」「苧麻(ラミー)」「亜麻(リネン)」「黄麻(ジュート)」「洋麻(ケナフ)」、

等々、茎の繊維を取る植物の総称として使われているhttps://hemps.jp/asa-hemp-taima/とある。なかでも、

「大麻」と「苧麻(ちょま・ラミー)」、

は古代から日本で利用され、最も古い日本の「麻」の痕跡は、縄文時代の貝塚から見つかった「大麻」を使った縄(仝上)という。

麻(あさ)、

は、

植物表皮の内側にある柔繊維または、葉茎などから採取される繊維の総称、

であるが、

狭義の麻(大麻)、

と、

苧麻(からむし)、

の繊維は、

日本では広義に、

麻、

と呼ばれ、和装の麻織物(麻布)として古くから重宝されてきた。狭義の麻は、神道では重要な繊維であり様々な用途で使われる。麻袋、麻縄、麻紙などの原料ともなる。

大麻.jfif



大麻(おおぬさ).jpg


狭義の「麻」、

大麻、

は、古語、

總(ふさ)、

といい(平安時代の『古語拾遺』)、

を(麻・苧)、

そ(麻)、

とも言った。

クワ科の一年草、

で、

春蒔きて、秋刈る。茎、方(カタ)にして、直(すぐ)に生ふること、七八尺に至る、葉の形、カヘデの葉に似て、長大にして対生す、茎の皮の繊維(すじ)を取りて、麻絲とし、其残茎は、アサガラ(一名ヲガラ)となる、

とあり(大言海)、

雄、雌あり、雄麻は、夏薄緑なる細かき花を生じて、實無し。一名サクラアサ。枲麻。雌麻は、花、緑にして細かき粒の如き子(み)を結ぶ。アサノミと云ひて、食用とす。一名、みあさ。苴麻、

とある(大言海)。和名類聚抄(931~38年)には、

麻、阿佐、

とある。漢語では、雄株を、

枲(シ)、

雌株を、

苴(ショ)・芓(シ)、

という(http://www.atomigunpofu.jp/ch4-vegitables/taima.htm)とある。「櫻麻」で触れたように、この名は、万葉集古義(江戸末期)に、

櫻麻は、櫻の咲く頃、蒔くものなる故に云ふ、と云へり、

とあり(大言海)、

麻の種は陰暦三月の頃に蒔く、

からだとし(仝上)、

雄麻(ヲアサ)の一名、

とした(仝上・精選版日本国語大辞典)。

麻の繊維と、繊維を剥いた後に残る麻幹(おがら).jpg

(麻の繊維と、繊維を剥いた後に残る麻幹(おがら)。神道ではひも状の繊維のまま用いられることも多く、さらに裂いて紡ぐと麻糸となる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB_%28%E7%B9%8A%E7%B6%AD%29より)

で、この、

麻、

の由来だが、

青麻(アヲソ)の約轉(つぼおる、つぼる。ひそめく、ひさめく)。木綿(ゆふ)にて作れるを、白和幣(シラニギテ)と云ひ、麻にて作れるを、青和幣(アヲニギテ)と云ふ(大言海)、
アは接頭語、サは麻の原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アヲソ(青麻)の約轉(古今要覧稿・日本語源=賀茂百樹)、
浅の意。またはアヲサキ(青割)の転(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
アザナフの義(碩鼠漫筆)、
赤くして皮をさくことから赤物の義(和句解)、
アラサヤ(粗清)の意。アラの反ア、サヤの反サ(名言通)、
朝鮮語sam(麻)と同源か(岩波古語辞典)、

等々とあるが、古名、

そ(麻)、
を(麻・苧)、

とのかかわりが見えない。ただ、

青苧(あおそ)と書いた場合も苧麻を指し、これは上布のための良質な原料である、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB_%28%E7%B9%8A%E7%B6%AD%29)ので、材料からの視点と見えなくもないが、

青苧、

は、

青みを帯びているからいう、

らしく(大言海・広辞苑)、

からむし(苧麻(ちょま))の茎の皮から取り出し、灰汁(あく)だしし、白皮を晒して、細かく裂いたもの。奈良晒、越後布の原料、

で、

奈良苧、真苧(まを)、綱苧(つなそ)、

などという(広辞苑・岩波古語辞典)とあるので、あくまで、大麻ではなく、

からむし(苧・苧麻)、

のことだが、

を、

を、

「からむし(苧)」の異名、

とすることからも、

麻を(からむし)と呼んでいることもある、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB_%28%E7%B9%8A%E7%B6%AD%29ので、混交があるようだが、それにしても、古代は別に考えていたのではないか。ただ、大言海は、

麻と云ふ語は、即ち、アヲソの略転、

としているが。和名類聚抄(931~38年)に、

麻苧、乎(ヲ)、一云阿佐、

とある、

桜麻の苧(を)ふの下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも(万葉集)、

の、

を(麻)、

の由来はどうか。

「緒」と同語源か(デジタル大辞泉)、
ヲ(麻・緒)は細い義から出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、
ヲ(苧)はヲ(尾)の義、馬尾にたとえていう(名言通)、

と、

麻、苧の茎の皮の繊維で作った糸。緒にするもの、

とあり(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、

繊維を糸に作るウム(績)は、ヲをつくるということであろう。またヲ(尾)・ヲ(緒)もこの麻糸のヲと関係があると思われる(日本語源大辞典)、
オ(尾)・オ(緒)もこの麻糸のオに関係があると思われる(精選版日本国語大辞典)、

などとあるので、「麻」の用例から来たと見ているようである。

三輪山の山辺(ヤマヘ)真蘇(ソ)木綿(ユフ)短か木綿(ユフ)かくのみからに長くと思ひき(万葉集)、

の、

そ(麻)、

は、

「あかそ(赤麻)」「かみそ(紙麻)」「すがそ(菅麻)」「まそ(真麻)」「やまそ(山麻)」「打麻(うちそ)」「夏麻(なつそ)引く」、

等々複合語として残り(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、

サヲの約、サは発語、ヲは即ちヲ(麻)なりと云ふ、

とあり(岩波古語辞典)、

を、

と繋がり、用例としての、

緒、

ともつながる。しかし、

苧(お)、

と言う時、単に麻や苧麻のひも状の繊維、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB_%28%E7%B9%8A%E7%B6%AD%29とあり、

苧麻の苧(お)を作ることを、苧引き(おひき)と呼び、成長が遅れ短くなった原料とするにつれ順に、親苧(おやそ)、影苧(かげそ)、子供苧(こどもそ)と呼ぶ。麻の苧(あさお)を作ることを、麻ひき(おひき)という(しかし、苧引と書くこともあるかもしれない)、

とある(仝上)ので、素材としての「麻」とは区別していた可能性がある。しかし、現状では、

「あさ」「お(を)」「そ」の間の関係は明確ではない、

というのが正確かもしれない。

カラムシ.jpg

(カラムシ 日本大百科全書より)

