2020年04月05日

ははこぐさ


「ははこぐさ」は、

母子草、

と当てる。

ヒキヨモギ、

とも言う、春の七草のひとつ、

ごぎょう(御形)、

のことである。

母子草.jpg



春の七草については、「七草粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474392568.html?1585940926で触れたし、

「すずしろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.html
「すずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465179244.html
「ほとけのざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464898986.html
「なずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464883576.html
「はこべ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464851193.html

でも触れた。「ごぎょう」は、

御形、

の他に、

五行、

とも当てる。四辻善成が、「源氏物語」の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で、平安時代の「若菜まいる」の中で、

薺(なずな)、繁縷(はこへら)、芹(せり)、菁(すずな)、御形(ごぎょう)、須々代(すずしろ)、佛座(ほとけのざ)、

の七種を挙げたのが、七種の嚆矢とされているhttp://chusan.info/kobore3/46nanakusa.htm。その一つである。

「ごぎょう」は、

おぎょう、

とも訓ませ、

厄除けのために御形とよばれる人形(ひとがた)を川に流した、雛祭りの古い風習が関係している、

と考えられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8F%E3%82%B3%E3%82%B0%E3%82%B5、とある。地方によって、

アワゴメ(粟米)、ウサギノミミ(兎の耳)、ホーコ、マワタソウ(真綿草)、キャーロツリクサ(蛙釣草)、コウジバナ(麹花)、モチグサ(餅草)、

等々方言名がある(仝上)、らしい。大言海は、

天兒(アマガツ)の類のはうこ(這兒)は、母子(ははこ)の音便にて、母子人形なり、これに供ふる母子餅を裂くる、因りて、其草を母子草と云ふなり、御形(オギャウ)は、人形(ヒトガタ 人形(ニンギョウ))に由ある語なるべし、

とする。「天兒」http://ppnetwork.seesaa.net/search?keyword=%E5%A4%A9%E5%85%92で触れたように、「天兒」は、

祓(はらえ)に子供の傍に置き,形代(かたしろ)として凶事をうつし負せるために用いた人形、

で、似たものに、

這子(ほうこ)、

があり、文字通り,

小児の祓いの人形、

で、

古代,祓(はらえ)に際して幼児のかたわらに置き,形代(かたしろ)として凶事を移し負わせた人形、

であった「天児」が,

後世は練絹(ねりぎぬ)で縫い綿を入れて,幼児のはうような形に作り,幼児の枕頭においてお守りとした這子(ほうこ)をいうようになった、

のである。「御形」は、

鼠麴草(ほうこぐさ)、

とも言い、薬名では、

ソキクソウ、

と訓む。全草を鎮咳・去痰などに用いるらしい。本草綱目には、

鼠麴草、母子草と書く、今はホウコグサと云ふ、おぎゃう、御形と書く、後世誤り唱へて、ゴギャウとす、古書には皆、オギャウと云へり、

とある。

ただ、這子は、母子象ではなく、首と胴は綿詰めの白絹、頭髪は黒糸、這う子にかたどってある、

這っている人形,
幼児の這い歩く姿をかたどった人形,

であるhttps://www.weblio.jp/content/%E9%80%99%E5%AD%90%E5%A9%A2%E5%AD%90

這子.gif



ほうこ(這子)→ははこ(母子)、

という転訛ならともかく、この人形そのものは、母子の像ではない。

御形とよばれる人形(ひとがた)を川に流した、

というのは、「天兒」「這子」が、

幼児のかたわらに置き,形代(かたしろ)として凶事を移し負わせた人形、

であるなら、「形代」は、

人の身についた穢れや厄を託して,海や川に流すもの。神霊の依代 (よりしろ) の一種と考えられている。多くは紙の小さな人形 (ひとがた) であるが,ところによってはわら人形や,食物に託すこともある。鳥取県の流し雛も形代の一種で,川に流したり,氏神様の境内に納めたりする、

のである(ブリタニカ国際大百科事典)。とすれば、

ほうこ(這子)→ははこ(母子)、

の転訛はあり得る。大言海は、「母子草」の項では、

母子餅を製する草の義ならむ、又、此草を御形と云ふも母子の形代の義ならむ、

と母子像とする。「母子草」は、

古へ、上巳(旧暦の3月3日)に、此の葉にて母子餅を製せり、故にモチヨモギの名もあり、後世は艾(よもぎ)に代ふ、

とあり(仝上)、「母子餅」は、

母子(ははご)(這子)に供ふる餅のぎならむ。後世、この餅を雛に供す、

とあり(仝上)、

後に艾餅のクサモチとなる、

とある(仝上)。倭名抄には、

菴蘆子、波波古、

とあり、本草和名には、

菴蘆子、比岐與毛岐、波波古、

とある(大言海)。

ただ、「母子草」の語源を「天兒」と絡めず、その草の特徴、

茎の白毛、頭花の冠毛がほほけ立っていることから、旧仮名遣いでハハケルと書いたことから「母子」の当て字が生じた(牧野新日本植物図鑑)、
和名抄小説などに見える白嵩の説明がハハコグサの実体に近いので、異名として記された「蘩・皤嵩」を、一語と誤認してハンハッコウと読んだものから転じた(和訓栞・植物和名語源新考=深津正)
白い綿毛をつける草なので乳児の舌をおもわせることから(名言通・日本語源広辞典)、

等々から「母子草」の由来を見ようとする説がある。

しかし、ホウコグサ、ホウケグサ、と言われたのは、江戸時代とする説もありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8F%E3%82%B3%E3%82%B0%E3%82%B5、いにしえからの、幼児、子供の形代から玩具になった、

天兒、
這子、

の転訛と見たい。「御形」という名も、川へ流す「形代」の含意があると見た。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年04月04日

七草粥


「七草粥」は、

七種粥、

とも当てる。正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥の意だが、

菜粥、

ともいう。岩波古語辞典には、

七種の節句(七日の節句)の日に邪気を払い万病を除くために、羹として食した、

とあり、大言海にも、

羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して,此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、

とあるので、当初は、粥ではなく、

羹(あつもの)、

であったらしい。「羊羹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.htmlで触れたように、「羹」は、

「古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して『動物性』の熱い汁物を『臛(かく)』といい、2つに分けて用いました。」

とあるhttps://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/。「あつもの」で引くと、

臛(カク 肉のあつもの)、
懏(セン 臛の少ないもの)、

と載る(字源)。当初は、粥ではなく、汁物にして食していたことになる。

「七草粥」は、もうひとつ、

正月15日に、米・粟・稗・黍・小豆など、7種りのものを入れて炊いた粥、

の意もあり(広辞苑)、後に、

小豆粥、

になったとある。大言海には、

古へ、正月十五日に、米、大豆、赤小豆、粟など七種の穀菜を雑へ煮て、七種(シチシュ)の粥と云へり、是も、今は変じて、小豆粥となる、

とあり、たべもの語源辞典にも、

七種粥、

には、

正月七日の七種の菜を入れた汁粥、

正月十五日の七種のものを入れて炊いて固粥、

とがあり、

米・粟・黍子・稗子・篁子(ミノ かずのこぐさの異名)・胡麻子・小豆・大角豆(ささげ)・薯蕷(じょうよ とろろ)その他これに類したもの七種を入れたが、後には、小豆粥になった、

とある。「汁粥」「固粥」については、「粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.html?1585854393で触れたように、固粥は、今日の飯の意である。「小豆粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473475996.htmlについても触れた。

中国には、六世紀初めの荊楚歳時記に、

正月七日を人日となす。七種の菜をもって羹をつくる、

とあり、中国の「七種菜羹」が日本に伝来したものとみられる。「人日」とは、

人を占う日、

で(語源由来辞典)、七種の菜を温かい汁物にして食し邪気を避ける習慣があった、

とある(仝上)。それが伝わり、

わが国でも、少なくとも平安時代初期には、無病長寿を願って若菜をとって食べることが、貴族や女房たちの間で行われていた。ただ、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、

とある(日本大百科全書)。偽書とされる「四季物語」には、

「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89。なお、平安時代の後期の文献に、

「君がため 夜越しにつめる 七草の なづなの花を 見てしのびませ」の歌があるとされるので、七草を摘むという風習は平安時代には既にあったと考えられます、

とあるhttp://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/kogop/kohakobe.html

七草については、

せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ

と決め、

七種の若菜を初めて禁裏に参らせたのは寛平年中(889~98)である(七草粥の起こりを宇多天皇寛平戌と死正月七日とする)、

とし(たべもの語源辞典)。

七種を羹として食べたが、まず産土神や祖霊に供えた、

とある(仝上)。なお、七日は、

五節句の一つ、

であるが、五節句は、1年に5回ある季節の節目の日(節日)で、1月7日(人日)、3月3日(上巳 じょうし)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)を指す。

七草粥.jpg



この羹が後に、粥になるが、七種粥は、

足利氏の家風に始まるとの説、

足利時代から粥になったとする説、

があるが、いずれにしても、粥になったのは、室町以降である。

「すずしろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.htmlで触れたように、

『延喜式』には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物で、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていた。この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。なお、餅がゆの由来については不明な点が多いが、『小野宮年中行事』には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(『宇多天皇宸記』寛平2年2月30日条)。この風習は『土佐日記』・『枕草子』にも登場する。
その後、旧暦の正月(現在の1月~2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた、

という記述https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89をみると、15日の「もち粥」が、7日の「七草粥」に転じたように見えるが、この両者の関係ははっきりしない。

「七草」は、今日、

芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ 田平子)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)、

とされているが、

現在の7種は、1362年頃に書かれた『河海抄(かかいしょう)』(四辻善成による『源氏物語』の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89

後には、この七種をそろえることが難しい場合、

なずな、をのみ用い、又、後には、アブラナの葉を用いる、

とあり(大言海)、手に入る物をいくつか、白粥・雑炊に入れることが行われた(たべもの語源辞典)、とある。

七草の薬効については、

芹(せり) 香りがよく、食欲が増進、
御形(ごぎょう) 草餅の元祖。風邪予防や解熱に効果がある、
薺(なずな) 冬の貴重な野菜で、若苗を食用にする、
繁縷(はこべら) 目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった、
仏の座(ほとけのざ) タンポポに似ていて、食物繊維が豊富、
菘(すずな) ビタミンが豊富/、
蘿蔔(すずしろ) 消化を助け、風邪の予防にもなる、

とあるhttps://allabout.co.jp/gm/gc/220737/。七草のうち、

「すずしろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465194822.html
「すずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465179244.html
「ほとけのざ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464898986.html
「なずな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464883576.html
「はこべ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464851193.html

については、既に触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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2020年04月03日


「粥」は、

糜、

とも当てる。「粥」(シュク、シク)は、

会意。原字は鬻で、粥は祖の略体。「弓二つ(かこう姿)+米+鬲(煮なべ)」。米をなべにいれて、こぼれないようにかこって(容器に蓋をして)熟するまで米を煮ることをあらわす、

とある(漢字源)。「水をたくさん入れて米を軟らかく煮た」おかゆの意である。「糜」(漢音ビ、呉音ミ)は、

会意兼形声。「米+音符磨(マ 粉々につぶす)」の略体」、

とあり、やはり「おかゆ」の意である。

粥.jpg


「粥」は、

米を鍋で炊いたもの、

で、

食湯(かゆ)、

ともいった(たべもの語源辞典)。

固(堅)粥(かたかゆ)と汁粥(しるかゆ)の総称、特に汁粥、

の意とある(広辞苑)。固粥は、今日の飯の意である(たべもの語源辞典)。これに対して、

強飯(こわめし/こわいひ)、

というのは、

米を甑(こしき)で蒸したもの、

を指す(岩波古語辞典)。「甑(こしき)」は、

米などを蒸すのに使う器、瓦製で丸く、其処に蒸気を通ずる穴がある。のちに、蒸籠にあたる、

とある(広辞苑)。播磨風土記に、

阜(おか)の形も甑・箕・竈どもに似たり、

とある(仝上)、とある。

江戸時代までは米を蒸して飯にしたものを強飯といい、水を加えて柔らかく煮たもの、すなわち炊(かし)ぎ飯を弱飯(ひめ)または姫飯(ひめいい)といっていた。炊飯が一般化するようになってからは、これをご飯(はん)または飯(めし)といい、反対に糯米(もちごめ)を蒸したものを強飯またはおこわというようになった。米を蒸すのが通常の加熱法であった時代には、糯米でも粳米(うるちまい)でも強飯といったが、炊く方法が一般的になってからは蒸したものだけを強飯というようになり、さらに糯米を蒸さずに炊いたものを炊きおこわといっている。

とある(日本大百科全書)。つまり、「姫飯」は、「固粥」、現在の普通の飯になる。蒸したる強飯に対して、姫飯といったものである。

ただ、汁粥・固粥、姫粥・強糜、は、少しずつ時代によって微妙に異なる使われ方をしている。

弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、

脱穀後の米の調理は、…玄米のママに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、

とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。

弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられる。

3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、

と見られhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91

甕(かめ)に似た器の底に1つ、あるいは2つ以上の穴をあけ、これを湯沸しの上に重ね、穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているもの。弥生時代以来使われるようになり,平安時代以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって,江戸時代からのせいろうに引継がれた、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

内に麻布のような粗織の布をしき、洗った米を入れてかたく蓋をし、湯をたぎらせた壺に重ねて仕掛ける。下から火をたくと、壺の湯はさかんに湯気をあげ、湯気は甕底の穴をとおって米を蒸す、

