2019年10月06日

なう


「あきなふ(う)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470686640.html?1570218138で触れたように、「あきなう」の「なう」は、

接尾語、

とみられる(広辞苑)。これは、

おこなう、
あがなう、
になう、
ともなう、
つぐなう、
いざなう、
おぎなう、
そこなう、
うべなう、
うらなう、

等々でも使われる。

「名詞を承けて四段活用の動詞を作る」

とあり、

「綯うと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする意に転じたものであろう」

ともある(岩波古語辞典)。「綯う」は、

縄と同根、

とある(仝上)。「綯う」は、

数多くの線を交へ合はせゆく、
左右相交ふ、
あざなふ、
撚る、

意である(大言海)つまり、

撚り合わせる、

意である。その意味から見ると、

縄と同根、

がわかりやすいが、

あわせる意のナラフ(効)の義(名言通)、
ナフ(永延)の義(言元梯)、
ナヨラカによる意から(国語の語根とその分類=大島正健)、

等々の他説は、「なう」の同義語から探ろうとしている。やはり、「縄」が妥当に思える。「縄」は、

朝鮮語noと同源、

とする説(岩波古語辞典)もあるが、

綯藁(なひわら)の略ならむ。直(なほ)に通ず、

とある(大言海)。これが自然に思える。

「綯う」は、いずれにしても、限定された、

撚り合わせる、

意であったものが、

手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする、

意に転じたとすると、合成語の成り立ちを見て、その意の転化が見えてくるだろうか。たとえば、

おこなう(行う)、

は、大言海は、

「興行(おこな)ふの義にて(贖なふ、罪なふ)、事を起こしゆく意」

としているが、同趣ながら、

「オコはオコタリ(怠)のオコと同根。儀式や勤行など、同じ形式や調子で進行する行為」

の方が、「なう」が生きる。日本語源広辞典は、

「オコ(起動)+ナフ(継続)」

とするが、ちょっと説明不足な気がする。「怠る」の「オコ」については、

「オコナヒ(行)のオコと同根。儀式や勤行など同じ形式や調子で進行する行為。タルは垂る、中途で低下する意。オコタルは、同じ調子で進む、その調子が落ちる意」

とある(岩波古語辞典)。

「あがなう(贖う)」の「あが」は、

贖(あが)ふの語根、

である(大言海)。ただ、奈良・平安時代はアカヒと清音であったらしい(岩波古語辞典)。「あがなう」は、

贖う、

と当てる、「罪の償いをする」意と、

購う、

と当てる、「何かの代償として別のあるものを手に入れる」「買う」意とは、同じである。代償として何を出すかの差のようである。

「になう」(担う)、

は、

「ニは荷。ナヒはむ動作を表す接尾語」

とあり(岩波古語辞典)、大言海の、

荷を活用す、

も同じである。

ともなう(伴う)、

は、

「トモは伴・友」

であり、「主と従とが友のように同行する」、つまり、

同伴、

の意である(岩波古語辞典)が、

「トモ(共)+ナフ(行動する)」

の方(日本語源広辞典)が妥当ではないか。

つぐなう(償う)、

は、「つぐのふ」で、室町時代まで「つくのふ」と清音。「受けた恩恵、与えた損害、犯した罪や咎などに対して、代償に値する事物・行為なとで補い報いる」(岩波古語辞典)意、っまり、

埋め合わせる、

意だが、多少解釈が異なり、

賭(ツク)のものを出す義(大言海)、
ツクはツキ(調)の古形。ノヒは…ナフ母音交代形(岩波古語辞典)、
継ぐ+ナヒ(行動)。「欠けたものを継ぐ行為」(日本語源広辞典)
ツク(給)ノフ(日本語源=賀茂百樹)、

等々あるが、埋め合わせの解釈の差である。

いざなう(誘う)、

は、誘う、勧める、勧めて連れ出すといった意だが、

率(いざ)を活用せしむ(珍(ウヅ)なふ、宜(うべ)なふ)。イザと云ひて引き立つるなり」

とある(大言海)。「いざ」は、

率、
去来、

とあて、

「イは発語、サは誘うの聲の、ササ(さあさあ)ノ、サなり。イザイザと重ねても云ふ(伊弥(イヤ)、イヤ、伊莫(イナ)、否(イナ))発語を冠するに因りて濁る。伊弉諾尊、誘ふのイザ、是なり。率(そつ)の字は、ヒキイルにて、誘引する意。開花天皇の春の日、率川宮も、古事記には伊邪川(イザカハの)宮とあり、去来の字を記す」

のは、「かへんなむいざ(帰去来)」に由来するらしい。「かへんなむいざ」は、

「帰去来と云ふ熟語の訓点なれば、イザが、語の下にあるなり。史記、帰去来辞など夙(はや)くより教科書なれば、此訓語、普遍なりしと見えて、古くより上略して、去来の二字を、イザに充て用ゐられたり」

とある(大言海)。つまり、

イザ(さあ)+ナフ、

であり、

「積極的に相手に働きかけ、自分の目指す方向へと伴う意。類義語サソフは、相手が自然にその気持ちになるように仕向ける意」

とある(岩波古語辞典)。

おぎなう(補う)、

は、「おぎぬふ」の転。「おぎぬふ」は、

「平安時代はオキヌフと清音。アクセントを考えると、オキは置くで布を破れ目の上に置く意。ヌフは縫フ意。室町時代オギヌフと濁音化。またオギノフ、オギナフの形も現れた」

とある(岩波古語辞典)ので、「おぎなう」の「なう」は、

置く+縫う、

と(日本語源大辞典)別系かもしれない。

そこなう(損なう)、

は、

「殺(そ)ぎを行う義」

とあり(大言海)、

ソコ(削)+ナフ」

も(日本語源広辞典)、同趣で、「完全であるものを不完全にする」、つまり、傷つける意となる。

うべなう(宜う)、

は、

「ウベ(宜)を活用させた語」

で、「うべ」は、もっともである、という意である。平安時代、

mbe、

と発音されたので、「むべ」と書く例が多い、とある(岩波古語辞典)が、

「ウは承諾の意のウに同じ。ベはアヘ(合)の転か。承知する意。事情を受け入れ、納得・肯定する意。類義語ゲニは、所説の真実性を現実に照らして認める意」

とある(岩波古語辞典)。

うらなう(占う)、

は、うらなうhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.htmlで触れたように、「卜する」意であり、

ウラ(心,神の心)+ナウ

となる(日本語源広辞典)。

こうみると、「なふ」は、他の語の行動を示す、というより、ついた言葉の動詞化の役に転じている。ように見える。ある意味で重宝な言葉だといえる。こんにち、

晩御飯なう、

と使われる言葉は、nowの意味から、ingの意味に転じ、

~している、

を言う言葉になっているのと、どこか似ている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年10月05日

商う


「商う」は、

商売をする、

意である。「商」(ショウ)は、

「形声。『高い台の形+音符章の略体』で、もと、平原の中の明るい高台。殷人は高台に聚落(しゅうらく)をつくり商と自称した。周に滅ぼされたのち、その一部は工芸品を行商するジプシーと化し、中国に商業がはじまったので、商国の人の意から転じて、行商人の意となった」

とある(漢字源)。「あきなう」意だが、

「もと、行商を商、店を構えるのを賈(コ)といったが、のち広く商売を商という」

ともある。別に、

「会意兼形声文字です(章+冏)。『大きな入れ墨用の針』の象形(『目立つ』の意味)と『高殿(高い建物)』の象形から、どこからでも目立つ高殿を意味し、『殷(中国の王朝)の首都の名前』を意味する『商』という漢字が成り立ちました。のち、殷が亡びてその亡民が行商を業とした為、「あきない」の意味も表すようになりました」

ともありhttps://okjiten.jp/kanji507.html、殷とつながるようである。

800px-商-oracle.svg.png

(商 殷(自称は商)・甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%95%86より)


和語「あきなふ(う)」の「なう」は、

接尾語、

とみられる(広辞苑)。これは、

あがなう、
おこなう、
になう、
ともなう、
つぐなう、
いざなう、
おぎなう、
そこなう、
うべなう、
うらなう、

等々でも使われる。

「名詞を承けて四段活用の動詞を作る」

とあり、

「綯うと同根か、手先を用いて物事をつくりなす意から、上の体言の行為・動作をする意に転じたものであろう」

ともある(岩波古語辞典)。「あきなう」の「あき」は、

「秋と同根。収穫物の交換期の意」

とある(仝上)。「秋」を見ると、季節の意のほかに、

「収穫。みのり」

の意が載り、「あき」に、

商、

を当て、

「アキ(秋)と同根。アキナヒ、アキビト(商人)のアキに同じ」

とあるので、漢字を当てるまで、

秋、

商、
も、

ともに「アキ」であり、季節と、商売の意であった。文字を持たないので、話している当事者には、どちらを言っているかはわかっていた。

「秋」http://ppnetwork.seesaa.net/article/466853732.htmlについては既に触れたが、言葉の自然な転訛を考えるなら,

草木が赤くなり,稲がアカラム(熟)ことから(和句解・日本釈名・古事記伝・言元梯・菊池俗語考・大言海・日本語源=賀茂百樹),

ではないか、とみなした。

黄熟(あかり)→赤かり→明かり,

と通じる。それと「商い」が同根なのは、季節的な要因かと思われる。

「秋の収穫物を、欲しい人に売る行為(オコナイ)ですから、アキナイというのです。語原通り、『秋なう』であり、『秋ない』なのです」

なのであろう(日本語源広辞典)。

「商いの語源は、農民の間で収穫物や織物などを交換する商業が秋に行われたことから、『秋なふ(秋なう)』から動詞『あきなふ』が生まれ、『あきない』になったとする説が定説になっている。しかし、物を買い求めたり、何か別のものを代償として手に入れる意味の『購う・贖う(あがう・あがなう)』と同源とも考えられ、商いの語原が『秋』が正しいとは言い切れず、正確な語原は未詳である」

との異説(語源由来辞典)もあるが、「あがなふ」は、交易の双方向性がない。無理筋ではないか。

「『あきなう』ば『秋なう』です。秋は稲の収穫期です。秋になると,農家をまわって米やその他の農産物を買い集める人が出回りました。その人たちは,買い集めた農産物を持ち寄って,町で市 (いち) を開きました。まだ,町に店というものが登場する以前は,この定期的に開かれる市によって,物々交換が行われ,やがて貨幣というものが通用するようになると,現代の商行為のような 〈売り買い〉 が盛んになっていきました。そのように 〈秋に行われる 「物」 の流通〉を『秋なう』と言っていたのです」

という感覚でいいのではあるまいかhttps://mobility-8074.at.webry.info/201603/article_10.html

「なう」が「綯う」と同根とすると、

「『縄をなう』の『なう(撚り合わせる、すり寄せる、帯びる)』から出来た言葉であることは間違いない。『あき』は『秋』ではなく『空き』と考えるのが一番妥当ではないか。『商う』とは売り買い双方の間(空き)を『なう』(すり合わせる)ことであると思う」

という考え方もありうるhttps://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/dc1556c64d9a3407dc07328fc6984f29かもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:商う
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2019年10月04日

ホウホケキョ


「ホウホケキョ」は、

ホウホケキョウ、
ホーホケギョー、

とも表記する、

ウグイスの鳴き声、

を表す擬音語である。大言海は、

ほうほけき、

と表記している。

Cettia_diphone.jpg


ウグイスhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/459382881.htmlで触れたように、

「宇武加比売命(うむがひめのみこと) 法吉鳥(ほほきどり)と化(な)りて、飛び度り、此処に静まりましき。故(かれ)、法吉(ほほき)といふ」(出雲風土記‐嶋根)

