たはことかおよづれことかこもりくの泊瀬の山に廬(いほ)りせりといふ(万葉集)
の、
たはことかおよづれことか、
は、
狂言なのか惑わし言なのか、
とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。
たはこと、
は、
戯言、
とあて、古くは清音で、後に、
たはごと、
と、濁音化、
たわけたことば、
妄語、
の意で、
およづれ、
は、
妖、
とあて、
およづれごと、
に同じ(広辞苑)とある。
およづれごと、
は、
妖言、
逆言、
とあて、
他を惑わすことば、
いつわりごと、
とある(広辞苑・岩波古語辞典)。
およづれびと(妖人)、
というと、
妖言で人を惑わす人、
という意味になる(仝上)。
戯言、
とあてる、
たはごと、
は、
たわけた言葉、
ばかばかしい話、
また、
ふざけた話、
の意で、
ざれごと(戯れ言)、
じょうだん(冗談)、
と同義だから、
妄語、
狂言、
とも当てる(大言海)。字鏡(平安後期頃)に、
誆、太波己止、久留比天毛乃云、訛、偽也、謂詐偽也、太波己止、
戲、ツハモノ・メス・ホトコス・ハタ(タハ)ブル・オヨク・モテアソブ・ヲヒク
類聚名義抄(11~12世紀)に、
戲、タハブル・タハブレ・オヨク・モテアソブ・メス、
とある。だが、
たはごと、
戯事
とあてると、
いといとまめなりと見るものを、なむどたはごとは多くしつる(宇津保物語)、
と、
正気を失った行為、
たわけたしわざ、
たわむれごと、
と、行為に焦点が当たる。もちろん、
言痛み、
こと、
で触れたように、
和語では、「こと(事)」と「こと(言)」は同源である。
古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで、言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、事の意か言の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以後に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事・事件などをいう。時間的に不変な存在をモノという。後世モノとコトは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた、
とある(岩波古語辞典)。モノは空間的、コト(言)は時間的であり、コト(事)はモノに時間が加わる、という感じであろうか。
古く、「こと」は「言」をも「事」をも表すとされるが、これは一語に両義があるということではなく、「事」は「言」に表われたとき初めて知覚されるという古代人的発想に基づくもの、時代とともに「言」と「事」の分化がすすみ、平安時代以降、「言」の意には、「ことのは」「ことば」が多く用いられるようになる、
とある(日本語源大辞典)。しかし、本当に、「こと」は「事」と「言」が未分化だったのだろうか。文脈依存の、文字を持たない祖先にとって、その当事者には、「こと」と言いつつ、「言」と「事」の区別はついていたのではないか。確かに、
言霊、
で触れたように、
「事」と「言」は同じ語だったというのが通説、
である。しかし、正確な言い方をすると、
こと、
というやまとことばには、もともと区別されていたから、
言、
と
事、
の漢字が、あてはめ分けられた、ということではないか。当然区別の意識があったから、当て嵌め別けた。ただ、
古代の文献に見える「こと」の用例には、「言」と「事」のどちらにも解釈できるものが少なくなく、それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる、
という(佐佐木隆『言霊とは何か』)。それは、まず、
こと、
という大和言葉があったということではないのか。「言」と「事」は、その「こと」に分けて、当てはめられただけだ。それを前提に考えなくてはならない。あくまで、その当てはめが、
未分化だったと、後世からは見える、
ということにすぎないのではないか。『大言海』は、
こと(事)、
と
こと(言)、
は項を別にしている。「こと(言)」は、
小音(こおと)の約にもあるか(檝(カヂ)の音、かぢのと)、
とし、「こと(事)」は、