のである(日本食生活史)。奈良時代になると、正倉院文書に、

粥・饘(かたがゆ)、

の文字がみられる、という(日本食生活史)。「饘」は、

甑で蒸したもので、強いので強飯(こわいい)とよんだ…。(中略)単に飯(いい)という場合は強飯をいうのであるが、まれには固粥をさすこともあった、

とある(仝上)。しかし、

蒸さないで煮たものが粥である。庶民の日常食は粥の場合が多かったのであろう。これには、汁粥(しるがゆ)と固粥(かたがゆ)の二つがあり、汁粥は水気が多く、後世でいう粥にあたる水気の少ないのが固粥である。粥には米・赤小豆・粟・そば・いも・大根などを材料にし、それぞれ白粥・赤小豆粥とよばれた、

という(仝上)。

平安時代になると、土器から陶器で米が煮るようになり、これを、

粥、

といい、今日の粥は、

湯(ゆ)、

と呼ばれた、とある(たべもの語源辞典)。平安後期の「江家(ごうけ)次第」には、

固粥は高く盛られて箸を立てることが見えている。固粥は姫飯ともいわれ、後世の飯(いい)であると思われる。飯や粥には米だけのものではなく、粟飯(あわい)・黍飯(きびい)もあった。貴族は汁粥を多く食べていたようであるが、平安末期になると正規の食事でも固粥(飯)を用いた、

とある(日本食生活史)。固粥よりも、水の量が多く、柔らかく炊いたものが、

粥、

で、後世の粥に当たる。

粥には白粥・いも粥・栗粥などがある。白粥は米だけで何も入れてない粥である。いも粥はやまいもを薄く切って米とともに炊き、時に甘葛煎(あまかずら)を入れてたくこともある。大饗(おおあえ)のときにそなえて貴族の食べるものである。小豆粥は米に小豆を入れ塩を加えて煮たもの。栗を入れてたいたものが栗粥である。さらに魚・貝・海藻などを入れて炊く粥もあった、

とある(仝上)。鎌倉時代は、平安時代を受け継ぎ、蒸した強飯が多かったようである。

米を精白して使うことは公家階級のわずかな人々の間に行われた程度であった。それも今日の半白米ぐらいである。玄米食は武家や庶民の間に用いられ、一般的であった。今日の飯と粥に当たる姫飯(固粥)と水粥(汁粥)とは僧侶が用い…たが、鎌倉末期になり、禅宗の食風がひろまると強飯は少なくなり強飯は少なくなり、…今日の習慣にように姫飯を常食とする傾向になった、

とある(仝上)。鉄製の鍋釜ができるのは、室町以降だが、ようやく、

固粥を飯と言い、汁粥を粥、

というようになる(たべもの語源辞典)。だから、

強飯に湯や水をつけて食べる湯飯(湯漬)、水飯(水漬)も用いられる、

ようになる(日本食生活史)。湯飯は、今日の、

茶漬飯、

に近いものであり、饗応の際に用いられた。姫飯を前もって洗って椀にもって本膳に出し、二の膳に出された湯をそれにかけて食べたものである、

とある(仝上)。江戸時代になると、粥はかえって贅沢な、

茶粥、

が用いられるようになる。京・大阪では、

「富豪の家にても朝は新たに茶粥を焚いて食ふと言ふ。味噌汁を食ふことは中食のこととす。此故に土地のものは朝飯を炊き、汁を煮ることを聞いて笑ふもの多し」(浪花の風)というふうでかえって朝飯をたくことを冷笑していた。また江戸から京都へ遊んだものは、この茶粥は倹約のために食べるものだと考えることもあった。たとえば元治元年の石川明徳著の「京都土産」には「粥を食すれば米は過半し益あり」と述べている。だが淀屋辰五郎の好みの食物は茶粥であって、米は摂津米の上等、茶は宇治の上等の煎茶、奈良特製の奈良漬をそえたものであった、

とある(仝上)。

どうやら、粥は、最後は嗜好品にまで格上げされたらしい。

さて、「かゆ」の語源である。日本語源広辞典は、二説挙げる。

説1は、「カ(食)+ユ(ゆるやか)」で、水を多く入れて軟らかく煮た意、
説2は、「カ(加)+ユ(湯)」で、湯を加えた食物の意、重湯、固湯、葛湯などに対する言葉、

しかし、「粥」自体が「食湯」「湯」と呼ばれていたこと、また重湯、固湯、葛湯などに対する言葉、ということは、これが語源ではないことを示す。粥は、湯を加えたものではない、それでは湯漬け、である。説2はいかがであろうか。

大言海は、

食湯(けゆ)の転か、濃湯(こゆ)の転訛か、

とする。この他に、

カシギユ(炊湯)の転(和句解・日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・音幻論=幸田露伴)、

もある。しかし、「粥」の歴史を見れば、米の調理法の流れの中で、強飯・姫飯、固粥・汁粥、と他の調理法との対比の中で、意味を少しずつずらしながら今日に至っている。そういう背景抜きで、単独で考えるのは意味がないと思う。その意味で、たべもの語源辞典の説明が説得力がある。

カユは、ケユ(食湯)カ、コユ(濃湯)などからカユと変わったという説がある。また、加湯ともいう。炊湯(かしゆ)であるとか、炊き湯・かしぐ湯ともいう。堅湯が姫湯とよばれ、それが飯といわれて、汁湯が粥となり、飯と粥になる。粥は湯(ゆ)のことだが、飯が「いい」「めし」とよばれ、この飯を炊く水の量を多くして炊いたものが粥である。水を多く加えた意味と「炊いた」つまり「かしいた」という意味と両方を含んで、湯(ゆ)に「か」音を添えて「かゆ」とよんだのは、「いい」とか「めし」に対する呼び方として、「ゆ」よりも「かゆ」のほうがよかったからである。もともとカユはユだけで通用したものであった。

なお、「あずき粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473475996.htmlについては触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

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2020年04月02日

三献


「三献(さんこん)」は、

さんごん、

とも訓み、

式三献、

とも言う。

酒飯論絵巻.jpg

(土佐光元「酒飯論絵巻」(室町後期) https://tvc-15.hatenablog.com/entry/2019/08/10/053544より)


正式な饗応の膳で、酒肴を出し三つの盃で一杯ずつ飲ませて膳を下げることを一献といい、それを三回繰り返すこと、

とある(広辞苑)。

一献二献三献と、肴を三度変えた膳で、その都度酒を三杯ずつ飲ませるもてなし方、

ともある(岩波古語辞典)。

一献・二献・三献と酒肴(しゅこう)の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返し、9杯の酒をすすめるもの、

という説明(デジタル大辞泉)の方が具体的である。今日の、

駆けつけ三杯、

もここから由来している、とされる(故事ことわざの辞典)。室町時代に「式三献」の語が用いられるようになった(世界の料理がわかる辞典)とあり、

平安後期以来,公家文化の影響を受けながら武家社会の中で育成された室町時代の酒宴には一定の形式が作られていた、

という(室町期における公家・武家衆の酒宴)、

室町時代以後,武家社会の礼法の固定化が進むに伴って整えられた饗膳(きようぜん)形式、

である(世界大百科事典)。室町時代にはすでに種々の伝統に分かれ、

伊勢流、
小笠原流、

等々諸家の流派があった、とされる。今日の、

三々九度の盃、

は、これに始まる。「献」(コン)は、

獻(ケン)の呉音、コン(權(ケン)、ゴン)、たてまつるにて、盃をさすの敬語。獻酬、

とある(大言海)。四季草(伊勢貞丈)には、

肴、酒を出し、三杯勧めて、膳、戻り入る、是れ、一こんなり、幾こん勧むるも、皆同じことなり、

とある。

固めの盃.jpg


「三々九度」は、

出陣・帰陣・祝言などの際の献杯の礼。三つの組の盃で三度ずつ三回酒杯を献酬すること、

と説明がある(広辞苑)が、伊勢流の「宗五大草紙」には、「三々九度の儀」について、

一ツ盃にて三度ヅツ三ツにて、三々九度入るなり。総別盃一ツの時、もちと祝言がましき時は、盃に入る時、そと二度入て三度めに酒を入、二度めに、そと二度入て三度めに酒を入れ、さて三度めに、又そと二度入て三度めに酒を入て、三々九度の数を如此あわするものなり。三さか つきは盃一ツにて三度ツツ入るとおほゆへし(三酒盃酌事)

とある、とか(仝上)。つまり、盃に酒を注ぎ入れるさいには,銚子を盃に2回ほどそっと当、3回目に酒を注ぎ入れる。これが初献の作法。第二献・第三献も同じ手順で酒を盃に注ぎ入れる。これが、
三酒盃酌の方式、

であり(仝上)、いわゆる、

三献の儀、

となる。小笠原流の礼道では、その膳は、

引渡といって昆布・勝栗・のしが一台、梅干・水母(くらげ)・生薑(しょうが)・塩が一台、次に打躬(うちみ)といって鯛・生姜・塩が一台、鯣(するめ)・生姜・数の子・塩・塩引が一台、さらに腸煎(わたいり)といって水母(くらげ)・梅干・鯛が一台、鯣・生姜・鯛・塩辛が一台、

で、これを、

式三献、

といった(日本食生活史)、とある。室町将軍の御成記や武家故実書によれば、

式三献は主殿(寝殿)で行われ、その後、会所に移り、ここで改めて初献から三献までの三献が出された後、五の膳もしくは七の膳までが据えられる膳部となり、さらに四献以下の献部となることがわかる。主殿での式三献と会所に席を移しての初献から三献までの三献とは、全く別のものである。式三献では、初献に海月・梅干・打鮑、二献に鯉のうちみ(刺身)、三献にはわたいり(腸煎り~鯉の内臓の味噌煎り煮)が出されることが通例であるが、これらには箸をつけず、実際に食されることはない、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%86%B3%E6%96%99%E7%90%86、将軍義晴祇園会見物のために、下津屋三郎左衛門方へ立寄ったときの献立は、

初献 鳥、ざうに、五しゆ、
二献 ひや麦、御そへ物、なまとり、
三献 きそく金、こざし、たい、くらげ、

とある(祇園会御見物御成記)し、同じ義輝が、三好義長邸に行ったときは、

初献 龜のから、
二献 のし鮑・つべた貝・鯛、
三献 するめ・たこ・醤煎(ひしおいり)、

の献立という(三好筑前守義長朝臣亭之御成之記)。式三献の酒肴は実際に食べてはならない仕来りになっていたらしいが、実際食べられないものもある。
なお、「かちぐり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471158742.htmlについては触れた。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
加藤百一「室町期における公家・武家衆の酒宴」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/98/10/98_10_716/_pdf

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年04月01日

干菓子


「干菓子」は、

乾菓子、

とも当てる。和菓子の区分では、

水分の少ない菓子、

を言い、

生菓子、

に対して言う。

押し物(落雁(らくがん)の類)、
掛け物(金平糖の類)、
焼き物(煎餅(せんべい)の類)、

等々を言い、

茶の湯では原則として薄茶に用いる、

とある(大辞林)。干菓子は、その製法で、

打ちもの みじん粉などの粉類に砂糖を混ぜ、蜜などを加えたのち木型に入れて押し固めたのち、打ち出して仕上げる。落雁など、
押しもの 打ちものに用いる素材に練り餡などを加え、木枠などに押し付けて仕上げたもの。干菓子に属するが、打ちものより水分量が多い。志ほがま、村雨など、
掛けもの 炒り豆などに砂糖液などを掛けたもの。おこし、五家宝など、
飴もの 砂糖、水飴などを原料とし、煮詰めてから冷却して固めたもの。飴玉、有平糖、おきな飴など、
焼きもの 焼いて作る。平鍋(鉄板)や焼き型を使う平鍋ものと、天火などを使うものとに大別される。干菓子には煎餅、南蛮菓子のボーロなど、
揚げもの 油で揚げて作る(油菓類)。干菓子では揚げ煎餅、新生あられ、揚げ豆、揚げ芋、かりんとうなど、

と分けられるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90

砂糖を主原料とした干菓子。.jpg

(砂糖を主原料とした干菓子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90より)


日本では縄文時代において、栗の実を粉状にしたものを固めて焼いたと見られる独自のクッキーが食べられていた、

らしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90が、古代の日本では果実や木の実などを総称して、

くだもの、

と呼んでいたことは、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れた。やがて、砂糖を用いた菓子が登場すると、それらは、

水菓子、

として分化されることになる(たべもの語源辞典)。室町時代でも、果実を、

木菓子、
時菓子、

と言い(仝上)、厨事類記には、

干菓子(からくだもの)。松実、柏実、石榴、干棗、

とあるらしい(仝上)。

文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90が、唐菓子八種については、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、

梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、

等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、その他、

餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)ことも触れた。この中に、後の、煎餅の始原となる、

煎餅、

おこしの始原になる、

粔籹、

もある。

たべもの語源辞典には、「干菓子」は、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)には、

白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、

とある(たべもの語源辞典)。

金平糖.jpg



アルヘイ糖は、

有平糖、

と当て、

砂糖を煮て作られた飴の一種

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96、コンペイ糖は、

金平糖、

と当て、

砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の菓子、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96、いずれも、ポルトガルより伝わった南蛮菓子である。