とあるhttp://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000rxv.html

法吉鳥、

は「鶯」とみなされるが、この「ホホキ」も「ホーホケキョ」とつながる。さらに、蓮如上人は、最期の時に、

空善クレ候ウクヒスノ声ニナク
サミタリ コノウクヒスハ 法
ホキヽヨ トナク也、

と仰せられた(第八祖御物語 空善聞書)とある(仝上)。蓮如上人には「法を聞け」と聞こえたのである。それ以前,

「平安時代は,鶯の声を『ひとく』と聞いた。『梅の花 見にこそ來つれ 鶯のひとくひとくと厭ひしもをる』(古今和歌集)。『ひとく(人が来る)』の意味に掛けて用いられる。『ひとく』は江戸時代まで用いられ続けた。鎌倉室町時代には,鶯を飼ってよい声で囀るように躾けることが流行った。『つきひはし(月日星)』と聞こえるように鳴く鶯が最高であった。躾けてもうまく鳴けずに『ひつきはし』『こけふじ』と聞こえるように鳴いてしまう鶯もいた。それらの鶯は、鳴きぞこないと言われ値打ちが下がった。江戸時代になると,『ほーほけきょー』と写され,『法華経』の意味を掛けて聞いた。仏教の隆盛とあいまって、『慈悲心も仏法僧も一声のほう法華経にしくものぞなき』(狂歌蜀山百種)と言われるほど、鶯の声は尊ばれた」

とあり(擬音語・擬態語辞典)、江戸初期から、

鶯の声にはだれもほれげ経(毛吹草1645年)、
鶯のほう法花経や朝づとめ(犬子(えのこ)集1633年)、

と法華経と絡め、『本朝食鑑』(1697年)にもその鳴声を、

宝法華経、皆声調によっての言なり

と記しているが、ようやく江戸後期になると、鶯の鳴き声は「ホーホケキョ」が定着し、小林一茶は、

今の世も鳥はほけ経鳴(なき)にけり(おらが春1819年)

と詠んでいるhttp://www.cluster.jp/hp/?p=14460

「江戸時代から、鳴き声を楽しむために飼われ、夜間も照明を与えることにより、さえずりの始まる時期を早めて正月に鳴かせる『夜飼い』、米糠(こめぬか)、大豆粉、魚粉を混合したものを水で練って、ウグイスなどの食虫性の小鳥の飼養を容易にした『擂餌(すりえ)』などの技術を発達させてきた。また、さまざまな変わった鳴き声を競わせることも広く行われてきた」

とあり(日本大百科全書)、「鳴き合せ」といった。「なきあはせ」(鳴合・啼合)の項で、大言海は、

「なきあはせくわいの略。うぐいすあはせ、うぐいす會。衆人、飼鶯を持寄りて、其啼聲を聞き分けて、優劣を定むこと(嚮に東京にては、毎年四月、下谷の根岸の地などに行はれき)。元、啼聲の最優なるを江戸一と称せしが、嘗て、薩州候、江戸一の名鳥を買はれたるに、翌年の啼合會にて、又別の名鳥に其称を附せしを、候家より咎められて後、最優なるに、准の一と命ずるを、習慣とせしが、明治以後、正の一と云ふを立て、最上とすと云ふ。名鳥の傍らに雛を置きて、其聲を学ばしむるを、音附(ねつけ)と云ひ、其鳥を附子(つけこ)と称す。今世は、文字口(もじくち)と云ふを最優とす。上音(うはね)、ヒイホケケコ、中音、ホウホフフコ、下音、ホホホホホホケコ。節廻し艶さへあるもの。昔は、月日星と聞きて、三光の囀るが如しと」

と書く。「三光」とは、

「鳴声の1節を律、中、呂の3段に分ける。律音をタカネ、またアゲ、中音をナカネ、呂音をサゲという。3段を日月星に比して三光と称し、三つ音とも称し、その鳴声の長短、節調の完全なものが優鳥とされた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%B9。明治維新ですたれたが、かつては、

「正月下旬、2月の計2回、江戸、京都、大坂の三都に持ち寄って、品評会を開き、「鶯品定めの会」と称した。会場は江戸では向島牛島の旗亭梅本と定め、期日が決定したら、数日前から牛島を中心に小梅、洲崎の各村の農家に頼んで出品する各自の鳥を預ける。当日、審査員格の飼鳥屋が梅本に集まり、家々を何回となく回って鳴声を手帳に書留め、衆議の上で決定した。第一の優鳥を順の一という位に置き、以下、東の一、西の一、三幅対の右、三幅対の中、三幅対の左、というように品位を決め、品にはいったものは大高檀紙に鳥名と位を書き、江戸鳥屋中として白木の三宝に載せ、水引を掛けた末広扇1対を添え、飼主に贈り、飼主からは身分に応じて相当の謝儀があった。その謝儀をもって品定め会の費用を弁じた。本郷の味噌屋某の飼鳥が順の一を得た時には、同時に出品した加賀の太守前田侯の飼鳥を顔色なからしめ、得意のあまり、『鴬や百万石も何のその』と一句をものしたという挿話がある」

という(仝上)。もちろん今日、鳥獣保護法により捕獲・飼育が禁止されている。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月03日

かまいたち


「かまいたち」は、

鎌鼬、

と当てる。

鎌風、

ともいう。「通り魔」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437854749.htmlで触れたことがある。

「道などを歩いているとき,(小旋風のため)突然鎌で切られたような傷を受ける怪異現象の1つ。出血もなく,痛みも感じない」

塵旋風、
真空説、
寒冷説、
電気説、

等々の諸説があり(ブリタニカ国際大百科事典)、この旋風を、

カマイタチ、

という。鼬の仕業と考えて、この名がある。

「気圧の急変などの自然現象によるもの」

とも説明されている。かつて、神奈川地方では、

カマカゼ,

静岡地方では、

アクゼンシカゼ(悪禅師風)、

愛知県東部では、

飯綱(いづな)、

高知県などでは、

野鎌(のがま)に切られる、

等々といっていた。

越後七不思議の1つ、

に数えられている(仝上)。怪異とみなしたせいか、

旋風に乗ってきて人を切り生き血を吸うという魔獣、

とみなしたところもある。特に雪国地方にこの言伝えが多い。信越地方では、

暦を踏むと鎌鼬にあう、

という(百科事典マイペディア)。

鳥山石燕は,「かまいたち」に,

窮奇,

の字を当てているが,通常,

鎌鼬,

の字を当てる。その経緯は,

「鎌鼬(かまいたち)は、日本に伝えられる妖怪、もしくはそれが起こすとされた怪異である。つむじ風に乗って現われて人を切りつける。これに出遭った人は刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みはなく、傷からは血も出ないともされる。別物であるが風を媒介とする点から江戸時代の書物では中国の窮奇(きゅうき)と同一視されており、窮奇の訓読みとして『かまいたち』が採用されていた。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%AC

SekienKamaitachi.jpg

(鳥山石燕『画図百鬼夜行』・窮奇(かまいたち) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%ACより)


因みに,「窮奇」とは,

「中国神話に登場する怪物あるいは霊獣の一つ。四凶の一つとされる。中国最古の地理書『山海経』では、『西山経』四の巻で、ハリネズミの毛が生えた牛で、邽山(けいざん)という山に住み、犬のような鳴き声をあげ、人間を食べるものと説明しているが、『海内北経』では人食いの翼をもったトラで、人間を頭から食べると説明している。五帝の1人である少昊の不肖の息子の霊が邽山に留まってこの怪物になったともいう。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AE%E5%A5%87。それが,

Shan_Hai_Jing_Qiongji.jpg

(清・汪紱『山海経存』より「窮奇」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AE%E5%A5%87より)

「『淮南子』では、『窮奇は広莫風(こうばくふう)を吹き起こす』とあり、風神の一種とみなされていた。」

ということから,「かまいたち」と同一視されたらしい。

「かまいたち」(鎌鼬)の名は、

人体で利鎌で斬ったような痕のようなものが生ずるのを鼬の所為として名付ける(大言海)、
カマイタチ(風間鼬)の義(言元梯)、
太刀を構えて伐ったであるから(俚言集覧)、

と、傷跡から、鼬や鎌に絡めているが、

大言海には、

「(人体に,利鎌を持ちて斬りたる痕の如きものの生ずるを,鼬の所為として名づく)気候の変動よりして,空気中に真空を生じ,人体これに触るれば,体内の気,平均を保つため,皮膚を裂きてこうむる負傷」

と載る。この説は,明治期に流布したものらしい。この知見は一見科学的であったために近代以後、児童雑誌や科学記事などを通じて一般に広く浸透したが,

「実際には皮膚はかなり丈夫な組織であり、人体を損傷するほどの気圧差が旋風によって生じることは物理的にも考えられず、さらに、かまいたちの発生する状況で人間の皮膚以外の物(衣服や周囲の物品)が切られているような事象も報告されていない。これらの理由から、現在では機械的な要因によるものではなく、皮膚表面が気化熱によって急激に冷やされるために、組織が変性して裂けるといったような生理学的現象(あかぎれ)であると考えられている。かまいたちの伝承が雪国に多いことも、この説を裏付ける。また、切れるという現象に限定すれば、風が巻き上げた鋭利な小石や木の葉によるものとも考えられている。」

と,今日では考えられているらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E9%BC%AC

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月02日

太閤検地


中野等『太閤検地-秀吉が目指した国のかたち』を読む。

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本書は、秀吉の織田政権下での羽柴領検地から始まって時系列に、豊臣政権下で行われた検地を詳細に検討し、

「豊臣政権が創り上げようとした近世社会あるいは近世国家像」

に迫ろうとする。この検地によって、米の容積を示す単位を「石」を基軸としたため、

「国内の生産力が『石高』によって表示されるにいたる。すなわち、太閤検地によって田畠には等級が設けられ、土地の面積は町・段(反)・畝・歩という単位体系によって把握され、生産力の指標となる米の容積も基準となる統一の枡によりつつ、石・斗・升・合・勺という単位体系に整理された。田も畠もさらには屋敷地まで米を生産するものと想定され、その収穫高が米高として算出された」

これを前提として、村々の境界線を確定し、地域を明確にして、

「村々の石高が算出され、さらにそれを基準として郡の石高(郡高)や国の石高(国高)が算出される」

こととなり、これによって、

「大名の領地高や給人(知行地を与えられた大名家臣)の知行高はもとより、村々の規模や百姓が所持する高知の規模、さらには年貢として収奪される生産物の多寡も石高によって表示されることとなった」

村の確定は、村単位として年貢を納める責任を負う、

「村請制』が機能しはじめることである。『村請制』のもとでは、村のみが法人格を付与されて年貢や諸役の責任を負う。仮に、個々の百姓に年貢の滞納(未進)があったとしても、その責めは村全体に帰する」

ことになる。つまり、検地により、

村の境界を画し、
当該地域の土地面積を測量し、
田地の品位を定め、
石盛(一反当たりの収穫量)を定め、
石高を定め、
一村当たりの総地積、総石高を決定する、

ことによって、太閤検地は、

「在地秩序を再編し、社会の新たな基本単位を設定する」

ことになり、この結果、近世の村が成立する。

さらに在地の一元化に伴い、

主を持たず、田畠を作らざる侍、

は村々から放逐される。つまり、

「豊臣政権が目指した在所のありようは『百姓』『諸職人』『商売人』と、武具類の所持を認められた主人をもつ『奉公人』からなるもの」

であった。

「豊臣政権下の『在所』は給恩をもって主人の役を務める『諸奉公人』と田畠開作を専らに仕る『百姓』および『町人』すまなわち諸職人や商売人から構成されることになる」

したがって、大名は、国替えで移封される場合、

「『家中』『侍』のことは申すに及ばす、『中間』『小者』に至るまで『奉公人』は一人も残さず連れていく」

ことを命じられる。これを、

「『兵農分離』ではなく『士農分離』という概念こそがふさわしい」

とする。それは、中世以来の、地侍、土豪という所有地を持った侍の在り方の解体、士・農の分離を意味する。在地に残った地侍。土豪は、百姓となることを意味した。

この検地は、土地から離された侍側にも大きな変化をもたらす。

「検地の結果として機能する石高制によることで、秀吉は臣下の領知を容易に異動する環境を獲得する。前後の知行規模が数値化されており、知行加増や減封といった主従関係の変化も容易に具現化されることとなるが、領知内容の互換性を図るうえで石高のもつ客観性や合理性は大きな意味を持つ」