さて、広義の、

麻、

に含まれる、

からむし、

は、

詔して、天の下をして桑、紵(カラムシ)、梨、栗、蕪菁(あをな)等の草木を勧め殖ゑ令む(日本書紀)、

と、

苧、
枲、
紵、

などと当て、

イラクサ科の多年草。本州、四国、九州の原野に生え、畑にも栽培される。茎はやや木質化し、高さ一~一・五メートル。茎、葉柄ともに白色の短毛を密生する。葉は互生し長さ八~一五センチメートルの広卵形で先端がとがり縁に鈍い歯牙がある。夏から秋にかけ、葉腋(ようえき)に淡緑色の単性花をまばらにつける。雌雄同株。茎から繊維(青苧(あをそ))をとる、

とあり(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、

其茎を水に浸し、蓆にて覆ひて蒸し、皮を製して、越後縮、越後上布、薩摩上布、奈良晒などの布を織る、

とある(大言海)。一名、

からを、
けむし、
真麻(まを)、
シラソ、
むし(苧)、

などという。天治字鏡(平安中期)には、

枲、加良牟志、

同じく、

枲、加良乎、

和名類聚抄(931~38年)には、

苧、麻屬、白而細者也、加良无之、

同じく、

枲、介牟之、

とある。この由来は、

茎蒸(からむし)の義、カラヲと云ふも、茎麻(からを)にて、ケムシと云ふは、カラムシの約轉(高市(たかいち)、たけち。長押(ながおし)、なげし)(大言海)、
ムシは朝鮮語mosi(苧)の転か、あるいはアイヌ語mose(蕁麻)の転か(広辞苑)、
繊維をとるのに、幹(から)すなわち茎を水に浸した後、むしろをかけて蒸すところから(和漢三才図絵・名言通)、
カラは唐で、舶来の改良したものの意。ムシは朝鮮語mosiあるいはアイヌ語moseから(国語学論考=金田一京助)、

と、こちらは製造プロセスから来たもののようである。しかし、上述したように、

大麻とからむし、
からむしと麻、

は、

名称が混交して麻をからむしと呼んでいることもある。宮城県の町誌で、からむしを蒸すと記されている。しかし本来蒸すのは麻。そのため「からむし」を名に含む店舗の高齢者を訪ねると、種を撒く・蒸すなど麻の特徴を語ったため、その地区では麻をからむしと呼んでいたとされる、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB_%28%E7%B9%8A%E7%B6%AD%29)、後世は、混乱が見られるが、上代迄そうだったというのは考えられない。厳密な区別がされていたのではあるまいか。

「麻」.gif



「麻」 金文・西周.png

(「麻」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BA%BBより)

「麻」(漢音バ、呉音メ、唐音マ)は、

会意文字。「广(やね)+𣏟(麻の茎を二本並べて、繊維をはぎ取るさま)」。あさの茎をみずにつけてふやかし、こすって繊維をはぎとり、さらにこすってしなやかにする、

とあり(漢字源)、大麻の一種で、雌雄異株で、雄株を枲又牡麻、雌株を苴麻又小麻というとある(字源)。別に、

会意。广(げん)(いえ)と、𣏟(はい)(あさ)とから成り、屋下であさの繊維をはぎとる、ひいて「あさ」の意を表す(角川新字源)、

ともあるが、これらは、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に基づくもので、

『説文解字』では「广」+「𣏟」と説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように「广」とは関係がない、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BA%BB

形声。「厂」(「石」の原字)+音符「𣏟 /*MAJ/」。「砥石」を意味する漢語{磨 /*maajs/}を表す字。のち仮借して「あさ」を意味する漢語{麻 /*mraaj/}に用いる、

としている(仝上)。なお、

麻は雌体、枲は雄体、

を意味するともある(漢辞海)。

「苧」.gif


「苧」(漢音チョ、呉音ジョ)は、「倭文の苧環」で触れたように、

会意兼形声。「艸+音符竚(チョ じっとたつ)の略体」、

とある(漢字源)。麻の一種の「からむし」である。

「枲」.gif


「枲」(シ)は、

形声。「木+音符台」、

とあり(漢字源)、

あさの一種、大麻の雄株、実がをつけない、

とある(仝上)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年09月12日

すべらぎ


すべらぎの木高き陰に隠れてもなほ春雨に濡れむとぞ思ふ(新古今和歌集)、

の、

すべらぎ、

は、

帝王、
天皇、

の意だが、ここでは、

近衛天皇をさすか、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

すべらぎ、

は、

皇、

と当て、

すめらきの転、

とあり(岩波古語辞典)、

すめらき、

ともいい(仝上・広辞苑)、室町時代の文明年間以降に成立した『文明本節用集』には、

皇、スベラギ、天子、

とある。『文明本節用集』には、

天皇、スベラギ、

ともある。古今集には、

八千種(やちくさ)の言の葉ごとにすべらぎのおおせかしこみ巻々の中につくすと(紀貫之)、

と、

帝、

の意で使う。「すべらぎ」に転訛する前の、

すめらき、

は、

スメロキの母音交替形、

で、古くは、

すめろき、

といい、

天皇、

と当てる(広辞苑)。

すめらぎ、

は、

スメラ君の約(大言海)、
スメキミ(統君)の義で、ラは添え字(類聚名物考)、
スベラリオハスキミ(統在坐君)の義(日本語原学=林甕臣)、
スベルキミ(統君)の義(名言通)、
スヘラキミ(都帝)の義(言元梯)、

等々とあるが、多く、「統べる」と関係づけている。「すめらぎ」の古形とされる、

すめろき、

は、

天皇、
皇祖、

と当て、

スメロはスメラの母音交替形、キはイザナキ・オキナのキと同根、男性の意、

とあり、

土地の最高位の男、
首長、

の意で、万葉集では、

隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)小国(をぐに)によばひせす我がすめろきよおくとこ(奥床)にはよに母は寐(い)ねたり、

と詠われるが、

須売呂岐能(すめろきの)御代佐可延牟等(みよさかえむと)阿頭麻奈流(あずまなる)美知能久夜麻爾(みちのくやまに)金花佐久(くがねはなさく)、

と、

天皇、

の意や、

葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国を天(あま)降り知らしめしける皇祖(すめろき)の神の命(みこと)の、

と、

皇祖、

の意でも使われる(岩波古語辞典)。

すめろき、

は、

皇祖君(スメラオヤギミ)の約轉(大言海)、
スミアレオヤギミ(皇生祖君)の約(雅言考)、
スメロはスメラの母音交替形、キはイザナキ・オキナのキと同根、男性の意(岩波古語辞典)、

とある。

スメロの母音交替形、

とされる、

すめら、

は、

天皇朕(すめらわれ)珍(うづ)の御手(みて)もちかき撫(な)でそねぎたまふうち撫でそねぎたまふ(万葉集)、

と、

最高の主権者、
一地域、また、日本全土について言う、

とあり、

天皇、

の意で使われる(岩波古語辞典)。この、

すめら、

を、

すべら、

と同じとし、

天祖、天皇の御上に係る物事に冠らせて尊称する語、

というように(皇辺(すめらべ)、皇御軍(すめらみいくさ)、皇命(すめらみこと)等々)、前述の「スベルキミ(統君)」説もそうだが、次のような音韻変化とする説が少なくない。