和訓栞、こと「事と、言と、訓同じ、相須(ま)って用をなせば也」。事は皆、言に起こる、
とする。それは、「こと(言)」と「こと(事)」が、語源を異にする、ということを意味する。古代人は、「事」と「言」を区別していたが、文字をも持たず、その文脈を共有する者にのみ、了解されていたということなのだろう。
『日本語源大辞典』も、「こと(事)」と「こと(言)」の語源を、それぞれ別に載せている。「こと(言・詞・辞)」は、
コオト(小音)の約か(大言海・名言通)、
コトバの略(名語記・言元梯)、
コトトク(事解)の略(柴門和語類集)、
コはコエのコと同じく音声の意で、コチ、コツと活用する動詞の転形か(国語の語根とその分類=大島正健)、
コはコエ(声)のコと同語で、ク(口の原語)から出たものであろう。トは事物を意味する接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
コはクチのクの転。トはオト(音)の約ト(日本語原学=与謝野寛)、
等々がある。「おと(音)」と「ね(音)」は区別されていた。
オト(音)、
は、
離れていてもはっきり聞こえてくる、物の響きや人の声。転じて、噂や便り、
類義語、
ネ(音)、
は、
意味あるように聞く心に訴えてくる声や音、
とある(岩波古語辞典)。「おと」の転訛として、
oto→koto、
があるのかどうか。「こと(事)」は、
トは事物を意味する接尾語で、コはコ(此)の意か(日本古語大辞典=松岡静雄)、
コト(言)と同義語(和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、
コト(言)から。コト(事)は皆コト(言)から起こることから(名言通)、
コト(別)の義(言元梯)、
コト(是止)の義。ト(止)は取りたもつ業をいう(柴門和語類集)、
コレアト(是跡)の義(日本語原学=林甕臣)、
コトゴトク(尽)の略か。または、コは小、トはトドコホル意か(和句解)、
等々とある。確かに、こうみると、
「コト(言)と同義語」といっただけでは、なにも説明できていない。「こと(言)」の語源を説明して、初めて同源と説明が付く。ぼくは、「コト(言)」は、声か口から来ていると思うが、「口」(古形はクツ)は、「食う」に通じる気がするので、やはり、声と関わるのではないか、という気がする。
ま、いずれにせよ、
言、
と、
事、
が、同一視されるに至ったことで、
戯言、
と、
戯事、
とは、同じ意味で使われているので、
たはごと、
は、
タハケ・タハレ(戯)と同根、常軌を逸したことをする、ふざけた気持ちで人に応接する意、
とされる(岩波古語辞典)から、
復、誣妄(タハコト)・妖偽(およつれこと)を禁(いさ)ひ断(や)む(日本書紀)、
の、
正気を失っていうような、ふつうでないことば、
たわけたことば、
ふざけたことば、
の意にも、上に挙げた、
いといとまめなりと見るものを、なむどたはごとは多くしつる(宇津保物語)、
の、
正気を失った行為、
ばかげた行為、
の意にも、
飢ゑ疲れて物のおもほえす、既に太者事に云へるならむ、我が遷し心に知れる事にも有らじ(「観智院本三宝絵(984)」)、
の、
うわごと、
の意にも、
戯言、
と、
戯事、
のいずれも当てる(精選版日本国語大辞典)。だから、
戯言、
戯事、
を、
たはぶれごと、
と訓ませると、
大臣戯言(タハフレこと)に、陽進(いつは)りて曰く(日本書紀)、
ミモナキ tauamuregotoniua(タワムレゴトニワ)ミミヲカタムケ(「天草本伊曾保(1593)」)、
いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す(笈の小文)、
等々、
たわむれてすること。いたずら、たわぶれわざ、
と、
たわむれて言うことば、ふざけて言うことば、
の両義となる。だから、行為にシフトした言い方をしようとすると、
はかなかりしたはぶれわざを、いとほしうことごとしうこそ(紫式部日記)、
と、
たはぶれわざ(戯事)、
となり、なまって、
いざ子ども多波和射(タハワザ)なせそ天地の固めし国そ大和島根は(万葉集)、
と、
たはわざ(戯事)
となる(仝上)。なお、
戯言、
を、
ぎげん、
と訓ませると、
史佚曰、天子無戯言(史記)、
と漢語で、