その結果、豊臣政権末期になると、

戦国以来の故地にいたのは中国毛利氏と九州・奥羽など遠隔地の諸大名」

のみになり、

「薩摩・大隅・日向の一部を領した島津氏の場合も、給人レベルでみれば文禄四年検地ののち、ほとんどが本来の領地から引き離された地に転封を余儀なくされている」

ありさまで、これを、確か荻生徂徠は、

鉢植化、

といったと思うが、

「原理的にすべての『国土』は天皇あるいは秀吉の手に帰し、以後江戸時代を通じて大名・給人は在地性を否定された「鉢植え」の領主として存在することとなる。こうした世界史的にも稀有な『封建制度』を可能にし、それを根本で支えたのが一連の太閤検地と称される政策であった」

この太閤検地の成果の上に、徳川幕藩体制は成り立つ。幕藩体制の成立しについては、

「幕藩体制の確立」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html?1568502090

で触れた。

参考文献;
中野等『太閤検地-秀吉が目指した国のかたち』(中公新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年10月01日

金魚


「金魚」は、

錦魚、

とも記す、とある(大言海)。「金魚」は、中国語である。

「『金魚』の発音(ピン音で jīnyú )は「金余」と同じ縁起が良いものとされ、現在でも広く愛玩される背景の一つとなっている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7

日本には、元和年中に、伝来した。

「和泉国の堺浦に渡る(大和本草)、緋鮒にて、鮒性(フナダチ)と云ふ(緋鯉を、鯉性とす)、鮒に似て、尾小さし、是れ原種のものなり。今和金和金と称す」

とある(大言海)。ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかったらしい。

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江戸時代に大々的に養殖が始まったが、

「寶永の頃、阿闍梨より渡したりと伝ふ、蘭鑄と云ふ。一名丸子。體圓く、頭に肉瘤ありて、背鰭なし。寛政、文化の頃、琉球産のもの渡れるを、琉金と云ふ。體圓ぐ、口小さく、尾長大なり。尾長とも云ふ。蘭鑄と琉金との子を、阿闍梨獅子頭(がしら)と云ふ」

とある(大言海)。当初、

「ガラス金魚鉢が高価であったため、金魚は陶器の鉢に入れ上から見ることが一般的でした。これを『上見』といい、金魚の改良は上から見ることから始まりました。目が飛び出ると龍が連想され、『龍晴(りゅうせい)』と呼ばれて珍重されました。この最高峰が『頂天眼(ちょうてんがん)』です。上見のため背ビレをなくしたのが『ランチュウ』です」

ともあるhttp://www.photo-make.jp/hm_2/kingyo.html

「金魚」は、

「江戸初期には富裕な者の贅沢(ぜいたく)だったが、宝暦(1751~64)のころからは金魚売りの露店も出て、一般庶民の間にも広まり」https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-122-08-04-G252.html

「江戸、京都、大坂の三都ともに金魚を楽しむ風習があり、特に町々を売り歩く金魚売りは、夏の風物詩となっていた」

とある(仝上)。「蘭虫」や「朝鮮」の珍しいものは、3両から5両もした。縁日では、桶を並べて金魚を売る業者がおり、これを買った者は「金魚玉」と呼ばれるガラスの容器に入れて持ち帰り、軒につり下げて鑑賞した(仝上)、らしい。上からも、下からも見えるガラスの器は風鈴のように軒に掛けられたものらしい。

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(喜多川歌麿「金魚玉を持つ女」 https://hikarataro.exblog.jp/18804236/より)


「金魚愛好が広まったのは、延享5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きい」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A7。同時に、

化政文化期に現在の三大養殖地(奈良県大和郡山、愛知県弥富、東京都江戸川)で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及する。品評会が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる、とある(仝上)。

金魚売は、夏の間、涼しい時間帯に、

「きんぎょ~え~、きんぎょ~」

と売り歩く。

「天秤棒に提げたたらいの中に金魚を入れ、独特の甲高い売り声を上げながら街中をゆっくりとした足取りで売り歩いた。金魚売の多くは日銭を稼ぐために短期で勤めていたものらしく、冬になると扇の地紙売りなど別の仕事を請け負っていたようである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%AD%9A%E5%A3%B2

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(歌川国貞『東都見立夏商人』「金魚売」 http://www.edomono.jp/blog/?p=425より)

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(喜田川守貞「守貞漫稿」金魚売り http://www.photo-make.jp/hm_2/kingyo.htmlより)


「守貞漫稿」には、

「振売」「棒手振り」(ぼてふり)、

商売として、

「油揚げ、鮮魚・干し魚、貝の剥き身、豆腐、醤油、七味唐辛子、すし、甘酒、松茸、ぜんざい、汁粉、白玉団子、納豆、海苔、ゆで卵」

等々、食品を扱う数十種類を紹介しているが、食品以外にも、

ほうき、花、風鈴、銅の器、もぐさ、暦、筆墨、樽、桶、焚付け用の木くず、笊、蚊帳、草履、蓑笠、植木、小太鼓、シャボン玉など日用品。
子供のおもちゃ、

金魚、鈴虫・松虫などの鳴き声の良い昆虫、
錦鯉、

等々を商っていた、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E5%A3%B2

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
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2019年09月30日

月と鼈


「月と鼈」は、

「両者とも丸い形をしている点では似ているが、実は非常な違いがあるところから、比較にならないほどかけはなれていることのたとえ」

とある(故事ことわざの辞典、広辞苑等)。

二つの者の間の非常に差のあることのたとえ、

として使われる(広辞苑)。

鼈と月、
月鼈(げつべつ)、
鼈とお月様、

ともいう。しかし、丸いものなら、

お盆と月、

の方がこのたとえにはあう。江戸語大辞典は、

すっぽんとお月様、

として載り、

「すっぽんの甲も十五夜の月も共に丸いが、全然異物であるの意。一見似ていても、比較にならぬほど相違する物事のたとえ」

とある。まだ、この方がわかる。

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しかし、

「江戸時代後期の随筆『嬉遊笑覧』には、スッポンの甲羅が丸いことから異名を丸(まる)と言い、一方満月も丸いけれど二つの丸は大違いでまるで比較にならないので『月と鼈』とは少しは似ていても、実際には甚だ異なっている様を云うとしています。
 詳細は不明ですが、同時代に疑義も提示されている様子です。朱塗の丸い盆『朱盆(しゅぼん)』が訛って『鼈(すっぽん)』に転訛したとの説も有り、幕末の役者評判記『鳴久者評判記』では、似て非なるもので比較にならないものとして『下駄に焼味噌』と並んで『朱ぼんに月』を取り上げています。
 尚、近世全般では『お月さまと鼈』と表現され、幕末になってから初めて『月と鼈』と表現された様子です。」

とあり(岩波ことわざ辞典、http://homepage-nifty.com/osiete/s464.htm)、「すっぽん」ではなく、「朱盆」とする。これなら、納得できるが、理屈に合うことわざは、大概こじつけ、というのが相場だ。京阪では、「鼈」を、

マル(丸)、

と呼んだので、

月と鼈、

という言い方をした可能性がある。

「上方のスッポン屋は看板の行燈に輪を書いて丸の印でスッポンを表した」

とある(たべもの語源辞典)。ちなみに江戸では、俗に、

蓋(ふた)、

という。

「これも丸い形からの異名である。『月とスッポン』というのは、月も丸く、スッポンも丸と呼んで丸いものだが、随分異なっているものだの意で、不釣り合いのたとえとか、比較にならないほど相違する物事のたとえにもちいられている」

とある(仝上)。これなら、丸に共通があることに得心が行く。

「鼈」(ベツ、漢音ヘツ、呉音ヘチ)は、

「会意兼形声。『黽(かめ)+音符敝(ヘイ 横に開く)』。横に伸びて、平らに開いた姿をしたすっぽん」

とある(漢字源)。「鼈」は、中国では、

団魚、

と呼ばれ、日本では、

土亀、
泥龜、
川龜、

等々とも呼ぶ(各地で、ガメ・ドウガメ・ドンガメ・ドヂ・ドチ・トチとも)。

「日本列島においては滋賀県に所在する栗津湖底遺跡において縄文時代中期のスッポンが出土しているが、縄文時代にカメ類を含む爬虫類の利用は哺乳類・鳥類に比べて少ない。弥生時代にはスッポンの出土事例が増加する」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3、主に西日本の食文化であったが近世に関東地方へもたらされたものらしい。

「元禄大坂でスッポン料理があったとき、京にはなく、江戸では下賤のたべものであったが、寛延・宝暦のころ(1748-64)、柳原の長堤に葭簀の小屋でスッポンの煮売りが始まり、次第にスッポンは高価なものになっていった」

とある(たべもの語源辞典)。

和語「すっぽん」の語源は、

「スボンボの轉。或いは、葡萄牙語也と云ふ説もあり」

と(大言海)、ちょっとはっきりしない。

「すっぽんの名は飛び込んだ時に附け」

という川柳があるらしく、すっぽんが水の中に飛び込んだ時、

スッポン、

という音がした、という説に由来しているとするが、そのほか、鳴き声が、

スッポンスッポン、

と聞こえるとする説もある。

「亀はポンポンと鼓の音のように鳴くという。『亀の看経(かんきん)』といって、亀の鳴き声は初めは雨だれ拍子で、次第に急になり、俗に責念仏(せめねんぶつ)といわれる。スッポンの鳴声も間遠にスポンスポンと聞こえる。いずれもよるになって聞こえる」

とある(たべもの語源辞典)。大言海の「スボンホ」は、その転訛であるとも思われる。この他、

すぽむ+ぼ(もの)、

と首をすくめる擬態からとする説(日本語源広辞典)もあるが、やはり「擬音」で、よさそうである。

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(『北越奇談』にあるスッポンにまつわる怪談「亀六泥亀の怪を見て僧となる」(葛飾北斎画)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3より)


かつて日本ではキツネやタヌキと同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、

「人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた。また『食いついて離さない』と喩えられたことから大変執念深い性格で、あまりスッポン料理を食べ過ぎると幽霊になって祟るともいわれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3。江戸時代には、

ある大繁盛していたスッポン屋の主人が寝床で無数のスッポンの霊に苦しめられる話(北越奇談)、
名古屋でいつもスッポンを食べていた男がこの霊に取り憑かれ、顔や手足がスッポンのような形になってしまったという話、
ある百姓がスッポンを売って生活していたところ、執念深いスッポンの怨霊が身長十丈の妖怪・高入道となって現れ、そればかりかその百姓のもとに生まれた子は、スッポンのように上唇が尖り、目が丸く鋭く、手足に水かきがあり、ミミズを常食したという話(怪談旅之曙)、

等々があるという(仝上)。なお、

すっぽん、

と名付けられた、歌舞伎の劇場で、本花道に切り抜いた、奈落から役者がせり上がる穴は、

「切穴から出るとき、演者が首から出るので亀の首を想像して付けられたか、また床面が龜甲形だからとも、床板のはまるときスポンとおとがすることからともいう」

とある(演劇百科大事典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2019年09月29日

食指が動く


食指は、

人差し指、

で、和語では、

お母さん指、
塩舐め指、

医学用語では

第二指、
示指、

で、漢語で、

食指、
頭指、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%AE%E3%81%97%E6%8C%87。ちなみに、日本語で、親指、人差し指、中指、薬指、小指は、中国語ではそれぞれ、