「天下を統治する君」という意のスブルキミ(統ぶる君)は、スムルギ・スメロギ(天皇)・スメラギ(天皇)になった。省略形のスメ・スベ(皇)、スメラ・スベラ(皇)は接頭語として用いられ、スメガミ(皇神)・スメマ(皇孫)・皇御国(スメラミクニ)・皇御軍(スメラミイクサ)・スメラミコト(皇尊、天皇)という(日本語の語源)、

と。しかし、こうした、

スメをスベ(統)と見る説、

は、意味的には妥当に思えるのだが、

スメはsumeの音、スベはsubëの音で母音が相違する、

とある(岩波古語辞典)ことで、一蹴される。といって、

梵語で、至高・妙高の意の蘇迷盧sumeruと音韻・意味が一致する、
最高の山を意味する蒙古語sumelと同源、

との説(仝上)は、いかがなものだろうか。

天皇、

という称号は、中国から取り入れたものだが、古く大和朝廷時代は、

大王(おおきみ)、

を用い、それを、

すめらぎ、
すべろぎ
すめろぎ、

等々と訓じてきたが、両者は別とする説がある。

オオキミ、

は〈大いなる君〉の意で、キミはまた〈カミ=上〉と通ずる古来の日常的尊称であった。この、

キミ、

は、

筑紫君(つくしのきみ)などと地方豪族の地位の称にみえるキミは日常語からの延長であり、それをさらに大きく称号化したものがオオキミだといえる、

とあり(世界大百科事典)。オオキミは天皇だけをさす語ではなく、王族身分の称(額田王(ぬかたのおおきみ)など)に用いられ、さらに一般にとくに尊敬をこめた代名詞として使われた形跡がある(仝上)。

それに対して、

スメラミコト、

は、

天皇のみをさす尊称、

で、それは旧来のオオキミに代わって、王権の聖性と尊厳を内外にあらわすべく、6世紀末ないし7世紀初めのころ、とくに定められた(仝上)され、対外的文書や詔勅といった公式的・儀礼的機会に限ってのみみられ、万葉集などでは、

大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居(たゐ)を都と成しつ、
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼(みぬま)を都と成しつ、

などと、オオキミと呼ばれていたものに、

すべろぐ、
すめろぎ、
すめらみこと、

などに、中国典籍による、

天皇、

を当てたものだろう(仝上)とみられる。なお、西郷信綱の説に、

〈スメラ〉を〈澄める〉にもとづくものとし、それにより〈ケガレ〉の対極にあるところの神聖王権の超越性をあらわした、

とするものがある。この方が、古来の天皇の神性を感じさせる気がする。

「皇」.gif


「皇」(漢音コウ、呉音オウ)は、

会意兼形声。王とは偉大な者のこと。皇は「自(はな→はじめ)+音符王」で、鼻祖(いちばんはじめの王)のこと。人類開祖の王者というのがその原義。上部の白印は白ではなく自(鼻の原字)である、

とあり(漢字源)、

秦の始皇帝がみずから皇帝と称したのにはじまる、

とある(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(白+王)。「光を放つ日」の象形と「支配権の象徴として用いられたまさかり(斧)」の象形から、「君主」、「王」、「皇帝」、「美しい」を意味する「皇」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1000.htmlが、

象形。もと、土(燭台(しよくだい)の象形。のち、王の形に変わる)の上に、火光(白は誤り変わった形)がかがやくさまにかたどり、かがやきわたる意を表す。「煌(クワウ)」の原字。借りて、王の美称、広大の意に用いる、

と(角川新字源)、象形文字とする説もある。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、

会意文字。「自」から構成され。「自」は始めの意である。最初の「皇」は三皇であり、偉大な君主である。「自」は「鼻」の字音で発音する。俗に最初に生まれた子を「鼻子」という、

とある(漢辞海)。因みに、

三皇(さんこう)、

は、古代中国の神話伝説時代の八人の帝王を、

三皇は神、五帝は聖人、

として、

三皇五帝(さんこうごてい)、

という。諸説あるが、司馬遷『史記』秦始皇本紀では、「三皇」を、

天皇・地皇・泰皇(人皇)、

としているが、司馬貞が補った『史記』三皇本紀では、上記と併記して、三皇を、

伏羲、女媧、神農、

としている。なお「五帝」は、

伏羲・女媧・神農・燧人・黄帝、

とされるhttps://information-station.xyz/9241.html。「三皇五帝」については、「烏號」で触れた。

天皇。「三才図会」より.jpg

(天皇氏(明代『三才図絵』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87_(%E4%B8%89%E7%9A%87より)

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年09月11日

桜麻


桜麻のをふの浦波たちかへり見れどもあかず山梨の花(新古今和歌集)、

桜麻の、

は、

「をふ」の枕詞、

で、

をふの浦波、

の、

をふの浦、

は、

伊勢国の歌枕、

とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

現在の三重県鳥羽市浦村町に入り込んでいる海を生浦(おおのうら)湾と呼び、この地はかつて古今集・東歌に、

おふのうらに片枝さしおほひなる梨のなりもならずも寝て語らはん、

と歌われた梨の木と伝えられる木が境内にある片枝梨神社も存したという。それによれば志摩国の歌枕となる、

とある(仝上)。なお、

生浦(おうのうら)、

は、

志摩国の斎宮(いつきのみや)の庄、

といわれ(精選版日本国語大辞典)、梨を献じた(仝上)とある。ちなみに、

をふ、

は、

桜麻のをふの下草茂れただあかで別れし花の名なれば(新古今和歌集)、

とあり、

麻畑(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

あるいは、

麻の生えている地

とある(広辞苑)。枕詞、

桜麻の、

は、万葉集の、

桜麻乃(さくらあさノ)苧原(をふ)の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも、

などの、

桜麻乃、
桜麻之、

を訓んだもので、

麻と苧(お)とが同義であるところから、「おふ(苧生=麻の生えている所、麻畑)」にかかる、

が、その他、冒頭の、

さくらあさのをふのうら浪立ちかへり見れども飽かず山なしの花(新古今和歌集)、

と、

「苧生(おふ)」と同音の地名「おふの浦」、

にかかり、さらに、

さくらあさのかりふのはらをけさ見れば外山かたかけ秋風ぞ吹く(曾丹集)、

と、

桜麻を刈る意で、「刈る」と同音を持つ地名「かりふの原」、

にかかる。ただ、

さくらをのをふの下草やせたれどたとふばかりもあらずわが身は(古今和歌六帖)、

と、「古今六帖」(976~87頃)には、

さくらをのをふのしたくさ、

と見え、

契沖以来、「さくらをの」とよむ説も多い。「新古今」以後の勅撰集に、いくらかの用例を見るが、多くは、「さくらあさのをふのしたくさ」と続いている。実体不明のまま、歌語として受け継がれたものであろう、

