2020年03月16日

五平餅


「五平餅」は、

御幣餅、
五兵衛餅、

とも表記する。

中部地方の山間部(長野県木曽・伊那地方、岐阜県東濃・飛騨地方、富山県南部、愛知県奥三河地方、静岡県北遠・駿河地方に伝わる郷土料理。粒が残る程度に半搗きにした粳米(うるちまい)飯にタレをつけ、串焼きにしたものである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B9%B3%E9%A4%85。「餅」といっているが、

粳米(うるちまい)飯を半搗き、

にしたものである。美濃地方で、

狗賓餅(ぐひんもち)、

と称して天狗に供えるのも五平餅とおなじである(たべもの語源辞典)。

五平餅の形は、代表的なものとしては、

御幣、
わらじ、
小判、
丸、
団子、
棒、

等々いろいろあるhttp://www.toyota-go-hey.jp/history/aji.html。また、

タレのベースに醤油を使うか味噌を使うか、ゴマとクルミを使うかエゴマを使うかは地域による。エゴマをベースに醤油と砂糖で仕上げるのは木曽地方中北部から飛騨地方にかけての特徴である。クルミを使っていた地方では近年は入手しやすいピーナツをクルミの代わりに使うこともある、

と(仝上)。

五平餅.jpg



長野県南部または美濃山間部に伝わる郷土食で、新穀を感謝して造られる、

とある(日本語源大辞典)ので、

神に捧げる「御幣」の形をしていることからこの名がついた、

と考えられる。その由来については、

宮大工の棟梁の五平が、毎日弁当に決まって握り飯に味噌を塗り、焚火に炙って食べたのが始まり、
屋根葺き職人の五平が、板の切れはしにご飯を塗り固め、その上に味噌を付けて食べたから、
日本武尊が東征のとき幣束の形にして神に供えたのを里人に分かち与えた、
尊の従者五平が焼いたのが始まり、

等々(たべもの語源辞典・日本語源広辞典・日本語源大辞典)諸説あるが、

五平の名を採った、

というのは俗説とする(日本語源広辞典)のが妥当だろう。

御幣.jpeg



御幣(ごへい・おんべい・おんべ)は、

白色または金銀、五色の紙を幣串にはさんだもの。神霊が宿り、示現する依代 (よりしろ) として神に供えられた、

とされる(ブリタニカ国際大百科事典)。

幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだものである。幣束(へいそく)、幣(ぬさ)ともいう。(中略)「幣」は麻(麻布)、「帛」は絹(白絹、絹布)を意味する。両者は捧げ物の代表的な事物であることから、本来、「幣帛」で神々への捧げ物の「総称」を意味する。
「幣帛」は「充座」(みてぐら)、「礼代」(いやじり)ともいう。「幣帛」は、広義では神饌(食物)も含むが、狭義では神饌に対する特に布類を指す。布類では麻布が主流なので、主に「幣」の字が用いられることになる。現物の代わりに「幣帛料」として捧げられる金銭を「金幣」という。
「御幣」とは、神々への捧げ物を意味し、貴重な品を示す「幣」(へい)に、尊称の「御」(ご)を付けたものである。

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3。長く、神々に対し、貴重な品々、「幣帛」を捧げてきたが、それは、

稲(米)、酒(みき、酒造技術)、塩、魚などの神饌(みけ)の他、鉄製の武器(刀剣類)や農工具(=製鉄・鍛造技術)・器・玉(=宝飾加工技術)・鏡(=鋳造・研磨技術)・衣類・布類(=養蚕・製糸・織布技術)、

等々で、これらの品々は、神々の霊魂が宿る依り代、神々の象徴でもあった。それが、奈良時代後半から平安時代前期にかけて、幣帛は特に布類を指すようになる(仝上)、とある。「五平餅」は、そうした供えた「幣帛」の一つとみられる(仝上)。

串に物を挟み、または刺して神を祀るのは日本の古い風習である、

から(たべもの語源辞典)、

御幣餅、

と呼んだとみて間違いはなさそうである。

山小屋でこの餅の焼き立てを山の神に供えるとされ、その形が神さまの御幣のようであるから御幣餅と呼んだものを、五平と当て字で書き、五平という人が作り始めたといったような伝説を考え出したものであろう」

とする(仝上)のが妥当のようである。

五平餅丸型.jpg

(円形の五平餅 https://life.ja-group.jp/recipe/detail?id=5149より)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月15日

「仁政」期待


深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』を読む。

百姓一揆の歴史的構造.jpg


本書は、著者の、

百姓一揆関係の論稿を加筆・訂正してまとめたもの、

であるため、全体が一貫したものとして展開されているわけではないが、

問題の立て方、問題への接近の仕方の共通性というものがある、

とし、著者自身が「序章」で、

それを一言でいうと、百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならないといつも思い、また心がけてきた、ということである。……その統一の意味は、(中略)百姓一揆史における、一揆そのものの特徴を掘りさげていくことをつうじて幕藩制国家史や幕藩制社会史へ可能なかぎり架橋していく、あるいは一揆史から百姓論・小農論の見なおしにまで至り、また農民の個人史にまで分けいっていく、ないしはそれらの考察が同時的であるような一揆史のとらえ方をしていく、というような意味である。

と述べている。そのことは、たとえば、

百姓一揆の「中心原理」は直訴(越訴)と制裁、あるいは直訴の原理と制裁の原理の二つである……。つまり、強訴は直訴の原理に支えられ、打ちこわしは制裁の原理にささえられるのである。そして、直訴の原理は国家の支配の方式と深く関連しあい、制裁の原理は共同体の維持の方式と深く関連しあっている。直訴と制裁の意味は、その対極的な解決方法としての内済(示談・和解)とつきあわせてみるとより鮮明になる。幕藩制下では、内済は国家と共同体を持続させる重要な方式―強制をともなう―だったが、この内済原則と直訴の原理、制裁の原理は対抗の関係にあって、内済原則の破れ目から百姓一揆の直訴と制裁が噴きでてくるとも言えるのである。
したがって、百姓一揆の「中心原理」を深く解明していこうとすれば、どうしても国家の歴史と共同体の歴史へ拘らざるをえなくなる。国家論・共同体論と交接しない百姓一揆論はなりたたないのである。

という説明からも明白である。

本書は、

第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開
第四部 世直しへの展望
第五部 百姓一揆の研究視角

の五部に編成されているが、

論稿の寄せ集めなので、多少の重複はやむを得ないとしても、

第一部 百姓一揆の運動と意識
第二部 島原・天草一揆の位置
第三部 百姓一揆の成立と展開

を整理して、一貫性を持った一揆論にまとめなおすることはできなかったのか、と疑問に思う。多くの研究書が、論稿を寄せ集めてお茶を濁すという感じなのは、どういうことなのだろう。

僕個人の関心は、かつては、

「自力救済」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467902604.html

で触れたように、大山崎の油商人、米商人、土倉・酒屋等々は、

惣中、

という自律的組織(「所」と呼ぶ)をつくり、みずからの領域内の諸問題を自律的に解決する能力を獲得し、構成員からも、外部勢力からも「公」的な存在と認められるようになったし、また、

「小さな共和国」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468838227.html

で触れたように、小さな村ながら、乙名を指導者とする行政組織を持ち、在家を単位とする村の税を徴収し、若衆という軍事・警察組織を持ち、裁判も行い、村の運営を寄合という話し合いで進め、そのため構成員は平等な議決権を持つ、自治の村落、

惣村、

をつくり、住民の家を保護することを目的に、中世の村の、

自力救済、

を原理として、

領主-村関係、

自体が、支配関係ではなく、

契約関係、

としようとしてきた。だから、

「領主が地下のために“奉公”した時は地下は年貢を納めるべきである」

という年貢の概念をもち、

「自力救済…の道はリスクが大きいことも認識しているのである。平和確保の“しんどさ”、それが有償でも武士を雇う関係を時に生み出すのである。在地の人々にしてみればそうした保護機能こそ領主に期待した。領主がそれに応えてくれるからこそ年貢も出すのである」

というものであった。場合によっては、

「サバイバル」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463189273.html

で触れたように、

「敵軍におおくの米や錢を支払って『濫妨狼藉停止(ちょうじ)』の禁制や制札」

を買い取り、さらに、敵味方の境目の村々は、

「敵対する双方の軍に、年貢を半分ずつ払って両属(半手・半納)の関係」

を結ぶことで、

「村の平和」

を買い取っていた。さらに、

「隠物・預物」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464048075.html

で触れたように、領主の城は、村人の避難所として、

地域の危機管理センター、

としての役割を託してきた。だからこそ、年貢を払ったのである。しかし、豊臣政権の太閤検地、兵農分離、それを受け継いだ徳川政権の幕藩体制下で、かつてのそうした領主は、

鉢植化、

し、全国へ移封、転封され、縁もゆかりもない領主が、自分たちの上に落下傘のように降りてきた。それでもなお、かつてと同様に年貢を納めた原理は何なのか、が僕には興味があった。

幕藩体制下の一揆では、自力救済は消え、

百姓共永々相続、御百姓相勤、

と自己認識し、

以御愛隣御救ひ被下置候、

と懇願に転換する意識の転換は何によってもたらされたのか。

その転換期にあるのが、島原一揆のようである。太閤検地、兵農分離に際して、国人、土豪層の一揆が、

天草国人一揆、

等々の一揆とは異なるが、有馬旧臣、小西旧臣が在地化し、まだかつての在地領主としての力を集落に温存していた、ということが背景にある、と僕は見るが、著者は、新たな領主として移封してきた松倉・寺沢は、

大名一円支配、

を目指し、

旧土豪層の在地先制支配力の政治的解体を意味し、……本来的な国人・土豪一揆の成立は不可能な段階に立ち至った……。(中略)生産農民の側からいえば、なによりも村落から領主的核が失われてしまい、そのかぎりで領主権力に対して相対的に自立性をもつ生産共同体が獲得され、新しい村落秩序が生みだされる出発点にたちえた…。(しかし)余りも早く(藩権力が)集権化されて、かえって深く在地性を喪失した藩権力の脆弱性からくる焦燥の暴力的収奪の結果が、農民の必要労働部分にまでくいこみ(囲炉裏銭、窓銭、棚銭、戸口銭、死人に穴銭、生子の頭銭等々)、……農民の窮乏がしいられた

結果が招いたという、幕藩体制確立期の矛盾が生み出したもの、と見る。しかしその説明では、一揆参加の村々の多く(有馬領南目の村々)が一村挙げて、女も子供まで参加し、この一揆だけが、江戸時代の一揆の中で、

「宗教王国」実現を願望、

し、

百姓の国、

を目指すという、目的意識を持ったものだったことの背景には、十分迫り得てはいない気がする。

しかし、この一揆を転機に、

幕藩体制的な「御百姓」意識が社会化、

されていくことになる。この時期、年貢の村請制を契機に、年貢負担者を増やすという方向で、

隷属身分農民層、
小百姓層、

の、小農経営が前進していく。それには、

年貢・諸役皆済(「取立(とりたて)」)……のためには、農民を土地に緊縛し(「有付(ありつけ)」)、その経営を維持させる(「成立(なりたち)」)ことが不可欠、

となる。こうして、

小農経営の、領主による強度の収奪ゆえの不安定さを基本的な根拠として、経営維持のための領主による直接の助成米金、さらに年貢未納用捨分、引免分、さらには土地丈量の縄延分、川除工事等々が、領主の「御仁恵」(「御愛隣」「御憐愍」「御慈悲」等々)という人格的な倫理的基礎に由来する「御救」として、社会化されていったのである。幕藩領主の全剰余労働収奪は、一方での「収斂」と、他方での「御救」の矛盾的統一によって農民から最大限収奪を実現するということにほかならなかったが、幕藩イデオロギーは、そのような現実的関係をとり結ぶ領主と農民を、「お救」を基軸的媒介とする「仁君」と「御百姓」の「仁政」論的意識関係として思想化していくことで形成された。このような治国・養民を使命とする「仁君」と上納・養命を使命とする「御百姓」を両極とし、それを身分関係として結合させる領主および農民の規範的な身分的階級的自己認識および関係意識の理念化された総体は、幕藩制国家の支配思想としての幕藩的「仁政」イデオロギーと呼ばれるべきであるが、それは、(中略)村請制村落の成立を基盤とする、いわゆる村請教化制の実現ともいうべき、この時期の系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程において社会化されたのである。

だとして、とっかえひっかえ、かつての領主とは違い、ただ鉢植え化した縁もゆかりもない領主にまで、「仁政」を期待して、年貢を納め続ける、というのは、かつて安全の担保に領主に納税していた意識と、確かにどこか通底するといえなくもない。期待は空手形になっても、直訴、強訴しかとりえないというのは、自力救済とは格段に違うように見えるが、心性としては、他人頼みという意味で似ている。それを奴隷根性というのはいいすぎだろうか。