大拇指、
食指、
中指、
无名指、
小指、

と言うらしいhttp://chugokugo-script.net/koji/shokushi.html。人差し指を、

食指、

と呼ぶのは、食べ物をつかむ時必ず使う指だからだそうである(仝上)。薬指の、

无名指、

は、「名無しの指」の意となる。日本語で、「薬指」というのは、

昔薬を水に溶かしたり塗ったりする時に使ったから、

とされる(仝上)。

塩舐め指、

という言い方もする。医学用語でも、「薬指(やくし)」という。ついでながら、

親指(おやゆび)は、母指(ぼし)、
人差し指(ひとさしゆび)は、示指(じし)、
中指(なかゆび)は、中指(ちゅうし)、
薬指(くすりゆび)は、薬指(やくし)・環指(かんし)、
小指(こゆび)は、小指(しょうし)、

と、医学用語では言うらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87

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「食指が動く」とは、

食欲が起こる、

意で、転じて、

物事を求める心が起こる、

あるいは、

ある物事をやろうという気になる、

意で使う。これは、春秋左氏伝の、

楚人献黿於鄭霊公。公子宋与子家、将入見。子公之食指動。以示子家曰、他日、我如此、必嘗異味。及入、宰夫将解黿(楚人、鄭(てい)の霊公に黿(げん)を献ず。公子宋と子家、将に入りて見んとす。子公の食指動く。以て子家に示し曰く、「他日、我此の如く、必ず異味を嘗(な)む、と」。入るに及びて、宰夫将に黿を解せんとす)

の故事によるhttp://chugokugo-script.net/koji/shokushi.html、故事ことわざの辞典)。これは、

「楚の荘王が鼈(スッポン)を送ってきたとき、霊公はそれを料理して家臣たちに振る舞おうとした。子家と子公も宴に招かれ、その道中に子公が『この指が動いたときは珍味にありつける』と言っており、鼈を見て両者は顔を見合わせて笑った(食指の故事)。霊公がそれを見咎めて訊ね、子公が委細を答えると、霊公は機嫌をそこね、宴の席で子公にのみ鼈料理を出さなかった。子公はこれを屈辱に思い、鼈の鍋に指を突っ込んで舐めると退室した。子公の無礼に怒った霊公はこれを討とうとするも子家に諌められたが、のちにこのことで恨み骨髄に徹した子公は子家を誘って挙兵し、霊公を討った。」

という経緯になるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%AC_(%E9%84%AD)。しかしどうも鼈だけが原因ではなさそうである。

霊公(れいこう)は、中国春秋時代の鄭の第12代君主。若い頃から楚への人質として送り込まれ、楚の太子侶(のちの荘王)の知遇を得る。父穆公の死後に即位し、それまでの親晋外交を親楚に切り替えようと画策し、宰相子家(公子帰生)や子公(公子宋)らと対立する。このことが背景にある。霊公を討ったのち、

「子家と子公は賢明と名高かった霊公の弟子良(公子去疾、七穆のひとつ良氏の祖)を鄭君に迎えようとしたが、断られたため、公子堅を即位させた。これが襄公である。さらに、先君の謚を決める際に幽と名づけたが、鄭の人々はこれを哀れみ、子家が死んだ際にはその棺を打ち壊し、その一族を国外に追いやった。そして、幽公と名づけられていた先君の改葬を要求し、宰相となっていた子良はそれをすぐさま承知した。こうして、幽公は改めて霊公と諡(おくりな)をつけられた」

とある(仝上)。

「食指が動く」は、平成23年度「国語に関する世論調査」で、

「食指が動く」を使う人が38.1パーセント、

本来の言い方ではない、

「食指をそそられる」を使う人が31.4パーセント、

という結果が出ている。「食欲」と重なっているらしい。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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2019年09月28日

帷子


「帷子(かたびら)」は、

帷、

とも当てる。

几帳、帳(とばり)など懸けて隔てとした布、

の意もあるが、

裏をつけない衣服、

つまり、

ひとえもの、

の意でもある。日本語源広辞典は、

「カタ(片、裏をつけない)+ヒラ(薄く平たい衣)」

とする。

「かたびらは袷(あわせ)でなく裂(きれ)の片方を意味し,帳(ちよう)の帷(い)や湯帷子(ゆかたびら)はその原義を示している」

とある(世界大百科事典)。

『大言海』は、「帷子」を二つ分けて記し、「帷(かたびら)」は、

片枚(かたひら)の義と云ふ。裏をつけぬ、カタヘラの帛の意、

として、

几帳などにかけて隔てとする、一重の布帛。夏は生絹(スズシ)、冬は練絹を用ゐる、

とする。和名抄には、

「帷、圍也。以自障圍也。加太比良」

とある。「帷子(かたびら)」は、

帷の語の移りて、帷の字もそのままに用ゐるなり、

とし、

裏をつけぬ衣、一重の服。ひとへもの、襌、衫、

と載せる。「ひとへ」とは、

一重、

で、

重ならないで、一枚だけである意で、

単、

と当てると、

単衣(ひとへぎぬ)、

の意で、

「裏のない一重の衣であり、単衣(ひとえぎぬ)と呼ぶのを本義とするが、略して単と通称している」

とある(有職故実図典)。

「表着の下に着る。男子用と女子用があり、男子は若いときは紅色で重菱(しげひし)などの模様、老年は遠菱、極老は白色。女子の場合は、五衣の下に着る」

とある(岩波古語辞典)。

「装束の下に重ねて着る衣。表衣(ウハギ)の色に因りてその色に定めあり。時は綾にて張り、又は、板引きにす。若年は重菱の紋、老年は遠菱、極老は白き色、四季ともに着用すとぞ」

ともある(大言海)。

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(単(ひとえ) 近世の単の図であり、横繁菱の文様が、表裏違っているように見えるが、これは表の文様は浮いており、裏が沈んでいるため4個のように見える。『有職故実図典』より)


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(繁菱文様 仝上)


「単の形状は、衵(単の上に重ねて着る)と同様であるが、裏をつけないため、端はすべて『ひねり返し』としている」

とあり、

「単は、天皇より六位に至るまで皆同様で、地質は堅地綾、色は紅、文様は横繁菱、であり、老年のいわゆる宿徳(高徳の老人)に限り、その束帯に準じ、大文の菱に白を用いた」

とある(仝上)。つまり、

装束をつけるとき、汗とりとして着たもの、

が帷子で、生地にかかわらず「帷子」と呼ばれたが、室町末期江戸時代以降は、

単(ひとえ)仕立ての絹物を単、

と称するのに対して,

麻で仕立てられたものを帷子、

と称するようになった。

「武家のしきたりを書いた故実書をみると,帷子は麻に限らず,生絹(すずし),紋紗(もんしゃ)が用いられ,江戸時代の七夕(7月7日),八朔(8月1日)に用いる白帷子は七夕には糊を置き,八朔には糊を置かないのがならわしとなっている」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

なお、ゆかたは、

ゆかたびら(湯帷子)の略、

であり、

「平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされる。湯帷子は平安中期に成立した倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)によると、内衣布で沐浴するための衣とされている。この時代、複数の人と入浴する機会があったため汗取りと裸を隠す目的で使用されたものと思われる。素材は、水に強く水切れの良い麻が使われていたという説がある。安土桃山時代頃から湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的で広く用いられるようになり、これが江戸時代に入って庶民の愛好する衣類の一種となった」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B4%E8%A1%A3)。なお、

ふろ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461438920.html
江戸の風呂(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461421912.html

については、既に触れた。

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

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2019年09月27日

歴史小説


大岡昇平他編『歴史への視点(全集現代文学の発見・12巻)』を読む。

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本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

歴史への視点,

と題された「歴史小説」を収録している。収録されているのは、

江馬修『山の民』(蜂起)、
井伏鱒二『さざ波軍記』
中山義秀『土佐兵の勇敢な話』
中島敦『李陵』
坂口安吾『二流の人』
田宮虎彦『落城』
井上靖『楼蘭』
杉浦明平『秘事法門』
大原富江『婉という女』

である。世情、歴史小説は、歴史小説とは区別されている。歴史小説は、

主要な登場人物が歴史上実在した人物で、主要な部分はほぼ史実の通りに進められる、

のに対して、時代小説は、

架空の人物(例えば銭形平次)を登場させるか、実在の人物を使っても史実と違った展開をし(例えば水戸黄門)、。史実と照らし合わせるとかなり荒唐無稽である、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC0。いわゆる、

史伝小説、

も、

歴史上の事実に基づいて書かれた伝記、

で、歴史小説に入る。本書で「歴史小説論」を解説として書く大岡昇平は、歴史小説は、

題材を歴史に取った小説、

であると同時に、

歴史感覚、或いは歴史意識というものが、作品を支えているか、どうか、どうかというところを一応の目安としたい、

と述べ、

「ただ面白い話を語り、現代では不可能な刺激的シチュエーションを作る便法としたり、過去の王侯貴族の生活に対するスノッブ的郷愁に溺れたり、既成の通念を、小説家の自由によって引っくりかえす、スキャンダル趣味に頼ったり、なんらかの政治的先入見によって宣伝的な効果をねらう、という特徴を持つもの」

は対象外、としている。そのうえで、

「歴史小説には歴史それ自身としての評価と、文学作品の芸術的価値の二つの軸」

で、評価し、本巻収録の中で、

「二つの価値の調和という観点から」

山の民、

が最も欠陥のない作品と結論付けている。鴎外が、

述べて作らず、

という孔子の言を引き、

史実の作者の恣意による変更を述べていたが、鴎外のたどり着いたのは、世情、

史伝、

の範疇に入れている、

澀江抽斎、

以後の伝記物において、

史伝を書くことを書く、

というメタ化によって、「述べる」ことと「作る」ことの二項対立を解決し、石川淳の言う、

「小説概念を変更するような新課題」

を提出したのである。

「澀江抽斎」http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.htmlで触れたように、それを石川淳は,

「作者はまず筆を取って,小説とはどうして書くものかと考え,そう考えたことを書くことからはじめている。ということは,頭脳を既成の小説概念から清潔に洗っていることである。(中略)前もってたくらんでいたらしいものはなに一つ持ちこまない。…味もそっけも無いようなはなしである。…しかし『追儺』は小説というものの,小説はどうして書くかということの,単純な見本である。これが鷗外四十八歳にして初めて書いた小説である。」

と評していた(森鴎外)。

しかし、もはやこれは歴史小説ではなく、小説とは何かについての模索そのものである。

鴎外が、「述べて作らす」について、煩悶し、「阿部一族」「大塩平八郎」などから史伝といわれるものに移ったような、「述べることと」「作る」ことを、中島敦は、『李陵』の中で、司馬遷に仮託して、こう書く。

「彼も孔子に倣って、述べて作らぬ方針を執ったが、しかし、孔子のそれとは多分に内容を異にした述而不作である。司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙は未だ『述べる』の中にはいらぬものだったし、又、後世人の事実そのものを知ることを妨げる様な、余りにも道義的な新案は、寧ろ『作る』の部類に入るように思われた」

