2020年04月20日

屯食


「屯食」(とんじき・とじき)は、

強飯(こはいひ)を握りかためて卵型にしたもの、平安時代、禁中または帰陣の饗宴の際、庭上に台などを出し、並べて、下臈(げろう)などに賜ったもの、

とあり(岩波古語辞典、広辞苑)、

公家で、握り飯の称、

ともある(広辞苑)。江戸中期の「安斎随筆」に、

屯食、トンシキとよむ、是ニギリメシの事なり、

屯食の屯はあつむるなり、食をにぎりあつめたるなり、トンシキとよむ、下臈の者に賜る食なり、

と載る(広辞苑、大言海)。江戸後期の「松屋筆記」にも、

屯はあつむると訓字也、食はいひ也、飯を屯(あつめ)たる義にて、今のにぎり飯の事を云ふ、公家にては今もにぎりめしをとんじきと云へり、

とある(仝上)。

「屯」は集まるという意味で、100具も200具も並べ立てることによる名であるという、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%AF%E9%A3%9F。宇治左大臣藤原頼長の日記「台記」春日詣の条には、

屯食十五具、裹飯(柏の葉で包んだ飯)五百具、

とあり、

室町初期の『源氏物語』の注釈書「河海抄」によれば、「貞丈雑記」によれば、

強飯を握り固めて鶏卵形にしたもの、

とある(仝上)。ただ、古くは饗宴のことを屯食といい、平安中期の儀式書「北山抄」の皇太子加元服儀の条の屯食の注には、

盛屯食と荒屯食との2種ある、

とある。江戸中期の類聚名物考」には、

盛屯食は木型などで打抜いたもの、荒屯食は型なしに盛つたものか、

とある。江戸中期の「玉函叢説」には、

嫁取りのときに用いる二重の台の下台のないものが古画巻の酒宴の座に見え、しかもその名を伝えないがおそらくこれが屯食であろう、

という(仝上)。どうも、

強飯(こはいひ)を握りかためて卵型にしたもの、

の意から、江戸時代には、

握り飯、

の意に変化してしまったらしい。ただ、

宮中で種々の催しのあるときは、大勢の下級の者には弁当のようなものを賜った。これを屯食といって、強飯をまるくにぎりかためて、器に盛ったもの、

とある(日本食生活史)ので、やはり、もともと今日の握り飯の感覚で食されたもののようである。源氏物語にも、

屯食五十具、
埦飯など世の常のやうに、

と見える。「椀飯」(おうばん)とは、

朝臣が参内したときに、多勢のものに殿上や台盤所や滝口などでもてなす食物、

で、

釜で煮た飯を埦(わん)に盛りつけたもの、

である(仝上)。屯食同様、立ち働く役人の弁当のようなものである。

屯食.bmp

(屯食 精選版日本国語大辞典より)


ちなみに、「強飯(こはいひ)」は、「粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html?1585854393で触れたように、

江戸時代までは米を蒸して飯にしたものを強飯といい、水を加えて柔らかく煮たもの、すなわち炊(かし)ぎ飯を弱飯(ひめ)または姫飯(ひめいい)といっていた。炊飯が一般化するようになってからは、これをご飯(はん)または飯(めし)といい、反対に糯米(もちごめ)を蒸したものを強飯またはおこわというようになった。米を蒸すのが通常の加熱法であった時代には、糯米でも粳米(うるちまい)でも強飯といったが、炊く方法が一般的になってからは蒸したものだけを強飯というようになり、さらに糯米を蒸さずに炊いたものを炊きおこわといっている。

である(日本大百科全書)。また「下臈」は、

上臈の対、

で、ここでは、

下人、
下衆(ゲス)、

を指す。

下郎、

とも当てる。

「屯食」は、武士の時代になると、戦陣食となる。兵糧としては、

玄米(手拭で包み水にぬらして地に埋め、その上で火を焚いて飯をつくったので、黒米飯という)、
糒(ほしいい)、
焼米、

の他、

焼いた握り飯を竹の皮や木の葉に包み、袋に入れたものを携行した、

とある(仝上)。

戦陣食を経て、江戸時代は、旅の携行食として、

屯食、

を、

飯を握って固めたもの、

として言うようになる(仝上)。

「屯食」の由来について、資治通鑑・唐高宗紀の注に、

中頓者謂中道有城有糧、可以頓食也、置食之所曰頓、

をひき、大言海、

即ち、頓食は昼食なり、省きて屯食書す、

とする。昼食をとる習慣のない時代だから、

弁当、

というのが妥当なのだろう。

おにぎり.jpg



「握り飯」は、

弥生時代後期の遺跡である杉谷チャノバタケ遺跡(石川県鹿島郡鹿西町、現・中能登町)でおにぎりと思われる米粒の塊が炭化したものが出土、

あるいは、

北金目塚越遺跡(神奈川県平塚市)からも、おにぎり状に固まった炭化米が発見、

等々あるが、この当時の炊飯方法は、

米と一緒に加熱した水を、沸騰して吹きこぼれたら土器をすぐに傾けて捨て、さらに加熱して米の水分を飛ばした後、土器を横倒しにして上部の米にも火を通す湯取り法の一種である(湯を捨てた直後は上部の米にはまだ芯が残っている)、

とされる。この方法では、

飯は粘り気が少なく、おにぎりにするのは難しい、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%AB%E3%81%8E%E3%82%8A。やはり、おにぎりの直接の起源は、

平安時代の「屯食」(とんじき)、

となるらしい。江戸時代に入ると公家社会では現在のおにぎりのことを「屯食」と呼ぶようになったのには、鎌倉以降、うるち米が使われるようになったことが大きい。

ところで、「握り飯」は、

むすび、

とは違う、とする説があり、

通説では西日本は「おにぎり」、東日本は「おむすび」、

とされる(仝上)。それについては、

おにぎりは形を問わないが、おむすびは三角型という説。
おにぎりが三角型で、おむすびは俵型という説。
米を握り固めた状態がおにぎりで、おにぎりをわらで巻いて運搬しやすくした状態がおむすび説。
丸形で海苔(しめった海苔)が全面を覆うのがおにぎり、三角で乾いたパリパリの海苔が一部を取り巻くのがおむすびという説。
三角の握り飯を「おむすび」というのは造化の三神に由来するとの説[注 3]。
おにぎりの呼び名は江戸時代からの呼び方でおむすびの呼び名はそれ以前からの古くからの呼び名。
東日本でおにぎり、西日本でおむすびと別名でよんでいたのが混交したという説
握り飯またはおにぎりの方が歴史が古く、その女房言葉もしくは丁寧語としておむすびといったという説
昔の日本人は山を神格化し、その神の力を授かるために米を山型(神の形)にかたどったのが握り飯を三角形に作った由来との説、

等々諸説あるらしい(仝上)。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年04月19日

普茶料理


「精進料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474633245.html?1587150470については触れたが、「普茶料理」も「精進料理」である。「普茶」は、

フチャ、

と訓むが、

フサ、

とも訓ます。

広く一般大衆に茶を饗すること、

とある(広辞苑)が、厳密には、

黄檗宗(おうばくしゅう)で、法会の後などに茶を一般の人に供すること、

である(デジタル大辞泉)。

禅宗で茶礼という儀式を行い、全山の人が集まってお茶を飲みながら意見の交換をするところから生まれた言葉である、

ともある(たべもの語源辞典)。「普茶」とは、

茶を普(あまね)くする、

意である。黄檗清規に、

常住設普茶、言普及一衆也、

とあり、禅林象器箋に、

點茶、普及一衆、故曰普茶、

とある(大言海)。「普茶」は、はじめ、

赴茶、

と書いたが(日本食生活史)、

寺院で僧たちが柝(ひょうしぎ)の音を聞いて茶の馳走に赴いたから、

とある(たべもの語源辞典)。

「普茶料理」は、

普茶が終わって出した料理、

をいうらしい。

法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、供えられた季節の野菜や、乾物や豆、特に大豆を調理し、幼長男女の別なく食卓を囲み煎茶や抹茶などと楽しむ食事、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86。ために、「普茶」は、

黄檗宗の寺で供される精進料理。また、料理店がだすそれを模した料理、

の意でもある。

ちなみに、「黄檗宗」は、日本の三禅宗のうち、

江戸時代に始まった一宗派、

で、

江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592~1673)を開祖とし、本山は隠元の開いた黄檗山(おうばくさん)萬福寺、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97。三大禅宗とは、

臨済宗、
曹洞宗、
黄檗宗、

である。隠元は、

中国式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を日本へもたらした。その時一緒に伝わった当時の「素菜」(スーツァイ、いわゆる中国式の精進料理)が普茶料理である、

とあり(仝上)、日本の精進料理は、鎌倉時代の禅宗と共にはじまったが、「普茶料理」は、

中国風、

なのである。

(萬福寺は)代々中国からの帰化僧が山主となったので中国風が興った、

とある(たべもの語源辞典)。

この山(寺)の山主は代々中国の帰化僧で、料理も中国のものが伝えられ、その料理はいまでも、黄檗の普茶(ふちゃ)料理として知られている。本来、中国の精進料理は植物性材料を用いても一見動物の形態、ものによっては味までそれに似たものをつくりだすのが特色である。鶏の焼いたり煮たりした形、コイの丸揚げらしくつくったものなどがある。日本の普茶料理にもこの技法は取り入れられ、とり団子、ウナギの蒲焼(かばや)き、マグロの刺身などの擬製料理もみられる。日本では、ナスのしぎ焼き、こんにゃくのすっぽん煮のように動物性の名称を用いた精進料理もある、

ともある(日本大百科全書)。しかし、

慶長(1596~1615)ころ、すでに長崎には、唐寺が建立されたので、ここで普茶を饗することが行われた。長崎の唐風寺院には、元和元年(1615)に興福寺、寛永五年(1628)に福済寺、翌六年に崇福寺ができ、これを長崎の三福寺と称した、

とあるので、「普茶」自体は既にあったようである。

承応三年(1654)七月に中国から名僧隠元禅師が来日、寛文元年(1661)山城宇治に黄檗山万福寺を創立した。普茶料理は黄檗宗とともに広められたので、一名黄檗料理とも言った、

とある(たべもの語源辞典)。「普茶料理」は、

卓袱(しっぽく)料理の精進なるもの、

ともある(大言海)。料理山家集(1802)には、

普茶と卓袱と類したものなるが、普茶は精進にいひ全て油をもって佳味とす。卓袱は魚類を以って調じ、仕様も常の会席などと別に変りたる事なしといへども、蛮名を仮てすれば、式と器の好とに、心を付ける事肝要なり、

とあり、油を使うことが普茶の特徴らしく、それで、

精進の卓袱料理、

といわれる(たべもの語源辞典)らしい。「卓袱料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471380539.htmlについては既に触れた。

『普茶料理抄』に掲載の配膳方法の説明図.jpg

(『普茶料理抄』に掲載の配膳方法の説明図 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86より)


基本的に一つの長方形の座卓(卓袱台)を4人で囲み、一品ずつの大皿料理を分け合って食べる、スタイルhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%8C%B6%E6%96%99%E7%90%86は卓袱料理と同じである。

明和(1764~72)頃の「卓袱会席趣向帳」「普茶料理抄」などには、一皿一皿に四人分の料理が盛ってあるのを取り廻して、ひとつの卓に四人が向かい合って座っている図が載っている。

料理においても中国風のものが多く、巻繊(野菜や乾物の煮物や餡かけ)・油糍(下味をつけた野菜などを唐揚げにしたものや雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)・擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理。麻腐、すなわち胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理である)などがある。炒めや揚げといった中国風の調理技術には胡麻油が用いられ、日本では未発達であった油脂利用を広めた、

とある(仝上)。この食事法は、「卓袱台」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471364060.htmlで触れたように、「卓袱料理」とともに、それまでの日本の食事風景を変える、

ちゃぶ台、

につながり、

がんもどき、

精進揚、

が家庭料理に普及するのに影響が大きかった(たべもの語源辞典)。

普茶料理の例.jpg



今、普茶料理として八品を、

雲片(ウンペン 野菜を油でいため、葛煮にする)、
油糍(ユジ 味付け精進揚)、
澄汁(スメ 薄味の汁もの)、
醃菜(エンツァイ 香物)、
笋羹(シュンカン 生菜煮菜の盛り合わせ)、
麻腐(マフ 胡麻豆腐)、
羹杯(カンパイ ひたし物)、
味噌煮(味噌汁)、

と定められている(たべもの語源辞典)、とある。それまでの、豆腐や納豆、野菜、豆、海藻主体の精進料理とはかなり異なることがわかる。

なお、「会席料理」については「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlで触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年04月18日

精進料理


「精進料理」とは、

精進物のみを用いた料理、

であり(広辞苑)、

腥(なまぐさ)料理の対、

ともある(大言海)。「精進物」とは、

生臭物の対、

つまり、

材料に魚肉を用いず、野菜・海藻の類を用いた食べ物、

である(岩波古語辞典)。「精進」とは、

懈怠の対、

であり、

六波羅蜜の一つ、

であり、

善法の実践に怠りなく励むこと、

である(仝上)。「波羅蜜」とは、

サンスクリット語のパーラミターpāramitāの音写、

仏教において仏になるために菩薩が行う修行のこと、

であり、六波羅蜜とは、

布施波羅蜜 施しという完全な徳、
持戒波羅蜜 戒律を守るという完全な徳、
忍辱波羅蜜 忍耐という完全な徳、
精進波羅蜜 努力を行うという完全な徳、
禅定波羅蜜 精神統一という完全な徳、
般若波羅蜜 仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳、

とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。「精進」は、

(身を清めて、心を謹んで仏道修行の)努力をする、

という意で、その実践方法として、

美食を戒めて粗食をする、

ことである(たべもの語源辞典)。日本に伝わると、

イモヒ、

と訓んだ(仝上)。「いもひ」とは、

忌マヒの転、

で、

精進潔斎(しょうじんけっさい)、

さらに、物忌みの食事、

斎食、

の意である(岩波古語辞典)。つまり「精進」は、

仏事・神事などを控えて、心身のけがれを清めるための忌みの生活、

の意となる。この背景は、

日本には古来から、人畜の死や出血、出産など異常な生理状態を指して不浄、穢れとした概念があった。これが結びついて俗間では消極的な理解となり、服喪のための物忌みなどでその浄化の実践のために衣服、食事を通じて身心を清めること、俗縁を断ち切って清浄にし、仏門の生活を送ることもいうようになった、

ということがあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2。で、食事においても、

仏教で殺生を禁じたことから魚、鳥、獣など動物性の食事を取ることや、酒を断ち、五葷(ごくん)と呼ばれる煩悩を刺激する臭いの強い野菜(ネギ類など)も避け、また調理に使う火も普段の家族で使うものとは別の清浄な火を使うなど、細部に渡って慎みとして徹底された、

ということがあり(仝上)、「精進」とは、

魚鳥獣肉など、生臭物を断つこと、

の意となる。物忌みでは中陰などのように期間を定め、それが過ぎることを、

精進上げ(精進明け)、

食事を含めて通常の生活に戻すことを、

精進落とし、

と言った(仝上)。で、

精進する人は、美食、肉食せぬ意より、転じて、膳部に菜蔬のみ、用いること、

を「精進」というようになった(大言海)。

素膳、

ともいう(仝上)、とある。「中陰」(ちゅういん)とは、「中有」(ちゅう)ともいい、

死者が今生と後生の中間にいるためantarā(中間の)bhava(生存状態)、

をいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%B0、この期間を、

49日とする説から,この期間中に浮遊している亡霊に,幸福な次生を得させるために,7日ごとに読経,法要を営む風が生じた(百科事典マイペディア)。

「精進」は、

ショウジン、

と訓むが、古くは、

ソウジ、
ショウジ、
ソウジン、

とも訓んだ(広辞苑)。神道では、

精進を「そうじ」と読んで物忌と同意に用いる、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2

物忌みの意味の流れとは別に、中世末の日葡辞書には、

一所懸命努力する、

の意で、

ユミャウ(勇猛)シャウジンノココロ、

と載る。本来の「精進」の意である。

精進料理の例.jpg



鎌倉時代以降の禅宗の流入によって、精進料理が広まったが、

平安時代までの日本料理は魚鳥を用いる反面、味が薄く調理後に調味料を用いて各自調製するなど、未発達な部分も多かった。それに比べて禅宗の精進料理は、菜食であるが、味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理技法は、日本料理そのものに取り入れられることになる。また、豆腐、氷(高野)豆腐(凍豆腐)、コンニャク、浜納豆(塩辛納豆ともいう)、ひじきといった食材も、精進料理の必須材料として持ち込まれたと考えられる。調理の心得として心から喜んで調理する喜心や自己より他人のための老心や冷静に調理の大心を重視している、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%96%99%E7%90%86、料理は、

甘い辛い酸っぱい苦い塩辛いの五味や生調理煮る焼く揚げる蒸すの五法を重視して、赤色の豆・米麦白色・黄色根菜類・緑野菜果物・きのこ海藻の黒色など五色を調理の基本としている、

とある(仝上)。室町前期頃の「庭訓往来」には、

斎(とき)の汁には豆腐汁・辛汁・豆腐糟・とろろ汁・竹の子汁、

があり、さらに、

大根を細かに切ったもの、黒煮ノ蕗・煮染ノ牛蒡・昆布・青海苔・若布(ワカメ)・酢漬の茗荷・ゆで茄子・胡瓜の甘漬・納豆・煎豆・豌豆・薊・薺(なずな)・芹・酒煮の松茸、

等々の料理が用いられた(日本食生活史)、とある。精進料理は材料が淡泊であるから、

その味を向上させるためには、だしにかつお節を用いてもよいとしたこともあるが、原則としては植物性のものだけとなっているために、主たる調味源としてはシイタケ、昆布を用いている。ごま油、卵は用いてよいものとされ、酒も重要な調味料とされている。酒のもつうま味、コハク酸の味を利用しようと考えるためであろう。みりんができたのは江戸後期とみられているが、これも利用されている、

とあり(日本大百科全書)、『料理物語』(1643年(寛永20))のなかには、

「だし酒は、かつおに塩ちと入れ、新酒にて一あわ二あわせんじ、こしさましてよし」「精進のだしはかんぴょう、昆布(焼きても入れる)、干したで、糯米(もちごめ)(袋に入れる)、干しかぶら、干しだいこん右の中取合せてよし」

と、精進料理のだしについての解説がある(仝上)。

精進料理の一つに、「点心」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471747056.htmlがある。寺院では、

茶子(ちゃのこ)、

ともいい、

禅僧の間食、

である。点心には、

木菓子、

唐菓子、

の二種があり、「木菓子」は、果実であり、

柑子・ほそじ・栗・柿、

等々を利用し、「唐菓子」には、前代からあった、

餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粢(シトギ 米又は糯米で作った餅)
焼餅、
粽、

等々があるとされる(日本食生活史)。「粽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474481098.htmlについては触れた。

なお、曹洞宗では、

料理すること、食事を取ることは特に重要視されている。道元が帰国後書いたのが、『典座教訓』(てんぞきょうくん)と『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)で、ここから永平寺流の精進料理が生まれたという。永平寺では料理を支度することが重要な修行のひとつ、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%96%99%E7%90%86。また、「精進料理」は、日本的な精進料理の他に、

普茶料理、

があるが、項を改める。

なお、「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlについては、すでに触れた。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年04月17日


「厨」(くりや)は、

台所、

の意だが、台所http://ppnetwork.seesaa.net/article/474602193.html?1586976827で触れたように、「厨」(漢音チュウ、呉音ズ、ジュウ)は、

形声。尌(ジュ)が音を表す。物を出し入れする戸棚や部屋、

とあり、同じ意味で、

庖、

もある。「庖」(漢音ホウ、呉音ビョウ)は、

会意兼形声。包(ホウ)は、外から包む意を含む。庖は「广(いえ)+音符包」で、食物を包んで保存する場所の意、

とある(漢字源)。

庖廚(ほうちゅう)、
廚庖(ちゅうほう)、

という言い方もする。「廚」は「厨」の異体字である。「庖丁(ほうてい)」は、

料理人、

の意だが、和語では、

くりやびと、

と訓ますが、「庖丁」は、

荘子にある、

庖丁、為文惠君解牛(養生主篇)

の故事の名高き料理人からきている。

厨、

を当てる「くりや」は、

黒屋の意(広辞苑)、
黒屋の轉…、烟に煤くるよりの名なり、出雲国造神賀詞「嚴瓮黒益(イツベクロマ)し」、禁中の黒戸も同意なり(大言海)、

とする説がある。これは、かなり意味のある説だと思う。

竈の煙で黒くなっている、

というだけではなく、「くろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/438380876.html?1585436746で触れたように、

「一説に,古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とするという。本来は,灰色がかった白色を言うらしい。」

とあり(広辞苑)。「くろ」は色というより,「明暗」の「暗」を指している。したがって「くろ」も,

「『くら(暗)』と同源か。また,くり(涅)と同源とも」

とある(広辞苑)。あるいは,似たニュアンスだが,

「『暗い(くらい)』もしくは『暮れる(くれる)』が転じて『黒(くろ)』となった」

とする説もある。

「赤が明るさについていうことから派生したように、「くらし(暗)」と同源で、本来は暗い状態を表す語から発したと考えられる」

のである(日本語源大辞典)。それは、

明し→赤し、

の対として、

暗し→黒し、

と転じたということのようである。かつて、台所は、どこか暗かったイメージとも合わせると、

ツクリヤ(調屋)の義(言元梯)、
ケツクリヤ(食製屋)の義(日本語原学=林甕臣)、
カスラシャの反(名語記)、
台所をいうシャム語kruaから(外来語辞典=荒川惣兵衛)、
クル(食物を供する)+ヤ(建物の)音韻変化。クルは食物を次々と繰り出す「くる」(日本語源広辞典)、

等々という諸説と比べると、はるかに実態を反映している気がする。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:くりや
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2020年04月16日

台所


「台所」とは、

煮炊きその他、食物を調理する室、

の意だが、

厨(くりや)、
勝手、
厨房、
炊事場、

とも言う。「勝手」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459302936.htmlについては触れた。で、その、

調理する室、

の意から転じて、

金銭のやりくり、またその内情、

の意となった。「台所」は、

台盤所の略称、

とされる。「台盤所」は、

宮中や貴族の邸で、台盤を扱う女房の詰所、宮中では清涼殿の西庇(にしびさし)にあったという、台盤を置いてあって膳立をするところであるのでこのように称した、

とある(日本食生活史、岩波古語辞典)が、正確には、

「台盤所」は平安時代からあったが、「台所」と称してよぶようになるのは、中世以降かと思われる。当初、内裏や仙洞に加え、摂関家ににあって女房などが詰めていて飲食する部屋だったのが、中世になると、武家の間にも広まり、広く料理する場所をさすようになって、一般化した、

とある(日本語源大辞典)ように、どうやらキッチンではなく、ダイニングだったらしい。で、

近世以降は、庶民の間にも浸透して金銭のやりくりなどの派生義も生じ、近代以降は、類義語の「厨」「勝手」を退けて定着するに至った、

とある(仝上)。

「台盤」は、

だいばん、

と訓むが、

ダイハン、

とも訓ます。

平安時代の宮廷,貴族の飲食調度の一つで,節会,大饗などに用いた。「だいはん,ばんだい」ともいう。食物を盛った盤(皿)を載せる木製の机状の台。長さが約240cmの大台盤(長台盤,2人以上用),約120cmの小台盤(切台盤,1人用)などがあり,ともに幅は約1m,高さは約45cmぐらい。朱・黒漆塗で,上面は幅広い縁がつき中が低い、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

「台盤所」は、

敬称の御を付けると人を表し、そこを統括する人、すなわち貴人の奥方をさしたが、それが略された「御台所」「御台」という語も中世以降に生まれた、

とある(日本語源大辞典)。平安時代の中頃までは、

三位以上の公卿の正室はみな「北政所」と呼ばれていた。しかし時代が下るとこれが格式化して、「北政所」は宣旨をもって贈られる称号となり、しかもその対象は摂政または関白の正室のみに限られるようになった。すると三位以上の公卿でも大臣や大将の正室には、必然的に別の呼び名が使われるようになる。これが御台盤所、またこれを略した台盤所(だいばんどころ)や御台(みだい)で、院政時代以降の文献にこれが散見する、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%8F%B0%E6%89%80

藤原師実の正室・源麗子は、師実が大臣だった頃(内大臣→左近衛大将→右大臣→左大臣)には「大盤所」(御台盤所)と呼ばれていたが、承保2年(1075年) 師実に関白宣下があって以降は「北の政所」(北政所)と呼ばれており、御台盤所と北政所の用法に明確な違いが見て取れる。

とある(仝上)が、

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻である北条政子が「御台所」と称され、以降歴代の将軍正室の呼称となる。のちの室町幕府・江戸幕府の将軍夫人も御台所と称された、

とある(仝上)。

酒飯論絵巻1.jpg

(狩野元信『酒飯論絵巻 武家の厨房 鳥や魚を扱う厨房 https://tvc-15.hatenablog.com/entry/2019/08/10/053544より)


酒飯論絵巻2.jpg

(狩野元信『酒飯論絵巻 武家の厨房 精進料理の調理場 https://tvc-15.hatenablog.com/entry/2019/08/10/053544より)

因みに、

日本語で「台所」を意味する言葉には、ほかに「厨(くりや)」「勝手(かって)」「厨房(ちゅうぼう)」「炊事場(すいじば)」などがあるが、「厨房」「炊事場」は中国語をほぼそのまま持ってきただけの語であり、どうやら日本人はその部屋を意地でも「調理するところ」とは呼びたくなかったようである、

とする説(笑える国語辞典)もある。たしかに、「くりや」は和語だが、

炊事
厨房、

は漢語であり、「厨房」は、

厨庖、

とも当てる。「厨」「庖」も、

台所、

の意であり、

庖廚(ほうちゅう)、

ともいい、「廚」は「厨」の異体字である。「厨」(漢音チュウ、呉音ズ、ジュウ)は、

形声。尌(ジュ)が音を表す。物を出し入れする戸棚や部屋、

とあり、「庖」(漢音ホウ、呉音ビョウ)は、

会意兼形声。包(ホウ)は、外から包む意を含む。庖は「广(いえ)+音符包」で、食物を包んで保存する場所の意、

とある(漢字源)。

なお、「厨」(くりや)については、項を改める。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:台所
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2020年04月15日