この「仁政イデオロギー」「仁君」への期待は、水戸黄門を見るまでもなく、大衆化され、いまだ隅々にまで我々の心の奥底にまで浸透している気がする。

この「仁政」期待の心性は、そのまま、維新後、

日本国家の支配イデオロギーとして近代天皇制イデオロギー、

へと接続し、やはり「仁政」「仁君」を期待し、いまだに、日本人を縛り付けている気がする。お上意識、あるいは、お上に逆らうことへの心理的抵抗は、他方で、

仁政、

を期待する他力頼み、御上頼みの奴隷根性につながっている気がしてならない。

ただ、本書では、その機微を深奥まで突き止めるのは任でないとはいえるが、いささか説明のみで終わって、まさにその核心である、

系統的な触書・法度の読聞せ、その請書への連印等の具体的なイデオロギー編制過程、

そのものを、具体的、かつ綿密に掘り下げていないのは、

百姓一揆史の研究は幕藩制史研究に緊密に結びつけられていなくてはならない、

という問題意識のわりには、具体的な追求不足は否めない。

参考文献;
深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』(校倉書房)
仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』(山川出版社)
蔵持重裕『中世村の歴史語り―湖国「共和国」の形成史』(吉川弘文館)
藤木久志『城と隠物の戦国誌』(朝日選書)
藤木久志『戦国の村を行く』(朝日選書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月14日

うらむ


「うらむ」は、

恨む、
怨む、
憾む、

と当て分ける。「恨」(漢音コン、呉音ゴン)は、

「会意兼形声。艮(コン)は、『目+匕(ナイフ)』からなり、ナイフを突き刺して、目の縁に入れ墨をし、いつまでも痕を残すこと。恨は、『心+音符艮』で、じっと心中に傷跡を残し、根に持つこと」

とあり(漢字源)、「恨む」といういつまでも心に根を残す意であり、「怨恨」と使うように、「怨」と類似であるが、「恨」には、

恨むらくはいまだ何人なるかを知らず(恨未知何人)、

というように、「憾む」と当てるのに似た、「残念ながら」の意でも副詞として使う。「怨」(漢音エン、呉音オン)は、

「会意兼形声。上部の字(エン)は、人が二人からだをまげて小さくまるくかがんださま。怨はそれを音符とし、心を加えた字で、心が押し曲げられてかがんだ感じ、いじめられて発散できない残念な気持ちのこと」

とある(仝上)。「うらむ」「無念さ」という意味である。「憾」(漢音カン、呉音ゴン)は、

「会意兼形声。感は『心+音符咸(カン)』の会意兼形声文字で、心に強くショックを受けること。憾は『心+音符感』で、残念な感じが強いショックとして心に残ること」

とある(仝上)。「うらむ」「しまったと強く感じる」意だが、

人猶憾む所有り(人猶有所憾)、

というように(中庸)、確かに「残念」「物足りない」の含意が強い。

「怨」、「恨」、「憾」の使い分けは、

「怨」は、恩の反なり、恙(うらむ)也、恨也と註す。叔齊不念舊悪、怨是用希、
「恨」は、わが心に残りて怨の深きなり。史記「王朔謂李廣曰、将軍自念、豈嘗有所恨乎、廣曰、羌降者八百餘人、吾詐而盡殺之、至今大恨」、
「憾」は、恨に同じくやや輕し。孟子「養生喪死、無憾、王道之始也」

とある(字源)。

さて、「うらむ」は、

「古くは上二段に活用し、江戸時代には四段活用となった。まれに上一段も」(広辞苑)
「奈良時代では上一段活用で、平安時代になってから上二段活用に転じたものであろう。なお、近世以降は四段に活用する」(岩波古語辞典)

とし、

「他からの仕打ちを不当と思いながら、その気持ちをはかりかね、また仕返しもできず、忘れずに心にかけている意」

とある(広辞苑)。岩波古語辞典は、同趣旨ながら、

「相手の仕打ちに不満を持ちながら、表立ってやり返せず、いつまでも執着して、じっとと相手の本心や出方をうかがっている意。転じて、その心を行為にあらわす意。類義語ゑんず(怨)は、不満をすぐ口に出し、行動で示す場合が多い」

とする。で、万葉集は、

逢はずとも我は恨みじこの枕我と思ひてまきてさ寝ませ、

と、

いつまでも不満に思って忘れない、
相手の気持ちを不満に思いながら忍ぶ、

という意味で使われることが多い。平安期になると、

褻(な)るる身をうらむるよりは松島のあまの衣にたちやかへまし(源氏)、

と上二段に変ずるが、 意味はそんなに変わらないが、同じ、

「小君をお前にふせて、よろづにうらみ、かつは語らひ給ふ」(源氏)、

だと、恨み言を言う意味になる。それが、

「入道相国朝家をうらみ奉るべき事必定と聞こえしかば」(平家)、

となると、

無念を晴らす、
仕返しをする、

意となる。残念の意は、「憾む」と書き分けるのが、今は当たり前だが、

憾むらくは、
恨むらくは、

と当てているので、必ずしも、「怨」、「恨」、「憾」を使い分けていたわけではなさそうである。

「うらむ」の語源は、

心(うら)見るの転、

とする(大言海・岩波古語辞典)。

「ウラミのミは、miであった。従って、ウラミの語源はウラ(心の中)ミル(見る)と思われる」

とする(岩波古語辞典)。

「うらなう」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.htmlで触れたように、「うら(占)」は、

「事の心(うら)の意」

とする(大言海)。「心(うら)」は、

「裏の義。外面にあらはれず、至り深き所、下心、心裏、心中の意」

とある。「うら」は、

裏、
心、

と当て、

「平安時代までは『うへ(表面)』の対。院政期以後、次第に『おもて』の対。表に伴って当然存在する見えない部分」

すある(岩波古語辞典)。

したがって、「かお」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450292583.htmlの項でも触れたように、「うら(心・裏・裡)」は、

「顔のオモテに対して、ウラは、中身つまり心を示します」

とし、

「ウラサビシ、ウラメシ、ウラガナシ、ウラブレル等の語をつくります。ウチウラという語もあります。後、表面や前面と反する面を、ウラ(裏面)ということが多くなった語です」

としている(日本語源広辞典)。「うらむ」は、

相手の心のうちをはかりかね、心の中で悶々とする、

というか原意であったと考えられる。なお、

「うら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463821593.html
「こころ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/454373563.html

については、触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月13日

あすか


「あすか」は、

飛鳥、
明日香、

と当てる。

岡寺より飛鳥全景.jpg

(岡寺より飛鳥全景 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5より)

「あすか」に、

飛鳥、

と当てるのは、「あすか」にかかる枕詞、

飛ぶ鳥の、

の表記をそのまま使ったもの、とされる(岩波古語辞典)。似た例は、

日下、

があり、これは「草香/草香」の枕詞が、

日の下の、

であったことから、とされる(仝上)。「飛ぶ鳥の」と枕詞を持つ歌は、

飛ぶ鳥の、明日香の里を、置きて去(い)なば、君があたりは、見えずかもあらむ(元明天皇)、
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す……(柿本人麻呂)、

等々、万葉集にはたくさんある。

日本語の語源は、その「飛ぶ鳥の」の由来について、

「アスカ〈明日香、飛鳥〉の里は、推古天皇から文武天皇までおよそ百年間にわたる皇都の所在地で、(中略)政権のお膝元に住み富をたくわえて、なに不足ない生活をしていた都人たちは、トミタル(富み足る)明日香といって恵まれた生活を謳歌していた。『ミ』以下が隣接母韻間の母交(母韻交替)[iu]・[ao]・[ui]をとげるとトムトリ・トブトリ(飛ぶ鳥)に転音し、ここに明日香の枕詞が生まれた。
 枕詞の『飛鳥』の文字は『明日香』の地名表記の代用となり、両地名が併用されているうちに、やがて『明日香』にアスカの訓読が発生した。
 トミタル(富み足る)が『ミ』を落とすとトダルになって『豊かに栄える』という意味の用語になった。〈天つひつぎを知らしめすトダル天の御巣なして〉(古事記)」

とする。是非はともかく、

トミタル→トムトリ→トブトリ、

と転訛したとするものである。しかし、大言海は、「飛ぶ鳥の」の項で、

鳥のイスカの古名は、アスカなるべく、それに掛けて云へるならむ、

とする。天武紀を引き、

十五年七月、改元曰朱鳥元年、仍名宮曰飛鳥浄御原宮トアリ、此朱鳥ニ因ミテ、飛鳥ト云ヒシガ、其意ハ唯鳥ノ事ナリ、後ニハ、用ヰ馴レテ、飛鳥ノ字ヲ、直ニあすかト読ムニ至ル、

とする。「いすか」(鶍、交喙)は、スズメくらいの大きさの渡り鳥、秋に日本に渡来する。嘴が交叉しているのが特徴。しかし、「いすか」の古名が、

アスカ、

とはどこにも載らないので確かめようがない。ただ、「いすか」の派生語、

いすかし(佷し・很し)、

は、

いすかのようだ、

の意で(岩波古語辞典)、

心と人があわない、
心がねじけている、

という意味で使う。嘴が交叉しているためだろうか、神武紀に、

長髄彦…稟性、愎佷(イスカシマニモトリテ)不可教以天人之際、

とある例も、あまりいい意味では使っていない。こういう含意のある言葉を「あすか」の語源とする「イスカ」説はどうであろうか。他にも、「飛鳥」については、

大和のトブトリ(飛鳥)郷のアスカはしばしば皇居の知となったので、飛鳥とかいて、アスカと訓むようになった、とする説(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アと仰ぎ見ればスカスカと羽音のするところから、飛鳥ヲアスカと云ふ(本朝辞源=宇田甘冥)、

等々がある。「とぶとり」郷という地名に少し違和感はある。むしろ、

アスカの地に鳥類が多く生息しているからだと思われる、

という説(飛鳥・歴史と風土を歩く)の方が、「あすか」の枕詞として「飛ぶ鳥」が使われた所以に近いかもしれない。

イスカ.jpg



では「あすか」の語源はどうであろうか。

スカはシキ(磯城)。キ(城)は柵壁その他の防備物で四辺を取囲んだ一郭の血をいう古語。朝鮮語にも同語がある(日鮮同祖論=金沢庄三郎)
アは接頭語。スカはスカ(住処)。住処は集落の意で、そこから転じて地名になった(日本古語大辞典=松岡静雄・世界大百科事典)、
スカ(スガ)=浄地にアの接頭語がついたもの(日本大百科全書)、
安宿の朝鮮音アンスクから転訛(てんか)した(古代地名語源辞典)、
ア+スカ(洲処)。飛鳥川の砂洲地帯だから(日本語源広辞典)、

等々諸説あるが、決め手はない。ただ、

洲処、

を当てる、「すか」は、

海岸の砂丘、小高いところ、

の意として、中部以東の地名に多いとある(岩波古語辞典)。大和の「あすか」は、

本来は天香久山の南、橘寺・岡寺に至る間の低い丘陵に囲まれた小範囲をさし、中央を飛鳥川が流れる、

地域を指し(世界大百科事典)、古代には、

飛鳥川の東岸をいい、すでに弥生(やよい)文化の遺物も認められるが、灰褐色、黄褐色土壌群に開発が進んだのは5世紀後半以来であった。これには北方系の乾田農法の技術が用いられたとみられ、この開発をさらに推し進めたのは蘇我(そが)氏を中心とする人々であった。以後、飛鳥川の流域一帯が、古代統一国家形成の主舞台となった、

とある(日本大百科全書)。広い意味の、

住処、

よりは、

すか(洲処)、

がふさわしいのではないか、という気がする。「こそあど」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473304970.htmlで触れたように、「あ」は、

彼、

と当て、「遠称」であり、彼の地、といった含意であるが、別に、「あ」は、

吾、
我、

と当て、一人称の他に、接頭語として、

相手を親しんで呼ぶときに冠する語、転じて、軽蔑の意も表す、

とある(岩波古語辞典)。時代的な考証ができていないので、あくまで憶説だが、それなら、

ア+スカ(洲処)、

は意味がある。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:飛鳥 あすか
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2020年03月12日

ゼンマイ


「ゼンマイ」は、

薇、
紫萁、

と当てる(広辞苑、大言海)。あるいは、ゼンマイの地下茎が狗の背骨に似ているとかで、

狗脊(くせい)、

と書いても、

ゼンマイ、

と訓ませるとある(たべもの語源辞典)が、俚言集覧には、

狗脊は別物なり、

とあり、さらに、牧野富太郎に言わせると、「ゼンマイ」に、

薇(び)、

と当てるのも、

薇はスズメノエンドウ(マメ科)の名、

というので、誤りとある由だが、一般には「ゼンマイ」に、「薇」を当てている(仝上)。

ゼンマイ.jpg



「ゼンマイ」は、

新芽が平面上の螺旋形(渦巻き形)になる。その表面には綿毛が被さっている。スプラウトとして食用にするには根元を折り、表面の綿毛を取り去り、小葉をちぎって軸だけにし、ゆでてあく抜きし天日に干す。干しあがるまでに何度も手揉みをして柔らかくし、黒い縮緬状の状態で保存する。 天日で干したものを「赤干し」と呼び、松葉などの焚き火の煙で燻したものを「青干し」と呼ぶ、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%A4

