2024年09月04日

ことならば


ことならば思はずとやは言ひはてぬなぞ世の中の玉襷(たまだすき)なる(古今和歌集)、

の、

玉襷、

は、多く「かく」(掛かる)にかかる枕詞としてもちいられるが、こころは心に掛かるということの喩え、

とあり、

ことならば、

は、

「同じことなら」という意味の常套句、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

ことならば、

は、

同ならば、

と当て(岩波古語辞典)、平安・鎌倉時代には、

ゴトナラバ、

と訓んだように、

「こと」は「如し」の語幹と同源(広辞苑)、
コトはゴト(如)と同根(岩波古語辞典)、

になる。

ことならば咲かずやはあらぬ櫻花見る我さへに静心なし(古今和歌集)、

の、

ことならば、

も、

同ならば、

と当て(岩波古語辞典)、

結果として同じからば、

の意であり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

此の如くならば、
斯かることならば、
こんなことなら、
同じ事なら、

の意で(仝上・大言海)、

如くならば、

の意で、これは、上代に、

こと降らば袖さへ濡れて通るべくべく降りなむ雪の空に消(け)につつ(万葉集)

と、

こと…ば、

の形の条件表現が行なわれたが、それと同類の中古以降の表現法(精選版日本国語大辞典)で、

かきくらしことは降らなむ春雨にぬれぎぬ着せて君をとどめむ(古今和歌集)、

の、

ことは、

も同様である(仝上)とある。

ことは、

は、

同は、

と当て(仝上)、

ことならばの略、

であり(大言海)、平安・鎌倉時代は、

ゴトハ

と訓んだように、

コトは、ゴト(如)と同根である(岩波古語辞典)、

とするのは、

句意を「どうせ同じことなら」と解して、「こと」が「如(ごと)」と同源であるとする、

説であるが、他に、

「此(こ)とならば」で「このように…ならば」の意であるとする説、
「こと」を名詞「こと(事・言)」と同源と見る説(精選版日本国語大辞典)、
副詞「こと」+断定の助動詞「なり」の未然形+接続助詞「ば」、とする説(デジタル大辞泉)、

などがある。

ことならば、

は、

こと…ば、

の意味の流れを受け継いで、

ことならば咲かずやはあらぬ桜花みる我さへにしづ心なし(紀貫之)、

と、

現実を何らかの重要な定めのあらわれとしてとらえ、その判断を後句の前提として述べるが、「こと」は、その定めを暗示する語と考えられる、

とある(精選版日本国語大辞典)。この、

こと、

は、

同、
如、

と当て(大言海・岩波古語辞典)、

ひとつこと、
同じ、

という意味で、

ゴトシ(如)と同根、仮定の表現を導くのに使う。コト(異・別・殊)とは起源的に別(岩波古語辞典)、
ことくの語幹。此の語、常に多く、何のごと、某(それ)のごとくと、他の語の下に用ゐられ、連声(れんじゃう)にて濁る、されど、独立なる時は、清音にて、語尾の活用したるを見ず、古今集の歌の、「ことならば」を、顕注満勘(古今和歌集注釈書)に、かくの如くならばの意と訳せり(大言海)、

とある。なお、

平安時代はゴトと濁って発音したらしい。写本に、ゴと濁る指示がある、

とある(岩波古語辞典)が、

これは「如」との意味的関連を認めた鎌倉時代の歌学の反映である、

とされる(精選版日本国語大辞典)。しかし、逆に、

ごと、

が、

後に如しの語幹となる、連体修飾語をうけて、

とする説もある(岩波古語辞典)。

こと(ごと)→ごとし、

なのか、

ごとし→こと(ごと)、

なのかはともかく、

こと(ごと)、

ごとし、

のつながりは深い。

ごと、

は、

同、
如、

と当て、

コト(同)と同根(岩波古語辞典)、
ゴトク(如く)の語根、如しはオナジコト(同事)を上略して活用せしめたる語(大言海)、
ゴトク(如く)―ゴト(日本語の語源)、
元来は同じの意で、同一を示すコト(kötö)と同源、また類似したさまをいう朝鮮語katや満州語geseとも同源(万葉集=日本古典文学大系)、

等々、

助動詞「ごとし」の語幹、

とし、

本来、「同じ」の意を表す「こと」の濁音化したもので、体言的性格を持つ、

とする(日本語源大辞典)のが大勢のようである。なお、

コト(毎)の義(言元梯)、

とする説もあるが、

意味とアクセントの点からごと(毎)とは別、

とされ、むしろ、「ごと(毎)」は、

コト(異・別)と同根、

とされる(岩波古語辞典)。また、

言の通りという意味で、コト(言)から(国語の語根とその分類=大島正健)、

という説も、

こと、

が、

同、

と当てる以上、同じ音ではあるが、区別されていたと見るべきだ。なお、「事」「言」と当てる「こと」については触れた。

では、

ごとし、

はどうなのか。

「同じ」の意を表わす「こと」の濁音化した「ごと」に、形容詞をつくる活用語尾「し」が付いたもの。名詞+「の」、代名詞+「が」、用言および助動詞の連体形、連体形+「が」などに付く。体言に直接付くこともある、比況の助動詞(精選版日本国語大辞典)、
コトのはじめが濁音化した語。このゴトに、シをつけて形容詞のように使うようになった(日本語源広辞典)、
同じ事を上略して活用せしめたる語、齊(ひと)しと云ふ語も、一(ひと)しなり(眞言(まこと)し、功(いさを)し)、何事を上略して、コトとのみ言ふこと多し(事と云へば、事ぞともなく)、此の語の活用(〇・ごとく・ごとし・ごとき・〇・〇)、形容詞に似たれどゴトケレと用ゐたる例を見ず、又、ゴトクニと用ゐるも、形容詞に異例なり。又、他語の下にのみ用ゐらるれば、首音濁れど、元と、清音なるなり(大言海)、
同一を意味する「こと」という語の語頭が濁音化した「ごと」に、形容詞語尾「し」がついて成立した語である。「こと」という語は体言であり、「見けむがごと」といへば、「見たというのと同一」の意である。この用法の発展として、他の事・物に比較して「……と同じだ」「……のようだ」の意を表す「ごとし」があらわれた(岩波古語辞典)、

などとあり、その活用(〇・ごとく・ごとし・ごとき・〇・〇)から、本来の、助動詞ではなく、

く・し・き、と形容詞ク活用と同じ活用をする、

とある(岩波古語辞典)。どうやら、

同一を意味する「こと」→ごと→ごと(如)し、

と展開したようである。

ごとし、

は、平安時代に入って、多く漢文訓読文に用いられることになる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)が、女流文学系では例外的にしか使われていない。女流文学系では、

やうなり、

が代わって用いられた(仝上)とある。

「同」.gif

(「同」 https://kakijun.jp/page/0650200.htmlより)


「同」 甲骨文字・殷.png

(「同」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%8Cより)

「同」(慣用ドウ、漢音トウ、呉音ズウ)は、

会意文字。「四角い板+口(あな)」で、板に穴をあけて突き通すことを示す。突き通れば通じ、通じれば一つになる。転じて同一・共同・共通の意になる、

とある(漢字源)。別に、

会意。口と、冃(ぼう)(おおう。𠔼は省略形)とから成り、多くの人を呼び集める、ひいて「ともに」、転じて「おなじ」などの意を表す、

ともある(角川新字源)が、

原字は筒の形を象る象形文字で、のち羨符(無意味な装飾的筆画)の「口」を加えて「同」の字体となる。「つつ」を意味する漢語{筒 /*loong/}を表す字。のち仮借して「おなじ」を意味する漢語{同 /*loong/}に用いる。この文字を「凡」と関連付ける説があるが、誤った分析である、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%8C

象形文字です。「上下2つの同じ直径の筒の象形」から「あう・おなじ」を意味する「同」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji378.html、象形文字とする。

「如」.gif

(「如」 https://kakijun.jp/page/0662200.htmlより)

「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、「真如」で触れたように、

会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもないものをさす指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B(AはほぼBに同じ、似ている)」という不足不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も、現場にないものをさす働きの一用法である、

とある(漢字源)。同じく、

会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1519.htmlが、他は、

形声。音符「女 /*NA/」+羨符「口」。「もし~なら」「~のような、ごとし」を意味する助詞の{如 /*na/}を表す字。もと「女」が仮借して{如}を表す字であったが、「口」(他の単語と区別するための符号)を加えた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82

会意。女と、口(くち)とから成り、女が男のことばに従う、ひいて、したがう意を表す。借りて、助字に用いる、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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2024年09月03日

ねぬなは


隠れ沼(ぬ)の下よりおふるねぬなはの寝ぬ名は立てじくるないとひそ(古今和歌集)、

の、

ねぬなは、

は、

根蓴、

と当て、

蓴菜(ジュンサイ)、

の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

寝ぬ名は立てじ、



寝ぬ名、

は、

共寝をしていないという噂、

で、

共寝をしていないという噂を立てるまい、ということは、共寝をしているという噂が立ってもいいようにしておく、

ということ、

寝ぬ名は、

は、

ねぬなは、

の繰り返しにもなっている、とある(仝上)。また、

くる、

は、

來ると繰るの掛詞。蓴菜は根が長いので、「繰る」が連想される、

とある(仝上)。

ねぬなは(ねぬなわ)、

は、

聖の好むもの、……松茸平茸滑薄(なめすすき)、さては池に宿る蓮の這根、芹根蓴菜(ぬなは)牛蒡河骨うち蕨土筆(梁塵秘抄)、

と、

根蓴菜、

と当て、

じゅんさい(蓴菜)の古名(デジタル大辞泉・広辞苑)、

とも、

じゅんさい(蓴菜)の異名(精選版日本国語大辞典)、

ともある。

根が長くのびるるから、

その名がある(広辞苑)という。

ジュンサイの花と葉.jpg


ぬなは(ぬなわ)、

は、

沼縄、
蓴、

と当て、

じゅんさい(蓴菜)の古名(精選版日本国語大辞典・大言海)、
じゅんさい(蓴菜)の別名(広辞苑)、

と、

根、

を強調した、

根の長く延ふに就きて云ふ(大言海)、

ねぬなは、

と、

ぬなは、

は同じである。和名類聚抄(931~38年)に、

蓴、沼奈波、

本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、

蓴、奴奈波、

字鏡(平安後期頃)に、

蓴、奴奈波、

等々とある。この由来は、

滑之葉(ぬるのは)の義、或は滑縄(ぬなは)と云ふ(大言海)、
ヌナワは沼なわの意味で、沼に生え、葉柄があたかも縄のようであるから(牧野富太郎)、
ねぬ縄という、根をとるといくらでも縄のようなものが出るから(関秘録)、
蓴菜ということばが、ぬらりくらりしている意にも用いられるように、ぬるぬるしているのが特徴で、ぬるぬるした縄、ヌルナワがヌナワとなった(たべもの語源辞典=清水桂一)、
ヌナハ(滑菜葉)の義(古今要覧稿)、
ヌネバハ(滑沼葉)の義、またナエナユハ(萎滑葉)の義(日本語原学=林甕臣)、
ヌナハ(滑縄)の義(東雅・日本声母伝・名言通)、
ヌナハ(沼縄)の義(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・日本紀和歌略註・雅言考・和訓栞)、
ヌナハ(泥縄)の義(言元梯)、
「ヌ」は「ぬめらか」、「ナ」は「菜」、「ハ」は「葉」を意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4