ちなみに「白雪糕」とは、「落雁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.htmlで触れたが、

精白した粳米(うるちまい)粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、

とあり(日本大百科全書)、

落雁の一種、

とある。どうもこれと同じ原料だと、本朝世事談綺はみなしたらしい。しかし、

金平糖、
有平糖、

を干菓子とみる見方があったことにはなる。

今日のような砂糖を使った菓子が作られるようになるのは、宝暦(1751~64)以後からのことで、

餅菓子、
蒸菓子、

と対称された、

干菓子、

の名は、宝暦以後からとされる(たべもの語源辞典)。反故染(越智為久)には、

干菓子、せんべい・松風・ぽうろ・霜柱の類。上々の菓子にて、本菓子屋もの成しが、宝暦の頃より辻売りの十枚六文に位を落とす、

とある(たべもの語源辞典)、とか。

今日の干菓子は、

和菓子の中で水分をほとんど含まない乾燥度の高い菓子、

を指し(仝上)、

落雁・塩がまの類、
おこしや五家宝(ごかぼう)の類、
煎餅や瓦煎餅、松風の類、
金平糖やかりんとうや豆ねじのような駄菓子類、

が干菓子になる(たべもの語源辞典)、とある。

五家宝.jpg



文化五年(1808)に、

京都の吉田源助が中国の雲片からヒントを得て干菓子をつくったのが始まり、

ともある(仝上)。

中国の胡麻入り雲(云)片糕.jpg

(中国の胡麻入り雲(云)片糕 https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/211/より)


なお、

煎餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.html
松風http://ppnetwork.seesaa.net/article/473581577.html
落雁http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html
おこしhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html
和三盆http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html

については、すでに触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月31日

水菓子


「水菓子」は、

果物、

の意である。「果」(カ)は、「菓」と同義、

象形。木の上に丸い実がなったさまを描いたもので、丸い木の実、

とある(漢字源)。果物、木の実の意である。名義抄は、

果、コノミ・クダモノ、

としている(岩波古語辞典)。

水分の多い菓子という意で、果物を食用にするときのみずもの・果実・こだね・このみなどが同じ意味に用いられる、

とあり(たべもの語源辞典)、

乾(ヒ)菓子、餅菓子に対す、

とあり(大言海)、

蒸菓子・干菓子などの人造菓子に対する、

とある(たべもの語源辞典)。果物を茶うけとして用いる場合に、

水菓子、

といった(仝上)。このことは、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、室町以降のことで、

蜜柑、
林檎、
枇杷、
石榴、
桃、
杏子(あんず)、
柿、
桃、

等々が用いられた。果実は、

菓実、

とも当て、京阪では、これを、

くだもの、

と訓ませ、江戸では、

水がし、

といった(たべもの語源辞典)、とある。

果物.jpg



菓子http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、「菓子」とは果物のことを言ったが、和名類聚鈔に、承平(931~38)年間の菓物(くだもの)類を、

石榴、
梨子、
檎子(ヤマナシ)、
柑子(カムシ)、
木蓮(イタヒ)、
獮猴桃(シラクチ)、
榛子(ハシバミ)、
栗子、
杭子(ササクリ)、
椎子(シヒ)、
櫟子(イチヒ)、
榧子(カベ)、
松子(マツノミ)、
胡頽子(グミ)、
鸚実(ウクヒスノキノミ)、
杏子(カラモモ)、
㮈子(カラナシ)、
林檎(リウコウ)、
湯梅(ヤマモモ)、
桃子、
冬桃(俗に霜桃)、
李子(スモモ)、
麦李(サモモ)、
李桃(ツバキモモ)、
棗、
橘、
橙(アヘタチバナ)、
柚(ユ)、
梅、
柿、
鹿心柿(ヤマガキ)、
杼(トチ)、
枇杷、
椋子(ムク)、

等々。他に、苽類(くさくだもの)を、

瓜、
瓣(ウリノサネ)、
青瓜(アヲウリ)、
斑瓜(マダラウリ)、
白瓜、
黄瓜(キウリ)、
熟瓜(ホゾチ)、
寒瓜、
冬瓜(カモウリ)、
胡瓜(ソバウリ、キウリ)、
茄子、
郁子(ムベ)、
蔔子(アケビ)、
蓮子(ハチスノミ)
覆盆子(イチゴ)、

等々挙げる。では、

果物、

と当てた和語「くだもの」は何から来たのか。岩波古語辞典は、

木(ク)の物の意。ダは連体助詞ナの転。ケダモノ(毛だ物・獣)の類、

とし、日本語源広辞典も、似ていて、

ク(木)+ダ(の)+もの、

とする。

大言海は、

木種物(こだねもの)の略轉と云ふ(かたねなし、結政(カタナシ)。金兄(かねのえ)、庚(かのえ))、或は、木之物の轉(黄金(こがね)、くがね。熱海(あつみ)、アタミ。礫(たぶて)、つぶて)。之(つ)を濁るは、己之自(おのづから))。獣(けだもの)も、毛之物なり。ナリクダモノと云ふは、唐菓子(からくだもの 菓子)を単にクダモノとも云へば、それに別ちて、木に成るクダモノと云ふなり(成山椒(なるはじかみ)、成瓢(なりひさご))、乾菓子に対して水菓子と云ふ、同じ、

と回りくどいが、

木之物、

を採る。「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.html?1585509663で触れたように、平安期、

菓子は果実の意であり、これを「木菓子」といったが、この時代になると、間食の品をクダモノとによんだ、

のであり(日本食生活史)、だから、

木之物、

が妥当かもしれない。それは、

平安期には木の実に限らず、草の実や芋、蓮根などもさし、更に植物性の食品に限定されず酒肴など副産物や間食まで意味した。これは「木だ物」という語原意識が希薄になっていたこと、現実に酒肴や間食に用いるのが植物性のものである場合が多かったことなどが原因と考えられる、

とある(日本語源大辞典)。もっぱら果実の意で「くだもの」を用いるのは、江戸中期頃のようである(仝上)。

参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:水菓子
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2020年03月30日

菓子


「菓子」は、

木の実・果物の意、

であり(岩波古語辞典)、「菓」(カ)は、

会意兼形声。「艸+音符果(丸い木の実)」

で、「果」と同義。食料とされる果物、木の実の意である。「おかし」の意味で使うのは、わが国だけである。

「菓子」は、

木菓子、

ともいった(日本食生活史)。

古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

平安期になると、広く、

間食の品、

を、

くだもの、

とよんだ(仝上)。今日の意味の菓子は、

唐菓子(からかし)、
唐菓(果)子(からくだもの)

とよんだ(仝上)、とある。

奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐菓子と呼ばれるようになる。果実とは全く異なる加工された食品ではあるが、嗜好品としては果実同様であるとして「くだもの」と分類されたのではないかとも考えられている。なお、加工食品としての菓子が伝来して以降、果物については「水菓子」と呼んで区別するようになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90

「木菓子」と呼ばれたものは、

橘・柚子・搗(カチ)栗・扁栗・焼栗・削栗・干柿・熟柿・梨・梅・李・石榴・枇杷・唐桃・蜜瓜(アマウリ すいす・まくわうり)・覆盆子(イチゴ)・棗・椎・杼(トチ)・柏の実・松の実・枝豆・芋・蓮・蒟蒻、

等々があり(仝上)、平安期、木菓子は、

「病人が食欲がなくなったときには、蜜柑の一種である柑子(こうじ)さえもたべられなくなったとたとえられるほど好まれた」

と、源氏物語にも、

「月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行なひを時の間もたゆませたまはずせさせたまふ積もりの、いとどいたう くづほれさせたまふに、このころとなりては、柑子などをだに、触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたることと、泣き嘆く人びと多かり。

とある(薄雲)。

初めは生のまま食べていたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状したりするようになり、現代の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

記紀には、

垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされている、

とある(仝上)。「唐菓子」は、古く、

文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされた。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法であった。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%8F%93%E5%AD%90#%E6%AD%B4%E5%8F%B2が、それより古く、

古墳時代末期の古墳から高坏(たかつき)に盛られた唐菓子を模った(かたどった)土製品が出土している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90。この果実・木の実とその加工品を、

くだもの(果子・菓子)

と記述していたことが、嗜好品を菓子と記述する由来になった、と思われる(仝上)。

「唐菓子」は、はじめは、植物の菓子に似せて、

糯米(もちまい)の粉・小麦粉・大豆・小豆などでつくり、酢・塩・胡麻または甘葛汁(あまづら)を加えて唐の粉製の品に倣って作り、油で揚げたもの、

らしく(日本食生活史)、名前も、異国風に、

梅枝(バイシ 米の粉を水で練り、ゆでて梅の枝のように成形し、油で揚げたもの)、
桃枝(とうし 梅枝と同様に作り、桃の枝のように成形し、桃の実に似せたものをそくい糊でつけた)、
餲餬(かっこ 小麦粉をこねて蝎虫(蚕)の形とし、焼くか蒸したもの)、
桂心(けいしん 餅で樹木の形をつくり、その枝の先に花になぞらえて肉桂の粉をつけたもの)、
黏臍(てんせい 小麦粉をこねてくぼみをつけて臍に似せ、油で調理したもの)、
饆饠(ひら 米、アワ、キビなどの粉を薄く成形して焼いた、煎餅のようなもの)、
鎚子(ついし 米の粉を弾丸状に里芋の形にして煮たもの)、
団喜(だんき 緑豆、米の粉、蒸し餅、ケシ、乾燥レンゲなどを練った団子、甘葛を塗って食べた)、

等々があり(倭名類聚抄、日本食生活史)、以上の八種は、

八種唐菓子(やくさからがし)、

と呼ばれ、

これは特別の行事・神仏事用の加工食品と言える。これらは日常的に作られていなかったようで、製法が詳細に記述された文献がある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90。なお、団喜は、

歓喜団(かんぎだん・かんきだん)、

ともいい、

現存する清浄歓喜団は、小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたものとなっている、

とある(仝上)。

清浄歓喜団.jpg



ちなみに、アマヅラ(甘葛)は、甘味料のひとつである。

一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは明かではない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9。このことは、

「甘茶」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473914947.html

で触れた。この他に、

餛飩(麦の粉を団子の様にして肉を挟んで煮たもの。どこにも端がないので名づける。今日の肉饅頭のようなもの)、
餅餤(ヘイタン 餅の中に鳥の卵や野菜を入れて四角に切ったもの)、
餢飳(フト 伏菟 油で揚げた餅)、
環餅(マガリモチ 糯米の粉をこねて細くひねって輪のようにし、胡麻の油で揚げたもの。輪のように曲がるので)、
結果(カクナワ 緒を結んだ形にしたもので、油で揚げる)、
捻頭(ムギカタ 小麦粉で作り油で揚げたもの、頭の部分がひねってある)、
索餅(ムギナワ さくべいともいい、麦の粉を固めて捻じり、縄のようにしたもの、冷そうめんの類)、
粉熟(フンズク ふずくともいう、米・麦・大豆・胡麻の五穀を粉にして餅をつくり、ゆであまずらをかけて竹の筒に詰め、押し出して切ったもの、小豆の摺り汁を用いた)、
餺飥(ホウトウ やまいもをすりおろし、米の粉を混ぜてよく練って、めん棒で平たくし、幅を細く切って、豆の汁にひたして食べた。ほうとうは、今日も残っている)、
煎餅(センベイ 小麦粉で固めたものを油で揚げた)、
粔籹(アシゴメ 糯米を火で煎って密で固め、竹の筒などにつき込んで押し出す、今日のオコシと似ている)、

等々がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、日本食生活史)。

室町時代になると、公家や僧侶が今日の昼食に当たる中間食を取るようになる。かれらは、この間食品を、

点心、
茶子(ちゃのこ)、
菓子、

にわけた(日本食生活史)、という。

「点心」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90についてはすでに触れたが、輕空腹をみたすためのもので、食べる方に重点が置かれ、「尺素往来(せきそおうらい)」には、

点心の菜を数多くすることを元弘様と称して、当世では物笑いである、

と指摘しているとかで(仝上)、元弘(1331~33)年間から、点心が流行していたらしい。点心として好まれたのは、

羊羹、
饅頭、
麺類、
豆腐、

等々であるが、いずれも精進物である。饅頭の食べ方について、

饅頭の食やう。一つ取て押しわりて、なから(中央)をば、残たる饅頭の上に置き、なからを食ふべし。さて残たるを食いたくば食ふべし。苦しからず候。年寄たる人は、丸ながらも食ふべし、

とある(宗五大草紙)とか(仝上)。

「茶子」は、

茶請、

で、唐菓子ではなく、点心の後に食べる淡白な量の少ないものを指し、喫茶に重きを置いた。前述の「尺素往来」は、「茶子」として、

麩指物、
零余子指(のかこざし)、
炙麩、
豆腐上物(あげもの)、
油炙(いり)、
唐納豆、
挫栗(かちぐり)、
干松茸、
結昆布、
泥和布(ぬため)、
出雲苔(のり)、
胡桃、
串柿、
干棗、
鳥芋(くわい)、
興米(おこしごめ)、

等々を挙げている。

「菓子」は、くだものの意で、今日の、

水菓子、

で、食後に出された。

蜜柑、
林檎、
枇杷、
石榴、
桃、
杏子(あんず)、
柿、
桃、

等々。

水菓子.jpg

(現代においても会席料理などでは、このようなフルーツのことを「水菓子」と呼ぶ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90より)


やがて、

茶道とともに発達した点心は京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで、工芸的趣向をこらしたものになり京菓子として隆盛を極めた、

が、

江戸時代も後期になると、京菓子に対抗して江戸文化により育まれた上菓子が隆盛を見せる。また、白砂糖は上菓子のみに用いるといった制限を逆手にとり、駄菓子と言われる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%93%E5%AD%90

文化・文政期(1804~30年)になると、……和声の黒砂糖が作られ、これが菓子に使用されるようになる。(中略)江戸時代の菓子は従来の自然菓子などではなく、すべて加工菓子を指して呼び、代用食であった。お茶の子といって江戸では毎朝売りに来るものがあり、それを買って朝飯の代用にする者も多かった、