「ゼンマイ」の語源は、

新芽の渦巻から、平面の上の渦巻になっている形状のもの総じてぜんまいと称する、

ということhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%A4から、これを語源とする説が多い。たとえば、大言海は、

其芽、銭の大きさに巻けば錢巻(ぜにまき)の音便、

とする。あるいは、

小児のにぎりこぶしに似ているので、漢語で拳菜の名がある(日本語の語源)、
線+巻くの変化、渦巻きの形をしているから(日本語源広辞典)、

等々は、新芽の渦巻きからきていると見ていい。その他に、

シジメマキ(縮芽巻)の義(日本語原学=林甕臣)、
嫩芽が錢の形をして回転しているから錢舞が、ゼンマイになった、

等々もある。ただ、

機械のゼンマイに形が似ているから(名言通)、

とする説は、発条(ぜんまい)が「ゼンマイ」より先にあったことになるので、この逆で、発条(ぜんまい)が、

その形がゼンマイ(薇)の形に似ているから、繊巻あるいは漸巻(ぜんまい)、

とする説(嬉遊笑覧)から見て、薇と発条は前後が逆だろう。

ゼンマイの栄養葉の新芽。綿帽子の中は薄くツルツルした葉.jpg

(ゼンマイの栄養葉の新芽。綿帽子の中は薄くツルツルした葉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%A4より)


たべもの語源辞典は、独自に、

「ゼンマイには、細いもの、綿のようなものがあって、それが綿の代用になり織物にされたり、手毬のシンになったりする。ここがゼンマイの特色で、もう一つの特徴は、巻いているということなので、繊巻と書かれた。それがゼンマイと転訛したものであろう。繊巻の繊はセンとよみ、巻は国訓マクで、センマク、これがゼンマイと転じた」

とする。嬉遊笑覧も、

繊巻、

と当てていたし、ゼンマイの綿毛を使った織物もある。

東北地方では、(中略)ゼンマイの新芽を採取した後、食用の茎と綿毛を分離するが、その綿毛を集めておいてゴミを取り除き、天日でよく乾燥させておく。夏頃に90度程度で蒸し上げ、それを乾燥させ、真綿や水鳥の羽毛を混ぜ合わせて糸を紡ぐ。縦糸・横糸のどちらかに綿糸や絹糸を用い、もう一方に前述の混合糸を使って布を織る。ゼンマイの布は保温性や防水性に富み、また防虫・防カビ効果もある。

とあるしhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%82%A4

ぜんまい綿、

として、

ゼンマイの綿毛を綿として使うゼンマイの綿。手まりや布団に使われる、

ともある(仝上)。ここは、

センマク(繊巻)→ゼンマイ、

の転訛説を採っておく。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
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ラベル:ゼンマイ 紫萁
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2020年03月11日

ワラビ


「ワラビ」は、

蕨、

と当てる。和名抄、本草和名、字鏡、いずれも、

和良比、

と訓ませているが、古名は、

ヤマネグサ、
イワネグサ、
イワシロ、
ホドロ、

とある(たべもの語源辞典)。異名に、

ムラサキノリ、
ワラ(女房ことば)、
紫の塵、

地域でさまざまに呼び名がある。たとえば、

土佐方言でシドケ、伊勢でヨメノサイ、和歌山県日高地方でホツロ、壱岐・香川三豊地方・長崎でワラビナ、沖縄でヘゴ、

等々(仝上)。漢名は、

蕨萁菜・米蕨草・龍頭菜・山菜・烏昧(うまい)・月爾(げつじ)・莽芽(もろが)・金桜芽(きんおうが)・拳頭菜(けんとうさい)・小児拳・倒掛草(とうけいそう)・拳菜・龜脚菜、

等々(仝上)。

「蕨」(漢音ケツ、呉音コチ)は、

会意兼形声。「艸+音符厥(ケツ ちぢんで曲がる)」。若芽がちぢんでまるくまがったわらび、

を指す(漢字源)。早春、地中の根茎からこぶし状に巻いた新芽をだす、これを意味しているが、わが国では、

さわらび(早蕨)、

という。「ワラビ」は、

シダ類の代表的な名として流用され、たとえばイヌワラビ、クマワラビ、コウヤワラビなどがある。また、アイヌ語でもワラビを「ワランビ」「ワルンベ」などと呼称しており、日本語由来の言葉と考えられている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%93

ワラビ、葉が開くまえ・通常この程度を食用とする.jpg

(葉が開く前・通常この程度を食用とする https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%93より)


春から初夏にまだ葉の開いてない若芽(葉)を採取しスプラウトとして食用にするほか、根茎から取れるデンプンを「ワラビ粉」として利用するが、毒性があるため生のままでは食用にできない。伝統的な調理方法として、熱湯(特に木灰、重曹を含む熱湯)を使ったあく抜きや塩漬けによる無毒化が行われる、

とある(仝上)。あく抜きには、

灰汁を用いたりするが、アザミの葉をワラビ一把(わ)に二、三枚加えて茹でるとアクが抜ける、

と出羽山中の伝えにある(たべもの語源辞典)、とか。

「ワラビ」の語源には、さまざまな説がある。

ハルミ(春味)の転(和語私臆鈔)、
色が焼いたワラビ(藁火)に似ているから(和句解)・日本語源広辞典、
ワラノヒ(曲平伸)の略で、形がワラ(藁火)に似ているところから(柴門和語類集・日本語源広辞典)、
ワラハテフリ(童手振)の義(名言通)、
ネネリヤカメグキ(撓々芽茎)の義(日本語原学=林甕臣)、
ワ(曲)ラ(接辞)ヒ(秀)という語構成の語(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、
ワラ(茎)メ(芽)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
童+ビ(拳)。握りこぶしに似ているので(日本語源広辞典)、
早春の芽出しの早いことをワラヒ(笑)とみて、それが訛ったもの、
ワラビの芽の部分が三本に分裂して、その一本は茎となって伸びたのち、さらに三本の芽に分かれと、分裂を繰り返すので、ワカレメ(別れ芽)草と呼ばれていたから、ワカの縮約形のワレメはレの転訛でワラメ、さらにメの転訛でワラミ、ワラビと転訛した(日本語の語源)、
ワラビのワラを散(わら)と考えて、ワラビがその芽の散(わら)くるから、
散芽(わらめ)の転、
散風(わらぶる)の転、
ワラビのワラはカラ(茎)に通ずるので、カラ(茎)メ(芽)から転じた、
蕨の字と蹶(ケイ、ケツ)の字と似ていることからワラビの芽生えの形が鼈(すっぼん)の足ににているから、

等々(日本語源大辞典、たべもの語源辞典)。

ワラビ.jpg



「ワラビ」の「ビ」は、ビ→ミ、と転じて、

実、

とし(ミからビ=前川文夫)、

あちこちに散らばって出るから散(わら)という、

とし、

ワラミ→ワラビ、

ではないかとするのはたべもの語源辞典である。

ワラビ、葉が開きはじめる.jpg

(葉が開きはじめるワラビ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%A9%E3%83%93


どれかという根拠はないが、ワセビの生態から見ると、日本語の語源の、

芽の部分が三本に分裂しており、その中の一本は茎となって伸びたのち、さらに三本の芽に分かれ、再三、分裂を繰り返してゆくので、ワカレメ(別れ芽)草と呼ばれていたと推測される。ワカ[w(ak)a]の縮約形のワレメは、レの母交(母韻交替)[ea]でワラメになり、さらにメの母交(母音交替)[ei]でワラミ・ワラビと転訛した、

とする、

ワカレメ→ワラメ→ワラミ→ワラビ、

と転訛するとする説は、たべもの語源辞典は「いかがか」と疑問を呈したが、

あちこちに散らばって出るから散(わら)、

という説よりは、僕には生態的にも、感覚的にもよくわかる気がする。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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2020年03月10日

望蜀


「望蜀」(ぼうしょく)は、後漢書(岑彭(しんぽう)伝)に、

人苦不知足、既平隴復望蜀

とあるのに由来する。

ひとつの望みをとげてさらに上を望むこと、
たるを知らないこと、

の意とされる(広辞苑)。

隴を得て蜀を望む、
望蜀の願、

という言い方もする。「隴(ろう)」は、

中国の地名。甘粛省南部、隴山の西の称、

蜀は、

今の四川省、

とされる。後漢書には、

帝……勅彭書曰、両城若下、便可将兵南撃蜀虜、人苦不知足、既平隴、復望蜀。毎一發兵、頭鬚為白

とある(大言海)。李白も、古風詩で、

物苦不知足、得隴又望蜀

と書くほど知られた逸話だ。

光武帝肖像.jpg



千石取れば万石羨む、
思う事一つ叶えばまた一つ、

も似た意味である。光武帝は、

王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D。「隴を得て蜀を望む」の他にも、

志有る者は事竟に成る」、
柔よく剛を制す、

などの言葉を残している(仝上)。一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主とされるが、「漢委奴国王」の金印を倭の奴国の使節にあたえた皇帝としても知られる(仝上)。

この逸話は、他にも、隴の地方を手に入れ、さらに蜀を攻めようとしたとき、曹操が司馬懿(しばい 仲達)に答えた言葉としても知られる。

晋書(しんじょ)』宣帝紀には、司馬懿は益州(えきしゅう)(=蜀)を狙うべきだと曹操に進言した。それに対して曹操が、

人苦不知足、既平隴復望蜀、

と言い、その進言に従わなかった、という。この曹操の言葉は、光武帝の言葉を借りている。ただ、光武帝は、

わたしは隴を平定したうえに、さらに蜀の地を望むのである。ただ戦をするたびに、髪の毛が白くなる、

と歎きつつ、蜀を討つことを命じているのに対して、曹操は、戒めとして言ってる。

司馬懿.jpg



司馬懿は、魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。曹操は、司馬懿に対して「司馬懿は誰かに仕えるような男ではない」と常に警戒していたとされる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年03月09日

ワサビ


「ワサビ」は、

山葵、

と当てるが、古くは、

山薑、

とも当てた(「薑」は、しょうが、はじかみ)、

アブラナ科ワサビ属の多年草、

で、

日本原産の隠花植物、

である(たべもの語源辞典)。山間の渓流に自生するものを、

沢山葵、
水山葵、

と呼び、栽培するものを、

畑山葵、
陸(おか)山葵、

漢名を、

沙羅菔、

等々という、とある(仝上)。異名は、

カラキネ、
アルクサ、
ヤマアオイ、

である(仝上)。

ワサビ.jpg



「ワサビ」は、

飛鳥時代の遺跡である飛鳥京跡苑池遺構(現・奈良県明日香村)から出土した木簡に「委佐俾三升(わさびさんしょう)」と書かれていた、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B5%E3%83%93、等々)、最古の資料となるが、庭園で野菜や薬草が栽培されていた可能性を示す発見で、単なる遊覧の場でなく、薬草園の性格を持っていた可能性が高いhttps://www.kinjirushi.co.jp/wasabi/history/、ともある。さらに、奈良時代の地誌『播磨風土記』では、

山薑、

と書いて「わさび」と読ませており(語源由来辞典)、また、日本最古の律令集の『延喜式』の中にも、「ワサビ」が、

「山薑」と記載され、京の都近くの若狭、越前、丹後、但馬、因幡の国々から、税として収められていたことがわかっています、

とあるhttps://www.kinjirushi.co.jp/wasabi/history/。平安時代の『本草和名』は、

和佐比、

と記し、同じく平安時代の『和名類聚抄』も和佐比と記し、

山葵、

の漢字を当てた。「和佐比」に、

山葵、

の字を当てたのは、『本草和名』からのようである。

フタバアオイ.jpg

(フタバアオイ(別名 カモアオイ(賀茂葵) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%90%E3%82%A2%E3%82%AA%E3%82%A4より)


「フタバアオイは一株にかならず二葉が出るので名づけた。カモアオイは京都加茂神社の祭礼にこのアオイを用いるからついた名で、徳川家の紋章はこれに基づいたものである。ワサビは、加茂葵に葉が似てその根の形と味が生姜に似ているので山葵・山姜(イヌハジカミ)とも称した。葵をワサビとするのは当て字である」