とある(精選版日本国語大辞典)。しかし、

麻、

を、

を、

と訓ませる根拠はある。和名類聚抄(931~38年)に、

麻苧、乎(ヲ)、一云阿佐、

とあり、

を、

は、

苧、

とも当て、

アサの古名(広辞苑)、

あるいは、

アサの異称(岩波古語辞典・大言海)、

とある。

桜麻、

という名は、

花が薄紅色で桜のような五弁であるところから、

とも、

桜の咲く頃に種子をまくところから、

ともいう(精選版日本国語大辞典)とあるが、万葉集古義(江戸末期)に、

櫻麻は、櫻の咲く頃、蒔くものなる故に云ふ、と云へり、

とあり、

櫻鯛、櫻雨の類なるべし、

とし(大言海)、

麻の種は陰暦三月の頃に蒔く、

からだとし(仝上)、

雄麻(ヲアサ)の一名、

とする(仝上・精選版日本国語大辞典)

なお、「さくら」については触れた。

「櫻」.gif

(「櫻(桜)」 https://kakijun.jp/page/sakura21200.htmlより)

「櫻(桜)」(漢音オウ、呉音ヨウ)は、

会意兼形声。嬰(エイ)は「貝二つ+女」の会意文字で、貝印を並べて首に巻く貝の首飾りをあらわし、とりまく意を含む。櫻は「木+音符嬰」で、花が気をとりまいて咲く木、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(木+嬰)。「大地を覆う木」の象形と「子安貝・両手を重ねひざまずく女性」の象形(女性が「首飾りをめぐらす」の意味)から、首飾りの玉のような実を身につける「ゆすらうめ」を意味する「桜」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji305.htmlが、

形声。木と、音符嬰(エイ)→(アウ)とから成る。木の名。日本では、「さくら」の意に用いる(角川新字源)、

と、形声文字とする説もある。

さくら」で触れたことだが、

我が国では、「さくら」に当てる「桜(櫻)」だが、中国では、花が木を取り巻いて咲く、

ゆすらうめ、

を指す。中国では、「さくら」は、「桜花」(インホア)という(漢字源・字源)。

ユスラウメ、

は、

中国原産で、日本へは江戸初期に渡来した。高さ約三メートル。葉は短柄をもち倒卵形で縁に鋸歯(きょし)があり、裏面に縮れた毛を密生する。春、葉に先だち白または淡紅色の小さな五弁花を開く。果実は径一センチメートルぐらいの球形で六月頃赤熟し甘味、酸味がほどよく合い生食される、

とある(精選版日本国語大辞典)。漢名に、

英桃、
毛桜桃、

を用いる(仝上)とある。

ユスラウメ.jpg

(ユスラウメ 日本大百科全書より)

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2024年09月10日

さしあふ


身はとめつつ心は送る山桜風のたよりに思ひおこせよ(新古今和歌集)、

の詞書に、

東山に花見にまかり侍るとて、これかれさそひけるを、さしあふことありてとどまりて、申しつかはしける、

の、

さしあふこと、

は、

さしつかえること、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

さしあふ、

は、

指し合ふ、
差し合ふ、

と当て(岩波古語辞典・大言海)、

指し合ふ、

は、

譬えば山賊と海賊と寄り合つて互ひに犯科の得失を指し合ふがごとし(太平記)、

と、

言い争う、
非難し合う、

意や、

世に不似ず美き酒にて有ければ、三人指合て(今昔物語集)、

と、

(酒などを)互いにつぎあう、さしつさされつする、

意で使い、

差し合ふ、

は、

あまた火ともさせて、小路ぎりに辻にさしあひぬ(落窪物語)、

と、

出会う、
でくわす、
一つになる、

意や、

大宮の御かたざまに、もてはなるまじきなど、かたがたに、さしあひたれば(源氏物語)、

と、

かち合って不都合になる、
さしつかえる、
さしさわりがある、

意で使うと分けているものもある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、もともと、

車なども例ならでおはしますにさしあひて、おしとどめて立てたれば(源氏物語)、

と、

ばったり出会う、

意から敷衍して、冒頭の、詞書の、

これかれさそひけるを、さしあふことありてとどまりて(新古今和歌集)、

と、

(予定と予定が)かち合って不都合になる、

意や、

山際よりさし出づる日の、花やかなるにさしあひ、目も輝く心ちする御さまの(源氏物語)、

と、

光などを受けて、それに応じて輝く、映り合う、

意で使うに至ったと見ていい。漢字の当て分けは、後付けでしかないように思う。

差し、
指し、

と当てる、接頭語、

さし

は、既にふれたように、

動詞に冠して語勢を強めあるいは整える、

とある(広辞苑)が、

遣るの意なる差すの連用形。他の動詞の上に用ゐること、甚だ多く、次々に列挙するが如し。一々説かず、……又、差しを、指す、擎す、刺すなど、四段活用の動詞に、當字に用ゐることも、多し、

とある(大言海)。後から「さし」に漢字を当てたにしても、同じ「さし」でも、口語で区別して使っていたから、異なる漢字を当てたと考えることができる。

動詞「さし」、

は、

最も古くは、自然現象において活動力・生命力が直線的に発現し作用する意。ついで空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向が働き、目標の内部に直入する意、

とあり(岩波古語辞典)、

射し・差し
刺し・挿し、
鎖し・閉し、
注し・点し、
止し、

等々を当てている。

發す、

と当てる、

さす、

は、

發(た)つの音通(八雲立つ、八雲刺す、腐(くた)る、くさる、塞(ふた)ぐ、ふさぐ)、

とし、

立ち上る、
生(は)ゆ、生(お)い出づ、
髙くなる、

という意味を載せる(大言海)。

差し昇る、
差し上がる、

の「さし」は、

差し、

を当てても、

發(さ)す、

から来ている(仝上)。さらに、

映す、

は、「發す」と同義で、

差し映す、

といった言い方になる。

指す、

は、指差す、という意味になり、そこから、

その方向へ向かう、
それと定める、
尺にてはかる、

という意味になるが、

刺すと同源、

とあり(広辞苑)、

直線的に伸び行く意、

とあり、

指(差)し示す、
差し渡す、
差し向かう、

等々という使い方をする。

擎す、

は、

上へ指して上ぐる意、

で(大言海)、

差し上げる、
差し仰ぐ、

といった使い方になる。

注す、

は、

他のものを指して入れる、

意で、

刺す・点す、

として、

刺すの転義、

で、

ある物に他の物を加えいれる、

とし(仝上・広辞苑)、いずれも、

差す、

とも書き、

差し入れる、
差し入る、
差し加える、

と言った言い方になる。

刺す、

は、

指して突く意、

で、

刺す・挿す、

として、

(刺)こことねらいを定めたところに細くとがったものを直線的に貫き通す、
(挿)あるものをたのものの中にさしはさむ、

と、

刺し貫く、
差し込む、
差し抜く、

等々という使い方になる。

鎖す、

は、「桟を刺して閉ヅル意」ということで、

差し止める、
差し置く、
差し固める、
差し構える、

といった使い方になる。

一番多いのは、

差し、

と当てる用例だが、

その職務を指して遣はす意ならむ。此語、さされと、未然形に用ゐられてあれば、差の字音には非ず、和漢、暗合なり。倭訓栞「使をさしつかはす、人足をさすなど、云ふはこの字なり、