とある(日本食生活史)。ここで「茶の子」とは「茶請け」、つまり、

茶を飲むときに食べる菓子又はその代用品、

の意である(江戸語大辞典)。菓子の種類は、

蒸菓子。
練菓子、
干菓子、

等々であるが、砂糖が普及したため、

饅頭、
団子、
煎餅、
餅類、

等々に、特殊なものが作られるようになる(日本食生活史)。この時期の、

羊羹http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.html
饅頭http://ppnetwork.seesaa.net/article/473566185.html
きんつばhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473803819.html
どらやきhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html
落雁http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.html
おこしhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473245948.html

等々についてはそれぞれ触れたし、

和三盆http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html
砂糖http://ppnetwork.seesaa.net/article/474151591.html)、

についても触れたし、「餡」については、

小倉http://ppnetwork.seesaa.net/article/473261871.html
汁粉http://ppnetwork.seesaa.net/article/473399881.html

でそれぞれ触れた。

参考文献
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月29日

利休煮


「利休煮」の「利休」は、千利休を指すが、利休が作ったものではない。「利久煮」の他にも、

利休蒸、
利休焼、
利休和、
利休蒲鉾、
利休善哉、
利休煎餅、
利休醤(びしお)、

等々利休の名の付くものは多いが、利休考案のものはひとつもない(たべもの語源辞典)、らしい。

茄子の利休煮.jpg

(茄子の利休煮 https://oceans-nadia.com/user/17/recipe/1716より)


「利休煮」は、

魚貝を醤油・味醂・砂糖味で煮詰め、白ごまを煎ったものを振りつけたもの、

とある(仝上)。

利休焼、
利休和、

なども胡麻を用い、

料理法で利休の名の付くものは、胡麻を使ったものが多い、

ともある(仝上)。で、

利休煮、

は、胡麻を加えたから名づけられた、と見られている。

「利休好みだろうとか、利休にふさわしかろうということで利休の名をつけたものである。初めは利休なら喜ぶだろうと考えてつけた利休煮が、胡麻を使ったものを利休焼、利休蒲鉾などと呼び始めると、利休とは胡麻のことだというようなことになり、胡麻を使えば利休となづけられるようになった」

とあり(仝上)、それは、

千利休が取り入れた精進料理には胡麻豆腐、胡麻和えなど、胡麻を使ったものが多いことから(利休の死後)、利休が愛したであろう料理として、「利休」の名がつけられた、

と考えられるhttps://www.shinsei-ip.ne.jp/rikyu/concept.html、ともある。

だから、和食用語では、

利休、

を使わず、

利久、

を使い、

通常はゴマを使った料理の名称、

https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99992_K/05.html

ごま煮、
南部煮、

ともいう(世界の料理がわかる辞典)、とある。これは、

南部せんべいで知られる南部地方(南部氏の旧領地である岩手県と青森県にまたがる地域)が胡麻の産地であることから名がつけられています、

とあるhttps://nimono.oisiiryouri.com/rikyuuni-gogen-yurai/

なお、「ごま」については、「ごまをする」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464781102.htmlで触れた。

利休ではなく「利久」と表記するのは、

休の文字が商売を行う人々にとって忌み言葉だからだと云われる、

とある。「利休」にあやかったのだろうが、後世の人々が「利休好み」として考案したものが殆どで、

「利久煮」や「利久焼き」「利久玉子」のほか、汁の「利久仕立て」、ゴマ(又は揚げ油が胡麻)衣の「利久揚げ」、切り胡麻を振って蒸す「利久蒸し」、菓子では「利久まんじゅう」など、質素を旨とした利休が汁の実にしそうな「利久切り」という切り方もあれば、懐石箸の名称も「利久箸」という。

とある(仝上)。「利休好み(ごのみ)」とは、

利休の好んだ作法・道具・色彩、利休箸・利休鼠の類、

とあり(広辞苑)、広く、

茶人風、

を指す。「利久焼(りきゅうやき)」は、

材料に胡麻(ごま)をまぶしつけた焼き物や仕上げに練りごまを塗ってあぶる料理の名称、

であるhttps://kondate.oisiiryouri.com/japanese-food-rikyuuyaki/

この他、「利休」の名の付くものには、質素を旨とした利休が汁の実にしそうな

利久切り、

という切り方もあれば、懐石箸の名称も、

利久箸、

というhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/99992_K/05.html。「利休箸」は、

杉で作った、両端を細く削った箸。千利休が用いたのでこの名があるとされる。利休は客を招く日の朝に自ら杉材の箸の両端を細く削り出してその芳香をもてなしとしたと伝えられる。懐石に用いるが、一般にあらたまったもてなしや祝儀の膳にも用いる。元来は杉材のものをいった

とある(食器・調理器具がわかる辞典について)。一応、

千利休考案、

とされ、

中央部をやや太く、割れ目に溝を加工して、両端を細かく削り、面を取った”中平両細”の両口箸、

が特徴で、

八寸利久箸(21cm)、
九寸利久箸(24cm)、

があるhttp://web1.kcn.jp/hasikumi/syurui.html、とか。

杉 利 久 箸 (すぎりきゅうばし).jpg

(杉利休箸 http://web1.kcn.jp/hasikumi/syurui.htmlより)

「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlについては前に触れた。

この他、色彩にも、江戸時代に考えられた、

利休色、
利休鼠、
利休茶、

というのがあり、それぞれの色は文献によって多少のばらつきがある、

利休色…灰みを帯びた黄緑色(抹茶色よりも彩度の低い渋い色)
利休茶…やや緑みを帯びた茶色
利休鼠…やや緑みを帯びた灰色

とされるが、それぞれの説明は、バラバラで、利休色(りきゅういろ)は、

緑色を帯びた灰色(広辞苑)、
緑みのある茶色https://washimo-web.jp/Report/Mag-Rikyunezu.htm
緑みの茶色(色名がわかる辞典)、
黒みがかった緑色(デジタル大辞泉)、
暗い灰緑色(大辞林)、
緑色を帯びた灰色(日本国語大辞典精選版)、

等々と色々であるが、今は、たとえば、

Webカラー値・#8F8667
RGB・143 / 134 / 103

などと決まっている。

「利休鼠」は、色としては、

りきゅうねず、

というらしいが、これも、

利休色の鼠色を帯びたもの(広辞苑)、
緑みを帯びた鼠色https://washimo-web.jp/Report/Mag-Rikyunezu.htm
緑みの灰色(色名がわかる辞典)、
利休色といわれる灰色がかった黄緑色に、鼠色が加わったもの(日本大百科全書)、

等々と説明されるが、現在は、たとえば、

Webカラー値・#888E7E、RGB・136, 142, 126、

などと決められている。

利休鼠.png

(利休鼠 https://www.i-iro.com/dic/rikyunezuより)


この「利休鼠」は、北原白秋作詞の「城ヶ島の雨」で、

雨はふるふる城ヶ島の磯に
利休鼠の雨がふる

で歌われている。

「利休茶」も、

利休色の茶がかったもの(広辞苑)、
色あせた挽き茶のような緑がかった薄茶色https://irocore.com/rikyucha/

等々と説明されるが、

Webカラー値・#98906e、RGB・152、144、110、

と決められている。

利休茶(りきゅうちゃ).png

(利休茶 https://www.i-iro.com/dic/rikyuchaより)


また、「利休下駄」というものもあるが、

日和下駄の一種で、木地のままで薄い歯を入れたもの、

とある(広辞苑)が、「雪駄」も、

千利休が水を打った露地で履くためや、下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれている。主に茶人や風流人が用いるものとされた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E9%A7%84、利休の名はつかないが、利休ゆかりである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月28日

ラッキョウ


「ラッキョウ」は、

辣韮、
薤、
辣韭、

等々と当てる。別名、

オオニラ、
オオミラ、
サトニラ、
ヤマムラサキ、
タマムラサキ、

とある(たべもの語源辞典)。古く、「薤」を、オオニラ、「韮」をコニラと称したが、オオニラはラッキョウ、コニラはニラである、とある(仝上)。漢名は、

火葱(かそう)、
菜芝(さしい)、
白華、
守宅、
家芝、
白薤(はくきょ)、
葷菜(ぐんさい)、
鴻薈(こうかい)、

等々とある(仝上)。

ニンニク、
ネギ、
ヒル、
ニラ、

と共に、

五葷(くん)のひとつとされる(仝上)。「葷(クン)」(「艸+音符軍(なかにこもる、むれる)」)は、

ねぎ、にら、などにおいの強い菜、また味の辛い菜、

の意味である。

ユリ科ネギ属の多年草。中国、ヒマラヤ地方の原産。白色または紫色を帯びた白色の鱗茎を食用とする。中国で紀元前3世紀以前から栽培され、日本へは9世紀までには中国から伝来し、ナメミラ、オホミラなどとよばれ、古くは薬用に、江戸時代ころには野菜として全国的に普及した。

とある(日本大百科全書)。「ラッキョウ」の名は、

中国名の一つ辣韮(らっきゅう)に由来するが、平安時代はニラ(美良(みら))に対応して於保美良(おほみら)(大ニラ)とよばれた。ニンニク、ニラ、ネギ、ショウガとともに五葷(くん)の一つとされ、禅寺では「不許葷酒(くんしゅ)入山門」と、持ち込みを嫌った、

とある(仝上)。

ラッキョウ.jpg


辣韮、
薤、
辣韭、

と「ラッキョウ」に当てる、「辣」(漢音ラツ、呉音ラチ)は、

会意兼形声。「辛+音符刺(ラツ さすようにいたむ)の略体、

で(漢字源)、「ぴりりとからい」意。「韮(韭)」(キュウ)は、

象形。地上に、にらが生え出た姿を描いたもの、

とある(仝上)。「にら」の意である。「薤」(漢音カイ、呉音ゲ)は、

会意文字。「艸+歹(死人の骨)+韮(にら)」、

で(仝上)、「にら」の意だが、「らっきょう」の意である。で、中国語、

辣韮(韭)、

の音、

ラッキュウの転、

が、

ラッキョウ、

である(大言海)。

ラッキョウの花.jpg


鱗茎(りんけい)は狭卵形で、葉を束生する。葉は細長く約20センチメートル、断面が五角である。秋に葉の枯れた鱗茎から50センチメートル余りの花茎を出し、先端に美しい紫色の小花を球状につける。しかし種子はできない。古い鱗茎には数個の新しい鱗茎ができて繁殖する。冬を越して初夏に鱗茎が成熟して休眠に入るので、このころに掘り上げて収穫する、

とある(日本大百科全書)が、秋咲く紫小花は。ニラ(韮)より大きい、とある(大言海)、たべもの語源辞典)。ニラについてはすでに触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/461598032.html

タマムラサキ、
ヤマムラサキ、

の名は、この花からきている(たべもの語源辞典)。

ニラの花.jpg



ラッキョウは品種が少なく、

ラクダ、

八ツ房、

の二種しかなく、新品種の、

玉ラッキョウ、

が花ラッキョウ(両端(ハナ)を切るからそう呼ぶ)の原料になる(仝上)、らしい。ちなみに、

ギョウジャニンニク、

と呼ばれるものは、

深山に生えるものを修行中の行者が食用にすることで名づけられたが、ラッキョウとは別物で、漢名は、

茖葱、

とある(仝上)。

ギョウジャニンニク.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月27日

政治と文学


大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』を読む。

政治と文学.jpg


現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

政治と文学、

と題された巻である。収録されているのは、

中野重治『五勺の酒』
武田泰淳『審判』
野間宏『顔の中の赤い月』
椎名麟三『深尾正治の手記』
田中英光『地下室から』
井上光晴『書かれざる一章』
佐多稲子『夜の記憶』
倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』
本多秋五『芸術・歴史・人間』
荒正人『原子核エネルギー(火)』
林達夫『反語的精神』
平野謙『政治と文学』『「政治の優位性」とはなにか』
福田恆存『一匹と九十九匹と』
中野重治『批評の人間性』
竹内好『日本共産党批判』
小林秀雄『政治と文学』
伊藤整『組織と人間』
埴谷雄高『政治の中の死』
奥野健男『「政治と文学」理論の破綻』
針生一郎『「革命運動の革命的批判」の問題点』
佐多稲子『松川無罪確定の後』
高橋和己『政治と文学』

である。戦後の様々な局面で論争されてきた「政治と文学」だが、今日、文学作品として、読むに堪えうるのは、

倉橋由美子『パルタイ』
真継伸彦『石こそ語れ』

のみである。『パルタイ』は、非常に意識的に抽象化された視点、言い変えると、遠くから眺めているために、一種、

パロディ、

であるが、「証言として文学」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473706547.htmlで触れた、長谷川四郎『シベリヤ物語』と似た手法である。そこで、

独特の雰囲気を醸しだしている。シベリア抑留中の俘虜生活を描きながら、どこかメルヘンのようにふんわりした雰囲気を作りだしている。それは、作家の視点にあると思う。たしか、チャップリンが、

人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ、

といったことを思い出す。別に描写の視点が俯瞰にあるのではなく、作家の登場人物に対する距離の置き方が、ロングショットであることによる。あるいは、変な言い方だが、作家の感情は遠くにおいて、ひとごとのように、書いている。