とし


「とし」は、

利し、鋭し、
疾し、鋭し、
疾し、迅し、
敏し、聡し、

等々と当て分ける(広辞苑他)。

「利し」「鋭し」は、

鋭い、よく切れる(万葉集「剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)の利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君によりては」)、

の意であり、

「疾し」「鋭し」は、

激しい、強烈だ(万葉集「ぬば玉の夜さり来れば巻向の川音高しも嵐かも疾(と)き」)、

「疾し」「迅し」は、

すばやい、進みが早い(土佐日記「ふねとくこげ、日のよきに」)、
意と、
時期が早い(徒然草「とき時は則ち功ありとぞ論語と云ふ文にも侍るなり」)、

「敏し」「聡し」は、

悟ることが早い、畏い、鋭敏だ(枕草子「大蔵卿ばかり耳とき人はなし」)、

と、当てる漢字で、意味が微妙に変わる。

「とし」の語源はあまり触れてあるものが少ないが、岩波古語辞典は、

トグ(磨)と同根。即座に鋭く働きかける力のあるさま、

とある。意訳すると、

即応する働き、

といった含意になる。で「とぐ」をみると、

研ぐ、
磨ぐ、

と当て、当たり前だが、

トシ(利)と同根、

とあり、

砥石ですって鋭くする、

意が載る。大言海は、「とぐ」について、

と(利)を活用す、

とある。「と(利)」は、

利心(とごころ)の意(万葉集「衾道を引手の山に妹を置きて山路を行けば生ける跡(と)もなし」)、

とある。「とごころ(利心)」とは、

利(と)き心、鋭き心、しっかりした心(万葉集「いで如何にここだ甚だ利心(トゴコロ)の失するまで思ふ戀ふらくのゆゑ」「聞きしより物を思へば我が胸はわれてくだけてとごころもなし」)、

とある(広辞苑、岩波古語辞典)。しかし「と」には、

砥、

を当てるものもあり、岩波古語辞典は、「と(砥)」について、

トシ(利)・トグ(磨)と同根、

とある。「とぐ」の語原には、

トク(利・鋭)する義(和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・大言海・日本語源=賀茂百樹)、
トシ(利)と同根(岩波古語辞典)、
トク(砥)の義(言元梯)、
トは砥石の意のトと同じ(時代別国語大辞典-上代編)、

と、

とし(利・鋭)、
ト(砥)、

とつなげるものが多い。つまり、逆にいうと、岩波古語辞典の言うように、「とし」は、

磨ぐ、

と深くつながる。

その意味で、「とし」の原意は、

研いだ刃のように鋭い、

という状態表現であったと推測できる。

切れ味鋭い、

が、刃だけではなく、それをメタファに、

頭の切れ、
才能の鋭敏さ、

をも指すように、意味の外延を広げたことが推測できる。あるいは、漢字、

利・鋭、
疾・迅、
敏・聡、

を当てはめたことで、その漢字の意味を持つようになったということもあるように思える。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2020年04月14日

とっとと


「とっとと」は、

とっととやれ、

というように、副詞として、

相手を促す、

意で使う。

さっさと、

と同義である。

疾(と)つ疾(と)と、

と当てるものもあり(類語新辞典)、

「とっとと」は、早いことを示す形容詞「疾(と)し」の連用形を重ねた、

と(疾)くと(疾)くと」の音変化、

とされる(擬音語・擬態語辞典)。「疾」には「はやい」という言う意味があるため、

「はやくはやく」→「疾く疾くと」→「とっとと」、

になったhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220661092、との説明もある。

同じく副詞で、「とっと」は、

程度の甚だしいさま、まったく、ほんとうに(仮名手本忠臣蔵「かか様といへば、とっと世帯染む」)、
時間・場所などのはるかに離れているさま、ずっと、ぐんと(傾城反魂香「とっと前から藤袴と契約有りと申しなば」)、

の意で(広辞苑)、古くは、

たった、

の形も使い(擬音語・擬態語辞典)、

たったと説かしゃんせ(連獅子)

の用例があるが、「疾し」から来たとすれば、

まったく、
とか、
ずっと、

という程度を示す意味に、

行動が素早い様子、

早い、

という含意があるように思えてならない。ただ、「とっと」と「とっとと」は、別語の可能性はあるが、

ずんずん、
ぐいぐい、
どしどし、

の用例を見ると、

ぐんと、
ずんと、

は、重ねることでスピード感が出てくるのを考えれば、同語が意味を転化したとみることもできる。また、副詞の、

とっくに、

も、

疾つく、

と当て、

「疾(と)し」の連用形「とく」が転じたもの、

で、

「早くに」といった意を表すが、

とっくの昔、

などとも使い、

以前、ずっと以前、

と、時間的距離を表すのにも使う。

そんな事とっくに知っていた、

という使い方の場合、時間的な距離と同時に、早くに、の含意があるのも、面白い。

「とっとと」の同義語「さっさ」「さっさと」は、やはり、

動作が素早い様子、
物事を素早く済ませる様子、

の意で使うが、

鎌倉時代には「ささ」の表記で見える、

とある(擬音語・擬態語辞典)。「ささ」は、

風のささと吹く如何、颯々をいふにや、音のささときこゆる也(名語記)、
水のながるるをとのささときこゆる也(仝上)、

とあり(仝上)、室町時代には、

さっさ、

の用例があり、鎌倉時代の「ささ」と同じく、

水などが弱く物に当たる音や、風が弱く吹いてくる音、

を表すのに用いた擬音語で、室町時代末期の日葡辞書には、「さっさ」を、まだ、

波が音を立てたり、木が風によって音を立てるさま、
また、
紙などが破れるときにたてるさま、さっさと紙を裂く、

と説明している。そこから、

ぐずぐずしないで、素早く行動するさま、いそいで、はやく、

の意に転じ、

さっさと歩け、

という使い方をするようになる。「ささ」「さっさ」の擬音語には、確かに、

何か急き立てるような、

含意がある。で、

さっさっ、

も、今日、

動作などの素早い様子、

にも使うが、

物と物がこすれあって建てる乾いた音、特に箒で床を吐く音に多く使う、

とある(仝上)。これも、室町時代には、

風が草木を揺らす音、

を表すのに使った。

松風吹く風もさっさっとし(天草本平家物語)、

確かに、「さっさっ」にも、急き立てる含意はある。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大野晋・浜西正人『類語新辞典』(角川書店)

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ラベル:とっとと
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2020年04月13日

にこごり


「にこごり」は、

煮凝、

と当てる。

にこり、

とも訓み、

煮凍、

とも当てる(たべもの語源辞典)。

ゼラチン質の多い魚や肉などの煮汁が冷えてゼリー状に固まったもの。この煮汁がゲル化する性質を利用して、煮込んだ材料ごと冷し固めた料理のことも指す、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AE%E3%81%93%E3%81%94%E3%82%8A、地域によって、

こごり、
こうごり、
こんごり、

等々とも呼ばれる(仝上)。

中国には古くから、ヒツジの背肉や内臓などを煮つめた羊糕(ヤンカオ)という料理がある。これは健康増進食の目的があり、2000年余の昔から用いていた記録がある、

とある(日本大百科全書)。日本霊異記に、

鯉を煮て寒凝(こごら)す、

とあるように,コイ,フナなどを煮て寒気で凍らせることは古くから行われ,貢納品ともなった(世界大百科事典)。

煮凝り.jpg



魚などを切って煮たものが冷えて固まることを、

コゴリ(氷凝)、

といい、煮たものがこごったものを、

煮こごり、

とよんだ(たべもの語源辞典)、とある。どうやら、もともとは、

調理の段階で生まれた副産物、

が、転じて一つの料理となったhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E7%85%AE%E3%81%93%E3%81%94%E3%82%8A、とみられる。

要は、「煮凝」は、

ニ(煮る)+コゴリ(凝るの連用形)、

である。「こごる」は、

凝る、
凍る、

と当てる。岩波古語辞典は、

こごゆ(凍ゆ)、
こごす(凝し)、

と同根とする。「こごる」は、

固まって堅くなる、
凍って固くなる、

意だが、「こごゆ」は、

寒さで体の各部分が固くなる、

意であり、「こごす」は、

凝り固まっている、

意である。大言海は、「こごる」を、

凍(こ)い凝るの義(和訓栞)、凍(こ)い凍(こ)ゆ、こごゆもある、

とし、やはり、

凍る、

とつなげている。さらに、「こゆ(凍ゆ)」は、

凝ると通ずるなるべし、寒さに凝結するなり、名詞形にこい(凍ゆの名詞形)と云ひ、凍い凍ゆと重なりつづまれば、コゴユとなる、

とある。「こごゆ(凍ゆ)」は、

凍い凍ゆと重ねて意を強めたる語、

とする。だから、「こごる」を、大言海は、

凍い凝る、

と、凍って固まったさまとする。「凍る」に違いはないが、「煮凝」の「こごり」は、

凍い凝る、

の感じが合う気がする。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2020年04月12日

柏手


「柏手(かしわで)」は、

拍手、

とも当てるが、

「柏」は「拍」の誤写か、

という説(広辞苑)もある。

神を拝むとき、手のひらを打ち合わせてならすこと、

であり、

開手(ひらて)、

ともいう、とある(仝上)。逆に、

柏手と書かれることもあるが、誤りである。

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%8D%E6%89%8B_(%E7%A5%9E%E9%81%93)

正確には、柏手が誤りなのではなく、柏手と拍手を混同している書物等があり、柏手と拍手は別物、

ともある(仝上)。「柏手」の語源説に、

神への供え物を柏の葉に盛って供えたのがカシワの語原です。供えた後拝礼の時の手打ちをカシワデと言いました。後に、中国語の拍手を当てたものなのです。柏と拍の誤り説は疑問です(日本語源広辞典)、

一説に、古代では柏の葉を食器で用いたことから、宮中の食膳を調理する者を「かしわで」(「で」は「人」の意)と呼び、その料理人が手を打って神饌(しんせん)を共したことに由来する(由来・語源辞典)、

等々とあり、神前への供えと、拝礼をセットと考えると、「柏手」は「柏手」で、「拍手」とは異なる、というのはあり得る。

「拍手」(はくしゅ)は中国語であり、

拍掌(はくしょう)、

とも言う。

拍手喝采、

とも使う。

なお「拍子」(はくし)も中国語で、

音曲の抑揚疾徐の調子を助けそろへる義、

である(字源)。わが国では、それを、

拍子(ひょうし)、

と言い、同じ意味で使う(仝上)。広辞苑には、「拍手」は、

手を打ち鳴らすこと、激励、祝意などを表すために手を打つこと、

とある。「柏(栢)」(漢音ハク、呉音ヒャク)は、前に触れたが、

会意兼形声。白の原字はどんぐり状の小さい実の形を描いた象形文字。柏は「木+音符白」。円く小さい実のなる木、

とあり(漢字源)、「ひのき」「このでかしわなど、ひのき類の常緑樹の総称」である。わが国では、

かしわ、ブナ科の落葉高木、

に当てる。「拍」(漢音ハク、呉音ヒョウ)は、

形声。「手+音符白」で、博(ハク)と同じく、手のひらをパンと当てて音を出すこと、

とある。

あくまで、手を鳴らす意の「拍手」と、神前で手を打つ「柏手」を混同することは、かつてはあり得ないのではないか。このことは「かしわで」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448880057.htmlで触れた。

明治以前の日本には大勢の観衆が少数の人に拍手で反応するといった習慣はなく、雅楽、能(猿楽)、狂言、歌舞伎などの観客は拍手しなかった。明治時代になり西洋人が音楽会や観劇のあと「マナー」として拍手しているのに倣い、拍手の習慣が広まったものと推測される、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%8D%E6%89%8B。つまり,わが国には,「はくしゅ」というものはなく,いまいう,「かしわで」のみが,「手を打つ」習慣であった,からだ。だから、

魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人(日本人)の風習として「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記され、貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打っていたとされており、当時人にも拍手を行ったとわかる。古代では神・人を問わず貴いものに拍手をしたのが、人には行われなくなり、神に対するものが残ったことになる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%8D%E6%89%8B_(%E7%A5%9E%E9%81%93のは、今日言う「拍手」ではなく、「柏手」ではないか。大言海も、

饗膳(カシハデ)より,酒宴に手を拍(う)つ拍上(ウタゲ)に移りて成れる語なるべし、

とし、貞観儀式鎮魂祭儀に、

大膳進就版申云々,御飯賜畢,共拍手三度,觴三行,亦拍手一度

等々を引き,

然れども,カシハデとは,古へに聞こえぬ語なりと云へば,いかがあるべき,拍(うつ)を柏(かしは)と誤読せしに起こる云ふは,拙し、

とする。拍手,拍子と使う「拍」と間違えようはない気がする。

むしろ、「柏手」と同音の、「膳」を、「膳」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471403391.htmlで触れたように、