とある(たべもの語源辞典)。

さて、古く、「山薑」と書いて「わさび」と読ませており、「葵」を語源とする説は、

ワサアフヒ(早葵)の義(和句解・日本語源広辞典)、

等々も含めあり得ないとすると、「ワサビ」の語源であるが、大言海の、

悪障疼(わるさはひびく)の略、辛き意、

がある。似たものに、

ワサはワシル(走)でツンと辛さが鼻に走ることから。ビはミ(実)の転(ミからビ=前川文夫)、
ハナセメ(鼻迫)の約轉(言元梯)、

等々あり、たべもの語源辞典も、

ワサビのワサは早いことで、ビはひびくことである。辛さが早くひびくこと、

としているし、それに似たものに、

ワサヒビナがつまってワサビナになり、さらに略されたもの、ワサは早生、ヒビナはひりひりと辛い葉の意(植物和名の語源=深津正)、

がある。どれとも判別はつかないが、いずれも、辛さには堪えた様である。

ワサビの花.jpg

(ワサビの花 https://www.atpress.ne.jp/news/195666より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年03月08日

はし


「はし」は、

橋、
箸、
端、
梯、
嘴、
階、

と当て分ける。この他に、柱http://ppnetwork.seesaa.net/article/473416760.htmlで触れたように、「柱」の語源として、大言海は、

ハシは屋根と地との間(ハシ)にある物の意、ラは助辞、

とし、日本語源広辞典も、

ハシ(間)+ラ、

を採り、

屋根と地のハシ(間)に立てるものをいいます、

とする。この説を採るものは多く、古事記傳・雅言考・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹等々)、

ハシラ(間等)の義(言元梯)、

も同趣である、と述べたが、

間(正確には、「閒」。「間」は俗字)、

も、「はし」と訓ませた。「柱」の語源でも、「橋」「梯」の「はし」とからめて、

橋渡しとなるもの、二所間の媒介物としてのハシ(橋・階・梯)諸語と同じ原義(時代別国語大辞典-上代編)、
梯座の義(和訓栞)、

という説もあるほど、どうやら、

橋、
箸、
端、
梯、
嘴、
階、
閒(間)、

は、語源として深くつながっている、とみられる。言うまでもなく、

「橋」は、通行のために、川や湖・谷・道路などの両側を結んでかけわたした構築物、
「箸」は、食べ物を挟み取って食べるのに用いる、一対の棒。木・竹・象牙などで作る、
「端」は、物事の起こり、はじめ。へり、ふち、さき、きわ、はじ。切れ端。間、
「梯」は、はしご。高い所へ登るための道具。二本の長い材に足掛かりとなる横木を何本もとりつけたもの、
「階」は、階段。きざはし、
「嘴」は、くちばし、
「閒」は、二つのものにはさまれた部分、時間・距離の隔たり、関係、物事の中間、

等々という意味である。

「端」は、縁、辺端、といった意味だが、

端、

を、

は、

とも訓ませる。

「奥」「中」の対、周辺部・辺縁部の意、転じて、価値の低い、重要でない位置や部分、

と、周辺の状態表現が価値表現へと転じているのだが、

間、

の意味もあり、万葉集には、

まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の争う端に渡會(わたらい)の、斎の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし(柿本人麻呂)

くもり夜の、迷へる閒に、朝もよし、城上(きのえ)の道ゆ、つのさはふ、磐余(いわれ)を見つつ、

の例があり、「はし」に「閒」と「端」を使っているし、古事記には、

閒人(はしびと)穴太部王、

という例もあり、

端、

閒、

は、「縁」の意と「間」の意で使っていたように思われる。だから、大言海は、「橋」を、

彼岸と此岸との閒(はし)に架せるより云ふ、

とする。国語大辞典も、

両岸のハシ(間)をわたすもであるところから、ワタシの略転、早く渡れるところからハヤシ(早)の中略、両岸のハジメ(初)からハジメ(初)へ通ずるものであるところから、

とあるhttp://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/hasi_k.html。さらに、「はし」は、

現在”橋”と書くが、古くは”間”と書いていたことが多かった。もともと、ものとものとを結ぶ”あいだ”の意味から、その両端部の”はし”をも意味するようになった、

ともある(仝上)。「はし(閒)」とする説は多く、

両岸のハシ(間)にわたすものであるところから(東雅・万葉集類林・和語私臆鈔・雅言考・言元梯・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源=賀茂百樹)、

この他、

ハザマ(狭間)・ハサム(挟)等と同源か。ハシラ(柱)・ハシ(端)とも関係するか(時代別国語大辞典)、
ハシラ(柱)の下略(和句解)、
ハシ(端)の義(名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
橋は「端」と同源。「端」の意味から「間(あいだ)」の意味も持ち、両岸の間(はし)に渡す もの、離れた端と端を結ぶものの意味から(語源由来辞典)、

あるいは、日本語源広辞典のように、

ハシ(間)です。隔たったある地点の閒(ハシ)に渡すもの、の意です。高さのハシ、階、梯、谷や川を隔てた地点のハシ、橋、食べ物と口とのハシ、箸、いずれもハシ(閒)を渡したり、往復するものです、

と、「橋」と「箸」「梯」「階」ともすべてつなげる説まである。「柱」もまた、

天と地のハシ(閒)、

であった。これから考えれば、母船から陸に荷物を運ぶ「はしけ(艀)」も、

沖合と波止場とのハシ(閒)、

の意味と重なるだろう。

渡月橋.jpg



保田與重郎も、

「橋も箸も梯(はしご)も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない。(中略)神代の日の我国には数多(あまた)の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやうな、古い時代の説が反って今の私を感興させるのである。水上は虚空と同じとのべたのも旧説である。『神代には天に昇降(のぼりくだ)る橋ここかしこにぞありけむ』と述べて、はしの語源を教へたのは他ならぬ本居宣長であつた。此岸を彼岸をつなぐ橋は、まことに水上あるものか虚空にあるものか。」

と(日本の橋)、橋と梯子をつなげていた。

梯、
階、

の「はし」は、

ハシ(橋)と同源(東雅・大言海)、
ハシ(端)の意(名言通)、
ハシ(閒)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子・大言海)、

と、ほぼ「橋」とつながり、たぶん、「柱」ともつながる。

「箸」については、箸http://ppnetwork.seesaa.net/article/406796201.htmlで触れたことがあるが、

「はしご」や「きざはし」などの「はし」、食べ物 を挟む「箸」も同源である、

と見る見方ももちろんある(日本語源広辞典、語源由来辞典)。例えば、

食と口との間を渡すものであるところからハシ(閒)の義(俗語考・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海・日本語源=賀茂百樹)、
食を口へ渡すものであるところからハシ(橋)の義(和句解・言元梯・和訓栞)、

しかし、大言海が、

食と口との閒(ハシ)を渡す意と云ふ、
或いは、
竹の端(ハシ)と端(ハシ)とにて挟めば云ふか、

と二説挙げたように、

ハサミ(挟)の義(名言通)、
ハサム(挟)と同語源(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀む)、
竹の端と端で挟むところからハシ(端)の義(東雅・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、

と「挟む」と絡める説はある。ただ、「はさむ(挟)」の語源を見ると、

ハサは閒の義。二物の間に押さえ持つ意(国語の語根とその分類=大島正健)、
ハは間の義。端にセバメ(狭)寄せる意(日本語源=賀茂百樹)、

と、「閒」の「ハシ」に戻ってくる。どうやら、これも、

閒、

の意で、「橋」「梯」「階」とつながるようである。

箸.jpg



しかし、「嘴」の「ハシ」は、少し難しい。大言海は、

くちばし(嘴・喙)と同じ、

とし、「くちばし」は、

口端(くちばし)の義、

とする。岩波古語辞典も同じく、

ハシ(端)と同根、

とする。他も、

ハ(端)から出た語(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、「ハシ(端)」見る説が大勢である。ただ、「箸」を、

ハシ(嘴)の転義(日本釈名)、
古くは、一本の棒を折り曲げ、ピンセットのように挟んで使うもので、鳥の嘴に似た形であった ことから、「嘴(はし・くちばし)」が語源(語源由来辞典)、

ということはあり得るので、結局、

橋、
箸、
端、
梯、
嘴、
階、
閒(間)、

は、すべてが同系につながってくるようである。

くちばし.jpg



参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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ラベル: はし
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2020年03月07日

甘茶


「甘茶(あまちゃ)」は、

アジサイ科の落葉低木のアジサイ(学名:Hydrangea macrophylla)の変種である。 ガクアジサイ(Hydrangea macrophylla f. normalis)に良く似ている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8C%B6。というより、

ヤマアジサイ、

に似ているが、この「アマチャ」は、

学名:Hydrangea macrophylla var. thunbergii、

とある(仝上)。しかし、これを、

学名 Hydrangea macrophylla subsp.serrata、

ユキノシタ科の落葉低木、

とするものもある(大辞林、植物名辞典、広辞苑)。

甘茶.jpg

(あまちゃ (甘茶)  https://www.weblio.jp/content/%E7%94%98%E8%8C%B6より)


「甘茶」は、葉に甘味の成分(フィロズルチン)が含まれ、この葉を乾燥・発酵させると、「甘茶」がでる(植物図鑑)ので、

その若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの、およびそれを煎じて作った飲料のこと、

も指す(仝上)。ウリ科のつる性多年草であるアマチャヅルの葉または全草を使った茶も甘茶ということもあるが、「アマチャ」を使った甘茶が本来の甘茶である、ともある(仝上)。また、

灌仏会(花祭り)の際に仏像に注ぎかけるものとして古くから用いられた。これは、釈迦の生誕時に八大竜王がこれを祝って産湯に甘露を注いだという故事によるものである、

ともある(仝上)が、別に、

アマチャ・アマチャヅルの葉を蒸してもみ、乾燥したものを煎(せん)じた飲料。黄褐色で甘みが強く、食品の甘味料ともする。四月八日の灌仏会(かんぶつえ)に釈迦像にかけ、また、飲む、

とある(大辞林、広辞苑)。こちらは、灌仏会に使うのは、

アマチャヅル、

より採ったもの、とする(仝上)。

アマチャヅル.jpg



「アマチャヅル」(甘茶蔓、Gynostemma pentaphyllum)は、

ウリ科アマチャヅル属に属する多年生のツル性の植物、

あるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%85%E3%83%AB

どれも「甘茶」といったらしいが、

この茶をつくる植物はいくつかある、

という(たべもの語源辞典)。

ひとつは、

アマヅル、
アマヅラ、

と呼ばれ、別名、

ツタ、
ナツヅタ、

その幹から液を採って煮詰めて甘味料をつくった、

とある。ツル性の植物で、甘い液の出るツルがその名になった(たべもの語源辞典)。今日、

アマヅル、

別に、

男葡萄、

の名のある、

ブドウ科ブドウ属、学名Vitis saccharifera、

https://matsue-hana.com/hana/otokobudou.html、「アマヅラ」とも呼ばれた古くからある「アマヅル」とは別のようで、

一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは明かではない、

とあり、どの植物を指すかはっきりしないhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%85%E3%83%A9

アマヅル.jpg



「アマヅル」が、ツタと呼ばれたのは、

ツタフ(伝)、

という意からのようで(たべもの語源辞典)、

「アマヅラ(甘葛)は、春若芽の出る前にそのツルを取って煎じ詰めた用いた(甘葛煎)」

とある(仝上)。

今ひとつは、冒頭に挙げた、ヤマアジサイ(あるいはガクアジサイ)に似た、

ユキノシタ科の落葉低木、

で、

コアマチャ、

とも呼ばれるものがある(仝上)。これを、

アマチャ、

といい、

その葉を乾かすと甘くなるので、甘茶をつくった。漢名で土常山(どじょうざん)と称するのがこれであり、アマチャの木という。虎耳草(こじそう)の葉から甘茶をつくると書いたものがあるが、虎耳草はユキノシタの漢名である。コマチャが虎耳草科なので虎耳草としたのであろう」

とある(仝上)。

三つめは、前述のウリ科の、

アマチャヅル、

である。

ツルアマチャ、
アマカヅラ、

ともいい、

夏から秋にかけて新芽をとって蒸してからよく揉み、青汁をとり除いてから乾燥させる。黄褐色で甘みが強く、香りがよいので、飲料とした、

とある(仝上)。

「甘茶」は、

アーウマシがつまってアマ(甘)シという言葉となった、

といわれ、「甘茶」とは、

うまい茶、

の意だと、たべもの語源辞典はいう。しかし、大言海は、

甘葛煎(あまづらせん)、是れなるべし、

とする。「甘茶」を、

甘葛(あまづら)、

とみなした故だろう。しかし、「甘茶」について、

土常山の葉を摘み取りて、蒸し揉みて、青汁を去り、干して茶に製す、

という説明は、「アマチャ(子アマチャ)」の説明であり、ちょっと矛盾がある。ここでは、

「うまし」

に与しておく。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年03月06日

坊主


「坊主」は、

房主、

とも当てる。「房主」は、

ぼうしゅ、

とも訓ませた(日本大百科全書)。

一坊の主僧、

つまり、

寺の住職、

を指し、広く、

僧侶一般、

をも指すようになり、剃髪している姿から、

髪を剃っている頭、その人、
あるいは、
剥げていること、

をも指すようになる。

腕白坊主、

というような子供(男の子)を指すのは、江戸語大辞典に、

坊主頭の略、

とあるように、頭を刈っているせいかもしれない。同じく、

三日坊主、
てるてる坊主、

等々というときに使うのは、「てるてるぼうず」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459687387.htmlで触れたように、