昔々あるところに、

と同じ語り口である。悲惨さは、その距離で漉されている、

と書いたことが、ここでも当てはまる。その距離が、感情をも、漉す。

真継伸彦『石こそ語れ』

は、どちらかというと、私小説の流れの書き方の多い「プロレタリア文学」系の作品に対して、意識的な方法、

死につつある転向者、

に視点を置いた、その、

独自の方法、

がよい。多少作為的なところは、やむを得ないが、文学とは、

何を書くかではなく、どう書くか、

であるという見本のような作品である。

他の作品は、その時代背景抜き去ると、文学作品として、ほとんど読むに堪えない。

本巻は、「政治と文学」と題しただけに、評論が多いが、政治の季節の時代、右も左も、ほとんど作品として、大したものがなかった、ということだろう。井上光晴は、

どう描くか、

を獲得して以降、『ガダルカナル戦詩集』『虚構のクレーン』『死者の時』『地の群れ』等々で、おのれを示した。むしろ党派性にかかずらう以上に、政治と直面しているし、あるいは戦時下発禁を食った、石川淳「マルスの歌」こそが、本巻に納められるにふさわしいと思う。

「政治と文学」は、何も、マルクス主義文学運動、だけではないはずである。戦時下、軍部のお先棒を担いだ文学者たちの作品だってあるはずである。それはちょうど裏表の関係なのだ。たとえば、

作家同盟解散後、党の政策の下請け機関と化した芸術運動に愛想づかしをし、作家の実践は創作以外にないと叫んだ徳永直、林房雄、森山啓らは、やがて革命運動そのものからはみだして、支配機構の網の目に期辛味取られていったのである(「革命運動の革命的批判」の問題点)。

確かに、高橋和己の言うとおり、

「私自身も、文学の自律性というものに関する過大な幻想はもたないほうがいいと考えている。権力というものは、虱をおしつぶすように人間をおしつぶすことぐらい朝飯前にできるものであり、文学者の精神を鞭と牢獄、あるいは幣束ではりとばして、ねじまげることぐらいは残念ながら簡単にできることである。ちょっと節操を守ることすら、どんなに恐ろしい犠牲を覚悟せねばならないかということに無智な、大義名分論を、私はあまり信用しない。

その通りである。しかし、ここでは、

文学者の仕事、

文学の仕事、

がごちゃごちゃになっていないか。文学者は押しつぶされるかもしれないが、文学は押しつぶされない。文学は、虚構の世界である。政治的圧迫があっても、「マルスの歌」発禁後、「一休咄」「曽呂利咄」等々の世界に進んだ石川淳がいい例だ。林達夫が言うように、

思想家の今後にのこされた道は、牢獄と死とのソクラテスの運命を甘受するか、でなければデカルトのように仮装された順応主義のポリティークをとる以外にはない……、

のである。それを、

コンフォルミスム・デギゼ(仮想せる順応主義)、

と、林は名づける。戦時下、

哲学には、今や隠退するか、討死するか、でなければ何らかの形のコンフォルミスムの道に歩み入るか―この三つの途しかのこされていません、

が、

思想闘争は猪突や直進の一本調子の攻撃に終始するものではない。また終始してはならない。そんなことでは、それは警官の前で、戦争絶対反対!と叫んでその場で検束されてしまう。あのふざけ者のタダイストと、結果的には一向変わりなく、道行く群衆はただ冷然とそれを見送るだけのことだ。もちろんそのような英雄主義を、私はいちがいに貶そうとするものではない。ただそれは私の好みではなく、また思想闘争には個性の数だけ先方があるということである。

と(反語的精神)。それをするのは、現実の文学者である。そこで、文学の仕事として、

どう書くか、

が問われてくる。

参考文献;
大岡昇平他編『政治と文学(全集現代文学の発見第4巻)』(學藝書林)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月26日

落首


「落首」は、

らくしゅ、

と訓むが、

おちくび、

とも訓ますらしい(デジタル大辞泉)。「落書」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437464845.htmlで触れた、

落書(らくしょ)、

の一種で、

一首、

の意で、

諷刺、嘲弄、批判の意をこめたむ匿名の戯歌、政道批判の手段としてしばしば行われた、

とある(広辞苑)。たとえば、

花よりも団子の京とぞなりにける 今日もいしいし明日もいしいし(醒睡笑)、

は、永禄十二(1569)年二月、織田信長は将軍となった足利義昭の新御所(室町邸)の築造を開始、京都の町衆をその石垣普請に徴発し、巨石の藤戸石を義昭邸に数日間かけて運ばせた。これはその際、毎日石を引きずって運ぶ音がうるさかったことから、あるいたずら者が書いた落首という。「いしいし」とは女房言葉で「団子」を意味する、

とあるhttp://www.m-network.com/sengoku/uta/uta01.html。江戸時代なら、これは狂歌だが、

白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼戀しき、

がある。白河とは寛政の改革を主導した松平定信を指し、田沼意次の時代を懐かしんでいる。

「落首」は、

ラクショ(落書)の訛か、
落書の一首の意、

の二説がある(大言海)が、「落書」という言葉があり、あえて、

落首、

という以上、

詩歌の形式によるものは,とくに〈落首(らくしゆ)〉といいならわしてきている、

ともある(世界大百科事典)ので、

ラク(落書)+シュ(短歌)、

と見ていいのではないかと思う。「落書」は、

落文(おとしぶみ)、

とも言い、というより、

「おとしぶみ」の漢字表記「落書」を音読したもの、

であり(精選版日本国語大辞典)、「おとしぶみ」は、

現(あらは)に言い難き事を、誰が仕業としられぬやふに、文書にして、路などに遺(のこ)しおく、

とある(大言海)ので、「落書」は文章、「落首」は詩歌、と言えそうだが、「落書」自体に、

時事や人事などを批評・諷刺あるいは告発する匿名の詩歌や文書、

とある(岩波古語辞典)ので、「落首」は、「落書」の範疇に入るのだろう。

「落首」は、

平安時代から江戸時代にかけて流行した表現手法の一つである、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%A6%96

公共の場所、特に人の集まりやすい辻や河原などに立て札を立て、主に世相を風刺した狂歌を匿名で公開する。封建制度においては言論の自由というものは存在せず、政治や君主に対する批判は極めて危険性の高い行為だったが、匿名での公開によって、読み書きができる者なら誰でも自由に言論活動を展開することができた、

とある(仝上)。

歌川国芳の『荷宝蔵壁のむだ書き(にたからぐら かべのむだがき)』.jpg

(歌川国芳の『荷宝蔵壁のむだ書き(にたからぐら かべのむだがき)』 https://usakameart.syuzyu.com/entry/2019/09/23/184517より)


「落書」は、

らくしょ、

と訓むが、

らくがき、

と訓むと、

楽書、

とも当てる、

壁・塀などにするいたずら書き、

の意に取ることが多い。

落書(らくしょ)を文字読して、意を轉ず、

とある(大言海)ように、「落書(らくしょ)」とは異なり、

嘲弄、罵詈の語、又は畫などを書き散らす、

意が強い。「落書」は、歴史的には以下のように二つの意味をもつ、とある(日本大百科全書)。ひとつは、

養老律(ようろうりつ)の編目の一つである「闘訟律(とうしょうりつ)」に「匿名の書を投げて罪人を告発する者は徒(ず)二年」とあるように、落書は本来犯罪人を告発する投書をさすものであった。平安から室町時代にかけての寺社では、犯罪者を決める無記名投票が制度化しており、とくにそのなかで起請(きしょう)の形式をとったものを落書起請といった、

とあり、いまひとつは、

時局の風刺や権力者を批判、嘲笑(ちょうしょう)した匿名の文章や詩歌。……衆人の注目しやすい場所での貼(は)り紙、捨て文、投書によって、間接的に人々に噂(うわさ)を流布させることをねらったもので、政治の動揺期に数多くみられ、公然と政治を批判することのできない民衆の憤りの発露としてつくられた、

ものを指す(仝上)。この嚆矢は、

平安時代の初期には既に貴族階級の間で既に広まっており、確執のある官僚同士の昇任や栄転をめぐる政争道具として用いられていた。9世紀ごろの嵯峨天皇の時代の落書「無悪善」は小野篁が「悪(さが=嵯峨天皇)無くば善(よ=世)かなりまし」と解読したことで世間一般に知られる事となった、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E6%9B%B8、これを、

匿名の投書で他人の罪状を告発するシステムとしても機能、

させ、

中世以降の荘園支配・管理に積極的に落書が活用されるようになり、領内犯罪者の摘発に大きな効果をあげた。鎌倉時代に入るとこのシステムは次第に制度化され、虚偽の無いことを神仏に誓わせる「落書起請」とあわせて強制的に実施されるようになった、

ものらしい(仝上)。

1310年、法隆寺で盗難事件が発生した際には、付近の17もの村を対象に落書を実施。その結果、600余通もの落書が集まり、最終的に2名の僧侶が盗人と決定した。いわば犯人を決める住民投票である。寺側は、この落書を非難し、2人の僧に犯人を捜させた結果、後に真犯人を捕まえた、

とある(仝上)。

「落書」で有名なのは、建武の新政当時の混沌とした世相を風刺した、「二条河原(にじょうがわら)の落書」で、

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)

とはじまり、88節にわたる長文である。歴史の教科書にも載るが、専門家の間でも、

最高傑作と評価される落書の一つ、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8らしい。

今日でいうと、「落書き」とされるのかもしれないが、正体不明の覆面アーティスト、バクシーであろうか。

バクシー.jpg

(バクシー https://media.thisisgallery.com/20188939より)


彼が残す作品には、反資本主義・反権力など社会風刺的なメッセージや強い願いが込められ、見る人々を魅了すると同時に、私たちの生活に警鐘を鳴らしいています、

とあるhttps://media.thisisgallery.com/20188939。「落書」の系譜である。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:落書 落首
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2020年03月25日

痛し痒し


「痛し痒し」は、

掻けば痛いし、掻かねば痒いしの意、

で、

片方を立てれば、他方に差しさわりが生ずる状態で、どうしたらいいか迷うときにいう、

とあり、

どのようにしても、結局自分に具合の悪い結果になる、

とある(広辞苑)。ジレンマを言い表す似た言い方に、

頭押さえりゃ尻上がる、
あちらを立てればこちらが立たず、
彼方を祝えば此方の怨み、
彼方に良ければ此方の怨み、
出船に良い風は入船に悪い、
河豚は食いたし命は惜しし、
右を踏めば左があがる、
両方立てれば身が立たぬ、

等々あるが、いずれも、決断を迷っている状態を指しているが、

痛し痒し、

のもつ、

どっちをとっても不都合さの含意はなく、むしろ、強いて言うなら、

前門の虎閘門の狼、

の方が似ているのではないか、という気がする。

痛し痒しの痘瘡、

という言い方もあるらしいhttp://kotowaza-allguide.com/i/itashikayushi.htmlが、この語意の通りとすると、リアルすぎる。

痛し痒しも瘡にこそよれ、

という言い方は、

痛し痒しと迷っていられるのも、そのできものの程度によるのであって、本当にひどいときは苦痛のためにその余裕はない。どうしていいか判断に迷うときは、時と場合による。危急の差異まで優柔不断というわけにはいかない、

と、「痛し痒し」の反対の意味になる。

痛くも痒くもない、

となると、

痛痒を感じない、

つまり、

少しも感じない、

意になる。

痛いところを衝く、

というと、

相手の弱点を捕えて攻める、

意になり、

痒いところへ手が届く、

となると、

細かな点にまで行き届く、

意になる。

隔靴掻痒、

は、

靴の上から足の痒いところを掻くように、はがゆい、もどかしい、

意味になる。

「痛い」http://ppnetwork.seesaa.net/article/454441352.htmlについては、触れたが、

甚い,

とも当て、大言海は,「いたし」を,

痛,

を当てる項と,

甚(痛・切),

を当てる項とを区別し,後者については,

(前者の)転意,事情の甚だしきなり,字彙補「痛,甚也,漢書,食貨志,市場痛騰躍」(痛快,痛飲)、

としている。前者については,

至るの語根を活用せしむ(涼む,すずし。憎む,にくし)。切に肉身に感ずる意。…身に痛む感じありて,悩まし(痒しに対す)、

とある。しかし,日本語源広辞典は,

イタイ(程度が甚だしい)、

が語源とし,激しい程度の意を先とする。日本語源大辞典も,

「痛むと同根の,程度の甚だしさを意味するイタから派生した形容詞、

とする。とすると,必ずしも,痛みを指していたのではなく,

ひどい,
はげしい,
はなはだしい,

という状態を指していた状態表現から,「傷み」や「悼み」という感情表現(価値表現)が分化してきた,ということになる。岩波古語辞典の「いた」では,

極限・頂点の意。イタシ(致)・イタリ(至)・イタダキ(頂)と同根。イト(甚・全)はこれの母音交替形、

とあり,どうやら,大言海の「至る」とも重なることになる。

「痒い」は、大言海は、

掻かま欲しき意の語、

とする。日本語源広辞典も、

カ(痒)+ユシ(形容詞化)です。皮膚を掻きたい気持ちの表現、

と、ほぼ同趣旨である。

カキユユシ(掻忌々)の義(言元梯)、
掻ユスル(和訓栞)、
カキユルシキ(掻動如)の義(名言通)、

等々、多く「掻く」とつなげている。まさに、

痛し痒し、

なのである。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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2020年03月24日

あらい


「あらい」は、

洗い、

と当てる。

洗い膾、

のことである。「膾」は、「なます」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474186656.html?1584905399で触れたように、

ナマシシ(生肉)、

の意で、古くは

生魚の肉を細かく切ったもの、

を膾(なます)と呼んでいた(たべもの語源辞典)からである。「洗い」と当てるのは、

コイ、フナなどの川魚、スズキ、ヒラメ、鯛、アジなど白身の魚等々

を下ろし、

そぎづくりや糸つくりなど薄切りにし、流水やぬるま湯で身の脂肪分や臭みを洗い流した後、冷水(氷水)にさらし漬けて身を引き締めて(身は、縮まり、ちりりと「はぜる」。)から水気を切って提供する、

からであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E3%81%84。カニの刺身をさっと湯引きしたものを洗いと呼ぶ地方もある(仝上)、とか。

鯉の洗い.jpg


洗鱸(あらいすずき)、
洗鯉、

等々といい、「洗鱸」には、

古酒に醤油、鰹節、塩などを加えて煮詰めた煎酒と称する酒を添える、

とある(たべもの語源辞典)。

氷塊を添えて供する、

ので、夏の料理として喜ばれる(たべもの語源辞典)。タイ、スズキ・コイの他、

フッコ、クロダイ・コチ・ボラ、

等々が使われ、

つまには、青ジソの葉を刻んだもの、穂ジソなどを添え、ワサビ醤油で食べる、

とあり、淡水魚には、酢味噌か芥子酢味噌がよい、

とある(たべもの語源辞典)。

ところで「あらう」に当てた、「洗」(セン、漢音セイ、呉音サイ)は、

会意兼形声。先は「足+人」の会意文字で、人間の足先を示す。跣(セン はだしの爪先)の原字で、指の間に細い隙間が空いて離れている意を含む。洗は「水+音符洗」で、細い隙間に水を通すこと、

とあり(漢字源)、「あらう」というよりは、「すすぐ」という含意があるが、「洗濯」の「濯」(漢音タク、呉音ダク)は、

会意兼形声。翟(テキ)は「羽+隹(とり)」の会意文字で、キジが尾羽を高く抜きたてたさま。濯はそれを音符とし、水を加えた字で、水中につけた物をさっと抜きあげてあらうこと、

で、「あらう」意だが、じゃぶじゃぶとあらう、という含意になる。「あらい」に、「洗」を当てたのは頷ける。

「あらふ」について、大言海は、

新(あら)を活用せしむ(荒(ありら)、あらぶ)。新たにする義(浚ふも、更にする義ならむ)。或は、和訓栞に、拂ふと音義通是りと云ふ(頒(あが)つ、はがつ。溢る、はふる)、汚れを除き去る義となるか、

とする。日本語源広辞典も、

アラ(更・新)+う、

と、似た説を立てる。意味的には、あっているが、理が先立つときは、往々にして、後付け解釈の気がして、ちょっと納得しがたい。「あら」は、

生(あ)るの名詞形、アレの転(曝(さ)れぼふ、さらばふ。荒らぶ、あれぶ。賓客(まれびと)、まらびと)、新たと云ふ語も、生立(あれたち)なるべし、生まれ出でたる意、

とあり、「生(あ)る」は、

生(な)るに通ずと云ふ(豈(あに)、何(なに)。などか、あどか)、新たに生(な)る意、

と(大言海)、理屈はますます合うのだが、他は、

ハラフ(払)から(和訓栞、和句解、日本語原学=林甕臣)、

と、「払う」とする説だから、確かに、「更・新」説が、とは思えるのだが。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:洗い あらい
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2020年03月23日

なます


「なます」は、

膾、
鱠、

と当てる。「膾」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。會とは「あわせるしるし+増の略体」の会意文字で、あわせて増やす意を含む。膾は「肉+音符會(カイ)」。會(会)と同系の言葉で、赤や白の肉を細く切り、それを彩りよく取り合わせた刺身、

の意であり、「さしみ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453881536.htmlで触れたように、「刺身」は、

「指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた」

のである(たべもの語源辞典)。倭名抄には、

鱠、奈萬須、細切肉也、

とある。

「膾」は、「生肉」で、「鱠」は、「魚肉」、

漢字の「膾」は、肉を細かく刻んであわせた刺身を表す字なので、「月(肉)」が用いられている。その後魚肉使うようになり、魚偏の「鱠」が用いられるようになった、

ということである(語源由来辞典)。万葉集に、

我れは死ぬべし大君に我れは仕(つか)へむ我が角は御笠(みかさ)のはやし我が耳は御墨(みすみ)の坩(つぼ)我が目らは真澄の鏡我が爪はみ弓の弓弭(ゆはず)我が毛らは御筆はやし我が皮は御箱の皮に我が肉(しし)は御膾(みなます)はやし我が肝も御膾(みなます)はやし我が眩(みげ)は御塩(みしお)のはやし老いたる奴(やつこ)我が身一つに七重(ななへ)花咲く八重(やへ)花咲くと、

と長歌(乞食者の詠)がありhttps://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/21e888f916a3b5e3bb97772b67e3a1b6、「みなますはやし」は、

御鱠料、

と当て、

魚介や動物の肉を薄く切り、塩でしめて食す料理、

を意味する。上記歌は、鹿の立場から「わが肉は御鱠はやしわが肝も御鱠はやし」と詠い、

鹿の様々な部位が天皇のために利用されることを喜び「大君にわれは仕へむ」と詠んでいて、禽獣にも奉仕される天皇を言祝ぐ内容となっている、

とあるhttp://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68905。「乞食者の詠」の「乞食者」とは、

寿詞を唱えて食物を請う芸能集団であるが、この歌は、宮中への鹿肉献上の際に詠われたかといわれる、

とある(仝上)。

今日、わが国で「なます」は、

大根・人参などを細かく切って酢で和えた食べ物、

を指すが、わが国だけの使い方のようである。広辞苑に、

魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、
薄く切った魚貝を酢に浸した食品、
大根・人参を細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などで和えた料理、

の意味が載るのは、わが国での「なます」の意味の変遷である。

野菜や果物だけで作ったものは「精進なます」と呼ばれ、魚介類を入れないことや、本来の漢字が「膾」であることから、「精進膾」と表記される、

とある(語源由来辞典)のは、「膾」の本来の意味から区別のためと思われる。初めは、

魚貝や獣などの生肉を細かく切ったもの、

で、日本書紀・景行紀に、

白蛤(うむぎ)為膾而進之、

とあり、やがて魚の「なます」が多くつくられるようになり、

鱠、

が多く用いられるようになり、室町時代の「下学集」には、

膾は魚を調すること、

とある。さらに、

平安時代後期に魚肉と野菜を細かく刻んであえた物を指す言葉に変わり、日本独自の発展を遂げていきます、

とありhttps://gurusuguri.com/special/season/osechi/spcu-1511_06/?__ngt__=TT106662437005ac1e4ae86fHWmjI-luNTto7lmsW0WpJQ、その頃のなますは、煎り酒という日本酒に鰹節や梅干しを加えて煮詰めた調味料を用いて作られていた、(仝上)とある。

江戸時代まで「膾」は膳におけるメインディッシュとしての扱いを受けており、膳の中央より向こう側に置かれることから「向付」(むこうづけ)と呼ばれるようになった、

ともある(仝上)。これは、

なますが元々は魚肉を使用して作られていたことが背景にあるため、

だったからといわれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%BE。長く「鱠」と当てたが、

精進なます、

のときには、

膾、

の字を用いるようになった(たべもの語源辞典)、ともある。

紅白なます.jpg

(紅白なます https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%BEより)


大言海は、

生切(なますき)の略か、

とするが、これまでの経緯をみると、

肉は「しし」とよむ。生肉を細かに切ったものが、なますなので、ナマシシとよんだ。生肉をナマシシ(生宍、宍(しし)肉の古字)ともいった。このナマシシがナマスになった、

とする(たべもの語源辞典)が妥当に思われる。

ナマシ(生肉)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ナマは生、スはシ(肉)の転(小学館古語大辞典)、

も同趣である。

ナマス(生酢)の義(日本語源広辞典・東雅・和語私臆鈔・和訓栞)、

という説は、

酢を用いるようになったのは室町時代である。鱠の字は平安時代から盛んに用いられており、後付けということになる。

「それにしても、「なます」をめぐる諺は多い。たとえば、

羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く、
人口に膾炙(かいしゃ)する、
膾に斬る、
膾に叩く、

等々。

なお、「あつもの」については、「羊羹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472187601.htmlで触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月22日

楊枝


「爪楊枝」は、

小楊枝(こようじ)、

ともいうが、「楊枝(ようし)」は漢語である。隋書(眞臘傳)に、

毎旦澡洗、以楊枝浄歯、讀誦経呪、又澡灑乃食、食罷還用楊枝浄歯、又讀誦経、

とあるように、「楊枝」は、奈良時代、仏教とともに伝来した、とされる。

仏教では、僧侶が常に身につけておくべきその第1に楊枝が出てきます、

とありhttp://www.cleardent.co.jp/siryou/index2.html

歯木、

と呼ばれ、

お釈迦様(紀元前500年頃)が、弟子たちにこの歯木で歯を清潔にすることを教えたのが始まり、

とされておりhttp://www.sanshu-ind.co.jp/youji-gogenn1.htm、もともと

仏家(ぶっか・ぶっけ)では浴室で身体を清浄にする七物の一つ、

とされており(岩波古語辞典)、

七つの物を用ゐるといふは…こまやかなる灰と楊枝と帷(かたびら)となり(三宝絵詞)、

とある(仝上)。で(日本語源大辞典)、

中国において楊柳(ようりゅう)でつくられたことからきている。この漢語が現物とともに日本に渡来し、そのまま「ようじ」と音読され普及した、

のである(日本大百科全書)。

平安時代中期の分類体辞典『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にすでに楊枝の名称がみえ、……10世紀なかばに藤原師輔(もろすけ)が記した『九条殿遺誡(くじょうどのいかい)』には、子孫に与える訓戒として、毎朝楊枝を使えといっているので、少なくとも貴族社会には普及していた。大きさについて室町時代中期の辞書『嚢鈔(あいのうしょう)』は、「三寸(約9センチメートル)ヲ最小トシ、一尺二寸(約36センチメートル)ヲ最大トス」と記し、現在の妻楊枝よりもかなり長いものであった、

とある(仝上)。これは、

ヤナギの枝を細長く削り、先をとがらせたもの、

で、

本来は歯ブラシのように使用する、

もので、

楊柳の枝に呪術的な意味があり、病を治し、歯痛を止める効果があるとされたために、楊枝がつくられたと考えられる、

とある(日本語源大辞典)が、

鎮痛解熱剤としてもちいられる「アスピリン」という物質がヤナギ科の植物に含まれていることから、噛むことは虫歯の痛みにきく、

という説(語源由来辞典)もあり、もしそうなら、実用的でもあった。

庶民の間に普及したのは、江戸初期(1624~1704年)で、柳や黒文字の木の一端を木槌で叩き、針を並列した器具で梳いて繊維状にした、

総(ふさ)楊枝、
房楊枝、

が生まれhttps://www.dent-kng.or.jp/museum/ja/hanohaku02/た。房楊枝の考案は、京都の郊外の猿屋が商品として売り出した、とされる(仝上)。で、小さいものは、

小楊枝、
爪楊枝、

と呼び、歯磨き用と区別した。「つまようじ」を、

黒文字、

と呼ぶのは、黒文字の木で作られた楊枝を指して言ったからだが、柳の他、

杉、竹なども用いられたが、江戸時代には特に黒文字を皮をつけたまま楊枝としたものが貴ばれた。大きさも三寸から六寸以上のものもあり様々であったが、中世後期には尖端を削ってとがらせた小さなものが作られ、ふさ楊枝などの大きなものに対して爪楊枝、小楊枝と呼ばれることになった、

とある(日本語源大辞典)。なお、

使用後には折って使い捨てにしないと悪いことが起こる、

という俗信があったらしい(仝上)。

「爪楊枝」とあてている「つま」については、「つまようじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/444901278.htmlで触れたことと重なるが、「つま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/443211797.html?1477684696で触れたように、

「端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ」

で、「端」は、

「物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ」

で、その意は、「つま(妻・夫)」を見ると解(げ)せる。

「結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意」

つまりは、「妻」も、「端」につながり、「つま(褄)」も、

「着物のツマ(端)の意」

「つま(端)」につながる、とする説と、もう一方、「つま(端)」は、

「詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意」

で(大言海)、「間」とは、

「家の柱と柱との中間(アヒダ)」

の意味がある。さらに、「つま(妻・夫)」も、

「連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ」

とあり(仝上)、さらに、「つま(褄)」も、

「二つ相対するものに云ふ。」

とし(仝上)、「つま(妻・夫)」の語意に同じ」とする説がある。これと関わる言葉に、

爪櫛(つまぐし)、

というのがあり、それは、

歯の目の細かい櫛、

の意だが、

ツマ(爪)は櫛の歯が密で、閒が迫っている意(古事記伝)、

という解釈もある(日本語源大辞典)。

つまり、「つま」には、

はし(端)説、

あいだ説、

があるのである。その意味で、「つまようじ」の「つま」を、「爪」としていいかどうかは疑問がある。

妻楊枝、

と当てているものもあるが、これも「つま」の由来から考えると、間違いではない。日本語源広辞典は、「つま」を、

説1は、『ツマ(物の一端)』が語源で、端、縁、軒端、の意です、
説2は、『ツレ(連)+マ(身)』で、後世のツレアイです。お互いの配偶者を呼びます。男女いずれにも使います。上代には、夫も妻も、ツマと言っています、

と二説挙げるように、つまようじ」の「つま」が、

はし、

関係(間)、

と、「端」の意味に、(歯の)「間」という意味が陰翳のように付きまとっているという気がしてならない。どちらと決めない陰翳が、面白いのかもしれない。

房楊枝で歯を磨く女.jpg

(房楊枝を使って歯磨き 月岡芳年『風俗三十二相』 https://edo-g.com/blog/2016/01/tooth.htmlより)