カシハデ、

と訓ませ、

供膳、
饗膳、

の意であるが、

饗膳を司る人、

の意にも使う(漢字源)。「かしわで(膳・膳夫)」は、

古代、カシワの葉を食器に用いたところから、

いうのである。これとのかかわりで、

古く手を打って噛み拝むことを拍手と書いたが,後に『柏』と『拍』の混乱,またカシハデ(膳夫)との混合により誤ったもの(貞丈雑記・漫画随筆・類聚名物考・古事記伝・隣女唔言・かしのしず枝),
神供をカシハの葉に盛り,手を拍って膳をすすめるから(牛馬問),
カシハデ(膳部)が打つ手から(俗語考),
拍手する時の手の形が柏の葉に似ているから(関秘録・仙台間語・貞丈雑記),

等々「柏」「膳」とのつながりを見る説が多い。

「柏」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474516605.html?1586545258で触れたように、「柏」も、

食物を木の葉に盛る古習からカシハ(炊葉)の義(国語学通論),
カシハ(柏・槲)の葉に食物を盛ったことから(類聚名物考・本朝辞源),
ケシキハ(食敷葉)の義(言元梯),

と,膳と深くつながる。漢字を当てないかぎり,

かしはで,

は,

かしわで,

でしかない。それに漢字を当てはめた時,当然中国語の「拍手(はくしゅ)」を当てたはずである。それに,敢えて,

柏,

の字を当てはめても,通じるだけの文化的な背景,文脈があった。いや,「柏」の字を当てた方が,しっくりしたに違いないのである。なお大言海は、

両の掌を打ちあわせて、音を立てさすること、感動の切なる餘りにするわざなるを、礼儀に移してもするなり、後に、専ら神拝に行うこととなる、

と、神前を後のこととしている。是非はわからないが、「膳」の謂れから見ると、逆ではないか、という気がしてならない。神前にしていた柏手が、饗宴のそれになり、拍手と混同した、と。

古くは、四度打つのが正式、

とある(岩波古語辞典)が、

四度拍つを一段とす、四段なるなり、八開手(やひらで)あり、軽く二つ拍つを短手(しのびて)と云ふ、長く拍つを重しとす、

とある(大言海)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2020年04月11日


「柏」は、

槲、
栢、

とも当てる。葉は食物を包むため、

モチガシワ、
炊葉(かいば)、

とも言う(広辞苑)。

誤りて、「ははそ」ともいう、

とある(仝上)。大言海は、

轉じて、は(ほ)うそ、

とする。「柏餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474498638.html?1586459233で触れたことと重なるが、「柏(栢)」(漢音ハク、呉音ヒャク)は、

会意兼形声。白の原字はどんぐり状の小さい実の形を描いた象形文字。柏は「木+音符白」。円く小さい実のなる木、

とあり(漢字源)、「ひのき」「このてかしわなど、ひのき類の常緑樹の総称」である。わが国では、

かしわ、ブナ科の落葉高木、

に当てる。「槲」(漢音コク、呉音ゴク)は、

会意兼形声。「木+音符斛(コク ます、ます型)」で、実が、ます型の台座の上にのった姿をした木」

で(仝上)、「かしわ」「ブナ科の落葉高木」の意である。

くぬぎに似て、葉が大きいので、おおばくぬぎともいう、

とある。本来は、

柏(栢)、

ではなく、

槲、

の字である。

漢字では「柏」と書くことが多いが、漢字の語源から言うと、柏の字の旁の「白」は色の「しろ」ではなく、球果(松かさ状の果実)をかたどった象形文字で、「柏」はヒノキ科およびスギ科のさまざまな針葉樹を意味する。コノテガシワのこと、あるいはシダレイトスギ、いぶき・さわら・あすなろなど、松以外の針葉樹の総称である、

とおりであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%AF。現代中国語ではヒノキ科を柏科という、ともある(仝上)。

倭名抄には、

櫟、柏、加之波、

としている(大言海)。広辞苑には、

柏(ハク)、

を、

ヒノキ・サワラ・コノテガシワなど常緑樹を古来「かしわ」と訓みならわす、

とある。万葉集にも、

秋柏(あきかしは)潤和川辺(うるわかはへ)の細竹目(しののめ)の人には忍び君にあへなく、

と歌われている。

カシワの葉.jpg



「かしわ」には、樹木の葉の意味の他に、

食物や酒を盛った木の葉、また、食器、

の意がある。

多くカシワの葉を使ったからいう、

とある(広辞苑)。

大御酒のかしはを握(と)らしめて、

と古事記にある。

くぼて(葉碗)
ひらで(葉盤)、

等々がこれに当たる。「くぼて」は、

窪手、

とも当て、

柏の葉などを幾枚も合わせ、竹のひごなどでさし綴って、中央を窪んだ形に作ったもの、

で、その対が、

ひらで(葉盤)、

で、

枚手、

とも当て、

数枚の柏の葉を併せて作った皿、

をいう(岩波古語辞典)。

仁徳紀に、

葉、此れをば箇始婆(かしは)といふ、

とある。で、「葉」を、

かしわ、

とも訓ます。

さて、「かしわ」の語源は何か。大言海は、「食器」の「かしわ」は、

堅し葉の約(雄略紀七年八月「堅磐、此云柯陀之波」)、葉の厚く堅きを擇びて用ゐる意なり、

とし、「木の葉」の「かしわ」は、

かしは木の略(本草和名「槲、加之波岐)、かしはは(「葉」と訓んだかしはの)語なり、此樹葉、しなやかにして、食を盛るに最も好ければ、その名を専らにせしならむ、天治字鏡「槲、万加志波」

とする。

「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といったのか、

あるいは、

その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といったのか、

両者は深くつながる。

たとえば、木の葉「かしわ」の語原を、

上古、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いた葉をカシキ(炊葉)といい、これに多く柏を用いたから(東雅・古事記伝・松屋筆記)、
ケシキハ(食敷葉)の義(茅窓漫録奥・日本語原学=林甕臣)、
飯食の器に用いたから、またその形を誉めていうクハシハ(麗葉)の義(天野政徳随筆・碩鼠漫筆)、
神膳の御食を盛る葉であるところからいうカシコ葉の略(関秘録)、
食物を盛った木の葉(食敷葉・炊葉)(日本語源広辞典)

とするのは、

その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といった、

とする説である。逆に、

食物を盛る古習からカシハ(炊葉)の義(国語学通論=金沢庄三郎)、
カシハ(槲・柏)の葉に食物を盛ったから(類聚名物考・本朝辞源=宇田甘冥)、
ケシキハ(食敷盤)の義(言元梯)、

とするのは、

「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といった、

とする説である。

カタシハ(堅葉)の義(関秘録・雅言考・言元梯・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、

も、その堅さは、用途を意識していたとするなら、「食器」として使ったから、そのはを「かしわ」といったに入るだろう。

もし、葉の命名が先なら、

風にあたるとかしがましい音を立てる葉の意(和句解)、
カシは「角」の別音katが転じたもので、きれこみがあってかとかどしいこと。ハは「牙」の別音haで、葉の義(日本語原学=与謝野寛)、

という説もあるが、何れが先かは、判別不能ながら、

「かしわ」の葉を使ったから、その葉で作った食器を「かしわ」といったのか、

か、

その葉で作った食器を「かしわ」といったから、その葉を「かしわ」といったのか、

か、いずれかになるのではないか。

膳、

を、

かしわで、

と訓ますのは、

柏を食器に用いたから、

であることは、「膳」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471403391.htmlで触れた。また、「かしわ」の木は、

柏木、

と書くが、

柏木は葉守の神が宿るという伝説から、皇居を守る兵衛、および衛門、

の意でもある(岩波古語辞典)。「葉守の神」とは、

樹木を守護すると云ふ神、

である(大言海)。「兵衛」(ひょうえ)とは、

律令制で、兵衛府に属し、宮門の守衛・宮内の宿直・行幸の供奉などにあたった武官。左右兵衛府に四〇〇人ずつ分属し、宮門の守衛・宮内の宿直・行幸の供奉など、天皇の身辺を護衛する親衛隊としての役割を果たした、

とあり(大辞林)、和名を、

つわもののとねり、

という。因みに、

黄鶏、

と当てる、「かしわ」は、

柏の葉の色に似ているのでいう、

のだが、本来は、

鶏肉、

を指すのではなく、

羽毛が茶色の鶏、またはその肉、

の意。特に雌鶏の肉を美味としたが、天保(1830~44)以降、鶏肉の総称に変化した(日本語源大辞典)、とある。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年04月10日

柏餅


「柏餅」は、

しんこ(新粉・糝粉)の餅に餡を包みて、又、枯らしたる柏の葉を二つ折りにして、包みて蒸したるもの、

である(大言海)。「しんこ」は、

新米の粉の意か、

とあり(大言海)、

粳米の粉を、水に捏ねて、蒸して、餅の如くしたるものの称、

とある(大言海)。

粉餈、
糕、

とも当てる。「糕」「餈」は、「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html?1586286757で触れたように、「餻」(コウ)は、

だんご(粉餅)、

つまり、

小麦以外の稗、粟、コメなどの粉から作り、蒸したもの、

「餈」(シ)は、

もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、

を指す。

「柏」の葉の代わりに、

サルトリイバラ(山帰去)の葉、

を用いたりする(たべもの語源辞典)、とある。

「柏」の葉を使うのは、

新芽が出なければ古い葉が落ちないものなので、家系が絶えないという縁起から、

である、という(仝上)。「柏餅」のの中に入れる餡は、こし餡、つぶ餡、味噌餡などがあるが、

柏の葉を外表に巻いているものは、小豆あん、中表(裏を外向け)に巻いているものは、味噌あん、

と分けているhttp://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/kashiwa/、らしい。

「柏餅」は、平安頃から食べられたようだが、五月五日の供えとして定着したのは、中世以降らしい(日本食生活史)が、

現在のような柏餅ができたのは、徳川九代将軍家重、十代将軍家治のころ、宝暦年間(1751~64)と思われ、コ月の節句に柏餅を食べるようになったのは江戸時代に入ってから、

とある(たべもの語源辞典)。それが、

参勤交代で日本全国に行き渡ったと考えられているが、1930年代ごろまではカシワの葉を用いた柏餅は関東が中心であった。カシワの葉でくるむものが生まれるより前にサルトリイバラなどの葉で包む餅が存在し、カシワの自生が少ない地域ではこれが柏餅として普及していた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E9%A4%85。ただ、

柏餅が広まり始めたといわれている江戸時代には「味噌餡」や「塩餡」が主流だった、

ともあるhttp://www.nikkyo-create.co.jp/food_and_health_column/column_backnumber/column0015

柏餅.jpg



もともと柏の葉で食べ物を包むというのは昔から行われていて、

古代に飯を盛るのに木の葉を縫い合わせたものの上にのせた。それを「かしは」とよぶ。すなわち「炊ぎ葉」(かしはぎ)である、

とある(たべもの語源辞典)。「膳」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471403391.htmlで触れたように、「膳」を、

カシハデ、

と訓ませ、

供膳、
饗膳、

の意であるが、

饗膳を司る人、

の意にも使う(漢字源)。「かしわで(膳・膳夫)」は、

古代、カシワの葉を食器に用いたところから、

いう(デジタル大辞泉)が、

中世、寺院で食膳調理のことをつかさどった職制、

に転じ、

供膳、
饗膳、

の意となる。「かしはで」は、

膳部、

と当てると、

大和朝廷の品部(しなべ)で、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、朝廷・天皇の食事を調製を指揮した下級官人、

である(広辞苑)。

たべものを盛る葉には、ツバキ・サクラ・カキ・タチバナ・ササなどがあるが、代表的なのがカシワであった、

(仝上)のであり、

カシワの葉に糯米(昔は糯米を飯としていた)を入れて蒸したのは、古代のたべものの姿を現している、

ともいえるのである(仝上)。ただ、江戸文化を反映して全国に広がった柏餅に対し、

伝統を重んじる京文化圏では粽が伝承され、今でも関東では柏餅、関西では粽が親しまれています、

とあるhttp://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/kashiwa/

ちなみに、「柏」の字は、

本来はヒノキ科の針葉樹コノテガシワを指す漢字で、コノテガシワは柏餅に使う葉とは全く異なる。柏餅に用いるブナ科のカシワには、厳密には「槲」の字を使うのが正しい、

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E9%A4%85。「柏(栢)」(漢音ハク、呉音ヒャク)は、

会意兼形声。白の原字はどんぐり状の小さい実の形を描いた象形文字。柏は「木+音符白」。円く小さい実のなる木、

とあり(漢字源)、「ひのき」「このでかしわなど、ひのき類の常緑樹の総称」である。わが国では、

かしわ、ブナ科の落葉高木、

に当てる。「槲」(漢音コク、呉音ゴク)は、

会意兼形声。「木+音符斛(コク ます、ます型)」で、実が、ます型の台座の上にのった姿をした木」

で(仝上)、「かしわ」「ブナ科の落葉高木」の意である。

くぬぎに似て、葉が大きいので、おおばくぬぎともいう、

とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2020年04月09日

ちまき


「ちまき」は、

粽、

と当てるが、

糉、

が本字のようである。

後漢(2世紀)の『説文解字』は、「粽」の本字「糉」の字義を「蘆葉裹米也」(蘆(あし)の葉で米を包む也)と記している。この字の旁には「集める」という意味があり、米を寄せ集めたものがちまきという事になる。「粽」は旁を同音の簡単な部品に置き換えた略字である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D。南宋期の呉均の「續齊諧記」には、