とある(大言海)。

当てる、
遣わす、
押しやる、
突きはる、
将棋を差す、

といった意味で、

「刺す」と同源。ある現象や事物が直線的にいつの間にか物の内部や空間に運動する意、

とある(広辞苑)。

差し遣わす、
差し送る、
差し送る、
差し入れる、
差しかかる、

といった使い方になる。行動のプロセスそのものの意でもあるので、この使い方が一番多いのかもしれない。

どうやら、

さす、

は、

行う、

ことから、

上げる、

ことから、

さしこむ、

ことまで幅広く使われていた。だから、「さし」を加えることで、単に、強調する、ということだけではないはずだ。

渡す、
のと、
差し渡す、

のとでは、「渡す」ことに強いる何かを強調しているし、

出す、

差し出す、

も同じだ。

貫く、

刺し貫く、

でも、ただ刺したのではなく、ある一点を目指している、という意味が強まる。

仰ぐ、

差し仰ぐ、

では、両者の上下の高さがより強調されることになる。

さし、

が、

空間的・時間的な目標の一点の方向へ、直線的に運動・力・意向が働き、目標の内部に直入する意、

として強調されるということは、

自分の意思、
か、
他人の意思、

かが強く働いている含意を強めているように思う。

許す、

差し許す、

あるいは、

控える、

差し控える、

と、意味なく、強調しているのではなさそうだ。だから、

合ふ、

に、

差し、

を加えて、

差し合ふ、

とした場合、単に、

出会う、
ぶつかる、

以上に、

ばったり、

と強い意味になる。そこに、自分ではなく、

他意、

ないし、強い、

偶然、

を加味しているとも見える。

「差」.gif

(「差」 https://kakijun.jp/page/1054200.htmlより)


「差」 金文・西周.png

(「差」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AEより)

「差」(①漢音サ・呉音シャ、②漢音呉音シ、③慣用サ・漢音サイ・呉音セ)は、

会意兼形声。左はそばから左手でささえる意を含み、交叉の叉(ささえる)と同系。差は「穂の形+音符左」。穂を交差してささえると、上端は×型となり、そろわない。そのじぐざぐした姿を示す、

とある(漢字源)。音は、①は、「等差」「相差」など、違う意、②は、「参差」というように、ちぐはぐで揃わない意、③は、「差遣」というように、遣わす意である(仝上)。別に、

会意兼形声文字です。「ふぞろいの穂が出た稲」の象形と「左手」の象形と「握る所のあるのみ(鑿)又は、さしがね(工具)」の象形から、工具を持つ左手でふぞろいの穂が出た稲を刈り取るを意味し、そこから、「ふぞろい・ばらばら」を意味する「差」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji644.htmlが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B7%AE

形声。「𠂹 (この部分の正確な由来は不明)」+音符「左 /*TSAJ/」(仝上)、

と形声文字説、

もと、会意。左(正しくない)と、𠂹(すい)(=垂。たれる)とから成り、ふぞろいなさま、ひいて、くいちがう意を表す。差は、その省略形(角川新字源)、

と会意文字説と別れる。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2024年09月09日

苔の袖


年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春やたつらむ(皇太后宮大夫俊成)、

の、

苔の袖、

は、

苔の衣(僧衣)の袖、

の意とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。俊成は安元二年(1176)九月、六十三歳で出家、その年の暮れ、

身に積もる年の暮れこそあはれなれ苔の袖をも忘れざりけり」(長秋詠藻)、

と詠んでいる(仝上)。新古今和歌集には、

いつかわれ苔のたもとに露おきて知らぬ山路(ぢ)の月を見るべき(家隆朝臣)、

と、

苔の袂、

の表現もある。

苔のたもと、

は、

「苔の衣」「法衣」に同じであるが、袂(袖)を片敷いて独り臥すイメージが働く、

とある(仝上・https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952652512&owner_id=17423779)。

苔の衣、

は、

苔衣(こけごろも)、

に同じで、

苔の一面に生えた状態を衣にたとえた、

ことばで、

僧侶・隠者などのころも、

をいう(広辞苑)。

苔(こけ)、

自体に、

一樹下、石上を住處として、佛道を修行すると云ふ意より、僧侶の衣服、

などに言い(大言海)、

苔の衣、
苔の袂、
苔の袖、
苔の衣手、
苔の小衣、
苔織衣(こけおりぎぬ)、

などとも言い(仝上・精選版日本国語大辞典)、

閑居の體(てい)、

に、

苔の庵、
苔の戸、
苔の樞(とぼそ)、

などという(仝上)。

苔の袖、

は、

苔の袖雪げの水にすすぎつつおこなふ身にも恋はたえせず(「古今和歌六帖(976~87頃)」)、

苔の袂、

は、

みな人は花の衣になりぬなりこけのたもとよかわきだにせよ (古今和歌集)、

などと詠われる。

苔、

は、

蘚、
蘿、

などとも当て(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、その由来は、

コケ(木毛)の義(岩波古語辞典・雅言考・和訓栞・名言通)、
コケ(小毛)の義(和句解・日本釈名・和語私臆鈔)、
コキ(木著)の転(言元梯)、
魚の鱗をいうコケに似るところから(東雅)

等々とあるが、「うろこ」で触れたように、「うろこ」を、

こけ、

と訓むのは、

こけら(鱗)の下略、

で、

魚、蛇の甲、杮葺(こけらぶき)の形に似れば云ふ、

とある(大言海)。

東京では略してコケと云ふ、

とある(仝上)ので、全く別の由来である。

和訓栞(江戸後期)に、木毛(コケ)の義なるべしとあり、古くは、木のコケを云ひしが多ければ、木なるが元にて、他にも云ひ及ぼし、すべて毛の如く生えつきたるものの総名となれるならむと云ふ、物類称呼(江戸中期)に、美濃・尾張、北國にては、キノコを、コケと云ふとあり(大言海)、

とあることで尽きているのではないか。和名類聚抄(931~38年)に、

苔、古介、

本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、

垣衣、一名、青苔衣、古介、

とある。

「苔」.gif


「苔」(漢音タイ、呉音ダイ)は、

会意兼形声。「艸+音符台(タイ 自力で動く、おのずと生じる)」、

とある(漢字源)が、

形声。「艸」+音符「台 /*LƏ/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%94

形声。艸と、音符治(チ)→(タイ)(台は省略形)とから成る(角川新字源)、

形声文字です(艸+台)。 「並び生えた草」の象形と「農具:すきの象形と口の象形」(「大地にすきを入れてやわらかくする」の意味だが、ここでは、「始」に通じ(「始」と同じ意味を持つようになって)、「始まり」の意味)から、植物の始まり「こけ」を意味する「苔」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2681.html