等々とあるが、どうも、

ヌナハ(滑縄)、
ヌナハ(沼縄)、
ヌナハ(泥縄)、
ヌナハ(滑菜葉)、

等々、その、

ぬるぬるした感触、

からあれこれ考えている気配で、

ぬるぬるした縄、
か、
ぬるぬるした葉(菜)、

といったところに落ち着くのではないか。

蓴菜(じゅんさい)、

は、

純菜、
順才、

と当てたりする(デジタル大辞泉)が、

ヌナワ、
ミズドコロ、

等々とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4

スイレン目ハゴロモモ科(旧スイレン科)属する多年生の水草。本種のみでジュンサイ属 (学名: Brasenia) を構成する、

とあり(仝上・広辞苑)。日本各地の池沼に自生し、

地下茎は泥中を伸び、節ごとに根をおろす。葉は楕円状楯形、長さ五~一〇センチメートル、長い葉柄で水面に浮かぶ。茎と葉の背面には寒天様の粘液を分泌し、新葉には特に多く、若芽・若葉を食用とする、

とある(仝上・精選版日本国語大辞典)が、

巻葉になっている新しい葉で、水中にある時が良く、水面に浮かぶようになると堅くて食べられない、

とある(たべもの語源辞典)。中国植物名は、

蓴菜、
もしくは、
蓴、

で、和名であるジュンサイの名は、漢名の「蓴(チュン)」がなまった「ジュン」に、食用草本を意味する「菜(サイ)」をつけたものに由来するとされる、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4)が、

蓴(ヌナワ)を音読みしたものがジュンであり、ジュンサイは菜をつけて、

蓴菜、

の、

ヌナワ、

を音読みした(たべもの語源辞典)という流れになる。

じゅんさい.jpg

(じゅんさい デジタル大辞泉より)

なお、

根蓴菜(ねぬなわ)の、

は、

おもひのみますだのいけのねぬなはのくるしやかかるこひのみだれよ(能宣集)、

と、

根の長い蓴菜(じゅんさい)を繰(く)って取る意で、「繰る」と同音の「来る」、「苦し」にかかる、

ほか、

冒頭の歌のように、

ジュンサイの根が長いところから、「長き」「くる」「ね」などに掛かる、

枕詞として使われる。

「蓴」.gif

(「蓴」 https://kakijun.jp/page/E4F1200.htmlより)

「蓴」(漢音シュン、呉音ジュン)は、

形声。「艸+音符専」

とあり(漢字源)、蓴菜の意である。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2024年09月02日

袖の別れ


白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く(定家)

の、

露、

は、

涙の隠喩、

身にしむ色の秋風、

は、

通念では五行思想により、秋の色は白だが、別れを惜しむ紅涙を吹く風なので、紅色を暗示する、

と注釈する(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、

袖の別れ、

は、

重ねていた袖と袖とを離して、共寝してしいた男女が別れること、

である(仝上)。

男女が互いにまとい交わした袖を解き離して別れること(広辞苑)、
男女が互いに重ね合った袖を解き放して別れること(デジタル大辞泉)、
男女が互いに重ね合わせた袖を解き放して別れること(精選版日本国語大辞典)、
男女が互いに重ね合った袖を分かって、離れ離れになること(岩波古語辞典)、

等々、いわゆる、

後朝(きぬぎぬ)の別れ、

である。「後朝」で触れたように、

きぬぎぬ、

は、

衣衣、

と当て、本来は、

風の音も、いとあらましう、霜深き晩に、おのが衣々も冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど(源氏物語)、

と、

衣(きぬ)と、衣と、

の意で、

各自に着て居る衣服、

をいう(大言海)。しかし、

しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集)、

の、顕昭(1130(大治5)年?~ 1209(承元元)年)注本に、

結句、きるぞかなしき、とあるはよろしかるべき、

と、

きぬぎぬとは、我が衣をば我が着、人の衣をば人に着せて起きわかるるによりて云ふなり、

とあり(古今集註)、

男女互いに衣を脱ぎ、かさねて寝て、起き別るる時、衣が別々になる意、

とし(大言海)。この歌より、

男女相別るる翌朝の意として、

後朝、

と表記して、

きぬぎぬ、

とした(仝上)。平安時代の、

妻問婚(つまどいこん)、

では、

敷布団はなく、貴族の寝具は畳で、その畳の上に、二人の着ていた衣を敷き、逢瀬を重ねます、

とかhttps://www.bou-tou.net/kinuginu/

布団が使われ出したのは、身分の高い人で江戸期、庶民は明治期からで、それ以前は、着ていた衣をかけて寝ていた、

とあるhttps://kakuyomu.jp/works/1177354054921231796/episodes/1177354055255278737ので、

脱いだ服を重ねて共寝をした、翌朝、めいめいの着物を身に着けること、

の意から、

きぬぎぬになるともきかぬとりだにもあけゆくほどぞこゑもおしまぬ(新勅撰和歌集)、

と、

男女が共寝して過ごした翌朝、

あるいは、

その朝の別れ、

をいった。

なお、「袖」については、「そで」、「」などで触れた。また「袖」の歌語である「衣手」についても触れた。

「袖」.gif


「袖」(漢音シュウ、呉音ジュ)は、

会意兼形声。「衣+音符由(=抽 抜き出す)」。そこから、腕が抜けて出入りする衣の部分。つまりそでのこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(衤(衣)+由)。「身体にまつわる衣服のえりもと」の象形と「底の深い酒つぼ」の象形(「穴が深く通じる」の意味)から、人が腕を通す衣服の部分、「そで」を意味する「袖」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2061.html

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2024年09月01日

そほづ


あしひきの山田のそほつおのれさへわれをほしてふうれはしきこと(古今和歌集)、

の、

そほつ、

は、

そほづ、

で、

案山子、

の意とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、ここは、

案山子そのものではなく、みすぼらしい者や身分の低い者の比喩、

とある(仝上)。また、

そほつ、

には、

濡れる、

意の、

濡(そぼ)つ、

という動詞があり、

その意味と対照的な「ほし」に「干し」を連想することもできる、

と、注釈がある(仝上)。

そほつ(そほづ)、

の古形は、

そほど、

で、

そほづ、

は、

そほどの転、

とあり(岩波古語辞典・広辞苑)、

ど、

は、

人の意か、

とする説がある(日本国語大辞典)。

そほつ、
そおど

は、ともに、

案山子、

と当てる。「かかし」は、

かがし、

とも言い、

鹿驚、

とも当てる(岩波古語辞典)。鎌倉初期の歌学書『八雲御抄』には、

そほづ、おどろかしなり、

とあるように、当初は、

田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近づけないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く、

意で(日本語源大辞典)、そのため、

かがし、

ともある(岩波古語辞典)。元来、

かがし、

または、

かがせ、

で、焼いた獣肉を串に刺して田畑に立て、その臭気を嗅がせて退けた(江戸語大辞典)、ともある。そのため、「かかし」の語源は、

嗅がしの意(岩波古語辞典・類聚名物考・卯花園漫録・柳亭記・俚言集覧・年中行事覚書=柳田国男)、
ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語(松屋筆記・大言海)、

とする説が大勢である。この「かがし」の意が転じて、

竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。弓矢を持たせたり、蓑や笠をかぶせたりして田畑などに人が立っているように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの、

の意となった(日本語源大辞典)とする。この説によると、人形の意で使われるようになったのは、

比較的新しく、中世頃から、

とある(仝上)。しかし、古く、

あしひきの山田の曾富騰(ソホド)、

と古事記にあるように、

そおど(そほど)、
そおづ(そほづ)、

と呼ばれ人形があったのである(岩波古語辞典)。

そほづ、
そほど、

の語源は、「そほづ」は、

雨露にぬれそぼち、山田に立っているところからソボチビト(濡人)の義(和訓栞・大言海)、
シロヒトタツ(代人立)の反(名語記)、

などとあり、「そほど」は、

山田の番人などが日に照らされ、風雨に打たれて皮膚が赭色(そおいろ 赤土の色)をしていたところからソホビト(赭人)の転か(少彦名命(すくなびこなのみこと)の研究=喜田貞吉)、
朱人(ソオビト)の約(角川古語辞典)、
神の名ソホド(曾富騰)から(北辺随筆)、
ソホはソホフル・ソホツのソホか。またドは人の意か(時代別国語大辞典-上代編)、

等々の語源説があり、いずれと決め手はない。しかし「そほづ」は、

久延毘古(くえびこ)、

ともいい、古事記に、

少名毘古那の神を顕はし白(モウ)せし謂はゆる久延毘古(くえびこ)は、今に山田のそほどといふそ、

とあり(古語大辞典)、

〈クエ〉は〈崩(く)ゆ〉の連体形で身体の崩れた男を指す、

と思われ(世界大百科事典)、

此神者、足雖不行、盡知天下之事神也、

とある。この神が、今日の案山子の姿に引き継がれていると思える。このとき、「そほど」「そほづ」は、

かたしろ、

ではないかと見える。

長野県下では旧10月10日の十日夜(とおかんや)の行事に、カカシアゲまたはソメノ年取リといい、かかしに蓑笠を着せて箒・熊手を両手に持たせ、餅や二股大根を供えてこれをまつる、

あるいは、

同県諏訪地方ではこの日はかかしの神が天に上がる日といい、同じく南安曇地方ではかかしが田の守りを終えて山の神になる日だとの伝承がある。また、群馬県下では正月14日にかかし神を作り、新潟では同日かかしを立て膳を供える風習もある、

という民俗例もある。これは、

神の依代(よりしろ)、

そのものである(世界大百科事典)。

依代、

は、

憑代、

とも当て、

神霊が招き寄せられて乗り移るもの、

で、

樹木、岩石、御幣神籬(ひもろぎ)などの有体物で、これを神霊の代わりとしてまつる、

とある(広辞苑)。なお、人間が依代となったときには、

よりまし(尸童・依坐・憑坐・憑子・寄坐)、

と呼ばれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。

「かたしろ」とは、

形代、

と当て、

本物の形の代わり、

の意で、

禊・祓などに用いる紙製の人形で、神を祭る時、神霊の代わりとしては据えたもの、

であり(古語大辞典)、

神霊の依代(よりしろ)の一種、

と考えられている(ブリタニカ国際大百科事典)。とすると、神体の代わりに据えた、

カタシロ、

は、

語尾を落としてカタシになるとともに、「タ」の子交(子音交替)[th]で、カカシ(関東)・カガシ(関西)になった、

とする説(日本語の語源)が、注目される。「そほど」「そほづ」との関連が見えてこないのが難点であるが、ひとがたの人形だったところは、「形代」らしいと思わせ、この説では、こう音韻変化させている。

身代わりのヒトガタ(人形)のことらをカタシロ(形代)といった。紙製のカタシロは六月と十二月の大祓(おおはらえ)の時に陰陽師(おんようじ)が人のからだを撫でて災いを移してから水に流した。また、祭のとき木製・土製のカタシロを神体の代わりに据えた。〈ただカタシロをいはひたらむやうにて〉(増鏡)。
「身代わり」といういみになったカタシロは語尾を落としてカタシになるとともに、「タ」の子交[tk]でカカシ(案山子、関東)、カガシ(関西)になった。『物類称呼』(1775)に「関西・北陸までカガシといふ。関東にてはカカシと澄みていふ」とある。
『日葡辞書』(1603)に、「猪や鹿をおどろかすために耕地に立てたおどし」とあるが、蓑・笠をつけた一本足のカカシは昔から稔りの秋の風物詩であった。〈鳥獣のつかぬやうに垣を結ひ、カガシをこしらへて置かうと存ずる〉、〈今夜は某(それがし)がカガセになって捕へやう〉(狂言・瓜盗人)。
語源について、「もと獸肉を焼き炙りて串に挟み立て、その臭をかがしめておどろかす故にかがしといふといへり」(俚言集覧)とあるが、カタシロの転音だから、「人の身代わり」という意であった。
「案山子」に転義しなかったカカシの語形は、岩手・宮城・山形県村山地方の方言として、コケシ(木彫りの人形)に転音・転義した。これはカタシロ(形代)の伝承であった、