今世五月五日作糉餅幷帯五色絲及練葉皆泪羅(べきら)之遺風

とある(字源、大言海)。それは、

屈原以五月五日投泪羅、

によるのだ(大言海)、という。中国の伝説では、

楚の…屈原が、汨羅江(べきらこう)で入水自殺した後、民衆が弔いのためのほか、魚が屈原の亡骸を食らって傷つけないよう、魚に米の飯を食べさせるため、端午の節句の日(端午節)にササの葉で包んだ米の飯を川に投げ入れた、

ことが起源とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D

人々は屈原の死を悲しみ、命日の5月5日には供物を投げて供養しましたが、供物は屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。そこで供物のもち米を、龍が苦手だという楝樹(れんじゅ)の葉で包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ投げたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったということです、

ともあるhttp://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/kashiwa/。この五色の糸は、

子供が無事に育つようにとの魔よけの意味を込め、鯉のぼりの吹流しの色となっています、

ともあ(仝上)。このため、中国などで端午の節句に食べる習慣がある。しかし、

2000年あまり前の戦国時代には出現していたと考えられる。西晋(3世紀)の周処は『周処風土記』に「仲夏端午、烹鶩角黍。」(夏の端午の節句に鶩角黍を調理する)と記しており、粽のことと考えられる、

ともある(仝上)。

粽.jpg


「ちまき」は、

もち米やうるち米、米粉などで作った餅、もしくはもち米を、三角形(または円錐形)に作り、ササなどの「ちまきの葉」で包み、イグサなどで縛った食品。葉ごと蒸したり茹でて加熱し、その葉を剥いて食べる、

もので(仝上)、承平年間(931~938年)編纂の『倭名類聚鈔』和名抄には、

和名 知萬木、

とあり(岩波古語辞典)、平安初期には、粽が食べられていたらしい(日本食生活史)が、

五月五日の粽や柏餅は中世から、

のようである(仝上)。「餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474462660.html?1586286757で触れたが、平安時代の内裏の粽は、

「粳米を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った。白米一升で粽が四・五ほど丁できた」(内裏粽)

とある(仝上)。「ちまき」に、

茅巻、

と当てるのは、

古く、茅(ちがや)の葉で巻いたところからであり(たべもの語源辞典・大言海)、

後に真菰の葉にて包む、

とある(大言海)。伊勢物語には、

人のもとより飾り粽 おこせたりける返事に、菖蒲(しょうぶ)刈り 君は沼にぞまどひける 我は野に出でてかるぞわびしき、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D、昔は菖蒲の葉も用いたようである。同じ伊勢物語に、

かざりちまきをおこせたりけるかへりごとに、

とあるが、鎌倉時代の伊勢物語の注釈書「智顕抄」に、

かざりちまきと云ふは、菖蒲の根をきざみて、しゃうぶの葉の若きを割りて、其の中に入れて結び、本に色色なる意とにてまきて、時の花の、うつくしきなでしこ、あづさゐ、しもつけ、あふひ(葵)、しゃうびの花をもちて飾りたるを云ふ、

とある(大言海)。「ちまき」は、

竜の形に巻いた。蘆竹葉・菰の葉で米を包んで、灰汁で煮た。ちまきの形が蛇に似ているところから、これを食べると毒虫の難を避け、また毒虫を殺すこともできる、

といった(たべもの語源辞典)。屈原の故事が日本に伝わったもので、安倍晴明は、

これをねじ切って食べれば悪鬼を降伏させることになる、

と説いたという(仝上)。

「ちまき」は、

茅+巻、

に由来する(大言海・日本語源広辞典・語源由来辞典・たべもの語源辞典等々)とみていいようだ。漢名は、

糉、
角黍、

とある(たべもの語源辞典)。

和菓子のちまき.jpg



ちなみに、江戸時代(1697年)刊行された本草書『本朝食鑑』には、

・蒸らした米をつき、餅にしてマコモの葉で包んでイグサで縛り、湯で煮たもの。クチナシの汁で餅を染める場合もある。
・うるち米の団子を笹の葉で包んだもの。御所粽(ごしょちまき)、内裏粽(だいりちまき)とも呼ぶ。
・もち米の餅をワラで包んだ餡粽(あんちまき)。
・サザンカの根を焼いて作った灰汁でもち米を湿らせ、これを原料に餅を作りワラで包んだ物。朝比奈粽(あさひなちまき)と呼ばれ、駿河国朝比奈の名物というが、これはもう作られていない。

の、4種のちまきが紹介されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D

江戸のちまきや.jpg

(江戸のちまき屋「人倫訓蒙圖彙」 たべもの語源辞典より)


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2020年04月08日


「餅」(漢音ヘイ、呉音ヒョウ)は、「もち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.html?1583742170で触れたように、

「『食+音符并(ヘイ 表面を平らにならす)』で,表面が薄く平らである意を含む」

で,中国では,

小麦粉などをこねて焼いてつくった丸くて平たい食品,

「月餅」の「餅」である。「もち米などをむして,ついてつくった食品」に当てるのは,我が国だけである。

餻、
餈、

も「モチ」のことである(たべもの語源辞典)、とある。「餻」(コウ)は、「糕」とも書き、

餌(ジ)、

と同じであり、

もち、だんご(粉餅)、

の意である。「餈」(シ)は、

むちもち、もち米をむして搗きたるもち(稲餅)、

とある(字源)。江戸中期の「塩尻」(天野信景)には、

「餅は小麦の粉にして作るものなり、餈の字は糯(もちごめ)を炊き爛してこれを擣(つ)くものなれば今の餅也、餻の字も餅と訓す、此は粳(うるしね)にて作る物なり」

とあり、江戸後期の「嬉遊笑覧」(喜多村信節)にも、

「餅は小麦だんごなり、それより転じてつくねたる物を糯といへり。だんごは餻字、もちは餈字なり。漢土にて十五夜に月餅とて小麦にて製することあり、よりて『和訓栞』に餅をもちひと訓は望飯(もちいひ)なりといへるは非なり、『和名鈔』に「糯をもちのよねと云るは米の黏(ねば)る者をいへり、是もちの義なり。故にここには餻にまれ餈にまれもちと云ひ餅字を通はし用ゆ」

とある(たべもの語源辞典)、という。つまり、「餅」が小麦粉で作ったものであることをわかっていて、日本の糯米でつくるモチとは異なるが、借字として「餅」の字を使った、ということである。古くは、

モチヒ、

といったことは、「モチ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456276723.htmlで触れ、その語源については触れた。

中華文明圏において、「餅(ピン)」は主に小麦粉から作る麺などの粉料理(麺餅(中国語版))全般を指す。焼餅、湯餅(饂飩・雲呑・餃子の原型)、蒸餅(焼売・饅頭の原型)、油餅などに分類され、小麦以外の稗、粟、コメなどの粉から作るものは「餌(アル)」と呼んで区別があった。「餌」を蒸した「餻(カオ)」、小さいものを「円(ユワン)」、他の食材を包んだ「団(トワン)」、日本で知られる飯粒を搗いたいわゆる餅は「餈(ツー)」と呼んだという、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85。日本はこの「餈」に相当するものが「餅」に発展した、ということのようである(仝上)。

餅つき師走の.jpg

(三代目歌川豊国「十二月之内 師走餅つき」 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no75.htmlより)


餅の記述では、『豊後国風土記』(8世紀前半)に、

富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85、あるいはその村は不作になった(日本食生活史)、ともある。古来、日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている(仝上)、との見方もある。ただ、奈良時代には、農民が餅を食べる余裕はなく、貴族の菓子類であったとみられる(仝上)。この時代唐からの食品加工技術の輸入によって、

新たに澱粉性の加工菓子も作られるようになった。加工菓子は副食よりも主食とする方が多く、それは餅といってよいものであった、

とある(仝上)。正倉院文書には、

大豆餅(まめもち)・小豆餅(あかあずきもち) 豆を搗き込んだ豆餅、
煎餅(いりもち) 麦粉を練り固めて胡麻油で煎ったもので、センベイと音読した、
環餅(まがりもち) 米や麦粉を蜜や飴にまぜて固めて油で揚げた、
膏糫(おこしごめ) 蜜を米にまぶして煎ってつくった、
捻餅(むぎかた) 胡麻油で煎った、
浮餾餅(おこしごめ) 飴を使ってつくった、
索餅(むぎなわ/さくべい) 小麦粉をねり、塩を入れて固めて、うどん状にしたもの、

等々が載り(仝上)、『延喜式』は、

塩・醤・未醤で味付けした索餅(さくべい)、
米粉で作る粉熟(ふんずく)、

などが記されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%85。この時点では、唐風に、小麦粉の「餅」、米粉の「餈」と、そのまま使っていたことがわかる。

10世紀中頃の「和名類聚抄」に、「毛知比=モチイ」とあり、モチイイ(長持ちする飯=イイ)から簡略されているが(仝上)、「大鏡」(11世紀末成立)に、

醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出され、「誕生五十日の祝いに、赤子(公成)の口に餅を含ませた、

とあり、

貴族男性の結婚後は3日連続して妻の家に通い、「三日の餅(みかのもちい)」の儀式を行い、婚儀にも餅が食された、

とある(仝上)「餅」が、糯米の「もち」なのか小麦粉の「餅」や米粉の「餈」なのかがはっきりしない。たとえば、平安時代、

十月の亥の日に餅を食べて無事を祝った、

とされるが、この「餅」は、

大豆・小豆・大角豆・胡麻・栗・柿・糖でつくった、

と「掌中記」に見えている(日本食生活史)、とあるので、「もち」ではないようなのである。しかし、正倉院文庫にあった、

大豆餅(まめもち)・小豆餅(あずきもち)・胡麻餅、

延喜式にある、

粢(しとぎ)・雑餅、

源氏物語にある、

椿餅、

等々を見ると、

糯米の他に、粳米・小麦・大豆・小豆・胡麻・栗・黍などを入れて、それぞれの名をつけた餅をつくっていた、

のであり(仝上)、

小豆の粉・栗の粉・胡麻などの色粉をふりかけたり、糖(あめ)で甘みをつけた米だけでつくられたものもあった、

とあるので、ちょうど、「餈」から「もち」への過渡にあったのかもしれない。ただ、すでに、鏡餅が、

正月の元旦から三日間の歯固(はがため)の義式(歯に堪えるものをたべて齢を固める祝い事)、

に用いられているし、鏡餅(または餅鏡)を(刃物を入れるのを嫌って)手で欠いた掻餅(かきもち)も登場しているし、三月三日にも五月五日にも草餅をつくって神に供えているほか、蹴鞠の時に携行した椿餅(餅を椿の葉で包んだ)もある。平安期に、「もち」が登場していたことは、確かである。「かがみもち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473055872.htmlで触れたことであるが。

餅には、

粉餅、

搗餅、

があり、粉餅には、

粽(ちまき)、

があり、粽は、

糯米の粉を湯でこねて笹か真菰で巻いて蒸したもの、

であるが、内裏の粽は、

粳米を粉にして大きく固め、これを煮て水をのぞいて臼でつき、笹の葉で巻き、また煮てつくった。また粳米を水で何度も洗い、、粉にして絹ふるいでふるい、水でこねって少し固めにし、すこしずつ取って平たく固め、蒸籠にならべ、よく蒸し、蒸し上げたらとりあげてよくつき、粽のかたちにまるめて笹の葉などで固くしめて巻いて作った、

とある(仝上)。

はっきり今日の「もち」とわかるのは室町期である。15世紀はじめの「海人藻芥(あまのもくず)」に、

内裏仙洞には一切の食物の異名を付て被召事也、(中略)飯を供御、酒は九献、餅はカチン(家鎮)、

と呼ばれたとある。「カチン」は、

搗飯(からいい)と呼ばれ、搗いた餅、

とみられる(仝上)。

三月三日の草餅、
五月五日の粽、柏餅、

は中世になってからであり、

雑煮、

は江戸時代になってからである。この時代になって、

正月の鏡餅、雑煮餅、
三月上巳の草餅、菱餅、
五月五日の粽、
十月亥の日の亥の子餅、

等々年中行事に欠かせないものになっていく(仝上)。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:
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2020年04月07日

セリ


四辻善成が、「源氏物語」の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で、平安時代の「若菜まいる」の中で、

薺(なずな)、繁縷(はこへら)、芹(せり)、菁(すずな)、御形(ごぎょう)、須々代(すずしろ)、佛座(ほとけのざ)、

の七種の野菜・野草を挙げたのが、七種の嚆矢とされているhttp://chusan.info/kobore3/46nanakusa.htm。その一つである。

春の七草については、「七草粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474392568.html?1585940926で触れたし、

「ごぎょう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474409213.html?1586027625
「すずしろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.html
「すずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465179244.html
「ほとけのざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464898986.html
「なずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464883576.html
「はこべ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464851193.html