そして、

「初めの五帝本紀から夏殷周秦本紀あたり迄は、彼も、材料を塩梅して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽本紀に入る頃から、その技術家の冷静さが怪しくなって来た。ともすれば、項羽が彼に、或いは彼が項羽にのり移りかねないのである。
 項王則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有り。名は虞。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ項王乃チ悲歌慷慨シ自ラ詩ヲ為リて曰ク『力山ヲ抜キ気世ヲ蓋フ、時利アラズ、騅逝カズ、騅逝カズ奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ若奈何ニセン』ト。歌フコト数闋、美人之ニ和ス。項王泣数行下ル、左右皆泣キ、能ク仰ギ視ルモノ莫シ…。
 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされた様な書きっぷりでいいものだろうか? 彼は『作ル』ことを極度に警戒した。自分の仕事は『述ベル』ことに尽きる。(中略)彼は時に『作ル』ことを恐れるの余り、すでに書いた部分を読返して見て、それがある為に史上の人物が現実の人物の如くに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸活動を止める。之で、『作ル』ことになる心配はない訳である。しかし、(と司馬遷が思うに)之では項羽が項羽ではなくなるのではないか。項羽も始皇帝も楚の荘王もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が『述ベル』だ? 『述ベル』とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句を再び生かさない訳にはいかない。元通りに直して、さて一読して見て、彼はやっと落ち着く」

と書く。「述べる」ことと「作る」ことの葛藤は、そのまま『李陵』という作品に向き合う中島敦の心の動きでもある。これだけで、僕は『李陵』を推す。

かつて述べたことだが、基本的に、何かを「述べる」ことは、それ自体、なにがしか「作る」ほかない。いや、「述べる」ことは、「作る」ことなしには成り立たない(孔子の春秋自体がその例証である)。そう考えれば、あとは、それが、

文学作品の芸術的価値、

があるかどうかではあるまいか。僕は、小説は、

何を書くか、

ではなく、

どう書くか、

にのみ焦点があると思っている。大岡昇平の言う、

歴史感覚、或いは歴史意識、

はどちらかというと、「何を書くか」の側の問題ではあるまいか。近松門左衛門の、

虚実皮膜、

は、歴史小説にも当てはまる。

参考文献;
大岡昇平他編『歴史への視点(全集現代文学の発見・12巻)』(學藝出版)
石川淳『森鷗外』(ちくま学芸文庫)
http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0

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2019年09月26日

追剥


「追剥」は、

通行人を脅かして衣類や持ち物などを奪うこと、

である。今日では死語だが、室町末期の「日葡辞書」には、

オイハギニアウ、

と載る(広辞苑)。動詞で、

追い剥ぐ、

ということばがあり、

往来の人を追ひ劫やかして、衣類、金銭などを剥ぎ取る、引剥(ひはぎ)を行ふ、

とある(大言海)。「引剥」は、

ひきはぎ、
ひっぱぎ、

とも訓み、

「山野など、無人の路に潜みて、往来の人を劫(おびやか)し、衣を剥ぎ、財を奪う盗人」

とある(仝上)。古くは、

追落(おいおと)し、
引きはぎ、

ともいい、「宇治拾遺物語」に、

「いかなる者ぞと問へば……ひはぎに候」

とある。「追剥」は、

「追い+剥ぎ」

で(日本語源広辞典)、

旅人を追いかけて、衣類や持ち物を剥ぎ取る、

ところからきているらしい(仝上)。ただ、江戸幕府は、

「『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』で『追いはぎ』と『追落し』とを区別したが、殺人強盗、傷害強盗とともに強盗罪のなかに組み入れている。追いはぎは、通行人を捕らえて自由を奪い金品を強奪して衣類をはぐことをいい、刑罰には獄門を適用した。追落しは、通行人を脅して突き倒し、あるいは逃げるのを追いかけて金品を奪うことをいい、刑罰は一等軽い死罪であった」

とある(日本大百科全書)。

c94c61778bef7da96893bf451497a1e1.jpg

(喜多川歌麿「見るか徳栄華の一睡 娘の夢」(商人の若夫婦が追い剥ぎに襲われ"服を脱げ"と脅され、嫁が帯を外そうとしたら"男の方だ!"とまさかの若旦那を指名、自身もふんどし姿になる追い剥ぎ、という夢を見る娘に餌をねだる猫)http://www.bestweb-link.net/PD-Museum-of-Art/ukiyoe/ukiyoe/utamaro-3/No.120.jpgより)

「追落(おいおとし)」は、

「往来の人を脅したり追いかけたりして、落とさせた財布などを奪い取ること」

とあり(精選版 日本国語大辞典)、鎌倉時代からの語らしいが、追剥と区別したのは、江戸時代のことになる。「追剥」は、

「往来の人を捕え、着ている衣類や金銭をはぎ取ること」

で(仝上)、江戸時代、獄門の刑が科せられ、追落(おいおとし)は、死罪だが、晒されないだけまし、というこの区別は、よくわからない。「獄門」は、

梟首(きょうしゅ)、
晒し首、

ともいい、江戸時代の『公事方御定書』には、

「斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰」

になるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%84%E9%96%80。「死罪」は、『公事方御定書』には,

「首を刎ね,死骸を取捨て,様斬 (ためしぎり) にする」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

ところで、寿司屋の言葉にも、

追い剥ぎ、

というのがあるらしい。

「寿司ネタをシャリから剥がして、タネにしょうゆをつけ、またシャリの上に戻して食べる方法」

を指す(日本語源大辞典)。

「職人が一番がっかりするもので、せっかく形よく握った寿司なのに、タネをはがされると、シャリとわさびが寒々しく見え、言葉通り、『追いはぎ』にあった若い娘のようにみえてしまう」

とある(佐川芳枝『寿司屋のかみさん』)、らしい。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2019年09月25日

裏を返す


「裏を返す」は、

同じことをまたする、

意とあり(広辞苑)、特に、

同じ芸娼妓を二度目にきて買う、

意とある。いまやその意味は死語だが、遊里では、「裏を返す」は、

「客が初めて揚屋に入り遊女を指名して客になることを『初会』、客が初回の相手に会いに二度目に登楼することを『裏を返す』、三度目に会うのを『馴染み』といった。

とある(日本語源大辞典)。

「裏を返さないのは江戸っ子の恥」、

という言葉が残っているように、それが粋な遊び方だったらしいhttps://sho.goroh.net/uraokaesu/

もっとも、「裏を返す」には、

裏側を塗る、
壁・板などを打ち抜いて抜けぬようにする、

意があり(岩波古語辞典)、これが本来の意ではないか、と思われる。

「一説に『裏壁を返す』の略で、左官の言い始めた語と」

とあり(江戸語大辞典)、

「『裏を返す』は『裏壁(返す)』の言い方もあり(浮世草子など)、『壁の表を塗った後にもう一度裏から塗直す』という左官の用語を語源と見る考え方が18世紀の随筆や草草紙に記されている」

とある(日本語源大辞典)ので、語原は左官用語みていい。

今日では、「裏を返す」は、

「裏を返せば」、

の形で、

逆の見方をすれば、
本当のことを言えば、

という意味で使われることが多い。

裏を返す→裏返る→裏返す、

といった転訛で、

裏を返して表とす、

つまり、

ひっくり返す、

意で使う。遊里の言葉は、「裏返す」の、

同じことをする、

意の転用と思われる。

裏壁かえす→同じ事を重ねてする→壁の上塗りをする、

と意味を転じたが、「裏壁返す」とは、

壁の表側を塗った後に裏側を塗り、木舞(こまい)からはみ出した壁土を裏側から塗り返す、

意である(精選版 日本国語大辞典)。「木舞(こまい)とは、

小舞、

とも当て、

土壁(つちかべ)の下地、

の意。

細く割った竹を、3~4cmくらいの間隔をあけて格子状に縄で組んだもの。

とある(家とインテリアの用語がわかる辞典)。昔の土壁をイメージすればよい。この意味が、

打った釘の先を打ち曲げる、

意にもなった。裏側から打ち曲げるからであろうか。

「うら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463821593.htmlで触れたように。「うら」は,

裏,

と当てるが,

心,

とも当てる。そのことは,「うらなうhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html」で触れた。「うら(占)」は,

「事の心(うら)の意」

とする。「心(うら)」は,

「裏の義。外面にあらはれず,至り深き所,下心,心裏,心中の意」

とある。『岩波古語辞典』は,「うら」に,

裏,
心,

と当て,

「平安時代までは『うへ(表面)』の対。院政期以後,次第に『おもて』の対。表に伴って当然存在する見えない部分」

とある。とすると、「裏を返す」とは、

おもてになる、

意である。そうみると、なかなか意味深な言葉遣いではある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2019年09月24日

関ヶ原の合戦


白峰旬『新視点関ヶ原合戦:天下分け目の戦いの通説を覆す』を読む。

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本著者の『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』(宮帯出版社)、『新「関ヶ原合戦」論―定説を履す史上最大の戦いの真実』(新人物ブックス)で展開された主張の補綴の役の本と見られる。従って、全体像よりは隙間を埋めるテーマが多いのは致し方ない。

主眼は、江戸時代の『慶長軍記』をはじめとする軍記物によって形成された、数々の家康目線で語られてきた伝承、さらにそれにのっとった参謀本部が編纂した『日本戦史 関ケ原役』の記述を、一次史料によって見直す作業である。

明治になって、『関原合戦図志』をあらわした神谷道一は、その緒言で、

「幕府ノ世ニ在リテハ人皆忌諱ニ觸レンコトヲ恐レ實記アリト雖モ秘シテ世ニ示サズ、今ヤ皇政開明復囁嚅ノ憂ナク正ニ是レ直筆ニ記載シ得ルノ日ナリ」

と記した。しかし、

「嘘も百回言えば、真実になる」

ではないが、

「一次史料による史料的根拠のない話が通説に化けた」

影響は大きく、

豊臣七将襲撃事件、
小山評定、
小早川秀秋への問鉄炮、

などが史実であるかのように思い込まされてきている。

本書では、著者の主著の補綴なので、一番の見どころは、第一章の、

豊臣七将襲撃事件はフィクションである、

が、読みごたえがある。七将については、

福島正則、池田照政、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、加藤嘉明(関原始末記)、

福島正則、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、加藤嘉明、脇坂安治(慶長年中卜斎記)、

福島正則、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、蜂須賀家政、藤堂高虎(関原始末記)、

等々と異同はあるが、この七人が石田三成を襲撃・暗殺せんとしたとするものである。しかし、著者は、

「当時の人物が記した記録から三成襲撃事件をみた場合、襲撃・暗殺計画といった性格ではなく、七将が家康に三成の制裁(切腹)を訴えたもの」

と断定する。その意味で、三成が佐和山へ「隠居」あるいは「隠遁」と、関係資料で記されていることとつながる。それは、この騒動の責任をとって、

「中央政界から一時的に失脚したものの、問題の本質としては、佐和山に一時的に謹慎したにすぎないのであり、豊臣政権(豊臣公儀)の奉行職への復帰(政治的復権)の余地は十分のこしていた」

しかも、佐和山へ入るにあたって家康と三成は、相互に自分の子を人質としてとっている。この時点で、

「三成と家康は対等の関係であった」

のである。

800px-Sekigaharascreen.jpg

(関ヶ原合戦図屏風・関ケ原町歴史民俗資料館https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84より)


本書の特徴は、

「公儀」という言葉の使い方である。たとえば、関ケ原で勝利した家康は、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。しかし、だからと言って、天下が定まったわけではない。著者は、

二重公儀論(笠原和比古)、

に依拠しつつ、

「家康は慶長八年(1603)に征夷大将軍に就任して、徳川公儀の主催者になったが、このことは、この時点で豊臣公儀が消滅したことを意味せず、豊臣公儀のスキームはそのまま継続した(秀頼は死去するまで点火人という位置づけは変わらなかった)」

とする。たとえば、まだ大阪の役の前,

「徳川氏の覇権確立以降において,九州の大名領主相互間の争いが秀頼に持込まれ,その裁定に片桐且元・黒田長政が当たっていることは,西国諸大名がなお徳川氏の権力外にあったことをしめしている」