と、いずれも形声文字としている。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2024年09月08日

野守の鏡


はし鷹の野守の鏡えてしかな思ひ思はずよそながら見む(新古今和歌集)、

の、

はし鷹、

は、小型の鷹、

はいたか、

とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

えてしかな、

の、

かな、

は、

希望の終助詞、

で、

手に入れたいなあ、

という意になる。

野守の鏡、

は、

逸(そ)れた鷹を映した野中の溜まり水のこと、

とも、

人の心を映してみせる、

ともいわれる、

伝説の鏡、

とある(仝上)。平安末期の歌学書『袖中抄』(顕昭)に、

雄略天皇の鷹狩の時、逃げた鷹を野守が水鏡で見て発見したとある故事に基づく、

とあり(広辞苑)、

野中の水にもの影のうつるのを鏡にたとえて言う、

つまり、

水鏡、

の意と、特に、

普通に見えないものを見ることができる鏡、

として詠まれるとある(広辞苑)が、

野守の用ゐて、己れが姿を見る鏡となす、

意ともある(大言海)。

はしたか、

は、

鷂、

と当て、音韻変化して、

はいたか、

ともいうが、

タカ科の鳥、

雌雄で大きさや羽色を異にし、雌だけをハイタカ、雄をコノリということもある。雌は全長39センチくらい、雄は全長32センチくらいと、雄は雌より小さく、雄の背面は青灰色で、腹面は白色の地に黄赤褐色の細い横斑がある。雌の背面は褐色で、腹面は白地に暗褐色の横斑がある。つう森林に単独ですみ、小鳥や野ネズミを捕食、

とあり、

鷹狩、

に用いる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

ハイタカ.jpg


野守、

は、

あかねさす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖振る(額田王 万葉集)、

ともある、

野を守る人、

特に、

立入りを禁じられている野原、

つまり、

禁猟の野を守る番人、

をいい(広辞苑)・精選版日本国語大辞典、

鷹狩りの途中で逃げた鷹を野守がたまり水に映る影を見て発見した、

という故事から、普通、

野中の水に物影がうつるのを鏡にたとえていう語、

つまり、

水鏡、

の意とされる。書言字考節用集(江戸中期)には、

野守鏡、ノモリノカガミ、本朝俗、斥郊野清水云爾、事見八雲抄、袖中抄、

とある。

水鏡、

は、

池の面に影をさやかにうつしても水鏡見る女郎花(をみなへし)かな(西行)

と、

静かな水面に物の影が映って見えること、

また、

水面に自分の姿などをうつしてみること、

をいう(広辞苑)。

すいきょう、

とも訓ませるが、漢語で、

水鏡(スイキャウ)、

というと、漢語で、

衞瓘見廣而奇之曰、此人之水鏡、見之瑩然若披雲霧、而覩晴天也(晉書・樂廣傳)、

と、

水鏡之人、

といい、

人の師となるべき人、

の意で使う(字源)が、和語では、

すいきょう(水鏡)、

は、

水面に物の影が映って見える、

という、

みずかがみ、

の意の他に、

水がありのままに物の姿をうつすところから、

無心に物事を観察し、真実を理解すること、そういう人の模範となること、また、そういう人、

の意でも使い(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、さらに、

団々水鏡空而仮、灼々空花亦不真(「性霊集(1079)」)、

と、

月の異称、

としても使う(仝上)。なお、謡曲「野守(古名「野守鏡(のもりのかがみ)」)」(世阿彌)では、

シテは鬼神。旅の山伏(ワキ)が大和の春日野に着くと、由(よし)ありげな池がある。来かかった野守の老人(前ジテ)に尋ねると、野守の鏡という名だと教える。それは、自分たちのような野守が鏡の代りにするからそう呼ばれるのだが、本当の野守の鏡は、昔、鬼が持っていた鏡で、その鬼は、昼は野守の姿となり、夜は鬼の姿となってここの塚に住んでいたのだという。山伏は、〈はし鷹の野守の鏡得てしがな……〉という古歌を思い出して質問する。老人は、それもこの水を詠んだもので、昔、帝の鷹狩りのおり、鷹の行方を見失って捜したとき、野守が水中に鷹の姿があることを教えた。それは木の上にいた鷹の影が水に写っていたもので、鷹の行方がわかって〈はし鷹の……〉の歌が詠まれたのだと物語り、塚の中に姿を消す。夜に入ると塚の中から鬼神(後ジテ)が現れ、天上界から地獄の底までを映し出す不思議な鏡を山伏に与え、大地を踏み破って去って行く、

と(世界大百科事典)、

いわれのありそうな水を野守の鏡ということ、



昔この野で御狩が行なわれた時、鷹が逃げたがこの水にその姿が映ったことからゆくえがわかったこと、

などを取り入れている(精選版日本国語大辞典)。

「鏡」.gif

(「鏡」 https://kakijun.jp/page/1915200.htmlより)

「鏡」(漢音ケイ、呉音キョウ)は、「ます鏡」で触れたように、

会意兼形声。竟は、楽章のさかいめ、区切り目を表わし、境の原字。鏡は「金+音符竟」。胴を磨いて明暗のさかいめをはっきり映し出すかがみ、

とある(漢字源)。ただ、他は、

形声。「金」+音符「竟 /*KANG/」。「かがみ」を意味する漢語{鏡 /*krangs/}を表す字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%8F%A1

形声。金と、音符竟(ケイ、キヤウ)とから成る。かげや姿を映し出す「かがみ」の意を表す、

も(角川新字源)、

形声文字です(金+竟)。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土中に含まれる「金属」の意味)と「取っ手のある刃物の象形と口の象形(「言う」の意味)の口の部分に1点加えた形(「音」の意味)と人の象形」(人が音楽をし終わるの意味だが、ここでは、「景(ケイ)」に通じ(同じ読みを持つ「景」と同じ意味を持つようになって)、「光」の意味)から、姿を映し出す「かがみ」を意味する「鏡」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji555.html、形声文字(意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて作られた文字)としている。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2024年09月07日

恋忘れ草


住吉の恋忘れ草種絶えてなき世に逢へるわれぞかなしき(新古今和歌集)、

の、

恋忘れ草、

は、

ユリ科多年草、萱草(かんぞう)のことという、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。紀貫之の、

道知らば摘みにもゆかむ住の江の岸に生ふてふ恋忘れ草(古今集)、

を念頭に置くか、とある(仝上)。貫之には、他にも、

住之江の朝満つ潮のみそぎして恋忘れ草摘みて帰らむ(貫之集)、

がある(仝上)。

恋忘れ草、

は、

古代中国において、憂いを忘れさせてくれる草として詩文に作られ、万葉集にも、

わがやどは甍(いらか)しだ草生ひたれど恋忘草(こひわすれぐさ)見るにいまだ生ひず(万葉集)、

と詠われる(仝上)。

ヤブカンゾウの花.jpg


恋忘れ草、

は、

摘むと、恋の苦しさを忘れる、

といい、

忘れ草、

ともいう。

忘れ草、

は、

今はとてわするるぐさの種をだに人の心にまかせずもかな(伊勢物語)、

と、

忘るる草、

ともいい(岩波古語辞典)、中国では、

萱草(かんぞう)、

をいい、

金針、
忘憂草(ぼうゆうそう)、
宜男草、

等々ともよばれ(字源・動植物名よみかた辞典)

学名Hemerocallis fulva、ワスレグサ属の多年草の一種、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%B0%E3%82%B5。広義には、

ワスレグサ属(別名キスゲ属、ヘメロカリス属)、

を指し、その場合は、

ニッコウキスゲなどゼンテイカもユウスゲもワスレグサに含まれる。また長崎の男女群島に自生するトウカンゾウなどもワスレグサと呼ばれる、

とある(仝上)。で、

萱草

で触れたように、「萱草」は、

ユリ科ワスレグサ属植物の総称、

として、

日当たりのよい、やや湿った地に生える。葉は二列に叢生し、広線形。夏、花茎を出し、紅・橙だいだい・黄色のユリに似た花を数輪開く。若葉は食用になる。日本に自生する種にノカンゾウ・ヤブカンゾウ・キスゲ・ニッコウキスゲなどがある、