でも触れた。

「セリ」は、異名、

根白草、
つみまし草、
シリバ、
エグ、
エグナ、
カワナグサ、

とある(たべもの語源辞典)。「セリ」に、

芹、
芹子、
水芹、

と当てる(広辞苑)。

水中に生じるものを水芹、川にある物を川芹、田に植えるものを田芹、根の賞すべきを根芹、陸に生ずるものを畠芹または野芹、水田にある茎葉ともに赤みを帯びたものを赤芹と称し、茎の白いものを白芹という。赤芹(田芹)が香りもよい、

とある(たべもの語源辞典、大言海)。「セリ」の漢名は、

水芹、
水斳、
苦斳、
水芹菜、
水菜、
水英、
芹菜、
紫芹、
楚葵(ソキ)、

とある(仝上)。

中国薬物名としては6 -7月ころに刈り取って乾燥した全草を水芹(すいきん)と称している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA

セリ.jpg



セリ特有の香り成分は、

フタル酸ジエチルエステルなどの精油成分で、根の香りはポリアセチレン化合物に由来する[8]。これらの香り成分は、口内の味覚神経を刺激して、胃液の分泌を促すとともに、人間の体温を上げて発汗作用を促す効果があり、風邪による冷えなどに有効とされる。また、栄養成分にβ-カロテン、ビタミンB1・B2・C、カルシウム、鉄分、クエルセチンなどの栄養素を主に含み、胃や肝機能を整えたり、利尿効果を高めて[8]、血液中の老廃物やコレステロールを排出して浄化する効果が高い食材といわれる、

とある(仝上)。「セリ」は、古く出雲風土記に、

稲河(とうが)に芹出づ、

と載るし、万葉集にも

大夫(ますらを)と思へるものを大刀佩きてかにはの田居に芹子(せり)そ摘みける(薜妙観命婦)

等々セリ(芹子/世理)摘みの歌がいくつか知られているし、「セリ」の異名から見ると、

君がため山田の沢に恵具(えぐ)摘むと雪消(ゆきげ)の水に 裳(も)の裾(すそ)濡れぬ(作者未詳)

の「えぐ」もセリとみなし得る、されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AA

さて、「セリ」の語源は、

一所にセリ(競)あって生えるところからか(古今要覧稿・和訓栞・大言海・たべもの語源抄=坂部甲次郎・日本語源広辞典)、
一所にセマリ(迫)あって生えるところから、マが略されてセリとなった(日本釈名・滑稽雑談・名言通・日本語源=賀茂百樹)、

が多数派であるが、

競り合うように生えている植物は多く、セリよりも密集して生える植物も多い、

という(語源由来辞典)ように、少し疑問が残る。しかし、

シゲレリの反(名語記)、
シゲリ(茂)の義(言元梯)、

と、その生え方に由来するとする説は多い。他は、

セセラギヰ(浅流藺)の義(日本語原学=林甕臣)、
煮て食べるとセリセリと音がするところから(本朝辞源=宇田甘冥)、
河の瀬にあるところから(和句解)、
アイヌ語のseriは日本語からの借用語と考えられているが、またはアイヌ語が日本語に入ったものか(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、

等々、決め手はない。たべもの語源辞典は、セリ(競)説、セマリ(迫)説、セリセリ擬音説、河の瀬説を一蹴し、

結局、ひとつ所に迫(せ)りあって生えるところからセリの名はできたものと考えられる、

と微調整した説を採っている。「せる(迫)」は、

セメ(迫・攻・責)と同根、

で、

間隔を詰める、

意ではある(岩波古語辞典)が、「競う」意ではなく、

一所にセマリ(迫)あって生える、

と同じ説ということになる。落ち着けどころかもしれない。

ところで、今は使われないが、

芹を摘む、

という言い回しは、

願いが叶わない怨みにいうことがある、

とある(岩波古語辞典)。それは、

宮中の庭掃除男が、セリを食べている后を垣間見て恋心を起こし、后のためにセリを摘んで御簾のあたりへ置いたのに、思いが遂げられず死んでしまったという伝承が俊頼口伝にある、

からという(仝上)。俊頼口伝は、

俊頼髄脳、

ともいう源俊頼によって書かれた歌論書である。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:水芹 芹子 セリ
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2020年04月06日

日本人の食生活


渡辺実『日本食生活史』を読む。

日本食生活史.jpg


類書が少ないせいか、随分前(1964年)に上梓された本だが、新装版が出ている。本書は、「我が国の食生活史の時代変遷」を、以下のように、「便宜上区分して」、

自然物雑食時代(日本文化発生-紀元前後) 先土器・縄文時代
主食・副食分離時代(紀元前後-七世紀) 弥生・古墳・飛鳥時代
唐風食模倣時代(八世紀-一二世紀) 奈良・平安朝時代
 貴族食と庶民食の分離 奈良時代
 型にはまった食生活 平安時代
和食発達時代(一三世紀-一六世紀) 鎌倉・室町時代
 簡素な食生活 鎌倉時代
 禅風食の普及 室町時代
和食完成時代(一七世紀-一八世紀) 安土・江戸時代
 南蛮・シナ風の集成 安土・桃山時代
 日本料理の完成 江戸時代
和洋食混同時代(一九世紀-現在) 明治・大正・昭和の時代
 欧米食風の移入 明治・大正時代
 現代の食事 昭和時代

ほぼ一万年にわたる日本の食生活史である。

まず、先土器・縄文時代は、

「何千年にもわたる時代であって、北方系・南方系の両文化がわが列島においてたくみに混合調和している。…この時代は狩猟生活が中心であり、漁撈も行われ、自然物採集」

の時代である。

「日本語と同系統のものは琉球語だけである…。そして日本語がアルタイ諸言語や朝鮮語と同系であるとしても、それと分離したのは六・七千年より古いことであって、そのような太古に日本人の祖先が国土に渡り来たり、この国土で独自の発達をとげたものであると考えられる…。(中略)このように日本民族は単一の人種系統に属するものではなく、石器時代において多くの種族が渡来し混血が行われ、そこに南北両系統の文化が混合し、その後の歴史時代に入っても異質文化をたえず摂取してこれと同化した」

という特質は、ある意味、これ以降の日本の文化すべてに言える、今日まで蜿蜒と続く特色となる。

弥生・古墳・飛鳥時代は、

「金属器と稲作農業の登場によって、農耕が主な生業となり、食生活が安定し、そこに富の蓄積が始まり貧富の差を生じ、貴族と農奴階級が分離して氏族制度が完成する。特に朝鮮半島から仏教・儒教とともに種々の文化が輸入され、食生活も半島のそれを上流階級が模倣し、輸入した時代」

である。特に、紀元前三世紀ごろの、稲作のもたらした衝撃は、

日本史上のいかなる変革にも劣らぬ深刻なもの、

であった。

まず北九州の海岸地帯にはじまり、紀元前一世紀には近畿地方に入り、紀元三世紀の終わりごろには関東地方にもおよび、やがて縄文文化は消滅した、

と。

奈良・平安時代は、

隋や唐と正式に国交がひらかれ、その影響がいよいよこの時代にわが国の文化の様相にいちじるしく洗われる時代、

である。

「貴族階級は奢侈的な唐様食を取り入れることに熱心であった。庶民階級は……貧窮生活者が多く、食生活も粗食であった」

とあるが、孝徳天皇のころ、牛乳が登場し、天智天皇の頃には、官営の牧場をおいて、牛を飼育し、管理する乳戸が置かれ、煮詰めた「酪」(ヨーグルトの類)や「蘇」(バターとチーズをまぜたようなもの)があり、奈良時代、

毎年全国から蘇が朝廷に貢として送られ、乳戸からは毎日新鮮な牛乳がおさめられた、

という。平安時代になると、九世紀末以降遣唐使が廃止され、模倣から独自の文化になっていくが、

「貴族の生活は先規洗例を尊重し、故実と称して旧慣を反復する形にはまった形態となった。彼等の食膳は調味や栄養よりも、盛り合わせの美を尊重する、いわゆる見る料理を育成することになった」

とある。この形式的なものが、

日本食の性格を後世まで規制する源泉、

となったらしい。

鎌倉時代は、

「武士階級…の活動の原動力となったのは、簡素な食風ではあるが、玄米食と獣肉を自由に摂取し、その上に精進料理を加えた食生活であり」

そこに、

和食の完成、

の第一歩を踏み出し、和食発達の素地をつくった、

とされる。

室町時代は、

「喫茶を中心とする食文化が日常化され、末期になると西欧食品・砂糖が移入される。中国からは饅頭・豆腐が輸入され、味噌・醤油の調味料もでき」、

日本風の食品や食生活が発生・発展する、

時代となる。この時期、農業技術の改善・農作物の改良などによって、生産が向上、米のみならず、雑穀、野菜類も豊富になり、この時期、牛蒡・蕗・名荷・芋・胡瓜・里芋・山いもの他、

西瓜、
まくわ瓜、
葡萄、
蜜柑、

なども地方の名産品として現れてきた。この時期の特質は、

食事作法、

について、伊勢流、小笠原流などの流儀ができ、たとえば、飯の食べ方にまで、

「左先を一箸、右を一箸、向を一箸、三箸を一口に入て食ふ也、我が所にて向左右と喰ふ也」

といった具合(今川大雙紙)である。宴席についても、

式三献、
七五三膳・五五三膳・五三三膳、

といった、今日の会席料理や三々九度、駆けつけ三杯に残る作法が形式化された。

安土・桃山時代は、

てんぷら、
蒸留酒、
コンペイトウ、
カステラ、
ビスケット、

等々

中国・朝鮮・東南アジアおよび南蛮から作物・食品・調理法が輸入され、これが集大成されて、

江戸時代の和食完成、

の実現に至ることになる。そして、圧巻は、江戸時代である。

「町人が経済的に勢力を得るに至ったので、武士と町人との両階級の嗜好を入れた食生活が形成される。さらに、新たにシナ風・西欧風のものがとりいれられたために、元禄・化政期には」、

和食、

が完成することになる。

「食事回数の三回は上下の階級に普及し、菜食を主とし、獣食をしりぞけ、魚肉が重視され、精細な味覚と美しい食膳や、精進料理が尊重される」、

日本式の食生活、

が完成する。

居酒屋、
飯屋、

をはじめとする飲食店が出現し、江戸では、

屋台店、

も繁盛、今日の、

鮨屋、
うどん屋、
蕎麦屋、

等々はこの時期から始まる。江戸時代に出来た食生活、飲食店は、ほとんど今日につながっているのを強く印象付けられる。

さて、明治以降洋風化が浸透するが、現代で面白いのは、

学校給食、

である。学校給食は、

明治二十二年十月に山形県鶴岡市の市立忠愛小学校で、仏教の慈善団体によって実施されたのが最初である。当時は貧困児童に対し就学奨励の意味から行われたものである、

それが全国に広まり、昭和七年には、國が直接学校給食を援助することをはじめ、

当時経済不況によって欠食児童が多くなり、これらの児童の体力低下を防ぎ就学を奨励するために実施された、

ものであり、十六年からは、

身体虚弱児・栄養不良児等に対して栄養を補給する目的から学校給食を開始した、

が、戦争で中断、戦後全校全生徒対象に改められ、今日に至っている。皮肉なことに、今日、その給食が唯一の栄養補給とする生徒が少なからずいる、という。日本は本当に豊かになったのであろうか。

参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

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スキル事典;
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2020年04月05日

ははこぐさ


「ははこぐさ」は、

母子草、

と当てる。

ヒキヨモギ、

とも言う、春の七草のひとつ、

ごぎょう(御形)、

のことである。

母子草.jpg



春の七草については、「七草粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474392568.html?1585940926で触れたし、

「すずしろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.html
「すずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465179244.html
「ほとけのざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464898986.html
「なずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464883576.html
「はこべ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464851193.html

でも触れた。「ごぎょう」は、

御形、

の他に、

五行、

とも当てる。四辻善成が、「源氏物語」の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で、平安時代の「若菜まいる」の中で、

薺(なずな)、繁縷(はこへら)、芹(せり)、菁(すずな)、御形(ごぎょう)、須々代(すずしろ)、佛座(ほとけのざ)、

の七種を挙げたのが、七種の嚆矢とされているhttp://chusan.info/kobore3/46nanakusa.htm。その一つである。

「ごぎょう」は、

おぎょう、

とも訓ませ、

厄除けのために御形とよばれる人形(ひとがた)を川に流した、雛祭りの古い風習が関係している、

と考えられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8F%E3%82%B3%E3%82%B0%E3%82%B5、とある。地方によって、

アワゴメ(粟米)、ウサギノミミ(兎の耳)、ホーコ、マワタソウ(真綿草)、キャーロツリクサ(蛙釣草)、コウジバナ(麹花)、モチグサ(餅草)、

等々方言名がある(仝上)、らしい。大言海は、

天兒(アマガツ)の類のはうこ(這兒)は、母子(ははこ)の音便にて、母子人形なり、これに供ふる母子餅を裂くる、因りて、其草を母子草と云ふなり、御形(オギャウ)は、人形(ヒトガタ 人形(ニンギョウ))に由ある語なるべし、

とする。「天兒」http://ppnetwork.seesaa.net/search?keyword=%E5%A4%A9%E5%85%92で触れたように、「天兒」は、