たわむれのことば、
の意(字源)となる。
たわごと、
の由来として、だから、
タハケ・タハレ(戯)と同根(岩波古語辞典)、
タワ(たわけるの語幹)+言(日本語源広辞典)。
意外に、
タハブレゴト(戯言)の略(菊池俗語考)、
とする説も出てくる(日本語源大辞典)わけである。
上述したように、
復、誣妄(タハコト)・妖偽(およつれこと)を禁(いさ)ひ断(や)む(日本書紀)、
と、
たはごと、
と並び使われる(大言海)、
およづれごと、
は、
たはごと、
と似ているが、
冗談、
や
ざれごと、
ではなく、
人まどわしのことば(岩波古語辞典)、
不祥(さがなき)根無言(ねなしごと)を、人々の閒に言ひ触らすこと(大言海)、
根拠のない、人を迷わせる言葉やうわさ(デジタル大辞泉)、
あやしい言説、悪いことが起こるというような、人をまどわせる流言、不吉で奇怪な予言(精選版日本国語大辞典)、
と、意図のある流言飛語(蜚語)の類である。で、
造言、
蜚語、
と同義になる(大言海)。略して、
およづれ、
ともいう(仝上)が、
およづれ、
は、
妖、
とあて、
及連言(およづれごと)の義と云ふ、口口に言ひ伝ふる意(大言海)、
オヨはオホヨ(凡)の約、ツレはツレ(連)、ことが確実でないことを言う(日本古語大辞典=松岡静雄)、
オヨはアヤツル(操)のアヤの転(続上代特殊仮名音義=森重敏)、
と諸説あるが、はっきりしない。新撰字鏡(平安前期)には、
妖、加美奈(かみなぎ)、
とあるが、
かみなぎ、
は、
巫、
とあて、
かむなぎ、
で、
かんなぎ、
で触れたように、
巫、
覡、
と当て、
かむなぎ、
かみなぎ、
かうなぎ、
等々とも訓ませ(デジタル大辞泉・広辞苑)、古くは、
かむなき、
とある(仝上)。
巫女(みこ)、
の謂いだが、
(「かみなぎ」は)女子の、神に奉仕し、神楽に舞ひなどする者、多くは少女なり、又、かみおろしなどするものあり、専ら音便に、かんなぎと云ふ。…官に仕ふる者を、御神(ミカン)の子と云う、
とあり(大言海)、
カムは神、ナギは、なごめる意、神の心を音楽や舞でなごやかにして、神意を求める人(岩波古語辞典)、
神の祈(ネギ)の転、禰宜(ネギ)と同意か、(大言海)、
神和(かんなぎ)の義(桑家漢語抄・東雅・円珠庵雑記・箋注和名抄・名言通・和訓栞・大言海)、
カミノネギ(神祈)の転(東雅)、
かむ(神)+なぎ(なごめる)から(漢字源)、
とされ、「なぎ」は、
神の心を安め和らげて、その加護を祈る、
意の、
ねぐ(祈ぐ・労ぐ)、
の転訛とみる(「禰宜」は、「ねぐ」の名詞形)か、
ナゴヤカ(和)のナゴと同根、
の、
やわらぐ、おだやかになる、
意の、
なぐ(凪ぐ・和ぐ)、
かの二説があるが、常識的には、
神の心を慰め和らげ祈請の事にあたる者、
の意である「禰宜」とつながる、
ねぐの転訛、
ではあるまいか。しかし、「なぐ(和)」も、「ねぐ(祈)」に通じる気がする。つまり、
およづれ、
は、本来、
巫女の託宣、
であったのではないか。それが、神が妖怪に堕するように、
妄言、
に転じたということなのかもしれない。なお、
妖言、
を、
よう(えう)げん、
と訓ませると、漢語で、
あやしくして正しからざる言、
の意(字源)で、
今、法に誹謗妖言の罪有り。是れ衆臣をして敢て情を盡さざらしめ、上をして過失を聞くに由(よし)無(なか)らしむるなり。將(は)た何を以て遠方の賢良を來さん(史記)、
とある(字通)。
「妖」(ヨウ)は、
会意兼形声。夭(ヨウ)は、細く体を曲げた姿。妖は「女+音符夭」で、なまめかしくからだをくねらせた女の姿を示す、
とある(漢字源)。同じく、
会意兼形声文字です(女+夭)。「両手をしなやかに重ね、ひざまずく女性」の象形(「女」の意味)と「若い巫女がしなやかに身をくねらせて神を招く舞いをする」象形(「みずみずしく若い」の意味)から、「なまめく(みずみずしくて美しい)」、「あでやか(美しくて華やかなさま)」を意味する「妖」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji2181.html)、
と、会意兼形声文字とするものもあるが、
かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、