と(大辞林)とある。

花を一日だけ開く、

ために、

忘れ草、

と呼ばれるらしい。

忘れ草、

は、

萱草の「古名」

とある(大言海)。

諼草、

とも当てる。これは、

詩経、衞風、伯兮篇、集傳「諼草(けんそう)、食之令人忘憂」とあるを、文字読に因りて作れる語ならむ、

とある(大言海)。

諼草、

を、

わすれぐさ、

と訓ませたということらしい。日本語源大辞典には、

中国では、この花を見て憂いを忘れるという故事があることから(牧野新日本植物図鑑)、

ともある。和名類聚抄(931~38年)には、

萱草、一名、忘憂、和須禮久佐、俗云、如環藻二音、

とある。また、

忘れ草、

は、

ヤブカンゾウの別称、

ともある(広辞苑)。

それを身に着けると物思いを忘れるというので、恋の苦しみなどを忘れるために、下着の紐に付けたり、また植えたりした、

とある(岩波古語辞典)。

忘れ草我が下紐に付けたれど醜(しこ)の醜草(しこぐさ)言(こと)にしありけり(万葉集 大伴家持)

という歌がある。忘れようと、身に着けてみたけれど、言葉だけか、と嘆いている。従妹で将来の妻、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌、とある。これは、

萱草(わすれぐさ)吾が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため(大伴旅人)、

のように、

昔、萱草を着物の下紐につけておくと、苦しみや悲しみを一切忘れてしまうという俗信があった、

ことに由来する(日本語源大辞典)とある。『今昔物語』に、

父親に死なれた悲しみを忘れるために萱草を植える兄と、親を慕う気持ちを忘れないようにと柴苑を植える弟の説話(「兄弟二人、萱草・紫苑を植うる語」)、

がある(仝上・https://yamanekoya.jp/konzyaku/konzyaku_31_27_trans.html)。ちなみに、「紫苑」(しおん)は、

漢名の紫苑の音読みから名前が付けられており、ジュウゴヤソウの別名もある。花言葉は「君の事を忘れない」「遠方にある人を思う」、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3_(%E6%A4%8D%E7%89%A9)

ところで、恋に絡んで、

秋さらばわが船泊(は)てむ和須礼我比(わすれがひ)寄せ来ておけれ沖つ白波(万葉集)、
若の浦に袖さへ濡れて忘れ貝拾へど妹は忘らえなくに(仝上)、
いとまあらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るてふ恋忘れ貝(仝上)、
わが背子に恋ふれば苦し暇(いとま)あらば拾ひて行かむ恋忘れ貝(仝上)、

などと、

わすれがい(忘貝)、

というのもある。

二枚貝が放れ放れの一片となり、たがいに相手の一片を忘れてしまうという意を掛けた名称、

といい(岩波古語辞典)、

二枚貝の放れた一片、またそれに似ているところから一枚貝のアワビ貝のこと、これを拾えば恋しい思いを忘れることができる、

ということで、

恋忘れ貝、

ともいい(仝上・精選版日本国語大辞典)、

うつせがひ(空貝・虚貝)、

に同じ、つまり、

身の無くなりて放れたる貝、

だからである(仝上)が、この場合、しかし、

肉の脱けた中身の空の貝殻、

をいい、

住吉の浜に寄るといふうつせ貝実なき言もち我れ恋ひめやも(万葉集)

と、

ルリガイ・アサガオガイなど巻貝の殻であろう、

ともあり(岩波古語辞典)、

タマガイ科の巻貝の、

ツメタガイ(津免多貝)の古称、

ともあるので、別かもしれない。

わすれがい.jpg

(わすれがい 日本大百科全書より)

忘貝、

は、一般には、

ささらがい、

ともいう、

マルスダレガイ科の二枚貝、

を指し、

鹿島灘以南に分布し、浅海の砂底にすむ。殻長約七センチメートル。殻は扁平でやや丸く、厚くて堅い。色彩は変化に富むが表面は淡紫色の地に美しい紫色の放射彩や輪脈模様のあるものが多い。食用にする。殻は細工物に利用される、

とある(精選版日本国語大辞典)。古来、

大伴の御津(みつ)の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れておもへや(万葉集)、

など多くの詩歌に詠まれてきたが、今日では、

浜に打ち上げられたいろいろの貝、

をさすものと思われる(世界大百科事典)とある。その意味では、

空の貝殻、

を広く指していると見ていいのかもしれない。

「萱」.gif


「萱」(漢音ケン、呉音カン)は、

形声。「艸+音符宣(セン・ケン)」、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%90%B1・角川新字源)。「わすれぐさ」ともいい、

この草を眺めると憂いを忘れる、

というので、

忘憂草、

ともいう(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(艸+宣)。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「屋根・家屋の象形と物が旋回する象形」(天子が臣下に自分の意志を述べ、ゆき渡らせる部屋の意味から、「行き渡る」の意味)から、行き渡る草「忘れ草(食べれば、うれいを忘れさせてくれる草)」を意味する「萱」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2238.html。なお、「萱」の異字体には、

萲、
蕿、
藼、
蘐、

がある(漢字源・https://kanji.jitenon.jp/kanjie/2263.html・漢辞海)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2024年09月06日

くれ(榑)