てり雛・てり法師・てりてり坊主・てるてる・てるてる法師・てるてる坊主・てれてれ法師、

という異称があり、

法師→坊主、

と転じた可能性がある。「坊」は、

区画された街、

を指し、

坊門、
京坊、

等々と使うが、都城制の一区画、

四町四方の称、

とある(広辞苑)。その条坊から、「坊主」の語源を見る説がある。

「坊」は奈良時代・平安時代の都城制で区画された一部のことで、四面を大路に囲まれた言った言葉である。平安京で四町四方を「坊」と称したのも、この「坊」に由来する。のちに、「坊」は大寺院に所属する小さな寺院をさすようになり、寺院内の一坊の主人・寺坊の住職を「坊主」というようになり、室町以降、「一坊の主人」の意味が転じて、一般僧侶の俗称になった(語源由来辞典)。

しかし、ちょっといかがであろうか。インドでは、

仏教の修行者たちが集まって共同生活している場所をヴィハーラ (vihara) と呼んでいましたが、これを漢訳する時に、〈僧院として区画された所〉 ということから「僧坊」と訳されました。

とあるhttps://mobility-8074.at.webry.info/201702/article_5.html。ヴィハーラは、

寺院(じいん、梵、巴: विहार vihāra)、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%99%A2

「寺」の由来については、「寺」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473674598.htmlで触れたが、

仏教の出家者が起居し、修行を行う施設、

である。で、

僧坊、
とか、
寺坊、

は、

寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体、

を指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E6%88%BF、とある。

インドのヴィハーラの中の、一人ひとりの修行者が生活する小さな舎あるいは一室をラヤナ (layana) またはクティー (kuti) といいましたが、これは「房舎」とか「房」と漢訳されました。

とあるhttps://mobility-8074.at.webry.info/201702/article_5.htmlのはその意味かと思われる。

元興寺極楽坊 本堂.jpg

(元興寺極楽坊・本堂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%88%88%E5%AF%BAより)


古代日本の寺院伽藍の構造においては全体の北側の区域に講堂を南側として、東室(ひがしむろ)・北室(きたむろ)・西室(にしむろ)の3棟の僧房を設置した。これを三面僧房(さんめんそうぼう)と呼んだ、

とある(仝上)が、

平安時代に台頭した天台宗や真言宗では巨大な僧房は設置されず、既存の宗派(南都六宗)でも私僧房である子院を建てる高僧が登場した。また、僧房でも高僧が1人で房を独占したり、仏堂や御影堂に改装されるようになり、鎌倉時代から室町時代にかけて本来の機能を喪失していった、

とあり(仝上)、この私僧房には、

○○房(○○坊)という個別の名(房号・坊号)がつけられるようになり、大寺院に付属する子院や塔頭の名となるようになった(京都寂光寺の本因坊など)。一方で、私僧房は寺院における寺務所・住僧の住まい(庫裏)となり、大寺院の僧房でその寺の寺務を取り仕切る僧房は本坊(ほんぼう)と称されるようになった、

ある(仝上)。この、

僧房の主、

が、

房主、

つまり、

坊主、

の由来ではあるまいか。日本語源広辞典は、

僧房+主、

としている。僧侶の意である、

法師、

は、特定の房(坊)を持つ「坊主」に対して、

自らの坊(僧房)を持たない僧侶、

を指した。しかし、本来、「法師」は、

法(のり)の師、

つまり、

仏教の師、

を意味する。

本来、法師とは仏教、及び仏教の教義が説かれている経典に詳しく、人の師となるほどの学識・経験を備えた僧侶に対する敬称。戒律に詳しい僧侶を律師、禅定修行に長けた者を禅師と呼称する事と同様、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%B8%AB。それが、日本では、中世以降、

琵琶法師、
一寸法師、
起き上がり小法師、
影法師、
つくつくぼうし、

等々どうも軽んじられるに至っている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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ラベル:坊主 法師 房主
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2020年03月05日

日本的なるもの


大岡昇平他編『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』を読む。

日本的なるものをめぐって.jpg


現代文学の発見、

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し、テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

日本的なるものをめぐって、

と題された巻である。収録されているのは、

谷崎潤一郎『吉野葛』
室生犀星『かげろふの日記遺文』
宇野千代『おはん』
井伏鱒二『吹越の城』
滝口修造『北斎』
飯澤匡『箒(ははき)』
花田清輝『月の道化』
秋元松代『常陸坊海尊』
保田與重郎『日本の橋』
小林秀雄『無常といふ事』
坂口安吾『日本文化私観』
中野秀人『真田幸村論』
石川淳『秋成私論』
寺田透『和泉式部論』『和泉式部日記』序
杉浦明平『戦乱時代の回想録』
廣末保『盲目の景清』

である。

「日本的なるもの」という本巻のタイトル自体があいまいなため、古典や古典論、土俗にまでが入り込んでいて、何を指して、

日本的、

としているのかが、はっきりしない。少なくとも、

日本的、
あるいは、
日本的なるもの、

を直截に論じているものは、

保田與重郎『日本の橋』
坂口安吾『日本文化私観』
石川淳『秋成私論』

しかない。しかし、

保田與重郎『日本の橋』

は、日本の橋をめぐって他国のそれとは違うことを縷々述べているにすぎず、情緒過多の文章には辟易する。

「橋も箸も梯(はしご)も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない。(中略)神代の日の我国には数多(あまた)の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやうな、古い時代の説が反って今の私を感興させるのである。水上は虚空と同じとのべたのも旧説である。『神代には天に昇降(のぼりくだ)る橋ここかしこにぞありけむ』と述べて、はしの語源を教へたのは他ならぬ本居宣長であつた。此岸を彼岸をつなぐ橋は、まことに水上あるものか虚空にあるものか。」

「そして日本の橋は通の延長であつた。極めて静かに心細く、道のはてに、水の上を超え、流れの上を渡るのである。ただ超えるといふことを、それのみを極めて思ひ出多くしようとした。」

「日本の文学も日本の橋も、形の可憐なすなほさの中で、どんなに豊富な心理と象徴の世界を描き出したかといふことは、もう宿命のみちのやうに、私には思はれる。それは立派な建造としての西洋や支那の橋とちがつてゐた。まづ寒暑を思ひ、その風景の中を歩いてゆく人を考へて、さういふおもひやりを描き込んだやうな日本の絵と、芸術といふ非情冷血のものにふさはしい異国の絵は異なる筈である。日本の古代の橋が百姓に閑暇な九月十月のころの傭で作られたやうなことも、異国の政治文化とひきくらべると、まことに雲泥の差があらう。あの茫漠として侘しく悲しい日本のどこにでもある橋は、やはり人の世のおもひやりと涙もろさを芸術よりさきに表現した日本の文芸芸能と同じ心の叙情であった。」

こんな、条理も合理も論理をも、情に呑み込むようなところであろう。これが、保田の考えた、

日本的なもの、

である。しかし、多く、日本的なものを辿ると、それは、ほとんど、

中国という臍の緒、

にたどり着く。四季の感覚、情緒、節句、正月という民俗、ほとんど中国に由来する。日本的情緒とされるもの自体、日本人は、漢詩から学んだ結果だ。たとえば、白居易、

慈恩の春色 今朝尽く
尽日徘徊して寺門に倚る
惆悵す春は帰りて留め得ず
紫藤花の下 漸く黄昏

『和漢朗詠集』に収められたせいもあり、春の心情に決定的な影響を与えた、という。後の、

待てといふに留まらぬものと知りながら強ひてぞ惜しき春の別れは(詠み人知らず)

君にだに尋はれてふれば藤の花たそがれ時も知らずそありける(紀貫之)

草臥て宿かる比や藤の花(芭蕉)

等々、春、黄昏、藤の花、に同じ光景を見、同じ心情を懐く。それを日本的というが、ほとんど中国の漢詩から、その叙情を学んだのであるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/406252031.html?1412021752

その意味で、文字をもたなかった我々祖先が、

平仮名、

片仮名、

を作り出した。そして、漢字を、

真名、

と呼んだ。祖先は、それから学んだ、仮の文字であることを知っていたからである。仮名は、本来、

かりな、

と訓んだのであるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/441386581.html。仮名は、漢字を和語に合わせて、日本化した文字である。その意味で、僕は、

日本的なるもの、

を探るのは意味がない、と思っている。むしろ、「日本的なるもの」は、

日本化、

にこそ、ある。日本的な代表である、

浮世絵、

も、唐絵を意識して生まれた「大和絵」の流れをくむ。その意味で、

日本的なるもの、

を考える鍵は、

日本化、

にあると思う。

石川淳『秋成私論』

は、まさに、それを語っている。

「秋成の怪異譚というものは、中国の文学様式が日本に影響してきたそのはてに生まれた、日本の発明と考えられます。(中略)怪異譚という短編様式が日本で成立したとは言えない。……やはり短編として様式が成立したのは秋成の『雨月』に至ってそれがはっきりしたわけです。」

「秋成の文章は、たとえば…『白峯』の書き出しをとってみても、見かけに依らず、これが美文的構成になっていない。(中略)この文章は今でも生きてうごいている。これをうごかしているものは、調子だのクサリだのではなくて、まさにことばのエネルギーです。一行書くと、その一行の中に弾丸のようなものがひそんでいて、つぎの一行を発射する。そして、またつぎの一行。それからそれと、やがて月の世界までもとどくでしょう。ことばのはたらきとして、これは後世にいうところの散文の運動に近似するものです。すでに『雨月』の当時にあって、秋成の美文は散文の萌芽を内にひそめていたといっても、大していいすぎではないでしょう。」

まさに、この、

日本化の発明、

こそが、

日本的なるもの、

そのものではあるまいか。

坂口安吾『日本文化私観』

の痛快無比の論旨に賛成である。

「タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや。そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。」

と。そして、こう結論する。

「そこに真に生活する限り、猿真似を羞じることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。」

と。これこそが、

日本的なるもの、

である。

参考文献;
大岡昇平他編『日本的なるものをめぐって(全集現代文学の発見第11巻)』(學藝書林)

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2020年03月04日

茶坊主


「茶坊主」というのは、

室町から江戸時代、武家に仕えて茶の湯を司った剃髪の者、

とある(広辞苑)。

茶職、
茶道坊主、
数寄屋坊主(御数寄屋坊主)、
茶屋坊主、

ともいう。二代目松林伯圓の創作による講談「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」、後に河竹黙阿弥が歌舞伎化し『天衣紛上野初花』でも、登場する河内山宗俊は、

御数寄屋坊主、

であった。強請たかりを生業にする、実在した強請りの茶坊主・河内山宗春がモデルとされる、とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E5%85%AD%E8%8A%B1%E6%92%B0

「御数寄屋坊主」が、多く、政治に口を挟んだことから、

権力者におもねる物をののしって言う語、

として、

茶坊主、

という。

権力者の威を借りて威張る者が多かったところからいう、

ともある(デジタル大辞泉)。虎の威を借りる何とか、である。

証言者http://ppnetwork.seesaa.net/article/471529860.htmlで触れたが、埴谷雄高が、『近代文学』に掲載予定の原民喜『夏の花』のGHQの事前検閲をめぐって、こう証言している。

「GHQといったって内閣も検閲もアメリカ人が読むわけじゃないんだよ。GHQの下には日本人の事実上の検閲係がいて、それで、読んだあと、こんな原子爆弾のことを書いたらとうていだめだって、返されちゃった。日本人が日本の作品を『自己規制』してるんだよ。アメリカの占領方針をすっかり自分が体しているつもりになっているんだが、日本人は茶坊主型が実に多いんだよ。あとで問題が起きたとき責任が自分にかからないように、これはアメリカの占領方針に反するだろうと、できるだけ拡大解釈して、ほんとに小さなことでもチェックして、これはだめだと返してくる。そして、上のアメリカ人に尤もらしく報告するんだな。仮に、日本がアメリカを占領して、アメリカの新聞や雑誌を検閲するためにアメリカ人を使ったとしても、その使われたアメリカ人が、占領軍の方針を勝手に忖度し拡大解釈して『上官の日本人の気にいられる報告』ばかりこれほど出そうとはおそらくしないと思うな。おれは、権力者に対する茶坊主ぶりでは、日本人は世界のベストテンのなかにはいると思っているよ」

ここで言う茶坊主とは、権力者におもねることを指す。茶坊主は、

「職務上、城中のあらゆる場所に出入りし、主君のほか重要人物らと接触する機会が多く、情報に通じて言動一つで側近の栄達や失脚などの人事はもとより政治体制すらも左右することもあったことから、出自や格を超えて重要視、時には畏怖される存在となることもあった」。

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%9D%8A%E4%B8%BB、転じて現代は、

権力者に取り入り出世や保身を図る者の例え、

として、侮蔑的に扱われることが多い(仝上)、とある。

「茶坊主」というのは、江戸幕府の役職であり、

「将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず、また剃髪していたため『坊主』と呼ばれているが、僧ではなく武士階級に属する」

のであり、御数寄屋坊主のトップは、若年寄配下の、

御数寄屋坊主頭、

であり、御目見得(将軍に目通りできる)である。百五十俵高に御四季施代が支給されるが、諸侯からの付届けがあり、内証は豊かである、といわれる(江戸幕府役職集成)。定員は三名、とされる。その下に、

御数寄屋坊主与頭、

が六、七人おり、その下に、

御数寄屋坊主、

が四十人ほどいる。御数寄屋坊主は、御譜代准席で、持高勤めであるが、二、三十俵である、とされる(仝上)。

「初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子弟で、年少より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%9D%8A%E4%B8%BB

「禅僧が茶の湯の作法や茶道具の目ききをしたのが初め」(ブリタニカ国際大百科事典)
「栄西の《喫茶養生記》にみられるように、茶は僧院でねむけさましに用いられたので、武家が茶をたしなみ、茶道として成り立つようになってから後でも、茶儀は遁世(とんせい)者の役とみなされ、その世話をする事も人も〈お茶道〉といった」(世界大百科事典)

といった由来からのようである。

因みに、同朋衆(どうぼうしゅう)は、

室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと、

であるが、江戸幕府の役職では、若年寄配下の役職で、御同朋頭(四名)の下に、百俵十人扶持の、

御同朋、

が十人くらいおり、その下に、

奥坊主、
表坊主、
御用部屋坊主、
御土圭役坊主、

等々が属する。同朋頭は、二百石で、名はすべて、何姓何阿弥、と付くことになっていて、

「老中の執務室である御用部屋に入るときは、若年寄・奥右筆組頭以外は、同朋頭を通す決まりであった。同朋頭は征夷大将軍、老中、若年寄の用事を担当し、それ以外の坊主衆は大名の世話をする。同朋頭は若年寄の配下にあった。同朋頭は老中、若年寄、勘定奉行など、要職給仕につくところから、機密文書を目にする機会も多く、情報通になった。将軍の外出時は先駆けすることもあり、身分は低くとも権威を持っていた」

とあるhttps://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%9D%8A%E4%B8%BB%E8%A1%86。その要員は、

「本丸の奥坊主が100人、表坊主が200人ともされ、諸大名家でも江戸城ほどではないが、おいていた」

とされる(百科事典マイペディア)。どちらかというと、茶坊主より、同朋衆の方が、権力の機微に近いように思われるが、

「たとえば《信長公記》に〈茶道は宗易也〉とあるのは、その日の接待役が千宗易(利休)であったことを示す。茶坊主というのも茶の湯坊主の意味である」

と(世界大百科事典)。あるように、近侍するのは茶坊主である。御同朋頭に属するので、指揮系統は異なるが、奥坊主、表坊主も、

「剃髪(ていはつ)、僧衣で、茶室、茶席を管理し、登城した大名などを案内し、弁当、茶などをすすめ、その衣服、刀剣の世話をさせた」

とある(仝上)。200人いたという表坊主は、

「江戸城中に登城した大名や諸役人の接待や給仕の役割がある。剃髪、僧衣で茶室・茶席を管理する。登城した大名を案内し、弁当・茶などを世話し大名の衣服や刀剣の世話をさせる。諸役人から報酬を得ており、収入は多かった。20俵2人扶持、御役金23両。御譜代准席。現代でいうお茶汲みに近い」

とありhttps://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%9D%8A%E4%B8%BB%E8%A1%86

「付届けが悪いと、大名は難渋する事があるので、付届けをして表坊主の気受けをよくする」

という(江戸幕府役職集成)。

約100人いたという奥坊主は、二十俵二人扶持で、

「将軍の御座所の中奥にいて茶室を管理し、奥の雑役をする役割。要人の秘書役を務め、権勢があったという」

とある(仝上)。御用部屋坊主は、

「老中、若年寄の給仕をするから、政治の機密を仄聞するので、闇番、御留守居は、この係と親密にしていないと御役が務まらないので、諸方からの付届けで生活は大変楽であった」

とある(仝上)。御土圭(とけい)役坊主は、御土圭間坊主ともいい、

御土圭(とけい)の間に詰めて、殿中の時間を正確にする掛かり、

である(仝上)。

こうみると、同朋衆、御数寄屋坊主、いずれも、

僧体の者、

であり、将軍をはじめ大名や諸役人に殿中において茶を勧めたところをみると、

茶坊主、

という言い方では、厳密な意味の、

御数寄屋坊主、

のみを指すのではなく、

法体姿・剃髪で世話役などの雑事に従事した人、

つまり、

坊主衆、

をひっくるめて言っていた可能性はあるように思われる。

参考文献;
笠間良彦『江戸幕府役職集成』(雄山閣)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年03月03日

けた


「けた」は、

桁、

と当てる。

建物・橋などで柱・橋脚などの上に横に渡して上部の構造体をささえる横架材、

である(大辞林)。建物では、

垂木を受ける材、

橋では、

橋の方向に横たえた受材。

とある(広辞苑)。それに準えて、

そろばんの珠を貫く縦棒、

をさす(広辞苑)が、横材を「桁」というのだから、大言海の言うように、

横にある木の称を誤れるか、

とみられる。そろばんに準えてであろうか(大辞林には、「数値をある進法に従い、アラビア記数法に準じて表記したときの、各数字の並びの位置」とあるが)、

數の位、位どり、

を意味し、日本語源広辞典は、

重要なタマ(珠)を支えています。違った心棒にタマを入れるとケタチガイ(桁違い)となります、

とする。これが転じて、

規模、

の意で使う(仝上)。その他、

ほげた(帆桁)、

とあり(日葡辞書)、

桁網(けたあみ)、

の「けた」も、いずれも横架材をさす(精選版日本国語大辞典)。

「梁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473534592.html?1581543930で触れたように、「桁」は、

建造物において柱間に架ける水平部材、

であり、

短辺方向に渡された横架材、

の「梁」に対して、

梁と直交する長辺に渡される部材、

を「桁」というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%81_(%E5%BB%BA%E7%AF%89)

桁.jpg



桁の種類には、

軒桁 屋根小屋の垂木を受ける水平部材。小屋梁、柱と接合される。
ささら桁 階段の段部を受ける部材のこと。一般的な階段をつくるには、ささら桁が必要。
側桁 ささら桁の1つ。横からみても、ささらの板しかみえない。

等々があるhttp://kentiku-kouzou.jp/kouzoukeisan-keta.html、とか。

さて、「けた」の語源であるが、日本語源広辞典は、

架ケ+板の音韻変化、
交わす板、方板の約、

の二説を挙げ、大言海は、後者の、

方(ケタ)の義、縦横に打交(ウチチガ)ふる異、

とする。「桁」の梁と打交い、棟木と打交う、を指す。

「方(ケタ)」は、

角(かど)と通づるか、

とあり(大言海)、岩波古語辞典は、「けだ」とし、

方、
角、

と当て、

四角、
真向い、

の意、とある。「桁」の位置から考えると、妥当ではないか。その他、

両辺にあるところから、カタ(偏)の義(名言通)、
カタ(肩)の転(東雅・和語私臆鈔)、
ケト(衣所・衣架)の義(言元梯)、
カケカワスの略(日本釈名)、
ケはツケの上略、タは板の義か(和句解)、

の諸説は、いかがなものか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:けた
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2020年03月02日

すはま


「すはま」

洲浜、
州浜、

等々と当て、

州が海へ突き出た浜辺、

を指す(岩波古語辞典)。これだと、「洲浜」の含意が伝わらないが、

洲が大きくなり、海岸線に曲線的な出入りのある浜辺、

だと(広辞苑)、よりイメージができる。さらに、

洲浜は河口にできた三角洲など、水辺にできる島形の洲をいう。いわゆる河と海などの接するところで、曲面の入り組んだ洲の様子を表す 言葉である。水の流れでいろんな姿に変わる、それを柔軟なフォルムで捉えたまるみをおびたラインが特徴、

とあるhttp://www.harimaya.com/kamon/column/suhama.html。なお、

洲浜形、

とは、

海上に浮かぶ島が干潮のとき砂洲を三方にあらわした姿のこと、

である。

「すはま」は、

すさき、

ともいい、陸地になりたるを、

片洲、

といい、また、

泉水の称、

でもある(大言海)。「泉水」とは、

山水、
前水、

とも当て(岩波古語辞典)、

庭に築山をし、泉水を掘り作ること、池を泉水(センスイ)と云ふは山水(サンスイ)より移りたるなるべし、池は泉には限らず、

とあり(大言海)、

仮山水(かさんすい)、

ともある(仝上)。池とは限らずとは、

泉水を作るに、松を植うべき所に岩を立て、池を掘り水をまかすべき地には山を築(つ)き、眺望をなすが如くに、

とある(無名抄)、意味である。これも自然を模し、象っている。ここまでくると、

枯山水、

である。

洲浜.jpg


「洲浜」という浜辺の風景が日本人に好まれたのは、

波がよせては返す、優しい音。その中に小さな小島が連なる、

という日本の風景http://kyoto-wagasi.com/teiban/suhama.htmlのイメージのようである。

この洲の出入りのある「柔軟なフォルム」を図案化した意匠に、

洲浜紋、

である。代表的なのは、

洲浜、

だが、その他に、

違洲浜、
割洲浜、
洲浜木瓜、
花洲浜、
中陰洲浜、
三つ盛洲浜、

等々種々ある。

家紋の洲浜紋.png


花洲浜.jpg



また「洲浜」のイメージをかたどった、

洲浜台、

の意味で、略して、「洲浜」という。

島台.jpg

(婚礼での島台 『絵本江戸紫』 https://karuchibe.jp/read/4476/より)

洲浜の形に似せて作れる物の台、

とあり(大言海)、

これに岩木・花鳥・瑞祥のものなど種々の景物を設けたもの、もと、饗宴の飾り物としたが、のち正月の蓬莱・婚姻儀式の島台として肴を盛るのに用いた、

とある(広辞苑)。

婚礼の島台.bmp

(婚礼での島台 精選版日本国語大辞典より)

「洲浜台」を、

島台もこれなり、

と(大言海)の言う「島台」とは、

州浜形、

とも言い、略して、

しま、

ともいい、

洲浜(すはま)形の台に松竹梅を立て、足元に鶴亀、翁と媼の人形などを飾る置物で古来より不老不死の仙山として信仰される蓬莱山を写し、慶事の祝儀として用いられてきたものだ。特に近世以降は「婚礼」の席に欠かせない調度品として飾られてきたものだという、

とありhttps://karuchibe.jp/read/4476/、貞丈雑記に、

洲濱形に、臺の板を作る、海中の島のすその、海へさし出たる形なるを、洲濱と云ふなり、されば島形とも、洲濱形とも云ふ、其上に肴を盛る也、飾のには、岩木、花鳥などを置く也、

とあり、松屋筆記にも、

島臺は、蓬莱島の造物の臺なれば、サ(島臺と)云ふ也、洲濱など同物成り、

とある(大言海)。ただ、守貞謾稿には、

蓬莱、貴人の宴には、唯、臨時風流に製之、今も貴人の家には、蓬莱の島臺と云、島臺と云は、洲濱形の臺を云也、……今俗は、島臺と、蓬莱は二物とし、島臺は婚席の飾とし、蓬莱は、正月の具とし、其製も別也」

と、蓬莱と島臺が別扱いになっている経緯を欠いている。

この「洲浜」に準えた和菓子がある。

黄粉と米の粉とを和して、竹の皮に包みて蒸し、竪に數條の渠(すじ)を押しつけ、解きて輪切にし、縁(へり)、凹凸形をなしたるもの、

である(大言海)。まわりがでこぼこしている形が、

すはま、

のイメージである(たべもの語源辞典)。

菓子すはま .jpg


京都の松壽軒が、弘安年間(1278~1288)に、有職の「洲浜臺」の形からとって、初めて州浜を作った、

とある(仝上)。なお、

今日では、京都の御洲浜司植村義次のものが、1657年(明暦3)以来の仕法を伝え、もっとも古いのれんである、

とある(日本大百科全書)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2020年03月01日

すさぶ


「すさぶ」は、

荒ぶ、
進ぶ、
遊ぶ、

と当てる。「荒」「進」「遊」の漢字は、「すさぶ」の持つ意味の幅を当て分けたように見える。

「すさぶ」は、

すさむ、

ともいう。「すさむ」も、

荒む、
進む、
遊む、

と当てる。「すさむ」と「すさぶ」のどちらが先かは判然とせず、「すさむ」は、

すさぶの転、

とする(岩波古語辞典)のと、

すさむの音韻変化、

とする(日本語源広辞典)のと、分かれる。「すさぶ」は、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう意。また、気の向くままに何かをする意。奈良時代には上二段活用、平安時代から多く四段活用、

とある(岩波古語辞典、広辞苑)。意味の幅は、

勢いのままに盛んに~する、勢いのままに荒れる(「朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつなへに、消(け)ぬべく思ほゆ」万葉集)、
気の向くままに~する、興にまかせて~する(「もろともに物など参る。いとはかなげにすさびて」源氏)、
もてあそぶ(「窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとど短きうたた寝の夢」新古今)
勢いのままに進みはてて衰える(「雲間なく降りもすさびぬ五月雨筑摩の沼の水草なみよる」堀河百首)

といった感じだが(岩波古語辞典)、古い、「すさぶ」(上二段)は、

荒、
進、

と当て、

動き出す(動作の発作)、
その方へのみ頻りに進む、
荒るる、
迷い耽る(酒食にすさぶ)、

の意とし(大言海)、「すさぶ」「すさむ」の用途の幅について、

進、
荒、

と当てる「すさぶ」(四段)は、

愈々、進む、
荒(すさ)び行きて闌(すが)るる、衰え止む、

とし、

遊、

と当てる「すさぶ」(四段)は、

心に入れず、何となく、はかなく物はす、遊び慰む、

の意とし、

進、
荒、

と当てる「すさむ」(四段)は、

愈々進む、甚だしくなり行く、
迷い耽る、

の意とし、

進、
荒、

と当てる「すさむ」(下二段、他動詞)は、

荒ましめ、闌(すが)れしむ、棄つ、

意であり、

賞、
翫、

と当てる「すさむ」(下二段)は、

心の荒みに賞翫ス、遊(すさび)のものとす、

意とし(以上、大言海)、「すさぶ」「すさむ」が活用などを変えつつも、そんなに意味を変えていないことがわかる。

大言海は、「すさぶ」を、

進み荒(さ)ぶるの約、

とするが、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、

意とするなら、元々は、

すすむ、

の意に、

愈々進む、

の意を持たせたのではあるまいか、とすると、日本語源広辞典のいうように、

すすむ→すさむ→すさぶ、

と音韻変化した、という見方も頷けてくる。

「すすむ」について、

ススは、ススシキホヒ・ススノミのススと同根。おのずと湧いてくる勢いに乗って進行・行動する意、

とする考え(岩波古語辞典)が、「すさぶ」の、

おのずと湧いてくる勢いの赴くままにふるまう、

意とほぼ重なるのである。ちなみに、「すすしきほひ」は、

すすし競ひ(「すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の」万葉集)、

と当て、

進んで競り合う、

意であり(岩波古語辞典)、「すすのみ」は、

荒れ狂う、

意で、勢いのままに動く意、とある(仝上)。「すさぶ」は、「すすむ」の意が強まり、別語へと変化したもの、とみられる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年02月29日

きんつば


「きんつば」は、

金鍔、

と当て、

鍍金(きんめっき)した鍔、
あるいは、
金で装飾した刀の鍔、

の意であるが、

近世、若衆、野郎の好んで用いたもので伊達とされた、

とある(広辞苑)。「野郎」については触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/431378141.html。その金鍔の形状に似ているから名づけられた、

きんつば焼きの略称、

で、和菓子のひとつである。どら焼http://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html?1582833325で触れたように、「きんつば」が「どら焼」の元祖であるとも言われるし、逆に、「きんつば」がどら焼きに変じた、とも言われるように、どら焼きと深くつながる和菓子である。

きんつば.jpg



現在よく見られるのは、

「寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる『角きんつば』であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0ように、

日本刀のつばのように円く平らな円型、

である。「どら焼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html?1582833325で触れたように、嬉遊笑覧(1830)は、

「雍州府志ニ、焼餅ハ米ノ粉ニ煉餡ヲ包ミ、ヤキ鍋ニテ焼タル、其形ヲモテ銀鐔(ぎんつば)ト云トアリ、今ノどら焼ハ、又、金鐔ヤキトモ云フ、コレ麩ノ焼ト銀鐔トト取マゼテ作リタルモノナリ、どら焼トハ形、金鼓(こんぐ)ニ似タル故、鉦(どら)ト名ヅケシハ、形ノ大キナルヲ云ヒシガ、今ハ形、小クナリテ金鐔ト呼ナリ」

と(仝上、大言海)、

銅鑼の形に似たどら焼→小さくなって→金鐔、

と主張している(たべもの語源辞典)。しかし、「きんつば」には、元があり、

「天和・貞享年間(1681~88)にうるち米粉の皮で赤小豆の餡を包んで焼いたものが京都に現れた」

とある(たべもの語源辞典)。これが、

ぎんつば(銀鍔)、

であり、

後のきんつば(金鍔)の元祖、

とある(仝上)。「銀鍔」は、

銀でつくった刀の鍔、

である。「銀鍔焼」は、

粳米の粉を練って小豆餡を包み、油をひいた金属板の上で焼いたもの、

とある(広辞苑)。うるち米の粉というのが鍵で、後に、享保年間(1716~36)に江戸に移り、

「銀よりも金のほうが景気が良い」との理由、

からhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0か、

あるいは、

銀貨主体の上方に対して金貨主体の江戸では銀より金ということになった、

からhttp://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-15_11.htmlか、

銀鍔は周りに米の粉をまぶして焼いたので焼き色がつきにくかったことから銀鍔でしたが、江戸では小麦粉を水溶きにして、それをまぶして焼いたため、若干焦げ色がつき、金色にみえたこと、

からhttps://www.wagashi.or.jp/monogatari/shiru/yurai/か、

名前が「きんつば」に変わり、

皮が米粉から小麦粉、

に変わる(たべもの語源辞典)。

水でこねた小麦粉を薄く伸ばして小豆餡を包み、刀の鍔のように円く平たくし、油を引いた鉄板の上で焼いた、

とある(広辞苑)。文化・文政(1804~30)期が「きんつば」の全盛期で、文化年間の末、浅草馬通に「おかめのきんつば」という店から「みめより」という四角な「きんつば」を売り出し、「みめより心」という俚謡から、外見より中身の良さということで評判をとった(たべもの語源辞典)、という。吉原土手付近や日本橋魚河岸付近に屋台店が出されて人気を博したと言われているが、

日本橋魚河岸(旧地)で屋台店で金鍔焼を売っていたのが、今の榮太楼の元祖、

とある(仝上)。

銅鑼焼と金鍔焼は似ており、

どら焼が時代がたつにつれて小さくなったものがきんつば、

という説があるのは、「どら焼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473787627.html?1582833325で触れたように、「どら焼」は、

「寛永年間(1624~44)に江戸麹町三丁目に『助惣焼』が始まる。助惣の元祖は大木元左治兵衛といい、餅にも屋号にも『助惣』の名を付けたという。この助惣の『どら焼』は、麩の焼を丸く紙のように薄く焼き、餡を真ん中に入れ四角にたたんだものであった」

とあり(仝上)、この助惣焼が、

麩の焼、
また、
銅鑼焼、

と呼ばれたからである。「きんつば」の名は、

刀の鍔に大きさが似ていた、

からで、当初の「どら焼」と、麩と小麦粉と素材は違うが、

四角にたたむ、

のは同じである。やはり、

銅鑼焼(麩の焼)、

の小さくなったものという見方はあり得るが、「どら焼」が素材と形を変えたように、「きんつば」は、形はともかく、大きさも、素材も変わり、別のものとして登場したと見た方がよさそうである。

さすが武士の子金鍔を食いたがり(柳多留)

と江戸川柳にあるhttp://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-15_11.html、とか。

刀の鍔(つば)のように丸形に焼かれたものから、角形の六方焼ききんつばに変えたのは、本高砂屋らしく、そのホームページには、

本高砂屋が売り出すまでは、きんつばは丸形であった。そもそもは刀の鍔に似ていることから名前がついた菓子で、表面に指で押して模様をつけ、鍔に見立てたものだった。この江戸きんつばを、一度に多く焼けるように改良を加え、四角の高砂きんつばとして売り出したのが、創業者杉田太吉である、

とあるhttps://www.hontaka.jp/archives/story/08.html

角きんつば.jpg



なお、「きんつば」の祖型は、中国らしい。

「三輪山から発掘された唐菓子の模型に『つば』というのがあるが、これは刀の鍔である。刀の鍔の形の菓子をつくるというヒントは、唐菓子からということも考えられる」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2020年02月28日

どら焼


「どら焼」は、

銅鑼焼、

と当てたりする、

小麦粉・卵・砂糖を原料とした銅鑼形に焼いた皮二枚の間に粒餡を挟んだ和菓子、

のことである(広辞苑)。その形が「銅鑼」に似ていることから名付けられたが、 関西では奈良の三笠山に見立てて、

三笠、
三笠山、

とも呼ばれる(語源由来辞典)。

どら焼き.jpg



「どら焼」の由来には、

「文治三年(1187)源九郎義経が奥州へ逃れたとき、武蔵坊弁慶は手傷を負って、武蔵野の一民家で療養していたが、出立のさい銅鑼と手紙を残していった。その銅鑼で焼いたのが、『どら焼』の伝説的起源」

という俗説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BC%E3%81%8D、たべもの語源辞典)。もちろん、この説は

「鎌倉時代に小豆餡が出来たと言われることから、1189年に死んだとされる武蔵坊弁慶との関わりは矛盾する」

とことわる(仝上)までもなく、伝説である。

饂飩粉を水にこねて、圓片とし、焼きて表裏二枚の中に餡を包みたるもの。銀つば(金鍔焼の類)の変なり。形を小さくしたるを金鍔と云ひ、四方を焼き、好き餡を用ゐたるを、ミメヨリと云ふ。見目り心の意ならむ、

と大言海にあり、これは、文化・文政(1804~30)期が「きんつば」の全盛期で、文化年間の末、浅草馬通に「おかめのきんつば」という店から「みめより」という四角な「きんつば」を売り出し、「みめより心」という俚謡から、外見より中身の良さということで評判をとった(たべもの語源辞典)、ということを指す。

江戸語大辞典は、「どらやき」について、

初め金鍔と称したが、その称は後に銅鑼焼の小型のものに変わった、

とし、

きんつば焼どら焼のうへをゆき(安永四年(1774)「当世爰かしこ」)、

と載せる。というのも、

「寛永年間(1624~44)に江戸麹町三丁目に『助惣焼』が始まる。助惣の元祖は大木元左治兵衛といい、餅にも屋号にも『助惣』の名を付けたという。この助惣の『どら焼』は、麩の焼を丸く紙のように薄く焼き、餡を真ん中に入れ四角にたたんだものであった」

とあり(たべもの語源辞典)、この助惣焼が、

麩の焼、
また、
銅鑼焼、

なのである。このどら焼きは、

「皮を一枚だけ用い、端の部分を折りたたんだため四角く、片面の中央はあんこがむき出しであった」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%89%E7%84%BC%E3%81%8D。まさに、現在のきんつばに似ている。

きんつば.jpg



嬉遊笑覧(1830)は、

「雍州府志ニ、焼餅ハ米ノ粉ニ煉餡ヲ包ミ、ヤキ鍋ニテ焼タル、其形ヲモテ銀鐔(ぎんつば)ト云トアリ、今ノどら焼ハ、又、金鐔ヤキトモ云フ、コレ麩ノ焼ト銀鐔ト取マゼテ作リタルモノナリ、どら焼トハ形、金鼓(こんぐ)ニ似タル故、鉦(どら)ト名ヅケシハ、形ノ大キナルヲ云ヒシガ、今ハ形、小クナリテ金鐔ト呼ナリ」

と書いている(仝上、大言海)。助惣のどら焼は四角であったが、明治初年、日本橋大伝馬町の梅花亭の盛田清が、

丸型の新どら焼をつくった。銅鑼の形をした菓子で、餡に天ぷらの衣をつけるようにして皮を焼いた、

とある(仝上)。これは、

鶏卵に砂糖を加えてよくかき混ぜ、小麦粉に膨張剤を加えたものをふるい込んで、水でどろどろに溶き、種汁をつくる。この種汁を平鍋(ひらなべ)に円型にたらし、焼き目がついたら裏返して小豆(あずき)のつぶし餡(あん)をのせ、別に用意した同形の焼き皮をかぶせ(中略)、青えんどうのつぶし餡を用いるのが特徴