とある(日本語の語源)。しかし、この音韻説をみていると、逆に、

案山子、

の意の中にある、

形代、

としての案山子と、

おどし、

としての案山子とは、語源が異なるのではないか、という気がしてくる。さすがに、『大言海』は、

かかし、

を、

鹿驚、

とあてる「かかし」と、

案山子、

と当てる「かかし」を区別している。前者は、

ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語、

とし、後者は、

鹿驚(カガシ)を立鹿驚(タチカガシ)と用ゐたるを、略したる語、

とする。そして、

鹿驚、

は、獣肉を焼いて串に刺した、

かがし(嗅)、

とし、後者を、

山田のそほづ、

とする。これは見識である。いずれも、役目は、

鳥おどし、
獣おどし、

であるが、

獣の臭い、
と、
神体の形代、

とではギャップがありすぎる。本来異なる由来だったものが、共に、漢語、

案山子、

を当てたことで、

かがし、

そほづ、

が混同されていった、ということではあるまいか。一般には、

かがし→かかし、

と転じたとし、

においをかがせるものの意の、

嗅(かが)し、

の、

田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けないようにしたもの、

から転じて、中世頃には、

竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形、

へと変じたとし(精選版日本国語大辞典)、

江戸時代後半には「かかし」が勢力を増した、

とされる(日本語源大辞典)のだが、いかがなものだろう。

ところで、

かかし、

に当てた、

案山子、

は、漢語で、

アンザンシ、

と訓み、

かかし、とりおどし、

の意であり、

案山は、几(キ 机)の如く平たく低き山の義。山田なり、山田を守る主たる義、

とある(字源)。傳燈禄、道膺禅師傳、または會元、五祖常戒禅師の章に、

「主山高、案山低」とありて、案山は低くして机の如く、平らなる山の義なるべく、案山の閒に、耕地ありて、其邉に、鳥おどしのありしより、

とある(字源・大言海)。「梅園日記」(1845)にも、

隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、徂徠鈴録に主山案山輔山と云ことあり、多くの山の中に、北にありて一番高く見事な山あるを主山と定めて、主山の南にあたりて、はなれて山ありて、上手につくゑの形のごとくなるを案山とし、左右につゞきて主山をうけたる形ある山を輔山といふとあり、又按ずるに、此面前案山子を注せる書、いまだ読ねども、ここの人の作と見えて取にたらず、此事は和板伝燈録巻十七通庸禅師傳に、僧問。孤廻廻、硝山巍巍時如何、師曰孤迥峭巍巍、僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会とあり、和本句読を誤れり、面前案山子也不会を句とすべし、子とは僧をさしていへり、鹿驚の事にあらぬは論なし、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%81%97・大言海・日本語源大辞典)、

僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会、

というのは、中国禅僧の用いた語で、それをかりて、「かかし」に当てた、と思われる(日本語源大辞典・大言海)。

「案」.gif


「案」(アン)は、

会意兼形声。安は「宀(やね)+女」の会意文字で、女性を家に落ち着けたさまをあらわす。案は「木+音符安」で、その上にひじをのせておさえる木のつくえ、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(安+木)。「家の中で女性がやすらぐ」象形(「やすらか・安定する」の意味)と「大地を覆う木」の象形から、安定した「つくえ」を意味する「案」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji602.htmlが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

してhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A1%88

形声。「木」+音符「安 /*ɁAN/」。「つくえ」を意味する漢語{案 /*ʔaans/}を表す字。のち仮借して「かんがえる」を意味する同音異義語に用いる(仝上)、

形声。木と、音符安(アン)とから成る。「つくえ」の意を表す。借りて「かんがえる」意に用いる(角川新字源)、

と、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年08月31日

しでのたおさ


いくばくの田をつくればかほととぎすしでの田長(たをさ)を朝な朝な呼ぶ(古今和歌集)、

の、

しでの田長、

の、

田長、

は、

農事を取り仕切る長、

とあり、

しで、

は、

諸説あるが不明、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。ここでは、ほととぎすの鳴き声を、

シデノタオサ、

と聞きなす。で、

シデノタオサ、

は、

ほととぎすの異名、

とする(仝上)。

しでのたおさ、

は、

死出の田長、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

しでたをさ(死出田長)、

ともいい(大言海)、

たをさ(たおさ)、

は、

農事の統率者、かしら、

をいい(岩波古語辞典・広辞苑)、

シズ(賎)ノタオサ(田長)の転(広辞苑・袖中抄・安斎雑考)、
死出の山から飛び来て鳴くから(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
シデの山からきて過時不熟と鳴いて農を勧めるのでタヲサ(田長)という(色葉和難集・河海抄・万葉代匠記)、
冥途からきて、農事をすすめるから(岩波古語辞典)、
鳴く声を名とす、シデタヲサ(シトトウサ)、ホトトギスなど、種々に聞きなさるるなり、然るを、田植の頃、盛んに鳴けば、其聲を、田に縁ありげに、勧農の鳥などと云ふ諸説、肯けられず(大言海)、
「ほととぎす」の鳴き声を写した擬音語(精選版日本国語大辞典)、

等々から、

ほととぎす(杜鵑)、

の異称とされる(日本語源大辞典・広辞苑・岩波古語辞典)。また、

田長(たをさ)、

のみで、

死出の田長の略、

として、

ホトトギス、

の異称であり、

田長鳥(たをさどり)、

も、

ほととぎす、

の異称である(広辞苑)。上記の、

死出の田長、

の由来と繋がっている。なお、

ホトトギス

については触れた。

「田」.gif

(「田」 https://kakijun.jp/page/ta200.htmlより)

「田」(漢音テン、呉音デン)は、「田楽」で触れたように、

四角に区切った耕地を描いたもの。平らに伸びる意を含む。また田猟の田は、平地に人手を配して平らに押していく狩のこと、

とある(漢字源)。別に、

象形文字です。「区画された狩猟地・耕地」の象形から「狩り・田畑」を意味する「田」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji108.html

「死」.gif

(「死」 https://kakijun.jp/page/0699200.htmlより)


「死」 甲骨文字・殷.png

(「死」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%BBより)


「死」(シ)は、

会意文字。「歹(骨の断片)+ヒ(人)」で、人が死んで骨きれに分解することをあらわす、

とある(漢字源)。他もほぼ同趣旨で、

会意。「歹」(骨の断片)+「匕」(人)、人が死んで骨になることhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%BB

会意。歹と、人(匕は変わった形)とから成り、人が死んで骨だけになる意を表す(角川新字源)、

会意文字です(歹+匕(人))。「白骨」の象形と「ひざまずく人」の象形から、ひざまずく人の前に横たわる死体を意味し、そこから、「しぬ」を意味する「死」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji34.html

などとある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2024年08月30日

よ(節)


なよ竹のよ長き上に初霜のおきゐてものを思ふころかな(古今和歌集)、

の、

よ長き、

の、

よ、

は、

竹の節と節の間、

の意で、その、

「よ」と「夜」の掛詞、

とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、歌などでは、多く、

「世」「夜」などと掛けて用いる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

なよ竹、

は、

なよなよわとしたしなやかな竹、

とある(仝上)。

なよたけ、

は、

弱竹、

と当て、

なよだけ、
なゆたけ、

とも言い、

めだけ(女竹)の別名、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。「にがたけ」で触れたように、

めだけ(女竹・雌竹)、

は、

をだけ(雄竹)、

つまり、

マダケ、

に対して言う、

篠竹の類、

をいい(大言海)、植物学上は、

ササ、

に分類される(世界大百科事典)、

イネ科の(メダケ属)タケササ類、

で、

関東以西の各地に生え、稈は高さ三〜六メートル、径一〜三センチメートルになり、節間は長く枝は節に五〜七本ずつつく。地下茎が横に走り、葉は披針形で手のひら状につき、長さ一〇〜二五センチメートル、三〜五個が枝先からななめに掌状に出る。花穂は古い竹の皮を伴い枝先に密集してつき、小穂は線形で長さ三〜一〇センチメートル。筍(たけのこ)には苦味がある。稈で笛・竿・キセル・籠などをつくる、

とあり(日本国語大辞典・大辞泉)、

なよたけ、
おなごだけ、
にがたけ、
あきたけ、
しのだけ、
しのべだけ、
かわたけ、

等々の名がある(仝上・広辞苑)。因みに、

雄竹(おだけ)、

は、主として、

真竹(まだけ)、

をいうが、淡竹(はちく)、孟宗竹(もうそうちく)などの大柄な竹にもいう(精選版日本国語大辞典)。なお、「タケ(竹)」については触れた。

節、

は、

ふし、

と訓ませると、

竹・葦あしなどの幹や茎にあって盛り上がったり、ふくれ上がったりしている部分、

をいい、敷衍して、広く、

物の盛り上がったり瘤(こぶ)のようになったりして区切り目にもなっている部分、

にいい、

季節、くぎりめ、

の意で使い、また、

ふ、

とも訓ませ、

せつ、

と訓ませても、

竹のふし、

意から、やはり、

ふしのようになった所、つなぎ目、くぎり、

の意で使う。

せち、

と訓ませても、

季節、時節、季節のかわりめ、

といった区切を言い、

ふし(節)、

の意で、

ふ、

とも訓ませる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。さて、で、

節、

を、

よ、

と訓ませると、類聚名義抄(11~12世紀)に、

節、両節間、ヨ、

和名類聚抄(931~38年)にも、

節、両節間、輿、

とあるように、

節(ふし)と節の間、

の意だが、そこから、転じて、

おおきなる竹のよ(節)をとほして入道の口に当て、もとどりを具してほりうづむ(平治物語)、

と、

節(ふし)、

そのものの意でも使う。この、

よ(節)

は、

代・世、

と当てる、

よ、

と同根、

とされ(広辞苑・岩波古語辞典)、

よ(代・世)、

もまた、

ヨ(節)の義(俚言集覧・大言海・海上の道=柳田国男)、
ヨは間の義(松屋筆記)、
ヨ(間)の義、年と年との間の義(言元梯)、
ヨ(代・世)、ヨ(節)はともにヤ(弥)を語源とする(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

と、

よ(節)、

につなげる説が大勢である。思うに、

節と節の間、

をメタファにして、

よ(世・代)、

の意味に敷衍したと思われる。それは、

ふし(節)、
せつ(節)、

等々の意味の広がり方とも通じる気がする。

「節」.gif


「節」(漢音セツ、呉音セチ)は、「折節」で触れたように、

会意。即(ソク)は「ごちそう+膝を折ってひざまずいた人」の会意文字。ここでは「卩」の部分(膝を折ること)に重点がある。節は「竹+膝を折った人」で、膝を節(ふし)として足が区切れるように、一段ずつ区切れる竹の節、

とある(漢字源)。別に、

形声。「竹」+音符「即」(旧字体:卽)、卽の「卩」(膝を折り曲げた姿)をとった会意。同系字、切、膝など、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AF%80

会意兼形声文字です(竹+即(卽))。「竹」の象形と「食べ物の象形とひざまずく人の象形」(人が食事の座につく意味から、「つく」の意味)から、竹についている「ふし(茎にある区切り)・区切り」を意味する
「節」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji554.html

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:よ(節)
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2024年08月29日

あまびこ


あまびこのおとづれじとぞ今は思ふわれか人かと身をたどる世に(古今和歌集)、

の、

あまびこ、

は、

やまびこ、

の意で、

例の少ない語、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

あまびこ、

は、

天彦、

と当てる(岩波古語辞典)が、

天響、

とも当て(大言海)、

ヒコは、ヒビキの略転(曽孫(ヒヒコ)、ひこ。常磐(トキハ)、とこは。引きつらふ、ひこつらふ)、虚空に響く音の意、

とあり(大言海)、他に、

虚空の響きなりと云へり、顕昭は、山彦と同じと云へり(和訓栞)、
ヒコ(彦 日子)は男神に対する称、神霊の所為と考えての名(冠辞考続貂)、

ともあるが、一説に、

天人、

ともある(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)ので、

虚空の響き、

を、天人のせいと考えて、

天彦、

と名付けたとも考えられる。ただ、日葡辞書(1603~04)には、


アマビコガコタユル、

とあり、後に、

木霊、
やまびこ、

と見なされていたことがわかる。「こだま」「山彦」については、「こだま」については触れたが、

こだま、

は、

木+タマ(魂・霊)、

やまびこ、

を、

やまひこ、

と訓ませると、

山+ヒコ(精霊・彦・日子)、

となり、

天彦、

も、それと似て、

天+ヒコ、

と、そこに、

神霊、

を見たということは考えられる。

なお、

天彦の(あまびこの)、

は、冒頭の歌のように、

「あまびこの音」というつづきで同音の「おと」をふくむ動詞「おとづる」および地名「音羽(おとは)」にかかる、

枕詞として使われる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

「彦」.gif

(「彦」 https://kakijun.jp/page/0959200.htmlより)


「彥」.gif


「彦」(ゲン)は、

会意兼形声。厂(ガン)は、厂型にくっきりとけじめのついたさま。彦は「文(模様)+彡(模様)+音符厂」で、くっきりと浮き出た顔の男、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(文+厂+彡)。「人の胸を開いて、そこに入れ墨の模様を書く」象形(「模様」の意味)と「削り取られた崖」の象形と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・飾り」の意味)から、崖から得た鉱物性顔料の意味を表し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、それを用いる「美青年」、「才徳のすぐれた男子」、「男子の美称」を意味する「彦」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1730.htmlが、

かつて会意文字と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BD%A5

形声。「彡」(模様)+音符「产 /*NGAN/」(仝上)、
形声。意符彣(ぶん)(あや)と、音符厂(カン)→(ゲン)とから成る。美しい男の子、転じて、優れた青年の意を表す(角川新字源)、

と、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2024年08月28日

よそふ


面影の忘れぬ人によそへつつ入るをぞ慕ふ秋の夜の月(新古今和歌集)、

の、

よそふ、

は、

比ふ、
寄ふ、

と当て、

なぞらえる、

意とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』・広辞苑)。

下二段活用の、

よそふ、

は、

ヨシ(寄)ソフ(添)の約か。甲を乙に引き寄せて並べ、両者を関係があるとする意。類義語ナズラフは、別のものである甲と乙の資格が同等であるとして、二つを同一視する意(岩波古語辞典)、
寄すの延(大言海)、
下二段活用の動詞「よす(寄)」に、反復・継続の接尾語「ふ」の付いたものか。また、古い四段活用の動詞「よす(寄)」からの派生か。一説に「寄し添ふ」からとも(精選版日本国語大辞典)、

などとあり、

寄す、

は、

ヨシ(由)と同根、

で(岩波古語辞典)、

物の本質や根本に近寄せ、関係づけるものの意、つまり、口実・かこつけ・手がかり・伝聞した事情・体裁などの意。類義語ユエ(故)は、物事の本質的・根本的な深い原因・理由・事情・由来の意、

とある(仝上)。

言寄せる、
事寄せる、

という言い方の、

寄せる、

と同じく、

何かに託す、

という含意で、

準える、

が、

直接的にそれを比較するのに対して、

なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも、音にも、よそうべき方ぞなき(源氏物語)、

と、

指すことをあらはに言はず、他事に託す、寄せ比ぶ、

という意味になる(大言海)この

よそふ、

の、下一段活用が、

比へ(え)る、
寄へ(え)る、

と当てる、

よそえる、

で、やはり、

ヨシ(寄)ソフ(添)の約、

で(広辞苑)、

ふじのけぶりによそへて人をこひ(古今和歌集仮名序)、

と、

ある物を何かに似ていると見立てる、
なぞらえる、
擬する、
たとえる、

意や、

争へば神も悪(にく)ますよしゑやし世副流(よそふル)君が憎くあらなくに(万葉集)、

と、

関係があるとする、
かかわりがあるとする、

意と、

思ふどちひとりひとりが恋ひ死なばたれによそへてふぢ(藤)衣きん(古今和歌集)、

と、

ことよせる、
かこつける、
口実にする、

意で使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・広辞苑)。

何かに仮託する、

という意味では、

かこつける、
も、
準える、
も、

ほぼ同義にはなるが、両者に、

こじつけ感が増す、

ほど、「なぞらえる」が「口実」に変じていくことになる。なお、ハ行下二段活用の

よそふ、

は、室町時代ごろから、

よそゆ(寄ゆ)

と転化し、多くの場合、終止形は、

よそゆる、

の形をとる(日葡辞書)とある(精選版日本国語大辞典)。

「寄」.gif

(「寄」 https://kakijun.jp/page/1134200.htmlより)

「寄」(キ)は、

会意兼形声。奇は「大(ひと)+音符可」の会意兼形声文字で、からだが一方にかたよった足の不自由な人、平均を欠いて、片方による意を含む。踦(キ)の原字。寄は「宀(いえ)+音符奇」で、たよりとする家のほうにかたより、よりかかること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(宀+奇)。「屋根(家屋)」の象形と「両手両足を広げて立つ人の象形と口の象形と口の奥の象形」(口と口の奥の象形で「かぎがたに曲がる」の意味を持つ為、「身体を曲げて立つ人」の意味を表す)から、つりあいが保てず片方の家屋の下に身をよせる事を意味し、そこから、「よせる」を意味する「寄」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji859.htmlが、

形声。「宀」+音符「奇 /*KAJ/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%84

形声。宀と、音符奇(キ)とから成る。身をよせる意を表す(角川新字源)、

と、形声文字とする説もある。

「添」.gif


「添」(テン)は、

会意兼形声。忝(テン)は「心+音符天」の形声文字。天で忝の音をあらわしたのは、厳密ではない。忝はかみのように薄い心のことで、平気でばいられない「かたじけない」気持ちのこと。薄く平らな意を含む。添は「水+音符忝」で、薄く紙をはりつけるようのに、上に水の層を加えること、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です。「流れる水」の象形と「人の頭部を大きく強調した象形と心臓の象形」(「天に対するときの心」の意味)から、天に対して心が「そう」を意味する「添」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1087.htmlが、

形声。水と、音符忝(テム)とから成る。もと、沾(テム)の俗字であるが、特に「そえる」意に用いる、

と(角川新字源)、形声文字とする説もある。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年08月27日

雨衣(あまごろも)


難波潟(なにはがた)潮満ちくらし雨衣(あまごろも)田蓑(たみの)の島に鶴(たづ)鳴き渡る(古今和歌集)、

の、

雨衣、

は、

雨具の連想で蓑にかかる枕詞、

とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

海を詠んだ歌なので、「海人衣」という連想もある、

とある(仝上)。

海人衣(あまごろも)、

は、

言問はん野島が崎の海人衣浪と月とにいかがしをるる(新古今和歌集)、

と、

海人(漁師等)の着る衣服、

である(広辞苑)。

雨衣、

は、

雨衣(あまぎぬ)、

に同じ(広辞苑)で、

雨衣(あまごろも)、

は、

蓑、田蓑(たみの)にかかる枕詞である(広辞苑)。

雨衣(あまぎぬ)、

は、

装束の上に着て、雨雪を防ぐ衣、

で、

表に油を引いた白絹でつくる、

とある(仝上)。和名類聚抄(931~38年)に、

雨衣、阿万岐沼(あまぎぬ)、一云、油衣、

とある。左伝(春秋左伝、魯の歴史を記載する編年体の史書)哀公廿七年に、

成子衣製、

の注記に、

製、雨具也、

とある(大言海)。

「製」.gif


「製」(漢音セイ、呉音セ)は、

会意兼形声。制(セイ)は、「木の枝+/印(断ち切る)+刀」の会意文字で、途中で枝を切り取ること。製は「衣+音符制」で、布地を截ち切ること、

とあり(漢字源)、「裁」と意味が近い、とある(仝上)。別に、

会意形声。衣と、制(セイ)(きりそろえる)とから成り、衣を切りそろえる意を表す。ひいて、「つくる」意に用いる(角川新字源)、

会意兼形声文字です(制+衣)。「枝のかさなる木と刀の象形」(「木をそぎ整える」の意味)と「衣服のえりもと」の象形から、「衣服を裁ち(切り)つくる」を意味する「製」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji849.html

ともあるが同趣旨で、「左伝」襄公十一年に、

雖有美錦、不使學製焉、

とあるように、

服を仕立てる、

意だが、上記のように、

雨具、

の意もある(字源)。なお、

雨衣、

を、

うい、

と訓ませると、

自翦青莎織雨衣(許渾・村舎)、

と、

蓑などの雨具、

を指す(字源)。

雨衣(あまぎぬ)、

を着用したのは貴族たちだが、庶民は、水を吸うと膨張し、乾燥すると縮む植物の性質を利用した、

蓑、
笠、

を用い、修験者は、

油紙製の雨皮(あまかわ)、

を用いた(世界大百科事典)。雨皮は、

油単(ゆたん)、

とも呼ばれ、牛車や輿にも掛けられた(仝上)とある。

「雨」.gif

(「雨」 https://kakijun.jp/page/ame200.htmlより)

「雨」(ウ)は、「雨乞い」で触れたように、

象形。天から雨の降るさまを描いたもので、上から地表を覆って降る雨、

とある(漢字源)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2024年08月26日

雁信


郷書何處達(郷書 何れの處にか達せん)
歸雁洛陽邊(歸雁 洛陽の邊(ほとり))(王湾・次北固山下)、

の、

帰雁(きがん)、

は、

漢の蘓武が匈奴(フン族)への使者となり、先方ら抑留されたとき、漢の天子が御苑で猟の折に、蘓武からの手紙を足に巻いた白雁を得た。それを証拠に匈奴を追求したので、蘓武は帰国できたという。これから、雁はたよりを伝えるものとして、詩文に用いられるようになった、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

玉づさ」(玉梓、玉章)で触れたが、

秋風に初雁が音ぞ聞こゆなる誰が玉づさをかけて来つらむ(古今和歌集)、

の、

たまづさ、

は、万葉集では、

たまづさの、

という形で、

使ひ、

にかかる枕詞であり、さらに、

使者そのもの、

の意味になったが、古今集から、

使者が携えてくる手紙、

の意となる(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)と注記がある。

雁はたよりを伝える、

は、上記、『漢書』蘇武傳の、

昭帝即位數年、匈奴與漢和親、漢求武等、匈奴詭言、武死……常惠教漢使者謂單于言、天子射上林中得雁、足有係帛書、言武等在某澤中、使者大喜、如惠言以譲單于、單于視左右、而驚謝漢使曰、武等實在、

の、

雁書、

の故事により(字源)、

帛書、

ともいい、

若向三湘逢雁信、
莫辞千里寄漁翁(温庭筠)

と、

雁信、

ともいう(仝上)。

雁信、

の、

信、

は、

信書、
私信、
風信、

などとも言うように、

手紙、
たより、

の意の、

音訊(おんしん)、

の、

訊(シン)に当てた用法、

とあり(漢字源)、

音信、

の意(仝上)である。また、

雁札(がんさつ)、
雁文、
雁素(がんそ)、
雁足(がんそく)、
雁帛(がんぱく)、
かりのたより、

等々ともいい、

音信の書、
手紙、

の意で使う(仝上・精選版日本国語大辞典)。ただ、

雁字の書、

ともいい、江戸中期『夏山雑談』(小野高尚)は、

蘓武の故事にあらず、雁行の列の正しきを、文書にたとへたるなり、其證、古詩に多し

との主張もある(大言海)。雁は、

候鳥(こうちよう)で、秋には南に渡り春には北に帰るところから、中国では遠隔の地の消息を伝える通信の使者と考えられ、雁信、雁書の説が生まれた、

とあり(世界大百科事典)、

雁行、

云々より、

渡り鳥、

の特徴から、逆に、

雁信、
雁書、

の伝説が生まれたというのが正確かもしれない。

なお、「」については、触れた。

「鴈」.gif



「雁」.gif


「鴈(鳫)」(漢音ガン、呉音ゲン)は、「雁股の矢」で触れたように、

会意兼形声。厂(ガン)は、厂型に形の整ったさまを描いた字。鴈は「鳥+人+音符厂」。厂型に整った列を組んで渡っていく鳥。礼儀正しいことから人が例物として用いたので、「人」を添えた。「雁」と同じ、

とあり(漢字源)、「雁」(漢音ガン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。厂(ガン)は、かぎ形、直角になったことをあらわす。雁は「隹(とり)+人+音符厂」。きちんと直角に並んで飛ぶ鳥で、規則正しいことから、人に会う時に礼物に用いられる鳥の意を表す、

とある(仝上・角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です(厂+人+隹)。「並び飛ぶ」象形と「横から見た人」の象形と「尾の短いずんぐりした(太っていて背が低い)小鳥」の象形から「かりが並び飛ぶ」事を意味し、そこから、「かり」を意味する「雁」という漢字が成り立ちました。(「横から見た人」の象形は、人が高級食材として贈る事から付けられました。現在、日本ではたくさん捕り過ぎて数が減った為、狩猟は禁止されています。)、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2779.html

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2024年08月25日

末(うれ)


笹の葉に降りつむ雪のうれを重み本(もと)くたちゆくわが盛りはも(古今和歌集)、

の、

うれ、

は、

茎や葉の先の方、

で、

本、

は、

うれ、

に対して、

茎、

をいう(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

うれ、

末、
若末、

と当て(岩波古語辞典)、

植物の生長する先端、

の意(仝上・精選版日本国語大辞典)で、

ぬれ、
うら、

とも訛る(仝上・大言海)が、

うれ、

は、

ウラ(裏・末)の転、

ともあり(岩波古語辞典)、

木の末、

は、

このうれ、

とも、

雪いと白う木のすゑに降りたり」(伊勢物語)

と、

このすえ、

とも訓ませる(仝上)。つまり、

こずえ(梢・木末)、

である。

うれ、

の由来は、

末枝(ウラエ)の約まりてウレとなり、ウレ、又他語に冠すれば、ウラガレ(末枯)・ウラバ(末葉)となる(大言海)、
ウラの交換形(時代別国語大辞典-上代編)、
ウヘ(上)の転(和訓栞)、

と諸説あるが、

うれ、

の古形が、

うら、

で、

「もと」の対、

で、

幹に対する先端、

ともある(岩波古語辞典)。この、

うら、

は、

上の原語ウに接尾語ラを添えたもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アナウラ(蹠 足裏)と同語(玄同放言)、

等々とあるが、

うへ、

は、

古形ウハの転。「下(した)」「裏(うら)」の対。最も古くは、表面の意。そこから、物の上方、髙い位置、貴人の意へと展開。また、すでに存在するものの表面に何かが加わる意から、累加・つながり・成行きなどの意などの意を示すようになった、

とある(岩波古語辞典)。「うえ」で触れたように、

「う」+接尾語「へ」

という説は、上代特殊仮名遣いからみて、

接尾語「へ」は、「fe」(甲類)、「うへ」の「へ」は「fë」(乙類)、

で、接尾語説は採りえない。となると、

上の原語ウに接尾語ラを添えたもの、

は成り立たず、

うわ→うら→うれ、

と見るほかないのかもしれない。なお、

上の方の枝、

の意で、

上つ枝、

とも当てる、

ほつえ(秀つ枝)、

については触れたし、

裏、
心、

と当てる、

うら

についても触れた。

「末」.gif

(「末」 https://kakijun.jp/page/0576200.htmlより)

「末」(漢音バツ、呉音マツ・マチ)は、「末摘花」で触れたように、

指事。木のこずえのはしを、一印または・印で示したもので、木の細く小さい部分のこと、

とある(漢字源)。別に、

指事。「木」の上端部分に印を加えたもの「すえ」「こずえ」を意味する漢語{末 /*maat/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%AB

指事文字です。「大地を覆う木」の象形に「横線」を加えて、「物の先端・すえ・末端」を意味する「末」という漢字が成り立ちました

ともhttps://okjiten.jp/kanji698.htmlある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2024年08月24日

みあれ


いにしへのあふひと人は咎むともなほそのかみのけふぞ忘れぬ(実方朝臣)、

の、詞書に、

はやう物申しける女に、枯れたる葵をみあれの日つかはしける、

とある、

葵、

は、

賀茂葵、

を指し、

みあれの日、

は、

賀茂祭(陰暦四月中の酉の日)の前に神招(お)ぎの神事が行われる中の午の日、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

賀茂神社、

は、

山城国の一宮、

の、

賀茂別雷神社(上賀茂社)と賀茂御祖神社(下賀茂社)、

の総称としていう(仝上)。賀茂祭については、「齋院」、「返さの日」で触れた。

みあれ、

は、

御生、
御阿礼、

と当て、一般には、

神または貴人が誕生・降臨する、

意だが、

御生、

は、

賀茂の御生(みあれ)、
御阿礼祭、

ともいい、

上賀茂神社で、葵祭の前三日、すなわち四月の中の午の日(現在は五月十二日)の夜に、行われる祭、

で、

阿礼と称する榊に神移しの神事をいとなむ、

とある(広辞苑)。

中の午の日、

とは、

中、

は、

2回目の申の日、

の意で、ひと月に午の日は2~3回あり、

1回目が「初」、2回目が「中」、3回目が「晩」、

とよぶhttps://www.city.minamisoma.lg.jp/portal/sections/61/6150/61503/study/1/nomaoi/25431.html

上賀茂御生祭.jpg

(上賀茂御生祭(都年中行事画帖) https://lapis.nichibun.ac.jp/gyouji/gyouji_52.htmlより)

この、旧暦4月の中の午の日に、賀茂別雷(かもわけいかずち 上賀茂)神社で行われる、

御阿礼神事(みあれしんじ)、

は、古来の、

御阿礼木に祭神別雷神を移す、

という(岩波古語辞典)、

神迎えの神事、

で、

神社の北西約880mの御生野(みあれの)という所に祭場を設け、ここで割幣をつけた榊に神を移す神事を行い、これを本社に迎える祭り、

であり、

祭場には、720cm四方を松、檜、賢木(さかき)などの常緑樹で囲んだ、特殊の神籬(ひもろぎ)を設け、その前には円錐形の立砂一対を盛る。この神籬前庭では修祓(しゆばつ)ののち奉幣行事を行い、葵桂を挿頭(かざし)にし、饗饌の儀(献の式)をして、手水をつかい、灯火を消し、矢刀禰(やとね 神職)5員がそれぞれ榊をもって立砂を3周し、神移しを行う。これを本社に捧持する。本社では、開扉して葵桂を献じ、祝詞を奏して閉扉する、

と、

神の出現・再現を感受しようとする神事、

であるが、賀茂御祖(かもみおや 下賀茂)神社では、

御蔭祭(みかげまつり)、

と称する神迎えの神事がある(世界大百科事典)。

御蔭祭(みかげまつり)、

は、

比叡山麓の御蔭神社から神霊を本社に移す神事、

で、

下賀茂神社で、葵祭の三日前、四月の午の日の昼(現在は五月十二日)に、神職・氏子などが神輿に供奉して摂社御蔭神社に参向し、神体を迎えて本社に還る祭儀、

で(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

下鴨神社境内の「糺(ただす)の森」で、神に捧げる舞楽「東游(あずまあそび)」を奉納、

するhttps://www.asahi.com/articles/ASR5D764QR5DPLZB005.html

上賀茂神社(賀茂別雷神社).jpg

(通称「上賀茂神社」(賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)・楼門)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BEより)

みあれ、

の、

ミは接頭語、アレは出現の意、祭神の出現・降誕の縁となる物、

の意から転じて、

奉幣、

の意とある(岩波古語辞典)。

御生、

と当てるのは、

祭神、別雷神(ワケイカヅチ)命の生(ア)れましし日の義なりと云ふ、

という説もあるが、

據る所なし、

とか(大言海)。

斎宮(齋院)、

の異称を、

阿礼少女(あれをとめ)、

という(大言海)が、

あれをとめ、

は、

あれつくをとめの中略、

で、

奉仕女、

の意とする(仝上)。

あれつく、

は、

在得附(ありえつ)くの約(かかりあふ、かからふ)、ありつくの意なるべし、

とあり、

居つく、住みつく、落ち着く、

の意とする(仝上)。

なお、

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、

は、京都市北区上賀茂本山にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。この地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2024年08月23日

泔坏(ゆするつき)


絶えぬるか影だに見えば問ふべきに形見の水は水草ゐにけり(右大将道綱母)、

の詞書に、

入道摂政久しくまうで来ざりける頃、鬢(びん)搔きて出で侍りける泔坏(ゆするつき)の水入れながら侍りけるを見て、

とある、

泔坏、

の、

泔、

は、

洗髪に用いた、強飯(こわいい)を蒸したあとの、粘った湯、

で、

泔坏、

は、それを入れる容器とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。なお、歌の、

形見の水、

は、具体的には、

泔杯の水、

を指し、

水草ゐにけり、

は、蜻蛉日記に、

出でし日使ひし泔坏の水はさながらありけり。上に塵ゐてあり、

とあり、

塵が浮き、かびの類が発生していたのか、

と注釈している(仝上)。なお、古歌に、

わが門の板井の清水里遠み人し汲まねば水草生ひにけり(古今集)、

とある(仝上)とある。

泔坏(類聚雑要抄).jpg

(泔坏(類聚雑要抄)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%94%E5%9D%8Fより)

泔坏、

は、色葉字類抄(1177~81)に、

泔器、ゆするつき、

とあるように、要するに、

鬢(びん)かき水を入れる、蓋つきの茶碗状の器、

をいい、

びんだらひ、

で(大言海)、古くは、

土器、

後に、

漆器・銀器、

を用い(広辞苑)、

蓋、臺あり、

とある(大言海)。

蓋付茶碗のような形、

で(岩波古語辞典)、

茶托状の台に載せ、さらに五葉の大きな台に載せる。平安時代以来もちいた(広辞苑)とある。

台、

は、

尻、

ともいわれ、周縁は2分高く、小文唐錦を敷き、5本の足があり、高さは7寸5分、金物を打ちつけ、5箇所で緒を総角(あげまき)に結び垂らし、足の下も環になっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%94%E5%9D%8F。上記に、

洗髪に用いた、強飯(こわいい)を蒸したあとの、粘った湯、

とあるのは、

髪を洗いくしけずるのに用いる水、

に、昔は、洗髪用に、

強飯を蒸した後の、粘り気のある湯がつかわれた、

とも(岩波古語辞典)、

米のとぎ汁を用いた、

とも(漢字源)あるためである。で、

頭髪を洗うこと、

を、

風に櫛(かしらけず)り雨に沐(ゆするたみ)する(欽明紀)、

と、

泔浴(ゆするあみ)、

という(広辞苑)。

泔坏(江戸時代).jpg


ゆする(泔)、

は、

よき男の日暮てゆするし……顔などつくろひて出る(徒然草)、

と、

頭髪を洗い、くしけずること、またその用水、

をいい(岩波古語辞典)、

びんみづ、

ともいう(大言海)が、字鏡(平安後期頃)に、

粕、由須留、

潘、湯、淅米汁也、以可沐頭、由須留、

とあるなど、

米を研いだときにでる白い汁、

とのつながりが深いことがわかり、

ゆする、

の由来も、

湯汁の轉か、強飯(こはいひ)を蒸し作れる後の湯、此粘ある湯を、泔汁(ゆするしる)と云ひて、泔坏に貯へ、櫛を浸して梳(けず)るなり(大言海)、
湯スルの義(和訓栞)、
米をゆすいだ汁であるところからか(日本語源=賀茂百樹)、

など、

湯、

と、

米汁、

とのかかわりを思わせる説が多い。

泔坏(ゆするつき)に入れる水は、

白水(しろみず)、

といい、

白水は、性、冷たいもので、これを櫛につけて髪をけづると、人の血気を下げる効用があるとされた、

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%94%E5%9D%8F)。

「泔」.gif


「泔」(カン)は、

会意兼形声。「水+音符甘(中に含む)」、

で、「米のとぎ汁」の意である。和語では、

ゆする、

と訓ませるが、

髪を洗いくしけずること、また、それに用いる水、

を指すが、昔は、

米のとぎ汁を用いた、

とある(漢字源)。

「坏」.gif


「坏」(①漢音ハイ・呉音ヘ、②漢音ヒ、呉音ビ)は、

会意兼形声。不は、ふくれたつぼみ(菩・芣)を描いた象形文字。坏は「土+音符不」で、ふくれた盛り土やふくれた土器のこと。否・咅が不の異字体だから、坏・培はほとんど同義に用いる、

とある(漢字源)。「高坏」「さかづき」などのふっくらと腹を太めに焼いた土器、「一杯」は「両手いっぱいにふっくらと盛った量」をいい、この意味の音が①、②は、盛り土(培(ホウ)・邳(ヒ))の意の場合の音、とある(漢字源)。

なお、「さかづき」に当てる漢字については「勸酒」で触れた。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2024年08月22日

水脈(みお)


天の川雲の水脈(みを)にて早ければ光とどめず月ぞ流るる(古今和歌集)、

の、

水脈、

は、

水の流れる道筋、天の川を雲でできた川とみる。天の川を「川」という名前に引っ掛けて、水の流れに見立てる、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

澪標(みをつくし)」で触れたように、

みを、

は、

澪、
水脈、
水尾、

と当て、

三輪山の山下(やました)響(とよ)みゆく水の水尾(みを)し絶えずは後(のち)も吾が妻(万葉集)、

と、

海や川の中で、水の流れる筋、

をいうが、特に、

堀江よりみを(水脈)さかのぼる楫(かぢ)の音の間なくぞ奈良は恋しかりける(万葉集)、

と、

船の航行できる深い水路、

をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

みを、

は、訛って、

みよ、

ともいい、その由来は、

ミ(水)ヲ(緒)の意(広辞苑・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、
水緒(ミヲ)にて、流れの筋の意か、或は云ふ水尾の義、尾は引き延べたるを云ふ、山の尾の如し、澪は、水零の合字(大言海)、
ミズヲ(水尾)の義(名語記・名言通・国語の語根とその分類=大島正健)、

と、

水路、

の意味のようである。そこから敷衍して、現代では、

航行する船が背後にのこす長い帯のような航跡(ミオ)を辿るように(死霊)、

と、

航路あとに出来る水の筋、
航跡、

の意でも使う(広辞苑)。

「脈」.gif


「脈」(漢音バク、呉音ミャク)は、

会意兼形声。𠂢は、水流の細く分かれてつうじるさま。脈はそれを音符とし、肉を加えた字で、細く分かれて通じる血管、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です。「切った肉」の象形と「水流が分かれている」象形(「体内を流れる血筋」の意味)から「ミャク」を意味する「脈」という漢字が成り立ちました、

https://okjiten.jp/kanji278.html同趣旨だが、

形声。血または肉と、音符𠂢(ハイ)→(バク)とから成る。体内を流れる血筋、ひいて「みゃく」の意を表す、

と(角川新字源)、形声文字とする説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年08月21日

わくらばに


大井川ゐせきの水のわくらばに今日は頼めしくれにやはあらぬ(新古今和歌集)、

の、

いせき、

は、

井堰、

と当て、

川の流れをせき止める所、

で、

くれにやはあらぬ、

の、

くれ、

は、

「暮れ」と「榑」(皮付きの材木。「大井川」の縁語)の掛詞。「やは」は反語の係助詞、

とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

わくらばに、

は、

たまたま、

で、

「水の湧く」からつづけていう、

とある(仝上)。

わくらばに、

は、

邂逅に、

と当て、後世、

わくらは、

ともいい(デジタル大辞泉)、

人となることは難きをわくらばになれる我(あ)が身は(万葉集)、

と、

たまさかに、
たまたま、
偶然、

の意とある(広辞苑)。

有美一人、清揚婉兮、邂逅相遇、適我願兮(鄭風)

と、

邂逅(カイコウ)、

は、漢語であり(字源)、

思いがけなくめぐり合う、
期せずして出会う、

意で、

邂后、

とも当てる(漢辞海)。和語では、万葉集序文に、

今以邂逅相遇貴客、

とあるが、霊異記に、

太万左加爾、

とあり、類聚名義抄(11~12世紀)に、

邂逅、タマサカ、

とあるなど、

たまさか(に)、

と訓まれていたらしい(精選版日本国語大辞典)。その流れで、

わくらば、

に、

邂逅、

と当てたと思われるが、

わくらば、

は、

別くる計(ばかり)、人多き中を云ふ、

とある(大言海)ように、

動詞ワク(別)に接尾語ラ・マがついてできた語(角川古語大辞典)、
分クル・マ(間・所・時)からの転音か(小学館古語大辞典)、
ワクはワカレ(別)の転、ハはヒサ(久)の反(名語記)、
ワカルルマヒサ(別間久)の約(和訓栞)、
ワキウルアフサ(別得逢)の約(国語本義)、

等々と、

別れ、

と関係づける説が多いが、ふつう、

わくらば、

というと、

病気に侵された葉、また、色づきすがれ(末枯れ)た葉、

の意の、

病葉、

と当てる言葉を思いつくが、その、

病葉、

の由来が、

別(わく)る葉の義、

とする説(大言海)があり、

常盤木の中に、たまたま変葉あるを云い、それよりたまたまあることに移して用いたり、

と、

病葉→邂逅、

と転用したとする説(仝上・本朝辞源=宇田甘冥)は、「別れ」から付会する説に比べて自然に思え、意外とあり得る気がするのだが。

「邂」.gif


「邂」(漢音カイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。「辵+音符解(とける)」、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%82%82)。

「逅」.gif



「遘」 金文・殷.png

(「遘」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%98より)

「逅」(漢音コウ、呉音グ)は、

形声。「辵+音符后」、

とあるが(漢字源)、

異字体は、

遘󠄁

とあり、

邂逅、

は、

邂遘󠄁、

とも表記し(漢字源)、

形声。「辵」+音符「冓 /*KO/」。「出会う」を意味する漢語{遘 /*k(r)oos/}を表す字。もと「冓」が{遘}を表す字であったが、「辵」を加えた、

としているhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%98

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2024年08月20日

方違へ


蝉の羽の夜の衣は薄けれど移り香濃くもにほひぬるかな(古今和歌集)、

の詞書(ことばがき)

に、

方違へに人の家にまかれりける時に、主の衣を着せたりけるを、あしたに返すとてよみける、

の、

方違(かたたが)へ、

は、

陰陽道による方角の禁忌、

で、

外出時に、天一神(なかがみ)の巡行の方角とぶつからないよう、人の家に泊まり方角を変えてから出かけること、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

方違へ、

のために宿泊する家を、

忍び忍びの御方違所はあまたありぬべけれども、久しくほど経て渡りたまへるに(源氏物語)

と、

方違所(かたたがへどころ)、

という(岩波古語辞典)。なお、中世には、

前日にその方向へ仮に出発してすぐ戻り、当日その方向へ再出発するという説も行われた、

とある(仝上)。

天一神(なかがみ)、

は、

中神、

とも当て、

ながかみ、

とも訓ませ、

天一、

ともいい、

陰陽道(おんみょうどう・おんようどう・いんようどう)で、八方を運行し、吉凶禍福をつかさどるとされる方角神の一つ、

とされ(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、また、

暦神の名、
十二神将の主将、
地星の霊、

ともいい(広辞苑)、

己酉(つちのととり)の日に天から下り、東西南北の四方にそれぞれ五日、北東、南東、南西、北西の四方にそれぞれ六日ずつ滞在する。計44日、癸巳(みずのとみ)の日に正北から天に上り、天上にいること16日、己酉の日に再び地上に下る、

という(仝上・デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。この神が天に在る間を、

天一天上、

といい、

下って地上にいる方角を、

ふたがり、

といい、

その通路に当たる者には祟りをする、

といわれ、この方角に向かって事をすることを忌み、その日他出するときは、方違えをすることになる(仝上)。こ
の信仰は平安時代に最も流行したという。なお、

方違へ、

の、

方忌(かたいみ)、

の根拠には、

生年の干支である本命から個人的に凶方を割り出し、これを避けるもの、

と、

天一神(なかがみ)、太白神、金神、王相、八将神、土公神などの諸神が遊行する方角や鬼門を忌む人々に共通のもの、

とがある。前者は貞観七年(865)8月21日に、

清和天皇が東宮より内裏に移ろうとしたとき、天皇の本命が庚午で、東宮より内裏の方向である乾は絶命に当たるゆえ避けらるべきことを陰陽寮が上奏し、このためいったん太政官曹司庁に入っている、

のが初例とされている(世界大百科事典)。しかしその後は、後者の遊行神の方忌による方が普通となったようで、天一神忌は860年ころにはじまっている(仝上)。

なお、天一神の遊行の詳細については、「天一天上と塞がり」(https://koyomi8.com/doc/mlwa/201112190.htmlに詳しい。

「方」.gif

(「方」 https://kakijun.jp/page/0458200.htmlより)

「方」(ホウ)は、「方人」で触れたように、

象形、左右に柄の張り出た鋤を描いたもので、⇆のように左右に直線状に伸びる意を含み、東←→西、南←→北のような方向の意となる。また、方向や筋道のことから、方法の意が生じた、

とある(漢字源)が、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)は、

舟をつなぐ様、

とし、

死体をつるした様、

とする説(白川静)もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%B9。ために、

象形。二艘(そう)の舟の舳先(へさき 舟の先の部分)をつないだ形にかたどる。借りて、「ならべる」「かた」「くらべる」などの意に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「両方に突き出た柄のある農具:すきの象形」で人と並んで耕す事から「ならぶ」、「かたわら」を意味する「方」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji379.html

ともある。

「違」.gif

(「違」 https://kakijun.jp/page/1338200.htmlより)

「違」(イ)は、

会意兼形声。韋は、物を表す口印を中心にして、左右の足が逆向きにあるさまを示す会意文字。違は「辶+音符韋」で、←→型に行き違いになること、

とあり(漢字源)、また、

会意兼形声文字です(辶(辵)+韋)。「立ち止まる足・十字路の象形」(「行く」の意味)と「ステップの方向が違う足の象形と場所を示す文字」(別方向に歩むさまから、「そむく」の意味)から、「そむき離れる」、「ちがう」を意味する「違」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1133.html

会意形声。辵と、韋(ヰ)(くいちがう)とから成る(角川新字源)、

ともあるが、

形声。「辵」+音符「韋 /*WƏJ/」。「たがう」「さからう」を意味する漢語{違 /*wəj/}を表す字、

(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%81%95、形声文字とする説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年08月19日

門(と)


わが上に露ぞ置くなる天の川門(と)渡る舟の櫂(かい)のしづくか(古今和歌集)、

の、

と、

は、

川や海が陸地に狭められて細くなっている所、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

と、

は、

戸、
門、

と当て、

ノミト(喉)・セト(瀬戸)・ミナト(港)のトに同じ、両側から迫っている狭い通路、また入口を狭くし、ふさいで内と外を隔てるもの、

とある(岩波古語辞典)。

己(おの)が命(を)を盗み死せむと後(しり)つ斗(ト)よい行き違(たが)ひ前つ斗(ト)よい行き違ひ(古事記)、

と、

出入り口、

の意で、

由良の斗(ト)の斗(ト)中の海石(いくり)に振れ立つ漬(なづ)の木のさやさや(古事記)、

と、

水の出入り口、

の意で(岩波古語辞典・広辞苑)、多く、

門、

を当て(精選版日本国語大辞典)、

河口や海などの、両岸が狭くなっている所、水流が出入りする所、

をいい、

瀬戸、
川門(かわと)、
水門(みと)、

という言い方もする。さらに、具体的に、

門(かど)立てて戸は閉(さ)したれど盗人の穿(ほ)れる穴より入りて見えけむ(万葉集)

と、

出入り口、窓に取りつけて開閉できるようにしたもの、

つまり、

扉、
戸、

の意でも使う。その語源は、

トムル(止)の義(国語本義)、
トヅル(閉)の義(箋注和名抄・日本語源=賀茂百樹)、
トホル(通)の義(日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
トホリグチ(通口)の下略(日本語原学=林甕臣)、
戸を建てれば殿となるところから、トノ(殿)の反(名語記)、

等々あるが、どうも、

通る道、

の意と、

閉ざす、

とに分かれている気がする。上述の、

両側から迫っている狭い通路、

また、

入口を狭くし、ふさいで内と外を隔てるもの、

とある(岩波古語辞典)のも、その意味でとらえると、漢字に当てるまでは、いずれも、

ト、

で、文字を持たず、状況依存型の言語である限り、しゃべっている当人(同士)には、何れのことを言っているのかがわかっていたはずである。その意味で、大言海が、

戸、

と当てる

ト、

と、

門、

と当てる、

ト、

を、別項に改めているのは見識なのではないか。

前者は、更に二つに分け、

處の義と云ふ、

として、

家の出入り口、

の意とし、和名類聚抄(931~38年)の、

戸、度、

を引き、いまひつ、

戸、

と当てる、

ト、

は、

止むる、又閉づる義、(日本)釈名「戸、所以謹護閉塞也、左伝、官公十二年、注「戸、止也」、

とし、

門、出入口、窓等に閉(た)て塞ぐもの、

の意とし、和名類聚抄の、

在城郭曰門、在屋堂曰戸、

を引く。

後者は、

自那良遇跛盲、自大坂戸、亦遇跛盲(古事記)、

と、

門(かど)、
出入りの口、

の意や、

由良の門(と)をわたる舟人楫をたえ行へも知らぬ恋の道かな(新古今和歌集)、

と、

海に出入りする戸口、
また、
水流の出入する處、

とし、

瀬戸、
水門(みと)、
水門(みなと)、
川門(かわと)、

の意で使うとする。

「戸」.gif

(「戸」 https://kakijun.jp/page/0452200.htmlより)

「戸」 甲骨文字・殷.png

(「戸」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%B8より)

「戸」(漢音コ、呉音グ・ゴ)は、

象形。門は二枚扉の門を描いた象形文字。戸は、その左半分をとり、一枚扉の入口を描いたもので、かってに出入りしないようにふせぐ扉、

とある(漢字源)。

象形。門の片一方のとびらの形にかたどり、「と」、ひいて、戸口・小屋の意を表す(角川新字源)、

ともある。

「門」.gif

(「門」 https://kakijun.jp/page/mon200.htmlより)


「門」 甲骨文字・殷.png

(「門」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%96%80より)

「門」(漢音ボン、呉音モン)は、「押立門」で触れたように、

象形。左右二枚の扉を設けたもんの姿を描いたもので、やっと出入りできる程度に、狭く閉じている意を含む、

とある(漢字源)が、別に、

会意。回転して開閉する二つの戸(=戶。とびら)が向かい合って立っているさまにより、出入り口の意を表す、

ともある(角川新字源)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年08月18日

鴫(しぎ)の羽掻(はがき)


心からしばしとつつむものからに鴫 の羽搔きつらき今朝かな(赤染衛門)

の、

鴫の羽搔き、

は、

鴫が羽ばたく音、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)が、

鴫の羽掻、

は、

鴫がしばしば嘴で羽をしごくこと、

ともあり(広辞苑)、

物事の回数の多いことのたとえ、

として使われる(仝上)とある。

鴫の羽掻、

には、

鴫が羽虫をとろうとして、くちばしでしきりに羽をしごくこと、

の意と共に、別説に、

鴫が羽ばたくこと、

とあり(岩波古語辞典)、

回数の多いことのたとえ、

として使われる。たとえば、

暁の鴫の羽搔き百羽搔(ももはが)き君が来ぬ夜はわれぞ数かく(古今和歌集)、

と、夫大江匡衡に対し、赤染衛門の返歌は、

百羽搔きかくなる鴫の手もたゆくいかなる数をかかむとすらむ(仝上)、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)のをみると、

回数の多さ、

というなら、どうも、

羽を幾たびも嘴でかくこと、

という(広辞苑)よりも、

羽ばたき、

ではないか、という気がしないでもないのだが、

女の閨怨の譬え、

に多く用いるとある(精選版 日本国語大辞典)。となると、

鴫の羽掻(はがき)、

は、

鴫がしばしば嘴で羽をしごくこと、

なのかもしれない。語源から見ると、

繁(シゲ)の転、羽音の繁き意と云ふ(大言海)、
シゲ、羽音が繁々し(回数が多い)(日本語源広辞典)、

と、羽ばたきを採る説のほか、

羽をシゴクところから、シゴキの転か(名言通)、
ハシナガキ(嘴長)の義(和句解)、
サビシキの略(滑稽雑誌所引和訓義解)、

と、しごく説を採る。ただ語感からいうと、

しごく→しごき→しぎ、

と、

羽のしごきの多さからきているとも見え、一応、

しごく、

説に加担しておく。

しぎ」で触れたように、

「しぎ」は、

鴫、
鷸、

と当てる。

「鴫」.gif


「鴫」は、国字で、

会意文字。「田+鳥」

と(漢字源)、

田にいる鳥の意を表した字、

である(角川新字源)。

「鷸」.gif

(「鷸」 https://kakijun.jp/page/EA5A200.htmlより)

「鷸」(漢音イツ、呉音イチ)は、

会意兼形声。「鳥+音符矞(イツ はやく走る、すばやく避ける)」。鷸はそれを音符とし、鳥を加えた、

とある(漢字源)。「しぎ」の意だが、「カワセミ」の意も持つ(仝上)。

しぎ」で触れたことだが、

鷸蚌(いつぼう)之争、

という諺がある。鷸(しぎ)と蚌(はまぐり)が、くちばしと貝殻を互いに挟みあって争っているうちに、両方共漁師につかまった、という喩えである。戦国策に、

「趙且伐燕、蘇代為燕、謂恵王曰今日臣来過易水、蚌方出暴、而鷸喙其肉、蚌合而箝喙、鷸曰、今日不雨、明日不雨、即有死蚌、蚌亦謂鷸曰、今日不出、明日不出、即有死鷸、両者不肯相捨、漁者得而幷擒之、今趙且伐燕、燕趙久相支以敝大衆、臣恐強秦之為漁父也、恵王曰、善、乃止」

とある。漁夫の利である。

鷸蚌之弊(ついえ)、

ともいう。「しぎ」に関しては、

鴫の羽搔(はがき)、

のほかに、鴫が田や沢に立っているのを形容して、

鴫がじっと立っている姿を経を読んでいる様(さま)に見立てた、

鴫の看経(かんきん)、

は、

ひっそりと淋しいさまのたとえ、

で、一茶に、

立鴫とさし向かいたる仏哉、

という句があるらしいhttps://manyuraku.exblog.jp/10705489/。また、

鴫の羽返(はがえし)、

というと、

舞の手、さらに剣術・相撲の手、

のに使われている(広辞苑)。

タシギ.JPG


「しぎ」は、シギはシギ科に属する鳥の総称で我国では50種類以上もみられるそうだが、代表的には、イソシギ・タマシギ・アオアシシギ・アカアシシギ・ヤマシギなど、日本には旅鳥として渡来し、ふつう河原・海岸の干潟(ひがた)や河口に群棲する。古事記で、

宇陀の高城に鴫罠(しぎわな)張(は)る我が待つや鴫(しぎ)は障(さや)らずいすくはしくじら障(さや)る、

と歌われるほど馴染みの鳥で、食用にした。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2024年08月17日

倭文機(しづはた)


蘆の屋のしづはた帯のかた結び心やすくもうちとくるかな(新古今和歌集)、

の、

しづはた帯、

は、奈良時代は、

しつはた、

で、

倭文(しつ 古くからの日本の織物)で織った帯、

の意(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

古(いにしへ)の倭文機帯を結び垂れ誰といふ人も君にはまさじ(万葉集)、

という歌があり、ここではこの語にそのような帯をしている賤の女のイメージを付加するか、

と注釈する(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

しづはた、

は、

倭文機、

と当て、

倭文を織る機、

の意と共に、

それで織った倭文、

の意もある(広辞苑)。また、

しつはたに乱れてぞ思ふ恋しさをたてぬきにして織れる我が身か(貫之集)、

と、

倭文機に、

で、倭文には、

乱れ模様が織り込まれているところから、

倭文の模様のように心などが乱れるさま、

のメタファとして、

「乱る」にかかり、

また、

倭文機に織る意で、

「綜(ふ)」と同音の「経(ふ)」にかかる(精選版日本国語大辞典)。

倭文(しづ)、

は、「倭文の苧環」で触れたように、

日本古来の織物の一つで、模様を織り出したもの、

で(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。奈良時代は、

ちはやぶる神のやしろに照る鏡しつに取り添へ乞ひ禱(の)みて我(あ)が待つ時に娘子(おとめ)らが夢(いめ)に告(つ)ぐらく(万葉集)、

と、

しつ、

と清音で、後にも、新古今和歌集でも、

それながら昔にもあらぬ秋風にいとどながめをしつのをだまき、

と、

しつ、

と、

詠われる。

倭文、

は、

古代の織物の一つ、

で、

穀(かじ)・麻などの緯(よこいと)を青・赤などで染め、乱れ模様に織ったもの(広辞苑)、
梶木(かじのき)、麻などの緯(よこいと)を青、赤などに染め、乱れ模様に織ったもの(精選版日本国語大辞典)、
栲(たへ)、麻、苧(からむし)等、其緯(ヌキ 横糸)を、青、赤などに染めて、乱れたるやうの文(あや)に織りなすものといふ(大言海)、
カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物(デジタル大辞泉)、

等々とあり、多少の差はあるが、

上代、唐から輸入された織物ではなく、それ以前に行われていた織物、

を指している(岩波古語辞典)。で、

異国の文様、

に対する意で、

倭文、

の字を当てた(デジタル大辞泉)といい、

あやぬの(文布・綾布)、
しづはた(機)、
しづり(しつり)、
しづの、
しづぬの、
しとり(しどり)、
しづおり、

等々とも言う。

しづり(しずり)、

は、古くは、

しつり、

で、

しづおり(倭文織)、

の変化した語、

しどり、

は、古くは、

しとり、

で、やはり、

しつおり(倭文織)、

の変化した語、いずれも、

倭文、

と当てる。

しつぬの(倭文布)、

は、

しづぬの(倭文布)、

ともいい、

しづり、

ともいう(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・広辞苑)。

倭文、

は、

中国大陸から錦(にしき)の技法が導入されるまで、広く使われたわが国の在来織物で、『万葉集』『日本書紀』などによると、

帯、
手環(たまき 現在のブレスレット)、
鞍覆(くらおおい)、

等々、装飾的な部分に使われている(日本大百科全書)とあり、生産は物部(もののべ)氏のもとにある倭文部(しずりべ)であり、各地の倭文神社はその分布を伝える。『延喜主計式(えんぎしゅけいしき)』によると、

その生産地は駿河(するが)国と常陸(ひたち)国で、合計してわずか62端(長さ4丈2尺、幅2尺4寸、天平(てんぴょう)尺による)しか献納されておらず、用途は自然神(風・火など)の奉献物に使われている、

と(仝上)、特殊な用途になっていることがわかる。

しず、

の由来は、

沈むの語根、沈(しず)の義なりと云ふ、或は云ふ、線(すぢ)の転なりと(大言海)、
縞織の義か(筆の御霊)、
おもしの意のシズムル(鎮)の略(類聚名物考)、
糸をしずめて文様を織り出すところからシヅミ(沈)の略(名言通)、

等々あるが、織りとの関係でいうと、

しず(沈)、
か、
すじ(線)、

かと思うが、当初、

しつ、

だということを考えると、ちょっといずれも妥当とは思えない。

「倭」.gif

(「倭」 https://kakijun.jp/page/1016200.htmlより)

「倭」(①漢音呉音ワ、②漢音呉音イ)は、

会意兼形声。禾(カ)は、しなやかに穂をたれた低い粟の姿。委(イ)は、それに女を添え女性のなよなよした姿を示す。倭は「人+音符委」で、しなやかで丈が低く背の曲がった小人を表す、

とあり(漢字源)、また、

会意兼形声文字です(人+委)。「横から見た人」の象形(「人」の意味)と「穂先の垂れた稲の象形と両手をしなやかに重ねひざまずく女性の象形」(「なよやかな女性」の意味)から「従うさま」、「従順なさま」、「慎むさま」を意味する「倭」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2222.htmlが、

形声。「人」+音符「委 /*ɁOJ/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%80%AD

形声。人と、音符委(ヰ)とから成る。従順なさまの意を表す(角川新字源)、

は、形声文字とする。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2024年08月16日

たむけ草


逢ふことをけふ松が枝のたむけ草幾夜しをるる袖とかは知る(新古今和歌集)、

の、

たむけ草、

は、

幣帛、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

たむけ草、

は、

手向草、

とあて、

たむけぐさ、
たむけくさ、

と訓ませ、

くさ、

は、

種、料、

で(精選版日本国語大辞典)、

手向けにする品物、

の意だが、

旅人が行路の安全を祈るために神に供える、布・糸・木綿など、

をいう(広辞苑)とあるので、

ぬさ

で触れた、

竜田姫たむくる神のあればこそ秋の木の葉のぬさと散るらめ(古今和歌集)、
秋の山紅葉をぬさとたむくれば住むわれさへぞ旅心地する(仝上)、
神奈備の山を過ぎゆく秋なれば竜田川にぞぬさはたむくる(仝上)、

の、

幣、

と当てる、

ぬさ、

のことで、

布や帛を細かく切ったもので、旅人は、道の神の前でこれを撒くもの、

である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

手向け、

は、下二段の動詞、

たむく(手向)、

の名詞だが、

手向く、

自体が、

来栖の小野の萩の花散らむ時にし行きてたむけむ(万葉集)、

と、

神仏や死者の霊に物を捧げる、

意があり、それが転じて、

と、

道中の安全を祈って峠の神に幣(ぬさ)をなどを供える、
旅立つ人に幣などを贈る、

意となり、

老いぬともまたも逢はんとゆく年に涙の玉をたむけつるかな(新古今和歌集)、

と、

旅立つひとにはなむけする、

意として使われるに至る。だから、その名詞、

手向け、

も、

ももたらず八十隈坂に手向(たむけ)せば過ぎにし人にけだし逢はむかも(万葉集)、

と、

神仏に幣(ぬさ)など供え物をすること、また、その供え物、

の意で、多く、旅人などが道の神に対して供える場合にいい(精選版日本国語大辞典)、

畏(かしこ)みと告らずありしをみ越路の多武気(タムケ)に立ちて妹が名告りつ(万葉集)、

と、

道の神に旅中の安全を祈るところ。特に、越えて行く山路の登りつめたところ、

の意で、だから、

峠(とうげ)、

は、手向け(たむけ)の転、

である。さらに、シフトして、

あだ人のたむけにをれる桜花逢ふ坂まではちらずもあらなむ(後撰和歌集)、

と、

旅立つ人へのはなむけ、餞別、

の意で使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。

たむけぐさ、

の意となる、

ぬさ

は、

麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つもの、

の意で、

みてぐら、
にぎて、

ともいい、共に、

幣、

とも当てる。

ぬさ

は、

祈總(ねぎふさ)の約略なれと云ふ、總は麻なり、或は云ふ、抜麻(ぬきそ)の略轉かと(大言海)、

とあり、「ねぎふさ」に、

祈總(ねぎふさ)を当てるもの(国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、

抜麻(ねぎふさ)を当てるもの(雅言考)、

があり、「抜麻」を、

抜麻(ねぎあさ)と訓ませるもの(日本語源広辞典・河海抄・槻の落葉信濃漫録・名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、

があり、その他、

ヌはなよらかに垂れる物の意。サはソ(麻)に通じる(神遊考)、
抜き出してささげる物の義(本朝辞源=宇田甘冥)、
ユウアサ(結麻)の略(関秘録)、

等々、その由来から、「ぬさ」が、元々、

神に祈る時に捧げる供え物、

の意であり、また、

祓(ハラエ)の料とするもの、

の意で、古くは、

麻・木綿(ユウ)などを用い、のちには織った布や帛(はく)も用い、或は紙に代えても用いた、

とあり(大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉他)、

旅に出る時は、種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、

とある(精選版日本国語大辞典)。後世、

紙を切って棒につけたものを用いるようになる、

とある(仝上)。ただ、

神に捧げる供物、

をいう、

ぬさ、

と、本来は、供物の意味をもたない、

しで(四手)、
みてぐら、

との混同が起こったと考えられている(精選版日本国語大辞典)。ただし、

ぬさ、

は、普通、

旅の途上で神に捧げる供物、

をいうのに対して、

みてぐら、

は必ずしも旅に関係しないという傾向が見られる(仝上)。

神に祈る時にささげる供え物、

である、

ぬさ、

は、

麻・木綿(ゆう)・紙、

等々で作り、後には、

織った布や帛(はく)、

も用いたが、旅に出る時は、

種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、

とある(仝上)。このため、

みちの国の守平のこれみつの朝臣のくだるに、ぬさのすはまの鶴のはねにかける(貫之集)、

と、「ぬさ」は、

旅立ちの時のおくりもの、
餞別、
はなむけ、

の意ともなる(仝上)。

手向の神(たむけのかみ)、

は、

礪波(となみ)山多牟気能可味(タムケノカミ)に幣(ぬさ)奉り吾が乞ひ祈(の)まく(万葉集)、

と、

旅人が幣(ぬさ)などを手向けて道中の安全を祈る神、

をいい、

山の峠や坂の上などにまつってある神、
道祖神、
たむけの道の神、
たむけの山の神、
たむけ、

を言う(精選版日本国語大辞典)が、

ぬさ」で触れたように、

道の神、

つまり、

道祖神、

のことで、

さえの神、

とも、訛って、

道陸神(どうろくじん)、

ともいい、

世のいはゆる道陸神(どうろくじん)と申すは、道祖神とも又は祖神とも云へり。(中略)和歌にはちぶりの神などよめり(百物語評判)、

と、

ちぶりの神、

ともいう、

旅の安全を守る神、

であり、

行く今日も帰らぬ時も玉鉾のちぶりの神を祈れとぞ思ふ(鎌倉時代の歌学書『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』)、

とある。

「手」.gif

(「手」 https://kakijun.jp/page/0453200.htmlより)

「手」 金文・西周.png

(「手」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%8B

「手」(漢音シュウ、呉音ス・シュ)は、

象形。五本の指のある手首を描いたもの、

とある(漢字源)。ただ、

象形。五本指のある手を象る。「て」を意味する漢語{手/*hluʔ/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%89%8B)

象形。手のひらを開いた形にかたどり、「て」、また、手に取る意を表す(角川新字源)、

象形文字です。「5本の指のある手」の象形からhttps://okjiten.jp/kanji2862.html

と微妙な差がある気がする。

「向」.gif

(「向」 https://kakijun.jp/page/0647200.htmlより)

背向(そがい)」で触れたように、「向」(漢音コウ、呉音キョウ)は、

会意。「宀(屋根)+口(あな)」で、家屋の北壁にあけた通気口を示す。通風窓から空気が出ていくように、気体や物がある方向に進行すること、

とある(漢字源)。別に、

会意。「宀」(屋根)+「口」(窓 又は 窓に供えた神器)、

ともありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%90%91、さらに、

象形文字です。「家の北側に付いている窓」の象形から「たかまど」を意味する「向」という漢字が成り立ちました。「卿(キョウ)」に通じ、「むく」という意味も表すようになりました、

との解釈もあるhttps://okjiten.jp/kanji487.html

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

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