花咲かぬ朽木の杣(そま)の杣人のいかなるくれに思ひ出づらむ(新古今和歌集)、

の、

くれ、

は、

榑、

と当て、

皮付きの木材、また屋根を葺く板、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

朽木(くちき)の杣、

の、

朽木、

は、

近江国の枕詞、ここでは、自身の隠喩、

とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

杣、

は、

材木をを伐り出す山、または、大きい建造物の用材を確保するために所有する山林、

をいう(広辞苑)が、ここでは、その、

杣山の木、

または、

杣山から伐り出した材木、

つまり、

そまぎ(杣木)、

をいう(仝上)。

くれ、

は、

榑と暮れの掛詞、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

榑、

は、

山出しの板材、

をいい、

買檜久礼一千二百八十枚(正倉院文書天平六年(734)五月一日・造仏所作物帳)、

とか、

水の面の間もなく筏(いかだ)をさして、多くのくれ、材木を持て運び(栄花物語)、

等々とあり、平安時代の貢納品、あるいは商品としての規格は、延暦一〇年(七九一)の「太政官符」に、

長さ一丈二尺(約三・六メートル)、幅六寸(約一八センチメートル)、厚さ四寸(約一二センチメートル)、

とし、

「吾妻鏡」は、

長さ八尺(約二・四メートル)、

としている(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。この、

榑、

は、

くれ木と云ふが成語なるべし、即ち、黒木の転(黑(くろ)、皂皮(クリカハ)、皂革(クレカハ))、大嘗祭儀「正殿一宇、構以黒木」(大言海)、

とする(「皂」(ソウ)は、どんぐり・くぬぎなどの木の実、煮汁が黒い染料になるので、黒い、黒色)。他に、

クレウ(公料)の約という(類聚名物考)、
キシ(木斷)の義(和訓栞)、

等々の説もあるが、用例から見れば、

黒木、

なのではなかろうか。つまり、

杣山より伐り出したる皮ながらの材木、黒木。大小の丸木、丸太、

とある(大言海)。江戸後期の注釈書『箋注和名抄』には、

榑、久禮、

とあり、(延喜式の)内匠寮式には、

椙榑、大七十五材、

と載る。この用が転じて、

次の日、榑(クレ)や召すと云て、馬に付て来りける(「米沢本沙石集(1283)」)、

と、

木を剥ぎて薄板とし、板屋根を葺くもの、

つまり、

そぎ、
へぎいた、
こけら
くれぎ、

の意となり(大言海・精選版日本国語大辞典)、さらに転じて、

薪(たきぎ)、

の意となり、

丸太を四つ割にして、心材を取り去ったもの、

をいい、

断面は扇形となる。三方三寸、腹二寸四分というように定めている。地方により寸法を若干異にし、また六つ割、八つ割のこともある、

とある(仝上)。今日では、

丸太を製材して残った端の板、背板(せいた)、

を、

榑木、

という(仝上)。

「榑」.gif


「榑」(漢音フ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「木+音符尃(フ・ハク 大きく広がる)」で、枝の広がった木、

とある(漢字源)。我が国では、

皮のついたままの丸木、

の意で使うが、

榑桑(フソウ)、

は、

扶桑、

とも当て、

太陽の出る所にあるといわれる神木、

をいう(仝上)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ラベル:くれ(榑)
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2024年09月05日

おほなほび


新しき年の始めにかくしこそ千歳(ちとせ)をかねて楽しきを積め(古今和歌集)、

の詞書に、

おほなほびの歌、

とある。この、

おほなほびの歌、

は、

大直日の神を祭る神事の歌、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

大直日の神、

は、

『古事記』によれば、禍を吉に転じる神、

とある(仝上)。

おほなほび(おおなおび)、

は、

大直毘、
大直日、

と当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

咎過(とがあやまち)在らむをば、神直び、大直備(おほなほび)に見直し開き直し坐(ましま)して(延喜式(927)祝詞)、

とあるように、

凶事を吉事に変える力、

また、

その力を持つ神、

つまり、

大直毘神(おおなおびのかみ)、

をいい、

その、

神の祭、

をもいい、

おおなおみ、

とも訛る。この大直毘神(おおなおびのかみ)を祭るときの歌を、

大直毘の歌(おおなおびのうた)、

といい、

木綿垂(ゆふし)での神が崎なる稲の穂めや稲の穂の諸穂(もろほ)に垂(し)でよこれちふもなし(琴歌譜(9C前)大直備歌)、

とある(精選版日本国語大辞典)。

なおび、

は、

直毘、
直日、

と当て、

直毘(ナホビ)とは禍(まが)を直したまふ御霊の謂なり(「古事記伝(1798)」)、

とあるように、

「なおび」の「なお」は、祓除によって清めること(精選版日本国語大辞典)、
物忌みから平常に復し、また凶事を吉事に転ずる意(広辞苑)、

とされ、

神事の物忌(ものいみ)から平常の生活に直ること、

の意、また、

その時の祝宴。直会(なおらい)、

をもいう(精選版日本国語大辞典)。なお、一説に、

直毘神(なおびのかみ)をまつる日、

の意もある(仝上)。因みに、

直会(なおらひ)、

は、

動詞直(なほ)るに反復・継続の接続詞ヒのついたナホラフの体言形(岩波古語辞典)、
ナオリアイの約。斎(いみ)が直って平常にかえる意(広辞苑)
ナホリアヒ(直合)の義(大言海)、
平常に直る意(日本語源=賀茂百樹)、
直毘の神の威力を生じさせる行事の意(上世日本の文学=折口信夫・金太郎誕生譚=高崎正秀)、

等々諸説あるが、

神事(異常なこと)が終わった後、平常に復するしるしにお供物を下げて飲食すること、またその神酒(岩波古語辞典)、
神事が終わって後、神酒、神饌をおろしていただく酒宴、またその神酒(広辞苑)、

という意味である。ついでながら、

なほ(直)る、

自体が、

険悪・異常な状態から元の平静・平常に戻る、

意である(岩波古語辞典)。

直毘(直日)神、

は、

罪悪・禍害を改め直す神、
穢れをはらう霊神、

とされるが、

伊邪那岐(いざなぎ)尊が筑紫の檍原(あわきはら)でみそぎをしたときに生まれた、大直毘神と神直毘神との二神をいう、

とされ(精選版日本国語大辞典)、そのときの、

「けがれ」を象徴し、凶事をひきおこす神、

は、「古事記」では、

八十禍津日(やそまがつひの)神、
大禍津日神、

の二神(ふたはしら)とされる(デジタル大辞泉)。

枉津日神 (まがつひのかみ)、

は、

マガは曲っていること、よくないこと。ツは助詞。ヒは霊力を示す。凶事を引き起こす神、

の意とある(精選版日本国語大辞典)。古事記には、

その禍を直さむとして、成れる神の名は、神直毘(かむなほび)神、次に大直毘神、次に伊豆能賣(いづのめの)神、次に水の底に滌(すす)ぐ時に、成れる神の名は、底津綿津見(そこつわたつみ)神、……

とある。

「直」.gif


「直」 甲骨文字・殷.png

(「直」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%B4より)

「直」(漢音チョク、呉音ジキ)は、

会意文字。原字は「丨(まっすぐ)+目」で、まっすぐ目を向けること、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%B4)。別に、

会意。目と、十(とお。多い)と、乚(いん)(=隠。かくれる)とから成る。多くの目でかくれているものを見ることから、目でまっすぐに見る、ひいて、まっすぐ、「ただちに」の意を表す(角川新字源)、

象形文字です。「上におまじないの印の十をつけた目の象形」から「まっすぐ見つめる」、「まっすぐである」を意味する「直」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji373.html

と、会意文字説、象形文字説と別れるものの、会意文字説は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)によるもので、

『説文解字』では「十」+「目」+「𠃊」から構成される会意文字と説明されているが、これは誤った分析である、

とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9B%B4

「毘」.gif

(「毘」 https://kakijun.jp/page/hi09200.htmlより)

「毘」(漢音ヒ、呉音ビ)は、

会意兼形声。「田+音符比(ならぶ、連なる)」、

とある(漢字源)が、他は、

形声。意符囟(しん)(ひよめき。田は変わった形)と、音符比(ヒ)とから成る。人のへその意を表す。借りて、たすける意に用いる(角川新字源)、

形声文字です(田(囟)+比)。「通気口」の象形と「人が二人並ぶ」象形(「並べて比べる」の意味だが、ここでは、「頻」に通じ(「頻」と同じ意味を持つようになって)、「しわを寄せる」の意味)から、しわのある通気口の形をした人体の「へそ」を意味する「毘」という漢字が成り立ちました。また、「比」に通じ、「助ける」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji2548.html

と、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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