ところで、最近の楊枝の、「こけし」様のものは、

つまようじは、もともとノコギリで切断して生産されていました。ところが、このような作り方だと精度が悪く、切断面が必ずざらざらした状態になってしまい、ケバだってしまいました。
そこで今度はグラインダー(砥石)で切断するようになりましたが、そうするとケバ立たなくなったものの、摩擦で黒く焦げてしまうようになりました。そこで、この黒い焦げ目を逆手に取り、ごまかすために、オマケのみぞをつけて「こけし」に見立てて装飾したのがそのはじまりだったようです。
切断のついでにミゾをつけるので、特別なコストはかからず、しかも綺麗に仕上がるため業者としては、都合がよく、以後日本のつまようじにはこけしが装飾されるようになりました。

とあるhttps://mag.japaaan.com/archives/94846

現代のつまようじ.jpg

(現代のつまようじ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%AA%E6%A5%8A%E6%9E%9Dより)


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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書評;
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2020年03月21日

砂糖


「砂糖」の原料の一つ、サトウキビの原産地は現在のニューギニア周辺の島々だとされるが、「砂糖」は

インドが起源だとされ、英語名 Sugar は、サンスクリット語の Sarkara(砂粒の意味)が語源だとも云われ、それがインドで最初に作られたとする根拠となっています。ニューギニア原産のサトウキビが、いつ頃インドに伝わったかは、定かではありませんが、紀元前の古い仏典に砂糖(薬品として)に関する記述があるそうなので、かなり時代を遡ることは確かです、

とあるhttp://www.in-ava.com/satou.html。大言海の記述がおもしろい。

梵語sarkara(甘藷、沙糖、仏語sucre、独語Zucker、英語sugar、甘精saccharine)の首音を取りて、支那にて、庶と音訳し、味の甘きを以て、漢語の糖(あめ)の字を添へて、庶糖と熟語にしたる、梵漢雙擧の語なり(閩部疏に、飴蔗と見え、又、甘蔗(かんしや)と云ふ、共に、雙擧なり)。後に草なるに因りて、蔗とし、其形の、沙(すな)の如くなる意に寄せて、沙糖とし、又、沙の俗字なる、砂と記すなり、今習慣により、俗字を用ゐる、

と。本草和名(延喜)に、

沙糖、甘庶汁作之、唐、

とある。説文には、

唐、飴なり、

とあり、塵袋(弘安)には、

沙唐は、唐のあめ也、

とあり、本草綱目「沙糖」には、

笮甘蔗汁、煎成紫色、李時珍云、法出西域、唐太宗、始遣人傳其法入中国、

とある(大言海)。李時珍とは、中国・明の医師で本草学者。中国本草学の集大成とも呼ぶべき「本草綱目」等々を著したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%99%82%E7%8F%8D。宋の陸游の「老学庵筆記」によると、中国でも古くは砂糖はなく、唐の太宗のとき外国から伝えられた、とある(日本語源大辞典)。

砂糖黍.jpg

(サトウキビ http://www.in-ava.com/satou.htmlより)


甘庶、
あるいは、
甘蔗、

は、

カンショ、
カンシャ、

と訓み、

さとうきび(砂糖黍)の漢名、

である。

砂糖は奈良時代に鑑真によって日本伝えられたとされている。鑑真東征傳には、

奈良朝、天平勝寶六年、唐僧鑑真、来朝す、其本國を發はする時、舶齎の數百品を載す、其中に蔗鎕等五百餘斤、甘蔗八十束(太宗より百余年後なり)、

とある(大言海)。

当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていたが、平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に「砂糖」と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96

日本国内で砂糖が作られるようになったのは、1453年沖縄の長嶺陵正によってからだと思われる。その後、「農業全書」(1696)、「和漢三才図絵」(1713)等により甘蔗の栽培と製糖法が紹介され、1727年には将軍吉宗により、琉球国から(平賀源内の「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)の記述では薩摩から)甘蔗苗が求められ、本州・九州で栽培・製糖がおこなわれるようになって、やがて民間へも普及するようになった、

という(日本語源大辞典)。この経緯は、「和三盆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474134165.html?1584646648でも触れたように、

金銀流出の原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために江戸時代の将軍徳川吉宗が琉球からサトウキビをとりよせて江戸城内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化をもくろんだ。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励した。とくに高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖流通量の6割を占めるまでになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E7%B3%96。ちなみに、長嶺陵正は、

長嶺按司陵正、

といい、長嶺グスク(城跡)の案内によると、

尚金福王の時代(1450~53)に中国に渡り、砂糖製造法を習い受け、ハー帰国後龍気宇国内に製糖法を教え広めた、

とされたhttps://ja.monumen.to/spots/7447、という。

ところで、砂糖は製糖の過程によって、

糖蜜分を含む分蜜糖(ラニュー糖、上白糖等々)、

糖蜜分を分離した含蜜糖(黒砂糖、メープルシュガー、パームシュガー等々)、

に分けられる。日常使用されているのは、ほとんどが分蜜糖であるが、和三盆は、黒糖と共に、

含蜜糖に分類、

する説http://sanuki-hiyori.jugem.jp/?eid=6と、

分蜜糖に入れる、

説があるhttps://taberugo.net/1090が、和三盆の特徴は、

粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから淡く黄色がかった白さとなる、

ので、含蜜糖に入れるのが妥当に思えるが、微妙のようである。

砂糖の結晶.jpg



参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月20日

和三盆


「和三盆」は、

唐三盆、

に対して言う。

三盆、

は、

粒子の細かい上等の砂糖、

を言い、

黒砂糖をまろやかにしたような独特の風味を持ち、淡い黄色をしており、細やかな粒子と口溶けの良さが特徴、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86、その特徴は、いまの機械式製糖に比して、

ほんのちょっとだけ蜜が残っている。また脱塩処理を挟んでいないこともあってカリウム等ミネラル成分を多く含んでいる。このことからグラニュー糖や上白糖には無い「風味」が特徴。見た目はほんのり色が付いているが、カソナード(粗糖)のようなはっきりした茶色ではなく、クリーム色の淡い色合いである(精白度でいえば「グラニュー糖>和三盆>粗糖」という形になる)、

とあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86

「三盆」は、はじめ中国から輸入していたのを、享保(1716~36)頃から日本で製したので、唐三盆に対して、

和三盆、

という(広辞苑)。「三盆」は、

三盆白、
三盆糖、

とも言い、

上白糖(じょうはくとう)、

をいうこともあるように、

伝統的製法により特別に精製を繰り返した上等な砂糖、

である。

和製の三盆白、

とある(大言海)。「三盆」は、

しろした(白下)を圧して、滓を滴らせ、手にて練り、貯へてなる、

とあり、重修本草綱目啓蒙(享和廿二年)には、

舶来白沙糖の上品を、三盆白と云ふ、

とある(仝上)。

糖霜、

ともいう、とある(仝上)。ちなみに「白下」とは、

白砂糖の下地の意、

で、

甘藷の……茎を…搾りて、蠣灰(カキバイ 牡蠣の殻を焼いてつくった石灰)を加へて煎煉す、其液(シル)を白下糖と云ふ(此儘にても用をなす)、これを壓し搾り、精を取りて、再び製煉して、固まらす、色、赭黄(黄色がかった 褐色)なり、

とある(大言海)。

当時、日本では薩摩の黒糖しかなく、徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励し、高松藩が これに呼応、その後、阿波の国(徳島)でも栽培されるようになりました。 これが日本の砂糖「和三盆」栽培のはじまりと言われています、

とありhttps://www.otoemon.com/select-ingredients/sugar-wasanbon-01/、現在和三盆糖が作られているのは、徳島県、香川県のみである。原材料の竹糖が栽培されているのが、徳島県と香川県の県境にある阿讃山脈の南側と北側にあたるため、とある(仝上)。ただ、尾張名所圖會(天保)の知多郡には、

三盆砂糖、享保の末、原田某、造り始めし由、

とあるので、各地で試みられていたものとみられる。現に、

白砂糖の製造に成功した時期でいえば阿波讃岐はそこまで早いほうではなく、すでに1750年代には尾張国(愛知県知多半島)や長門国(山口県下関)などで覆土法による製糖が行われていた記録がある、

とあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86。積極的に砂糖製造を推進した幕府は、寛政9年に『砂糖製作記』本まで出したが、その中で、幕府が推進していた砂糖製造法は、

植木鉢のように底に穴が開けられた容器「瓦漏とうろ」の中に、まずその穴を塞いだ上でさとうきびジュースを煮詰めた濃縮糖液を入れて結晶化を待ち、その後穴の塞ぎを取り除き、非結晶分である黒い蜜(モラセス)を重力によって下に落とすという第一の分蜜法を採るものであった、

とあり、その後に、

「瓦漏」の中で半固化している砂糖の塊の上部に、水分を含んだ土を乗せて第二の分蜜を施す、

ことを行うが、これを、

覆土法、

といったhttps://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000650.html、とある。最近の知見で、覆土の効果には、

土に含まれる水分の滴下によって、結晶の周りに存在している黒い蜜を洗い流す他に、覆土が乾いた時に、毛管現象によって覆土側に蜜が上昇して分蜜もされるという、

ことが確認されている(仝上)、らしい。

和三盆糖の研ぎの風景。和三盆の名の由来通り、盆の上で何度も研いで蜜をもみだす。.jpg

(和三盆糖の研ぎの風景。和三盆の名の由来通り、盆の上で何度も研いで蜜をもみだす http://nipponsyokuiku.net/syokuzai/data/097.htmlより)


因みに、「竹糖」とは、砂糖黍のことであるが、

温帯での生育に適した竹糖は、イネ科「シネンセ種(S.sinense)」に属し、熱帯地方で一般的に栽培されるサトウキビのオフィシナルム種(S.officinarum)とは異なる栽培種である、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86

収穫期で背丈は2mほどと低く、太さも大人の人差し指ほどしか無く、他地方で一般的に作られている砂糖黍とかなり外観が異なっています。通常の砂糖黍より細いので、地元では「細黍」と呼ばれています、

とあるhttp://www.wasanbon.co.jp/wasanbon/chikutou.html。この移植は、

宝暦年間に高松五代藩主松平頼恭(よりたか)公の命により、医者”池田玄丈”が砂糖作りの研究を始め、弟子の医者”向山周慶”が後を継ぎ、砂糖キビの栽培及び製糖法の研究を進めておりました。しかし、なかなか成果が上がらず苦労していました。ある日、四国遍路の途中病にかかり行き倒れになっている人を見つけ家に連れて帰り、”向山周慶”が治療をして助けました。この人は薩摩の奄美大島の人で、”関良介”と云い、砂糖作りをしたことがあるというので、”向山周慶”は是非砂糖作りを手伝って欲しいと頼みました。そして、助けられた恩に報いるために、”関良介”は命の恩人の頼みを聞き入れ、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育て、まず黒糖を作ることに成功しました、

とあるhttp://www.baikodo.com/wasanbou/history/index.htmlが、これは伝説で、上述のように、

徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。その後、徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、領内各地で栽培できるまでなった、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86、例のサツマイモが、吉宗によって、

飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を(青木)昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%98%86%E9%99%BDのと同一の幕府の政策であったようだ。

さて、「和三盆」の由来であるが、大言海は、

始めて齎せる支那人の官の、三品なるより呼べりと云ふ、

とする(俚言集覧・上方語源辞典=前田勇)。他に、

中国で、もと土製の鉢を盆といった。砂糖を精白するとき、この盆を三つ使ったか、または三度作業を繰り返すかしたところからか。「礼記」に、蚕糸を紡ぐ際に諸侯の夫人が儀式的に三度手を盆にすることをいう「三盆手」という言葉があるが、これと関係あるか(国語學叢録=新村出)、

という説がある。しかし、今日「和三盆」を製造している各社のホームページには、

三盆の語源は諸説あり、正確な由来は定かではないのですが、よく知られた説では、当初の製法が「お盆の上で三日間研いでいた」「お盆の上で三回研いでいた」などに由来すると言われております、

とかhttps://www.otoemon.com/select-ingredients/sugar-wasanbon-01/

元々は「三盆糖」と呼ばれていました。この「三盆」の由来は各説あってはっきりしません。三盆糖の出荷港が香川の三本松であったからと言う説や、扱う中国の役人が三品の位であったからとかの説もあります。
しかし中でも一番もっともらしいのが、「盆の上で三回研ぐ」と言う理由によるものでしょう。精製の技法が広まり三盆糖としての製造が始まったおり、最初は専用の研ぎ台は無く、手元にあった盆の上で研いだと言います。また白い砂糖の無かった当時、三回ほど研いだら概ね精製された砂糖として目され出荷した様です、

とかhttp://wasanbon.co.jp/origin/index.html

研糟 (盆)の上で三度研ぐためと云われています、

とかhttp://www.baikodo.com/wasanbou/history/index.html

概ね、

盆の上で砂糖を三度「研ぐ」という日本で工夫された独自の精糖工程から来たもの、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86、製造過程の特徴からきているとしている。それは、

(さとうきびの)搾り汁を煮詰めて濃縮し、褐色で半流動体状の「白下糖(しろしたとう)」を作る。この白下糖を布袋に入れ、圧搾して糖みつを絞り出し、袋に残った白下糖に水を加えて練る「研(と)ぎ」という作業を行う。再び布袋に入れて圧搾、研ぎという工程を数度繰り返し、最後に1週間ほど乾燥する、

という(日本の郷土料理がわかる辞典)プロセスであるが、具体的には、たとえば、

讃岐・ばいこう堂http://www.baikodo.com/wasanbou/process/index.html
阿波・岡田製糖所http://wasanbon.co.jp/method/index.html

等々をみるとわかる。必ずしも、「三度」ではないので、少し疑念はあるが、

「三盆手」という言葉かある、

という新村説は気になるものの、一応、現在の定説になっている、

三度「研ぐ」、

という製造プロセス由来に与しておく。

阿波和三盆糖.jpg

(阿波和三盆糖 http://nipponsyokuiku.net/syokuzai/data/097.htmlより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月19日