とある(藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』)。このことは、

「幕藩体制の確立」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html?1568502090

で触れたが、このとき,この秀頼の権威は何に基づくのか。大阪の役後,徳川に移った権威は,何に基づくのかという視点抜きでは、これは理解できない。だからこそ、

家康は関ケ原合戦直後の時点で、前田利長宛ての手紙で、「すぐに(大阪城を)乗り掛けて攻め崩すべきであるが、(大阪城は)秀頼様の御座所であるので(大阪城攻めを)延期した」という趣旨のことを述べている。

「そもそも、なぜ徳川家康は、豊臣秀頼を改易できなかったのか、改易で済めば、わざわざ戦争(大坂の陣)をする必要はなかったははずである。現在の通説的見方では、大坂の陣は、徳川が主、豊臣が従という見方であるが、徳川と豊臣を対等の関係で見ないと、大坂の陣というのは政治的に正しく理解できない」

著者は言う。

「一方の公儀(徳川公儀)が他方の公儀(豊臣公儀)を改易することはできなかった」

のである。秀吉は、旧主君の子信雄は家臣であったから改易したが、家康は、改易できなかった。なぜなら、

「天下人として独裁者であった秀吉が後継指名した時点で次期天下人は(秀頼に)確定したのであって秀吉死去(慶長三年(1598))後は、即時に、豊臣公儀の主催者として天下人になったのである。独裁者であった秀吉が、独裁国家の後継者として実子の秀頼を指名した以上、(中略)諸大名はもちろん、豊臣政権下で当時、最大の大名であった家康でさえ、覆すことはできなかった。」

つまり、

徳川公儀と豊臣公儀の決戦、

で決着をつけるしかなかった、のである、とする。「公儀」という言い方は、

豊臣の体制対徳川の(幕藩)体制、

ということである。徳川政権にとって、豊臣家は、意のままに改易したり、移封したりできる相手ではなく、それ自体が、政治体制だという意味で、

公儀、

という言い方は、至当に思える。秀吉は、信長が本能寺で死んだ後も、信長を、「惟任退治記」や手紙で、

公儀、

と呼んでいたが、それは、織田体制という含意を持たせていたのもかもしれない。

参考文献;
白峰旬『新視点関ヶ原合戦:天下分け目の戦いの通説を覆す』(平凡社)
藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2019年09月23日

風呂敷を広げる


「風呂敷を広げる」は,

大言壮語する,

意だが,

大風呂敷を広げる,

とも言う。「大」が付いた分,

実現不可能な計画を立てる,

大言壮語が弥増している。「風呂敷」は,岩波古語辞典に,

入浴具の一つ,

とあり,

「風呂場に敷いて,足を拭いたり,衣類を包んだりした方形の布,のちに物を包むのに用いる絹布になった」

とある。しかし,足に敷いたものが,物を包むものになるのだろうか。しかし,大言海も,

「もと風呂場に敷きて,足を拭布ヘルなれと云ふ。一説に,振敷(ふりしき)の転,打敷の意と云ふ」

とある。「打敷(うちしき)」とは,

器物などをのせるために敷く布帛,
あるいは,
寺院の高座または仏壇・仏具などの敷物。死者供養のため,その衣服でつくった,

とある(岩波古語辞典)。これなら,包むのに転用はある。しかし,多く,風呂関係を語源とする。たとえば,

「風呂に敷くことからの名。 室町時代の風呂は蒸し風呂のようなもので、蒸気を拡散 させるために『むしろ』『すのこ』『布』などが床に敷かれていたものが起源であるが、現在の風呂敷にあたるものは『平包(ひらづつみ)』と呼ばれていた。 足利義満が大湯殿を 建てた際、大名たちが他の人の衣類と間違えないように家門入りの絹布に脱いだ衣類を包み、湯上りにはこの絹布の上で身づくろいをしたという記録があり、これが『風呂敷』と『平包』の間に位置するものと考えられている。江戸時代に入り、湯をはった銭湯が誕生し、衣類や入浴道具を四角い布に包まれるようになったのが現在の風呂敷に最も近いもので、風呂に敷く布のようなもので包むことから、『風呂敷包み』や『風呂敷』と呼ばれるようになった。銭湯が発達したのに伴い、江戸時代の元禄頃から『平包』に代わり『風呂敷』の呼称が一般に広まった」(語源由来辞典)

「語源は,『風呂+敷き物』です。風呂に入る時,広げて,汚れた下着・衣類を包みこんだ敷物です。これは近世の語源です。能登半島,曽々木海岸近くの史跡,平時国家には,風呂桶の上に白い木綿布が掛けられ,風呂敷の語源とあります。平安末には,侍女が運んだ人肌に近い温水をかぶるのが湯浴み,入浴でした。その時,『貴族の身体が,直接風呂桶に触れないように,敷物』を敷いたのです。時代を経て,近世に至り,入浴の習慣ができ,庶民たちが,銭湯で風呂敷に汚れ物を包み込む習慣と変化したのです。現代語では,物を包む四角な布を言います。清浄なものを汚さぬ布の意識がある所以です」(日本語源広辞典)

等々。しかし,汚れ物を包んでいた風呂敷を,進物を包むのに用いるであろうか。どうも,この説には無理がある。「風呂敷」と当てた字にとらわれているのではないか。確かに,語源説の大勢は,

風呂場に敷いて足を拭う布の意から(貞丈雑記・骨董集・袂草・俚言集覧・守貞漫稿・大言海),
風呂場に敷いて衣類を包んだりした布の意から(南嶺遺稿・鳴呼矣草・名言通・増補国語研究=金田一京助),

という風呂の足拭きか脱衣類包みが多い。しかし,

「風呂敷といふものは,元湯あがりに敷もの故,ふろしきといふ。今の湯ふろしきといふは重言也。室町家の時分,大湯殿を建て,近習の大名衆,一処に入玉ふ事也。(略)是より物を包むものを,惣てふろしきといふやうに成たり。只ふくさ包といふべし。ふろしき包とはいやしき名也」

とある(南嶺遺稿)。どこか違和感があったからではないか。やはり,足拭きを包みに転ずるのは納得しがたい。

800px-風呂敷_唐草模様.jpg

(唐草模様の風呂敷 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E6%95%B7より)

正倉院の所蔵物にそれらしきものがあり,古くは,

衣包(ころもつつみ),
平包(ひらつつみ),

と呼ばれていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E6%95%B7,とある。

「正倉院宝物の中に舞楽の衣装包みとして用いられたものが残っているこの専用包みには、現在の風呂敷にはない中身を固定するための紐が取り付けられていた。また、伎楽衣装を包む『伽楼羅(かるら)包(本来は果冠に下が衣)』、子どもの衣装を包む『師子児(ししじ)包(同じく元の字は果冠に衣)』と言う呼称が用いられ、それらに収容する内容物が墨書されていた」

らしい(仝上)。

「平安時代には『平裹』・『平包』(ひらつつみ)と呼ばれていて、庶民が衣類を包んで頭にのせて運んでいる様子が描かれている。また、古路毛都々美(ころもつつみ)という名称も和名類聚抄にうかがえる」

ともある。風呂敷の語源は,この物を包んでいた布,と考えるのが自然ではないか。その「平包」を,

「日本の室町時代末期に大名が風呂に入る際に平包を広げその上で脱衣などして服を包んだ、あるいは足拭きにした」

のであって,前後は逆に思える。

「風呂敷」という言葉が、物を包む裂として一般に用いられるようになったのは江戸時代も中期以後,それまでは、包まれているものを冠して,

けさづつみ,
ころもづつみ,
おおづつみ,
首包み,

等々と呼ばれていた。それが,風呂敷包に一括されたのは,

「江戸時代に入り庶民に銭湯が普及し、銭湯で脱いだ衣類を包んだり、その上で着替えるのに風呂敷が用いられました。この頃から風呂敷の名前が一般に定着してきたものと考えられます。そして花見など物見遊山が大衆化したことで、風呂敷を使う機会が増えました」

というhttp://www.furoshiki-kyoto.com/how_to/lecture_history.htmlのが,正しくはないか。この背景にあるのは,木綿の栽培,精製の普及がある。

「江戸時代の火事への備えとして、風呂敷は布団の下に敷かれるようになりました。その理由は、火事が多い江戸の町で、夜でも鍋釜と布団をそのまま包んですぐ逃げられたからです。このように、普段使いの利用法と違い、代用品として手近にあるものの利用法として『早風呂敷』と名付けられたとされています」

ともある(仝上)。因みに,風呂敷は正方形ではないそうである。

「上下と左右の長さがほんの少し違う。風呂敷は、反物を裁断しその端を三ツ巻きにして縫い上げる。縫った端を天地(上下)とし、生(き) 地(じ) 巾(はば) が左右となる。巾(はば) よりも天地方向のほうが若干長くつくられている」

という(http://www.ymds.co.jp/knowledge/trivia.html)。

なお,江戸の銭湯についてはhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/461421912.html前に触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年09月22日

あかねさす


「あかねさす」は,

茜さす,

と当てる。

茜色に照り映える意で,

「日」「昼」「照る」「君」「紫」などにかかる枕詞である(広辞苑)。

「東の空があかね色に映える意から昇る太陽を連想し,美しく輝くのをほめて」

かかる,とある(岩波古語辞典)。

大海人皇子が蒲生野で狩りをしたとき,額田王が詠んだ歌,

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

が例だが,確か母校の校歌に「あかねさす」のフレーズがあった。

大言海は,「あかねさす」について,

「アカは,明き義なり。ネには意なし。島ね,眉(まよ)ね,羽ねの如し(万葉集古義)。サスは,輝くなり,明気(あかき)映(さ)すの意。イアカネサシと云ふは,中止形なり。因りて,日,昼,照るにつづく。紫には,其色の匂ふにつづけ,君には,其顔のにほはしく色づけるにつづくるなり。紅顔の意にて,赤羅引く君と云ふが如しと云ふ」

とする。因みに,「赤羅引く」は,

「アカラは,アカラムの語幹。明根映(あかねさ)すと同意。明かく光る日とかかり,赤みの映(さ)す子(女子),君,(紅顔の意)膚とかかる」

とある(大言海)。大言海の説明を敷衍すると,厳密には,「あかねさす」は,

茜色に照り映える意から、「日」「昼」「照る」にかかる,

と,

紫(古代紫)は赤みを帯びていることから、「紫」にかかる,

と,

照り映えて美しいの意で、「君」にかかる,

とは,少し異なる。つまり,単純に,

茜色がさす,
赤く照り映える,

という状態表現が,枕詞に使われるとき,「日」「昼」「光」「朝日」等にかかる,

赤い色がさして光り輝く,

意から(「茜刺(あかねさす)日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」万葉集),さらに,紫色、蘇芳(すおう)色との色彩としての類似から,それぞれ同音の「紫草(むらさき)」および地名「周防(すおう)」にかかる(「茜草指(あかねさす)紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る」万葉集)。紫が赤みを帯びている意で、「紫」の枕詞とされているが、あるいは、

これも日に照って光り輝いている意から、「紫野」にかけたのではないか,

とも考えられる,とされる(精選版 日本国語大辞典)。そして,「君」にかけ,

顔が赤く照り輝いている,

意で(「飯(いひ)喫(は)めどうまくもあらず行き行けど安くもあらず赤根佐須(あかねサス)君が情し忘れかねつも」万葉集),

と,紅顔、紅頬(こうきょう)の意のほめことば(一説に、赤心、すなわち真心のある意でかかるという),あるいは,光り輝く意から、美しい君にかける,という価値表現へと転化している(仝上)。