祓(はらえ)に子供の傍に置き,形代(かたしろ)として凶事をうつし負せるために用いた人形、

で、似たものに、

這子(ほうこ)、

があり、文字通り,

小児の祓いの人形、

で、

古代,祓(はらえ)に際して幼児のかたわらに置き,形代(かたしろ)として凶事を移し負わせた人形、

であった「天児」が,

後世は練絹(ねりぎぬ)で縫い綿を入れて,幼児のはうような形に作り,幼児の枕頭においてお守りとした這子(ほうこ)をいうようになった、

のである。「御形」は、

鼠麴草(ほうこぐさ)、

とも言い、薬名では、

ソキクソウ、

と訓む。全草を鎮咳・去痰などに用いるらしい。本草綱目には、

鼠麴草、母子草と書く、今はホウコグサと云ふ、おぎゃう、御形と書く、後世誤り唱へて、ゴギャウとす、古書には皆、オギャウと云へり、

とある。

ただ、這子は、母子象ではなく、首と胴は綿詰めの白絹、頭髪は黒糸、這う子にかたどってある、

這っている人形,
幼児の這い歩く姿をかたどった人形,

であるhttps://www.weblio.jp/content/%E9%80%99%E5%AD%90%E5%A9%A2%E5%AD%90

這子.gif



ほうこ(這子)→ははこ(母子)、

という転訛ならともかく、この人形そのものは、母子の像ではない。

御形とよばれる人形(ひとがた)を川に流した、

というのは、「天兒」「這子」が、

幼児のかたわらに置き,形代(かたしろ)として凶事を移し負わせた人形、

であるなら、「形代」は、

人の身についた穢れや厄を託して,海や川に流すもの。神霊の依代 (よりしろ) の一種と考えられている。多くは紙の小さな人形 (ひとがた) であるが,ところによってはわら人形や,食物に託すこともある。鳥取県の流し雛も形代の一種で,川に流したり,氏神様の境内に納めたりする、

のである(ブリタニカ国際大百科事典)。とすれば、

ほうこ(這子)→ははこ(母子)、

の転訛はあり得る。大言海は、「母子草」の項では、

母子餅を製する草の義ならむ、又、此草を御形と云ふも母子の形代の義ならむ、

と母子像とする。「母子草」は、

古へ、上巳(旧暦の3月3日)に、此の葉にて母子餅を製せり、故にモチヨモギの名もあり、後世は艾(よもぎ)に代ふ、

とあり(仝上)、「母子餅」は、

母子(ははご)(這子)に供ふる餅のぎならむ。後世、この餅を雛に供す、

とあり(仝上)、

後に艾餅のクサモチとなる、

とある(仝上)。倭名抄には、

菴蘆子、波波古、

とあり、本草和名には、

菴蘆子、比岐與毛岐、波波古、

とある(大言海)。

ただ、「母子草」の語源を「天兒」と絡めず、その草の特徴、

茎の白毛、頭花の冠毛がほほけ立っていることから、旧仮名遣いでハハケルと書いたことから「母子」の当て字が生じた(牧野新日本植物図鑑)、
和名抄小説などに見える白嵩の説明がハハコグサの実体に近いので、異名として記された「蘩・皤嵩」を、一語と誤認してハンハッコウと読んだものから転じた(和訓栞・植物和名語源新考=深津正)
白い綿毛をつける草なので乳児の舌をおもわせることから(名言通・日本語源広辞典)、

等々から「母子草」の由来を見ようとする説がある。

しかし、ホウコグサ、ホウケグサ、と言われたのは、江戸時代とする説もありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8F%E3%82%B3%E3%82%B0%E3%82%B5、いにしえからの、幼児、子供の形代から玩具になった、

天兒、
這子、

の転訛と見たい。「御形」という名も、川へ流す「形代」の含意があると見た。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年04月04日

七草粥


「七草粥」は、

七種粥、

とも当てる。正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥の意だが、

菜粥、

ともいう。岩波古語辞典には、

七種の節句(七日の節句)の日に邪気を払い万病を除くために、羹として食した、

とあり、大言海にも、

羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して,此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、

とあるので、当初は、粥ではなく、

羹(あつもの)、

であったらしい。「羊羹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.htmlで触れたように、「羹」は、

「古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して『動物性』の熱い汁物を『臛(かく)』といい、2つに分けて用いました。」

とあるhttps://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/。「あつもの」で引くと、

臛(カク 肉のあつもの)、
懏(セン 臛の少ないもの)、

と載る(字源)。当初は、粥ではなく、汁物にして食していたことになる。

「七草粥」は、もうひとつ、

正月15日に、米・粟・稗・黍・小豆など、7種りのものを入れて炊いた粥、

の意もあり(広辞苑)、後に、

小豆粥、

になったとある。大言海には、

古へ、正月十五日に、米、大豆、赤小豆、粟など七種の穀菜を雑へ煮て、七種(シチシュ)の粥と云へり、是も、今は変じて、小豆粥となる、

とあり、たべもの語源辞典にも、

七種粥、

には、

正月七日の七種の菜を入れた汁粥、

正月十五日の七種のものを入れて炊いて固粥、

とがあり、

米・粟・黍子・稗子・篁子(ミノ かずのこぐさの異名)・胡麻子・小豆・大角豆(ささげ)・薯蕷(じょうよ とろろ)その他これに類したもの七種を入れたが、後には、小豆粥になった、

とある。「汁粥」「固粥」については、「粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html?1585854393で触れたように、固粥は、今日の飯の意である。「小豆粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473475996.htmlについても触れた。

中国には、六世紀初めの荊楚歳時記に、

正月七日を人日となす。七種の菜をもって羹をつくる、

とあり、中国の「七種菜羹」が日本に伝来したものとみられる。「人日」とは、

人を占う日、

で(語源由来辞典)、七種の菜を温かい汁物にして食し邪気を避ける習慣があった、

とある(仝上)。それが伝わり、

わが国でも、少なくとも平安時代初期には、無病長寿を願って若菜をとって食べることが、貴族や女房たちの間で行われていた。ただ、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、

とある(日本大百科全書)。偽書とされる「四季物語」には、

「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89。なお、平安時代の後期の文献に、

「君がため 夜越しにつめる 七草の なづなの花を 見てしのびませ」の歌があるとされるので、七草を摘むという風習は平安時代には既にあったと考えられます、

とあるhttp://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/kogop/kohakobe.html

七草については、

せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ

と決め、

七種の若菜を初めて禁裏に参らせたのは寛平年中(889~98)である(七草粥の起こりを宇多天皇寛平戌と死正月七日とする)、

とし(たべもの語源辞典)。

七種を羹として食べたが、まず産土神や祖霊に供えた、

とある(仝上)。なお、七日は、

五節句の一つ、

であるが、五節句は、1年に5回ある季節の節目の日(節日)で、1月7日(人日)、3月3日(上巳 じょうし)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指す。

七草粥.jpg



この羹が後に、粥になるが、七種粥は、

足利氏の家風に始まるとの説、

足利時代から粥になったとする説、

があるが、いずれにしても、粥になったのは、室町以降である。

「すずしろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.htmlで触れたように、

『延喜式』には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていた。この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。なお、餅がゆの由来については不明な点が多いが、『小野宮年中行事』には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(『宇多天皇宸記』寛平2年2月30日条)。この風習は『土佐日記』・『枕草子』にも登場する。
その後、旧暦の正月(現在の1月~2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた、

という記述https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89をみると、15日の「もち粥」が、7日の「七草粥」に転じたように見えるが、この両者の関係ははっきりしない。

「七草」は、今日、

芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ 田平子)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)、

とされているが、

現在の7種は、1362年頃に書かれた『河海抄(かかいしょう)』(四辻善成による『源氏物語』の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89

後には、この七種をそろえることが難しい場合、

なずな、をのみ用い、又、後には、アブラナの葉を用いる、

とあり(大言海)、手に入る物をいくつか、白粥・雑炊に入れることが行われた(たべもの語源辞典)、とある。

七草の薬効については、

芹(せり) 香りがよく、食欲が増進、
御形(ごぎょう) 草餅の元祖。風邪予防や解熱に効果がある、
薺(なずな) 冬の貴重な野菜で、若苗を食用にする、
繁縷(はこべら) 目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった、
仏の座(ほとけのざ) タンポポに似ていて、食物繊維が豊富、
菘(すずな) ビタミンが豊富/、
蘿蔔(すずしろ) 消化を助け、風邪の予防にもなる、

とあるhttps://allabout.co.jp/gm/gc/220737/。七草のうち、

「すずしろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.html
「すずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465179244.html
「ほとけのざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464898986.html
「なずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464883576.html
「はこべ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464851193.html

については、既に触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年04月03日


「粥」は、

糜、

とも当てる。「粥」(シュク、シク)は、

会意。原字は鬻で、粥は祖の略体。「弓二つ(かこう姿)+米+鬲(煮なべ)」。米をなべにいれて、こぼれないようにかこって(容器に蓋をして)熟するまで米を煮ることをあらわす、

とある(漢字源)。「水をたくさん入れて米を軟らかく煮た」おかゆの意である。「糜」(漢音ビ、呉音ミ)は、

会意兼形声。「米+音符磨(マ 粉々につぶす)」の略体」、

とあり、やはり「おかゆ」の意である。

粥.jpg


「粥」は、

米を鍋で炊いたもの、

で、

食湯(かゆ)、

ともいった(たべもの語源辞典)。

固(堅)粥(かたかゆ)と汁粥(しるかゆ)の総称、特に汁粥、

の意とある(広辞苑)。固粥は、今日の飯の意である(たべもの語源辞典)。これに対して、

強飯(こわめし/こわいひ)、

というのは、

米を甑(こしき)で蒸したもの、

を指す(岩波古語辞典)。「甑(こしき)」は、

米などを蒸すのに使う器、瓦製で丸く、其処に蒸気を通ずる穴がある。のちに、蒸籠にあたる、

とある(広辞苑)。播磨風土記に、

阜(おか)の形も甑・箕・竈どもに似たり、

とある(仝上)、とある。

江戸時代までは米を蒸して飯にしたものを強飯といい、水を加えて柔らかく煮たもの、すなわち炊(かし)ぎ飯を弱飯(ひめ)または姫飯(ひめいい)といっていた。炊飯が一般化するようになってからは、これをご飯(はん)または飯(めし)といい、反対に糯米(もちごめ)を蒸したものを強飯またはおこわというようになった。米を蒸すのが通常の加熱法であった時代には、糯米でも粳米(うるちまい)でも強飯といったが、炊く方法が一般的になってからは蒸したものだけを強飯というようになり、さらに糯米を蒸さずに炊いたものを炊きおこわといっている。

とある(日本大百科全書)。つまり、「姫飯」は、「固粥」、現在の普通の飯になる。蒸したる強飯に対して、姫飯といったものである。

ただ、汁粥・固粥、姫粥・強糜、は、少しずつ時代によって微妙に異なる使われ方をしている。

弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、

脱穀後の米の調理は、…玄米のママに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、

とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。

弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられる。

3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、

と見られhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91

甕(かめ)に似た器の底に1つ、あるいは2つ以上の穴をあけ、これを湯沸しの上に重ね、穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているもの。弥生時代以来使われるようになり,平安時代以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって,江戸時代からのせいろうに引継がれた、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

内に麻布のような粗織の布をしき、洗った米を入れてかたく蓋をし、湯をたぎらせた壺に重ねて仕掛ける。下から火をたくと、壺の湯はさかんに湯気をあげ、湯気は甕底の穴をとおって米を蒸す、

のである(日本食生活史)。奈良時代になると、正倉院文書に、

粥・饘(かたがゆ)、

の文字がみられる、という(日本食生活史)。「饘」は、

甑で蒸したもので、強いので強飯(こわいい)とよんだ…。(中略)単に飯(いい)という場合は強飯をいうのであるが、まれには固粥をさすこともあった、

とある(仝上)。しかし、

蒸さないで煮たものが粥である。庶民の日常食は粥の場合が多かったのであろう。これには、汁粥(しるがゆ)と固粥(かたがゆ)の二つがあり、汁粥は水気が多く、後世でいう粥にあたる水気の少ないのが固粥である。粥には米・赤小豆・粟・そば・いも・大根などを材料にし、それぞれ白粥・赤小豆粥とよばれた、

という(仝上)。

平安時代になると、土器から陶器で米が煮るようになり、これを、

粥、

といい、今日の粥は、

湯(ゆ)、

と呼ばれた、とある(たべもの語源辞典)。平安後期の「江家(ごうけ)次第」には、

固粥は高く盛られて箸を立てることが見えている。固粥は姫飯ともいわれ、後世の飯(いい)であると思われる。飯や粥には米だけのものではなく、粟飯(あわい)・黍飯(きびい)もあった。貴族は汁粥を多く食べていたようであるが、平安末期になると正規の食事でも固粥(飯)を用いた、