落花生


「落花生」は、漢名である。

らっかせい、

と訓むが、

らっかしょう、

が正しいのだとある(たべもの語源辞典)。大言海には、

らくくわしゃう、

で載る。

ラッカセイ・種子部分.jpg



オニマメ、
南京豆、
唐豆、
南蛮豆、

等々とも呼ぶ。

宝永年間(1704~11)に中国南京から渡来した、

ためである(地錦抄附録)、という(仝上)。ために、

唐人豆、
異人豆、

等々とも呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%82%A4、仝上)。ただ延宝三年(1675)刊の黒川道祐の『遠碧軒記』に、

「落花生と云ものあなたより渡る。松の子の類なり。相云ふ、この花の露が地へ落て、その所へ此実なると云伝ふ。日本にて種もはゆるなり、近来渡る博愛心鑒に有と云」

とあるので、延宝以前に渡来した可能性もある(仝上)、とある。他に、

元禄(1688~1704)の末、中国商人が長崎に伝えたが地上で開花して地中で結実する不思議な植物なのであまり広まらなかった、

ともある(近代世事談)、という(たべもの語源辞典)。

「落花生」は、

草丈は25-50cm。夏に黄色の花を咲かせる。花が咲く前に自家受粉する。受粉後、数日経つと子房柄(子房と花托との間の部分)が(長柄状に)下方に伸びて地中に潜り込み、子房の部分が膨らんで地中で結実する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%82%A4。漢名が、

落花生、

である所以で、

落下松、
落下参、
長生果、
地豆、

等々の漢名もある(たべもの語源辞典)。

松・参・長生は、いずれも栄養価の高いことを示したものである、

ともある(仝上)。

原産地は南アメリカ大陸である。最も古い出土品は、ペルーのリマ近郊にある紀元前2500年前の遺跡から出土した大量のラッカセイの殻である。また、紀元前850年頃のモチェ文化の墳墓にあった副葬品にラッカセイが含まれていることから、ラッカセイが生活の中で重要な位置を占めていたことが分かる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%BB%E3%82%A4。その後、ヨーロッパにも紹介されたが、気候もあまり適さないことから、ヨーロッパでの栽培はあまり行われなかった、とある(仝上)。日本には、東アジア経由で伝来した。ただ、現在の日本での栽培種はこの南京豆ではなく、

明治七年(1874)勧業寮がアメリカのカリフォルニア州から種子を輸入したもの、

が現在の落花生の起源である(たべもの語源辞典)。

因みに、落花生とピーナッツは同じものであるが、

日本では主に皮の付いたものを「落花生」と呼び、皮をむいて味付けしたものを「ピーナッツ」と呼ぶことが多い、

とある(語源由来辞典)。「ピーナッツ」、

は英語peanutsに由来し、peaはえんどう豆の意、nutsはnut(木の実)の複数形、

である(由来・語源辞典)。

落花生.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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2020年03月18日

不惜身命


「不惜身命」は、

ふしゃくしんみょう、

と訓む。法華経・譬喩品にある語で、

仏道を修めるためには、あえてみずからの身命をもかえりみないこと、

また、

その心構えや態度のこと、

である(故事ことわざの辞典)。現在では、広く、

自身の立てた目標や目的を達成するため、命や体を惜しまず全力で事に当たる、

という意味に変化しており、確か貴乃花が大関昇進に当たって、この言葉をそんな意味で使った。

法華経・譬喩品には、

若人精進、常修慈心、不惜身命、乃可為説(若し人精進し、常に慈心を修め、身命を惜しまざれば、乃ち為に説くべし)、

とあり、法華経・勧持品には、

読誦此経 持説書写 種種供養 不惜身命 爾時衆中 五百阿羅漢(この経を読誦し、持ち、説き、書写して、種種に供養し、身命をも惜しまざるべし)、

とありhttp://www.shiga-miidera.or.jp/doctrine/be/122.htm、また、法華経・如来寿量品にも、

一心欲見佛 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山(一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまざれば、時にわれ及び衆僧は、倶に霊鷲山に出ずるなり)、

とある(仝上)。さらに、日蓮遺文・御義口伝にも、

第二不惜身命の事、御義口伝に云く、身とは色法、命とは心法也。事理の不惜身命之有り、法華の行者田畠等を奪るるは理の不惜身命也。命根を断たるるを事の不惜身命と云ふ也、

とある(故事ことわざの辞典)。また、浄土宗の観経疏・散善義にある、善導が深心釈に、

一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行せよ、

とありhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E6%83%9C%E8%BA%AB%E5%91%BD、となると、

不顧身命、

も同義と理解されている(仝上)。

道元禅師.jpg


ところで、道元の正法眼蔵には、

ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命なり、但惜身命なり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、わするべからず、

とあるhttps://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C9%D4%C0%CB%BF%C8%CC%BF、とか。この、

但惜身命(たんじゃくしんみょう)、

は、ある意味、「あたら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474080990.html?1584387485で触れた、

可惜身命、

と似た意味で、

身命を惜しむ、

意である。しかし、

不惜身命なり、但惜身命なり、

とあるのは、

漢字の意味をそのまま解釈すれば「ただ、身体や命は惜しいものだ」となります。つまり、「不惜身命なり、但惜身命なり」とは、身体や命は大切なもので、無駄にすべきものではない、ということを理解しているからこそ、仏のために身体や命も惜しまないことが大切だと考えられる、と解釈できます、

とあるhttp://stevengerrard.hatenablog.com/entry/20110416/1334442460が、この、

但惜身命、

を、

「但」は「但し」、

ではないhttp://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/husyaku.htm

「不惜身命なり」と、ここでいったん打ち切る。但しという具合につながないで、全く新たに、「但惜身命なり」と受けるのです。そうでないと、この一句の真の意味はまったくわからなくなります。不惜の道と、但惜の道とが互いに、人生最高のあり方として、しっかりと同時現成している、

と解している(仝上)。とすると、たぶん、

不惜身命、

と対に考え出された、

可惜身命、

もまた、ただ、

身命を惜しむ、

意ではないはずである。

可惜(あたら)、

が、

今のままでは惜しい、または大切なものや良いものが相応しい扱いをされていないことを惜しむ、

意とするなら、そういう大事な身命を惜しむことが片方にあり、にもかかわらず、その大事なかけがえのないものを、仏法修行に賭する、というのに、意味があるのだろう。道元の、

ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命なり、但惜身命なり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、わするべからず、

を見る限り、

法のために身命を惜しまない面、
と、
ただ身命を惜しんで修行する面、

という二義性https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C9%D4%C0%CB%BF%C8%CC%BFを示しており、一般論化して解釈するのではなく、あくまで仏法修行を言っているだけで、

法のために命を惜しまず、
しかし、
命を惜しんで修行する、

という解釈になるのだろう(仝上)。ただ、別の解釈もあるらしく、

仏法を体得して、むしろ身命を大切にして、ながく人々のために法を説き広めることを、

但惜身命、

ともいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%8D%E6%83%9C%E8%BA%AB%E5%91%BD、とある。となると、道元の、

不惜身命なり、但惜身命なり、

とは、対ではなく、因果であり、

不惜身命なり→但惜身命なり、

の境地に達することになる。この解釈の方が個人的には納得いくが、道元の趣旨からは離れていく。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル:不惜身命
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2020年03月17日

あたら


「あたら」は、

可惜、
惜、

と当てる。「可惜」は当て字のように思えるが、

アタラ(可惜)シの語幹。感動詞的に独立して、また連体詞的に名詞に冠してもちいる、

とあり(ただ、連体詞的な使い方は平安時代に入ってから使われたようだ)、

惜しくも、
もったいないことに、
惜しむべき、

の意であり(広辞苑)、

立派なものが、その価値相当に扱われないことを惜しむ意、

とある(岩波古語辞典)。「あたら」が促音化して、

あったら、

とも使い、

可惜口(あったら)、

という言い回しがあり、

口に風を入れたるばかりの結果となれること、

の意(大言海)で、

可惜口に風ひかす、

とも言い、

せっかく言い出したのに効果がない、
言いたる言が徒事(あだこと)となる、

意で、転じて、

無駄口をたたく、

の意となる(広辞苑)。

可惜(あたら)物、

という言い回しもあり、

せっかくのものを、
もったいないものだ、

という意味になる(広辞苑)。

「あたら」は、

玉匣(くしげ)明けまくも惜しアタラ夜を衣手(ころもで)離(か)れて独りかも寝む、

と、古く万葉集にも使われる。「あたら」の語源は、

あたらし(可惜)の語幹(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)、

とする以外に、

「当たら」の意で、そのものに相当する、値する、の意から転じて、立派な、すぐれた、の意味を持つ語。さりらに、その価値相当に扱われていないとするところから、惜しくも、残念なことにの意で用いられるようになった(角川古語辞典)、

等々があるが、日本語源大辞典は、

「あたら」と「あたらし」の先後関係は不明だが、語源説としては、(「当たら」が)有力視されている、

としている。

その「あたらし」は、

惜し、

と当て、大言海は、

アタは、傷(イタ)と通づるか(諫む、あさむ)、

とするが、岩波古語辞典は、

アタリ(当)と同根。アタリ(当)・アタラシの関係は、ユク(行)・ユカシ(奥に行きたい、奥ゆかしい)と同じ。対象を傍から見て、立派だ、すばらしいと思い、それがその立派さに相当する状態にあればよいのにと思う気持ちを言う。平安時代以後アタラシ(新)と混同が起こり、アタラシは亡びて、アタラシが新の意をもっぱら表すようになった。類義語ヲシ(惜)は自分の手の中にあるものの失われるのを哀惜する意、

とし、

新の意になると、アタラシのアクセントばアタラシ(新)と同じ平平平平となり、可惜の意のアタラの上上上とは異なっている、

とする(岩波古語辞典)。同趣旨は、他にも、

「田の畔を放ち、溝を埋むるは、地をあたらしとこそ、我がなせの命、かくしつらめ」(古事記)はスサノオの乱暴を、姉君のアマテラスオオミカミが擁護して言う場面で、「田の畔を放ったり、溝を埋めたりするのは、土地がもったいないというので、弟はこんなことをしたのでしょう」と言う意味である。「あたらし」の語源は「あたる」という動詞だろうと阪倉篤義氏(日本語の語源)は推測する。「いたむ~いたまし」、「つつむ~つつまし」と同じ機制から生じたというわけである。「あたる」とは、「的が当たる」というように、的中するとか、適合するとか、合致するとかいう事態を指して言う言葉である。それ故、「あたらし」には、適合すべきだという意味が基層としてあり、そこから、適合すべきなのにそうでないのは残念だ、惜しいことだとする意味合いが生じた、

とあるhttp://blog2.hix05.com/2012/10/post-64.html

この「あたらし」の、

可惜(あたら)し→新(あたら)し、

という意味の転について、大言海は、

日本釈名(元禄)「惜(あたら)しは、惜しむ也、古き物は、惜しむに足らず、新しき物は惜しむべし、少年の光陰惜しむべきが如し」(節文、朗詠集「踏花同惜少年春」)。惜(あたら)しが、新しに通づるは、可愛(うつく)しく思ふより、美麗(うつく)しに転じ、親愛(うるは)しに転ずるなど同齢り。この語奈良朝以前は、アラタシにて、アタラシは、平安朝以後なりとする説あれど(アラタシといふ語。多くは見当たらず)、同時に両立してありしなり、ウツクシ、うるはし、是なり、

と説く。しかし、「あらたし」は、

あらた(新)の形容詞形、

つまり、

あらたを活用、

したもので、

平安時代以後、アタラシ(可惜)と混同を起こしたらしく、アタラシという形に変わった。ただし、可惜の意のアタラシと新の意のアタラシとのアクセントば別で、アタラシ(新)の第一アクセントは、アラタ(新)の第一アクセントと一致していた、

とある(岩波古語辞典)。つまり、口語では、

あたらし(可惜)、

あたらし(新)、

とは区別されていたが、書き言葉の中では区別がつかなくなっていった、ということなのだろうか。日本語源大辞典は、

アラタシからアタラシへの変化は、音韻転倒の典型的な例として引かれることが多いが、変化の説明はなお考慮すべき点がある。まず、アクセントのうえでは区別できるものの、「惜しい」の意の形容詞「アタラシ」と同形となり、一種の同音衝突となる点をどのように考えるかが問題となる。さらに、同根の類語アラタナリ・アラタムとの類似が薄まるために起こりにくくなるはずの変化が、どうして起こり得たかを明確にする必要がある、

と、述べている。確かに、

あらた(新)なり、
あら(新)た、

はそのまま生きているのである。

ところで、「あたらし」(可惜)の語源は、「あたら」(可惜)と同様、先後関係があいまいなので、

あたら(可惜)の形容詞化(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、

もあるが、

「当たる」から派生した語で、物や人が、その立派さに相当するようにしたいの意(万葉集=日本古典文学大系)、

という説もあり得るだろう。

因みに、

可惜身命(あたらしんみょう)、

という言い回しがある。

不惜身命、

の対義語。不惜身命から派生して生まれた言葉とされている。

不惜身命、

は、

仏法のためには身命をも惜しまざるべし、

という意であるが、

可惜身命、

は、

身体や生命を大切にする、

という意である。『法華経』の「不惜身命」を借りて、「可惜」の、

今のままでは惜しい、または大切なものや良いものが相応しい扱いをされていないことを惜しむ、

意を使っての造語である。

仏法のために身命を賭す、

という意の不惜身命とは真逆である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:38| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする