余白
牧考友貴展(報美社)に伺ってきた。
拝見しながら,
余白,
のことを考えていた。突拍子もないが,「素」を思い起こしていた。
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で触れたことがあるが,素は,
ス
とも
モト
とも
シロ
とも,
訓む。素とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,
撚糸にする前のもとの繊維,蚕から引き出した絹の原糸,
とか,
模様や染色を加えない生地のままの,白い布,
等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。『論語』で,
子夏問曰。巧笑倩兮。美目盼兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。繪事後素。曰。禮後乎。子曰。起予者商也。始可輿言詩已矣
にある,
素以為絢兮(素以て絢(あや)となす),
について,子夏が,
繪事後素,
と答えたのについて,古注では,
絵の事は素(しろ)きを後にす
と,絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,
と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,
絵の事は素(しろ)より後にす,
と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解する。
この「素」を,余白のメタファととらえるとどうなるのだろう,というようなことも考えていた。素と文とが拮抗しているから,後先が問題になる。だから,いずれが主とも言えない。
「余白」は,余りでも序でもなければ,単なる背景(図と地でいう地)でもない。沈黙が言葉であるように,余白もまた表現である。
絵を拝見しながら,こんなことを頭の隅っこで考えていたのは,ほとんどの作品が,
余白,
というと失礼だが,広い背景を持っている。その中で,案内に遇った,
「relief」
と題された作品だけが,背景が狭い。この作品は,だから,大きな作品の割に唯一,何とか背景と拮抗し得ていた。
抽象画(だと思うのは,現実を丸めて,ぎりぎりリアリティの紐を繋ぎとめている絵だと感じたからだが),と見なせば,
何を描いた,
かではなく,
どう描いたが,
が問題になる。どう丸めたか,と言い換えてもいい。そう見たとき,完全に僕の独断だが,上記の絵と同じサイズの絵は,ほとんど,僕には,余白に負けている,と感じた。地がまさっている。ただ,小さなサイズの絵は,かろうじて,拮抗しているように見えた。
僕の好みだけで言えば,一番いいと思ったのは(記憶で書くのでタイトルは読み間違えているかもしれないが),
cry for the moon
と題された作品だ。言ってみると,右寄りにただ細い塔のようなものが屹立していただけの図柄だか,濃紺の背景に拮抗して,全体のバランスが取れていた。つまり,余白に負けていないのである。同じサイズの,台形を逆さにした舟の形状のものを描いた,
suburb-30
suburb-20
も,やはり,拮抗していた。大きなサイズになると,デコレーションケーキの形状や家の形状のものは,僕には,背景に負けている,と見えた。絵のことはわからないが,中心にある対象に注力があり,背景が脇に回されているせいではないか,という気がした。沈黙もまた,言語表現である。
あえて主たる対象と背景を,図と地と言い換えると,それが,
地と図の空間的な拮抗なのか,
地と図の質的な拮抗なのか,
地と図の色遣いの拮抗なのか,
地と図のバランスなのか,
地と図の間合いなのか,
僕にはわからないが。
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