とある(日本食生活史)。固粥よりも、水の量が多く、柔らかく炊いたものが、

粥、

で、後世の粥に当たる。

粥には白粥・いも粥・栗粥などがある。白粥は米だけで何も入れてない粥である。いも粥はやまいもを薄く切って米とともに炊き、時に甘葛煎(あまかずら)を入れてたくこともある。大饗(おおあえ)のときにそなえて貴族の食べるものである。小豆粥は米に小豆を入れ塩を加えて煮たもの。栗を入れてたいたものが栗粥である。さらに魚・貝・海藻などを入れて炊く粥もあった、

とある(仝上)。鎌倉時代は、平安時代を受け継ぎ、蒸した強飯が多かったようである。

米を精白して使うことは公家階級のわずかな人々の間に行われた程度であった。それも今日の半白米ぐらいである。玄米食は武家や庶民の間に用いられ、一般的であった。今日の飯と粥に当たる姫飯(固粥)と水粥(汁粥)とは僧侶が用い…たが、鎌倉末期になり、禅宗の食風がひろまると強飯は少なくなり強飯は少なくなり、…今日の習慣にように姫飯を常食とする傾向になった、

とある(仝上)。鉄製の鍋釜ができるのは、室町以降だが、ようやく、

固粥を飯と言い、汁粥を粥、

というようになる(たべもの語源辞典)。だから、

強飯に湯や水をつけて食べる湯飯(湯漬)、水飯(水漬)も用いられる、

ようになる(日本食生活史)。湯飯は、今日の、

茶漬飯、

に近いものであり、饗応の際に用いられた。姫飯を前もって洗って椀にもって本膳に出し、二の膳に出された湯をそれにかけて食べたものである、

とある(仝上)。江戸時代になると、粥はかえって贅沢な、

茶粥、

が用いられるようになる。京・大阪では、

「富豪の家にても朝は新たに茶粥を焚いて食ふと言ふ。味噌汁を食ふことは中食のこととす。此故に土地のものは朝飯を炊き、汁を煮ることを聞いて笑ふもの多し」(浪花の風)というふうでかえって朝飯をたくことを冷笑していた。また江戸から京都へ遊んだものは、この茶粥は倹約のために食べるものだと考えることもあった。たとえば元治元年の石川明徳著の「京都土産」には「粥を食すれば米は過半し益あり」と述べている。だが淀屋辰五郎の好みの食物は茶粥であって、米は摂津米の上等、茶は宇治の上等の煎茶、奈良特製の奈良漬をそえたものであった、

とある(仝上)。

どうやら、粥は、最後は嗜好品にまで格上げされたらしい。

さて、「かゆ」の語源である。日本語源広辞典は、二説挙げる。

説1は、「カ(食)+ユ(ゆるやか)」で、水を多く入れて軟らかく煮た意、
説2は、「カ(加)+ユ(湯)」で、湯を加えた食物の意、重湯、固湯、葛湯などに対する言葉、

しかし、「粥」自体が「食湯」「湯」と呼ばれていたこと、また重湯、固湯、葛湯などに対する言葉、ということは、これが語源ではないことを示す。粥は、湯を加えたものではない、それでは湯漬け、である。説2はいかがであろうか。

大言海は、

食湯(けゆ)の転か、濃湯(こゆ)の転訛か、

とする。この他に、

カシギユ(炊湯)の転(和句解・日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・音幻論=幸田露伴)、

もある。しかし、「粥」の歴史を見れば、米の調理法の流れの中で、強飯・姫飯、固粥・汁粥、と他の調理法との対比の中で、意味を少しずつずらしながら今日に至っている。そういう背景抜きで、単独で考えるのは意味がないと思う。その意味で、たべもの語源辞典の説明が説得力がある。

カユは、ケユ(食湯)カ、コユ(濃湯)などからカユと変わったという説がある。また、加湯ともいう。炊湯(かしゆ)であるとか、炊き湯・かしぐ湯ともいう。堅湯が姫湯とよばれ、それが飯といわれて、汁湯が粥となり、飯と粥になる。粥は湯(ゆ)のことだが、飯が「いい」「めし」とよばれ、この飯を炊く水の量を多くして炊いたものが粥である。水を多く加えた意味と「炊いた」つまり「かしいた」という意味と両方を含んで、湯(ゆ)に「か」音を添えて「かゆ」とよんだのは、「いい」とか「めし」に対する呼び方として、「ゆ」よりも「かゆ」のほうがよかったからである。もともとカユはユだけで通用したものであった。

なお、「あずき粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473475996.htmlについては触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年04月02日

三献


「三献(さんこん)」は、

さんごん、

とも訓み、

式三献、

とも言う。

酒飯論絵巻.jpg

(土佐光元「酒飯論絵巻」(室町後期) https://tvc-15.hatenablog.com/entry/2019/08/10/053544より)


正式な饗応の膳で、酒肴を出し三つの盃で一杯ずつ飲ませて膳を下げることを一献といい、それを三回繰り返すこと、

とある(広辞苑)。

一献二献三献と、肴を三度変えた膳で、その都度酒を三杯ずつ飲ませるもてなし方、

ともある(岩波古語辞典)。

一献・二献・三献と酒肴(しゅこう)の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返し、9杯の酒をすすめるもの、

という説明(デジタル大辞泉)の方が具体的である。今日の、

駆けつけ三杯、

もここから由来している、とされる(故事ことわざの辞典)。室町時代に「式三献」の語が用いられるようになった(世界の料理がわかる辞典)とあり、

平安後期以来,公家文化の影響を受けながら武家社会の中で育成された室町時代の酒宴には一定の形式が作られていた、

という(室町期における公家・武家衆の酒宴)、

室町時代以後,武家社会の礼法の固定化が進むに伴って整えられた饗膳(きようぜん)形式、

である(世界大百科事典)。室町時代にはすでに種々の伝統に分かれ、

伊勢流、
小笠原流、

等々諸家の流派があった、とされる。今日の、

三々九度の盃、

は、これに始まる。「献」(コン)は、

獻(ケン)の呉音、コン(權(ケン)、ゴン)、たてまつるにて、盃をさすの敬語。獻酬、

とある(大言海)。四季草(伊勢貞丈)には、

肴、酒を出し、三杯勧めて、膳、戻り入る、是れ、一こんなり、幾こん勧むるも、皆同じことなり、

とある。

固めの盃.jpg


「三々九度」は、

出陣・帰陣・祝言などの際の献杯の礼。三つの組の盃で三度ずつ三回酒杯を献酬すること、

と説明がある(広辞苑)が、伊勢流の「宗五大草紙」には、「三々九度の儀」について、

一ツ盃にて三度ヅツ三ツにて、三々九度入るなり。総別盃一ツの時、もちと祝言がましき時は、盃に入る時、そと二度入て三度めに酒を入、二度めに、そと二度入て三度めに酒を入れ、さて三度めに、又そと二度入て三度めに酒を入て、三々九度の数を如此あわするものなり。三さか つきは盃一ツにて三度ツツ入るとおほゆへし(三酒盃酌事)

とある、とか(仝上)。つまり、盃に酒を注ぎ入れるさいには,銚子を盃に2回ほどそっと当、3回目に酒を注ぎ入れる。これが初献の作法。第二献・第三献も同じ手順で酒を盃に注ぎ入れる。これが、
三酒盃酌の方式、

であり(仝上)、いわゆる、

三献の儀、

となる。小笠原流の礼道では、その膳は、

引渡といって昆布・勝栗・のしが一台、梅干・水母(くらげ)・生薑(しょうが)・塩が一台、次に打躬(うちみ)といって鯛・生姜・塩が一台、鯣(するめ)・生姜・数の子・塩・塩引が一台、さらに腸煎(わたいり)といって水母(くらげ)・梅干・鯛が一台、鯣・生姜・鯛・塩辛が一台、

で、これを、

式三献、

といった(日本食生活史)、とある。室町将軍の御成記や武家故実書によれば、

式三献は主殿(寝殿)で行われ、その後、会所に移り、ここで改めて初献から三献までの三献が出された後、五の膳もしくは七の膳までが据えられる膳部となり、さらに四献以下の献部となることがわかる。主殿での式三献と会所に席を移しての初献から三献までの三献とは、全く別のものである。式三献では、初献に海月・梅干・打鮑、二献に鯉のうちみ(刺身)、三献にはわたいり(腸煎り~鯉の内臓の味噌煎り煮)が出されることが通例であるが、これらには箸をつけず、実際に食されることはない、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86、将軍義晴祇園会見物のために、下津屋三郎左衛門方へ立寄ったときの献立は、

初献 鳥、ざうに、五しゆ、
二献 ひや麦、御そへ物、なまとり、
三献 きそく金、こざし、たい、くらげ、

とある(祇園会御見物御成記)し、同じ義輝が、三好義長邸に行ったときは、

初献 龜のから、
二献 のし鮑・つべた貝・鯛、
三献 するめ・たこ・醤煎(ひしおいり)、

の献立という(三好筑前守義長朝臣亭之御成之記)。式三献の酒肴は実際に食べてはならない仕来りになっていたらしいが、実際食べられないものもある。
なお、「かちぐり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471158742.htmlについては触れた。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
加藤百一「室町期における公家・武家衆の酒宴」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/98/10/98_10_716/_pdf

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年04月01日

干菓子


「干菓子」は、

乾菓子、

とも当てる。和菓子の区分では、

水分の少ない菓子、

を言い、

生菓子、

に対して言う。

押し物(落雁(らくがん)の類)、
掛け物(金平糖の類)、
焼き物(煎餅(せんべい)の類)、

等々を言い、

茶の湯では原則として薄茶に用いる、

とある(大辞林)。干菓子は、その製法で、

打ちもの みじん粉などの粉類に砂糖を混ぜ、蜜などを加えたのち木型に入れて押し固めたのち、打ち出して仕上げる。落雁など、
押しもの 打ちものに用いる素材に練り餡などを加え、木枠などに押し付けて仕上げたもの。干菓子に属するが、打ちものより水分量が多い。志ほがま、村雨など、
掛けもの 炒り豆などに砂糖液などを掛けたもの。おこし、五家宝など、
飴もの 砂糖、水飴などを原料とし、煮詰めてから冷却して固めたもの。飴玉、有平糖、おきな飴など、
焼きもの 焼いて作る。平鍋(鉄板)や焼き型を使う平鍋ものと、天火などを使うものとに大別される。干菓子には煎餅、南蛮菓子のボーロなど、
揚げもの 油で揚げて作る(油菓類)。干菓子では揚げ煎餅、新生あられ、揚げ豆、揚げ芋、かりんとうなど、

と分けられるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90

砂糖を主原料とした干菓子。.jpg

(砂糖を主原料とした干菓子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90より)


日本では縄文時代において、栗の実を粉状にしたものを固めて焼いたと見られる独自のクッキーが食べられていた、

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90が、古代の日本では果実や木の実などを総称して、

くだもの、

と呼んでいたことは、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れた。やがて、砂糖を用いた菓子が登場すると、それらは、

水菓子、

として分化されることになる(たべもの語源辞典)。室町時代でも、果実を、

木菓子、
時菓子、

と言い(仝上)、厨事類記には、

干菓子(からくだもの)。松実、柏実、石榴、干棗、

とあるらしい(仝上)。

文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90が、唐菓子八種については、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、

梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、

等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、その他、

餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)ことも触れた。この中に、後の、煎餅の始原となる、

煎餅、

おこしの始原になる、

粔籹、

もある。

たべもの語源辞典には、「干菓子」は、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)には、

白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、

とある(たべもの語源辞典)。

金平糖.jpg



アルヘイ糖は、

有平糖、

と当て、

砂糖を煮て作られた飴の一種

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96、コンペイ糖は、

金平糖、

と当て、

砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の菓子、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96、いずれも、ポルトガルより伝わった南蛮菓子である。

ちなみに「白雪糕」とは、「落雁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.htmlで触れたが、

精白した粳米(うるちまい)粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、

とあり(日本大百科全書)、

落雁の一種、

とある。どうもこれと同じ原料だと、本朝世事談綺はみなしたらしい。しかし、

金平糖、
有平糖、

を干菓子とみる見方があったことにはなる。

今日のような砂糖を使った菓子が作られるようになるのは、宝暦(1751~64)以後からのことで、

餅菓子、
蒸菓子、

と対称された、

干菓子、

の名は、宝暦以後からとされる(たべもの語源辞典)。反故染(越智為久)には、

干菓子、せんべい・松風・ぽうろ・霜柱の類。上々の菓子にて、本菓子屋もの成しが、宝暦の頃より辻売りの十枚六文に位を落とす、

とある(たべもの語源辞典)、とか。

今日の干菓子は、

和菓子の中で水分をほとんど含まない乾燥度の高い菓子、

を指し(仝上)、

落雁・塩がまの類、
おこしや五家宝(ごかぼう)の類、
煎餅や瓦煎餅、松風の類、
金平糖やかりんとうや豆ねじのような駄菓子類、

が干菓子になる(たべもの語源辞典)、とある。

五家宝.jpg



文化五年(1808)に、

京都の吉田源助が中国の雲片からヒントを得て干菓子をつくったのが始まり、

ともある(仝上)。

中国の胡麻入り雲(云)片糕.jpg

(中国の胡麻入り雲(云)片糕 https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/211/より)


なお、

煎餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.html
松風http://ppnetwork.seesaa.net/article/473581577.html
落雁http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html
おこしhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html
和三盆http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html

については、すでに触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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