心苦(ぐ)し


心ぐきものにぞありける春霞(はるきかすみ)たなびく時に恋の繁(しげ)きは(大伴坂上郎女)

の、

心ぐし、

は、

心が鬱々として晴れない、

とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

心ぐし

は、

(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ、

の、

形容詞ク活用、

で、

気分がはっきりしない、
心が晴れずうっとうしい、
心がせつなく苦しい、

といった意味になる(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。前に触れたように、

心ぐし、

に、

心苦し、

とあて、

心ぐるしの略と云ふ(見苦(めぐる)し、めぐし。蝦手(かへるで)、楓(かへで)。帰るさ、かへさ)、

とする説(大言海)もある。しかし、この、

心ぐし、

の、

ぐし、

は、

くさくさ、
くしゃくしゃ、
むしゃくしゃ、

といった、

憂鬱な状態、
心が沈んでふさぎこんでいる状態、

を言い表す擬態語と関係があるのではないかと憶説を立てた。

くしゃくしゃ、

は、

くさくさ、

の音韻変化だが、この、

くさくさ、

は、

憂鬱になる、

意の、

腐る、

を畳語にして強調した語(仝上)とある。

心くし、

は、この、

くさくさ、

の、

腐る、

と通じるのではないか、という気がする、とした。しかし別の可能性もあることに気づいた。

心ぐし、

の、

ぐし、

は、

姫君、例の心細くてくし給へり(源氏物語)、

の、

屈(く)す、

の、連用形で、

心がふさぐ、
気が滅入る、

意ではないか。

くす、

は、

クッシの促音ツを表記しない形(岩波古語辞典・広辞苑)、
「くっす」の促音の無表記(精選版日本国語大辞典)、
クスとなるは、約(つづ)まれるなり(鬱金(うつこん)、うこん。一向(いっかう)、いこう)、くんず、くんじとなるは、その音便なり(蒟蒻(くにやく)、こんにゃく。無(な)くば、なくんば)(大言海)、

とある。

少しうれしと思ふぞ、ここちのくしすぎたるにや(落窪物語)、

と、

心が沈みすぎる、
気持が過度に暗くなる、

意の、

くしすぐ(屈し過ぐ)、

という言い方(自動詞 ガ上二段活用)もあり、また、

ちぎりおきしうづきはいかにほととぎすわがみのうきにかけはなれつつ、いかにしはべらまし、くしいたくこそ、くれにを(蜻蛉日記)、

と、

ひどく気がふさいでいる、
すっかり沈みこんでいる、

意の、

くしいたし(屈し甚し)、

という言い方(形容詞ク活用)もある。この場合も、

「くっしいたし」の促音無表記、

なので、

くんじいたし、

とも訛り、後には、

胸のみふたがりて物なども見入れられず、くつしいたくて文も読までながめ臥し給へるを(源氏物語)、

と、

くっしいたし(屈し甚し)、

とも使う(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。この、

くっしいたし、

の派生語として、形容動詞ナリ活用の、

くしいたげ、

名詞の、

くしいたさ、

もある。この、形容詞ク活用の、

くし、

と考えると、

心ぐし、

は、

意味的にも合致するのではないか。ちなみに、動詞、

屈(く)す、

は、

せ/し/す/する/すれ/せよ、

の、自動詞サ行変格活用で、

あれまくは君をぞ惜しむ菅原や伏見の里のあまたなければ、身こそよそなれとかいふ。おもほしくせざらめ(宇津保物語)、

と、

心を暗くするようなことがあって、気持が沈み込む、
めいる、
気がふさぐ、

意、

少しうれしと思ふぞ、心ちのくし過ぎたるにや(落窪物語)、

と、

不幸、不遇な境涯に、いじけて卑屈になる、
心理的に屈服する、

意、

「何の名ぞ、落窪は」……「人の名にいかにつけたるぞ。論なうくしたる人の名ならん」(落窪物語)、

と、

気分的にのびのびとした感じを受けない、
不景気な感じである、

意で使う(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

「屈」.gif

(「屈」 https://kakijun.jp/page/0872200.htmlより)


「屈」 金文・西周.png

(「屈」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%88より)


「屈」 楚系簡帛文字.png

(「屈」 楚系簡帛文字(簡帛は竹簡・木簡・帛書全てを指す)・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%88より)

「屈」 中国最古の字書『説文解字』.png

(「屈」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%88より)

「屈」(①漢音クツ・後゛音クチ、②漢音クツ・呉音ゴチ)は、

会意文字。「尸(しり)+出」で、体を曲げてしりをうしろに突き出すことを示す。しりをだせば、体全体はくぼんでまがることから、かがんで小さくなる、の意となる。出を音符と考える説もあるがと従いがたい、

とある(漢字源)。なお、「屈伸」の、「かがむ」「まげる」の意は①の音、「屈強」の、「ずんぐりとごつい」意は②の音、となる(仝上)。同じく、

会意文字です(尸(尾)+出)。「獣のしりが変形したもの」と「毛がはえている」象形と「くぼみの象形が変形したもの」から、くぼみに尾を入れるさまを表し、そこから、「かがむ」、「かがめる」を意味する「屈」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1192.html

と会意文字とする説もあるが、他は、

形声。「尾」+音符「出 /*KUT/」。「みじかい」を意味する漢語{屈 /*khut/}を表す字。のち仮借して「かがむ」を意味する漢語{屈 /*khut/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B1%88

形声。意符尾(しっぽ。尸は省略形)と、音符出(シユツ)→(クツ)とから成る。短いしっぽ、転じて、くじく意を表す(角川新字源)、

と、形声文字とする説、

象形。尸(し)は獣の上体の形。出の部分は、尾毛を屈している形。金文および篆文の形は、ともに尾の形に従う。〔説文〕八下に「尾無きなり。尾に從ひ、出(しゆつ)聲」とするが、声も合わず、出は屈尾の形である。尾を屈することは屈服の意思表示であるので、屈服・屈従の意となる(字通)、

と、象形文字とする説とに分かれる。


参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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