として(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%96)、
形声。「女」+音符「夭 /*ɁAW/」。「なまめかしい」を意味する漢語{妖 /*ʔ(r)aw/}を表す字(仝上)、
形声。女と、音符芺(エウ)(夭は省略形)とから成る(角川新字源)
形声。正字は女+芺に作り、芺(よう)声、「妖」は笑の初文。〔説文〕十二下に「巧なり。一に曰く、女子の笑ふ皃なり」とし、「詩に曰く、桃の女+芺女+芺たる」と〔詩、周南、桃夭〕の句を引く。今本は「夭夭」に作る。「巧なり」も「巧笑なり」の誤りであろう。芺(笑)は手をあげて舞う巫女の形。その姿態を夭という。巫が神がかりの状態にあって神託をのべることを若といい、これをまがごととすることもあって、示部一上の示+芺に「地、物に反するを示+芺と爲すなり」とあり、神怪のことをいう。字はまた訞(よう)と通用する。人の妖艶なるものも、衒媚のおそれがあるというので、また妖という(字通)、
と、形声文字としている。
(「戲」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%B2より)
「戯」(①慣用ギ・ゲ、漢音キ、呉音ケ、②漢音呉音キ、③漢音ゴ、呉音ク)の異体字は、
戏(簡体字)、戱(俗字)、戲(旧字体/繁体字)、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%AF)、旧字体、
「戲」の異体字は、
㪭、戏(簡体字)、戯(新字体)、戱(俗字)、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%B2)。字源は、
形声。「戈(ほこ)+音符虛(コ)」。「説文解字」は、ある種の武器で、我(ぎざぎざの刃のあるほこ)と似たものと解する。その原義は、忘れられ、もっぱら「はあはあ」と声を立てて、おどけ笑う意に用いる、
とある(漢字源)。「戯言」(冗談)、「戯曲」は①の音、大将の旗(麾にあてた用法)の意の場合②の音、「於戯(ああ 嗚呼)」の意の場合、③の音となる(漢字源)。他も、
形声文字です(虚+戈)。「虎(とら)の頭の象形と頭がふくらみ脚が長い食器、たかつきの象形」(「虚(コ)」に通じ(同じ読みを持つ「虚」と同じ意味を持つようになって)、「むなしい」の意味)と「にぎりのついた柄の先端に刃のついた矛」の象形から、むなしい矛、すなわち、実践用ではなく「おもちゃの矛」を意味する「戯」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1321.html)、
形声。戈と、音符䖒(キ)とから成る。出陣前に軍舞をすること、借りて「たわむれる」意を表す。常用漢字は省略形の俗字による(角川新字源)、
形声。「𫻺」+音符「𣅋 /*ŊAI/」。「たわむれる」を意味する漢語{戲 /*ŋ̊ai-s/}を表す字。「𣅋」は一種の陶器を象る象形文字で、一種の陶器を意味する漢語{䖒 /*ŋ̊ai/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%B2)、
と、形声文字とする。別に、
会意。旧字は戲に作り、䖒(き)+戈(か)。䖒は〔説文〕五上に「古陶器なり」とするが、その器制も明らかでない。䖒は虎頭のものが豆形の台座に腰かけている形。それに戈で撃ちかかる軍戯を示す字であろう。金文の〔師虎𣪘(しこき)〕に「嫡として左右戲の繁荊を官𤔔+司(司)せしむ」とあり、「左右戲」とは軍の偏隊の名であろう。〔左伝〕に「東偏」「西偏」の名があり、〔説文〕十二下に「戲は三軍の偏なり。一に曰く、兵なり」とし、字を䖒声とする。「左右戲」の用法が字の初義。麾・旗と通用し、麾下をまた戯下という。戯弄の意は、虎頭のものを撃つ軍戯としての模擬儀礼から、その義に転化したのであろう。敵に開戦を通告するときに、〔左伝、僖二十八年〕「請ふ、君の士と戲れん」のようにいうのが例であった。嶷・巍と通ずる字で、〔玉篇〕に「山+戲は嶮山+戲、巓危きなり」とあり、山巓の険しいさまをいう(字通)、
と、会意文字とするものもある。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
この記事へのコメント