とある(日本大百科全書)。現在の「どら焼」は、

編笠焼、

という焼菓子で、上野黒門町に大正三年(1914)に開店した「うさぎや」が始祖である(たべもの語源辞典)。

「どら焼」が小さくなって、「きんつば」になったのか、「きんつば」が「どら焼」の元祖なのか、はっきりしないが、最初の「どら焼」が、薄い皮の、「きんつば」に紛らわしいものだったことは確かである。

現在の「きんつば(金鍔)」は、

寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる「角きんつば」であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%A4%E3%81%B0

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:どら焼
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2020年02月27日

どんぶり勘定


「どんぶり勘定」は、

予算を立てたり決算をしたりせず、手元にある金にまかせて支払いをすること、またそれに似た、大まかな会計、

の意とあり(広辞苑)、この「どんぶり」は、「どんぶり鉢」の「どんぶり」ではなく、「どんぶり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473755393.html?1582660985で触れた、

更紗・緞子などでつくった、金などを入れる大きな袋の意、



職人などの着ける腹かけの前かくし、金などを入れた意、

からきている、とする。

「どんぶり烟草入りに落とし木綿、手拭長にもふきたらず」(耳袋)

の用例だけでは、いずれとも決めかねるが、大言海は、「どんぶり」の項で、

職人の腹掛の前に附けたるかくし。即ち、布帛もて、小長方形にて一方口なる袋を作り、金子、紙何となくいれおくもの、

の用例としているので、腹かけの「かくし」、つまりポケットを採っている。つまり、

職人の腹かけの隠しの別名を、何でも入れておくのでドンブリといいました。その丼+勘定が語源で、大雑把な金の出し入れをすることを言います、

とする(日本語源広辞典、語源由来辞典)のや、

昔の職人が前掛けの腹の部分についていたポケット(どんぶり)から金を出し入れしていたところからきた言葉、

とする(笑える国語辞典)のが、ひとつの考え方である。他方、

「丼」は江戸時代に、お金や小物を入れて懐に持ち歩いていた大きめの袋のことで、この袋にお金を入れて、無造作に出し入れしたことから「丼勘定」という言葉が生まれたとされる、

とする(由来・語源辞典)のが、もう一つの考え方である。

しかし、どんぶりhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/473755393.html?1582660985で触れたように、この袋の意の「どんぶり」は、

「だんぶくろ」を言い変えたものと云ふが、さていかがか」(江戸語大辞典)、
「だんぶくろの転訛と云ふ」(大言海)、
「商人の前掛けについたポケットを意味する『どんぶり』は、駄荷袋(だにぶくろ)の訛り」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BC%E9%89%A2

等々とあり、「だんぶくろ」からきている。「だんぶくろ」は、

段袋、
駄袋、

と当て、

駄荷袋の音便、

である(広辞苑)。しかも、その意は、

布製の大袋、信玄袋に似た、荷物袋、

である。その袋から、

腹かけのかくし、

を、「どんぶり」と呼んだものと思われるが、「どんぶり勘定」の語感からすると、職人の腹かけの隠し、から無造作に出し入れするイメージの方があっている気がする。

腹掛けをつける大工.jpg

(腹掛けをつける大工。紐を背中でクロスしている。歌川国芳『東都三ツ又の図』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E6%8E%9B%E3%81%91より)

ちなみに、腹掛けは、

胸当て付きの短いエプロンのような形状で、背中部分は覆われておらず、紐を背中で交差させることによって体に密着させる。腹部には『どんぶり』と呼ばれる大きなポケットが付いており、腹掛けそのものをどんぶりと呼ぶこともある。古くは火消し、大工、商人などが着用していた。素肌の上にそのまま着用することもあれば、着物の上から着用することもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E6%8E%9B%E3%81%91が、

小児用と職人用がある、

とあり(江戸語大辞典)、

かみなりをまねて腹掛やつとさせ(明和二年)、

という句もある(柳多留)

子供用の腹掛け.jpg

(子供用の腹掛け。湖龍斎『犬にまたがる童子』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E6%8E%9B%E3%81%91より)

地域によって、

どんぶり、
寸胴、
前掛け、

等々の呼び名があり、子供用は、

正方形の布を斜めに使い、紐をつけて、首、腰の部分で結ぶようにした、

とある(仝上)。

松浦氏伝来の紅糸素懸威腹当.jpg

(松浦氏伝来の紅糸素懸威腹当 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%BD%93より)

腹当姿.jpg

(鎌倉時代『十界図』に描かれた腹当姿 図説日本甲冑武具事典より)


腹掛けは鎧の腹当と似た形状をしており、やはり背中で紐を交差させている。腹当は、

胸部と腹部を覆う胴鎧に小型の草摺を前と左右に3間垂らした形状で、着用者の胴体の前面及び側面腹部のみ保護する構造となっている。軽量で着脱は容易であるが、防御力は低い。のちに腹当の胴体を防御する部分が背部まで延長し、腹巻に発展していったと考えられている。鎌倉時代ごろに、主に下級兵卒用の鎧として発生したとみられ、室町時代の後半には軽武装として広く使われるようになった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%BD%93。腹掛けの出自は、腹当かもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2020年02月26日

どんぶり


「どんぶり」を引くと、擬音語の、

大きくて重みのある物が、水中に落ちる音、

の意で、

どぶん、
どぼん、

と同義の意味が載る(広辞苑)。もっとも、「どぶん」は、

水中に飛び散る感じ、

で、「どぼん」は、

水中に深く潜り込む感じ、

と微妙に違うが(擬音語・擬態語辞典)。さらに、「どんぶり」は、

丼、

と当てて、三つの意味が載る。一つは、

どんぶり鉢、

の意で、

深い厚手の陶製の鉢、

の意で、二つ目の意味は、

更紗、緞子などでつくった、金などを入れる大きな袋、

の意。

懐中用の大きな袋。江戸時代、若い遊び人が好んで用いた、

とある。

「ゑぞにしきで大どんぶりをこしらへてこよう」(黄表紙・悦贔屓蝦夷押領)、

といった用例がある。三つめは、

職人などが着ける腹がけの前かくし、金などを入れる、

の意である(広辞苑)。

当てられた「丼」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

「会意文字。『井(四角い井戸のわく)+・印(清い水のたまったさま)』で、清らかな水をあらわす。青(すみきってあおい)の下部に含まれる。ただし、のちには、井戸の清水を示す丼は井と書かれるようになった。枠を示す井(ケイ)は、かたちを変えて形・型にふくまれる」

とあり(漢字源)、井戸の意で、「丼」に、どんぶり鉢や、腹がけの丼などの意で使うのは、わが国だけである。いつごろから使われ出したかは、はっきりしないが、「丼」は、

「もともとは『井』の異体字として使われていたものらしい」

とあるhttps://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000175771が、集韻に、「丼」を、

投物井中聲、

とあり、もともと、

井戸に物を投げ入れた音、

の意がある。これは「どんぶり」の語源ともかかわってくる。

丼.jpg



「どんぶり鉢」の意の「どんぶり」の語源は、基本的に二つある。ひとつは、

物を深い水中に投げ入れる音、ドボン、ドブンの転訛。深い水の意から転じてどんな料理でも入る、深くて大きい投企の食器、

であり、いまひとつは、

上方の婦女子の番袋(雑多な物入)の転訛が、ダンブクロで、これにならって、何でも入る大きな鉢をダンブリ鉢、丼鉢といいはじめた、

とするものである(日本語源広辞典)。

前者の擬音説は、

「丼 寛文ごろの江戸で、ケンドンヤの名で、盛切りのめし、そば、うどんを売る店があった。客に突けんどんに盛切りのたべものを出したから、慳貪(けんどん)の名が付けられたという。盛切りの鉢をケンドン振りの鉢といったのが、上略してドンブリ鉢となり、ドンブリとなった。丼の字は、井戸の中に小石を落とすとドンブリと音がする意で作られた」

とあり(堀井令以知『語源大辞典』)、たべもの語源辞典も、

「元禄時代の二十年ほど前、寛文(1661~73)ころ江戸に、けんどん屋という名称で、盛切りのめし・そば切・うどんなどを売る店ができ、繁盛した。当時の流行歌に『八文もりのけんどんや』(見頓屋)というような文句がみえる。けんどん屋という名称は、盛切り一杯のたべものを出すことが、客に対して,突けんどん(慳貪)だということから、名づけられた。けんどん屋が盛切り一杯にした器、つまり鉢を『けんどん振りの鉢』と呼んだ。鉢は皿よりも深くて、すぼんでおり、瓶よりよりも口の開いた器の名称である。けんどんぶりの鉢が、どんぶり鉢と呼ばれ、鉢を略して、どんぶりとなった。丼という字は、中国文字であるが、井戸の中に小石を落とすとドフリと音がするということから、この字をどんぶりとよんだ」

とする。しかし、語源由来辞典は、

「丼の語源は、江戸時代、一杯盛り切りの飲食物を出す店を『慳貪屋(けんどんや)』と 言い、そこで使う鉢が『慳貪振り鉢(けんどんぶりばち)』と呼ばれていた事から、それが略され『どんぶり鉢』になったといわれる。 慳貪とは『けちで欲深い』という意味で、慳貪屋で出されるものは『慳貪めし』や『慳貪そば』と呼ばれ、それを運ぶものは『慳貪箱』といった。八丈島で『どんぶり鉢』を『けんどん』と言い、この名残と考えられている」

としつつ、

「しかし、江戸時代、更紗や緞子などでつくった大きな袋も『どんぶり』と呼ばれている。そのことから、『慳貪振り鉢』の略ではなく、物を無造作に放り込むさまを表したもので、『どぶん』『どぼん』と同じ、物が水中に落ちる擬音語の『どんぶり』とも関係すると考えられる」

と後者の「袋」説を採る。同様に、

「駄荷袋(だにぷくろ)がなまった語の、だんぶくろからきた」

とする説https://wajikan.com/note/donburi/もある。しかし、

「天保(1830~44)ころには『けんどん』という食べ物はなくなっていたが、天明(1781~89)の頃には、鼻紙袋という携帯用の入れ物の名称としてどんぶりという名が用いられた。さらに、胴巻とか腰掛けについているかくしも、どんぶりとよばれるようになった」

とあるので、「どんぶり」という言葉だけが、残ったとみている(たべもの語源辞典)。で、

「安房では、居(すえ)風呂のことを『どんぶり』というし、越中地方では財布のことをどんぶりといい、中国地方では130~40石積の商人船をどんぶりとよんでいたが、いずれもいれもの(容器)と関係がある」

とし(仝上)、どんぶり鉢が、口が広くて何でも入るから、袋や財布の名になり、風呂はドブンとはゐる音からきて、商人船も、入れるほうからきている(仝上)のではないか、とする。大言海も、「どんぶり」は、

居(すえ)風呂の称、

とし、

出雲にて、風呂屋をドンブリ屋と云ふ、

とする。この説の時代考証が正しいのなら、

けんどんぶりばち→どんぶり鉢→どんぶり、

の転訛が、

口が広くて何でも入るから、

という意味から、他のものにも名づけられた、ということになる。他方、袋の意の、「どんぶり」は、

「だんぶくろ」を言い変えたものと云ふが、さていかがか」(江戸語大辞典)、
「だんぶくろの転訛と云ふ」(大言海)、
「商人の前掛けについたポケットを意味する『どんぶり』は、駄荷袋(だにぶくろ)の訛り」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BC%E9%89%A2

等々とあり、「だんぶくろ」からきている「どんぶり」は、「どんぶり鉢」の「どんぶり」とは由来を異にするのではないか。

腹かけ.jpg

(腹掛け)


「だんぶくろ」は、

段袋、
駄袋、

と当て、

駄荷袋の音便、

である(広辞苑)。しかも、その意は、

布製の大袋、信玄袋に似た、荷物袋、
幕末、様式訓練のとき兵が用いたズボン。袴を改良したもので、幅が広く、ゆったりしている、

とある(仝上)。

段袋.jpg

(西洋式細袴。上衣を筒袖といったときに、下衣を段袋といった 日本大百科全書より)


江戸語大辞典は、

段袋を連想させるのでいう、

として、

上部は腰板の袴と同じく、下部は股引のように筒になったもの、

とし、守貞謾稿には、

「本名不詳、俗にだんぶくろ、或いはとびこみ袴など云、文久元年の頃、江戸新に講術所を建つ、此所へ出て習兵の士用之、同三年始之未だ正名備わらず、多くは舶来の紺ごろふくりんにて作之、云々」

とある。幕末のズボンの意の「だんぶくろ」は別にして、

だんぶくろ→どんぶり、

と結果として、

丼、

を当てはめたためややこしいが、「どんぶり鉢」の「どんぶり」とは別系統と考えるのが妥当に思える。しかし、

口が広くて何でも入る、

という意で、両者は、今日、ほぼ重なってしまったのではあるまいか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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