なお,茜色(https://www.color-sample.com/colors/2/)は,濃い赤色系カラーで,「暗赤色」という別称もある。万葉名では

茜,
茜草,
赤根,
安可根,

等々という表記される。「茜」(セン)は,

「会意兼形声。『艸+音符西(日の落る方向,夕焼け色)』」

とあり,「あかね」の意である。

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「アカネの名は『赤根』の意で、その根を煮出した汁にはアリザリンが含まれている。その根は染料として草木染めが古くから行われており、茜染(あかねぞめ)と呼び、また、その色を茜色と呼ぶ。同じ赤系色の緋色もアカネを主材料とし、茜染の一種である。このほか黒い果実も染色に使用できる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8D。古く『魏志倭人伝』にも「邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から茜色の絹を送られた」という記述もある。しかし,この日本茜を使って鮮やかな赤色を染める技術は室町時代に一時途絶えた,らしい。

「日本アカネで染めた色は、外国産のアカネと比べて黄色みを帯びるのが特徴です。茜色は染色に工数がかかるため、江戸時代には蘇芳すおうで代用した似茜(にせあかね)が出回りました」

らしい(https://www.i-iro.com/dic/akane-iro)。途絶えた日本茜の茜色は,

「染色家の宮崎明子が1997年にかけて、延喜式や正倉院文書などを参考にして、日本茜ともろみを併用する古代の染色技法を再現した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8Dが,現在では、アカネ色素の抽出には同属別種のセイヨウアカネ(西洋茜、R. tinctorum)が用いられることがほとんどである(仝上),という。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;
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2019年09月21日

甘酒


「甘酒」は,

醴,

とも書く。

「白米を柔らかい粥のように炊き,少しさめたときに麹を加えて混ぜ合わせ,醸して甘くした飲み物」

である(たべもの語源辞典)。

甘い,

から「甘酒」という,らしい。

「麹を加えて醸してつくるのでアルコール(酒精分)は少ないが酒と呼ばれる」

ともある。「甘酒」には,いまひとつ,

「酒粕をとかして甘みをつけたものも」

あり,

「醸して一夜を経て甘酒とするので一夜酒(ひとよざけ)ともいう」

とある(仝上)。つまり,「甘酒」は大きくわけて二つの種類があり

ご飯やお粥に米麹を混ぜて醸造したノンアルコールのもの,

酒粕を使ったアルコールを含むもの,

と。前者は,甘粥,とも呼ばれる。

「甘酒」は,

「甘酒、昔は酒蔵が夏に手が空いた時期の副業として作られていた」

らしい。

「酒蔵が甘酒を副業として作る理由としては、作る工程が似ていることから夏の閑散期に作ろうという流れとなりました。清酒の工程は、まずお米を蒸します。蒸した米のでんぷん質を麹菌が糖分に分解、酵母菌がその糖分を栄養源にしてアルコール発酵し、出来たもろみを搾ると酒と酒粕に分かれ濾された酒が清酒となります。一方で甘酒は、蒸した米のでんぷん質を麹菌が糖分に分解し出来上がります」

とかhttps://www.kayamasyuzou.com/amama/blog/2018/02/01/

中国では西暦紀元前後の前漢の歴史を記した『漢書』(班固編)に醴酒の名で登場するらしい。そして甘酒は「醴斉」と呼ばれ,神を祭るのに用いる酒である「斉」の一種として扱われ、一般に人が飲用する「酒(シュ)」とは区別されていた,とかhttp://www002.upp.so-net.ne.jp/hidemi-k/thought/t074.html

日本では,

「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が醸した天甜酒(あまのたむざけ)はいまの甘酒であろう」

とされるとか(たべもの語源辞典)。また,

「応神天皇の十九年十月十日に吉野宮に行幸されたとき,国栖(くず)の人が醴酒(こざけ)を献じたとある」

のも,「甘酒」とみなされる(仝上)。

「古くから,濃酒(こざけ)・醴酒(こざけ)。口酒(こざけ)というように『こざけ』という語があるが,酒をつくるのに口で米を噛んだことが察せられる」

ともある。

醴酒が行商されるようになったのは室町時代からで,京阪ではもっぱら夏の夜だけ売ったが,江戸では初め冬のものとされ,やがて夏も売るようになり,後には四季を通して売られた,という(仝上)。ただ,俳句では,夏の季語である。

「夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的ないわば「夏の栄養ドリンク」として、江戸時代には夏の風物詩だった。『守貞漫稿』には、『夏月専ら売り巡るもの』が『甘酒売り』と書かれており、非常に人気がある飲み物であった。」

からのようである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%85%92)。江戸幕府は庶民の健康を守るため、老若男女問わず購入できるように,甘酒の価格を最高で4文に制限していた,という。甘酒造りは,武士の内職でもあった,とか(仝上)。

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(守貞漫稿「近世風俗志」甘酒売り http://xn--l8j4ao3n.com/history-3/より)

江戸時代の甘酒売りは,天秤棒の前に茶碗やお盆を、後ろの箱には甘酒を温めるため炭火を熾した炉に釜を据えて,

「甘い・甘い・あ〜ま〜ざ〜け〜」

などの文句で売り歩いた。

「こうした姿から、一方が熱くてもう一方が冷めている状態を『甘酒屋の荷』と称して『片思い』を連想させる洒落た喩え言葉も生まれました」

ともあるhttp://www.hananozaidan.or.jp/syunnohanasi_09.html

「江戸中期天明(1781~89),江戸横山町などで『三国一』とか『白雪醴』という名をつけて甘酒が売られたのは,木花咲耶姫が富士浅間神社の祭神だからである。神社仏閣の境内,縁日祭礼の盛り場などで販売されるようになったのは,天保(1830~44)のころからで,浅草本願寺門前の甘酒店は最も名高かった」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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2019年09月20日

瓢箪鯰


「瓢箪鯰」は,

ひょうたんで鯰を押さえる,

という諺の名詞化,

つかまえどころがないもの,

の意である(広辞苑)。正確には,

ぬらぬらしてなかなかつかまえることのできないこと,

転じて,

ぬらりくらりとして要領を得ないさま,

の意とある(精選版 日本国語大辞典)。

まるく滑らかな瓢箪でぬるぬるした鯰をとらえようとする,

を喩えとして,

とらえどころのないこと,要領ををえないこと,

を言う(故事ことわざ辞典)のに使う。江戸語大辞典には,

瓢箪で鯰を和える,

という言い回しも,同趣と載る。

「世の中の事は万事胡蘆子(ひょうたん)で鯰をへるが如く」(安永八年・竜虎問答)

とある。「瓢箪」は,漢語で,

瓢(ひょう 瓠、匏とも表記),
瓢瓠(ひょうこ),
胡盧(ころ 葫盧,葫蘆,葫盧,壺盧,とも表記),

とも言うhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%B3。「瓢」(漢音ヒョウ,呉音ビョウ)は,

「会意兼形声。票は『要(細い腰)の略体+火』の会意文字で,火が細く軽く舞い上がること。瓢は『瓜(ウリ)+音符票』で,腰が細くくびれて軽いひょうたん」

とある(漢字源)。「ひょうたん」の意である。「箪」(タン)は,

「会意兼形声。『竹+音符単(タン 平らで薄い)』。薄い割竹であんだ容器のこと」

であり,和語では,

ひさご,
ふくべ,

という。この植物の果実を加工して作られる「ひょうたん」は,

「瓢」の「箪(容器)」

という意味になる(仝上)。

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(大巧如拙筆「瓢鮎図」(室町時代)。京都・退蔵院蔵。鮎は鯰 (なまず) 。瓢箪で鯰を押えるという禅の公案図。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A2%E9%AE%8E%E5%9B%B3より。)


「瓢箪」は,

「『瓢』はひさご,『箪』は竹製のまるい飯櫃」

とある(広辞苑)が,日本語源大辞典に,

ひさごとかたみ,

とある。つまり,

「酒などを入れるひさご(瓢)と,飯を盛るかたみ(筺)。『箪』は,竹で編んだ目の細かいかご,すなわちかたみをいう」

とある。この本来「瓢」と「箪」は別物である。大言海は,「へうたん」の項で,

「簞(タン)は,竹の組籠なり,簟(テン)にあらず,一簞食一瓢飲を,朗詠集に瓢箪屡空と熟語に用ゐたるより,一物に誤用す」

とする。「一簞食一瓢飲」とは論語で,顔回を評した言葉。

子曰。賢哉回也。一簞食。一瓢飮。在陋巷。人不堪其憂。回也不改其樂。賢哉回也(子曰、賢なるかな回や。一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や)

に由来する。日本語源大辞典も,

「瓢と箪は別物の器を指したが,『和漢朗詠集』で『瓢箪しばしば空し 草顔淵が巷に滋し〈橘直幹〉』と熟語に用いられてから,瓢の意味だけに誤用されるようになった」

としている。しかし多く「ひざご」の形で使われ,「ひょうたん」という言葉が一般に使われ出したのは,室町期以降のようである。「ひさご」は,古くは,

ヒサコ,

であり,

「ユウガオ・フクベ・ヒョウタンといったユウガオ科の腰のくびれた植物の果実から作った容器を,古くはヒサコと称した。『十巻本和名抄』にも『奈利比佐古』がみえる。ひしゃく,しゃくしの語はヒサコに由来する」

室町期に,ヒサコ,ヒサゴが用いられた。

「瓢箪」は,縄文時代草創期から前期にかけての遺跡である鳥浜貝塚から種子が出土していると言い,日本書紀』(720年成立)の中で瓢(ひさご)として初めて登場する。その記述によると,

「仁徳天皇11年(323年)、茨田堤を築く際、水神へ人身御供として捧げられそうになった茨田連衫子という男が、ヒョウタンを使った頓智で難を逃れた」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%B3

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:瓢箪鯰
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2019年09月19日

河童


「河童」は,

河(川)太郎(かわたろう),

とも言う。

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(鳥山石燕『画頭百鬼夜行』河童 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5より)

「かっぱ」は,

「『かわ(川)』に『わらは(童)』の変化形『わっぱ』が複合した『かわわっぱ』が変化したもの」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5),

「カハワラハ(河童)の訛,カハワッパの約」(日本語源広辞典,名言通,大言海,江戸のかたきを長崎で=楳垣実),

とされる,

かわわらべ,
かわらんべ,

という方言もある(日本語源広辞典),とか。

「日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿」

ともいう(仝上)。河童の呼称は,

ガーッパ系 カッパ,ガッパ,ガラッパドンなど,
河(川)太郎系 カワタロウ,ガタロウ,ガータロ,ガワンタロなど,
川原坊主系 カワラロゾウ,カワラボウズ,カワソウなど,
川の殿系 カワノトノ,カワントノ,カワノヌシなど,
猿猴系 ホナコウ,ユンコサン,エンゴザルなど,
その他 メドチ,ガメ,ヒョウスンボ,コマヒキなど,

の六つの系統に分けられる,という(日本伝奇伝説大辞典)。河童が文献に最初に現れるのは,

河伯(かはのかみ),

として,日本書紀にある。河童のこととされている。

「河童」は,

「体格は子供のようで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多く、肛門が3つあるとも言われる。体臭は生臭く、姿は猿やカワウソのようと表現されることもある。両腕は体内で繋がっており、片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるとされ、これは、中国のサル妖怪で、同様に両腕が体内で繋がっていると言われる『通臂猿猴』の特徴と共通している」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5),「通臂猿猴(つうひえんこう)」というのはよく分からないが,『西遊記』中では孫悟空に重用された二匹の通臂猿猴「崩」「芭」が登場している。

「18世紀以前の本草学・博物学書上における河童のイメージは両生類的ではなかった。例えば、文安元年(1444年)に成立した『下学集』には『獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)に成る』とある。また、『日葡辞書』の「カワラゥ」の項では、川に棲む猿に似た獣の一種と説明されている。18世紀半ばに、山がなく猿に馴染みのない江戸の人びとに受容しやすい、カエルやスッポンに似せた両生類的な江戸型の河童のモデルが生まれ、19世紀には出版物を通じて全国に伝播し、置き換えられていったと考えられている」

とある(仝上)。「本朝俗諺志」や「和訓栞」には,

「昔,河童は黄河の上流に棲んでいたが,その中の一族が海を渡って九州の球磨川に棲んだ。そこで河童が繁殖して九千匹になった。九千坊と称する族長は乱暴者で,加藤清正が九州の猿を集めた攻め立てたところ,河童は降参して肥後を去り,久留米の有馬公の許しを得て筑後川に棲み,水難除け神の水天宮の使いになった」

とある(日本伝奇伝説大辞典)。川祭りとか,水神祭を六月に行うのは,河童を祀り,胡瓜をそなえるのは,それに因るとか。ただ,河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ,大陸からの渡来とされるが,

「東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5)。

もともと,「河童」は,

「田の水を司り,田の仕事を助けることもある。西日本の各地で,河童は秋冬は山にすみ,春夏は里にすむと伝える点は,田の神去来の信仰と対応する。河童は,小さ子たる水神童子の零落した姿であったろうと考えられている。かつて水神の化身,もしくは使者として信仰され,今でも各地で水神として祭られている。しかし,信仰の衰えに従ってしだいに妖怪に零落」

したものである(日本昔話事典)。

河童石,

というものが各地にあるが,

川子石(かわごいし),
川太郎石(かわたろういし),
ガラッパ石,
ヒョウスエ石,
エンコウ石,

等々ともいい,

「春に山の神が水脈を伝わって里へ降りて来て田の神となり,秋に山にまいもどり山の神になるという信仰伝承に似て,河童は春は里に,秋は山に行くと信じられていたが,その中継基地が河童石と考えられる。ために,精霊の拠る台座として祭祀の対象にも,また常人の近づくことを許されぬ禁忌の対象にもなっていた」

という(仝上)。

河童の駒引き,

という馬が川に引き込まれる昔話は,多く,川の近くにある河童石に絡むことが多いのは,信仰が薄れた後のことと思われる。三重県志摩の伝承に,

「河童が馬に蹴られて頭上の水をこぼして力を失ったので,寺の住持に頼んで水を入れてもらい,お礼に大石二個を奉納した。そしてその石が朽ちるまで村人を害さないと誓ったという」

こぼし石,

は,いまも祭祀し,水難除けのご利益があるという(仝上)。水神としての河童への微かな信仰の翳が残っている。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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2019年09月18日

屁の河童


前に触れた,

朝飯前(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470157206.html?1568660734),
お茶の子さいさい(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451394732.html),

と似た言い回しに,

屁の河童,

という言い方がある。

河童の屁,

とも言う。

何とも思わないこと,
へいっちゃら,
たわいもないこと,
全く容易でなんともないこと,

等々という意味で使う。この語源は,

木端の火の転訛,
水中でする屁,

の二説がある。「木っ端」説を採るのは,

「屁の河童は木っ端の火(こっぱのひ)という慣用句からきている。木端(木の屑)の燃える火は火持ちしないことから、たわいもないこと・はかないことを木っ端の火といった。これが訛って河童の屁となり、更に転じて屁の河童となった」(日本語俗語辞典)

「『木っ端の火』は語源が定まっているため,『木っ端の火』の転化説が妥当である」(語源由来辞典)

「『屁』は誰の屁であるにせよとるにたりないものであるが、なぜわざわざ想像上の動物である河童に託したのか疑問が残り、水中で出す屁なので勢いがないなどという、苦し紛れの解釈もなされている。一方で、すぐに消えてしまう『木くずについた火』という意味の『木っ端の火』が訛った言葉であるとの見解もあり、どちらかというとそのほうが説得力がある」(笑える国語辞典)

「『木(こ)っ端(ぱ)の火(あっけないこと、たわいのないこと)』がなまって『河童の屁』となり、『屁の河童』と転じたものという」https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-29-5-0001.html

と,ネットで拾う限り,「木っ端」説が大勢である。しかし,語源説は,いままでいろいろ調べた経験で,理屈ばったもの,辻褄を合わせようとするものは,大概付会と相場が決まっている。訳の分からない河童を採ったことの方に,意味がある,と僕は思う。「水中の屁」説は,

「『河童の屁の倒語』です。水中の屁はたわいなく消える,たわいない意です。転じて,たやすい意」(日本語源広辞典)

「河童の屁は水中でするので勢いがないところから」(故事ことわざ辞典)

と,印刷媒体がこれを採る。注目すべきは,「故事ことわざ辞典」が,

物事がたやすくできること,

味も香りもないこと,無味乾燥なこと(多くはうまくない茶にいう),

どっちつかずの中途半端な人間に喩えるのに用いることば,

という意味の変化を述べていることである。

「木っ端の火」では,たやすいことは,意味として見えるが,

無味乾燥,
どっちつかず,

の意味は見えない。無味乾燥の用例として,

気軽さは佐吉かっぱの屁を呑ませ(雑俳・柳多留),

が載る(故事ことわざ辞典)。理屈ばった語源説を,僕は採らない。

河童の屁,

は,河童でなくてはならない。

木っ端の火,

では面白くもおかしくもあるまい。

Kappa_water_imp_1836.jpg

(享和元年(1801年)に水戸藩東浜で捕まったとされる河童 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5より)


たやすいことを言うのに,

屁でもない,

という言い回しもある。その屁と河童を繋げたところがミソではないか。河童にとって屁でもないという意の,

河童の寒稽古,

という似た言い回しもある。やはり,河童の屁は,

河童の屁,

でなくてはなるまい。

朝がへりつくづく思やかっぱの屁(金升・柳多留)

という川柳もあるが,江戸語大辞典に,

河童のおなら,

とも載る。ぬるい出がらし茶を,

かっぱのおならといふ茶だ(寛政十一年・品川楊枝),

という用例もある。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:屁の河童
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2019年09月17日

朝飯前


「朝飯前」は,文字通り,

朝起きて朝食をとる前,

の意だが,

(朝飯を食べる前にできることから)容易なこと(広辞苑),

あるいは,

(「朝食を食べるほどのわずかな時間でできる)たやすいこと(goo辞典),

と,謂れの違いはあるが,

簡単にできる,

意である。語源由来辞典は,

「朝飯前は字の通り、朝飯を食べる前のこと。 朝飯を食べる前は、空腹かつ時間もない ため、簡単な仕事しかできない。 特に、江戸時代中頃までは食事が一日二回だっ たため、朝飯前には力が入らない。 そのようなことから『朝食前でも仕上げられる簡単な 仕事』という意味」

とするし,日本語源広辞典も,

「朝食を取る前にできてしまうほど,たやすいこと」

とする。大言海に,

「こんな重い物,朝飯前には持ち上げられぬなど云ふは,飢腹(ひだる)き意より云ふなり」

とあるので,やはり,そんな状態でもできる,という意味ととるのが自然のようだ。江戸語大辞典に,

朝飯前にできぬ,

という諺が載り,

「空腹ではなにもできぬ,腹が減っては軍(いくさ)は出来ぬの類」

の意が載るので,そんな状態でもできることの意,とみていい。

朝飯前と同様に,簡単なことを意味する表現で「お茶の子さいさい」がある。

「お茶の子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451394732.htmlで触れたように,「茶の子」は,

茶の子,御茶菓子,また間食としてとる軽い食事,
(腹にたまらないところから)たやすくできること,

という意味である(広辞苑)。前者の意味から,後者へ転じたということでは「朝飯前」と似ているようだが,大言海は,「茶の子」について,

茶うけ菓子。點心,
朝茶子と云ふは,朝食に,茶粥を用ゐることなるべし,略して,チャノコとも云ひ,朝飯のこととす(今,静岡縣にては,朝飯をアサジャとも,チャノコとも云ふ)
朝の空腹に粥なれば消化(こな)れやすく,腹にたまらぬ意よりして,容易(たやす)きこと,骨折らずできること,又,朝腹の茶の子と云ふ諺も,容易なる意に云ひ,お茶の子などとも云ふ,

とする。「茶の子」が「お茶うけ」では,

容易,

という意味にはつながらない。

茶うけ→朝茶子(朝粥)→たやすい,

なら,少し意味が流れる。だから,「お茶の子」は,

「お菓子のこと。お菓子は腹に残らないことから、容易にできること、たやすいことをいう。」(「とっさの日本語便利帳」)

では,意味が飛躍しすぎる。「お茶うけ」は,腹にためるものではない。

腹にたまらない→たやすい,

と転じるには,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

と,もう一つ意味の拡大を挟んでいたのではあるまいか。あるいは,『隠語大辞典』に,

間食のことを茶の子といったので手軽な食,

ともあるので,間食も含めた,

お手軽食,

という意味から,たやすい,という意味に転じたというふうにも見られる。

お茶うけ→朝茶子(朝粥)あるいは手軽な間食→腹にたまらない→たやすい,

と,その手軽さが,たやすさへとシフトした,ということなのかもしれない。

『日本語源大辞典』には,

「朝食前,起きぬけにとる間食を茶ノ子と言うので,朝飯前の同義語としていう」(日本古語大辞典)

と言う説を載せている。つまり,ただの間食ではなく,

朝飯前の起きぬけの食事,

ということだから,正確には,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

の流れに,「朝飯前」という意味が重なる。それが,たやすいという意味と直接的につながっていく。

『日本語の語源』は,

オチャヅケノゴハン(お茶漬けの御飯)→オチャノコ(お茶の子),

と変化したという説を載せる。これを取るなら,もともとあった,

お茶の子,

とは別に,起きぬけの朝粥(あるいは茶漬け)を略して「茶の子」と言うようになった流れがあり,「お茶の子」に二重の意味が重なったのではないか。つまり,

お茶漬けの御飯→お茶の子,

が,本来の「お茶の子さいさい」の原点なのだが,それに,もともとあった,「茶うけ」の「茶の子」と重なった,というように。『日本語源広辞典』は,

「お茶の子(農民の朝飯前の代用食)+サイサイ(囃し言葉)」

と,よりクリアに,「お茶の子さいさい」の「お茶の子」の出自を明確化している。まさしく,

朝飯前,

なのだ。だから,たやすい意とつながる。これに「茶うけ」の「茶の子」の意味が重なったほうが言葉の陰翳は深まるような気がするが。

また「朝っぱら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/418872120.htmlで触れたように,「朝っぱら」にも,

朝食前のお腹,

という意味と,

極めてたやすいこと,
朝飯前,

の意味が載る(岩波古語辞典)。朝飯前の時間は,お腹のすいた,余り機嫌のよくない,エネルギーのない時間にもかかわらずできることという意味になる。

ところで,「朝飯」は,

朝餉・朝食

の意であるが,古くは,

アサケ,

といい,日葡辞書に,

アサケヲコシラユル,

と載る。夕餉・夕食も,古くは,

ユウケ,

で,日葡辞書には,

ユウケ,ユウメシ,

で載る。「朝飯」について,

「古代,朝廷などでは朝夕の二食を常とした。天皇に差し上げる朝食のことを『あさがれい』といい,一般には朝食のことを『あさけ』といった。日葡辞書には『Asaqe(アサケ)』『Asaiy(アサイイ)』の形があり,中世以降,『あさいい』,『あさめし』の形も使われるようになった。『いい』に対して,『めし』は『めしあがりもの』による丁寧語であって,『あさいい』よりも『あさめし』のほうが上品な言葉と意識されるようになった。近世以降『あさめし』がもっとも広く用いられたが,近代に『めし』が一般語となるとともに,『あさはん』,またより丁寧な表現として『あさごはん』(朝御飯)が用いられるようになった」

とある(日本語源大辞典)ので,

朝飯前,

という言い回しは,江戸期以降の言葉と見ていい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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